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タイトル 「樺太・缶詰工場で強制労働」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 戸倉 冨美さん(シベリア抑留 戦地 樺太  収録年月日 2014年6月10日

チャプター

[1] チャプター1 樺太に生まれ育つ  05:12
[2] チャプター2 多忙な見習いの日々  04:38
[3] チャプター3 竹やり訓練と担架教練  08:46
[4] チャプター4 悔しかった“敗戦”  06:14
[5] チャプター5 命懸けの芋掘り  03:32
[6] チャプター6 残された女、子ども、病人たち  05:00
[7] チャプター7 占領された樺太で  04:50
[8] チャプター8 缶詰工場で強制労働の日々  03:26
[9] チャプター9 ひもじさとの闘い  03:54
[10] チャプター10 ニシン一匹で監獄へ  09:29
[11] チャプター11 樺太に取り残された  06:16
[12] チャプター12 祖国日本へ  02:48
[13] チャプター13 苦労続きだった樺太での日々  03:00

提供写真

再生テキスト

父は19の歳に両親が早く亡くなった人で、兄に育てられた人なんです。それで自分で19まで兄に育てられて一緒に住んでたんだけど、北のほうったらね、北海道と樺太(現・サハリン)、そっちのほう行ったら、たいした景気もよく働くところもたくさんあってお金もうけるって話あったからと思って19の歳に北海道へ渡ったんですって。北海道へ渡っても別に働いたことないもんですからあっちこっちうろうろしていて、今度樺太がたいしたいいって樺太へ渡ってきたんですって。

Q:樺太に行ってから王子製紙へ勤めたんですか?

そうです。

Q:戸倉さんは生まれは樺太で?

そうです。

これは野田の病院の看護婦です。

Q:戸倉さんどれですか?

これ。

Q:何歳くらいのとき?

これは17になったばっかり。これは看護婦の免状もらったとき。

Q:これが免状なんですか?

はい。

Q:すごいですね。真岡医院、へえ。

これはね、ロシアの缶詰工場で働いてて、そしてなんですか、プランっていったら?

通訳・須田百合子さん:例えばどれくらいで1か月仕事しなさいっていうのが出るわけですね。それ以上もっと成績上げた人は表彰みたくされるんですよ。そうするとこれが壁にこう表彰された人の写真が貼るわけですよね、そのときに貼ってあった写真なんですって。

Q:これ下に書いてあるのは?

それはこのあとにまたプラン入ったとき写した写真なんです。

Q:ノルマみたいなことですか?

そうです。

ノルマ上げたときにこれ入ったときにこれしたから。これをね、小さくなってるけどね、こんな大きいのあるんです。それは街に貼られたんです。このあとには、今度はまた部屋に貼ったのはこんな大きいの。これは小さいやつもらったんです。大きいのはもらわないできた。そしてからこんな大きな免状もらった。そこでもよく働く者として。

須田:115パーセント、ノルマをあげたっていうこと。だから100パーセントまでなんですけど、これは115パーセントですからノルマ以上すごく成績を上げたっていうのが、名前がファントミこれはサハリンの名前ですよね。ファントミっていうのは。そして仕事してるとこでノルマをしたのが115パーセント。上げたっていうことで表彰されたっていうことですね。

Q:ファントミっていう

ファンっていうのはうちの旦那の名字です。そしてからパスポート作るときにトクラトミっていうパスポートが出たんです。

父がね、漢字はね、「トミでもフミでも漢字はね、向こうで読み違えしてつけたんであって、日本には移住していったら自分の籍があるんだからトミでないフミなんだからロシアのとこにいってはなんでもいいから」って。そして父がそのままもらってきたんです。したから私もそのままトミになってました。だからうちの人と一緒になってからファン(旦那さんの名字)になった。

学校卒業してからすぐ入ったのが郵便局なんです。郵便局で交換手になって交換手でもってまず1年も仕事しなかったんです。仕事しないですぐ街の病院、この人がさ、街の病院に入って外科勤務になったんですよ。その外科勤務してたときにそこの主任さんがこの方なんです、その方が真岡のこのこれ、私のここの講習所の卒業生の人なんです、ここの人が「ここにいても免状とるとなったら大変だからそこへいって講習所入って勉強しなさい」って。

「そうすれば2年勉強した後試験を受けて看護婦になれますから」って、「ここにいたって何年働いてたってなかなかもう検定なんか受けられないから」って言われて今度真岡(現・ホルムスク)へ移ってきたんです。行って検定を受けて試験を受けて入ったのがここ。これは2年生のときなんです、2年生になったとき。そして1年生に入ったときに25人入ったんです。25人入って、もうあんまり仕事がきついんです。仕事がきついのに勉強しなきゃならないから寝る暇がないんです。そして寄宿に入っててもね、当番になったら朝早くに廊下掃除、廊下掃除だけやってもね、部屋当番ってのがあるんです。

そしたらお部屋の掃除して今度はまかないって、またあれね、ご飯をね、もらってこないとならないんです。そしてご飯をもらってきたらそれをみんな洗って、そしてからちゃんとまかない持ってってそしてから仕事へ出てくんです。だけど1年生の入ったときにはねもう仕事で寝る暇がないんです。もうだいたい、朝4時に起きてもね、間に合わないんです。廊下掃除やって当番して、外来掃除行ってったらその当時外来っつったらね、石炭ストーブなんです。それだからまずこづかい室にいって炭をね、ペチカみたいに大きいのなんですよ。

