ホーム » 証言 » 高場 経子さん

証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る

タイトル 「仲間と乗り越えた抑留」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 高場 経子さん(シベリア抑留 戦地 シベリア(ハバロフスク) 満州(佳木斯)  収録年月日 2014年6月5日

チャプター

[1] チャプター1 開拓団で満州へ  05:22
[2] チャプター2 佳木斯陸軍病院へ  03:28
[3] チャプター3 見習い看護婦の訓練  06:44
[4] チャプター4 ソ連軍の侵攻  06:45
[5] チャプター5 南への敗走  05:17
[6] チャプター6 終戦を知らされシベリアへ連行された  01:26
[7] チャプター7 避難民となった家族  03:04
[8] チャプター8 重労働を課せられた少年抑留者  05:33
[9] チャプター9 仲間と乗り越えた抑留  01:32
[10] チャプター10 シベリア抑留の爪痕  07:13

提供写真

再生テキスト

父親がね、倉敷で商売してたんですよ。お菓子屋をね。それでだんだん統制になったでしょ。お砂糖なんかがね。それでやめんといけんいう、まあ私まだ小学4年生だったからね。親が行くとこへついていくのはアレでしょ。行くとか行かんいう関係なしにね。結局ついていったんです。

Q:お父さんとしては最初に1人で行かれたんですかね?

そうです。さあ何か月おったでしょうかね。あの秋に迎えに帰ってきたんです。10月だったかしら。9月か10月くらいですから2学期がこう、済んでなかったかね、私もハッキリ。4年生だったのは覚えとって、夏休みまでは学校行ってそれから行ったんだから2学期済んでからでしょうな。

Q:満州に行って最初の生活の印象とか、どんなところだなと思ったんですか?

全然子どもじゃからね。親が行くからついていっただけで、結局アレですわ、開拓団だったんですよ。行ったところがね。それでうちの父親が百姓したことがない人間だからね。結局は開拓団の本部いうところがありまして、そこの戸籍係してたんですよ。

Q:お父さんはその当時何歳くらいですか?

40なんぼでしょうかな、45~46でしょうね。たいてい。母親が42くらいだったと思うんです。

Q:小学校は子どもさん、生徒さんってたくさんいたんですか?

いえ、だいたい1学級が10人か15人かくらいでしょう。だから尋常高等小学校があるから、7学級と、7学級じゃないや8学級と青年がおりましたからね、それが済んで青年学校行く年がありますでしょう。 その青年行く人がそれでも6~7人おりましたからね。だから全員で何人おったんでしょうか。

尋常高等小学校卒業して、それで佳木斯(チャムス)に出たんです。あれは募集があったんかどうか、父親が本部におった関係でそのときに同級生と上のアレ、私らと歳1つしか違わないけども1年上のね、子と。結局うちの七虎力(しちこりき)開拓団いうんから4人行ったわけです。だから私、歳が違うけど同級生と1年上の1期上の、だからうちの開拓団から4人行きましたからね。

Q:地元の人たち、そうした人たちとはどの程度接点があったんですか?

ええとね。そのときはね、みんな自分の家にね、苦力(クーリー・労働者)いうのを雇うんですが、たいていの家に二人くらいおりますから、それで結局1町だかなんぼかあるでしょ、みんなもらってるから。それを苦力をつこうて自分らも一緒に作ったものを軍へ輸出じゃなしに提出するのに麦はつくら、麦は作ってたけど大豆をな、だいたい植えてますわねようけ。そんなの供出したりするでしょ。だけどうちの親は百姓したことないから百姓せずにそういうところの取り締まりじゃないけど取りまとめみたいな仕事しよりましたからね。だから自分らが食べる野菜は家では作ってましたけどね。

Q:やっぱり開拓団で作った農作物って軍に出すんですね。

そうです。全部軍のアレですが。それであの辺はねお米があんまり、作りおるところと、作りおらんと、お米作りおるところはしれとんです、だからお米は結局配給みたいなんで買うでしょ。あと野菜とかあんなものは自分らが作ったもの、だからしょう油とかみそもみな全部で自分で家で作ってましたよ。おしょう油仕込んだりね、おみそ作ったりね。

Q:経子さんは学校出て、なにかそのお勤めとかお仕事とかしてたんですか?

