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タイトル 「戦死した兄のため志願」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 井上 ともゑさん(シベリア抑留 戦地 シベリア(ハバロフスク) 満州(佳木斯)  収録年月日 2014年6月7日

チャプター

[1] チャプター1 兄の敵討ち  05:49
[2] チャプター2 陸軍病院へ  05:27
[3] チャプター3 患者たちの最期  03:24
[4] チャプター4 南へ  02:20
[5] チャプター5 さらわれた女子  01:44
[6] チャプター6 “護身薬”  03:00
[7] チャプター7 次々に死んでいく日本人抑留者  03:34
[8] チャプター8 故郷へ  03:23
[9] チャプター9 シベリア帰りの苦悩  02:52

提供写真

再生テキスト

小学校出て、2年出て、それで見習いで行って、1年先にお礼奉公して、あと2年で看護学校いって、卒業して、もう卒業したら4月でしたからね、家に帰ろうかなあと思ってたらもうちょっとお礼奉公せなあかんし、言うてたら今度兄が亡くなったっていうもんやから。それやったらとにかく、いっぺん(家に)帰らなあかんと思って、いっぺん家に帰ったんです、そこをやめてね。そうしてるうちに、看護婦やから、村長さんが「来てくれ」っていうたんですけど、卒業したばっかりであんまり何も分かりませんからね、ちょっとそれは村の村長さんのところには行けません言うて、言うてたうちに募集があったから。「ほな、ちょうどそっちに行こか」ということで、試験を受けて。姫路の師団司令部でしたね、あれね。それで行けることになって。

田舎でもそのころ戦争戦争ですからね、19年やからね。ちょうど兄が3人、上、行ってましたからね、私も入れて4人だったんです、軍人関係が。

Q:ご兄弟はもともと何人きょうだい?

7人いてましたね。

Q:女学校行ってるときにお兄さんが兵隊に?

女学校でなくて看護学校行って帰ってからですね。19年に卒業してその年に行きましたから、19年の7月に行きましたからね。

母親もいつも泣いてるし、私なんかちょうど石垣のちょっと高いところに家があるんですよ、そこから島みて、ずっと母親が泣いてたからね、かわいそうやな思って。「私行くわ」って、決めたんです。

それでまあ私も行って、23年に帰ってきたんやから、1年で、陸軍では1年でした。それでまだ1年たってないのに、あれ8月でしたからね、7月やから1年たってましたかね、そしたらもう戦争やっていうことで、逃げないかんということになって。

Q:亡くなったお兄さんのことで、詳しくお聞きしたいんですけど、昭和19年に戦死されたんですか?

戦死ということで通知はあったんですけどね。

Q:もともとはどちらの部隊に?

あれはね、姫路だったと思います、姫路で、南方に行って死んだって聞いてましてね。それで遺骨が帰ってきたら中に石ころ一つ入ってて。がっくりしちゃってね。

Q:これは?

靖国神社です、まつってあるいう意味でね、このときはまだ一等兵やったけど、それはもう3つ星ついてますから、上等兵になってますね。

Q:お兄さんのお名前は?

平田静夫っていうんです、静かの静と夫で、静夫。いちばんいい兄貴でしてね、みんな兄弟でいちばんいい兄貴、ほんま優しくしてもらったって、みんな言ってました。そんな人に限っていちばん先に死んじゃったんです。

22か3(歳)で亡くなってますよね。大正11年(生まれ)やから、23か24で亡くなったんですよね。行って間もなしやったんですよ、これが行くときに、父親が私も一緒につれていったるわ、言うて、あの兵隊に行くときにね。そしたら私の父が、「静夫、前へ行くなよ」って言うたんですね。みんな戦争に行って死んで来ると思うて。前へ行って鉄砲に当たると思うでしょう、「なんでこんなこと私の父言うんかな」思うてね、あとで考えたら鉄砲に当たるから、前いかんと後ろのほうにおって、帰ってこいっていう意味だったんですね。そのころは何も思わず聞いてたんです。なんで前に出るななんて言うんかしらと思ってたら。やっぱりその思いあったんですよね。行って1年もたたなんだと思いますよ、亡くなったのはね。

Q:看護婦の募集があったときに、応じようと思ったのはお母さんを元気づけようという?