そこの中に炭を入れて真っ赤にしたやつをもってきて、そしてストーブにね、炭ストーブに入れて、その上に炭を持ってきて入れるんですけどね。炭をびっちり詰めておいてそれから今度は外来掃除、外来掃除終わったら今度はこの注射器とかいろいろな器具をね、消毒しなきゃなんないで、煮沸しなきゃなんないんです。それをみんな終わったら戻ってきてから、またご飯もらいにまかない行かなきゃならないですよ。それでまかない行ってご飯もらって持ってきて食べたら、また持ってって、洗って持ってって置いてきて、今度はまた外来行って、そして勤務して昼までなんです。昼になったらまた掃除して、そしてから昼から勉強なんです。そして昼から勉強しても先生が婦人科、外科、眼科その先生方がちゃんと時間時間でやるからもう、何を勉強してるも忙しくて忙しくて何にも頭に入らないうちに時間なってしまって・・・

夜中の11時、そのくらいまで勉強するんです。そして寝たと思ったら今度はじじゅうりの先生が非常呼集かけるんです。そしてから陣鐘、ジーって鳴ってみんなパッと飛び起きて。そしたら「今、敵機来襲したからすぐに自分のめしたに行きなさい」って。

そしたらそこまた走っていってから今度は防空頭巾かぶって長靴履いて救急袋提げてそこ走ってって病室に立たなきゃなんないんです。そこで立ったら今度は先生がね、今度は点呼しに来るんです。点呼してやっと終わったなと思ったら今度は担架教練って夜中に何か眠って明日の朝4時5時半起きなきゃなんないのに担架教練もなんやってみんな涙こぼして。そんなに忙しくしたもんですからね。2年間のうちね25人入ったのに7人しか残んないです。1人は死んであとはみんな辞めちゃった。そんなにきつかったんですよ。そして残ったのは7人の看護婦残ったんです。

そしてどうにかこうにか、こていして私は内科に入って内科の主任になって、他の人は外科、婦人科、小児科、眼科こていしましたね。そうしてるうちにもうまあ夜中には非常呼集、非常呼集ってもう走って歩ってばっかいてまたちょっと暇になったらお昼食べたあとは担架教練。担架教練終わったらね、今度は中学校の先生が来てから木剣の研修やるんです木剣、木剣やっててね、そしたら今度はね、まずは在郷軍人の人が来てから今度は竹やり教えるんです。そしてからそのわら人形ば「ヤー!」って行くんですけど、やるんですけどね一生懸命やってもね。「お前たち何やってるんだ、ご飯食べてるのか」って「もう少し声出ないのか。泣いてるのか。」いじめられて竹やり持ってから、汗たらしてハチマキして手も汗で「ヤー!」やってもまだ声が低い、声が枯れるだけいじめられてから戻ってきてやっと安心したと思ったら今度は先生また「往診だから」って。今度は往診だっていってまた一緒になって走って歩って戻ってきたら今度は薬を今度ね、作らなきゃいけないんです。

Q:病院って陸軍の病院じゃないですよね?

樺太庁の病院なんです。

Q:一般の病院ですよね?

違うんですよ、国の病院(樺太庁立病院)なんです。

Q:軍隊みたいですよね。

だから軍隊と同じです、私らは。もうしたから寝る暇がないんです、いつももう、そしてから今度は手術だっていって、私は内科ですから手術したら関係ないんです。それでもね、看護婦が足りないもんですから。すぐそこに行って一緒にしなきゃなんないんです。あとまだそれが終わったら今度は伝染ったらあれですよ、伝染病の患者がいるんです。

Q:結核とか?

結核もそうですけどジフテリアとか、小さい子どものが多いんですたいていジフテリアが多かった、でも結核もたくさんありましたね。それからもうとにかくそういう隔離病室があるんです。今度そこへ行かなきゃダメです。

そして夜はそこへ行って1人そこで勤務してますけど、晩にはまたそこへ行って一緒に勤務して寝てなきゃなんない、じじゅうりしなきゃなんないいつ何時患者が悪くなるか分からないから1人ではダメですからじじゅうりまでいくんです。してから戻ってきてそしてから食べて忙しく食べたらまた勤務しなきゃなんない。そして勤務しててもね、今度は当直にあたるんです。当直にあたったらね、そのあたったときに、当直にあたったときに誰か亡くなりますね。死んだらその人が自分のね、とこへ持ってってくれればいいんです、そのまま。持ってって他の真岡の街に住んでる人なら連れて行きますけど、少し離れたとこ小さい町が村がありますね、そういう人方は連れてかれませんから、今度はここで処置してきますってなると今度は一晩中寝ないで当直しててもまたその人今度見てやんなきゃならんです。そしたらその人も今度はしゅうしを聞いて電話をかけてそしてからなんのしゅうしで背の高さはなんぼでもうね、どのくらいのあれしたか全部言って。そしてから「何時までには処置終わりますからそれまでに救急車お願いします。霊きゅう車お願いします。」全部それ看護婦するんですよ、そしてから今度はきれいにね、ちゃんと着る物を着(させ)て、それからその人亡くなった人の処置しなきゃダメなんです。

そして霊きゅう車くるでしょ。そしたらちゃんと入れて拝んで霊きゅう車送ってやらなきゃダメなんです。そしてまた勤務しに走っていくんです。だからいつ食べたんだかいつ寝たんだか分かんないんです。忙しくって。そうして勤務している最中に敗戦になりました。