全然。学校出てすぐ行ったんよ。

Q:小学校出て?

そうそう。あの尋常高等小学校ね。じゃから昔の言うたら8年でしょ、6年の上に2年行っとるから。それきり行きましたかね。そんで他の人は年の大きい人は青年学校に行っとる人もいきさしでそこに入ってた人もおりますからね。

Q:本当に若いですよね。

だから16か、くらいでしょ、数えが。

Q:数えで。

うん。

Q:じゃあ今、満で言えば14歳くらい。

そうですよ。今でいや中学2年生かな。

Q:ですよね。

いうくらい出てからすぐだからね。それがやっぱり父親がそういう関係の本部の仕事しとりましたから。そんなんが募集あるいうんで聞いてきとって、行くでしょ仕事で佳木斯に行きよりましたからね。聞いてきとってそれで父親に連れられて陸軍病院行ったんですけどね。

Q:一緒に行ったんですね。

ええ、父親がついてね。

Q:そのときはどういう気持ちで行ったんですか?

もうそのころはアレでしょ、挺(てい)身隊やいうて日本から来てましたからね。別にどういうアレはないですよ、陸軍病院だからね。姉がね、もう高等学校卒業して新京(現・長春)の病院に行っとったんです。

Q:それも同じような募集で?

いえいえ、姉はね、病院へ事務員で行ったんですよ、最初はね。そしたら事務員じゃいけんからいうんで自分で独学で看護婦の免許を取って、それで田舎の小さい病院だからね、それじゃいけんからいうてそこにおった人が新京の大きい病院にね、来りゃせんかいうて誘われて新京の第一病院かなんかに行ったらしいんですよ。

Q:お父さんその病院の募集とか聞いてきて一緒にその佳木斯まで送っていって何かその、頑張れとかそういう声を掛けてくれたんですか?

いやその時代はもう戦争中でしょ。だからあれですよ、田舎おってもね、まだ佳木斯は貧しいいうても私らがおった田舎よりはよかったからね。だからお父さんはそういう開拓団の今いう役場みたいなとこで仕事しよりましたからね。だからしょっちょう来るわけですが、来たら田舎だからちょうど今頃だったら柏餅をこしらえてみんなに食べさすように友達やかに持ってくるんですよ。

Q:差し入れに?

そうそうそう。そしたら、あんたんとこのお父さんよういろんなもの持ってきてくれよったな、いうて友達が言うんですけれどもね。わりとよその親はね、こんですよ。

訓練いうのはね私は兵隊さんと同じようで担架訓練とかね、ありますけど、勉強は衛生兵の勉強の本で私は勉強したんですよ。看護婦の勉強を衛生兵が勉強するのと一緒の。それで4月に入って、9月か、に国家試験みたいなのがあるでしょ。それを受けに佳木斯の病院で受けたんですよ、佳木斯医大でね。試験を受けてそれで本当いうと日本のあれと満州のは一緒なんじゃけど、あれがちごうたんですよ、証書いうんかな。それで新京か奉天(現・瀋陽)かあっちの方へ行かんと日本の免許証くれん、結局医者でもね佳木斯医大へ行ったお医者さんでも両方とらんと日本へ帰ってもお医者ができんいうあれがありましたからね。それで私なんかちょうど高原先生いうのが内科におられて岡大を出とられる、うちらの主人よりだいぶ上じゃけどね。その人がたまたま国立病院に帰ってきとられてね岡山の。そんで私国立病院、姉がおったりして行ってましたし、高原先生がたまたま私の里の方の人でね、それでいろんな話しよったら医師会かな医師会の、医師会その先生入っておられたから、それでほんというと私も帰ってきてもういっぺん日本の試験受けなんだらいけんのですけどね。そういう係をしとられたから。その先生がいいよいいよ僕がしちゃるから言うて、こんな大きな免許証もろてね。結局、私は日本では受けなんだです。

