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タイトル 「姉の胸に閉ざされた抑留」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 酒井 旭さん(シベリア抑留 戦地 シベリア(シベリア) 満州(佳木斯)  収録年月日 2014年6月4日

チャプター

[1] チャプター1 写真に残された思い出  09:06
[2] チャプター2 姉の思い  11:24
[3] チャプター3 沈黙せざるをえない心情  07:59
[4] チャプター4 中学生の体験入営  05:14
[5] チャプター5 父・姉との別れ  05:05
[6] チャプター6 自決していた兄  05:29
[7] チャプター7 姉の手紙  06:44
[8] チャプター8 姉との再会  10:05
[9] チャプター9 深刻な心の傷  02:33

提供写真

再生テキスト

これが皆さん卒業証書持ってるんですね。だから、これ卒業式のときの写真なんだと。姉のクラスが2クラスあったようでしてね、それとこれと隣のクラスと、合わせて70~80人位の人数の女学校だったんですね。

Q:お姉さんはどれですか?

うちの姉がこの右から2人目の、真ん中の列の右から2人目なんですが・・・。これが昭和54年ですか・・・のころの同窓会の案内状なんですね。前にお話した同窓会誌というのを、今回まだ見つからなくって、それでこれが1つの佳木斯(ジャムス)高等女学校の同窓会をやっていたという1つの証拠になるんですが。毎年そのころはいろんな所で・・・この年には北海道で、皆さん全国から集まってこられて。

それで、この10年前位から満州(現・中国東北部)の同窓会っていうのは、どんどん終わってしまいましてね。佳木斯の小学校の同窓会がいちばん最後まで続いたんですけど、3年前になくなりました。女学校はその前、中学校は15年前位にもう、集まらなくなりましたし。ですから本当にこう、昔のことを語る人っていうのが・・・自分の子どもとか何かにも、実は話してないんですよね。お互いに聞いて・・・そうだったな~という相づちを打ってくれる人もいなくなると、話をしなくなるんですね。そういうものだと思います。

これわが家の・・・姉が小さいときの写真がいろいろあるんですが。こういうの見ていますとね、兄の格好を見ますと、中学のときで・・・旧制高等学校のときで、それから旧制大学のときの・・・っていうので、わが家の歴史というか家族の生い立ちが、だいたい兄の着ている服装を見ると分かるんですが。

Q:この写真はご両親とお姉さんと旭さんですか?

はい。あと、これがいちばん小さいときの写真なんですが。これが前にコピーをとって、ちょっと使ったことのある・・・姉と弟という。この位の年頃っていうと、3つ年が違うと絶対的なこう・・・面倒見る側と見られる側という関係でして。姉にとっては、私は本当に泣き虫の弟っていう印象が一生涯あったみたいで。その姉が最後に亡くなる日の電話のときも、すごく心配して電話掛けてきてくれたんですけども。あと、ここは上の姉たちの写真で・・・ここが兄の写真なんですね。兄は、大連の中学を卒業した後、内地に・・・あのころは満州の人たちにとっては、内地に留学するって言ってたんですね。中学が終わって、満州での旧制高等学校とか旧制大学っていうのが、ほとんど魅力的な所が少なかったものですから。大抵の学生は内地の方に進学したので、兄も旧制の水戸高等学校に入って、それから、その大学には、京都大学だったんですが。 毎年夏休みには満州に帰ってきてたんです。これもハルビンの松花江のほとりで撮った写真なんですね。ここにハルビンて書いてあるので、1つの懐かしい思い出の写真なんですが。兄が軍人になってからの写真がこれなんです。ですから非常に弟思いで・・・そのころ、満州では手に入らないような小学生向けの参考書だとか、『少年倶楽部』だとか、いろんなのをいっぱいお土産に毎年買ってきてくれましてね。いい兄だったんですけれども。

これは、恐らく姉の誰か同級生が持って帰ってきたのを分けてもらったのか・・・どういう人から姉がもらって、手元に置いていたのかっていうことは分からないんです。ただ、姉が嫁いだ家に残っていて、それで今回話しを聞きに来たと言ったら、いろんな昔の写真残ってるのを出してきてくれましてね。

