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タイトル 「開拓団で渡満後、看護婦に」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 原島 スエさん(シベリア抑留 戦地 シベリア(ハバロフスク) 満州(佳木斯)  収録年月日 2014年5月27日

チャプター

[1] チャプター1 写真に残る記憶  04:46
[2] チャプター2 陸軍病院の看護婦になる  05:49
[3] チャプター3 南へ  03:34
[4] チャプター4 ソ連兵を警戒した  06:02
[5] チャプター5 極寒のシベリアで  07:21
[6] チャプター6 仲間たちの中には危険な目に遭った人もいた  04:28
[7] チャプター7 乏しい食事と栄養失調  09:51
[8] チャプター8 舞鶴へ  05:54
[9] チャプター9 旧満州の地に眠る両親と姉、弟  07:56
[10] チャプター10 心の支えになった戦友会  03:14

提供写真

再生テキスト

これ、教育隊、私が2年生になって、大島(幸恵)さんが1年生の写真なんだけどね。

Q:これ大島さんですか?

大島さん? そうそうそう、これが私。

Q:ああ、そうですか、へえ。

これがヤマナカサキちゃんかな。カモイさんとか。 1年生と2年生と、全部じゃないけど、なんでこんな写真があったのかと思うんだけどね。

Q:すごいですね。

とにかく帰ってくるときにね、雑のうに身の回りの物と、水筒をこうかけてね。出発したので、大方のものは捨ててきちゃったでしょ。写真なんか持ってなかったの。 帰ってきて、戦友会出てるうちにさ、持ってる人がいてね、くれたの。

Q:日赤の帽子ですよね。リボンこうなってる。

日赤とはちょっと違う、陸軍看護婦は制服も帽子も日赤とはちょっと違うんですよね。

Q:違うんですか? ちょっと軍隊っぽい感じ。これ防寒具ですよね。

冬ですね。

Q:冬ですよね、ちゃんと手袋もなんかね、皮の手袋・・・

なにしろね、これは満州だけど、シベリアは寒かったしね、満州も寒かったからね。

Q:榛名隊。

榛名隊ってのは外科病棟、内科が木曽隊っていってね、伝染病棟が赤井隊だった。

Q:へえ、これじゃあ陸看の方ですか? 全部写ってるのは。

救看も一緒。

私はやっぱりみんなと一緒に。解散になっても兵隊さんとともに守られながら帰ってきたからね、まあ幸せなほうだよね。

Q:団体行動してたからでしょうかね。

そうそう。

Q:女子だけになってたらね。

今頃生きてない、向こうで死んでたかもしれない。

Q:ほんとにね、戦後ね、残留婦人の人とかいっぱいいますもんね。

そう。私の姉は嫁いだ先で、満人(中国人)に切られて死んじゃったのね。もう一人の下の姉は、やっぱり帰ってきたけどね。あと兄が2人いるんだけど、2人とも兵隊にとられてたからね、私よりもずいぶん遅くなって、やっぱりみんなシベリアに抑留されて遅くになって帰ってきたね。

秩父の田舎が今は荒川村だけど、そこの小学校を卒業して、それから満州に渡ったんですよ。5月ごろだったかな。

Q:昭和14年ですよね。

そう。向こうで寺子屋みたいのだけど、学校ちゃんとつくってくれて、それで高等科2年まで向こうで卒業してね、満州の、満鉄の社長の宅に行儀見習いにいけって言われて、それで。

Q:満鉄の社長のお宅ですか?

そう、1年だね。

Q:1年ぐらいやったんですね。

そう、なんかね、いちばん上の兄の言うことを聞いて、そこに行って、そこからまた今度、陸軍病院で看護婦を募集してるから見習いを、募集してるからね、そっち行きなさいっていうことで、それから行ったからね。

私も卒業したらそこの事務員になるつもりでいたんだけど、みんなにも勧められて、だけど、よそにいけって言われて。きょうだいで働くのいやみたいでね。

Q:じゃあほんとは残念な気持ちもあったっていう。

そうね。でもまあ、試験を受けて受かって、向こうに5月ごろかね、陸軍に入ったのはね。

Q:それは何歳のときですか?

