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タイトル 「看護婦の受け入れ準備」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 丸尾 吉郎さん(シベリア抑留 戦地 シベリア(チョプロオーゼロ)  収録年月日 2014年6月1日

チャプター

[1] チャプター1 チョプロオーゼロへ  03:31
[2] チャプター2 懲罰房に入れられたことがあった  02:55
[3] チャプター3 望郷の念  07:28
[4] チャプター4 チョプロオーゼロ収容所病院  05:25
[5] チャプター5 積み上がっていく死体  04:46
[6] チャプター6 看護婦たち  05:24
[7] チャプター7 トイレの設置  04:35
[8] チャプター8 かいま見えた女性らしさ  04:30
[9] チャプター9 連鎖する憎しみ  04:32
[10] チャプター10 本に記した体験  05:51

再生テキスト

チョプロオーゼロ病院というのは、いわゆる日本で言うたら野戦病院なんですよ。いわゆる設備の完全な、いわゆる高級な病気を治す、そういう病院じゃないんですよ。ですから野戦病院ですからね。あれなんて言うたっけ、ロシア語で。そういうふうなね・・・野戦病院なの。ですからあれの最後に書いてある、どんどんとこう変わっていって、あの病院が閉鎖されたというのは当然なんですよ。そういうような処置をしていたということは野戦病院であることをハッキリしてるんですよね。そこへその日本の兵隊と、ドイツ人が3名・・・2名か3名いました。お医者さんが2名。ヘンニッシュっていうのがおったけども、その人はドイツ人でね。ドイツ人の医者。

Q:捕虜ですか?

捕虜。だからシベリアまで送られたわけですよ。彼らはどこで捕まったか知らないけど。ただお医者さんはね、ドイツ語とかでお互いに話してたから、だからまぁいろいろ話を聞き出してやったそうですけど。もう技術的にはまぁたいした技能を持ってないというようなことを言っておられました。あの病院の中に収容されたお医者さんっていうのは、日本の場合のお医者さんで大佐ですね。いわゆる病院長クラス。だからみな中佐、大佐、それがダーッと来てたと書いてありますけど。まぁそういうので、わりあいそのレベルは高かったわけです。

私はそこに書いてあるように、初めに属した部隊が移動して、なぜか知らんけど「丸尾残れ」っていうわけです。それで、「お前、病院作れ」っていうことを言われましてね、それで病院を作ったわけです。だからそういうことで、どこ行ったかと言ったら鉱山へ行ったんです。鉱山へね。だからまぁ僕は行かんでもよかったかと思ったりもしてますけども。鉱山にこう働かされたいう話があるんですね。何の鉱山か知らなんだ。初めにチョプロオーゼロに着いたときに、ここにも書いてありますけども、セメント工場のね、横に、セメント工場の跡があったんです。これだけ聞いたらセメントなんて作ると、生殖機能を侵すことになるからなんとか、あぁいううわさが出てきてね、よかったと思いますけどね。まぁそういうようなことで、いろんな仕事をしたわけですね。

僕は3日間営倉にぶち込まれて、「火事を起こした責任だ」というので、「本来なら裁判所に送る」と。もう「最低13年間は覚悟しとけ」と言われたことが。それが「3日で済んだなら助かったじゃないか」と言うて、ロスケが言うたから、「ばかなことを言うな」と。おれは何も言えんけど、泣いて笑ったことはありますよ。とにかくあのときはもう僕も13年は本当だなと思っていて。だから1人だけね、独房に入って、高い深い堀、あのいわゆる・・・穴蔵ですわ。穴蔵のね、上の方に明かり窓があって、便所もみんなその中にするようになって・・・。食事は1日にいっぺんだけ。なんか持って来てくれましたね。わずかですよ。3分の1くらいしか。「働いてないから」なんて言われたから。そういうことの処理のときにありました。そのときにヒグチ中佐も一緒に入ったんです。「お前の通訳の仕方が下手だ」というので、入れられたと。それで一緒に入ってましたから。それで先帰られたけど、こっちはまたそのままね、2日間もあと入れられた。僕はもうものすごく腹が立ったというのは、将校がね、一般の兵隊のね、なんぼ捕虜だと言いながらね、そんな営倉に入れると。それで飯も3分の1とか、冗談じゃないよと。それで火事起こした原因というのは、だから、ロスケ側の管理が悪かったから。鉄パイプがあるでしょ。そこにそのシラミ退治のために、その部屋の温度を上げて、そしてシラミを殺すという昔のやり方で、その鉄管に穴が空いてる、その鉄管の穴がですね、腐食してね、壊れてたんですよ。それでそのまま火がですね、・・・やるやつが、なんかまぁ火の粉がピャーっと飛んだと、こういうかたちでやられたんです。だからまぁそんなことで営倉に入ったんは、あんまり捕虜の中でもないんじゃないかと。他のことではなんぼでもみんな入ってると思います。だからそういうような、まぁ捕虜とは言え、むちゃくちゃな待遇のされ方だったということですね。