姉にとっては、その結婚してからの40年間っていうのは、非常に幸せな人生だったなぁと思うんです。姉の最初の18歳までのああいう、地獄のような経験と、それから引き揚げてきてからも、父も兄もいない訳ですから。姉が大黒柱として一生懸命働いてくれて、弟を大学へ進学させてくれて。年取った母を養ってくれたという、一家の大黒柱として20年近く働いて、そのあと嫁いだ先で、ようやく姉の笑顔が見られるような写真が非常に残っていたものですから。シベリアで命を落とした人たちと比べると、命を永らえて帰ってこれたということは、非常に大きな違いだったんだな、というような気が致しますね。

この本の中で、この陸軍病院の看護婦さんたちの部隊がソ連の兵隊によって拉致されたという方が、姉のこの同級生の、この写真の中でどなたかっていうのは、私もちょっと分からないのですが。非常に姉の仲良しの友達の1人で、うちにも遊びに来ておられた方なんです。上田房江さんという方なんですが。その方を一生懸命探して、それで上田房江さんのお姉さんと連絡がついたことがあったんですね。そのころ、姉が一生懸命になって探している姿を見て、シベリアのときの生活っていうのが、姉にとって・・・こういうシベリアまで送られる途中のことも含めて、非常に大変な経験をしたんだなぁということを、そばで見ていて感じたんですが。姉の口から、どういう苦労をしたとかいう話は一切ありませんでした。恐らく世の中の方たちはシベリア抑留というと、零下40度とか、非常に厳しい気候のところで強制労働させられて、ということが理解できるというか、イメージとしてそういうことを思い浮かべる人がほとんどだと思うのですけれども。うちの場合には、私自身が関東軍から武器を渡されて少年兵としてソ連軍と立ち向かう立場にいて。日本が降伏したらしいという話を聞く前にソ連軍と遭遇していたら、銃撃戦になって全滅させられていたと思うんですね。それが8月の20日過ぎぐらいになって、どうも内地の方では戦争が終わったらしいという話を聞いた後で、ソ連軍が進駐してきたものですから、武器を捨てて投降して、我々の中学生の部隊も、実はシベリアに送られる列車の順番待ちをしてたことがあるんです。いよいよ、その乗せられるという番になったときにソ連軍の将校が、「何だこの子どもたちは」ということで、この連中はシベリアに送る必要がないという判断をしたらしくて、それでシベリア送りを免れたんですけれども。そういうことがあった後、ハルビンの街に移動した後、ハルビンの街では毎日のようにソ連軍の兵隊が民家に押し入ってきて略奪暴行したんですね。2か月程でしょうか・・・本当に生きた心地がしないほど、ソ連軍のひどい略奪暴行っていうのを目の当たりにしてたものですから。あの連中にシベリアの収容所で、どんなことをされたのかっていうことが非常に、身につまされるといいますか、とてもわが家ではシベリアのことを話題にする雰囲気ではなかったんですね。姉がそういうふうに友達と一生懸命連絡を取って、行方不明になった友達のことを一生懸命探して。恐らくこの本の中にもありますように、自決用の毒薬を飲んで一生を終わったのか。あのころは日本の軍隊というのは、とにかく辱めを受ける前に自分で命を絶てということが強制されておりましたから。そういうことからも本当に、大変だったんだなぁということがよく・・・感じておりましたので。

今回もし、まだ姉が存命でいたとした場合でも、私が今回こういう取材を受けて、じゃあ、姉を紹介したかと言うと、恐らく姉の気持ちを分かっていますから、姉の口からいろんなことを聞き出すことは、恐らくできなかっただろうなと思います。

Q:私が仮にお姉様が存命中に、(お姉様に)お尋ねしたいという希望を伝えたとしても、酒井さんのお気持ちからすると、遠慮して頂きたいというお答えをされたと。

そうですね、そうだと思います、はい。

Q:お姉さんの気持ちが分かるということですけれども、どういうことなのでしょうか?