18かな。

Q:18。

で、19、20。2年間でね、そして資格をとって働き出して、月給ももらい始めて、初任給を。間もなくだもんね、終戦はね。ちょうど外科病棟へ勤務だったんかね、防空壕(ごう)掘りね、よくやってたんですよ、毎日。

Q:防空壕、へえ、何のためにですか?

人がいっぱい司令部から情報が入るんじゃないんですか? ソ連が参戦することは分かってるんだか分からないんだか知らないけれど。分かってたんだね。9日にソ連機が、来て、爆弾落としたらね、防空壕なんか掘ったって何にもならなかったけどね。

Q:爆弾落としたときは病院にいらっしゃったんですか?

そう。

Q:寮かなにかですかね?

1年生のときは病院の中の家族診療所だったですよ、そこの一室をね、教育生みんな入ってたの。2年生になって、外の官舎に入るようになって。

でも私もあそこで、もう、その病室が解放されてね、病室になったときにね、そこであの虫垂炎になったんですよ、手術して、そこのベッド、私なんかいた居室のところの病室になってて、そこ今度、広くなったわけね、患者さんのベッドになったから、それで転げ落ちて。

Q:油断しちゃったんですね、盲腸の手術なんかできるんですね、そういうところで。

何でもやってましたよ。

Q:全身麻酔するんですか?

そのときは腰椎ね、腰椎麻酔ね。

Q:じゃあ意識は。

そう。

Q:へえ、こわいですね、一応軍隊の訓練みたいな感じですよね、教育って。

そうですよね、だから軍の規則を学んで、それから看護学校に学んで、衛生学や一とおりの勉強をした。

Q:実際その教育も受けて、病室のその臨床っていうか、患者さんの手当てもするんですか? どういう患者さんが多いんですか?

そのときはね、結核が多かったね。でもそうとも限らないけど、伝染病棟は慢性と急性で別れててね、急伝ていうのは急性で、チフスだとか赤痢だとかね、そういう急性なもの。で慢伝っていうのが結核病棟だったんですよね。で、内科病棟にも結核菌が出ない人が内科のほうにいたからね。

Q:外科だとけがした人ですよね?

そうですね、けがした人とか、じの人だとか、まあ盲腸になった人もいるしね。いろいろね。

敬礼もちゃんと、こう、45度でなくて15度かな。敬礼のしかたも教わったしね。それで「笑っちゃいけない」っていうんですよ、病室でね。「歯を見せるな」って言うの。「笑っちゃいけない」って言われる。だから、木曽・・・榛名隊の一階の隅に、1つか2つか病室があって、そこはあの精神科のね、患者さんが入ってたのね。たまたまよく行くんですけど、ぶっきらぼうでしょ。「あいつそのうちにぶっ殺してやる」って言うの。殺されそうなときがあって。 毛布に包布を入れるのを廊下でやってたから、ちょうど私見てたから「手伝います」って言って手伝ったら、それで気をよくしちゃってね。それから「ぶっ殺す」って言わなくなった。何もしなかった、殺されなかった。

ソ連が参戦したって、満州付近にも来てるってね、片づけのときに・・・私は、まだ小さかったから、小さいと言うより、そんなに働かないから、衛生兵がいろいろやったみたいだけど。どんどんどんどん片づけて、はんごうと水筒と雑のうってこのくらいの雑のうにね、身の回りの物詰めてね、それで、身繕えてですよね、軍服着て、脚絆(きゃはん)巻いて、靴も編上靴、兵隊さんの履く靴、全部兵隊と同じ格好して。それで方正の方へ向かって行くんですよね。後ろはもう火がついて、司令部だとか、ちょうど病院の前が司令部だったんですよね、そことか、うえのなんかとか、燃えちゃって。

Q:司令部は何の部隊の司令部ですか?

全部の司令部。

Q:師団の司令部ですかね。

そうよね、だと思うんだけど。分からないけど。

Q:軍服なんかはそれまで着たことあるんですか?

ないですよ。よく私らみたいなのに合う軍服あったなあと思ってね、感心する。

Q:初めて着たんですか?