それもひとつありましたけど、「私敵討ちに行くわ」言うて、今考えたらバカな話ですよ。女一人何が敵討ちできるのってね。そのころは17ですからね、そのくらいしか思わんかったんですね。若い人は笑うでしょうけどね。いちばんいい兄だっただけに余計にね、私神戸にいてましたし、もうひとつ次の上の兄が神戸にいてましたから、あのどっかその辺に働いてたみたいですね、それがあの現役っていうんか、21になったら検査受けていく、そのクチで行きましたからね。

Q:ちょっと似てらっしゃいますね。

いちばん男前だったんですよ。

Q:男前ですよね。

色白くてね、浴衣なんか着てたの見たらほんまに男前で、みんなに好かれるような人でしたよ、いちばんきれいな顔してました。

Q:陸軍看護婦の募集ってことですよね?

そうです、そうです。姫路の部隊でしたからね。

Q:募集に応じてからはどういうふうに訓練っていうか。

訓練っていうかそこでは全然なしに、何日に船に乗っていきますっていうことで。今思えば、軍の、マツシタっていう人なんですけどね、「そこに集まってください」いうことで集まって、そこからまあ暗くした汽車に乗って、それで玄界灘を越えて行ったわけですね。それから向こうに、満州についても、やっぱり変な、全然見えない汽車で、佳木斯まで行ったわけです。佳木斯に行ったらもうね、立派な陸軍病院だから、きれいなところでしたけどね。

Q:何人くらい一緒に行ったんですかね?

そのときはね、看護婦としては5人くらいですね、あとは軍属、いわゆる慰安婦みたいな人もおったわけですよね、軍属、酒保(売店)っていうところあるんですけどそこにもいっぱいおまんじゅうのようなの売ってましてね、その近くにあったらしくて、そこに行った人もいてるって聞いたけど、まあ会ったことはないんですけどね。二晩か三晩で向こうへ着いてるからね、あんまり全部話してませんけど、看護婦同士話したけど、みなもう亡くなりました。みなお年寄りばっかり。私なんかいちばん若かった、満17歳いうたらね。だからほんとにみんな亡くなってますもん。あの名簿見たかて、ほとんどないです。

Q:5人一緒にいた方は内地で看護婦の教育を?

そうそう、日赤に行ってたり、それから、日赤におった人は2人、姫路におった人が1人と、私みたいな個人から行く人が3人くらいいてましたね。その人はもう一緒に部隊で、宿舎がね、女子寮いうんですかね、そこではだいたい一緒でしたね。

Q:佳木斯についたのが昭和19年の夏ごろですかね?

そうそう、19年の7月。そっから軍隊でずっと、1年くらいおって。

Q:そのあいだはどんな生活だったんですか?

あの看護婦の寮があって。そこに学生が1年と2年とおって、私2年の責任者になってたんですよ。20人いましたかね、かたっぽが。片方側がまた1年生がいましてね。それでその生徒は教育しませんけど、別にみんな部隊、伝染病とか内科と、みな名前で、榛名隊とかね、ああいう名前があったわけで。そこへ皆勤めて毎日行ってました。晩はもう不寝番でね、男の人の兵隊さんと看護婦がおったんか、私は不寝番あんまりしてませんけどね。んで、1年近くおって、終戦になったわけですよね

Q:患者さんは兵隊さんですよね、どんな病気で?

800人くらい、いうてましたけどね。大きな大きなレンガの建物ですよ、今もあるって言ってましたけどね。あれから何回か行った子がおって、ちゃんとあのまま病院あったよって言ってましたね。レンガ建てやからね、ちょっとやそっとじゃ崩れません。その真向いがね、師団司令部だった。だから、爆弾落とされたんです。ほんとは病院は落ちたらあかんのですよね、日赤のでね。だから司令部を目がけて落としたみたいですけど、うちの部隊の防空壕のそばに落ちてきたわけです。

Q:師団司令部、何師団の司令部ですか?