Q:処置するっていうのは。

処置ですか?ちょっと言っていいですか。体をきれいに拭いてあげて、そしてから女の人なら髪をちゃんと結ってあげて、おしろいをつけてあげて、男の人はそのままですけど顔もそってやって、そしてから着る物はそのときは白です、着る物はああいう時代ですからみんな白を着せて。そしてから数珠をちゃんとつけてそしてから、それをお棺の中に。たいてい日本時代は寝棺じゃないんです。座るんです。寝棺じゃなくて座るときに棺が小さいもんですから、大きい人なんか入れてやったら2人でやっとそれ入れてやって。そしてから今度は、「何かここへ入れてやるものがありましたら入れてあげてください」って言ってその人方が何か入れたら今度はふたをして「くぎ打ってください」ってもなかなかその人方、やらないんです。そしたら私らがちゃんとそれをくぎをちゃんと打ってやってそして白でちゃんと畳んで私らが看護婦が私が処置ですってから2人で霊きゅう車に乗せてやって送ってやんなきゃいけない。日本時代は本当に看護婦といってもね、ほんとにその戦争時代の看護婦はね、休む暇がないんです。寝る暇もないんです。

そしてから敗戦になったときには私、はあこんなにまでしても日本が負けたかと思ったらね、ほんとにまあまあまあ、涙しか出ませんでしたよ、このくらいに一生懸命やってなして負けたんだろう。それでもね竹やりで「ヤー!」ってやったところで勝てませんよ、ロシアのアフタマータって分かりますね?

須田:アフタマータっていうのは自動小銃。

それバララってやったらこっちで竹やりでヤー!ってやったってそこまでいかないうちにもうね。それでもやりましたよ、一生懸命やりました。でもこれでもそういうあれは分かんないからこれ竹やりで1人でも殺すのにいいと思って一生懸命やって。それやって木剣もやってね、そんなことしても負けたから、はあ、これだけやってもね、負けたかと思ってね。してから私の父にね、手紙を書きました。そして、「お父さん、負けたから自分たちはこの病院に残ります」って、「もしロシアが攻めてきたら私らは一戦交えますからしたから今まで育ててもらったのはありがたいです」ってね、書き置き書いてね、送ったんですよ。 そしたのに敗戦なったらね、みんな、「あんた方家に帰りなさい」ってこうなる。いやー私がね「戦争やらないんですか、戦争やらないんですか」って。そしたら事務長がね「お前何持って戦争やるの」って。「何を持ってやるったって竹やりだろ」って。バカみたいだよね。「竹やり持ってお前竹やりで何やる。」「竹やりで何やるって習ったんですからやることはやりますよ」って。「お前たちみんなバカみたいなこと言わないで、親のとこみんな帰りなさい」って。私はね、「いやー私は帰りません。残ります」って。先生がね、「お前ばかみたいに1人で威張ったってお前なんか1人くらい威張ったって何もならない、お前たちみんな帰れ」って。

「せっかく一生懸命になって竹やりやったり、担架教練もやったし、木剣もやったし一生懸命やったし芋だってまいて芋なんぼでもあれ食べられるのに、なんでそれやっていかれないこともないのに帰れって言うんだ」って。みんなでぶつぶつ言ってて、帰れ帰れ仕方ないから、でも「帰らない」ってそして残ったんですよ。残ったんですけどね、みんながね、「帰る」って「自分の家に帰る」って見たらね、やっぱりあの残ると寂しくてね、気持ちがおかしくなるんですよ。自分は親のとこ行くって、いやこの人も帰る、あの人も帰る、いや私1人だけ残るんだなと思ったらね、「いや私も帰る」って。どうせね、死ぬんだったらね、親と死んだ方がいいと思って。

防空頭巾ひとつにオーバー着てね、救急袋。そうしてから家へ帰って。そしたら私の父がね、「お前何しに来たの?」って。何しに来たって、「何しに来たって父さんみんなの顔見るため」って。「お前、ちゃんとお前にちゃんと書き置き来たんじゃないかって一戦交えるってから死ぬってしたからさよならって書いてよこして、何しに帰って来たか」って。「父さん、帰れって事務長が言うんです、したからもう帰ってきたん。」「まあいい、帰ってきたのはいい。」したら親子みんなしてね、やることだけやって「死ぬときは一緒にしたら死のうね」って。そういって一緒に住んだのに、私だけ残っちゃったんね。

8月にそうなりましたね、そしてから真岡でもって私らが18日に私は帰ったの。20日に真岡で艦砲射撃になりました。そのときに私がね、はーもうこっちにも来るって。2日か遅ければ私らもどうなるか分かんなかった。助かってよかったんだかどうだったんだかさっぱり分からない。あーもうダメだ。

Q:戸倉さんのお家は真岡にあったんですか?