向こうでね、私2年半いましたよね。2年半もおるとね、毎日毎日、来る日来る日、朝ですね5時、5時半頃起きてですね、8時半から、冬だから8時半でないと、人の顔が判別できない程光がないんです。それで帰って来たら3時半でしょう。そっから仕事できないんですよ。もう暗くて。そういう生活をですね、もう3年もね、やるとね、もうどうでもなれやという気持ち。病気になればですね、やはりそのよく親のこと、兄弟のことを考えるんです。まぁ恋人がおる人は恋人のことを考えたかもしれないけど。おったんちゅうというよりも。それで命の保証がないということ、これがいちばんです。そこにも書きましたけども、ソ連軍がですね、東欧の戦争のときに・・・あれはどこだったか・・・フィンランドやったかいや・・・がですね、将校が全部殺されたと。

Q:ポーランド?

ポーランド、ポーランド。ポーランドの滅ぼされたるポーランドだ。そこでそういううわさが流れて来て、そして「おい丸尾いい話・・・」、「いい話ってなんだ」って。「いやお前大変なことなる」ということで、そういう話聞いたわけ。それがだんだん、どんどん広がってですね、そして俺たちもいつか殺される。殺されるならですね、いつになった殺され・・・逃げなきゃならんだなんて。

将軍連中は集まっとったけど、話だったかもしれん。「いいことがあるよ」とかいうようなことで聞いた。だからそれから真剣に考えたやつもおるし、そうでないのも。ただ相手が将校相手の話ですから、すぐ広がったいうのはね。でもただ最近、まぁウクライナの話が出ましたけども、ウクライナをソ連がですね、席巻して自分の勢力下に入れてましたね。それでそのときにそのチョプロオーゼロの駅へ行ってね、でそこで仕事をしてたときに、貨車の積み替えの仕事。

それでその積み替えの仕事をやってたときに、ロシア語がちょっと覚えかかってきた時代なんですから。ほんで、「どっからきたんだ」と聞きましたら、「ウクライナだ」と。へーっと思ったね。「ウクライナってのはマルチンゲールでしょう」って。確かマルチンゲール、ウクライナの出身。戦争のときに行ったんでしょう。それでマルチンゲールならと思って、遠いところから・・・黒海ね。から来たんだ。「どこへ行くんだ」って・・・って言ったら、「サハリーンだ」って。「サハリーンだ」って言う。だからサハリーンっていうのは樺太ですから。へー、遠いとこへいく。これはソ連がね、言うてるようなかたちで、全部でね、勢力を広げていって、彼らを遠くへ追っ払って、これ大変なことになるでと。ロシア語2国語ですよ。「どっから来たのか」言うたら、「クダー」って。