着たんですよ。

Q:でもそれちょっとやっぱり異常な事態っていうかね、 そんなものが配給されて。

だから、ほんとに下着とどうしてもほしい服とか、詰めたらもういっぱいだからね。こういう写真なんか持ってる余裕がなかったんだけど、よく持ってきたなと思ってね。

Q:さっきのソ連が来たときの話なんですけど、爆弾落ちて、軍服着て、そのあと出発するわけですよね、どっちの方に行くとかってそういう説明は?

みんな方正に集結したみたい。だから方正に結構ね、皆、各部隊の人が集まったみたいですよね。そこで終戦を聞いたんですかね。

Q:終戦って聞いたときはどんな?

みんな泣きましたよ、「そんなことはないだろう」って。こんな私たちは苦労して頑張ってるのにと思ってね。

Q:出発して、後ろに火がついてたっていうのは。

やっぱりいろいろな書類みたいのがあるから、それをみんな焼くんじゃなかったかね。敵に見られたくないとか、敵に渡したくないとか。そういうのがあったんじゃないかしらね。

「大和なでしこらしくね、襲われそうになったら死ね」って。これくらいのね、試飲薬っていうのがあったんですよ、これくらいのちょっと瓶でね、やっぱり動物実験して、これで致死量だっていうんで、そのくらい入ってるんだろうね。

Q:大和なでしこらしくっていうんですね。

そうそうそう。

Q:やっぱり辱めを受けたらいけないっていう。それ配られたときはどんな気持ちなんですか?

うーん、まあ、どうも感じなかったんかな。そうなった以上ね、「いつ死んでもいいや」というような気持ちだったのかしらね。まあそのときにね、日本に生きて帰れるかっていうことは想像しなかったしね、どうなるか分からないけど、とにかく、なんでなんかなあと思うんだけど、方正に集結したんだよね。

Q:そのときは結構大人数ですよね?

そうですよね。

Q:混乱しないでみなさんでまとまって行動したんですか?

・・・茨城の人がやっぱりそのとき初年兵で、だから20年に召集された人かね。「満州に来て兵士になって、終戦になって、方正でみんなの便所までの送り迎えをするね、そんなことをするとは思わなかった」って、言われたけどね。「なんだ、あんたたちがやってくれたんだ」っていうと、「そうだ」って言ったんだけどね。なんかトイレ行くっていうと、ちゃんと行き帰りに兵隊さんがついてくれたんだよね。方正でテントで襲われそうになったとき、どういうつもりだったか分からないけど、とにかくね、女の子がいるところのテントにロスケが入ってきたらね、「ロスケロスケ」って言って。

Q:やっぱりソ連兵が入ってきてたんですね。

そう。

だからテントはね、兵隊さんとは混ざらないで、看護婦は看護婦で一緒だったけどね、女子は女子、男子は男子だからね。それからですね、そこで頭を坊主にしたり髪の毛短くしたりしてね、こう、戦闘帽かぶって、帽垂れが付くから、髪があるかないか、兵隊さんと同じ格好でね。頭を坊主にしてる人もいましたよ。

Q:原島さんは?

私はしないけど。

Q:どれくらいの? 切ったんですか、やっぱり。

もともとこれくらいのおかっぱだった、帽垂れをこうすると分からないですよね。

Q:長い人は切ったんですかね。

そうですね。

Q:いつロスケに狙われるか、怖いですよね。実際、よく話で避難してくる人たちはそういう怖い目にあったとか。

そうですね、だからその、私なんかは軍隊と一緒に行動したからいいけれど、途中で解散してバラバラになった人なんかは、苦労してね、タカトウさんなんかは、やっぱり家族が他にも家族がいたみたいなんで、そういう人との連絡をしながらと思っていたらしくてね。だからもっと苦労したみたいよ、帰って来るまでね。

Q:さっきその方正のテントにロスケが入ってきたこともあるって。そのときは危ない雰囲気にならなかったんですか?

分かんないんですよ、それが。誰かがきっと連れ去られようとしたんだろうね、みんな寝てるところを。それで起こされて「兵隊さん助けて、兵隊さん助けて」って、どなったんだと思うんだけどね。

Q:誰かが大きい声出したんですか?

