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タイトル 「行き違いだった父との別れ」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 佐々木 一子さん(シベリア抑留 戦地 シベリア(ハバロフスク) 満州(佳木斯)  収録年月日 2014年5月29日

チャプター

[1] チャプター1 見習い看護婦  04:50
[2] チャプター2 ソ連軍の侵攻  03:21
[3] チャプター3 父との別れ  06:48
[4] チャプター4 逃避行  06:42
[5] チャプター5 ソ連兵におびえながら  02:36
[6] チャプター6 ホールの収容所へ  06:02
[7] チャプター7 次々死んでいった日本人抑留者たち  02:31
[8] チャプター8 ロシア人との間に生まれた友情  04:49
[9] チャプター9 木々あふれる舞鶴へ  03:31
[10] チャプター10 父の慰霊  04:25

提供写真

再生テキスト

Q:どれが一子さんですか?

これです。母と父と、あとこの方は・・・こちらの親戚の娘さんだとかっていう話だけど。これ一緒にやったから。ちょうど宮城県・・・やっぱりこの近くから開拓団に行っている人だったんだね。その人が訪ねてきて、一緒に写真を撮ったっていう感じ。

Q:5人兄弟で?

5人兄弟・・・そのほかに、ここにも書いたけど、この人の下に1人あったのね。2人って言っても、2人あったんだけど、1人が・・・避難中に新京(現・長春)っていう所の日本人学校の体育館、皆あちこちから、そこ中央だから集まって、避難していたんですって。それで、5歳以下の子どもはそこで皆亡くなったの。私一緒でなかったけど。私はあくまでも別行動だったけどね。この妹が言うんですよ。亡くなって、そして今度は日本に帰っ・・・そのときはうちの母がまだ若くて、お腹に赤ちゃんがいたんだって。そして、それを抱えて、新京の方まで行ったんだけどね、とうとうその小さい・・その後に、その避難所で生まれたんですって。その子ども。男の子だったんだって。それが、日本に帰ってきて、九州の博多かな、その辺に入港したらしいんだけど、日本の陸に着いた途端に亡くなった。だから、私会ってないの、その子どもとは。母もその後亡くなったしね。父も亡くなってるし。

父も営林署に勤めてたの。営林署って官庁なんですけどね。そして、家族が今度、日本人官舎っていうのがずっと並んであるからね。町にもね。それで、宿所をあてがわれたんでないですか。家族を連れて来たっていうことになったらね。そして、「じゃあ娘も連れてこいよ」って所長が言ったんだって。それで、私その営林署にそのまま勤めたの。そして私も何だかタイピストっていう、父が女の仕事とってもそれがいいから、それを習ってこいっていう話あったったんだね。だから、すぐに文書課に勤めたんですよ。そして、何年たったんだろうね、2~3年たってからだと思うんだけど、軍の方で・・・

ここで言えば県庁ですけど、省公署って言うんだけど・・・

Q:三江省(現・黒竜江省北東部)の?

三江省省公署っていうの。そこの所に転勤させられたの。そして、私もそこに行って、まだその職場にも慣れないころなんだけど、軍の方から、看護婦が足りないから、各職場の健康な娘たちを召集したいっていうお話が来たんですって。そして私もそれに、ちゃんと名指しできているから、私一人で志願する意味でなくてね、やっぱりその前に調べたんだね。家族がいるかとか、健康な子どもであるかとかって、きっと調べたんだろうと思うんだけど、そんな事でただ名指しで課長の前に呼ばれて皆その人たちが。そして、「こういうことが起きたんだけど、行くか」っていうような話が来て。そのころは、もう愛国心に燃えていたんだね。やっぱり、「お国のためだもんで行きます」って皆そうして・・・。指さされた人たちが、全部行ったんですよ。

私がちょうど1時間交代で、不寝番に立つって、自分たちの宿舎のね。そのときに、この本にも書いたけれども、ブーンって夜中に飛行機の音がして、「あら、日本軍なんだろうな」ぐらいは思ってたのね。そしたら、急にドカーンと爆弾落ちたの。