ううん、野田(現・チェーホフ)です。

Q:野田。

うんうん。したから戻ってきてよかったんだか、残ってよかったんだか。2日残ってたら私らもう、戦争の中へ入ってしまいましたよね。してから残ったのはよかったようで親と一緒にね、死ぬんだからまあいいだろうと思ってたんです。そしてから父がね、「なんでもいいから生きるだけ生きて死ぬときはみんな親子して死ぬんだから」、「はい」って。そのときは決して泣いたり騒いだりしないように、お父さんもいろんなこと言うてね、「はい、はい」って。生きるんだか死ぬんだか、毎日が心配で心配でね、どうしていいか分かんない。そのうちに今度はロシアの兵隊が入ってきました。

私のうち少し山の中に入ったうちなんです。そうしたらみんな私のうちにね、みんな逃げてきたんですよ。そうして逃げてきてから食べる物がないんです。だから私らともう1人うちの同級生でね。ミキさんっていうた、その人とちょうど来た。「いやミキさん、みんな私の家にこうして来たのに食べる物ないからなんとかしようよ」って、「なんとかしようってあんたまだこれ8月ばっかりだのにどこさ行って何今街行ったらね、兵隊が入ってきとるっちゅうのにどこ行って何を持ってくるの」って。「山行ってさ、芋でも盗もうや。」そしたらあの人、「山行って山なんて行ってるときにもし飛行機が飛んできてからね、爆弾落としたら死ぬよ」って。
「そこで死んだってここで死んだって同じだ、死ぬのは同じだ、行こう行こう!」2人でね、袋しょって、そして山に、芋盗みに行ったんですよ。そしてからね、芋がね、山のてっぺん行ってね、芋もう一生懸命掘って、まだ小さいです8月ですから。その小さな芋をね、掘りながら一生懸命拾って袋に入れたらね、飛行機が飛んできますよ。「はっ飛行機飛んできた早く逃げろ。」逃げるったって畑の真ん中にいて、どこにも逃げるとこない。「早く逃げろ」って2人で走って、そこ笹畑ですからね、周りがね。笹もこんなに小さいんですけどうしますか?そこしか逃げるとこないからそこ走ってってバタバタ。そして、こうして見てたらね、山の上ですからね、こう飛行機が低空でくるんですよ。そしたらね、見えるんですよ、人が。「あれ、あれロスケだよ、見なさい。あんた首出すんじゃない、頭出すな。」2人でそうしてこうやって寝ながらね、「あれ、あれなんかしゃべってるんだよ、あれ、いやーあんたあんまり頭出さないようにしよう、撃たれたら困るから。」まだ頭引っ込めててそしたらまた別の飛行機がまた、あらまた来た。2人でそうしてからね、見ながら、そして飛行機がたくさん来ません。2台3台、いっても3台くらいしか飛んできません。それから、はあーって「もう来ないようだね、まだ掘ろうや」、また今度掘ってから2人でしょって、持ってきて川できれいにそれ袋から出してきれいに手で洗ってから袋に詰めて、また2人でしょってそして家まで戻ってってみんなに煮て食べさせて。「死ぬのにやっぱり腹減るんだね」って。同級生でね。そうして隠れて、うちには配給だから米も何も無いし何も無いんですよ。したからまた芋盗みにそのうちまた飛行機来ればまた逃げる。

それで今度は8月にそういうことがあってから、今度はそこではね、ちょうどねカミオっていう名字の人がね運送屋してた人がいてね、その人がロシアの言葉がたいした分かる、通訳の免状持ってた人です。その人がロシアの船がね、バイカってあるんです。野田からね、ずっと北の方に行くとこに小さな村があるんですね。そこにバイカってとことクラシってとこがあってそのバイカってとこがちょうど湾になってて、そしてそこへロシアの小さなボートみたいのが入ってきたときにそのカミオさんって人が警察と一緒に行って通訳して、ここの町には女と子どもしかいない、それに老人しかいないから、したから戦争はしないって、したから降伏するから絶対に野田の町には手をつけないでくれと。その人が行ってよく話して全然、だいいち兵隊は入ってきてもね、絶対に老人子どもと女しかいないから、したから手をつけないでくれと。そして降伏するからっと言って、すぐそこから今度は警察が全部まとめられて連れて行かれちゃったの。

Q:どこへ?

シベリア。連れて行かれてしまった。そしてから残ったのはほんとに年寄りと病人と女子どもしか残らないんですね。それで今度は冬はまあどうにかそういうふうにして食べ物もないのに海に行ってから昆布取ろうと思ってもね、そこに番兵がついてるから昆布も取られない。山へ入ったら山も入られない、番兵してて。何も食べる物が無いんです。それで今度は食べられる物が無いけども、少し日本時代に配給になった物が少しあるそれをどうにかこうにか食べて。

でもうちは私のうちは父さんと弟が働いてたから、そっから配給もらってパンもらうんですけどね。そのパンが1日にこれのパン、それを3等分したらなめるだけしか食べられないんですよ。それでもまあなんとかかんとかね、あるお米から麦粉とかなんとか大豆豆それでなんとかしてどうにか食べて。そしてから次の年の1月に、1月のちょうどそうですね、中ごろに今度は「仕事のしていないものはみんな集まれ」と、こうなったんです。そしてから今度みんな仕事してないから母も妹も私も仕事してないでしょ、したからみんな行かなきゃロシアから兵隊が来てみんな連れに来たんですから行かなきゃなんないでしょ。だけど妹はまだそのとき小さいからそれでもそのままこれは「お前は体悪いからこの子はダメだ」と言って妹は置いて、私と母さんは行ったんです。そして母さんは、今度わざとにこういうふうにして自分のこれ痛いんだって、これも痛いのつかまってしょうがないと思ってうちの母さんも「お前ももういらないって妹も小さいし痛いってこれもいらない」って。だけど私はそういうわけにはいかないから連れてかれた。そしてからこの魚のここんとこいった。

Q:工場?