そうですね。取材に応ずる方それぞれ1人1人、心の中の傷というのも、それぞれ違うと思うんですね。ですから、もちろん貴重な経験をお話になる方、それからそういう気持ちになれない人、それぞれの重みがあるという気がするんですが。 あの・・・言葉に出せない。姉と私の場合を例にとりますと、この弟の経験したことっていうのは、まだはるかに苦しさから言うと軽いものだったんですね。いろんな人がつらい思いにあったり、銃殺刑にあうような場にも立ち会ったりしてきている訳なんですけど。自分がもし、もっとひどい目にあっていたら、恐らくそういうことはもう・・・忘れてくれというような。忘れずに、こういう昔の・・・何と言えばいいのでしょうか、犠牲の上に立ってこれからのことを考える人たちに伝える意味が十分あるとは思うのですけど。当事者の人にとってみたら再生したくないという。それで自分の今、幸せな生活を乱したくないとか、いろんな、もう一段レベルの大きい苦しみを経験した人は、沈黙を守るんじゃないでしょうか。だから話さないということの重みをどのように伝えるか。いろんなこういう間接的なものから、そういうつらい経験をした人も居たんだということを、どのように伝えたらいいのか・・・。

今回のような、シベリア抑留というようなことは、何もソビエトだけがやったことではなくて。いろんな戦争をやった国全てが人道に恥じないことをやってきたと胸を張って言える国はないと思うのですね。ですから1つの国の責任を問うというよりは、戦争そのものがあらゆる罪を犯すと言いますか、悲劇を巻き起こして。それでも懲りないで、また同じような道をこれから歩もうとしているような、そういう人たちに対しては、本当の事実を伝えるっていうことが非常に大切なことだと思うのですが。ほとんどの人は黙ったまま消え去っていくのですね。

Q:酒井さんご自身も、終戦前後の思い出を振り返らないように、ずっとそういうお気持ちを強く持たれていたのですね?

はい。自分の人生はいいことばかりじゃなくて、非常に波乱にとんだ人生だったものですから。振り返る余裕がなかったということと、それから、同じ佳木斯という街に住んでいた人の中にも、非常に佳木斯という街、満州の時代を懐かしんでいる人たちも大勢いました。そういう人たちは何回も訪ねて、昔の建物が残ってたよ、とかいう話をする方もいるんですが。 それは、やはりその方が懐かしむ気持ちを持てるような恵まれた人たちだったと思うんですね。いい思い出がない時代のことは忘れてしまって、前向きに生きていくっていうのでしょうか。そういう、やはり非常に暗い苦しい時代だったということは伏せておいて。そして、その日その日の問題に立ち向かってきたというか。そうして姉が亡くなって初めて、姉の同級生をこの佳木斯の小学校の同窓会なんかで探し始めたんですね。姉の口から聞けなかったようなことを、何か聞けるかな、と思って探したんですが。

この本があるよということを教えてくださった方も、その満州を巡るツアーに参加されたある方から教えて頂いたんですね。一生懸命本屋さんを探して回りましたら、ようやくこの本が見つかりまして。ただし、そのときこの本が並んでたのは従軍慰安婦と同じ所に並んでたんですね。世の中の人は従軍看護婦と従軍慰安婦の違いも分からないのではないかと。 この本を読みましたら、そのシベリアでの収容所での生活が日本の軍人の医療行為であったということが書かれていて。ああ、それならっていう、ほっとした気持ちというのでしょうか。それならよかったな・・・というのでしょうか。こういうのは家族だから、そういう見方をしてしまうのかもしれないのですけど。最悪の地獄ではなかったのかということで、安心するような気持ちになりましたね。

Q:逆に言うと、こういう本で事実を知る前は、どういう地獄だったのか、どういうふうに想像をされていたのですか?

それは私自身目の前で、ハルビンでソ連軍兵士がやってたこと、それからいろんな日本軍の兵士が行っていたことなどから、それと同じような目に遭っていたとしたら、非常に家族として許せないというのでしょうか。それを姉の口から確かめる訳にはいかない訳ですから。それで姉が一生終わった後、どうだったのかなという気持ちが、昔を振り返るようなことに繋がったのかもしれないですね。

佳木斯(ジャムス)師団に体験入営といって1週間位でしたか、入営して、中学1年生がいろんな軍事教練とか何とか受けたんですけれども、そのときに匪(ひ)賊討伐という…匪賊が出て日本人が殺されたというときに、現地に到着したら既に匪賊はいなくなって逃げてしまった後だったんで、近くの部落を取り囲んで火をつけて村人全員を焼き殺しにしたと・・・いうことをいかにも自慢げに中学生に話をしてくれた訳です。「そうでもしないと、あの連中は懲りないからな」と言って、高笑いをしてたんですけれども。

ソ連の方からすれば、日露戦争の恨みということとか、いろんな過去の報復ということもあったかもしれないですけども、囚人部隊の兵隊っていうのは、それとはまた違った、非常にその・・・悪いことを何でもやるような連中を第一線に投入して、満州に侵攻してきたようですから。終わりの方になって、大連の街なんかに進駐したソ連軍は、割合行儀のよい軍人だったという話を聞いているんですが。広い満州の中でもいろんな所で経験した人の違いというのは、いろいろあったと思います。だからシベリアの収容所でも、非常に人並みの人道的な扱いを受けた収容所もあったと思いますし、そうでない所もあったのではないかなぁと思うのですが。

Q:佳木斯師団で匪賊討伐の話を聞かれた当時は、どのような印象を受けましたか?