それで、あれしたんだね、やっぱり・・・。不寝番で立っていたときに、ちょうど爆弾が落ちたの。それまではロシアの飛行機がまだ来ていなかったんですよ。だから、まさかねロシア(ソ連)と開戦していなかったっていうこともあるよね。だから、びっくりしてしまって、「班長殿、班長殿」とか何とかって、私騒ぎ立てていったんだけれどもね。そしたら「落ち着いて、落ち着いて」って言われて。そして、夜明けに部隊長が来て。緊急な事態が起きたっていう話でね。うちに帰って行って、皆、今日は一応それぞれの家に帰って行って、そして親と面会して、「それで是非君たちを必要として召集したんであるから」とか何とかって立派なことを言ってね。それで、「できることなら帰ってきてほしい」って。それで「どうしても家族と避難しなくてはならないって、家族の方がそういうふうな話し方だったら、家族と一緒に避難するように」っていうお話で、友達と連れ立って、うちに帰って行ったんですよ。そのときには父がいなかったの。自分も職場の方に行っててね、あれだったんだ。だけど、時間、「夕方6時までにまた集合するように」っていう話をもらって来たから、そのまま、後、あれして・・・。

Q:部隊長から、そういう立派なお話があったときに、家族と一緒にいてもいいし、なるべく帰ってきてほしいという話?

そうそう、そういうお話だったの。だから、まだ若いものだから、まさかこういうふうな事態になるとは思わないからね。だけど、そのときに150名・・・。150名だったかな・・・3×5=15で・・・。半分は家族とともに避難したようですね。そして、その後の半分が私たち。

Q:半分くらいに分かれたんですね?

そうですね。

Q:部隊長の話を聞いたとき、一子さんとしてはどういう気持ちで?

戻ってこようと思ったの。まさかこういうことになるとは思わないからね。

父は、これに書いたとおり、私のことを心配して、軍の方に面会に。私が面会、うちに一時、何時間っていう時間だったけど、帰ったときには父もいなかったから、私そのまま軍の方に戻って行ったら、来たったのにお父さんいなかったからっていう話が起きたらしくて、いざ避難しなくちゃならないっていうときに、父が部隊の方に来たんですって。

そのとき、私たち装具を背負わされて営庭の中をどの程度歩けるかっていう訓練をしているときだったの。それなのに、そんなことで、大した軍律が厳しい訳でもないのに、会わせてくれなかったんだね。営門の兵隊さんが。

Q:営門の人?

そして、私たちがその訓練が終わって、それぞれ自分の席に戻ったときに、「佐藤一子さんっておりますか」っていうから、「はい」って言ってたら、「今、お父さんっていう方が見えて、会いたいっていうもんだから」って。「今、軍内は混雑しているから、会うことができません」って言った。そのまま帰してしまったのね。その帰って行った避難所のとこ・・・うちの父も、佳木斯(ジャムス)っていう街なんだけど、避難所の・・・駅のホームに、もう最後の列車が来るから、皆ここで待機しているようにって、皆ホームのところにいたのに、父が離れて私のところに来たでしょう。戻っていったときには、もう汽車がたってしまった後だった。それで亡くなったんだね。結局はそうなってしまって。

Q:詳しいことは分からない?

ええ、分からない。どこで亡くなったか。そして、母がその汽車に乗るときに、「今、主人がすぐに戻ってきますから」って頼んだんだけど、もうこの汽車は最後の列車だから、男は何としてでも後から追いつくからっていうあれで、乗せられてしまったのね。そして、それからどの位たったんだか、随分たってのことだけど、新京の方で、その避難所に、学校の体育館の中で皆あちこちから集まって避難してるでしょう。その人の所に母たちもいたんだけどもね、何か中をずっとのぞく男の人がいるんだって。中国人の格好をして、何だかその辺のわらだか草だかを抱え込んで、そんなしてよく歩くんですよ。中国人の人たちね。そして、こっちをいつもこうして見ている。そんな人が何人もあったんだって。したら、その避難所の中の奥さんたちが、「あの人何だかこっちばっかり見てるよ」なんて言っているうちに、「あ、お父さんだ」って再会する家族もいたそうです。だから、うちの父もそうなって来てくれればって思って、うんと待ったけど、来なかったって。

Q:営門の人が会わせてくれれば。

だからね、そんな軍律って言ったって、大したあれでもないのにね、どうして会わせてくれなかったんだって。もう、その手帳の、これぐらいの紙に、紙を一枚破って、そしてこういう所に避難するって書いたのが、「じゃあ、これを渡してくれ」って置いて行ったんだけど、私はそれを後生大事に、本当に、持っていたのよ。帰ってくるまでね。そしたら、やっぱり、日本文字書いた紙きれを持ったら、スパイとみなされるから、そんなものを持たないようにって日本に近くなったときに、そう言われて、とうとう捨ててしまいました。

Q:ソ連にいるとき?