私はもう兵隊さんと一緒でベッドでね、ずーっと、1部屋でベッドがずーっと並んどるでしょ。10何人おったんかね、あそこで14人くらいおったりしましたからね、両端でこう並んで。そんで「起床」言うたら兵隊の人たちがあれがなるでしょ、「点呼」言うたらみんな服着てさーっとここへ。そんで脱いだもの全部ここへたたんでね、来るわけよ、係がね。

Q:点呼っていうのは誰ですか?

週番。週番係いうのがおってね。たすき掛けて来るわけですが。

Q:看護師さんですか?

ううん。兵隊。兵隊さんで、ほなここは看護婦の病棟いうのがあってそこへ私らベッドでこう寝てましたからね。そこを出るまでは、出たらみんな個人のね、二人部屋とかいうような寮もらって、そこへ出るまでがね、病院の中へおったんです。

Q:軍隊の内務班みたいな。

そうですそうです。だからもう時間がきたらね8時前じゃったか、点呼にくるわけですよ。それで「何人おって異常なし」って点呼するわけですが。じゃから最初のうちは初年兵と一緒ですわ。でもね初年兵言うてましたよ、「看護婦さんは、よくええが、うちらはもうな、自分の洗濯やこともまともにできん」言うてね。まあご飯は時間までに食べないけんから食べるけど、もうお風呂入ったらね、上の人の洗濯してやって、時間厳守でしょ。時間がきたらほっといて寝ないといけんし、それで朝が起床ラッパとともに起きて「ええでか」言うておりましたよ少年兵が愚痴こぼしよりましたわ。だから「看護婦さんやええが」言うてそりゃそのね兵隊さんと比べたら楽しましたけどね。

Q:でも普通の生活よりは厳しいですよね。

まあ時間厳守じゃからね。それでもね私らがはやそのころよりも日本でも食べるものに困りおったんじゃないですか。たいていそうじゃろうと思うんですよ。それでうちの父親なんかもね、役場の職員しおりましたからね。よう佳木斯に出てきおりまして、もはやうちの里の方でもね、田舎でもあんまり食べるもんが自由にならなんだ時代じゃからね。きて昼ごはん一緒に食べよりましたけど。ほんであのころね、食パン今頃見たらあんなおいしくない食パンがと思うけど、そのころはそれでもね、食パンでも珍しうてね、私らも置いといてね、近所の子に父親が持って帰って配ったいうくらいじゃからね、少しずつ分けて。そのくらい物が無かった時代です、終戦前じゃからね。

Q:いちおう陸軍病院だから一般よりも配給がちゃんとしてる。

そうそうそう。ひとりなんぼいうてありましたからね。それでそれだけの範囲内でチョコレートもあったかな、それから食パンでもひとりはこのぐらいなかっこうでしょ。二つまでとかいうて配給制じゃからね。それをでもきたら父親に持って帰らせてそしたら近所の子に配ってやったって言いよりましたからね、いうぐらい田舎はあれですが。何も無い時代やったからね、買うにも。

あれね、あのときはまだ寮へおったんですよ。それでドカーンいうたでしょ。いうて、そんなの来たらどうするいうのなんかは、初めから用意のようなの何もなかったから、ただ自分らが着るもんだけ着てすぐ病院行ったわけです。寮からね。行ったらもうそのまま全然何にも宿舎へ帰ることないから、じゃから写真や全然1枚も、ただ自分の下着だけね。そのときよう下着だけ持っていっとたんじゃなと思ってね、着替えだけ持って行ったらもうすぐ断水して水が出んようになってね。それでしまいには最後にはお水の代わりに何飲んだかな、ビール飲んだじゃろか。なんかビールや飲んだこともないのにね、断水するから。 それであの病院へおって、それでここ病院おったらいけんいうんで今度戦争が始まるからみな別れて行くようになってね。それで病院からいちばん最初に行ったのはどこ行ったんかな。船乗ってねナホトカ(ハバロフスク)へ行ったんですわ。チャムスの港から船に乗って、ナホトカ行ってそれでナホトカで降りて、それでナホトカのすぐそばに、将校さんばっかり将校さんばっかしおるとこへ最初女の子だけ降りてね。そこで整列いうて4列並ばせて、前からこうね10人くらいずつ分かれて自動車であっちこっち結局奥地へ入ったりね。結局大島と私や原島さんやら10人ほどいちばん最後まで収容所へ残ったんですからね。

