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タイトル 「現地の人たちとの交流」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 太田 秀子さん(シベリア抑留 戦地 シベリア(ハバロフスク) 満州(佳木斯)  収録年月日 2014年6月8日

チャプター

[1] チャプター1 陸軍看護婦になる  04:41
[2] チャプター2 断髪  03:13
[3] チャプター3 さらわれた女子  02:25
[4] チャプター4 ハバロフスクへ  04:26
[5] チャプター5 同期生の死  04:26
[6] チャプター6 死んでいく日本人抑留者  02:29
[7] チャプター7 現地の人たちとの交流  06:36
[8] チャプター8 待ち焦がれた帰国  03:29

提供写真

再生テキスト

14歳やね。

Q:小学校を卒業して?

西之表という女学校(現・種子島高校)があります。そこへ2年行って、それからです。

Q:満州に行ったきっかけは何ですか?

兄が開拓団で行ってたんです。

Q:何開拓団ですか?

熊毛開拓団。

Q:秀子さんもお兄さんを頼って満州に行って?

団長さんが来られて。うちへ。それで、連れて行かれた。

Q:看護婦さんになったのはどういうきっかけですか?

開拓団へ行ってから、募集があったんです。で行って、試験を受けたら、うまく通って。

Q:看護婦さんになることに対して、どういう気持ちでいらっしゃったんですか?

私、父がね、胃がんだったんですよ。7歳のときに亡くなったんです、父が。「がんや、あれを治してやりたかったな」と思って、看護婦になろうと決めたんです、そのとき。7歳にして。

Q:満州で看護婦になったら陸軍病院に勤めるわけですね?

そうです。

Q:そうすると軍のお手伝いをするわけですね?

そうです。野戦病院です。佳木斯(ジャムス)第一陸軍病院。

Q:やっぱりほかに看護婦さんになる方も、同じく秀子さんと14歳位の若い人もいたんですか?

佳木斯の女学校を出た方が、一緒の部屋におりました。

Q:訓練中というか教育中はどんな生活だったんですか?

午前中は勉強です。午後は実地にあたって。

Q:実地とは、患者さんを診るんですね?

そうです。内科、外科、ずっとまわるんです。

Q:どんなけがの方が多いんですか?

けがはそんなにあれでしたけどね。まあ、手術の方が多かったです。

Q:何の手術?

胃潰瘍とか、盲腸とか。

Q:そのころ毎日忙しかった?

忙しかったですね。

Q:軍隊の生活ですよね?

そうです。

Q:内務班とか。

そうです。田島部隊長っていうね、部隊長だったんです。その部隊長が、私と同県人だったから、よくかわいがってくれました。でも、南方のほうへ行かれて。

Q:その後で長谷川部隊長になったんですね?

そうです。

Q:やっぱり南方のほうが情勢が悪いから?

そうです。

Q:衛生兵さんや軍医さんもそのころ大勢南方に行ったんでしょうかね?

行きましたね。

バーンと大きな音がして、それからもうすぐ官舎から病院へ駆けつけて。そしたら、酒保って物売っているところあるんです。そこの品物がボーンと玄関前に積まれて。浴衣とか何かいっぱいありましたよ。勝手に持って行ってって言われて。持って出たんですけど、もう途中で松花江に、川をさかのぼっていくのに、川にもう捨てたですね。

Q:もう持っていくのも大変で?

そうです。

Q:移動する前に女の方が髪切ったりとか?

そうです。私も切って。もう、男性と一緒の、戦闘帽かぶってるんです。それで垂れがついてるから、髪を切ったら、男に見えるんです。「髪断って 女を隠す 敗戦日」っていう句ができたんですけどね。

Q:もう一回いいですか?

「髪断って 女を隠す 敗戦日」

Q:その句はその終戦前から作っていらっしゃったんですか?

いいえ、そのときに。私、小学校から、もう句が好きでね。

Q:移動する前に、青酸カリも渡された?

そうです。いざというときにはね、これを、恥をかかないようにって渡されて。軍服の内ポケットに入れて持っていました。

Q:恥をかくとはどういうことですか?

卑しめを受けられないからね。命を絶つ。

Q:死ねって言うことですよね?

そうです。

Q:大変なことですよね。

うん。

Q:薬を渡されたときは、どんな気持ちになったんですか?

いよいよいうときには飲もうと思いました。辱めを受けないようにね。飲んで命を絶つ覚悟はできていました。

Q:女の子で他に犠牲になった方って北村さんの他にもいらっしゃったんですか?

さらわれた方がおられました。船に行くまでに、方正いうとこまで、松花江を下っていたんです。そのときに、トラックで来て、さらって行かれた。戦友会のときに、その方のお姉さんいう人がずっと出ていました。でも、いぜん様子は分からなくてね。実際。

Q:さらわれたというのはソ連兵に?

そう。だから、もう青酸カリも飲まんと、どうなっているかは分からないですわ。

Q:ソ連兵が女の子を狙って来るんですね?