そう。

Q:ソ連のどこでですか?

ウラジオストクって、日本海側のあっち側の港あるでしょう?その辺まで来てからだね。ウラジオストクから船に乗ったんだからね。

Q:船に乗る前に処分するように?

そんなようなことを言われてね、捨ててしまったの。

Q:何て書いてあった?

ただ、佳木斯っていう街があって、その少し離れたとこに、弥栄っていう・・・これ日本名のようだけど、弥栄っていう開拓団が入っていたんですよ。そこで、この気仙沼から行った開拓団の人が、一家がここに暮らしていたんだって。それで、私たちは行ったことないんだけど、父だけ、休みの日なんか、そこによく行ってね、そして後、野菜もらって来たとかなんかっていろんなお話してたんですけど、その人のとこに行こうと思ったんだけど、今、後から考えてみると、こっちからこう・・・ロシアの方がこっちに近いんですよ。ここにね。だから、そこに行ったところでかえって危険だったのかもしれないんだけど、そのあれ分からないからね。どっちから攻めてくるか分からないから。

Q:混乱しているから。

うん。本当にね、それがいちばんつらいね、私には。

Q:お父さんからすると、娘が軍と行動するから最後にっていうか、一言挨拶しようと。

会いたいと思ったんじゃない?自分も、私が帰っていったときにいなかったからね。そのまま命を落とさせてしまって。どこでどう亡くなったか・・・。まあ、結局今度は中国人も日本人に何だかかき回されているような・・・簡単に語ればね。だから、あれなんだよね。反感を持ったんだよね、日本が負けたとなったら。だからどういうふうな危害を加えられたかは分からないんだけれども。

集合してから、もうロシア(ソ連)が参戦してしまったから、もうこんなことしてられないって軍の方でも思ったのかもしれないけれどもね、それっきり、後は・・・すぐにって言ってもいいくらい、陸軍病院の宿舎にはいなかったね。すぐに出発した。その爆弾を落とされた直後ね。

Q:みなさん格好もなにか、軍服を支給されたんですよね?

そう。男物を全部着せられて、靴も全部男物のひものついた編み上げみたいな靴を履いて。私は体格がよかったからいいんだけど、小柄な人たちなんかは足の先がこんなに余ってしまって、おかしな格好でね。でも、仕方ないから、皆そんなんして行ったんですけども。いよいよもって、隊を出発するって言うときに、全部装具つけて、渡されて、みんな男物ばっかりでしょう? それも仕方ないから、そういうふうなのを、用意してもらったのをいただいてから、それから夜中にも何だか心配で、胸がドキドキするしね、髪も長くて駄目だし、どうしようっていつまでも宿舎の中で準備に苦労してたのね。

兵隊さんに、見回りの下士官っていうんだろうか、そういう人たちに、「明かりが漏れている。早く休め」って大きな声で廊下で怒ってるんだっけね。そんなこんなあったけれども。

Q:消灯しなさいと?

消灯してっていう話はあったんだけれどもね。それから後は、いよいよ出発だって皆で整列して、次の日は。高台にあった・・・部隊が高台にあったんだけど、そこからずっと下がってきて、ずっと高台の下を通るときには、もう部隊爆発してしまってるの。大きな音でね、ドカーンドカーンとね、何も残さないようにしたんでないでしょうかね。そのままずっと・・・松花江って大きな川が流れているんですよ。ロシアの方から・・・中国の方の高い方から来る・・・ロシアに行くには、この下りの川なんだけど、結局、私たちはその佳木斯の街から船に乗せられて、そしてずっと上るように、船で。その船も、この川も大きい川だから、客船だけれども、すごい大きな立派な客船走ってたの。

そこに、どこまで行くんだか分からないけれども、私たちは連れて行かれるとおりに乗って行ったんだけどね。そしたら、一か所、どこだか、私たちも地名も何も分からなくて、船が止まってしまって、そこで下船しなくちゃならないっていう話が起きたために、皆降ろされたの。そして、しばらく歩いて行ったところが、またそこに日本軍の古い宿舎みたいなところがあって、そこに皆一旦おさまったのね。