Q:男装したっていうのは。

戦争が始まったいうたらもう気が早いものは2人ほど髪をな、1人丸坊主にしたのがおったんですよ、2人かしらん。

Q:150人のうち?

そうそう。あとはみなそのままね、だったですけどね。髪は短こうは切りましたけどね、この辺までは首のへんまでは。

Q:切ったんですか。

ええ。そうせんとあれでしょ。どんなとこ行くか分からんし、それで夏まあ春じゃったからすぐ夏になったら川で頭洗ろうたりね。それでお風呂じゃいうて毎日沸かすわけじゃないでしょ。

Q:やっぱ男装するっていうのは女の子だって分かると危険だからですよね。

そうそうそう。そういう意味でね、「みんなみじこ(短く)しよう」言うてね。それであの鉄かぶとかぶったりね。それから陸軍のあの戦闘帽があるでしょ、あれここ夏じゃからあれつけとったですよね、日除けをね。だからこう下ろしとったら分からんでしょこれだけしか出てない、それでマスクでもかけとったら。じゃからそういうふうにしたけど、やっぱし男と女は分かるしね。そんで女医さんがおったんですよ、ロシアのね、じゃけどね、まあまあね、兵隊はわりと親切にはしてくれましたよ。まあ食べる物はろくなもの食べさせてもらえなんだけどね。それでもやっぱし女の方が強いね、男より。同じ人を食べおうても男の人はね下痢をしたり病気したりね、ありましたからね。

Q:女の人はしないんですか?

同じもの食べおっても女の方が強いんですよ。わりとね。それでそんなコーリャンの皮のついたのやこは私らは食べんですが。もう少々食べるそれがこのくらいそれこそ食パンひと切れくれるから、朝。それだけでもう食べんでも我慢できたんですよ、不思議と。男の人それだけじゃね、伐採やこに行くでしょ。腹が減るね、ほんだら帰りにはね、ジャガイモ掘って帰ってきたりようね、帰ってからゆでて食べたりしおったけんね、男の子は。 あのお百姓へね、作業あるんですが、芋掘りに手伝わされたりね。まあいろんな目にあいましたけど、それでもねまだ女の子はいい方ですわ。いってもまだ私ら若かったから。

Q:その同じもの食べても女の人は消耗しないんですかね。

そう。男ほど働かんからね、そらおおもとや木やこもっていかんでしょ。それで私らやここのくらいの木をね、みんな束ねて背中おうてペチカ(暖炉)たかりにいけんから冬寒いからね。それを負うて帰ってもそのくらいでしょ。男の人はそうじゃないもん、こんな大きな木をとってきて切ってそれを割ってそれでみんなが食べるご飯炊かないけんでしょ。ご飯いうたってたいしたご飯じゃないけどね。それの用意を炊事係が男の人5~6人おりましたからね。それもみな配給でしょ。そやからね。通訳が2人おったんですよ北海道の人と九州のね。佐賀じゃったかどっかの。

Q:男の方ですか?

男。男の人だ通訳はね、男の人で。まあ通訳の人にようかわいがってもらったから、私なんかはわりとね、食べるもんには不自由がないように倉庫から仕入れてきたのをもらったりしてましたからね。だから大事にはしていただきましたけどね。

渡ったときにね、港からそこの収容所行くまでにダバイダバイ(ダモイ・帰国)言うて4列並んで後ろからしよって人にさらわれたいうたでしょ。結局あの子は帰ってこなんだけどね、そのまんまじゃけんね。

Q:そのさらわれたときは覚えてらっしゃいます?