そうです。トラックで来て、バッと連れて行かれたみたいですよ。

Q:その現場を見た?

一緒に歩いてたからね。「あっ」って言ったら、もうさらわれていました。

Q:さらわれた方は声出したんですかね?

いや、声は出して、声も出なかったでしょう、たぶん。

Q:あっという間に?

そうです。うわさでは、満州の方で、満州の人のお嫁さんになってるとかいううわさはちょっと聞いたことがあるんです。でも、それもはっきり分からないまま。

9月19日の晩にソ連領に着いたんです。そのときに句を作ったの。「野も山も実りの9月19日 北斗七星 ソ領で眺む」という句ができました。

Q:ソ連に入ってから?

そうです。港もないようなところで降ろされて。もう焼け野原ですわ。カレフカシーいうてね。

Q:北斗七星が見えた?

そうです。野宿でしたからね。野営。こうしたときに、北斗七星が見えたの。「ああ、北斗七星だ」って言って。そのときはね、軍医さんたちもいらしたんです。軍医さんが5名と、女の子が5人。丸くなって、枕を並べて、野営したんです。

松花江いう川をさかのぼっていったんです。

Q:ソ連に連れて行かれたと分かったとき、どんな気持ちだったんですか?

シベリア鉄道いったらね、もう囲いもない、貨物みたいな椅子もないんです。ただ箱の中に、地べたに座ってでしたからね。

Q:野営して北斗七星の句を読んだときは どんな気持ちで句を作ったんですか?

星を見たときに、「ああ、これは心に留めておこう」と思ったの。

Q:女の子5人でシベリア鉄道に乗せられて?

そうです。軍医さんと薬剤隊員とね。それで10人ですか。

Q:ソ連に連れて行かれて、これからどうなるだろうとか思いますよね?

思います。だけど、私たちは病院でしたからね。

Q:ソ連に連れて行かれたら、命の危険とかは感じましたか?

感じましたね。毎日。雪が降ってもね、もう外へまきを拾いに行くんです。

Q:ソ連の監視兵もついて?

そう。銃を持ってね。ソ連は、もう計算するのがものすごく下手くそです。縦列に並ばせて、数える。「ヤポンスキー」って言ってね。

大きい病院です。あそこは。クリドール。

Q:そこで病院で勤務されたんですかね?

そうです。それで、同期生の人が、北村さんっていう方が亡くなったんです。乾酪性肺炎でね、亡くなられた。そこの収容所の丘の所へ墓標を立ててしてましたけどね。火葬でした。

Q:火葬して?

うん。

Q:乾酪性肺炎?

乾酪性肺炎。

Q:何が原因で肺炎になったんですか?

風邪をこじらせてね。風邪をひいて、それから肺炎を起こして。お薬もないでしょう。

Q:秀子さんは向こうで病気したりとか?

それはなかったです。おかげさまで。

Q:ソ連で死ぬかもと思ったことはありますか?

いえ、絶対に死なんと思ったですよ。自分で決めて。絶対ここで死ぬものかと。絶対帰るんやと思って、決めたんです。

Q:いつ決めたんですか?

向こうに着いてからですけどね。ウラル山脈のとこでね。それでも北村さんは・・・兵長でサワさんっていう兵長さんがいらしたの。 その人がちゃんと抱きしめてあげたんですよ。亡くなったときにね。それで浮かばれたなと思って。ラブラブだったらしいから。

Q:サワイさんですか?

サワ。サワ兵長いうてね。「ミチコー!」言うてね、抱いてあげてた。亡くなってからすぐ。

Q:病院時代から仲が良かったんですかね?

病院時代はそうじゃないと思いますけど。ウラルの方へ行ってから、その収容所の中で、中の医務室でね。

Q:誰にもみとられなかったらかわいそうですものね。

そうですね。

Q:秀子さんもその場に立ち会った?

うん。火葬するときに行きましたよ。まきを積んで、その上に乗せて、油をかけて燃やしたんですよ。

Q:友達の葬儀ですよね、そのときはどんな気持ちだったんですか?

やりきれなかったですね。火をつけられるのがね。拝んであげた。

Q:火葬と言っても、遺体が燃える所が見えるわけですよね?

そうです。たまらないですよ。

Q:病院に勤務していると、患者さんたちは日本の兵隊さんたちですか?

そうです。

Q:日本の兵隊さんたちどんな様子だったか教えてもらえますか?

日本の兵隊さんは、懐かしそうにしていましたよ。

Q:懐かしそうとは?

私たちが日本人だから。

Q:やっぱり日本の看護婦さんに診てもらえると安心ですよね。

そうですよね。よく話しかけてきてね。「帰れるかな。帰れなかったらね、これを家族に知らせてほしい」って言われて。将校さんが入院してなさって。

Q:これとは何か書いたものですか?

そうです。住所とかね。「家族に連絡してほしい。」私、連絡しましたよ。准尉さんでしたけどね。

みんな栄養失調で亡くなっていきました。

Q:何人もみとったんですか?