知らされてね。「日本が負けたんだって」って言って。「どうするんだろうね」って。また元来た道を、また佳木斯に戻されて・・・佳木斯っていう街から行ったんだけど、戻されて。船で、またね。そこで・・・でもあまり外出できないから、あてがわれた宿舎の中にしかいないし、自分たちの住まいしか・・・。うちには行ってみたくても、行かれなかったからね、行かなかったんだけど。

そうそう、方正っていう所で、あそこまで歩いて行ったんだけどね、途中も、もう疲れてしまって。遠いんだから。距離的にね。それで、私たちは本当に最低のものを持ってだけど、正規の看護婦さんっていう人たちは内地からいろんなきれいな着物も持ってきてただろうし、そういうふうなのをみんな捨てたようだね。その辺の土手に。私たちは捨てるものがないから、何も持たなかったけどもね。

ロシアが参戦したっていうときに、そういうふうな青酸カリを渡されたの。「万一のときがあったら、日本女性の恥をさらしてならない」って。この位の瓶だったけどね。それをポケットにみんな入れてたんだね。それだけども、今度はロシアがどんどん追いかけてくるように・・・。開戦になったためにね、ロシアの方も。何だか、私たちは、ロシアの兵隊が、兵隊と何か将校って言うんだかが来るからね、その宿舎にね。それがおっかなくてね。やっぱり、人相も違うでしょう?外人の顔だしね。おっかなくて、おっかなくて、皆で、スズメだかヒヨコがあれしたみたいにね、隅っこにこんなになってね。来たとなるとね。隠れてたんだよ。でも、何も悪いことはしなかったんだけど、やっぱり何だか、その体格のいい、軍服着た立派なスタイルで来るから、おっかなくて、おっかなくてね。ヒヨコだか何かみたいに、部屋の隅っこにみんな縮まっていたものだったね。

Q:本当に危ない。何されるか分からない。

何される分からないけど、やっぱりあっちだったっていろいろと規則があるだろうけどもね。夜間でないから。ただ怖いことばっかり頭に置いてね、隠れてたんだね。それから後は、また出発で。

それがね、脅かしみたいに奇声を上げて、ジープで追いかけてくるんですよ。私たちが歩いているところを。そうすると、何をされるか、おっかなくておっかなくてね、捕まったら大変と思ってね、こっちも大騒ぎで逃げて歩いたね。でも、やっぱり捕まったっていうことは、一人だけが捕まったらしいんだけど、それほどひどいことをやった訳でないようなんだけれどもね。ただ、私たち、恐怖心がいっぱいで、ただ逃げて歩いて。そして畑のほうに・・・こう、細い、本当にこの道路よりも半分ぐらいの細い道路なんだから。みんな草がぼうぼう生えていてね。そして、畑がずーっと広くある所だったし、中国人の人家もあんまり見かけなかったけど。それで、そこの所を歩いているうちに、そのジープが私たちの後ろにサーっと勢いよく来るからね、みんな何されるか分からないと思って、その畑に逃げ込むのよ。そうして、「どうしよう、困ったね」。青酸カリを持っていたけれども、「これを飲もうか」って言って。誰も勇気ないの。飲む勇気ないのよ。そうしているうちに、奥田少尉っていって、私の隊列を行ったり来たり、いつも警護をしてくれた奥田少尉がね、「もう大丈夫だ。戻ってこい」って叫んで。そして、はぁって思って、ようやく胸をなで下ろしたような気持ちで、隊列にまた戻って、歩き出したけどね。そんなことあったね。

Q:日本の将校も引率して?

うん、歩いているの。

Q:女子だけで行動したら危ない。

危ないからね。

Q:一人いなくなって・・・。

その人が、そのロシアのジープに捕まったっていう話は聞いたんだけど、考えてみると、私たち同じ職場にいた人だなと思ったのね。だけど、それが顔見知り・・・あんまりお話したことがない人だったからね。顔だけは覚えてたのよ。

Q:そのときはどういう気持ちなんですか? ソ連に連れて行かれたっていう。

本当にどうしようもない。私、自由行動とったって、どうにもならないしね。大きな大陸の中でね、ポツンと一人で暮らすこともできないから、結局連れて行かれたとおりのように行ったんでないだろうかね。

Q:捕虜っていうことですよね。

そうそう。そこで、完全に捕虜という形になって。本当に・・・。

Q:最初は、日本の将校さんたちや部隊長とかは同じ所にいたんですよね?

