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タイトル 「生きる気力を奪った抑留」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 福本 恵美子さん(シベリア抑留 戦地 シベリア(ハバロフスク) 満州(佳木斯)  収録年月日 2014年6月9日

チャプター

[1] チャプター1 渡満そして動員  03:45
[2] チャプター2 軍隊さながらの日々  02:15
[3] チャプター3 一時帰宅  03:39
[4] チャプター4 “護身薬”として配られた青酸カリ  02:38
[5] チャプター5 終戦の知らせ  02:40
[6] チャプター6 男装した少女たち  02:36
[7] チャプター7 ソ連兵への恐怖  03:54
[8] チャプター8 ハバロフスクへ  01:42
[9] チャプター9 収容所生活  04:11
[10] チャプター10 ホールの収容所の日々  03:40
[11] チャプター11 生きる気力を失う  02:31
[12] チャプター12 帰国の途へ  03:27

再生テキスト

うちの父がね、この王子(王子製紙)に勤めたから。佳木斯(ジャムス)に行くことになってね。

Q:昭和20年?

20年の5月。行ったばっかしなのね。

Q:行ってから向こうでは何のお仕事をされていたんですか?

そして省公署っていうね、北海道で言ったら道庁みたいなところかな。そこにずっと勤めてたの。そしてそこに勤めてね、結局ね、省公署だからね、結局満人(中国人)の人も多いわけ、そうだよね? 満州だからね。でもね、中はね、やっぱり日本語なのね。みんなね。結局若い男の人がいっぱいいるけどね、みんな日本にね、留学したことのあるとかさ、そういう人ばっかしなのね。

なんか父の世話で・・・省公署にね、勤めてたのね。産業課っちゅうとこにね。そこはね、やっぱり、あの当時軍隊あるから、佳木斯にね。やっぱり憲兵さんが来たら、今日宴会あるから、白酒(パイチュウ)、白酒の券とか、そういうこと、そういう券を発行するとこなの。そういうところにいてね。

Q:5月に満州に行って、省公署に勤めたのは?

1か月くらいだね。そして7月に召集令状来たから。

そういう召集令状っちゅうこともないけどね、なんちゅうんだろうね。やっぱしね、「何月何日にね、第一・・・第一陸軍病院にね、看護婦見習いとして入りなさい」ちゅうなんか来たんだよね。今は・・・記憶ないですが、そういうふうに皆持って来てるから集まって来るでしょう。だから勝手に来ないもんね。とか、日本も同じようにね、満州に勤めてる佳木斯にいるね、日本の女の人じゃけんね、結局歳もさ、20歳から25くらいの人の間。ちょうど私も20年だから、20歳だから。歳とった人か若い人には来ないわけね。そういうことあったの。みんな同じようなね、年代だからね。

Q:もらったときはどういう気持ちなんですか?

たいして感じなかったね。「今戦争してるからね。行くのは当たり前だ」って思ったしね。考えない、考えないんだね。

もう、履く物もなんもないから。そしたら同じく勤めてるイッポウさんっちゅうね、課長さんがいて、それ日本の九州の人だったのね。したら私のためにね、上靴くれたの。新しい上靴。して「これ履いて行きなさい」ってから、ありがたかったわ。なんも無いからね。私も、あんた、省公署に勤めても靴も無いからね、下駄履いて行ったのね。してガタガタうるさいからってね、そのイッポウさんっち方ね、草履くれたの、草履。だから草履履いてそこに勤めたことあるけんね。何も履くもの無かったのね。そのころ軍隊行くんなら、靴無かったら困るからって運動靴くれたの。だからありがたかったよ。

Q:陸軍病院に行って看護婦見習いとして今度生活するんですよね、そのときはどんな生活をしていたんですか?