Q:今のロシア語どういう意味ですか?「クダー」って。

「クダー」ってのは、「どこへ」です。ほんなら「ボストーク」って言いました。東だって・・・。だからまぁそのくらいのことしか分からんロシア語ですね、使って分かったのは。だからいまだに、今戦争やってますけども、もうウクライナに彼らは帰ることはないだろうと。おそらくサハリーンか千島の列島の中に移住させられて、おそらく今さら帰る気はないだろうなぁなんて、一人密かに思ってるわけです。まぁそういうふうなことでですね、申し上げときたかったのは、シベリアは広い。広いからこそ人間が必要であって、民族がたくさんいますけども、そういう人間そのものが、いわゆる赤化、ロシア。ソビエトになるときに追い出された人間、なんかたくさんいるわけで。そんでもう私らの部落にも、本お読みなったら分かるように、パン工場ていうのがある。パンを焼いてたんだね。捕虜用の。そこ行った人間は、安心していつもパン食っとったわけですけど。それでパンを焼いとった人間がある日、「これでシベリアさらばだ」、「どうして」と言うと「いや、俺はここへ来たのは赤軍の革命でここへおら・・・おれはその大地主だった」まぁロシア・・・そのくらいは本読んでたから知ってる・・・大地主だった。でも大地主であるから、からね、追い出されて、ついにシベリアに来たんだと。まぁそういうことがあるね。ところが今10何年か20何年かいても・・・たってですね、「今自分の生まれ故郷へ帰れるんだ」って。だから20日、20日間くらいかかるんだって。だからパンをうんと焼いて、食べ物に困らんように。この椅子、机の下にいっぱいあるだろうと言って笑ってましたけど。それほどシベリアというのは、ロシアというのはいろんな人間がおるし、しかも連絡がどうなってんだか、さっぱり分からないわけですよね。だからそういう赤化ロシアの時代に、放り込まれた、まぁスターリンもそうですけど、そういう人間がですね、まぁ20何年か知らんが、これで帰るんだという喜び方というもの。つい自分らの姿を思い起こすわけ。これなら日本に帰れる(ように)なるんかなぁ、そうでもないかなぁ、いうことを思ったりする。

空にね、いわゆるガンがね、渡り鳥が飛んでいくわけです。それで誰かがですね、「あぁ、日本に飛んでいくんだなぁ」言うて、ひとりごとしたんです。このときが実際に、あまり感情には触れないようにしておったけど、ものすごく気分にグーッとこみ上げて来ましたね。鳥でも飛んでいくんだもんね。本には書いてあるんですけど、そういう思いがですね、したですね。

ここにね、これ。これ伝染病科。これが外科ですね。これが内科ですね。これ伝染病です。で、これ何が伝染病かというと、入院してきたときに非常にひどい下痢で、そして栄養失調で、栄養不良でですね、重体だという人間が収容されます。ここですね。で、この2つ、これが便所です。だからここのとこに使うわけ。ここにこう線がこうね、引いとる。これがですね・・・これはちょっと話がややこしくなるけど、岡村大隊っていう、前におった兵隊さんの宿舎です。

Q:砲兵のですね?

ここもそうです。宿舎ですね。ほいでここがですね・・・10、11、これは・・・これはね、錬成隊と言いましてね、・・・の出てる方ね、これは病院に入って、退院して、仕事に就けることができるような状態になるまで、ここに収容するんです。それで名前は、まぁ元気になればというような意味で錬成隊っていう名前に付けたんです。これは部屋の中は2段ベッドですね。こちらがですね、これが炊事ですね。これが炊事です。炊事ね。この建物のこっちかな、これ食堂ですよね。12、これですね。この10というのは錬成隊が一緒に入っとって、食事も同じとこでやってたわけです。ここがですね、これが将校の、これ細かく描きすぎてる。これがですね、ここにあるこれが、これは倉庫なんですが、これがね、先ほど申した、火災を起こした、滅菌シラミ退治。シラミの撲滅する虫焼き場ですね。 これが燃えたんです。ほいでその責任者が、僕だということで。ほいでここがシラミの退治ですが、ここは食器、その食器から病気が移ったらいかんというので、ここに食器の洗い場。いわゆるまぁ病院ですから、割合、そういうところは非常にていねいにやったわけですよ。

Q:看護婦さんがいたのはどこですか?

今から言い申し上げる。看護婦さんはこちらの方でして・・・ここですね。これの建物、こっちです。この8と書いたこれ。この建物の半分、こっちが将校の宿舎です。で、これは尉官ですね。私なんかここに放り込まれてた。こちらの方のところは看護婦さん。看護婦の。こちら側は将校の。ここの中で細かくこうなるは、もうちょっとこう細かく分かれてるんですけど、まぁ大した数ではないですね。ここには教育隊って男の勤務者の宿舎もここん中にありました。

Q:じゃあ看護婦さんの宿舎は一か所?