そうです。そこで今度は夜昼働いた。

Q:ソ連が樺太支配っていうんですかね、それは何月からですか?

だから、すぐですよ。45年度の8月の敗戦になってからもうすぐ入ってきましたから。だけど8月に入ってきても冬中はなんの話もなかったんです。そしてそのパスポルトっていうのを作るために結局は仕事もさせないし、何も手をつけなかったんです。うるさくしなかったんです。そしてからそのパスポルトを作ってから1月の次の年の1月の中頃に今度は役所に「パスポルト取りに来い」って、取りに行ったところが私のパスポルトがトクラトミになってる。 そうしたから父が「トミでもフミでもいいんだ」って「日本へいったらお前の名前がちゃんとフミになって漢字に書いてあるけどロシア人はこういうふうにして書いてるんだからあっちで日本は通じないんだからトミでもフミでもこれいって違いますよっていってうるさくしたらまたどんな目にあうかわかんないから黙ってろ黙っておくべし」って。そしてからそのまんまロシアの国にいるときにはトミになってました。

そしてから連れていかれて仕事するのにその魚を船をね、ナンバーの何槽の船もあるとその人方に、自分たちの船のプランをね、上げたら早く日本に疎開してあげるからって言うからその人方は船をたくさん魚を取ってこようと思って一生懸命仕事するでしょ。その船が何杯もあるんですから、私らがそういうふうに連れてかれて仕事するとしてもやったことない仕事だからもう何をしていいかわけ分かんないですよ。だけど魚切ることはだい・・初めは1月に連れて行かれたときにはね魚を入ってくる、なんていうんですか港ですね。そこの周りを片づけるのにこういうふうにして拾わせるんですよ。そんなにまでして、まあ普通のゴミならほうきで掃いてこう集めても今度は小さなゴミは掃かれないから手で拾えって言うんです。軍手もくれないし何もくれないし着る物もくれないし履き物もくれないで、その1月中過ぎです。寒いのにそういうふうにして使われるときに日本人と朝鮮の人と一緒に連れて行かれたんです。だけど朝鮮の人方はすぐに「自分たちは朝鮮人だ」と「私たちはキムイルソンだって、したから私たちはあんた方に使われる権利は無い」って。そしてからみんな抜けちゃったの。日本人だけ残って。

Q:「キムイルソンだから」っていうのはどういう意味ですか?

結局ロシアと北朝鮮は仲良かったでしょ、ね。したから結局同じ共産の国ですね。そのために自分たちはもう朝鮮の人はね、南朝鮮の人韓国の人もそんな人も関係ない自分たちは朝鮮人だって。だからあんた方に奴隷として使われる権利は無いんだって。私たちはあんた方と同じ、キムイルソンはあんた方の兄弟と同じだから同志だから私らはあんた方の同士だと。だから私らが使われる権利は無いんだと。そう言ってみんな通訳がそう言ってみんな離れて、あの人らなんてひとつも仕事しない。日本人だけはお前たち負けたんだからお前たちは奴隷なんだからと。こんな話だった。だから朝鮮人は何も仕事しないでしょうに。

日本人だけ、夜昼魚取ってくればその魚をあれですよ、担架みたいなの作ってんですね。そん中に50キロずつの魚入る籠があるんです。それを開けて2人でしたけどね。初めてあれ2人で持って歩くったらね、魚の水がこぼれるし、板だから滑るでしょ。とっても滑って歩かれないよ。その場から塩蔵の倉庫があるんです。その中にタンクがあってこの人方は塩蔵するんですわ。

Q:塩蔵?

ニシンを入れたらね、そこに塩ふって。

Q:塩漬けに。

そうです。塩蔵ニシンにするんです。それを今度は魚が切れるまで一生懸命に働いて、もういつ終わるか分かんないよ。船が入ってきたらそれお仕事しなきゃならない。女とおばさん、おばさんって私は若いからいいけども、あのおばさんたちは50なんぼもなってるのにそんなこと仕事したことない人だもんだから、転ぶやらもう泣くやらもうとにかく見てられない。見てられないたって私だって1人で力ないんだから、どうにもならないでしょ。それを倒れるの見て、兵隊がちゃんとあれ持って立ってますからね。

Q:何を持って?

須田:銃を持って。

銃を持って立ってますから「ダバイダバイ」って。ちょっと動いたら、「娘!ダバイ!」って。これにはもう。

須田:ダバイっていうのには仕事をしろという意味があるわけよ。

そうしてね、それをね行ったり来たりしてるうちに足もふらつくし、お腹は減るし何も食べるもん無いから。

もう目が見えなくなるんです。倒れたら兵隊が来てけっ飛ばして「仕事しろ」って。そしたら私日本語で言うんです。「この畜生野郎、お前たち戦争してね、勝ってみれ、お前一番最初に殺してやる」こうやって言った。あの人は私を見て、何をごちゃごちゃ言ってるわ。私は何自分勝手なこと言ってるって文句言うて。したらねおばさんたちがね、「あんたそんなこと言うもんじゃないってこの言葉もし分かる人が聞いたらね、あんた銃殺されるんだよ、黙ってなさい」って。「何をこれ黙ってるって、銃殺されたらされたでいい、こったらもんに負けてたまるか。」「あんた一人でやったってね、あんたのために私たちまで殺されるんですよ」って。ああそれもそうだなと思ってから黙ってまた仕事する。夜中の12時や1時までやるんですよ。朝になったら8時までに行かなきゃダメですよ。