大きな工場みたいとこあってね、そこに・・・やっぱり先生だよね、教官だよね、勉強するの。そして、大隊長がいらしたらね、みんなして立ってね、敬礼するわけさ。そういうことあってね。それであって、毎日ね、結局軍隊だから朝の6時に起床して、起床ラッパ鳴るから、起床して、やっぱりね、10時になって、9時か、9時になってね、就寝ラッパが鳴ってね。そして夜になんか、不寝番に交代交代で立ったりね。そういうこともあったしね。だから「いやー軍隊って嫌だなぁ」って思って。そして一回だけね、うちの母とね、面会かい、やっぱりうれしかったわ。そんときはうちの母親なんかね、おはぎとかなんか作って持って来たけどね。それが本当にやっぱし、軍隊の兵隊さんがね、やっぱり面会に来るっちゅうことはね、こういうことなんだなぁと思って、うれしかったよ、やっぱし。ちょっとしかいないけどね。本当やっぱし軍隊っちゅうところはやっぱし、厳しいし、自由がきかないからね。そして講堂でね、習った勉強の一回試験あったわけ。その試験どうなったか、それも結果なんか分からないのね。それこそもう終戦になっちゃったからね。そういうことで試験「えー、試験やだね」っちゅうたけど、まぁいいわと思ってね、試験だけみんな受けたけどね。結果分からなかったけどね。そういうことあって。

Q:試験の内容はどういうものですか?

あんね、人の体のことについていろいろ。

Q:解剖なんかもやるんですかね?

いや、そういうのしない。ただね、行ったのね、包帯の巻き方とか、そういうのだけ習っただけ。そういうこと、ゲートルね、巻いたときに、ゲートルの巻き方も知らないけんね、ゲートルの巻き方習ったりした。あぁそれは後からね、ちゃんとね、習ったしね。

雨じゃんじゃん降ってたのね。だからもう爆弾が落ちたときに、もう本当、2段ベッド・・・2段かな。いや1人ずつ、1段ベッドだけど、ベッドも跳ね上がったわけ。ガラガラってもうね、揺れたし。「あれなんでした?」ったら「爆弾だ」って言うから、それこそ班長さん来てね、もうソ連兵が来て爆弾落として。隣が司令部だったのね。だから、「えー、だってソ連って、戦争しない」と思ったから。アメリカとだけね・・・なんだってソ連が来たのっちゅうことになってね。したらソ連と戦争したんだと。「えー変だね」っちゅう。もう佳木斯ってね、近いからソ連とね。国境に近いからね。やっぱし、赤十字にね、病院には落とされないから、隣の司令部にね、爆弾落としたっちゅうことで。そしてそれからね、一時解散したんですけどね。

Q:解散したのは誰かの命令で?

上の方からね。私一般人だから、やっぱり中にはね、帰ってね、この「みんなもうちへ帰ってみんな疎開準備してるものね。疎開するのもいるし、帰って疎開する人もいるし、また軍隊残ってアレするのも良いからと、それは本人の自由です」っちゅうことになったわけ。そして150名のうち半分ぐらいしか戻って来なかったの。ちなみに半分の人はさ、家族の人とね、一緒に疎開して、アレしたと思うのね。

まぁ家へ帰ってから相談しようと思ってね。したら父がね、父もそのころ、在郷軍人ってあったから、在郷軍人に行ったんだって。

Q:お父さんから何か・・・?

いやうちの父がさ、いたんだね。そんときはね、「女の子一人でもさ、お国のために」ってね、アレだった。「軍隊戻った方がいいんじゃないか」っちゅうから、うちの母は「ダメだ」って言ったけどね。したら私もよく考え・・・あの時代だから、軍隊戻った方がいいのかなって思って、「したら軍隊行くわ」ちゅうて、軍隊の方へ戻ったね。それは本人のね、自由意志に任せるからっちゅうことでね、「うちの人とね、一緒に疎開するのもいいし、軍隊戻るのもいいし」ってね、そういうこと言ってたの。

Q:そのときに戻った方がいいんじゃないかと思ったんですね?