ええ、並んでね。へりの方におったんじゃろうね、よう分からんのですけど。私なんかはどっちかいうたらわりと前の方におりましたからね。もう150人おったんですよ、そのときね、だけどどっからどういうふうに来たのか私もよく分からんのです。「さらわれた」言うて、みんなだんだん日が暮れるしね、あの収容所いうんがまだいっても満州ですからね、向こうへ渡らん前じゃからソ連へ。そこのあのどっかの民家に開拓団か、なんかの跡へみんなして行ったんやけどね。 それで行ったって何にもないからね、水いうたって水道がないでしょボウフラがわいてるでしょ。川に水がたまって。それをあのしてからご飯炊いたことありますもんね。

Q:方正ですよね。

そうです。そのときはみんなね、あのあれ軍足いうんがありましょ、あれにみんな1本か2本ずつお米詰めて持ってったからね。みんなそれぞれ。それをみんな飯ごうで炊いて食べたりしたんですよ。そしたら水が無いからね、ボウフラの水でご飯炊いて食べ、ようあのとき食べたんじゃと思うけどね。誰も病気になった覚えもないけえね、不思議と。

Q:その民家に泊まってるときに近くにソ連兵入ってきてるんですよね?

そうですよあの街の辺まではね。

Q:その見えるところにもいるんですか?

いやもうまわって来よりました。あの夜な。それでテント張ってね、あのとき兵隊さんが何人かね護衛に付いてきとりましたからね。じゃからテントなんかへ下へ草の上へ毛布を敷いてね、ごろ寝じゃからねみんな。着とるもんも着たままでしょ、着のみ着のままじゃからね。それでも若いから平気で寝おったね、不思議と。誰かが起き言うたら起きたんでしょうけど、別に夜中に何も来たように覚えてないけどね。

Q:そのころの心境っていうか、どういう気持ちだったんですかね。

まあ戦争っちゅうあれもあるからね。まあ捕まったらそりゃダメじゃいう気持ちはあったけどね。もうそのときはひどかったんですよ。街の人がね、佳木斯じゃったら南下しましたからね。だから今度は佳木斯から・・・に行くでしょ。あのぬけていくのにね。街の佳木斯の人はどうだったか分からん、佳木斯の近くの開拓団の人や。もうホント「これで出てくるとき新しい服着てきたんよ」いうのが私らがそこでおうたときは、もうはやいいかげんボロボロだったですよ。それでも子どもね、兵隊に行っとるんですよ、主人やみな徴兵があったから兵隊に行っとる人がおるんですよ、2人子ども連れてきて、なんぼにもこれじゃいけんから言うてね。子どもを一時ね、知らん満人の家に預けて、それから1日か2日かしてまた返してもらいに行った言うてね。私が一緒にいっとった人がおるんですよ総社(岡山・総社市)の近くに小野さんいうのが。その人がまた「子どもね、引き取りに行った」いうて帰ってきてから話しよられましたけどね。もういい、それこそ娘さんに、娘さんどころかもう子どもさんが帰ってから結婚しておってじゃろうけどね。

Q:よくね、子どもを預けたまんまで別れ別れになってそういう話もありますよね。

そうそうそう。それでね、女の子がいいんです、みな満人はね、だから女の子じゃったらね、よろこんであれするけど、もう自分とこの子にするいうてあの返してくれ言うたらなかなか返してくれなんだいう話しよられましたけどね。男の子はだいたいあれでしょ17~18になったら義勇軍みたいなのに志願してね行かれたり、八路軍(中国共産党軍)へね。

Q:終戦のこと、戦争が負けたってことを、それはどういうふうに聞いたんですか?