あの辺はね、ちょっとわからないけど、私のところは791部隊って、第一陸軍病院、佳木斯第一陸軍病院が791部隊っていってましたね。それで牡丹江に分院みたいのがあって、そこが792とか、あんなんで、2つしてあとのほうは分かりませんね、秘密のことは教えてくれませんからね、「あなたたちは看護婦やから、兵隊さんだけ見てたらええ」っていう感じですよ、命令やからね。「はい」「はい」いうてね、聞いてましたから。

Q:立場としては軍属になるんですか?

軍属です、完全な軍属です。はい、だからもう兵隊と一緒にずっと行動しました、最後に分かれたんですけどね。女の子150人くらいいましたかね、200人いてたかな?その生徒さんだけでも40人いましたからね。

Q:自分の責任の部下になるんですかね?

いや、それはまた、一緒に住んでたのは学生ばっかり、1年と2年。あとはちょっとした人が責任者、看護婦の免許持ってる人が、責任で、そこの生徒を見てたわけですね。それでまた婦長が内科系と外科系と日赤と婦長さん4人くらいいましたよね。その人の命令一下動きました。

大連、新京(現・長春)、奉天(現・瀋陽)、ハルビン、全部行ってきましたよ、患者さん連れてね。行って間なしに、婦長さんよくしてくれたんやけど、「平田、行っておいで」、いうてね、一週間くらいで順番に、ここの病院はハルビンで、何人置く、ここの大連には何人置くって、ずっと患者護送ってあるんですけどね、それに行ってきた、おかげでね、ハルビン、新京、奉天、大連全部行ってきました、旅順もね、まあ戦後は行ってないですけど。戦争中の話。みなまあ、患者護送いうてね、あるんですよ。次々と良くなった人を別に移すとかね。もう結核で長く入ってる人は、療養所なんかだと空気がいいから、そこにおいていくとかね、そういうのがあった。

Q:患者さんは兵隊さんたち、けがしている人なんかは、どういうけがが多いですかね?

やっぱりあちこちいって、爆弾が落ちたりのあれもあるでしょうけど、けがっていうより、私たちのはどちらかいうと、内科系、17~18の男の子、少年航空兵、ああいう人たちが多かった、私の勤めてる内科ではね。もうきれいないいとこの、あの時分の中学行く人はみな金持ちですからね、あまり苦労もしてなくて、食べ物もいいし空気のいいところに住んでいて、いっぺんにあっちにいったもんやから、結核が多くてね。私らまだ若かったけど、ちょっと年いった人はお母さんみたいに手を握ってね、ずっと話してくれってよ、で最後にその部隊ほってほっといて行くときに、「お母さん」言うて注射して死んでましたからね、かわいそうに。ほんまに今思うたらね、自分の子ども男の子やけど、男の子はもっと気になるんですよ。もうこれに乗ったら帰ってこられんの分かっててもみなそれに乗って、死んできたわけやからね。鹿児島のなんですかね?

Q:知覧とか

そうそう、知覧知覧。そこからね、出てますね。その子たちがあの辺の、大きな陸軍病院でしたから、けがした人なんか、病気やなんかは全部その佳木斯の陸軍病院に来てました。かわいそうでしたよ、ほんまにね、担架に乗せて、壕(ごう)のなかに置いて来て。私それ見ただけで怖くてね。最後はね注射で殺してしまう、ものの10分もせんうちに亡くなる、もう、静注するんですよ。皮下はね、痛み止めとかあんなん効くんだけど、静注したら10分もしたら死ぬの。まだそのころ17だからね、私も、免許取りたてだからあまり詳しいこと知らないでしょ、何でも「はいはい」って聞いてね、「どないするんですか」って聞いたら、「ほうっておいたら雨降って水たまってそれでしまい違う?」って看護師さんがいうんですよね、その先輩の看護師さんが。「ああそうですか」言うて。なんか自分の兄弟も行ってるからね、そんなん気になってね。

Q:それは静脈注射ですか?