うん、そうよね。だってあの時代は、みんなお国のためにもうね、なんも、戻ったって何もないしね。みんながさ、戦争になんとかしてね、アレしようと思ってるから。そのほうがいいかなと思って。うちの父もさ、まぁ男の子ね、だけが(じゃなく)女の子もそうやってできるならね、「軍隊戻った方がいい」っちゅうからね、いやーと思ったけどね。したらそうするわっていうことに。したら母はね、「ダメだ」っち言うたけどね、そういうことで。したら私も戻って、戻るわという。だから何もね、戦争で死ぬとかね、そういうことなんも怖くもなかったのね。ましてね、それ言ったの・・・だったけどね。

Q:下手するとそこで生き別れになる可能性もあるわけですよね?

うん、そのままね。

Q:戦死しちゃうかもしれないし。戦死してもいいという気持ちもあったんですか?

うん、そうだよね。何ともないと思ってね。もう死んでもいいわと思って。

Q:病院に戻ったのがその150人の半分くらい?

うん、そうそう。

その残った人だけに、今度みんな物配るっていうね、食料。乾パンとか、なんかね、食べ物のね。それからガーゼかなんか、みんなね、「自分で持てるだけ持って行きなさい」言ったけども、それこそもう、食べ物でもさ、そんとき、背のうか、背のうとかね。下げるやつ。ざつ・・・なんていう・・・リックサック。

Q:雑のう?

うん、雑のうか。そういうふうに持って行きよったって、たかが知れてるしね。まぁ私たちはさ、大してないけど、看護婦さんたちはさ、古いから着物でもなんでもいっぱいあるでしょう、ねえ。あれもこれもやって、満州行って、せっかく働いてさ、貯めたね。ほんでから私は何もあんた・・・今軍隊からもらったもんだけね、持っていくだけやけど。したらそんときにね、青酸カリもくれたわけ。クレオソートって言ってたしょ?青酸カリね。軍隊でね。「何これ」って、「護身薬だ」ってね。いざっていうときはね、これ飲んでアレね。「護身薬って、そうなの」、なんてね、そのとき初めて分かったけどね。やっぱし、軍隊って、それこそ、日本のさ、女がさ、死ぬときにね、だらしない格好で死ぬでもさ、「いざっちゅうときになったらね、これ飲め」って。考えてるんだなって思ってね。したらみんなそんなのもらっても、見つからないように、だからみんなこうやって、下着のとか、こういうとこしまってね、ちゃんと袋に入れてさ、こうやってしまってね、そしてみんな行ったのね。

なんかね、これくらいのね、小さいやつでね、こういう薄っぺらいやつで。それだからね、ここに挟めてもね、分からないんだ、ちょっと。ここ胸、一回きて、袋に入れてさ、ちょっとここにちょっと挟んで入れてたの。そうやって持ってたの。だからみんな見つからないようにね。だから自分の体に付けてなさいって。そういうところアレ、軍隊ってすごいなと、そのときにね、アレと思ってよ。それまではね、これから一緒にね、どこ行くのかなと。それからね、船で佳木斯て港なんだね。そっから船出て、船でもって、ハルビンに行くっちゅうことになったわけ。そして船に乗れっちゅうことで、船に乗ったわけさ。13日ね。