うーん。

Q:それで目が覚めたっていうか。

たぶん、よく分かんない、覚えてないけど。とにかくみんな一緒になって、「兵隊さん助けて」って言ったのは覚えてるのね。それで兵隊さんたちが来たことね。

とにかく印象に残ってるのは、お便所を作ってくれたんだけど、こう大きなこれくらいある囲いで、まあ、屋根付いてましたけど、それで入口があって、中に穴掘って、こう横に板が並べてあってね。で、一人一室じゃないからね、みんなこうお尻出すようになってて。冬なんか体から離れればもう凍っちゃうんでね。こう、だんだん積もってくるの、うんちがね。そうするとこう、踏んで、ふき飛ばして倒れて、それで。いちばん印象に残ってんのはそれね。

Q:そんな寒いんですね。

もうそれくらい寒いの。30度くらいあったのかね、零下ね。冷たいんじゃなくてしばれるんだもんね。鼻なんか凍傷になったよ、赤くなってね、一生懸命こすったりしてね。

Q:外にいるだけで凍っちゃうんですね。

鼻なんかマスクしないと、ぴりっと鼻水で凍っちゃうような、そのくらいな寒い時期やったよね。

Q:鼻すすると。向こうで医務室もできたんですよね?

そう、はじめ医務室の三中隊の一番隅のほうにね、一部屋、二部屋かな、医務室ができてて、そこに病人とかけが人が入院したんですよ。そこに勤務して、ちゃんとドクターもついてね。言葉分からないけど。薬くれるからそれを回して。

Q:何か分からないけどソ連人のドクターが付くんですか?

そう。

Q:患者さんは日本の人たちですよね。

ドイツの女の人がね、2人かな、私たちに混じってきたんですよね。

Q:ドイツの女の人。

うん、ドイツの婦人がね、2人だったか3人だったかね、私たちに混じっていたの。ずっとじゃないけどね。「ああ、ドイツも捕虜になったんだな」ってね。

Q:医務室に運ばれてくる患者さんはどういう病気が多いんですか?

だいたい熱があったり、下痢があったりとか、そういう症状ですよね。だからその、・・見て、熱が下がったらこの薬を飲ませなさい、とか、飲ませると下がったりね、だから、そのうちに、食堂のほうにね、勤務になったりして、交代があったから。

Q:十分所が石切り山って言われてるところですよね? 重労働なわけですよね、男の人たち。

みんなこう、ちゃんと隊列組んでね。朝なんか出たり入ったりすると。これなんかそうですよね、何かしるしが。兵隊さん、791のほうの旗が、791っていうの、旗なんですよね。で、7で9で1で、っていう旗なんだけど、こっちは星が、将校とか兵隊さんで、これが看護婦で、これが義勇隊でね。それに・・・。

Q:義勇隊の兵隊さんっていうか若い子ですよね?

そうですよ、私なんかが数えで二十歳だよね、・・・それから二年も三年も下だからね、ほんとに子どもだよね。だから満州にね、逃げようと思ったんだけどね、あんなところから満州まで行けっこないのにね。

Q:逃げた子が? 逃げた後はどうしたんですか?

殺されたのが、この広い穴の中に血があって横たわっていたの。見せしめ。「逃げるとこうなるぞ」って、置いとかれたんですよ。他の人はね、どうなったんだろうね、分からないけど。

Q:何人くらい逃げたんですかね?

5人。

Q:5人くらい、5人とも射殺されたんですか?

いやいやそうじゃない。つかまって帰ってきちゃって。

Q:若い義勇隊の人たちにとっては逃げたいくらい仕事がつらかったんでしょうね。

そうね、あんな生活やでね、いやだと思いますよ。

Q:あんな生活。

うん。あんな食事で、重労働させられて、生きていけなくなると思ったんじゃないの、子どもだからね。

Q:原島さんもそういう気持ちになりました?