ええ。だけど、だんだんに、一緒に最初はいたけども、だんだんとこういうふうに分かれていって、ずっとシベリアの国境って言ったら、ここが満州とシベリアの国境線だとすると、この所をずっとウラジオストクに下がったことになるけどね。だけどやっぱり同じ人っていうことでもない。そのあれによって変わっていったね。移って行ったでしょう? 皆、ひとまとめになって、ただ、こう指さされた人がひとまとめになって、出発して行ったんだから。どこに連れて行かれたかは分からないんだけど。それが心配で心配で、みんなで騒いで、泣いたり騒いだりしたんだけれどもね。そして、また次しばらくすると、またそのソ連兵が来てね、また何人か指差しして、その今指を差された人は出発だっていうことになって、それを何回も繰り返したからね。同じ人の所の、例えば部隊長は同じ人の所にいるって言うことはなかったね。

「元気でね、元気でね。」今でも、面影覚えてるね。こっちの収容所内にいる人たちもだし、出ていく人たちも振り返り振り返り、「元気でねー、元気でねー」って。まだそれも22~23だもの。そのころの年が。本当にそうやって別れていったんだね。だから、その人が一体どこまでどういうふうに行ったんだか分からない。最終的に私は、またそういうふうにされて、別れた人たちと・・・今度指差された人たちと行ったんですよ。汽車に乗せられて。それで、どこに行くんだか全然見当もつかなかったけれども、汽車が夜行の汽車だったな。夜の。それで、しばらくたってから、停車したところで降ろされて、そして、何て言う駅だかも全然頭にないからね、分からないからね。

そのときにだから20人か十何人か・・・まあ、約20人位だったと思うんだけど。それで、夜中みたいな、真っ暗なところに着いて、それでまずは懐中電灯みたいなので足元を照らしてもらったけれども、しばらくこうして建物のある所に連れて行かれたの。そして、そこで、そのロシアの係が何人かずつに分けて、そしてここの・・・そこはホールっていう地区だったんだね・・・後で、最後になって分かったんだけど。ホール地区の山の方にまた小さい収容所が何か所かあったらしいんだけど、そこのところに分かれて、私たち6人はこのホールのいちばん大きな収容所に置かれたわけ。

だから、後のこの人たちもどういうふうにしてその後生活したかは全然分からないんだけどね。私はその大きい収容所に置かれたときに、そのオガワ大隊長っていう人が、とっても立派な人で。そして、最初は兵舎がこういうふうにあるんですよ。離れているけど。一つずつ、こうね。そして、その一か所の所に、女の子をここに住まわせるっていうふうにしたんだけども、大隊長があれだって・・・。

あそこはロシア兵も見回りだなんてそんな口実で来るし、後、日本兵だったって何をするか分からないから、あそこは危険だっていうことで、私そこにほとんど寝ないうちに、すぐに大隊長の・・・大隊長はやっぱり特別待遇してられるふうで、個室を渡されていたの。その脇に、将校たちが寝泊まりする部屋があったの。それを、将校たちを各班に分けて、ここに女の子6人寝せるって。そういうわけで、私本当にこの大隊長に頭が上がらないぐらい、いろいろ面倒をみてもらったね。

Q:大隊長も女の子がソ連まで来ているってびっくりしたんじゃないですか?

そう、びっくりしたんでしょうね。それで、自分の所に来た以上は、責任は自分にあると思ったんだかもしれないね。本当に。

私たちが最終的にホールっていう所にいたんだけれども、そこの所には、日本人の兵隊の体を壊した人たちの病院があったのよ。そして、ここの収容所だけじゃなくて、山の方にも収容所があった。行ったことはないんだけれども。そっちの方からも、みんな体が弱くしたとか、けがしたとか、何かした人たちがこの病院に入ってたらしいのね。病院の中まで私は入ったことはないんだけど、そこの所を私たちがいつも掃除婦としての仕事に通って行ったの。そこで担架に乗せられて、少し離れた所に小っちゃく小屋があってね、そこを「あら、夕べも兵隊さんが亡くなったんだね」って言いながら通ったんだけど。その行く先をこう見ているとね、後ろ前に担架に乗せて、ロシアの看護婦さんが行くんだけれども。立ち止まって、こうして見ているとね、何も服を着ていたのかもしれないけど、皆脱がせてしまっているんだね。それで、足と手の方を持って、「1、2、3」っていうみたいに、こう放り込むのよ。その小屋に。「兵隊さんがまた死んだのね」なんて言いながら、私たち見たものでした。

Q:ソ連の人が運んでいくんですか?