そしたら、夕方だったけど、後ろの方見たら、もう兵舎なんかみんな壊してんだね。真っ赤になってね、燃えてるのね。結局病院だけ残っていればね、後から攻めて来たね、人が使うようになったら困るでしょう。だからなんも壊して、もう佳木斯のそのもう、真っ赤になってるのね。「兵舎壊してんだよ」って、「あらそうだね。」そして、ハルビンに行く途中にね、降りたわけさ。方正っちゅうとこに。そこで分かったわけ、終戦ちゅうことが。でもね、船ったってさ、たいして立派な船でもないけどね、して後から来た船の人にね、なんか、いわゆる疎開する人だったんだね。その人たちの船はなんか、沈没したんだって。私ね、軍隊のっとるしね、沈没しなかった。方正に着いたんだけどね。方正に着いて、そしたらなんだか辺りの様子変だなと思ったらね、「日本が負けた」ちゅって、「まさか」ったら、やっぱしそうだってね。
大隊長がさ。17日に分かったの、ハッキリ。でこっちに15日に終戦ね。8月の17日の朝ね。大隊長がね、みんな集めてね。無条件降伏かい? 降伏したからっちゅうことでね、みんなそこでね。

Q:さっき方正に着いたときに、辺りの様子がおかしいとはどういうことなんですか?

結局ね、今まで満人(中国人)の人らがさ、日本人っていいよったらよけてくれたりなんかしたでしょう。それがなんか、横柄っちゅうのかな。いやに満人が威張るわけさ。変だなと思って。空気がね。そしてそれとなく耳に、私あんまり外に出ないからね、分からないけどね、入って来たのね。「日本が負けたらしい」って。「えーどうして」っちゅう。したらやっぱしね、8月の17日に分かったのね。

Q:満人の態度が違ったんですね?

うん、違ってきて・・・結局私出なくてもね、兵隊さん方が外に出てるからさ、結局満人の態度が分かってくるでしょ。そしたら日本負けたっちゅうこと、言うでしょ。したらだんだん聞こえて来るからね。そしてハッキリ正式にね、教えてくれたのはね、8月の17日だったけどね。

Q:髪の毛を切ったのは、何かきっかけがあったんですか?

みんなが切ったから切った。中にはね、坊主にした人もいるんだわ。私は坊主にしなかった。こうね、髪、みんな、みんなこう髪切りあったのかな。なんか髪ね、あれでないようにね、切って。みんな短くね、切って。お互いに髪切ったね。中にはね、坊主にした人もいるんだわ。(私は)坊主はしなかったけどね。でも偉いよね、坊主にしたのね。

Q:髪長かったんですか、そのときは?

うん、長かったという・・・そうだよ、普通長いよね。

Q:髪切るというのは女だと分からないように?

分からないったって分かるよね。背は小っちゃいし、こう胸出るしね。ハッキリお尻は大きいし。だから、それで方正に行ってさ、外歩くのもね、「あんまり歩くんじゃないよ」つって、歩くの2人で。もうソ連兵にね、もう戦争終わったんだから、「ソ連兵が来るから、あんまり外へ出るな」ちゅったけどね。みんな言ってんだ。「女だと分かるよね」ちゅってね、ついに、だってあそこの病院の看護婦さんって、私たち150名くらいかな。看護婦さんも入れてね、150人くらいの女がね。だからあんた、女だっちゅうこと分かるよね? 背小さいしね、なんかね、そういうことあったからね。「あんまり外へ出ないように」ってね。

Q:ソ連兵は入ってきてたんですね?

ええ、もう入って。2~3日したらね、入ってきてたのね。だからこういう部屋にしたら、毛布かけたの。この暑いしょ? 満州ね。これにね、窓に毛布かけたの。毛布かけてもね、分かるよね。私の部屋には来なかったけどね、やっぱり分かるでしょ。結局日本の偉い人にさ、こっちはね、病院だったから、看護婦が150名いると。その他には兵隊さん方もいるけどね。そういうアレだったの。だから夏にね、8月でしょう。暑いでしょう、また8月ってそりゃもう。毛布、こういう入り口に毛布さげてたの。暑い暑い。そうやっていたけどね、終いになったらね、ソ連兵来てさ、もう行ったからね、いいわと思ってね、開けたことあるけどね。

Q:ソ連のジープは何しに来るんですか?