一か所です。看護婦のね。看護婦の宿舎は一か所です。

ただ僕らは毎日毎日ジャガイモのですね、掘りをやらされて、そしてクズのジャガイモをポケットに隠して持って、ほいで国の財産だ言うてボロクソにやられたいうような記憶だけがあって、何からこれから始まるのかということは分からない、片っ方ではどんどん人間が亡くなっていく、こういうような食べ物はないし、そして片っ方では人間が死んでいく。死ぬだけではなくて、葬らなけりゃならない。ほいで、棺おけはないんです。棺おけはないんです。ですからそれをですね、皆野積みにしましてね、服、服装、これもシャツも、それから軍服のも、全部国の物だから、これは持って入ったらいかんと。だからここで裸にしろと、いうこと、裸にさせられて、それでそれを埋めたんです。だから本当に悲惨なかたちで埋葬もやった。初めこそお坊さんに頼んで、拝んでもらったりしたけど、そういうような哀愁の気持ちがあるというのでもない。次から次に亡くなるんですもん。だからこの建物のですね、この外科の建物の北の方のですね、ずうっと軒、軒までですね、死体がですね、積み重なったんです。ちょっと想像できないと思うんですけど。そういう状態なの。

Q:岡村大隊がソ連と交戦してたから疲弊が大きかったんですね?

まぁそれもありますけども、まぁね、弱兵なんですよ、僕も弱兵ですけど。応召兵ですね、ほとんどが。ほとんどが応召兵なんですよ。そういうときですからね。ただそういうことを文章に、ほとんどが応召兵と言うとまた怒られると思うんです。ただですね、いわゆる訓練をあまり充分受けてないのと、それからまぁ弾薬とかそういうもが無い、いわゆる非常に弱体な重砲、歩兵隊、歩兵じゃないんです、重砲兵隊。それで岡村大尉がそのときの責任者の地位におったから、ここへ入ったわけです。ここでですね、今おっしゃったような、どんどん亡くなっていいたことは事実なんです。それが100何名を超えちゃったもんですから。

だから入ったのが9月21日。9月21日にソ連に入りまして、それからどんどん、どんどんと患者が増えて、そして9月、まぁ翌年の1月21日に、私の頭ではそこで100日を一体、1月21日にそういうかたちになったわけです。それでソ連側が慌てたかたちで埋葬しなきゃ。するとその埋葬の場所もハッキリしない。埋葬していく人間、それもいろいろな兵隊ばかりがもう戦争で疲れて来ているわけです。それがみな埋めていた。だから書きましたように、穴を掘ったときに、背の高い兵隊でしたけども、このぐらいなら幅も高さも良いだろう思って掘っていくと、土が凍ってますのでなかなか掘りにくい。それでやっと掘れたなと思うと、斜め扱いにしか遺体が入らないと。こういう状態だったので、あまりにも悲惨だと、僕は思っていたら、そしたらそういうかたちで病院が開設されるということで。あれは確か2月かな。1月1日に看護婦が4名が来たというのは記録に書きましたけど、その後で女性のいわゆるてい身隊というのが入って来たわけです。

Q:丸尾さんは看護婦が捕虜になっているというのは、最初は半信半疑で?

いやそれは、看護婦が捕虜になってるということは分かりません。分からないからこそ、非常にびっくりしたということ。

まぁそういうことで初めて看護婦が、入ってくるんだなと。それからポツポツと細かい話が分かってきた。だから青酸カリを・・・書いてあると思いますけど、青酸カリをみんなに渡したんです。病院長がね。岡村大隊じゃなく・・・病院のね。それで万一の場合は青酸カリ飲めと。それがですね、あとね、身体検査があって、収容所へ入ってからですよ。入ったときに、身体検査があったんですよ。ほいでことごとく調べたところが、どの女の子も、小さいこうなんか薬剤みたいな持っとるということで調べ上げたら、青酸カリだったいうのでね、大問題になりましてね。ほいで青酸カリだった、そしたらソ連の兵隊なんかで飲まされればやね、いっぺんに死んじゃうし、これはどうしたということでね、それでもうすごい騒ぎになって、もう僕ら将校なんかにも殺されるかもしれんというふうに思った記憶があるんですよ。そういうようなかたちで、ソ連の方で、まぁ女の子をちゃんと使っていこうという気持ちと、それからそういう日本軍でも、女の子を看護婦の見習いではあるけども、働いてもらっていこうと。まぁお互いに赤十字だから。万が一のこともないと、そういうふうに思われたようです。

Q:女の子たちはどうして青酸カリ持ってたんですか?

