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タイトル 「絵に託す抑留の記憶」 番組名 [NHKニュース おはよう日本]絵に託す シベリア抑留の記憶 放送日 2015年6月4日
氏名 木内 信夫さん、三村 節さん(シベリア抑留 戦地 シベリア(ノヴォパブロフカ) 満州(遼陽)  収録年月日 2015年6月1日

チャプター

[1] チャプター1 関東軍飛行部隊  02:14
[2] チャプター2 心に刻まれた抑留体験  05:32
[3] チャプター3 過酷な日々  08:08
[4] チャプター4 絵に込めた戦友への思い  05:49
[5] チャプター5 人間同士の交流を通して実感したこと  05:46
[6] チャプター6 文章と絵に表す抑留体験  07:06
[7] チャプター7 シベリアでの11年間  05:41
[8] チャプター8 ある少女とのひととき  05:09
[9] チャプター9 伝えたい思い  03:23

提供写真

再生テキスト

私も飛行兵だから言うけどね。飛行兵になってね、それで今言えば自爆ですよね、自爆はもう、ばかみたいな自爆かも知れません。だけど、あれになりたくて行く人はね、みなさんがね、かわいそうなんて思っている程じゃないんですよ。私自身がそうなんだから。もう飛行兵のマーク付けとるときは、一生で今なにがいちばんうれしいかっていえば、飛行兵のマーク、戦闘機のところに配属されたときのうれしさって言ったらなかったですよ。死ぬかも知れないよ。みんな先輩、死んでいるんだからね、今度は俺の番だっていう。それでもね、みんな喜んで、「行ってきます」って、遠足行くみたいに行ったんだからね。これはね、事実そうなの。みんなそんなこと書いてない人のほうが多いんですよ、みんなかわいそうなんて、行きたくないのに行ったんだって言うけど、そうじゃない。私自身がそうじゃないって言うんだから。私と同じ人間なんだから。しかも先輩だから。しかも乗れたんだから。私なんか乗れなかったんだから。だから私の方が、それからいえば悔しいくらいで、乗りたかったくらい。ダーンと敵の戦艦でも何でもぶつかって、見事に男らしい、男で生まれて良かったなんて。そういう気持ちのほうが多かったからね、飛行機に乗っている連中は。だから私なんかとにかく羨ましかったのね。

この三合里(現・北朝鮮ピョンヤン市寺洞区域大院里)というところにいたの、最初ね。この中国のね、(旧)満州のいたのがね、この辺だと思う。遼陽っていうところがあるのね、そこは戦闘隊の、飛行機の戦闘隊だけどね。だけどそこへソ連から攻めてきたあれがいたので、うちらはやっぱり、航空隊の練中というのはみんな志願したりなんかして、戦争をそのつもりで出てきた連中だからね、日本が負けても俺たちは負けねえっていうような調子でね、野郎でもって、神風が逆になっちゃって、大吹雪になっちゃってね、飛行機が1機も飛べなくなっちゃってね。それで転々バラバラで逃げたの。それで話しが長くなっちゃうけどね・・・・・そっから三合里に行くまでにね、途中で捕まったり、刑務所に入れられたりなんかしてね。それで最後に三合里というところに来るのには、刑務所から三合里までね、ソ連が迎えに来てね。それで三合里から、今度は興南っていうところへ行って、興南から船に乗っかってポセット(ロシアの沿海地方南端)に行ったんです。ポセットから今度は列車に乗っかってね、・・・約1,500人くらい乗っかって。それでずっとこれ通って。これが・・・バイカル湖どこだ?この辺にあるわけだよね。これがバイカル湖だ。バイカル湖でもってここで水浴びして。そこからずーっと乗っかって。モスクワはこっちのほうかな。モスクワ行くまでに約1か月かかるのね。それから今度はスラビヤンスク(スラビャンスク)(現・ウクライナ南東の都市)までずっと来て。ここまで来たの。ここでもって、初めて降ろされて、ここから今度は、約1小隊ないし1分隊。だいたい1小隊くらいずつで別れて、ここからいろんなところに作業に出て行ったわけね。私の場合は、ちょっと遠いところで、そうね、一個中隊ぐらいいたかな。30人から40人くらいで山に入ったんです。

ウラル山脈がこの辺になるのかな。ここ超えたときは、これはもう帰れないや、こんなとこまで来て帰すわけがねえやと思いながら、もう諦めてね、どこで殺されるか分からないけどとにかく諦めて。

ここでは最終的にはスラビヤンスク。ウクライナ行ったのはね、その2年あと。あのね、収容所が何回も何回も変わったの。いちばん最終がクラマトール(クラマトルスク/スラビャンスクの南)だったの、ウクライナのね。

Q:抑留中の日々の生活というのは労働があったり、私も本で読んだりしたことはありますが、やっぱり過酷なものですか?