結局、日本の女の人がね、今歩いてるからね、乗せて。だからみんなしてさ、乗ったらね、連れて、どっか連れて行かれるよ、だから、「絶対乗るな」っちゅうことなって、そうだねっちゅうことで、友達4人か5人みんな手繋いで、そして黙って黙々と歩いてるわけさ。そこにこうね、ジープに「乗れ」ってね。もうちょっと、乗れまでいかん、ピストル撃ったっしょ、ピストルね。したらそのときやっぱりみんな黙ってたら、やっぱり当るからさ、やっぱりね、コーリャン畑に逃げるよね。みんなわーって逃げたんだ。したらね、私の一緒に手繋いでる人がいないわけ、誰も。あーっと思って、いやーっと思って。して、おもむろに出たらね、そろっと出たら、1本道だったから、したら向こう、前の方にね、兵隊さん馬車引いて歩いてたから、「乗せて」って・・・そこにまだ一人乗ってたしね。2~3人の兵隊さんでね、馬車引いてたから。同じ司令部に帰るからね。したら、「乗せて」って言って、乗せてもらったけどね。それこそ寺崎のぶちゃんが、クレオソートの瓶開けたんだって。私、ほとんどそう考えないそんなこと、死ぬなんて。逃げてもね。後から聞いたの。「私瓶開けたんだよ」って。えー、ここまで飲もうと思ったけどね、またそのうちね、奥田少尉っていう、一人ついてった少尉がいるのね。そうするともう「みんなソ連兵いなくなったぞーっ」てね、声かけたんだって。そしたらね、もう「蓋して、そしてまた逃げたんだよ」って。私はその前にね、その奥田ちゅう人が、みんないなくなった(と言った)、その前に私は出て行ったから。誰もいないしね、アレだなと思って、一人でね、もう嫌だったけどね、思い切って、こっちだなと思ってそう歩いて行った。したら馬車がね、日本の兵隊がいたから。

Q:いちばん先頭だったんですね?

うん、早い方だったの。

Q:じゃあ後ろから人がまた?

うん、早く着いたからね。そしてもうみんな、晩の8時9時に、もうみんなハァハァして来るわけさ。もうね、そうだよね。そして道は一本道だけどね。もうそれこそあんた、ゲートル引きずったりさ、みんなね、ハァハァして来たけどね。アレだけは嫌だったね。

Q:ソ連兵の「乗れ」っていうのはどういうこと?

うーん、そうよね。やっぱり乗れっちゅうことはやっぱりね。

Q:何台も来るんですか?

うん、何台・・・何台くらい来たんだろうね。そしてたらジープ歩くだけでいいけどね、しまいには鉄砲撃ったからさ。やっぱり鉄砲当ったら死ぬ、嫌だからさ。だからね、ジープ走るだけならいいけどね、このそのうちピストルでね、ガガっとやったからね、あーこれはダメだと。みんなそのときにね、わーっと畑に、コーリャン畑に、ちょうど秋だからね。コーリャン畑にわーっと逃げたのね。そして一緒に逃げたつもりが、気がついたら誰もいないのね。あれっと思ってね。こうなったら自分ひとりでね、行動するしかないと思って。恐る恐る道路に出たさ。誰もいないけどね。でもう思い切ってね、一人で歩いて行ったよ。やっぱり若いね、若いからね。今だったらもう全然、婆さんだろ、もう全然ダメだ。若いなと思ってね。よく一人でね、それこそあんた知らない土地をさ、歩いて行ったなと思って。若いっちゅうことはいいことだね。本当だよね。