食べる物は、なんもない。パンこのくらい。生きていなくてちゃんと真岡で残っててね、20日の艦砲射撃のときにね、あそこでもって死んで方がよかったと。なして生きたか。うちへ来たらもう、もの言うのも靴脱ぐのも、疲れて家入ってきたらもうその戸開けて入ったら、もうそこは私の家は土間なんですよ、土なんです。そして少し行ったら玄関のあれ。そしてそこまで行ったらやっとそこへ座ったらそこでもう・・・。そしたら私の母がね、「いやーフミやフミや、起きれ、起きれ、さあ少しつゆたいてあるからね、それ食べれ」、そのつゆたいてあるのがね、もうね、うれしくてうわっと起きるんだけど、靴を脱ぐのもいやだしもう。

そしたら母さん、「早く早く、早く起きて顔洗って手洗って・・・」「顔も手もそんなものいらない」そしたらもう座ってるところへ母さんがね、ちゃんと塩汁の中にね、豆とかね米だかなんだかごちゃごちゃ入った物を入れて持ってきた、「さあこれ食べれこれ食べれ」、座ってまだ靴も脱がない手も洗わない顔も洗わないでそこに座ってて食べていながら眠ってる。

眠りながらね、食べててもね、そんな食べたか食べないか分からないですよ。そしてそのままそこでね、横になっちゃう。そしたら起きて目覚めてみたらちゃんと布団入ってるわね。そしたら、「あれー布団入っていつ寝たの」ったら、いつでもいいから早く起きて顔洗って。そして「わあ8時、早く早く」また忙しい顔洗ってからもう今度また食べるってもこれ自分1人でこれ食べて、弟もいるのに妹もいるし。「お前たち食べたの?」って、「うん食べたよ」って。「これ、食べてもいいの?」っつったら小さい弟も「うん」って。そしてからそのとき小さい弟がね3年生になったばっかりでしたけど、「姉ちゃん食べなさい」って。

「食べれったってお前食べたの?」「うん、俺な、川行って魚釣ってきたんだ」って。「どんな魚?」あれ点々あるやつ何て言うんですか、こんな小さいのね、それ川から釣ったんだって。それ食べられないよ、これ釣ってきたからで自分で食べないで私にくれるの。「これ食べたらお前食べるの無いのにこれ姉ちゃん食べたらどうするの」って聞いたら。「でも姉ちゃん仕事してんだろ、食べれ」って。いやー涙しか出ないよ、涙を垂らしながら頭からかじって食べてね。「いやーイサムごめんね、姉ちゃんね、仕事やっててね、ニシン持ってくるから」って。

ニシン持ってこられますか、そこで仕事して。プラハドノイ行ったらね、番兵してるからね、あそこ通ってくるとき頭から体から全部なでるんですよ。してからね、娘が乳が大きいとねこうやってつかむ、こんなことするんだよ、プラハドノイで。

須田:プラハドノイっていうのは出口みたいなとこで立ってるわけですよ。そして物を盗んで出ないようにって全部調べられるから。

Q:もし盗んだらどうなるんですか?

え?

Q:もし盗んだらどうなるんですか?

盗んだらすぐ監獄行きですよ。だから盗むことができないんですよ。1匹でも半分でも捕まったら監獄行きですよ。したからね、母さんがね、「いくらお腹空いても決して盗んだらダメだよ。持ってきたらダメだよ」って言われて。じゃあそのニシンをね、あのおばさん達は胸がこんななってるからこの中にこう入れてね、包んでからこん中に入れて、はいって歩いてもね、こうやってね、調べるんですよ。そしてそこからね、ニシンを盗んでね、そしてから1年間入ったおばさんも3人もいましたよ。私らは絶対に盗まないから、もう私の母は「絶対にそういうことしたらダメだ」って「そんなとこに入って苦労する」って。だから今ここにいてて食べられないで苦労する、そこへ入って苦労したらどうするかって。

Q:女の人でさっき監獄に入れられた人もいるって。そこからシベリアに行った人もいるわけですよね?

いえ、シベリアでなくて、それはユジノサハリンスクっていうあの豊原、そこに大きな収容所があったんです。そこへ入るんです。もう1日休んでもそこへ入る。ニシン1匹盗んでも入る。3匹盗んでも入る。タラ1匹盗んでも1年入る。豊原ではなにかあのね、養鶏所で仕事して卵をね、盗むんですってねみな、卵を弁当ガラに割ってから入れるんだそうですよ。そしたらそれが見つかってみな入った人がいっぱいいるって言うんですよ。とにかくうるさいんです。あっちはもう何もひとつも持たせないんですから。

Q:卵1つで。

卵1つは盗まないさ、やっぱ5つ。弁当箱入れるんだったらば、まあ5つか6つ割って入れるでしょ、でも弁当箱重たくてみんな結局調べるからそしてから入ったでしょ。私らのとこもそうして1日休んでも入る。3日休んでも入る。もう1年、長くは入らないけど1年は入るんです、みんな。そしてから仕事一緒にしてても若い女の人方なんかはお腹おっきくなってから、それでもどこも行って証明なんかもらえないんですから。したから仕事するでしょ。その度にみんな力仕事するんですから。みんな流産して、そしてみんな体悪くする人がたくさん出ましたよ。私らみたいにひとりもんだったら、まだ結婚してないからたいしたことないんだけど、結婚した方はね、結婚しててもねお腹でも大きくなきゃいいんだけどお腹大きい人はほとんどもう流産して体悪くして。

男の人でもあちらはもう亡くなったらお墓をね掘る人がいないんです。そしたらね、働いてる人「お前いって墓掘れ」って言うんです。したら1人のおじさんが今度、自分はこの歳になるまで墓穴なんか掘ったこともないのにそんな仕事させるって言って亡くなった人もいるんです。

Q:自殺?