やっぱり過酷だったと思いますね。確かに過酷だから、事故があったり、体の弱いものは倒れたりしましたね。だけど幸いというか、私はけっこう強かったんですね。みなさんがそれこそ、これくらい10過酷だったところ、私は半分くらいしか過酷じゃない。それは小さいときから、私は生まれたときから、赤坂のTBSのあたりは近衛の3連隊(の跡地)ですからね。おぎゃーと生まれたときから軍靴の音を聞いていたわけでしょ。だから、それこそ小学校のころから軍人教育というものをされたわけです。だから兵隊に行ったらどんな目にあうかって聞かされたし、山の中を食わないで歩かなきゃならないってことを聞かされたから、自分自身でそれに耐えるだけの訓練をしたんですね。それが逆に良かったわけね。

Q:抑留生活中の寒さはやっぱりすごいものがありましたか? どうでしたか?

零下25度くらいになると、まぶたがぴたぴたと(くっつく)するんですね。それ以上目をずっとつむりっぱなしにすればくっついちゃうかも知れないけどね。そのときは寒いんだな、たしかに寒いですね。だけど防寒具があったしね。私自身は寒さには強かったですね。だけど、凍死はしましたね。それは私たちだけじゃなくて、よその部隊も同じようにね、朝起きたら隣で寝ていたのが凍死しちゃっている、そういうことがありましたね。

Q:同じ捕虜の・・・

ええ。なぜ凍死するかというとね。幕舎って天幕ね、天幕の中に20人くらい寝るんですけどね、いちばん外側にいる人は、天幕に隙があると、そのなかから寒い風、寒い風なんていうよりも痛い風が吹いてくる。向こうは寒いから雪が粉になっているんですよ。粉状だから入ってくるしね、すごく寒いわけ。だからいちばん外側に寝た人は、体の具合が悪かったり、弱かったりした人はね、調子が悪かった人はね、凍死してしまったということがありますね。もちろん私もいちばん外側に寝たけどね。

Q:朝起きたら仲間が目覚めない。

目覚めない。呼んでも、気持ちよく寝てるわけね。わたしも凍死寸前になったけどね、凍死はね、気持ちがいいんですよね。もう、眠たくなるんです。まず眠たくなる。誰に聞いても分かりますよ。これは痛くも何ともないです。眠たくなって寝ちゃうんです。で、そのまま凍死しちゃうんです。だから凍死がいちばん楽なんじゃないかと私は思うくらいです。だけど、第三者が客観的に見れば、かわいそうですよね。昨日まで一緒にしゃべっていたのが、何も言わなくなっちゃってね、真っ白になって死んでいるんだから、これはかわいそうですね。

Q:まだまだ若い。

みんな二十歳前後ですからね。そういう人たちがね、前にも言ったけど、侵略者という汚名を着せられて、それでなおかつ捕虜になって、なおかつ凍死なんて、浮かばれないですよ。かわいそうで。

Q:仲間の方で命を落とす方でいちばん多かったのはどういうことで、やっぱり寒さだったんですか?それとも労働中?

私の場合は、やっぱり・・・飢えなのかな、栄養失調になっちゃう。栄養失調になると、逆におなかがものすごくはれちゃうみたいね。それで栄養失調になる前に食べさればいいんだけどさ、栄養失調になってから、栄養失調だから食べさせなきゃいけないって、病院で何かほかの人よりいい物を出すんだけど、そのときはもう遅いんですよね。

Q:やっぱり飢えもあったんですか。それは日々の食料というのが少なかったんですか?

少なかったんですね。パンが一応250グラムということになっていたけど、自分の手元にくるころには、200グラムを切っているみたいなときのほうが多かったと思います。

Q:その凍死するくらいの寒さがあって、栄養失調になるくらいの飢えがあって、それで日々強制労働があると、そのときやっぱりものすごい苦しいものですよね?

苦しいですよね。私の場合は目が悪かったから、ものすごく悪いというわけじゃないけど、夜盲症になる性質で。栄養が行き届かないと、夜盲症になっちゃうのね。痛くもなんともないけど夜になると見えなくなるんです。それで、朝早く出かけるから、朝暗いうちに出かけるでしょ。だから目が見えないから、目の見える人がいちばん外側の列になるんです。それで、見えない人が中になって、みんな手を組んで現場まで歩く。現場まで歩いているうちに明るくなるからそうすると見えるんですよね。

目が見えないって言うのは心細いですね。やっぱりつらかったって言えばそれがいちばんつらかったですよね。労働そのものより。寒くて暗いようなときには労働もできないでしょ。私のいちばんひどい労働というのは、石取り作業ですけど、こんな太い労具で長い労具で、岩をがんがんと岩を落として、その岩をあげて、それをノルマをあげなきゃならない。だけど、夏場ならなんとかあげられるけどね、冬場なんかはそんな寒いときなんかは、労具持つのにも冷たい。だから歩哨(しょう)が来たときだけね、カーンカーンて鳴らして、仕事しているみたいに鳴らしてる。

Q:木内さん、さっき地図で見せていただきましたけど、ほんとにシベリアを越えて3年間、2年、3年くらいですよね、その最中というのは、自分は帰れると思っていた?