松花江の、この方正にいるから、この貨物ね、貨物列車にね。普通の汽車ならね、汽車じゃなく貨物だからね。真っ暗でしょう。でもあの高いところからさ、降りたからね、男と一緒にね、結構「降りれ」言ったって何もあんた、はしご付けるわけじゃないし、「降りれ」ったら、男と一緒だ。若かったからね、よく飛び、高いのね、結構あのね、貨物ね。だから降りたなと思って。その飛び降りてね。その乗るときはちゃんとはしごあったのがね。乗って、だんだん真っ暗さ。だからどこをどう連れてったか分かんない。そしてハバロフスク着いたらね、結局、その収容所いちばんきれいだったの。そこは将校収容所でもってね。きれいな収容所、1週間くらいいたけどね。
それからまた今度、みんなして手繋いで、もう歩いたけど、話したらもう疲れるから、黙ってもうみんなしゃべらないの。黙々と歩いたよね。話したら疲れるのね。だから黙々と歩いてね。したらあんた、「ジャポンスキー腹切り」だとかさ、ね、ソ連の子どもたちがね、石投げてたよって、ノブちゃん(寺崎のぶ子さん)よく言うんだ。「そうだったかい」ちゅうようなね、「みんなもういやだったよ」ってね。「本当だね」って。

Q:ハバロフスクに着いて、労働とかもさせられたんですか?

いや、ハバロフスクは何も。1週間くらいしかいなくてね、何もしなかった。ただぶらぶらしてただけ。2週間くらいね。そこね、きれいなとこでね、なんかハバロフスクって海辺あるんだろうかね。なんかきれいなとこだったのね。そこで将校さん方もアレだったけどね。1週間くらいしかいなくて。今度そこから今度、そすとね、歩かせられたんだかもう、なんだかわけ分かんない。

Q:違うところに移動させられた?

うん、移動するね。初めどこ行ったか分かんないのね。そして山ん中の収容所も行ったしね。

Q:なんか石切り山って?

うん、そこね。石切り山。兵隊さん方はね、石切り山って。そこはなんか、囚人が入ってたところなんだ。そこをね、ソ連の囚人が出たら、日本の兵隊さんね、入って、私たちもね、そこに入って。そこもおそらく1,000人くらいいたんじゃないかね。兵隊さん方ね。そこに行ったときに、まき拾いしたり、自分たちの部屋にペチカ焚(た)くのにね、もう秋だからね、まき拾いしたりして。それから、真麻の袋に持ってね、下の方に行ってね、パン、パン1人1個か2個で、持って来る。それをね、みんなしてね、仕事でね、夕方ね、取りに行って帰って来るんだね。そしてそのパンをね、お昼に給食、給食。お昼にさ、こうやってくれるでしょう。そしてお砂糖少しとね。

お昼それくらいだったか、なんだか。だから上の方小さくて、下から大きいからね、こう割るんでもね、ちゃんときれいに割れないでしょ、平等にね。そういうのね。食堂でもらったことあるし、部屋で分けたこともあるのね。ただ、これ、みんななかなか平等に分けれないんだわ。そしてね、大きいの小さい、こう並べてね、ジャンケンしてね、面白い、ジャンケンしてね、勝った人から順番に取っていくんだよとかってね、そういうことあったしね。そういうのもね、やっぱり部屋でもたまには分けたことあるけど、食堂でね、ちょっと少しお砂糖とね。それぐらいかなお昼ったら。まぁ私たちはさ、女だから外へ出ないけどね、兵隊さん方からすると食べ物ね、それね、少なくてね。だから私たちがもう、休むし何て言う、太く、その極端に痩せた人いないわけさ。みんな太ってるって、太ってるままでしょう。

だから「女の人だけ」ね、兵隊さん方が言ってたと。「特別なこうおいしいもん食べてんじゃないか」って。なんもみんなとね、同じだけどね。一子さんそう、そう言うんだ。「女の人って」、兵隊さん(が)ね、「特別になんか食べてるんじゃないか」って。なんもあんたね、みんな女の人ね、そんな体型変わらないから。それで兵隊さん方はさ、ご飯少ないのに重労働もいいとこでしょ。疲れるさね。そういう話してた。私が何もあんた、「兵隊さんたちとずっと同じ物食べてたよ」っちゅってね。

Q:でも男の人はやっぱり食べ物が足りなくて苦労したという話。

そうだよね、うん。苦労するさ、もうね。そうだね、お芋なんかね、皮むかないで洗っただけで出るのね。お芋なんかね。すると私が皮むいで食べるでしょ。そしたら兵隊さん方がね、一子さんでないけど、「その皮ね、ください」ってね、そうやって兵隊さん食べてたよって。「えー」ちゅうてね。

Q:ホールに移ってからは、みなさんどういう仕事をさせられたんですか?