首つって死んで、「こんな仕事したくない」ってね。なにあのロシア人のね、墓穴掘れってね、「俺はそんな仕事したくない」ってそうしてね、首つって死んだ人もいるんですよ。

魚盗んで入るし。そういうふうにして仕事そういうことされたとして死ぬ人もいるし。

Q:監獄に入れられて、帰ってこない人っているんですか?

いやみんな帰ってきます。やっぱり刑終わったら帰ってきます。だけどたいした食べるもん無くて苦労するらしいですよ。

Q:そういう話も聞いたんですね。監獄の中。

中入って戻ってきておばさんはね、ちょうど秋に近かったから芋掘りにやられたそうです。そうしてから芋を盗んでくるのにどうして盗んできたらいいのか分かんなくて考えして、頭のそこひとつあげて、そしてこうほっかぶりしてこここうやってハチマキみたいにして、そのひとつの芋を持ってくのに頭にのせた。

Q:そのおばさんは何で刑を受けたんですか?

その人仕事、体悪くて仕事休んで。そしてから1年入ってきた。

Q:何日休んで?

2日。3日目に連れていかれた。もうその当座はほんとにひどかったんですよ。ほんとにちょっともの1つ盗んでも入るし、そういう時代ですから。もう、ほんとにもう。したから何にも悪いことできないし、悪いことも言われないんです。下手に聞いたら言ってなんですけどこの朝鮮の人方はね、その日本人がああいうこと言ったこういうこと言ったって言われますからね。

須田:密告されるっていうんです。

そしてから入るし、子どもがねロシア人の子どもとケンカして子どもと子どもとケンカするでしょ、それで親がチョルマン(監獄)行くんですよ。行った人いますよ。だからもうどんなにキツいんですか。その当座は。もうあとからはね、楽になってきましたけど。したけど初めのうちはホントにキツくてキツくて、もう物もろくに言われないし、誰か2~3人のが集まって誕生日だからとして集まってお茶の1杯もやったらすぐあそこの家は集まって何かしてると。誕生日だからって言ってもそれ聞かない、「何お前たち話してるか」って連れてかれる。したからね、隣近所で集まって座って話もできない。そういう時代、私らが住んだんですよ。

Q:集まって話してたら、何の相談してると思われるんですか?

結局逃げる相談してるとか、何か盗む相談とか。結局逃げて行くとか、船に見つけて日本へ渡るとかそういう相談。だから集まることもできない。

Q:さっきチョルマンって言いましたね?

チョルマンっていうのは監獄です。刑務所。したからそれ入りたくないばっかりにみんなが黙って何にも言わないで、隣近所でも集まって話もしないし。

いちばん最初に初めはあったんだろうけど、私らはまだ入ってなかったんです、だから私が今言うでしょ仕事してプランを上げなきゃ。そしたら帰してくれるんです。それも船が日本の船が入れば。日本の船が入らなければプラン上げていても船入るまで待たなきゃいけないんです。だからいつになったら帰れるか分かんない。それでもうち弟とかが少しよく働いてお父さんもよく働いたからやっぱ3年目に48年度ね、3年目に帰国しました。

Q:お父さんと弟さんが?

家族全部。私だけ残ったの。私はちょうどそこで働いていて、食べる物がなくて、そのうちの旦那、私と一緒になってた人、その人が北朝鮮、13のときに北朝鮮から日本に仕事で連れてこられた人なんです。小樽のガラス工場でアサハラっていう。そこで働いてて敗戦になった人なんです。それで、その人が自分の国は北朝鮮だからって、元山ってとこです。そこで自分が帰るとして、その朝鮮の人方が仕事にロシアの国に労働に入ってきました。その人方の仲間に入ってうまく話をして帰るように作って、入ってきたのがその人が私らが入ってるその工場に入ってきたんです。それでその人日本語ばっかりしか話しないけど、朝鮮語はよく話しなかったんです。

Q:13歳で来たから?

ええ。13で敗戦になったのがあの人が歳が20歳ですから。ですから日本語しか言わないんです。朝鮮の人と一緒に働いてたんです。私らがニシンのたる、あっちは箱で詰めないでたるに詰めるんですよ。そのたるに詰めるのに私ともう1人の人と隣の娘さんと2人でニシンを詰めるのに3等品がいちばん悪い品です。

そうしてから掃除してからニシン詰めてるときに私たちの詰めたニシンのたるを運ぶ人がちょうどうちの言ったうちの旦那になった人がその人。そしてその人が結局北朝鮮の人との仲間に入ってたからパンとか缶づめとか、それから肉とか、砂糖とかお酒とか配給でなるんですよ。日本人は絶対何にもなんないんだよ。あるんですよ、あの人方は。したらその人がね、私たちの働いてるすぐそこんとこでねパンを包んだやつをそこに置いてくの。あれが気になってお腹空くからね、あれが気になってとっても仕事できないんですよ。あれパンね、落ちたらいいんだけど落ちないし思ってから。したらね、その人が昼行くときにね、私たちを見るの、私らが黙って2人して。そしたらね、パンをすっとちぎってね。パッと置いてからサッって行くんだよ。よくくれましたよ、したから私がね、ひゃあこれありがたいなって、いい人だと思って一緒になったの。食べ物くれたから。