うん。もう亡くなられたのをね、雪の中に遺体、死体を積み重ねていましたよ。「うわー」と思ってね。

Q:何人も積んでいるんですか?

うん、山積み。すごいわ。

Q:栄養失調で?

栄養失調ですよね。

カチューシャの歌

Q:すごい。カチューシャ?

カチューシャ。

Q:向こうで覚えたんですね?

そう。それは、ソ連の看護婦さんに教えてもらった。一緒に働いていた。私が着物をあげたんです。看護婦さんにね。そしたら、向こう、何もないから喜んで、自分の家に連れて行ってくれて。「行こう」って言うてごちそうしてくれたんですよ。白いパンを出してくださったり。それで、香水をお土産にいただきました。

Q:秀子さん1人だけですか? 家に招いてくださったのは?

そう。私1人でしたよ。一緒に行こうって。「ポージョウサムヌイ」って言ってね。

Q:全く戦争していた国っていう感じしないですね。

そうです。喜んでね。着物をもらったのを。それで香水もいただいたんです。この位の瓶に入ったね。

Q:香水は持って帰れたんですか?

持って帰りました。

Q:日本まで?

はい。引き揚げたときにね。

Q:没収にならなかったんですね?

ならない。舞鶴で上陸したの。

Q:着物をあげたのはどうしてですか?

私も要らないからね、あげようと思ってね。あげたら喜んでくれた。

Q:着物を日本まで持って帰ろうとは思わなかったんですか?

収容所でね、慰問なんかしていたんですよ。そのときに使っていた着物。もう要らないからね。あげましょうと思ってあげたの。

Q:どんな着物ですか?

普通の・・・柄物の着物でしたけどね。

Q:普段着の?

普段着よりちょっとマシな。ちりめんの。

Q:ロシア人からしたら珍しい。

珍しいですよ。もう、「ハラショー!(すてき)」って言うてね。「スパシーバ!(ありがとう)」言うて、喜んで。「ポージョンサムヌイ!」言うて。衛兵の所から外に出ていくの、手を繋いで行きましたよ。2人で。

Q:友情が芽生えた?

そうです。

Q:お名前は何でしたっけその方?

名前は・・・マルーシャとかって。私をナターシャって呼ばれてて。「ナターシャ、ポージョンサムヌイ」って言ってね。ロシアも一人一人はわりあいいいですよ。付き合ったらね。

Q:民族のそういう差別とかないんですね?

ないんですね。汽車でハバロフスクに行ったとき、ハバロフスクでは、「ここ、お座り」って、席を譲ってくださったの。

Q:誰がですか?

一般のロシア人。乗客ですよね。

Q:ハバロフスクにいるとき?

うん。「ヤポンスキー、ジェーチカ・・・日本のお嬢さん。ここへお座り」って。「パジャールスタ、サジーチェ」って言ってくださって。

Q:お座りって意味ですか?

そうです。だから、私も「スパシーバ」って。「オーチンスパシーボ」って言うてね。「大変有難うございます」って座らせていただいたの。いろいろ話しかけてくるんですよ。黒い瞳とか黒髪を、褒めたたえて下さって。

Q:ソ連から今度帰ってくるときの話しなんですけど、さっきあした帰るからって急に準備させられて。帰るって決まったときはどんな気持ちだったんですか?

そうかと思った。やったぜと思った。絶対帰ってやると思って。でもね、私、舞鶴に着いて、それからバスの・・・バス停で、母親が亡くなったことを聞かされたの。「あんたお母さん死んだの知ってる?」って言われてね。つらかったですよ。せっかく帰って来たのにと思ってね。病気で亡くなったって言って。心臓が悪かったんですよ。弁膜症でね。でも、私のいとこが医者をしていましたから、その方がずっと付いてくださって。その医者も野戦病院から帰って、引き揚げて帰って、先に帰っていたんです。「おばさん、おばさん」って言ってね、ずっと付き添ったらしいです。だから、まあ、救われたなと思ってね。私。

Q:お母さんも秀子さんが帰ってこなくて心配していたでしょうね。

私が・・・「秀子が来た」って言うて、亡くなる前に手をバッと出したらしいですよ。だから、母の妹がおってね、「そんな引っ張られたらいかん」って言うて。私の姉をバッと引き離したっていう話でした。

Q:そのとき、秀子さんも生きてるか死んでるかも分からなかったし・・・

分からないですよね。来たって、私が迎えに来たって言って、言ったらしいです。「秀子が来てるわ。秀子、ここ、ここ」って言うて、やったんですって。

Q:お母さんは亡くなったのは何年ですか?

昭和21年。21年の11月・・・12月21日とか言ってました。

Q:シベリアに行っていなければ会えた。

そうです。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1930年
鹿児島県に生まれる
1944年
14歳のとき高等女学校を中退し満州へ
 
陸軍看護婦の募集に応じ佳木斯第一陸軍病院に入隊
1945年
8月、方正で終戦を迎える シベリア・ハバロフスクに抑留される
1947年
帰国

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シベリア(ハバロフスク)

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