そうそう、看護婦さんたちは皆ロシアだったから。私たちがいる所はそんな状態だけど、でも正規の看護婦さんっていう人も、日本のね、一緒に抑留された中にいたはずだから。だけど、その人たちはまたどういうふうにしてあれしたんだか分からないね。何せあそこは広いでしょう。ロシアっていう所は、どこまで広がっていっていたんだか分からないし。

Q:でも、当時は服も着ていない死体を・・・。

そうそう、結局、脱がせてしまうんじゃない? またそれを次の人に利用しようと思って。洗濯して。だろうと思うのよ。

私たちは少し15分か20分行ったところにロシアの兵隊のって言うんだか何だか・・・事務所があったのね。ずっとこう長い建物でね、部屋がこうずっと分かれて。いろいろな係で分かれているんだろうけど・・・。そこの掃除婦にやられたの。私たちは。私ともう一人の人はね。朝兵隊さんが出ていくのと一緒ぐらいに、私たちは自由行動なのよ。兵隊さんは、まず全部歩哨がついていくんだけれどもね。どこに行って、どういうふうに稼いでいるんだか全然分からなかったけど。そして、私たちはその収容所に・・・ロシアの事務所に行って、それでそこにナターシャって年を取ったおばさんが1人やってたのね。そこで、そのナターシャに教えられて、床を掃除するのよ。でも、案外そういうふうなところはあまり厳しくなく、そこの中で勤めているロシア人たちも何だか優しくしてくれてたね。

Q:敵国人っていう感じはない?

そういうふうなこと・・・日本人ならああいうふうにしないんじゃないかなって思うふうに、あっちは慣れっこくてね、優しいの。そうすると、だんだんに慣れてくると、「恋人いるか?」って日本語で言う。そういうふうなことばっかり言ってね。「ニエット、ニエット」って私たち、「ない」っていうことを言うの、「ニエット」ってね。そうするとね、「いるだろ、いるだろ」ってこんなことやって。そんなことをよく言ってたね。

だんだんにロシアのマルーシャってこの本には書いたけれども、マルーシャっていうね、その人は看護婦さんだったらしいんだけど、その人が収容所内の衛生係をやっていたようなのね。マルーシャがいつも声をかけて、「マダム、大丈夫か」みたいなことをよく言ってたね。

Q:大丈夫かっていえば、いろいろ気を使ってくれるんですよね?

そう、気を使ってくれるっていう意味だろうね。だから、何も悪いことを言ったこともないし、親切だったね。

Q:何歳ぐらいの人なんですかね?

何歳なんだろう・・・30ぐらいになってたんでないの。ちょっと年齢的に分からないけど、まるまると太った、丸顔の人だったね。だからついつい私も気を許してね、何でも・・・まあ、おしゃべりって言ったって、ロシア語と日本語では通じないからだけど。

まるまると太った、あんまりロシア人にしては背が高くない、背の低い人だったけどね。看護婦さんだったんだね、きっと。それで、「マダムのとこ送って、ナホトカまで行く」って喜んでるのね。そしたら、そのナホトカに行くときに、出発する汽車の中で、何だか急に弾が飛んできたんですよ。どこからどういうふうに飛んできたのか、どこの隙間を通って弾が飛んできたのかね、マルーシャの手首に当たったんだね。それでビックリして大騒ぎになってね。それで、後は汽車から降りて、病院に行ったっきり会わないね。

「ナホトカまで行く行く」って言っていたの。

Q:見送りに?

うん、「私たちのこと送っていく」って。

Q:手首で済んだと言えばね。

だから、そのとき、私たちの仲間の誰かに当たったらね、またそこで騒ぎになって帰って来れなくなるなと思って。マルーシャには悪いけども。

舞鶴が引き揚げ地だからね・・・船で舞鶴に来る途中、兵隊さんも相当乗ってるし、私たちは甲板の方の、高いところの部屋をあてがわれていたんだけれども、本当にみんないよいよもって日本だって喜んで乗ったんだけどもね。あのとき何て言ってたかなあ。そうそう、日本のあそこの舞鶴のところの、日本海側だからだけども、松の木だとか、いろんな木が見えてきたんですよ。こう、船の中でね。

「ああ、きれいだな。やっぱり日本の松の木はきれいだな」ってつくづくそのときは思ったね。そして、あれほど白いご飯が食べたいねなんて常に話してるのに、ご飯が出てきたんですよ。日本の船だからね。全然誰も食べられなかったの。具合が悪くなってしまって。船酔いして。そして、ようやく日本の島陰が見えてきたときに、「ああ、やっぱり日本はきれいだね」なんて言いながら、とうとうそのご飯も食べないで上陸しましたね。

Q:日本に帰ってきてからの話しですけれども、シベリアから帰って来たということで気を使ったりだとかそういうふうなことって?