そうですね。中学生になってから学校の中でも、配属将校というのが来てたんですね。中学生に対して軍事教練を指導するだけでなくて、あらゆる面で非常に厳しい監督というのでしょうか。上級生が下級生を毎日ぶん殴るというようなことをやらせていた訳ですね。
お前たちはとにかく絶対服従しろと。いうことで、中学1年になって、日本の軍隊というのはどうしてこんなに、いわゆる新兵さんと言いますか、新しく応召を受けて兵隊になった者をいじめるのかと。決して軍隊に対するイメージというのは、尊敬する兵隊さんというのではなくて・・・中学生なりに、こんなことでいいのだろうかというような、批判的な気持ちを持っていました。

姉が看護婦さんに召集されたときというのは、私は開拓団の勤労奉仕で、もう家から離れて家に居なかったものですから、どういういきさつで姉が佳木斯の陸軍病院の看護婦にさせられたかということは知らなくて。ちょうど8月9日に、ソ連軍が侵攻してきたと言って、私たちが佳木斯の街に勤労奉仕から戻ってきたときに、姉も陸軍病院から家に戻ってきて、荷物をまとめて集合場所に行くんだと言って。私も中学生の、関東軍の将校から武器を渡される場所に行かなきゃいけないということで、2時間程だったでしょうか・・・慌ただしく家族がこのときの、この家族が兄がいない4人で、慌ただしく別れの話をしたのが、父と姉との最後だった訳ですね。

Q:8月9日にご両親と家族4人で再会されて、そのときお姉さんとどんな言葉を交わされたとか覚えていますか?

そうですね・・・先のことが全く分からない・・・ソ連軍がどこまで迫ってきてるのか、佳木斯の街がどうなるのか・・・両親は松花江の川を船に乗ってハルビンの方に避難するということは、そのとき聞かされました。父として、娘と息子がそういうふうに軍隊の方で行動を別にするということに対して、「頑張れよ」というような言葉しかなかったんですね。後になって中学生の中にも集合場所にこなかった友達が、3分の1位いましたかね。家族と一緒に行動するようにと言われてこなかった。そういう家もあった訳です。ただうちの場合には、父はそういうことは言わないで「頑張れ」というようなことだったと記憶してますが。姉がシベリアからいよいよ復員できるということで、ナホトカの港まで来たとかいうときの手紙が、山形県の米沢の親戚のうちに手紙が届いたんですね。だからそういう内地に帰ったときに、ここの家が実家だからというような、そういう慌ただしい中でも、先のことについて話合ったんだったかな・・・というような気はしますけれども。

兄は北九州の特攻隊の基地で技術将校として務めていて・・・終戦後1週間ほどしたときに、一緒にいた特攻隊基地の若い技術将校が10人程でしょうか、自決をして。その話を私が日本へ引き揚げてから聞いたときは、何でせっかく平和になったのに、死ななきゃなんなかったのかと理解できなかったんですね。

ところが去年、九州の鹿児島県の知覧にある特攻隊基地を訪ねたときに、特攻隊の若い兵士たちが最後に残した遺書がずっと、千何百人分が壁に貼られていたんですね。うちの兄が居たのは福岡県の大刀洗飛行場の特攻隊基地だったんですけれども。毎日、出撃していく少年兵たちを見送っていて・・・それで自分たちは、死に損なったという自責の念で、あの少年兵たちの後を追わなければという、非常に純粋な技術将校たちの、自決する決意に至った、ことだったんだなということがようやく分かりまして。日本の軍隊というのは、日本人を民間人を守るというよりは、死に追いやる軍隊だったと思います。1億総玉砕と言って。

特攻隊基地で、出撃を命令した上官と、それからうちの兄は京都大学の工学部で航空工学を専攻したんですね。それで卒業して陸軍に取られて・・・確か陸軍の航空技術大学かどこかで、戦闘機の設計や何かのことを専攻して。 特攻隊基地では、出撃する飛行機の整備というんでしょうか。その、戦地に到着する前に墜落することがないようにとか、いろんな整備をして送り出す立場だった訳ですけれども。兄たちの気持ちとしては、帰ってこない特攻隊の兵士たちを送り出すときの気持ちというのが、君たちだけを死なせるんではなくて、俺たちも後に続くからな・・・というような気持ちで、そういう気持ちで毎日見送ってたんだと思うんですね。

Q:遺書の展示をご覧になったとき、そういうこともお感じになったのですね?