私の持ち主はね、私は兵舎の中、だから後は本部よね。みんなあれ、軍隊の掃除かい? 兵舎行って掃除したり、事務所行って掃除したり、(佐々木)一子さんっとこ、(寺崎)ノブちゃん方もね、別れて。一子さんと、ノブちゃんは違う仕事だったのね。違うとこ行ってたって。だからノブちゃん、こんな話聞いたらね、ノブちゃん2人一緒に行ったけど、あの人は裏の方だったの。もう一人は表の方だよね。「行くときは2人一緒に行ったけど、働くとこは全然違うよ」っちゅうて、「あら、知らなかったよ」っちゅうてさ。私はね、もう1人の人と(佐々木一子さん、寺崎のぶ子さん以外の人と)、兵隊さんが、ソ連の兵隊さん方のね、洗濯したり、日本の兵隊さん方も、次あれかい、軍隊服ね、ほころびね、アレしたのね。

Q:直したり?

うん。それと、もう1人のなんていうの、兵隊さんがいてね、手の器用な兵隊さんいるんだわ。軍隊っちゅうところは面白いよ。いろんな人いるからね。日本各国にね、まぁ、その人はね、なんか、ここに、背中に入れ墨してるんだ。だからなんか、なんか後から聞いたら、一子さん、ノブちゃん一回帰ってから、京都で会ったんだって。行かなかったけど。そしてホソイさんっちゅう人ね。やっぱし、なんちゅうんだ、入れ墨なんかしてるからさ、今言うヤクザっちゅうのかい?そんなような、その人もね。そんなおっかないおじさんがいるからね、私2人女の人いてもね、兵隊さん方あまり来ないの。来たら、「この野郎、なに、テメーら」って、脅されるでしょう。だからね、よかったよ。言葉は悪いけどね、いいおじさんだったからね。「おじさん、おじさん」っちてね。ていうかね、暑いからね、入れ墨見えるからね、こう必ずタオルかけて。夏なんかね、アレしてもね、半袖のね、着てやるよ。

それからもうあれだ。夏の暑いときにね、それこそみんなイカダやら流してるけどね、「ここの収容所もさ、水だらけになるね、川になるよ」ちゅうてたのね。「この天気のいいのに」ちゅうたけどね、みるうち、もう水が増えてきて、本当洪水になって、それこそ埋まってきたんだわ。それこそイカダでないとね、歩けなくなったのね。したらね、しばらくしたら今度は、やっぱり日本兵たちが器用な人いるね、ちゃんとそのイカダ、丸太をね、5~6本ちゃんと繋いで、イカダ作ってね、そして晩のご飯かい、ご飯をね、各部屋へ運んでくれたんだわ。笑ったね、笑ったというよりもね。そういうことあったからね。次の日になってもうまた水がサーっと消えたけどね。だから、いやー日本の兵隊さんっち器用な人いるなぁと思ってね。ちゃんとイカダを作ってさ、そしてね、ご飯運んでくれてね。だから私、私の部屋もね、これくらい水浸かったけどね。その後がまた大変だけどね。水害なってね。だからね、もうイカダ流れるともう、川の淵であったからね、その本当、みるみるね、水上がってきてね。しても、そのイカダ流れて終わったらね、スーっと沈んであってね。そういうことあったよ。ホールでね。

Q:前にお話聞いたとき、一回飛び降りたことがあるって・・・?