Q:でもそのお父さんたち、フミさんを残してみんな一緒に。

行きました。そのときに言われました、「お前が、朝鮮人と一緒になったらお前はもうちの子どもではない」ってね、「お前は籍抜くからそのつもりでねこの人と一緒に残んなさい」って帰ったんです。そしてから私は思いました、籍抜かれたかと思ってたんです。だけど母がね、「死なないのになぜ籍抜くか」って。「死んだらね抜いてもいいけど死なないうちは籍抜いたらダメだ」ってそういって母が言ったそうで、妹が言ってました。そして姉さんの籍を抜かなかったからこうやって籍があるんですって。

Q:でも自分ひとりだけ置いてかれて、みんな帰ったらほんとにどんな気持ちだったんでしょう。

思いましたよ。いやー死ぬつもりでいたのにね、ここでこうして残るかと思ってね。してもね、自分で決めたこと私が思いました、もう自分でこの人と一緒になる死ぬまで一緒になるって決めたんだから、どんなことがあっても絶対に死ぬまで一緒になりますって。

それで置いていかれてからやはりねいちばん大きい娘ね、その子どもを産んでまだ10か月、1年たたなかったんです、そのときにロシアのあれでみんな呼ばれました、日本人の女は全部。日本に疎開していく気持ちがあったら疎開させるからって集められました。

そのときに私が行くからとしてうちのその子どもにあるきれで服を作ってたんです、そしたらうちの人が、「お前家へ帰るのか」って。「帰る」って。「なして帰る」、「お前自分で言ったの忘れたか?」「何を私が言ったの?」「お前言ったじゃないかって一緒になって死ぬまで一緒になりますってお前親に言わなかったか?」って。あれー?これ困ったなと。あれー?「あんた覚えてたの」って。「俺覚えてるぞ」って「いやーそんなこと忘れたら良かったのにね」って言って。して、「ちゃんと俺覚えてるぞ、お前死ぬまで俺と一緒になってるって言ったんだよ」って。「ああ言ったかもしれないね」って。「お前そしたのに今これで子ども連れて日本へ行くって言うのか?」って。

「行くよ、こんなとこにいないよ私」って。「お前うそ言って、親にもうそ言って俺にもうそ言った」ってね。「日本人ってね、絶対にうそ言わないって言ったけどね、お前自分で言って自分でも忘れてうそ言うんだ」って。ああそうかな、これ悪いことしたなって思いました。「お前がそうやってね、親の前で誓ったんじゃないか。」ああ悪いこと言ったなと思ってね。「分かりました、残ります」って。そしてからずっと残ったんです。だからいくら私がうちの人にいじめられても、よその人にいじめられても、言ったんだから、言ったんだからわしは日本人だから絶対にうそは言いませんよ。最後まで残りましたね、そしてあの人が亡くなってから、亡くなってもう30年ですけど。

私らはほんとに、つめられましたね、ほんとに私なんか仕事やってても、もう怖いから朝仕事に出て行かれなくて、もう朝4時頃3時過ぎ4時頃帰ってくんのに8時に仕事出なきゃなんないから寝る暇ないでしょ、起きられないんですよ。怖くて。そしたらね、兵隊が2人くるんです、そしてから日本のうちはみな畳み敷いてますね、あの人方なんか兵隊だからね靴履いたまんま銃持ってバンバンバン戸開けて入ってきて、「娘!アラボータイアラボータイ!チョルマン!」こうやって言ったらもう何も言うことないそのまんまもう顔も洗わないで飛び出してって仕事しに行く。

私はこんなにして苦労したけど、いやー苦労しないで何にもしないで私らはホントによく生活しましたよって聞いたら腹立ってくるね。はあー私はもう死ぬような思いして仕事やってから何かしたらチョルマンチョルマンってぼったくられて仕事したのにね、食べる物もなくて、この人方はええ、私はほんとによく生活しましたよ、私はもうああだこうだって言ったら何言ってんだかお前って。

Q:そういう人っていうのはどういう人なんですか?苦労しなかった人っていうのは。

さあ。その人によりけりですよね、やっぱり。

Q:旦那さんの写真はあるんですか?

ありますよ。

Q:ほんとだ、似てますね。それ家族写真ですね。これ娘さん?

はい。

Q:キレイな人ですね。

私に似てない。

Q:確かにお父さんそっくりですね。

ええ、父にそっくりだから証明書もらうのに、何にも言わずにすぐ書いてくれた。してから娘とね、父親同じ顔してるからね、何も証明しなくてもいいからってすぐ書いてくれた。

Q:子どもさん4人ですか?

2人です。これはね娘で娘婿。これは娘の子ども。

Q:お孫さん?

はい。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1925年
樺太の恵須取(現・サハリン州ウグレゴルスク)に生まれる
1942年
真岡看護婦養成所で学んだ後、看護婦として樺太庁立病院に勤務
1945年
真岡(現・ホルムスク)で終戦を迎える
 
その後はソ連の軍政下で強制労働につかされる
 
朝鮮半島出身の男性と結婚
2009年
日本に永住帰国

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