思っていなかったです。もうね、こんなに遠くだから、ウラル山脈を越えたときにもうだめだと思ったね。あ、これは帰してくれないなと思った。だけど、私は帰してくれないことに対して当たり前だと思ったし、そのつもりで出てきたからね。帰ること、捕虜になって帰ることの方が恥だと思っていた。小野田さん(小野田寛郎さん・戦争終結後、投降をせずに29年間フィリピンで潜伏生活を送った)みたいにね。そういうあれだったから仕方ないと。その代わり、仕事が終わったらみんな並べてばらばらばらと撃って殺して穴の中埋められる、そういうふうには思っていましたね。私だけじゃないと思います。日本の兵隊さんというのはね、ほとんどそういうことしか思わなかったと思いますね。ちゃんと無事になって帰るなんて思った人はいないと思いますね。

私は人と違って、食べ物なんかも訓練して、食べないように、食べないで歩けるように、食べないでも泳げるように、とにかくもうあらゆる訓練、人が聞いてもあきれる、そんなこと本当にしたのかってあきれるような訓練をしたんですよね。そのためにみんなより、痛いのも半分だし苦しいのも半分で済んだんだと思いますね。

Q:戦争とシベリア抑留、捕虜として生活している間にたくさんの仲間が亡くなったわけですよね。

うん、それを思うと涙が出ますね。かわいそうでね。

これね、ソ連の人が来てる服とね、微妙に違うのよ。同じカーキ色でもね。これはね、行ってほんとに見た人じゃないと分からないからね。これだけは。文でもね、同じカーキ色でも、これだけの微妙な差があるっていう文はね、書いてもね、おそらく読んだ人が、どんな色だか自分でその色を出してごらんって言われたってね、見てないから出せないと思うのね。百聞は一見にしかずというけどね、見てないと描けないのね。

Q:この絵でいうと、今おっしゃったって色っていうのはどういうところ?

たとえばね。このソ連の人が着ている色ね。この服の色がね、文で書いたんじゃちょっと分からないと思うの。ただグリーンぽいとか。ただグリーンぽい中に少し茶色が混ざっているとかって言ったってね、文で書いただけじゃ、ほんとの色はね、その文で書いた色を出してみろと言ったってね、どんな絵描きさんでもそれは難しいと思うよね、見てないからね。見てれば適当だけど、こういう色で描けるということね。こっちの兵隊さんは同じカーキ色でもこういうカーキ色じゃない訳。今度はね、こういう色な訳。

Q:これは木内さんが向こうで着ていたような色?

そうそう。私だけじゃなくて軍人は全部おんなじ色で着ているからね。それでやっぱりね、夏と冬とは色が違うのね。同じカーキでも少し違う訳。それで着ている上着のほうと、ズボンのことは、はかまという字を書いて「こ」と読むんだけどね。軍袴(ぐんこ)って言うんだけどね。軍袴のほうはね、少し青っぽいのね。

今日こういうふうにみなさんが若い人たちが聞いてくれてね、それで舞鶴やなんかでそういう絵も飾られてね、こういう人がいたんだよって言ってくれる人がいたらね、私も今度は、逆に天国に胸張っていけますよ。きみたちのあれは犬死ににならないでみんな分かってくれたよって言ってあげたいくらいですよ。

なんとかして、やっぱりそういう人たちが、浮かばれないかと思って描いたよね。

Q:そういう人って言うと?

死んじゃった人やなんか。二十歳そこそこでもってさ、本当は幸せになれるはずの人たちが、戦争のためにさ、捕虜になり、捕虜になっただけならいいけど、病気になり、凍死するなり事故に遭うなりして死んじゃった。戦争で弾に当たって死ぬならまだ名誉だけど、そうでもないだろ。だから戦争で弾に当たって靖国神社に行った人よりよっぽどかわいそうだと思っている。だから私忠霊塔だとか靖国神社に行くと敬礼しますけどね。そういう人たちよりもっとかわいそうなのが、捕虜になって死んだ人たちのほうが、もっとかわいそうだよね。

Q:そういう仲間に向けて描いた思いもあったと。

そうですね、それもありますね。だから書きながら泣けましたね。おもしろい話だったら喜んで楽しかったって思って描くけどね、やっぱり凍死している絵なんか描いたりね、むこうでそのまま死んじゃってる絵を描いたり、事故で死んじゃった絵を描くときなんかは、やっぱりね、かわいそうですね。そういう人のために描いている。その絵を描くときはその人、その人たちのことを思って描きますね。

Q:絵の中には、労働のこととかも数多く描いていると思うんですけれども、やっぱり日々というのは、描いた理由というのは、それだけ大変な労働だったりとか、飢えのことについても描いていましたけれど、やっぱりそれだけ記憶に残っているものなんですか?

