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タイトル 「守りたかった部下への思い」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 高亀 カツエさん、大心池 洋さん(シベリア抑留 戦地 シベリア(ハバロフスク) 満州(佳木斯)  収録年月日 2014年6月15日

チャプター

[1] チャプター1 日中戦争に派遣された  02:56
[2] チャプター2 佳木斯第一陸軍病院へ  03:26
[3] チャプター3 解散命令に反対  03:27
[4] チャプター4 病院を出発する前、青酸カリを渡された  02:59
[5] チャプター5 ソ連兵に連れ去られた部下への思い  10:52
[6] チャプター6 シベリアの日々  04:44
[7] チャプター7 わずかな女性抑留者  09:20
[8] チャプター8 およそ2年の抑留生活を経て  03:06

提供写真

再生テキスト

Q:高亀さんは日赤の救護看護婦さんとして行かれたんですね?

高亀さん:そうですね、1回目。

Q:高亀さんが書いた文章見まして、昭和12年に、ウースン上陸作戦で病院船に乗って勤務されましたよね?

はい、そうですね。長い間戦争の最初から終わるまで勤務しましたからね。

Q:病院船に勤務されたときは前線の方ですよね?

病院船・・・そうですね。忘れてしまった。

Q:鉄砲弾が近くを・・・。

そうです、耳のそばシューシューっと飛んだの覚えてます、あれは。

Q:そのときは看護婦さんとして、お国のためって気持ちで。

そうですね、赤十字の看護婦として召集になったわけですから。

Q:どんなお気持ちで勤務されていらっしゃったんですか?

命を惜しんじゃいけないっていうのがいちばんですね。できるだけ難儀な仕事でも始めたら終わるまでやらなければいけないと思いこんでいました。

Q:佳木斯(ジャムス)で勤務されたときは病院の婦長さんになられてたんですか?

高亀さん:いいえ。婦長じゃなかったです。婦長になったのはいつごろかね?

娘さん:婦長さん、昔いちばん若い婦長さんって聞いとったけど。

娘:看護婦さんの養成をおかあちゃんがしたんじゃ、菊水隊、おかあちゃんが養成したんでしょ? 生徒さんのこと聞きよる。

高亀:聞こえない。

娘:日赤のね、教育と同じようにしてくれって言われて菊水隊いうて現地の女学生集めて教育したのがおかあちゃんじゃったでしょ?

現地の人らでしょ? 若い子ばっかりでしょ?10代の人よね?

高亀:そうよね。若い人ばっかり。

Q:その教育されたときのこと覚えてますか?

どういったらいいか。飛び飛びには覚えておりますけどね。

Q:いろんな方、一般の方ですから看護婦の教育大変だったと思うんですけど。

そうですね、大変だったです本当に。ほんとに大変でしたね。

Q:どういう面がいちばん大変なんですか?

やっぱりかたい規則がありますからね。

とにかく看護婦さん、女学校卒業したら看護婦さんになって日赤の看護婦のようになるように教育してくれ言われまして。それで厳しかった思います。

Q:終戦になって1回病院長から部隊長ですね。女子の部隊は現地解散って、そういう命令出たって。

高亀:そうなんですよ。もう戦争が終わったんだから看護婦もいらないしそういう団体もいらないから「解散する」って言われて私らものすごい反対したんです。ああいうことがありましたね。

Q:もし現地で解散して女の子たちだけ、部隊と別れて行動したら危険なわけですよね?

危険ですよ、ほんとに危険ですよ。もうあれつらいですね。

Q:高亀さんが部隊長に反対してどういうことおっしゃったんですか?

あのときは反対したことがいっぱいあるんですよ。部隊長に。

Q:現地解散っていうと、無責任というか。日本に帰れないですよね?

そうです、帰られないです。

Q:その当時は軍隊の上官ですね、意見を言うっていうのは大変なことですよね?

そうです。でも敗戦いうことがはっきり分かってますからね。だからそこは向こうも部隊長のほうもよう分かってくださっていると思うんです。

Q:病院から出発前に西田さんって薬剤大尉の西田さんって方から青酸カリ渡されたんですよね?