ならない。私はなるようになれって思うくらいだからね。そんなに、みんなと一緒に行動してれば・・・

Q:仲間がいなかったら悩んだでしょうね。

やっぱりね、団体で、こう守られて帰ってきたんだからね。団体生活っていうのはだから今でも適応性がありますよ。ここの入っているのもね、私適応性があるって、自分で思ってるのね。どんな人とでもね、あの人嫌いだって言っていう人いるけど、私はどんな人とでもちゃんと、平等にやろうと思ってるからね。

ソ連の、私たちは、40~50人いたから分からないけど、結構きれいな顔した人、見込んで、自分の家の女中さん、全員引き抜いた人いるんですよね。引き抜かれた人が。やっぱり、奥さんがいてね、子どもはいなかったのかもしれないけど、将校のうちへ、お手伝いさんに選ばれて行った人なんかもいたからね。そういう人に聞くと、向こうの生活ってのも分かるけどね。そうじゃないと分からないね。

Q:その人はどうしたんですかね? お手伝いに行って。

一緒に帰って来ましたよ。

Q:きれいな人だったんですね。

かわいい。

Q:その、相手の銃を取ってっていう、あれですよね? そのときはどういうふうに聞いたんですか? その状況。

強姦されそうになったから相手の腰に入ってた銃を取って、撃ったんだっていう話してたけどね、それきりの話だから分からないけどね。そういうニュースは入ってきたのね。そういうことで、顔や姿が見えなかったから。

Q:ああ、やっぱり連れて行かれたっていう。すごい、とっさの勇気ですよね。

そのうちにけっこう収容所の中でもね、その向こうの下士官とか、軍の、話が合うようになったらね、結構楽しかったですよ。食堂にこう、舞台をつくってね。芝居やったり、音楽やったり、演芸会をやってね、いろいろ向こうの国の女の子が来てね、歌ったり踊ったり、そういう交流があったんですよ。

Q:向こうの女の子も来たり。

そう。

Q:さっきの一人だけ使役に行って危ない目にあったりとか、そういう恐怖、危険性ってあったんですよね?

やっぱりソ連もいろんな兵隊さんができちゃうんじゃないかと思うけどね、いい人も悪い人もいたんでしょう。日本だってそうだもんね、いい人も悪い人もいて、悪をやる人もいるし、だからそういう、どこでもあるんだと思いますよ、どこの国もね。

Q:最終的にはその、帰ってこられたって今は分かってるんですけど、そのときは?

分からないですよ、営倉に入れられたっていう話聞いたり、どこかに連れて行かれたっていう話聞いたけどね。要するに、収容所にはいなかったね、よそに連れて行かれたのか。

だから、抑留のときは、これくらいの大きな黒パンが配給になるでしょ。それを10人か、12~13名かな、こう割るわけですよ。食堂に勤務してるとき。それとはんごうに、コーリャンのおかゆとかね、ポーミチャーズって言ってたんだけど、とうもろこしの粉だとか、いろんなこう、馬が食べるようなね。そういうものがスープになって出てくる。それを入れてね。それだけだからね。だからじゃがいもでお餅つく人もいましたよね。

Q:なんとか日本風のものにしたいんですよね。

そう、だからね、お米の方が食べたいって。

Q:食べ物は少ないので皆さん苦労したでしょうね。

私たちは若いから、水飲んでも太るくらいの体だからね。だって言うんですよ、みんな兵隊たちが栄養失調になって困る時期でも、私なんか痩せないからね、だから「うまいもんでも食ってんだろう」って疑われたけどね。だけど同じものだもんね。

Q:女の人の体ってそうなってるんですかね?

ねえ。

Q:よく子どもを産むためにとかってね。

だから痩せなかったですよ、あんな貧しい食事でも。

Q:残念なことに。男の人たちは力仕事して。

それだよね、きつかったよね、きっと。

Q:収容所ってどういう作りなんですか?

作り?うーん、十分所のは、こういうふうに柵がはってあって、食堂があって、ここに1中隊、まあ兵隊さんの。2中隊っていうのが、義勇隊の子たちで、3中隊が私たちのいたとこで。1中隊、2中隊、3中隊ってあったの。真ん中こう、庭でね、広場で。

Q:3中隊は女子?