あれはね、結局集合してね。まだソ連行かん前ですからね。おるときに誰からとなしにね、天皇陛下のアレ言うたんですよ。戦争降伏したから言うてね。あのあれ読み上げられたですよ。ああ戦争が終わったんじゃな、言うてね。言ったんですけどね、そのとき。それから終わってから向こう行っとるでしょ、ソ連へね。それから行くときにね。まあひとりじゃないから団体で大勢おるからちいとは楽になったんですよ。そりゃひとりやふたりだったらホントにね、じっとしとれんですけどね。150人も女の子ばっかしおりゃね。

Q:方正でね、さっきその民間人の人たち、避難してね、ボロボロになってる。そういう姿見ると自分の家族のこととか心配になりませんか?

心配だけど、そのころもうバラバラでね、出るときは一緒に出たけど襲撃におうてね、みんな家族は馬車を1台ずつ用意して、自分らの着るものを冬が来るから冬物から積んで、それで自分とこの雇うとる苦力(クーリー・労働者)がおりましょ。 それがアレして運転、馬をあやつって荷物を持ってこう汽車に乗れるところまで行く言うたんだけど、その汽車が軍のアレでね、途中で動かんようになったんですよ。だからその汽車にええ具合に乗れた人は、その汽車に乗って新京の方へ牡丹江か新京の方へ南下したんです。だけどうちらの家族なんかそこまで行かん間に襲撃におうてね、匪(ひ)賊じゃ馬賊じゃいうのがおるでしょ、日本人はなんぼいい言うてもむちゃしとる人もおられるからね。そしたら痛めとったらその返しがきますが。それだからもうみんなが集まるところまで来とる人がいないもんね、どうしても。それでずっと途中で兵隊に召集でいっとる人がおるんですよ。

Q:その方からそのお父さんのこと聞いたんですか?

そうそうその人ね、畜産係いうてね、牛買うたりしよったことがあるんです。それが同じとこらへんにおりましたからね、本部へ。だからあの、うちの父親もいちばん歳かさだったんですよ。もうみんな兵隊に次々行くからね。 だから結局おる人をまとめて家族とまとめて安全な所へ南下せないけんからって出かけたんじゃないですか。みんなそれぞれ荷物を持ってね。ある程度着るもの、それで馬車でかけてそしたら途中で匪賊にあいましょう。そしたらもう散り散りバラバラでね。

もうその帰ってくる途中で、はやいもううちの父親や母親やもう、それこそ上からは焼夷(い)弾が落ちてくる、下からは満人(中国人)が暴動するでな、もうむちゃくちゃだったらしいですよ。

そうそう、石切り場のほうが主だったんだけど、あとは伐採じゃな、男の人は大きな木を切ってきてな、倒して切ってきたやつを引きずって持ってきよりましたよ。それを切って、結局自分らが冬寒いでしょ、ペチカをたくのにね、使うたように思いますよ、その木はね。だからだいたいは石切り山へ行きよった、男の人はそうですよ。そりゃ男の人はえれえ目してますよ。

Q:戦争、日本が負けて、なんでほかの国に連れていかれて労働させられるのか、とか、そういう気持ちになったと思いますけど。

それはね、それは仕方がなかったから皆、納得しとったんじゃないん? もう捕虜じゃからっていうあれがあるからね。まあね、しょうがないわね。まあひどい目にあわなんだだけいいんじゃないかしら。そう思うとります、私は。

Q:そんなひどい目にあったとは思ってない?

あんまりね。また女ですからね、女子じゃから、向こうもむちゃくちゃはしなかったですよ。そりゃ男の人は重労働でえらかったんじゃないかしらね。そりゃしたことがねえ伐採したりね、石山へ行って、どういうふうに石切りしよったんか私も現場見てないから分からんですけどね。まあ栄養失調になった人が多かったんは覚えてますわ。大豆がね、こうやって、はんごうがあるでしょう、はんごうに水が半分くらい入ったなかに、大豆がボロボロっとゆでたようなのがはいっとるだけじゃからね。そりゃあれ食べて仕事せえゆうたら楽じゃないわ。大変だったと思うですよ。