高亀:みんな青酸カリをもらったんですけどね。でも青酸カリをもらったですかね。

娘:「小さい空き瓶集め」って言われた。

Q:小さい空き瓶を集めなさいって言われた?

そうです、そうです。青酸カリ。ああいうことがありましたね。

Q:高亀さんの立場からすると自分の部隊の女の子たちに青酸カリを飲んでもらうって大変なことですよね?

あのころどうだったですかね? ほんと思い出したくないから思い出さないんでしょうけど。

Q:やっぱり軍隊として集団の150人の女の子を守らないと犠牲が大きいですよね?

どういったらいいでしょうか。不思議に団結しますからね。ほんとよくあれだけかたまってた思うぐらいよくくっついておりましたから。でも思い出すことが少ないですね。

娘:逃げるときにね、赤いのつけたりして大変だって言ったでしょ、お母ちゃん。生徒さん。兵隊さんの格好して逃げるときにリボン付けたりするんよって言ったでしょ? 苦労したんでしょ? 赤いのつけたり、リボンとか。みんな髪を切って男みたいな格好して逃げたんでしょ? それなのに、ちょこっと女の子みたいな片鱗見せるって言ってから。

高亀:それなのにやっぱり捕えられた人がおるから。あれだけはよう忘れません。お遍路さんにいった。

娘:80のときに行って。4年間かけて。
みんな青酸カリ持ってて。あれだけの数のうちたった1人だったから。すごいことではあるんだけど、その1人が亡くなったから情けなくて。

高亀:よう忘れられるもんですね。

娘:私らが子どものころからお遍路さんに行く行く言うて、1人で行くっていうのが目標。

Q:1人だけですね? さらわれたの。

高亀:1人だけです。ほんとに1人だけです。

Q:お遍路さんに行ったときの写真見せていただきたいんですけど。

娘:これですね。

高亀:これ私ですね。

娘:おかあちゃんとニイヤさん。

高亀:ほんとほんとこんなんでしたね。

娘:散る花を豊かに浴びて遍路道。おかあちゃんが作った。最後が4月だった。高野山まで行った。
花吹雪でね。

高亀:花吹雪。すごい花が咲いてたからね。

Q:お遍路さんに行くのが目標だったんですか?

娘:お遍路さん、そうです。私もう誰も行く人ないですからね。お遍路さんに拝んだらいいな思ったんですね。

Q:拝むのは誰のことをですか?

高亀:そのさらわれた子どものこと、さらわれた女の人のことやらいろいろ拝むことがいっぱいあったです。ほんとねたくさん。だから行っても知った人は1人もないですよね。それでも拝んで歩いたら気分がおさまるような気がして。自分のために行ったんかなって思うて、思ったこともあるぐらいですから。

Q:やっぱりお遍路さんに行ったら少し気持ちが楽になったんですか?

そうですね。どう言っていいのか、私の問いに答えてもらったようなそんな気持ちですね。

Q:問いに答えてもらうってどういう意味ですか?

誰も知った人がいないんですよね。お遍路さんに行くいうて。だから私が1人でお遍路さんに行ったら何かいっぱい答えてもらいたいことがあるのに答えてもらえるような気がして行ったんですよ。一緒に行ってもその次にはその人は来られなかったりずっと続けたのは私だけみたい。

Q:いちばん祈りたかったのはさらわれた上田さんのこと?

そうですね。

Q:さらわれたときのこと覚えてますか? 「班長殿」って呼んだとか。

そうなんですよ、そうなんです。それが心から抜けないからお遍路さんの話があったときにすぐ応じたんです。そうですね、お父さんが心配したけどね。1人で行くのは心配だからって言ったけど。

Q:1人だけさらわれて他の人たちは危ないことはなかったですか?

1人が襲われてる間に・・・道路に何人か水たまりのところ飛び越えてみんな逃げましたからね。

Q:方正って言う場所まで移動して、みなさん建物に泊まってそのとき夜中にソ連兵が女の子さらいに来て・・・。

そうです、何回でも来るんですよ。何回でも。

Q:そういうときはどうするんですか?

とにかくみんなで放さないようにくっついてるんです。

Q:高亀さんが部隊長に現地解散しないで部隊と一緒に行くって意見されたから犠牲が少なかった?