そう。だから入ったときはいきなり全部がね、施設のところ、3中隊に入っても、収容しきれないくらいの人数だったからね、そこに詰め込まれたからね。寝ていてね、夜トイレにでも起きたら、帰ってきたら寝るところがないの。横になってた人たちがこうなると、もういっぱいになっちゃって、だから自分のいたところに人がいると、そこに乗っかかって、そこに乗って寝るとね、だんだんこうまた、横になって入ってね。そのくらいの窮屈さだったのね。

Q:へえ。

それからもう、5人引かれ、また5~6人引かれ、ってあっちにこっちにこう、バラバラにされたから。だから、すごく、ゆっくりになったけどね。初めは大変だったみたい。

8月に終戦になって、ハバロフスクの収容所に着いたのが10月頃かね。だから寒くなってくるでしょ。まき取りにね、よく山へ行きましたよね。クルミなんか落ちてるとうれしくてね、ポケットに入れてね。熊みたいだった。雪のあるところで。

Q:そのころは食べ物が足りないから。

そう。

Q:野草、山菜っていうんですかね、そういうもの食べられるものを摘んできて食べたとか聞いたことありますね。

そういう暇はなかったね、毎日が仕事があったんで、仕事が、食堂勤務が多かったかな、食堂へ朝昼晩の食事の支度して、毎日床を磨くのにね、ドクターの奥さんついて。やっぱりこれもドクターだったかね、ドクターじゃなくて看護師だったかな、なんか知らないけど。やっぱり軍服着てるんですよ、奥さんの方。こういうところを、ガッターカタナでガシガシーーっていってね、日本の、横取り品の、銃剣の、銃の先につける剣がある、その銃剣をね、もってきてね、あの泥が付いたりするでしょう、食堂だから。それで磨くんだよね。ガッターガシガシーって言って、やれって言ってさ。食堂なんか朝昼晩、兵隊さんたちが食べて帰ったあとね、私もちゃんとするように、床洗い、毎日毎日だから仕事がない日はない。

Q:やはり清潔にしなきゃならないんですね。

黒パンなんか切ってもね、目方をちゃんと測ってね。もう食堂に入ってきて、「どれが大きいかな」ってこうみんな見るんだよ。義勇隊の子なんかね。腹が減ってるでしょう。みんな同じなんだけどね。そのくらい食事事情は悪かったよ。でもね、食堂にいたおかげで、こういうこう、ビアだるに、ニシンの塩漬けしたのがいっぱい来るのね。その中に数の子があるとね、数の子よく食べてた。おなか壊したことあったけどね。

Q:役得ですね。

食事はほんとみんな大変だったと思う、栄養失調になってね。

Q:医務室勤務のときは亡くなる人も多かったんですか?

いや、私がいるときは亡くならなかったけどね。他の人いわく、あそこで亡くなった人は何人かいるんですよね。だから前にやっぱりあのコイデさんっていう人が企画してたかな、あの、シベリアにミハシさんとカナモリさんとか行ってたときに、そこの亡くなってる人のところへお線香あげてね、ずっとこうやってね。だから日本人のお墓もあそこにあったんですよ。あそこで亡くなった人、何人かいるんですよね。だから私が見た限りはなかったけど、亡くなった人いるんです。

Q:原島さんはそういう恩給とか補償みたいな、お金もらったことあるんですか?

お金、もらったことあります。それからあの銀杯っていって、杯ね。年金にも恩給に満たないで、だから年月があんまりないんでしょ、陸軍病院に入ってシベリアにいって一年ぐらいだから、大した期間ないからね、だから恩給にならない。つかないんだよ。一時金でね、10万くらいもらったの。

Q:安いですね。

それから総理大臣からの銀杯ね。

Q:もらってどうですか?

ありがたいとは思うけど、これじゃ食っていけない。

Q:シベリアから帰ってきて舞鶴ですよね、着いたときはどんな状況だったんですか?

ああ日本に帰ってきたんだなあって実感ありましたよね。それでそこで幾日かいましたけどね、それで演芸会みたいな、並木路子の『リンゴの唄』なんかちょうどはやっていたころかね。そういう舞台で慰問みたいなのありましたよね。

Q:舞鶴にそういう?