そう、静脈注射したら一発ですわ。皮下に痛み止めでよく使ってたんで、今もまあよく使いますけどね、静注したらもう、一発です。

Q:看護婦さんがやらされるんですね。

そうです。

Q:衛生兵でなくて。

衛生兵もするし、看護婦もする。なんせもういっぺんに逃げなあかんのやからね。800人くらいおったんちゃいますかね、あの佳木斯の病院に。だからね、だいぶ別れてて、レンガの建物があってね、それぞれ分かれてたから、みんなでしたと思いますよ。私はまだ行って間なしやからね、そんなことはさせられんかったけどね。いちばん下の、年がね、いちばん若かったから。

Q:先輩方がやる。

そうそうそう。私らはもう「担架持ちなさい」言うたら持つくらいのことで。小さいしな、そのころ。まだ体も小さいし。そういう能力もなかったからね、そういうのもしなかったですけど。先輩に聞くと、ほんとにね、かわいそうでね。

Q:爆弾が落ちて・・・

落ちて。いよいよダメやなあいうて、すぐにだったか分からないけど、トラックで行ったんでしょうね。船に乗って行ったからね、最初ね。それで方正に行ったんかな、方正が先でそれから船に乗って、松花江下ったと思いますね。

Q:みなさんもうそのとき軍装して?

もうリュックの大きいの下げて、帽子かぶって、もう頭全部毛切れてるから毛ないからね、べらべらの日よけみたいなん着いててね、でここに、腕章に、赤十字の腕章つけて軍服着て、軍靴、あの脚絆(きゃはん)巻いて、ほんで歩いたんですよ、とっとことっとこ。歩かな捕まるからね。嫌でも歩かなしゃあなかった。

Q:腕章っていうのは何のためにつけるんですか?

赤十字だから変なことせんようにっていうんで。全部こう赤十字の腕章ね、軍服の上に巻いてました。みなそんな写真は、その時分は写真撮ってないからね、ないですけど。それでもう女の子ばっかりね、男の人は全然一緒やなかったですね、そのころはね。着いてから男の人、兵隊さんたくさんおりましたけどね、行動は女の子ばっかり150人かね、もっと200人おったかも分からんけど。軍属だけで150人いうたかな、で、私たちは100人ちょっと、150人もおらんかったんかな。看護婦はね。日赤さんは全部、掌握してはるからね。陸軍のほうは日赤ほどきちっとまとまってないから。日赤さん一人病気で帰ったらすぐ送ってくるんですよ、違う人をね。陸軍は帰ったらそれでしまいですからね。途中で帰った子もいます、病気になってね。

Q:赤十字のあれを巻いて、あるわけですよね、国際的な規則。

そうそうそう、規則、病院船は撃ったらいかんとかね、そういう規則あるらしいですよ。だから全部十文字の白いこれくらいの幅でね、白に赤十字をぽっとつけたのをね、全部はめてました。そうせんと何されるか分からへんでしょう。

そのころ私ら、なんせついていくだけが精いっぱいやから。サワイさんのお友達の妹さんが連れていかれたんやね、あれね。

私よりまだ3つか4つ上でしたからね、たぶん病気かなんかやと思いますよ。何回も行きはったよ、ソ連へね。私の友達も一緒に行ってきたけど、「結局分からんぞくやった」って言ってましたから。まあ分かるわけないわね、何にも、その後ろのほうの人を、引っ張っていったんやからね。私も知らんかったんですよ、なんやわーわー言うてんなあと思ったけど、何のことか分からへん。着いてから、宿舎に着いてから分かったんですけどね。その上田さんっていう子も私らあんまり、軍属の子やから知らないんです、直接関係ないからね、軍属さんは。終戦になってから一緒にしましたけど、それまではもう、看護婦と軍属と生徒っていうのはほとんど別でしたからね。