青酸カリですか?ここに書いてあると思うんですよ、業務の。青酸カリをですね、渡されたんは・・・なんていうか・・・病院が移動するときに、万が一の場合に青酸カリを渡しとくから、それを飲めと。逆にソ連に飲ましてもいいわけですよ。ソ連兵に飲ましてもいいわけですから。だから自分の身の身辺が危なくなったときには飲みなさいと。

やはりね、自分がいつね、危ない目に遭うか分かんない。そういう気持ちは絶えずあります。だから、万が一の場合ということで、青酸カリをもらったんだから、万が一の場合はいつ来るか分かんない。これで捨てておこうという気持ちにはなれなかった。誰も捨てろという命令は、誰もしてないんですよ。僕は聞いてません。ただ発見されたということで、大変なことになったなぁと。どういうものなんだって。青酸カリを薬包紙に包んでね、持っとったわけですよ。さぁそれから大事になりまして、そして青酸カリを全部提出させて、そしてまぁとにかく一応その後は収まったんです。しかし女の子は全員がまぁ持って入りましたから、相当な決意だったと。

だから女のその問題で大きくその心を皆揺るがしたのは、青酸カリ問題は入ってから間もなくですけど。それから女のシラミ問題です。女の子の髪の毛長いでしょ。だからシラミをですね、湧かしちゃうと。ほいでシラミはいわゆるチフスの原因なんで、日本よりも異常に海外ではヤァヤァ言われた。それでそのシラミをですね、退治するために、全部坊主になれと、こう言ったんです。ほいで坊主問題が起きて、長谷川中佐が「冗談じゃない」と。女の髪というのは道具じゃないと。これででね、いわゆる女というのを証明し、そしてあくまで命と同じようなもので大切なものなんだいうことで、こんこんと説得されましてね。2日3日くらいかかったかもしれない。それで、一応断髪はなくて済んだんですけど。その2つがね、大きな問題でしたね。男にはね、僕らには関係ないみたいなもんで。

トイレはね、やっぱり、まぁ人間の排せつ物として、どうしても必要でしょう。それで細かい話をしますとね、私が作ったんで。看護婦が来るということで、さてどうするかという問題はトイレですね。衛生上の問題もある。それでそこにあるとい、トイレの場所があったんですけど、それでソ連の場合は、僕らのおったところではですよ。建物があって、そこに一人の便所がある。すぐ下にね、引き出しが付いとるんです。引き出し出して、それで排せつ物を出して、次また使うと。こういうかたちで使ってたようです。おそらく相当階級の上の人間がやってたんでしょう。それのもっと近くにですね、トイレがある。まぁここでトイレを作ればいいじゃないかと、こういうことでですね、トイレをですね、見に行ったら、よく言われているように、長い穴を掘って、板を乗せて、そこへ穴を空ける。こういうことで、作ればいいじゃないかということでやったんです。ところがその、今度ですね、入り口・・・板がですね、あって、2つこうなってる。尻と尻はぶつかるわけですよ。そんなん具合悪いというのでまたそれを直して、そして1つの穴にこうして、その代わり捕虜っていうのは当時はそのおそらく囚人だと、プリズナーですね。それが収容されてたと思う。そこへですね、上からこう見れば、いちいち、すぐに誰が逃げようとしたのかと、分かるというかたちで、全部尻は丸出しで板の上に乗ってると、こういうかたちで設計したよ。

Q:ソ連の監視兵から見えるんですか?

いやだから、ソ連の、初めは、ソ連の監視のがありましたけど、後はそういうとこはしませんでした。だから逃げようとしたら逃げられるわけですから。ところが穴がものすごく深い。だからその、こんちくしょうと思って、このやつと思うと、けり倒されたら、中へ落ちたらもうダメですよ。ほいで冬はご承知のように非常にふんが固まって、ずうっと。尻尾の方にこうたまっていきますからね。だからそういう点でも、なんか事故起きたら大変なるっていうんで、いろいろ考えたわけです。ところが困ったのは、将校用のやつをまず個室的に2つの穴だけを1つにして、それで作る。それならお互いに・・・板がないからそういうする。だからそういうことにすれば、まぁまぁ、なんとかなると。こういうことでですね、仕切ってやることに決まったんです。ところが女性の方はね、どうするかと。それで困りましたね。結局女性の場合は、まぁお尻とお尻とを引っ付けるというわけにはいかんから、いうて、横、横、でやったはずです。横、横。ずっとね、2人1部屋くらいいうかたちでやったんです。ところがね、まぁ女の人はよくおしゃべりする。おしゃべりしたらもう、トイレでしゃべれば全部にいった・・・いうようなことで、まぁいろいろ苦情が出たことがあるんですけど。私の記憶では、穴2つと・・・確かそこにそう書いたと思うんですけども。

僕は女性というのは感心したのはね、1つだけあるんですよ。看護婦がね、帰るときにね、きれいにお化粧してるんですよ。口紅もつけね、おしろいも顔にはたいてね。聞いたんですよ、「お化粧、化粧品持ってるの?」言うて。「持ってますよ」って。小さい袋からクリームと口紅と・・・眉ずみもあったかな・・・眉ずみは記憶にないけど、口紅とね、そういうものをね、見せてましたよ。

Q:捕虜みたいな不安定な立場になったときに、男性と女性ってどういうふうに違いがあるんですか、精神的に?