何日かいて、だから着いてすぐ解散ってわけじゃなかったよね。

Q:検疫とかもあったんですよね?

それで幾日かいたんだろうね。

Q:消毒の薬かけられたりとか聞きますけど。

それがすごかったんですよ。収容所へ行ったときも、ほら、とにかくお風呂は一週間にいっぺんか、一か月にいっぺんか、お風呂の小屋があって、収容所から出てね、ずっと歩いていって、川のそばにあるんだけど、毎日入れたわけじゃないんですよ。そんで、どういうわけかシラミがね、ついちゃうんですよね。あれどういうわけだろうって思うんだけどね。あれ衣類につくシラミだから、消毒、滅菌みたいな消毒する小屋があってね、そこに衣類を入れて消毒したりしたよ。

Q:滅菌ってどうやって消毒するんですか?

火燃やして、やったんだね。煙で消毒したんかなんか知らんけど、そういうシラミつぶしのことはやったね。だけど、なかなかね、とれないからね。日本でもあったみたいね、そのころは。小学校でみんなDDTをかぶった人もいたみたいよ。今DDTって話が出たけど。

Q:白いやつですよね。やっぱりお風呂がないのは大変でしょうね。日本に帰ってきて舞鶴で久しぶりにお風呂に入るって感じですかね、こうお湯がはってある。

それがね、大浴場でね。やっぱり舞鶴って今でいう、なんかの軍事のあるところだよね。だからいろいろ整ってたんかなと思うけどね。大きい、寝てるところも大きい広間だしね、何もかも大きくって気持ちよかったよね。

Q:帰ったときにほかの兄弟の消息とかそういうことも心配されたと思うんですけど。

やっぱり満州にいて、満州で召集を受けたんだから、満州のどこかの部隊に派遣されたんだろうから、それはみんなシベリアに連れて行かれてたんだから、とは思ってたけどね。だから私がいちばん先に、20年12月に帰ってきて、それから何年だろうね、3~4年だかで次兄が帰ってきて、更に2~3年して長兄が帰ってきたんでしょ。だから長きに渡ってずっとシベリアで仕事させられていたんですよ。

Q:自分もシベリアにいたってことで、どういう生活してたか想像もつくでしょうしね。原島さんがシベリア行って帰ってきたっていうので、親戚の人たちもびっくりしたんじゃないでしょうかね。

うん、なんか新聞を見て分かったっていう。会いに来てくれましたよね。

Q:もともと住んでいたおうちは、満州行くときに、ほかの方に譲ったんですかね?

うん。まああれで、帰ってきてから住んでたところに行ったけど何もなかった。うちがなかった。

Q:ああそうですか。

ほんとに取り壊したんだよね。

Q:見に行ってみたんですね。

ふるさとをね。

Q:前も聞いたんですけど、お父さんお母さん満州にいるときに亡くなったんですよね?そういうこともほんとに残念ですよね。

だから、それこそエンジャ(閻家)って駅ね、のところに、中川村開拓団の本部があって、それの近くじゃないけど。そんなに、そうねえ、それでも本部の近くなんかな、診療所を建てて、それでお墓もそこらへんにあったような気がする。

Q:何か病気されたんですか?

そう、やっぱり結核じゃないかなと思うね。ツベルクリン反応で、その、入るときに健康診断やったでしょ、そのときにツベルクリン反応出てたからね、だからみんな結核には感染したんだと思うのね。ただ私は感染しても抵抗力があったから、発病はしなかったんだと思うけどね。だから父が死んで、おばあさんが死んで、母が死んで、弟はネフローゼだったけど、ネフローゼね。だから向こうに4人眠ってる、向こうの満州に。だからお墓参りできないの。

Q:そうですよね。原島さんが看護婦に行く前に亡くなったんですか?

行ってから。

Q:行ってるときに、ああ。厳しいですね、向こうの状況っていうか。

今はだからこんなに長生きしちゃってるけどね、昔だったら生きてない。

Q:ほんとに私の想像ですけど、引き揚げ者とかって偏見じゃないですけど、女の方でシベリアで捕虜になったとかってあんまり多くはないと思うんですよね。それを人生を損したっていうか、どうしてこういう目に、人より苦労したっていうような、そういう気持ちを持つ人もいるんじゃないかと思うんですけど、原島さんはどうですか?