はい。毎日こういう特攻隊の兵士っていうのは、20歳前の兵士が多かったらしいですね。兄が亡くなったのが25歳位でしょうか。だから年下の弟たちを毎日見送っていた訳ですよね。

その当時、酒井さんが葫蘆(ころ)島から日本に帰られて、その当時はお姉さんの消息は全く分からなかったのでしょうか?

分かりません。米沢に落ち着いてからも、いろいろ探したんですけれども。満州でそれぞれいろんな・・・離れ離れになった人の消息というのは、家だけじゃなくて、皆さんずっと分からないままで。それこそ残留婦人とか残留孤児とかいう方が、何十年ぶりに、ようやく消息が分かったというような、そういう例が非常に多かったようですね。

Q:探していたときは、どういう所に問い合わせされたのでしょうか?

あのころは、引揚援護庁がいろんな、尋ね人というラジオとか、いろんな新聞でやってましたですね。だから、そういう所に何か情報がないかと。それから、佳木斯から引き揚げてきた人たちの人づてに、女学校のときの人たち知らないか、とか。そういうようなごく限られた探しか方というんでしょうか。非常に絶望的な・・・ああ、あそこで亡くなったというようなことを聞くのが怖いような、そういう状態で。まぁそれでも家の場合は、母と私が満州から引き揚げてきて、姉からの、シベリアからの手紙が届いたのが1年足らずの間でしたから。 そういうハラハラするような、時間っていうのは比較的短くて済んだんですけれども。シベリアから10年以上遅れて復員してきた人もいた訳ですから。だからそういうことからすれば、まだ早く帰してくれたのかな、というような気がしますけれども。

Q:結果的にはそうなんですが、当時のお気持ちとしては・・・

そうなんです。いつ帰してくれるか、この中にも書いてありますけれど。移動するときに、今度は日本に帰してくれるのかと思ったら、そうじゃなかったという。何回も裏切られたというようなことが書いてありますけれども。確かにそうだったと思います。

Q:シベリアからの便りでしょうか?

はい。

Q:初めて届いたときの第一印象はどうでしたでしょうか?

びっくりしました。まぁ僕自身がシベリアに送られそうになった訳ですから、大勢の人がシベリアに送られたということは、知ってた訳ですけれども。それから、シベリアに送られるのがいやで、その護送、送られる列車から飛び降りて逃げてきたっていう人も大勢いたんですね。ですからいろんな、それは満州で、ハルビンとか新京の街で、そういうシベリア抑留の途中から逃げてきたっていう人が大勢いましたから。

まぁ結果的に命を落とさずに帰ってきて・・・。あの、『異国の丘』の歌の歌詞にあるように、何とか生き長らえて、それまで歯を食いしばって・・・という。いつまでこのつらい収容所の生活を続けなければいけないのか。2年3年5年10年と、先の見えないような生活をしていた人たちのことを考えると・・・本当にああいうこと、日本人だけでなく世界中のどこにでも、そういうことがあってはいけないと思いますね。

Q:しかもお姉さんたちの年齢は、すごく若いですね。

はい。あの、本当にこれを見ると、こんな若い子どもたちが、という。

Q:終戦の年に・・・

16歳ですからね。

Q:舞鶴でお姉さんと再会されたときのご様子を教えていただきたいのですが。

姉がびっくりしましたね。弟が迎えに来てくれていたということを。迎えに行った弟の立場からすると、2年半ぶりの再会で、それで・・・ああ、無事帰ってきてくれたという・・・。後から考えますと、姉は米沢に戻って、比較的早くもう、銀行勤めに出るという元気があったんですね。精神的にもしっかりしていたというか。よくまぁ、あんな環境で将来のことが絶望的な状態で、それに耐えてようやく家族と再会できて、姉の心境というのも非常に大きく揺れたころだったと思うんですね。でも非常に弟から見るとしっかりしていて、すぐ戦後の食糧難とかいろんな激動の時代ではあった訳ですけれども。少なくとも命の危険はないと。夜でも、若い女の子が一人で外出しても心配ない所で暮らせるということで・・・姉としてもこれから父とか兄の代わりに、我が家の大黒柱として頑張るんだという気持ちになってたんじゃないんでしょうかね。

Q:舞鶴で再会されたときは、どんな服装でしたか?