ただ、逃亡して撃たれて死んだ子が、義勇(隊)の子がおりましたけどね。それだけでね、あとはもうみな、病院へ行かすでしょ。病院では亡くなったんかも分からんですよ。

Q:逃亡した子がいたんですね。

いたんですよ。義勇の子でね。まだ若かったもん、16か17くらいじゃからね、昔の、今の中学2年生くらいでしょ。それを出てきとるんじゃからね、義勇へ。私らより一緒か若かったくらいじゃないん? 一つくらい。私ら数えの17じゃったからね。

Q:逃亡して射殺ってやっぱり厳しいですね。

でも四隅にやぐら組んでね、そこの上で銃持って番しよるんです、ロシア兵がね。そんであの四重にくらいしよんですよ、ずっとね、こうめぐらして、あの鉄線をね、こう引っかかるようなの。それでもやっぱし、よっぽど帰りたかったんじゃろうと思うわ。若いんと両方でな。

Q:銃殺された現場は見たんですか?

現場は見んけど転がしとんのは見ましたよ。みんなにこれ見い、ゆうようなね。あのあれ、見せしめでね。結局だれか遺骨にちゃんとして持って帰ってあげたんじゃろうと思うけどね。それにはそれぞれ義勇軍の何々部隊っていうのがありましたからね。その辺の責任者いうのもおりましょう。あれはね、広島と、それからあっちの茨城のほうの子もおりましたからね。岡山県の子はおらんかったように思うけどね、どないじゃったんかね。そりゃあね、私らより一つ下ぐらいの子じゃから、あの生活じゃ大変じゃったと思うよ、男の子じゃし、おなかもすくじゃろうしね。女は少々、あのときに女は強えなと思いましたよ。少々食べんでもねえ。ほんとにパンを一斤、半斤あるかないか、それを一日に一回だけでしょ。あとはその大豆じゃとかね、あんなもんばっかしじゃからね、食べるいうても。あんなもん、半分ほどもろうても働く人には耐えられんわ、男の子やこう。

Q:シベリア、ソ連に行って、何か自分のその後の人生でよかったことはあるんですか?

よかったことはあまりないですね。でもね、1人で行っとるんじゃない、集団でね、150人も女ばっかり行っとるから耐えられたんじゃと思いますよ。それでなかったらね、なかなかおれませんわ。なんか大勢の中に女が1人2人で、まだソ連にいかん前に満州でおって、それからなんかして次々に奉天や新京のほうに降りてきて帰ったいう人もたまに会って話聞くことありますけどね。じゃけどね、なかなかな、私らは大勢おって、友達もおったから耐えれたんじゃないかしら。なかなかね、ポツンと一人や二人やこうじゃおれませんわ、それこそ自殺するんじゃねえかな、みんな。

そりゃね、帰った当分私はいろいろ思ったけどね。もうあれですわ何年もたったからね、今んところね、もうだんだんね、忘れて。もう帰ってきたころはね、大変だったけどね、どうなるんだろうかと思ってよう心配しよりましたけどね。そしたら私は岡山市内に帰ってきて、私も他人、他人いうても親戚へ帰って来とるけど親戚ずっとおるわけにはいかんから街へ西大寺町へ住み込みで入ったんですよ。それで住み込みのそこの仕事をね、するのによう、そこはいろんなもの旗作ったりしよられたから優勝旗のアレとか、やから県庁へ行ったり、そういう私もことしてね。

Q:経子さんがソ連から帰ってきて、そのときは家族は誰も帰ってなかったんですか?

姉が帰ってきた。姉が新京から帰ってきとって。

Q:先に?