Q:宿舎に着いたときに、騒いでたんですね。

宿舎着くまで歩いてるとき、後ろのほうでびっくりして「きゃー」って言うたんやと思いますわ。何のことか分かれへんし、宿舎に着いてから、着いてすぐじゃなかったけど、着いてから「上田さんが連れていかれたみたいよ」っていう話でね。私、上田さんてどんな子かも知らなかったんですけど。、軍属の子が軍属さんもやっぱり集められてる人ばっかりやから、親しい人ってあんまりいないんですよね。そうらしいよって。かわいそうねってくらいですんでましたからね。

怖かったですよ、ほんまにもう、私らほんとに生きて帰れるかしらと思うくらい怖かったですけどね。まあだんだん日にち慣れてきて、最後1年過ぎてからはほとんど病院勤務でしたからね。そんなには思わんかったけど。最初ほんとに落ち着くまで怖かったですね。痩せる思い、死ぬ思いやったもんね、だから飲みなさいっていって、ちゃんとあれ、青酸カリ持ってたからね。コンドウさんは飲みましたけど。

Q:配られたときはどんなふうに配られたんですか?

いやあの、「辱めを受けたらあかん」って、これくらいの瓶でしたね、ふたがついて、半分くらいカラカラみたいな、寒天みたいのが入ってましたね、確かそうやと思う、それで「辱められるのはあかんからそうなったときはこれ飲んで死になさい」って、みんな軍服の内ポッケに入ってたんですよ。それでその、コンドウさんが飲んだから、全部引き上げられたんですよ、また飲まれたら困ると思って。まあ助かりましたけどね。コンドウさんっていうのは。もう臭くてね、薬のにおいがなんともいえんひどかったですよ、私の班の子やったからね、私も行ってみたら、もう臭くて、顔がパンパンに腫れてね、よう生きてたなと思いますけどね。

Q:青酸カリ配られるっていうのもね。

あれもつらかったですけどね、まあその時分はとにかく、ロシア人に、あれされたら恥ずかしいから、いつでも持ってたらいいんやからって感じやったからね。ずっと肌身離さず内ポケットに入ってました。

Q:護身薬とかって言い方ありますよね。

そうです、護身です。身を守るための薬ですよね、万一のときは飲みなさいと。青酸カリ怖いの私知ってたからね。いやーえらいことやなと思ってね。口では言われへんし。「はいはい」ってまあ、やってきたんですけど。

Q:寒天が入ってるもんなんですね。

寒天みたいな、水じゃあなかったと思いますけど、それに水入れて飲めだったんかも分かりませんけど。スカスカのやつだったと思います。半分くらい入ってましたけど、水入れだったらもう、危ないですよね、ポイポイ揺れるから。寒天か、乾燥するやつね、今でも売ってますけど、あんな感じでしたけど。スカスカの。

Q:何のために入ってるんですかね?

その死ぬために持たすために入れたんでしょう、瓶にね、青酸カリを。そのまま食べられる飲められる、ちゃっと水かなんか入れてたんじゃないかなと思いますけど。自分でじっくり見たことない、怖いばっかりやからね。誰も見た人いません、自分のここに入ってる、ここに入ってるよいうことでね。自分のはおそらく怖くて見てなかったと思います。

Q:護身薬だけど怖いんですよね。

怖いですよ、もう飲んだらそれでしまいやからね、「いつ飲むのかな、いつ飲むのかな」って思って、そればっかり気にして。

順番に分かれていったからね、私は第2回目で、第1回目の人は5人か6人だったと思う、その次私が20人連れて出ていったから、あんまりそこのことは詳しいことも知らんけど、この20人のことについてはね、大概何でも分かっていましたけどね。

兵隊さんで病院で亡くなった人なんか、冬やったらどこも持って行かれへん、カランカランやから、いちばん上の4階のね、屋根裏にほってあったんですよ。少しましになったらそれを担いでいって、もうどうしてもたまらんってなったら連れて行って、カンカチコ(凍りついて)でそこらへほってあるんですね。それでちょっと雪が溶けてから埋めるっていうような感じでね。兵隊さんも栄養失調でだいぶ死にましたから。