あんまりないね。別にそんなことを詮索されたこともないし。何もなかったね。

Q:土地柄もあるんでしょうけれど。場合によっては言わないようにしたりとかね。

そんなことこの辺ではなかったね。

Q:街の戦争体験のもいろいろ書いていらっしゃいますものね。

別に何もなかったけど。差別されることもないし。

Q:シベリアに行ってなかったほうがよかったと思うときもある?

そうだよね。何であんなところに・・・あんなところって、あれだけどね。まあ、見たことないところを見て来たっていうことはよかったんか何だか分からないけど、やっぱり、どういうふうな・・・何かに制限された生活だからね。ただ、炊事だけはしないで、兵隊さんが作った炊事のものをごちそうになってきたけれども。

Q:2年で帰られてよかったですよね。

本当だね。もともと私は丈夫なほうだったから、病気もしないで無事に帰ってこれたけど。

少し小文だけれども・・・。『突然の帰国命令。小さなリュックに少しばかりの荷物をまとめ、手元が思うようにはかどらない・・・荷物をまとめるが、手元が思うようにはかどらない。心臓が早鐘のようである。終戦直前の面会時に面会できなかった父が残していった、小さい手帳の紙切れを、今まで後生大事に胸のポケットにしまい込んでいた形見の品のように。でも、日本文字を書いたものは一切持ち帰ってはならないという通達で、散々迷ったあげく、やっぱり焼いてしまうより他なかった。』


Q:この写真はどういう写真ですか?

これがその後、何年かたってからだけども、満州の・・・中国のハルビン、新京の旅っていうのが、どこだかでそんな募集があったんですよ。それで、私、そのときに、是非行ってみて、父の所の・・・どこで死んだか分からないけども、私の気慰めだろうけども、お墓参りに行きたいと思ってね。このあれが、こっちが私、残っていた妹、これがいとこなんです。3人で。

Q:真ん中が一子さん?

うん、その募集に参加して行ったんです。そして、どこだか、その添乗員さんっていうんだか、引率してくれた人に、こういうわけで私を、「どこで死んだか分からないけれども、お寺にお参りしたいの」って頼んだら、「じゃあここに連れてくから」って。ここ、お寺の前なんだけどね。

Q:お父さんの霊前供養というか?

そうそう、そういう意味でね。そして、私、そのときお線香と、四合瓶って、二合瓶ぐらいのお酒なんだけど、うちの父は飲兵衛だったから、それを日本酒を入れてね、リュックサックに入れていったの。そして、それをこのあれにあげたんだけど。

何だか、私長女のためだか、うちの父親いちばん私のことを気を遣ってたようなのね。かわいがっていたと言ったらちょっとおおげさだけども。父に呼び捨てにされたこともなかったもの。

Q:何と呼ぶんですか?

「いっちゃん、いっちゃん」と言うの。

Q:ほかの兄弟よりも年が、下の兄弟の人たちより年が離れていますよね。

そうでもないんだけども。みんな二つ違いくらいにあるのよ。

Q:長女だからですね。

本当に日本にいたときは、なにもちゃんとした職場にいたのにね。役場の関係の職場にいたのに、ちょうど自分の知っている友達が、満州にその何年か前に行って一時帰国したのね。「いいところだよ、いいところだよ」と宣伝してね。「行かないか、行かないか」と誘われたらしいのよ。そして行ったの。先に一人行ってだったの。そして官舎もあてがわれてね。あんなところに行かなければ、何も無事にいたんだろうけども。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1927年
宮城県に生まれる
 
満州(現・中国東北部)へ渡り、三江省(現・黒竜江省北東部)公署でタイピストとして働く
1945年
春、動員され見習い看護婦となる
 
方正で終戦を迎える。シベリア・ハバロフスク、ホールへ
1947年
帰国

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シベリア(ハバロフスク)

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