覚えてないですね。・・・軍服のようなものだったか。印象としては何か、カーキ色でズボンで・・・ていうような服装だったような気がしますけれども。持ち物はほとんど無しで。まぁ我々も満州から新京から引き揚げてきたときは、荷物は何にもなかったですけれども。

Q:お姉さんの表情は印象としては明るかったのか・・・

緊張してたと思います。決して笑顔とは言えなかったかもしれないですね。

Q:舞鶴で再会されてから、一緒に帰ってこられたのですか?

ええ。舞鶴から米沢まで案内して、それまでは、姉が帰ってくるまでは、うちはおふくろとその・・・15歳の少年だけだった訳です。市役所から生活補助を受けていたんですね。僕も一生懸命内職をしたりして働いていて。姉が銀行に勤めるようになってようやく毎日、中学校に通えるようになったんですけれども。だからあのころは、ようやくこれで家族が再会できて、危険のない所で生活ができるということの次には、どうやって食べていくかということで、いろんなその・・・後から考えれば、そういうときの気持ちってどうだったのかっていうのは、今度逆に昔から米沢に住んでいる人たちが空襲も受けないで、戦争の傷痕のない・・・非常に平和な、桃源郷のような街だったんですね、米沢という所は。だから、引き揚げてきた、復員してきた、それから空襲で疎開をしてきたっていう人たちは、比較的肩身の狭い思いをして暮らしていましたね。それが10年20年たってようやく、よそ様と同じ位のゆとりのある生活になったという。

Q:お姉さんからいろんな家族の状況を問われたとき、お父さんやお兄さんのことを話すのはつらかったでしょうね?

はい。

Q:酒井さんが説明するわけですよね、それに対してお姉さんはどういうふうに受け止めていらっしゃいましたか?

そうですね。うちの母がうちの兄が自決したと聞かされたときは、本当に寝込んでしまいまして。どれ程がっかりしたのか。いちばん下の末っ子と2人で日本へ帰ってきて、母としては40年ぶりの祖国だったんですよ。満州にお嫁に行って一度も日本に帰ってこないで。ですから、長男の兄が頼りで帰ってきたんですけれども。 姉の場合には、兄の死というのはどのように受け止められたのか。それを話した僕自身も、何で兄がそんなに早まったことをしたのかという気持ちでいた訳ですから。だから、優しかった兄の話を昔の思い出を話合ったと思います。

Q:酒井さん、この文章の中で葫蘆島から帰ってこられる船の中でも、船から身を投げた方もいらっしゃったのですね?

はい。

Q:そのときの状況を教えて頂きたいんですけれども?

僕自身が船酔いでヘトヘトになっていたので、人が騒いでいるので、どうしたっていう話しを尋ねたら、身を投げた女の人がいたというので、その方の身内の方がおられたんでしょうけども・・・後になって同じように、そういう境遇の女の方が祖国を目の前にして投身自殺をしたという話を幾つか聞いたものですから。ああ、あのときの方もそうだったのかな・・・という。後で分かったというか、納得したような場面だったんですけれども。最初は何か誤って足を踏み外したのか、なんていうようなことも周りの人が話してましたけれども・・・そうではなかったという、つらい方が大勢いたんですよね。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1928年
(姉・青木ミネさん)大連に生まれる
1931年
(弟・酒井旭さん)大連に生まれる
1945年
(ミネさん)佳木斯高等女学校を卒業し、動員され陸軍病院へ。方正で終戦を迎えた後、シベリアに抑留される
 
(酒井さん)佳木斯中学校で学ぶ。黒竜江省綏化(すいか)で終戦を迎えた後、葫蘆島を経由し帰国。その後は東京大学で学び、農学博士号を取得。透析技術の研究者になる
 
(ミネさん)帰国した後は、銀行で働きながら一家を支え、後に結婚する
2009年
(ミネさん)逝去

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