思うんです。自分でもそう思うんです。

Q:ソ連に捕虜としてソ連に行ったけどみなさん帰ってこられたからよかったですよね?

よかったです、ほんとよかったです。

2人で魚釣りが好きになって魚なんぼでも釣れるんですよね。そしたらそれを持って帰って夕方仕事が済んでから行くんですから2人が一緒に。いっぱいとって帰って、そしたら近くに台所があるんですよね。シベリアの。そしたら喜んで兵隊さんが私があまり花がきれいに咲くんですよ、冬になると。春になるときれいに花が咲くから花もきれいだから今日は花にしようかって思って花を取って帰ると兵隊さんが待ってて、「花はいらんけ、お魚のほうがいい」って。そしたらね、私の顔見るとロシア人がね。ロシア人じゃない・・・

Q:炊事場の方ですかね?

炊事場の人がね、「リンソウ(林正/高亀さんの旧姓のこと)ソーリー」って。リンショウいう字(発音のしかた)がソ連にはないから「リンソウソーリー」「ソーリー」って塩のことですよね? 「塩をやるからこい」言うて。いつも私の顔見ると「塩やる、塩やる」いうて。日本の兵隊さんには私が取って来た魚に塩振って夜干しといて昼間食べさせよりましたから。「リンソウソーリー」って私の顔見たら言ってたんですよね。

Q:ソ連でシベリアで食べ物がないからみなさんお腹すいてるわけですもんね?

そうですそうです。兵隊さんなんか自由に出られないから私がついて出るなら許す言ってくれよりましたからね。私が出て塩もらって魚釣りに行くんですよね。

Q:ソ連の監視兵は男の方よりも女の方には監視が優しいんですかね?

そうですね。私も長かったいうても私しかおらんから。あとは全部一緒に収容所におりますからね。私1人だけソ連人と一緒に。ほんとうそみたいな気がする。

Q:日本のその兵隊さん、患者さんたちも魚食べられてうれしかったでしょうね。

うれしいですよね。だから「花いらんけ魚のほうがいい」言って。

Q:男性の方からすると女の方の話ってちょっと特別待遇過ぎるような。

大心池さん:そうね。あなた特別待遇。ソ連で。

高亀さん:そうでしょうか?

大心池:私らは魚釣りとかとても考えられない。

高亀:あのね、林正と一緒だったらね。行ってもいい言うてソ連じゃない、ソ連、許してくれるもんですからね。「行こう行こう」言うて兵隊さんにせかされて魚釣り行ったんですよ。そして行って帰ってきたらそれをお腹あけて塩もらって振って外の屋根の上干さないけんのです。

大心池:あなたはね、ロシア人にもてたんだね? ちょっと考えられんわ。

高亀:それはね、せないけんことはみなしたですよ、仕事をね。

娘:・・・のとき鍵をかけて行きよったよね? 薬箱の。薬箱の鍵をおかあちゃんの首にかけて帰りよったんでしょ?

高亀:そうよ。

娘:預けて。婦長いうあれが向こうの人の信頼いうか、女の軍医さんと同じぐらいの扱い受けたって。

Q:大心池さんはどちらの収容所ですか?

大心池:私はね、モスコウの近所です。というのはシベリアあたりは普通の兵隊さんばっかり。私は将校だったからね。将校の収容所、国際ラーゲリだった。日本人がマルシャンスクいう収容所があったんです。日本人が4,000人、後2,000人はドイツ人とハンガリー人とか、こういうふうな捕虜。これが国際ラーゲリだった。あまり労働はやらなかったです。シベリアあたりの収容所はちょっと違うとる。でも魚釣りとか何とか郊外からね。鉄条網も張った収容所なんですから。それから魚釣りとか何とか、ちょっと想像つかないですね。そういう人もおったのかなってびっくりしてる。

Q:女の方にはソ連兵も優しいんですかね?

大心池:よかったんかな?女性だったから。

Q:私も最初お話伺う前はどんなに苦労されたんだろうと思ったんですけど。割とみなさんあの。

大心池:あんまり苦労してない。この人は。あんまり苦労しとってない。

Q:他の女の方たちも?

大心池:それはどういうか。他の女性はあまり苦労、どうですか?されました?