ええ。だから父親の里へね、姉が帰ってきておりまして、じゃから岡山の駅まで迎えに来て、入れ違いになってね。 結局私が帰ったら姉は駅へ行っとるいうようなアレでね、入れ違いだったんですけどね。それがちょうどね、私の父親の本家のおばさんが婦人会の役しよってね、それで岡山の駅まで迎えに来たんですよ、みんな帰ってくるいうからね。だって会うとっても私も顔や子どもときに行っておばさんの顔やはっきり覚えとったか今思うたら分かりませんけどね、たまたま入れ違いになって家帰っておばさんがあとから帰ってきてね、分かったんですけど。

Q:そのころはそのお姉さん以外の家族の消息は全く分からない?

全然分からない。ほれで帰ってきて小野さんは・・・小野さん帰ってきとったかな、あのとき。もう小野さんが帰ってきても、小野さんが子どもさん連れてね、2人連れて帰ってきて、それでご主人は兵隊に行っとったから、あとから帰ってこられたんですけど。それでちょっと世間が落ち着いたころに帰った人集まったんですよ。どこへ集まったかな? 駅前の旅館かどっかに集まりましてね。どういうふうに連絡とったんか私も分からんですが、そのときにみんながいろいろとね話が出て、そのときにこの辺近辺だったら鴨井さんいうんと真砂とあと誰がおったかな。岡山近辺じゃったらそのくらいやったと思うんですよ。

Q:七虎力(しちこりき)開拓団の集まり?

そうですよ。がありましたからね。

Q:それに参加されたんですね。

そのときでも帰ってきたの少ないからねいっても。小野さんいう人は、子どもさん連れて帰ってきた、ご主人は兵隊に行っとったから復員して帰ってこられてね。だからうちの家族なんかはもうそのころはやもうなダメだなと思いましたよ。

Q:どうしてダメって思ったんですか?

もうだいたい日本へ帰ってないですもん。満州でそういうふうに七虎力で行ったどいらじゃいうてみんな散り散りバラバラでアレしとるでしょ。そんで馬車でみんな着るもん着替えを持って出たいうても襲撃におうたらそれ放っとって逃げるでしょ。そしたら今度自分のね、アレが無いですが。もうそれこそ着とるもんとリュックサックでも持っとりゃ別じゃけどね。じゃからね、あれ聞きよったらそりゃその人らのほうがえらい(つらい)目しとられる。まだ私ら言っても軍隊と一緒だったからね、えらい目しとるうちには入らんですわ。

Q:経子さんも病院の方に行っちゃったし。

そうそう。早く出たからね。学校出たらもうすぐに行ったでしょ。家おったのも妹と弟おったんじゃけど、だから妹はでもね、昔やから女学校行くようなアレ田舎だから、高等小学校出て、役場へ勤めよったらしいですわ。田舎のね。だからそれらの方が苦労してるかも分からんですよ。もし生きて帰ってくればじゃけど。もう帰ってこんから生きてないんでしょ、たいてい。だから兄弟はもう私と姉だけで姉ももう死んだしね。日本へ帰ってきたのは2人だけですからね。あとみんな帰ってきてないんですから。

Q:なんかその経子さんとかも年齢的には、もし佳木斯の軍隊と一緒に行動してなかったらどんな目にあったか分からないですよね。

そうね。民間へおった人がおるでしょ、佳木斯の街おって事務員役しとった人もおりますからね。そうじゃな、あれ誰かな。それこそ名前が分からんようになってしまう。岡山のね、えっとあれは誰かな。

誰言うていいかさっぱり分からんようになってしまう。それでもうね、今はあれですけど、帰ったころは昔のことなるべく忘れた方がいい、いう時期がありましたからね。

Q:忘れた方がいいっていう。

もうあんまりね昔のこと思うてもいけんからね。なるべくもう昔のことは忘れて思い出さんほうがいい、いう時代がありましたよ。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1929年
岡山県倉敷に生まれる
1939年
10歳のとき家族とともに満州へ
 
尋常高等小学校を卒業後、陸軍看護婦の募集に応じ佳木斯第一陸軍病院へ
1945年
方正で終戦を迎える。 シベリア・ハバロフスクへ
1947年
帰国

関連する地図

シベリア(ハバロフスク)

地図から検索

関連する証言

ページトップ