Q:石切り山のときですね。

そうそうそう。たくさん死にました。病院来てからでもね、ザビタヤ(現・ザビチンスク)いうところおったんですけど、そこでだいぶ死にましたからね。「あ、今日も亡くなったみたいよ、死んだみたいよ」言うて、「どうしたの」言うて、「4階の上に置いてあるよ」って。

そりゃいろいろあったとは思うんだけど、あんまり私らも気に、まだね、17~18やから、そんだけ詳しくあれしてないんですけどね。怖かったんだけは覚えてますね。

Q:どういうところがいちばん怖かったんですかね?

ソ連入ってからが怖いですよね、何されるかな思ってね。言葉が通じるようになってからね、そんなに怖くなかったですけど。何されるか分からんとか初めから聞いてるからね。「ソ連入ったら何されるか。だからこれ飲んで死になさい」ってことだったから。怖かったです、ほんとに怖かったです。そこのザビタヤに行っても兵隊さんそばにおるからよかったけど、なんかあったらいいなさいっていうようなことになってたからね。

Q:石切り山のときに義勇隊の男の子で脱走しようとして・・・

そうそうそう。その子は私たちのその、病院は佳院会っていうんですよね、この、戦友会がね。こっちはなんだったかな、今出てこない。

Q:十分所の会ですか?

そうそう、十分所の会にもその人のおった話がきました。「友達がそんなんしたんや」言うてね。話でてましたけどね。戦友会にいかんとそういう話聞けませんもん。

Q:現場っていうか射殺されたことはご存じじゃなかったですか?

私知らんかったです、帰ってからみんな聞いたんです、戦友会に行ってね。うちのすぐ近くにもね、阪神の責任者してる、・・やさんで、えっとね、タニ何とかいうんですけど、その人からはよう話ききました。義勇隊でしたからね、その人。怖い目にあったいうことも聞きましたけど、向こうではあんまりそういう話、しませんからね、怖いから、怖い話は。帰ってきてから聞いたんです、それは。

Q:向こうではあんまりそういう話しはしないんですね。

しないですよ、怖いですもん、したら。どないして明日ご飯食べるかな、どないして元気で帰るかなっていうようなことばっかりでしたからね。歯は磨かれへんし、お風呂は入いられへんし、お風呂の中、水をかい出すだけですから、中に入れないんですよ。それも週に1回か2回ね、あれがつらかったですね、歯が磨けない。おかげでお化粧してないから全然ね、肌はあんまり荒れてない、普通の人みたいにね。歯はやっぱり早く悪くなりました、磨いてないからね。

「よう生きて帰ってきたな」と、みんな泣いたもんね。「ほんとに帰ってきたん」言うてね、体触ってね。いちばん上の兄貴が自転車で迎えに来て、自転車でね、一時間くらいかかったんかね。バスもないし、何もないから、乗せて帰ってくれたんですよね。海軍に行ってた兄ですわ。

Q:やっぱり三年も帰ってこなかったら。

そうですよね、ほんとよう帰ってきたな、女の人で帰ってこん人おるっていうけど、それは私あんまり知らないんです、軍隊のことしかね。普通の人の兵隊さんの、引き揚げ者のことはね。だから軍属の人の家族は引き揚げ者で帰ってきて、家のない人、親のない人もいましたけどね。いろいろあったけど、ほんとによう生きて帰ってきて、しかも88まで生きてて、ちょこちょこ自分で出られる人、少ないみたいですよ。

シベリアから帰ってきたのもみんな嫌がるもんね、はじめは赤、赤、言われてたしね。それ言われんの嫌やからね。日赤の人やったら問題なく帰って働けたでしょうけどね、ほかの人はなかなか皆苦労したみたいですよ。就職するのにね。

Q:やっぱり赤とかいわれるんですか?