戦争がいけないんじゃない? 戦争さえしなかったらそういうことはなかったと思うよ。ねえ。世界を敵にしちゃったみたいにね、あんな大国を、アメリカとかロシアとか、あんな大きな国から攻撃受けたんだからね。原子爆弾が落とされて、広島、長崎、そのうちに東京にも落とされたらね、それこそ天皇陛下様から全部ね、死んじゃうもんね、日本なんて国なくなっちゃうもんね。

Q:そうですよね。

戦争したのがいけないんですよ。

Q:悪い思い出をお聞きするみたいで申し訳ないんですけど、お姉さんは殺されたっていう、それはどういう状況だったんですか?

分からないです。あとで、それこそ日本に帰ってきてからね、聞いた話なんでね。分からないね。だから戦死っていうことになってるみたいよ。

やっぱり男の人はだいたい兵隊にとられちゃったけどね、最後はね。私の次の、姉の旦那も、結構耳が遠かった人なんだけど、それでも兵隊にとられちゃったもんね。みんな兵隊にとられたんですよ、最後は。うちの次兄は自分で志願したんですけどね、だけど上の兄は、長兄だから、うちを守りたいわけでしょ、だけど兵隊にとられたでしょ。 だから結構、若い男性はみんな兵隊にとられたみたいよ。あと残されたのは女子供だけだからね。だから、この、うちの上の姉は、そこの満人との交流がうまくいかなかった部落だったんだろうね。下の姉の方のあれはきっとよかったんだと思うよ。そういう満人との交流もあったんだと思うね。好意的な人と、そうでない人と。いろいろいたんですよ、きっと。

これが発行されてみんなに配られたときは、私死んでたんですよ。昭和55年くらいに、あの、突然カワカミさんっていう人から電話があって、大島さんからも電話があったのかな。で、「原島さんは死んだことになってるよ」って。「この名簿見たら、なってる」って言ってね。「死んでないよ、生きてるよ」ってね。生き返らしてもらってから戦友会にも行って、このハバロフスクの会も行ってね。出るようになったけど。やめてからはずっと両方に。あと、一六会って、そのモトヤマさんたちの一六会っていうのがあってね。

Q:一六会?

16年に召集された会っていう、一六会ってつけたらしいんだけど。だから一六会も年に一度旅行があって、791も年に一度あって、ハバロフスクの会も一度あって、だからよく旅行できましたよね。おかげさまで、今はこう楽しい思い出がいつまでも蘇るんだけどね。だから向こうで苦しかったことは忘れちゃう。楽しいことだけ覚えてればいいやって。

Q:その会に出なかったらね、苦しい、いやな思い出が残っちゃいますもんね。

だからこの会をこうやってくれる人が、ずいぶんすごいなあと思って、みんなを楽しませたなと思って。

前にモトヤマさんの奥さんに聞いたことがあるんだけどね。「なんでこの戦友会って夕飯食べた後にね、もう2時でも3時でも話し込んじゃってて、それが毎年毎年、同じことをやってる」って。感心したって言ってたね。だからどんなにこの戦友会が楽しみっていうか、生活の力になるっていうかね、そういうのがあったんだろうね。今思えば、こんなに、これに入ったおかげで旅行ができたし、みんなと話し合えたしね。楽しい思い出はいっぱいできて、テレビ見て「ああ、あそこも行ったっけねえ、あそこも行ったっけねえ」って思うとね。もう、この会に入って、今は楽しい思い出がいっぱいあるからね。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1926年
埼玉県中川村(現・秩父市)に生まれる
1939年
一家で開拓団に参加。満州(現・中国東北部)へ
1943年
開拓団の募集に応じて看護婦になる。佳木斯第一陸軍病院に勤務
1945年
方正で終戦を迎える。シベリア・ハバロフスクへ
1946年
帰国。その後は看護婦として働く

関連する地図

シベリア(ハバロフスク)

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