さあ、それはね・・・まぁ男性の場合は分かりますけども、女性の場合については、こっちから眺めているだけですからね。分かりかねますけどね。ただね、やはりあの女性らしさというものはね、やっぱり失われてないという感じしますよ。ということは、1つの事例をあげるとね、山へ働きに行きますね、僕らが。そうするとね、もう冬はダメですが、春になってですね、雪が溶けて、雪の下にね、小さくね、青い花が、葉っぱが出してくる。あるいはそのもうちょっと例えば、何かの実がある。そういうなんを見たらね、それをね、持って帰ると。これはね、女性が山の方へ行って仕事することはない。男性がね、いわゆるお世話になった看護婦さんにっていうようなことで、あっちこっちの仕事のときに、花が咲いてると持って帰ったり。

入院してきますとね、いろいろと診察や、まぁ検査、いろいろやりますね。それでまぁ、それで患者がですね、もう本当に死にかけた。ほんで看護婦がですね、皆集まっていろいろ。「しっかりしてよ、しっかりしてよ」ってぐらいとか、そしたらまぁそんな「お母さん、お母さん」って。もう必ずね、亡くなるの何人か見たけども、「お父さん」というのは誰もなかった。「お母さん」しかいない。そりゃあ10か月腹ん中におりゃあ、実際母親の方が思いが深いでしょう。で、そのときにですね、看護婦がですね、「亡くなって終わりました」って。「ご臨終です」ってわけで、みんな泣き出したんですよ。そしたらその一人の看護婦がね、これは勤労隊の看護婦ね、が泣き出して、涙を一生懸命拭いてた。そしたら看護婦、正式な看護婦がね、「なにを泣いてる」って言って怒ったね。「速く処置して」って言うてね。一言でね、看護婦の見習いの方はものが言えなくなってね、かわいそうで、かわいそうで、ですね。「いつまで泣いてるんだ」って。「ちゃんと処置しなさい」って。もうそこら日赤だなと思いましたね。だからまぁそういうような感じでですね、生活してきてるわけですから。

Q:ソ連で捕虜として入院しているわけですよね、外国で。そのときに日本の看護婦さんというのは一言で表すとどんな存在でしょうか?

日本の看護婦さんは、ですか?これはもう、病気になってないから分からないんだけど、やっぱり天使言うたら天使かな。いわゆるね、やれ助かった・・・僕はそう思いますよ。いや、助かったって言うのは、自分が生命を全うするという意味ではなくて、とにかく今の苦しみを救われたと。

いわゆる本にも書いてあるように、左翼の告げ口で私がつるし上げにあった。そのときにチョプロオーゼロからビラカンっていう所に行ったときに・・・ロスケの兵隊が連れて行ったんです、僕を。それで何か知らんけどもですね、仕事して、それで帰るまでここにおれと言うので、駅の待合室に僕がおったんです。そしたらロスケがですね。帰ってくるまでの間、乗客の待っちゃってる人間がやいのやいの何か言い出しちゃった。それでよく聞いてみたら・・・「お前のおやじさんはシベリアに戦争に来たか」と、シベリア出兵の話です。だから僕は分かってたから、「知らん」とこう言ってた訳です。そしたらやいのやいの言って、その男が皆の前で立ち上がって・・・「これの日本人がシベリアに軍隊を出してる、戦争して俺たちのおやじは殺された」と・・・確か殺されたというふうに通訳してくれた。こういうことを言い出した。それでわーわー言い出して皆が集まって、僕の頭を殴りかかろうとした訳ですよ。そしたらその中にも良識的なのがおったんでしょう・・・まぁ押さえ込んで、そしたら兵隊が帰ってきて怒って、それで僕を連れて汽車にぱーっと乗せちゃったんです。だから今おっしゃったように、そういうシベリアのうんぬんて言うもの、こういうシベリア開発は今でもそうだけど。前は戦争のことでですね、逆に日本人が痛めつけられたと・・・こういう印象が強いんじゃないかと、こう思うんですがね。だから非常に私としては不満です。だから、よく帰ってから・・・結婚してからですが、俺はもしソ連が負けて戦争になったとしたら、俺はスターリンを機関車の前に縛り付けて、超特急で走らせてやる。それくらいの苦しみを俺たちはあったんだよって言うて笑っても、家内は関係ないから笑ってたけど。まぁそういうようなことくらいの気持ちがあるんです。と同時にソ連側にも、いわゆる旧ロシアのほうでも、そういうような反対というか・・・批判ていうか、そういう教え方もしてたんだなぁ、という感じをしないでもないですね。 だから難しい問題ですよ。もう今度でもロシアになりましたけどね。まぁそれは中にああいう、いわゆるソビエトのものがあるから、そういう大々的な報道になるんでしょう。しかし、とにかく私の人生にとってはいちばん大きな出来事ですよ。それと大阪空襲でね、全部焼けちゃったと。だから2年・・・5年間ですか、何をしてきたかなと思いますよ。