言われましたよ。新聞に載ってはっきりと書いてありましたからね。

Q:自分ではなにも赤くなってなくても。

そうですね、自分ではそう思ってないけど、私の場合は1~2回「しゃべってくれ」言われて、ナホトカでしゃべったことあります。そんときはその赤とは言わんけども、悪くは言われないわね、ソ連のことを。おるんやからね。そのほかはないからね。まあ今は何ともないし、しばらくは、就職してからはなんともなかったですけど。

Q:ナホトカでみんなの前でしゃべる。

そうそうそう、帰る人を前に置いてね。しゃべるのは慣れてるんだけど、でもやっぱり帰ってきて看護婦協会の会長もしてたから、まあ会のときに、発表会のときにしゃべらされたから、しゃべるのはなんともないんですけど。まあ、へたくそなんかでもね、しゃべってたけど。

Q:ナホトカで民主教育とかそういうのありますよね。

教育はなかったですけど。自然としゃべれ言われたらそんなにソ連のこと、悪く言えないし、だからまあそういう意味の話はしなあかんかったですよ。だから知ってる人がおって、「平田さん、なんかそこで話してたん違う」って、「ああ、1~2回あるね」って言ったら、「やっぱそうやったな」って言う人いましたからね。

Q:男の方で。

もちろん兵隊さんの前ばっかり。女の子はもうその時分帰ってこなかったからね。先にみんな帰ってますから。私がいちばん遅くて23年、引き揚げ者の人はもっと遅いけど、復員したのは私いちばん最後だったと思います。

Q:女の子では。

はい、23年のね、6月かな、帰ってきたのが。

やっぱり腹が立ちましたよ、こんなこと書いてって思ってね。腹立って。読んだのは読みましたわ、だけどそれどこいったか、何新聞だったか覚えてませんけどね。

そうそう、口もきいたことないのにね、帰ってきたのだけは分かったんでしょうね、新聞にまあ今度帰るっていうのが出ますからね、それで書いたんやと思いますけど。23年ですからね、もうそれこそ、65年ほど前の話ですもんね。

Q:ナホトカで話したのを過大解釈っていうか?

かも分からないけど、詳しくは書いてなかったけど、しゃべらなかったとか、無言のままやったとか、書いてあったんですね。赤に染められて帰ってきたようなことが書いてあったんです。みんなほんとに、しばらく仕事困ってました、男の人でも皆ね。なくてね、赤は使わないっていうことでね。

Q:帰ってきて就職で苦労されたんですか?

苦労もなんも、どこいこうかなって履歴書書いてもあてもないし、ちょうど兄がね、琵琶湖のね橋、真ん中に橋があります、その裏に名前かいてあるんですけど、川崎重工のちょっとえらいさんになってたんですよね。それでその診療所の婦長さんに頼んで、それで入れてくれたんです。その婦長さん、ヤノさんいう人でしたけど、もういてはれへんわ、その時分もう45~46でしたからね、私は帰ってきたのが21かね、22かな。2年生まれやからね、23年に帰ってるから。帰ってきてからはだいたい覚えてますけどね。

昭和、あれが20年でしょ、終戦したのがね。だから70年てことは、90年か、昭和でいうたらね。そういうたら私ら2年引いたらええんやから、ね。すぐ年が分かるけど。もう70なるかなと思ってテレビ聞いてましたけど。まあしかし戦争なんかほんまに困りますわ。みんなが困るからね、1人2人やなくてね、みんなが困る。だからうちの家に刀もあったんですよ、みな出したって言うてましたからね。戦争中にね、火鉢のいいのもあったけど、それもみな、金系全部出したんですよ、お寺の鐘まで出したからね、それでも満足してもらえなかったから、それで負けたんやからね。もういやですね。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1927年
兵庫県に生まれる
1943年
看護学校を卒業した後、陸軍看護婦に志願
1944年
満州(現・中国東北部)の佳木斯第一陸軍病院へ
1945年
方正で終戦を迎える。シベリア・ハバロフスクからザビタヤ(現・ザビチンスク)、ナホトカへ
1948年
夏、帰国。その後は看護婦として働く

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