分からんですよね。私が1人で・・・

大心池:1人? 別行動?

1人で食事やなんかの作るんじゃない、食べるのやなんかでも私が1人ですからね。

大心池:それで何年かおった? 2年? 22年に引き揚げた?

高亀:そうですね。

大心池:私らと一緒だ、じゃあね。私は22年の暮れに帰って来た。林正さん特別待遇じゃったな? 珍しいね。

高亀:もうね、向こうの婦長さんがね、「助かる、私は年取って目見えんから、これしてくれたら助かる」って言うて、私が患者さんの注射なんかして歩くと喜んでね。「夜は誰より早く寝なさい」言うように喜んでくれはったんです。

Q:大心池さんは林正さんと出会われる前は、日本人の女の方でシベリアにいた方いらっしゃるってご存知でした?

大心池:一切知らない。収容所でもそんなに女性で収容されてるいう話はもちろん全然ない。びっくりしたです。でもこの林正さんのグループだけじゃなかったんですか?60万人抑留されましたからね。そのうち200何人。それだけじゃないですか、他にいないんじゃないですか?

ナホトカで収容所があったんですよね。ナホトカの港に。1万人ぐらい。女性見たことないですよ。日本人。だから男性だけやと思うとった。女性がいうことでびっくりしたんだから。

Q:男性の方、知らない方がほとんどだと思いますよね?

高亀:どうしておかあちゃんだけ別なんじゃろうかって思うくらい。

Q:今回男の方でですね、抑留されたかたが女の方の話聞いたらどう思われるかなって思って。

大心池:信じられん。そういう人おったかなって納得いかない。

Q:男の方々もねものすごい苦労されたってお話。

大心池:ホント苦労ですよ。だから食べるものもね。

高亀:食べるものも十分にない?

大心池:そうね、黒パンと砂糖とバターを少しね。このくらい。それ以外はばれいしょ煮たのと、あとはスープ、それ以外一切ない。果物のくの字も。リンゴの1つも食べたことない。トマトもないしね。でも私ら2年だから早い方ですね。私の同級生でも11年おった。戦犯で、11年。

Q:なんていう方ですか?

大心池:同級生でも4~5人におりますからね。亡くなりました皆。昭和31年に引き揚げてきた。いちばん最後のときにね。それこそ収容所の中のまだ監獄。こういうような生活してるよね。気の毒だったね。

Q:でも砂糖とバターが出るの将校収容所だからですよね?

大心池:そうかも。国際ラーゲリだからね。時々モスコーから監視団が、その収容所へ来るんですよね。そういうことがあったからあまりひどいことしないですよね。

高亀:私は働くことが好きなんですよね。だから、ちっとも働かされる苦労と思わんですからね。だから、魚釣りするんでもなんでもとにかく動きたいんです。一生懸命働きたいから、ちっともそれが苦労と思ったことはない。

負けたいうたらこういうもんでも思うてしもうてこっちがね。負けるいうことはこういうことで向こうの命令で行かないけんのじゃ思い込んで・・・

Q:お一人だけ病院に行って。

私が?

Q:ええ。

いやいや、1人だけじゃないですけど。私はよう病気したですからね。だから、そのせいかどうか知らんけど、1人で向こうの婦長さんがおるところで働いて、その人がする仕事を私がしたりするようなね。だから嫌だ思えば嫌なんでしょうけど、私は、働くことが好きでしたからね。別に嫌だ思わんのでしょうかね。

娘:これ日赤が記念にね。

Q:こういう制服だったんですね?

娘:ちょっと違う。

高亀:これが制服ですね。

娘:日赤が作った。従軍看護婦の格好。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1915年
(高亀さん)広島県に生まれる
1934年
日赤広島支部の看護養成所を卒業。日中戦争が始まると派遣され、ウースン(呉淞)上陸作戦から参加
1943年
7月、再召集され佳木斯第一陸軍病院へ
1945年
方正で終戦を迎える。シベリア・ハバロフスク、ペレヤスラフカ病院へ
1947年
帰国。その後は看護婦、夫の歯科医院を手伝う
 
(大心池さん)ハルビン学院を卒業し関東軍に入隊。終戦を迎えるとシベリア・マルシャンスクへ。1947年に帰国

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