私かい。作業に行ってね、死んでもいいと思ってね。どこでだったかは知らないけど。いつも中で仕事してるでしょ。そしてたまに外へ行くことになって、どこですね、落ちたら死ぬ・・・やっぱり若いから死ななかったんだわ。足もけがしない、頭にちょこっとね、けがしたのね。したらもう医務室に行ってね。もう大げさ、うんと巻いてちょうだいって。大して痛くないのに。そして包帯巻いてもらってね、そしてね、それはそういうふうにもう、これなったらもう死んでもどうでもいいと思ってね、なんか高いところから落ちたんだわ。不思議やけど、若いね、死なないんだわ。それまた、けがもしないんだわ。頭ちょこっと打っただけだけどね。本当そういうこと一回あったね。あといっつも中にね、仕事してるからね、たまになんかで仕事、外へ出るっちゅことあったんだね。したら、そういうことあったね。

Q:高いところって、どこかの建物ですか?

分かんないわそれ。

Q:忘れちゃって。どうして飛び降りようと思ったんですか?

いやもう、なんか嫌になったからさ。うん。もういい加減嫌になったからもう、あぁ死んでもいいわと思ってね。なんかね。

Q:どうして嫌になったんですかね?

もう、なんかもうね。

Q:やっぱり希望がないっていうか?

そうだね、希望なくなるしね。なんもつまらないもん、毎日ね。

Q:そのころはお父さん、お母さんの心配はしませんでしたか?

あんまり考えなかったね。でも自分の父も母も、21年のね、8月に帰ってきてたっちゅうからね、よかったけどね。私は22年の4月にね、帰ったけどね。

でも帰れるようになって、収容所からさ、ナホトカまで行くのにね、やっぱり歩いて行ったんだよね。あのときもつらかったけどね、他から来た女たちがさ、いや怖いとかってさ、兵隊さんにね、荷物持ってもらったりね、アレして。うちの大隊長は厳しい、「絶対ね、兵隊さんに迷惑かけたらダメだ。」自分の物は自分でね、アレしててもう、みんな6人はもう、歯食いしばってね、そしてね、行ったけどね。ちょっとナホトカに朝のね、2時か3時頃着いたの。そしてまた収容所に入ってね。そのときなんか、ご飯出たのかなんか知らないけど、そういうこともあったしね。

1年8か月ね。

Q:1年8か月で戻って来られて、今振り返ると、ソ連に行ったことをどう思いますか?

どう思うって。まぁ父にね、ついて行っただけやろ。そんなに・・・行ってみただけいいと思うか。後はね、楽しい思い出はなかったけどね。

Q:日本が戦争に負けたから、巻き込まれたようなかたちですよね?

うん、本当に一般の人がね、巻き込まれたのにね。軍隊っちゅうところもね、1か月ちょっといたけどね、もう嫌なとこだっちゅうことだけ分かったけど。戦争ね、やってあんた、一般の人まで巻き込まれてね、嫌だよね。

Q:終戦の直前ですもんね、満州に行ったのは。

ねえ。だからもう、新潟からさ、船で羅津に行くでしょう。それで地雷(機雷)かい?ぶつかるかもしれないからて言われて、あれ、この船がさ、地雷にぶつかったら、いっぺんにやられるなと、まぁいいや、やられたらやられたと思うしね。あのときだって、あの時代だったらもう、死んでもうどうっちゅうことなかった、時代だよね。結構私たちが、いちばん最後だから。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1925年
北海道江別町(現・江別市)に生まれる
1945年
5月、19歳のとき満州(現・中国東北部)へ
 
7月、佳木斯第一陸軍病院に動員される
 
8月、方正で終戦を迎える。シベリア・ハバロフスクへ
1947年
4月、帰国。その後は引揚者援護関係の仕事に勤める

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シベリア(ハバロフスク)

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