Q:丸尾さんがこの本を書いた動機を教えて下さい。

ああ動機ね。これね、仙台陸軍予備士官学校いうのがありまして、そこの第11期生が私の軍隊の始めなんですよ。500名位入ったんですよ。これみんな学徒兵です。それで私は一応、内地の教育が終わりましてね、18年の12月に入隊して、学徒兵で入って。それで仙台の陸軍予備士官学校へ派遣されたのが、翌年の5月1日に配置された。それで戦争が始まって満州に行きましたときは・・・19年の12月に卒業をして。20年8月9日に戦争が始まり(ソ連軍の侵攻)ましたね。そこで満州に行って、それで終戦になった訳ですよ。そこで11期生同士で、500名程の大部分は亡くなりまして。それで皆学徒兵なもんですから、割合早く出世することになっておったと・・・先ほど申したように大間違いで、当時はうそをついた訳ですけど。それで、なくなったために文章を・・・本を作ろうということになった。それで本を作るっていうことになって、第3巻まで自分の経験からいろんなものを書きまして、やったんです。

でも私は、私の子どもなんかにまぁ残しといて、こういう戦争だったよということを思いましてね。孫2人あるものですから、それのために書いたみたいなものです。それでまぁ私の父は、昔の規格によっては、あまり甲種合格にはならなかったんで、戦争に行ってないんですよ。戦争のことは元気のいいことですばらしいことだと思ってるらしい。私はすばらしいと思ってないんです。シベリアに捕虜になりましたから、そういうことを中心にしたかたちで書いた訳です。

それと片方で、奈良の東大寺のおまつりをするためのいろんな資料の中に、書いてくれという話があって書いたんです。それが3冊あります。これが1冊ですね・・・で、4冊。そういうことなんです。

Q:前もお話し聞いたんですけども、女性たち、看護婦さんたちのことを読む人によっては誤解して、いろんなうわさになる恐れがありますよね。

ああ。だからね、いちばん心配したのは、こういう本を出版しますと、非常に珍しいと。こういうような考えの方もいらっしゃって、それをもとにしていろんな問題が起きると困るな。まず未婚の方がだいぶいらっしゃった。だからそれによっていろんなことが、ソ連に行って、どうせ日本の兵隊とも一緒におったと書いてあるから、まぁいろんな問題があったんじゃないかと、いうようなことを思ってかく、面白半分の方は考えられる訳ですよ。それははなはだ困ることであって、それを抑さえ込むというような方法は、ちょっと私はそのとき考えなかったんです。それで「チョプロオーゼロの記」というのは、仲間だけに書いた訳です。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1923年
大阪府に生まれる
 
旧制第八高等学校(現・名古屋大学)で学ぶ
1943年
12月、学徒出陣で入隊
1944年
5月、仙台の陸軍予備士官学校に入校(11期生)
 
第272連隊に配属され満州(現・中国東北部)へ。(第7中隊付小隊長)
1945年
8月、黒竜江省東寧で終戦を迎える。シベリア・チョプロオーゼロへ
1948年
帰国。第八高等学校に復学
 
その後は、伊藤忠商事に勤務

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シベリア(チョプロオーゼロ)

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