そうですね。私の場合はさっき言ったように、みんなよりちょっと強かったせいか、それをさ、じっくり見られたということだね。見るどころじゃないよ、自分が大変で明日死ぬかも知れないんだからそれどころじゃないって、そうじゃない。私の目はそうじゃなかったね。私の目に映ったのは、楽しい絵と、悲しい絵と、それから苦しい絵っていうのは、みんなこの目では平等に見えたの。しかもね、どうせ帰れないと思ったんです。帰ったからそれが描けたんですね。描かなきゃいけないと思って。

Q:木内さんの描いている絵の中には、現地での人との交流を描いているものもありますよね。これは現地で、人間どうしの交流というのもあった?

おおありですね。もうほんとうに、これが戦争した国で捕虜になっているっていうことが分からないくらい。もう、みんなね、同じなんだなって思ったね。言葉が違う、毛の色が違うだけで、考え方はみんな同じだと思って、本当に安心しましたね。

腰の曲がったようなおばあさんが歌を歌うと、若い人がまた歌う。ただ斉唱といってみんなでそろえて歌うだけでなくて合唱、2部3部になって歌う。それを聞いたときに、これはこの国は日本より文化が高い、こんな国と戦争をやったら負けるの当たり前だなと、そういうふうに思った。まずいちばん先にそういう人たちを見てびっくりしましたね。

Q:現地でいろんな人との交流ができたことを絵にして描いていらっしゃると・・・どうして描こうと?

やっぱりうれしかったですね。うれしかったからこれを描かなきゃと。本当にそのとおりだったからね。だから、自分の思っていることを絵にしなければいけないと思って。そうしないと分かってもらえないから。それをなにもさ、こんなにみんな人が見て、世界遺産にでもなろうかって、そんな絵にしようなんて思って描いたんじゃないからね。ただ息子に、お父さんこういうふうにしてきたんだよ。捕虜になったんだよ。だけどこうだったんだよ。世界中の人は誰も捕虜だなんて思わなかったよ。世界中は仲良くできるんだよ。そういうことを伝えたかったね。だから戦争なんかしなくても、本当はよかったんだよって、そういうふうに思いたかったね。

Q:抑留中の交流でそう思いました?

思えましたね。いちばんそれが感じましたね。こんなにみんな、同じじゃないかってね。言葉は違うけど同じだと思って。それがびっくりした。日本人だけがいきがって東洋平和にするってなんだかんだって言ってね、戦争していたけど、そうじゃなくてね、みんな戦争なんか嫌いでね、みんなで仲良く、現にこんなに仲良く接してくれるじゃないかって思ってね。

髪の毛や言葉が違ってもこんなに仲良くなれるんだって、それを知ってもらいたいね。ましてや東洋人同士がけんかするなんてもってのほかだね。どこに行っても仲良く、本当はできるんだ、できるのにしない、それはおかしいよね。なにか上の、戦争好きなのかどうか知らないけど、上のものにけしかけられてやるってことは考えさせられるよね。

Q:今の世代からすると、そういった戦後もシベリアの抑留があったと言うことを知らない人も多いと思うんですけれども、どう感じて欲しいと思いますか?

そういうことがあったということ、実際にそういう人間がいたということ。じゃあそれはなんでそんなになったのかっていうことと。そしてなった人はどう感じたっていうことね。それは絶対そういうことはあってはならない。また、その前に、まずみんなが仲良くできるんだってことを実感したのが私なんですよね。他の人はどうか知らないけど、私は実感したんですよ。ということは、もう他の人はソ連の人だけとしか話していないかも知れないけど、私は各国の人と話したからね。一人で出て歩けて。しかも子どもとまで、それから知らないむこうの娘さんだとか、おばあさんだとかおじいさんだとか、そういう人たちと私がお話ができたっていうことね。これはね、大きなプラスだと思う。私にしてはプラスなんですね。それでその人たちがみんな、私と同じように、私たちの庶民と同じように、戦争に負ける前の私じゃなくて、負けてからの私の考え方と同じように、みんな平和になって、こんな戦前は考えられなかったようなことが現実にできたことが本当にびっくりして。これは世界中の人に話してあげたいくらいですよ。世界中の人は本当は仲がいいんだっていうことをね、話したいですね。

三村さん:本当にしばらくですね、お元気で。

木内さん:ありがとうございます。うれしいね。

三村:相変わらずお元気ですね。

木内:三村さんのはね、こうやってね、ぜんぶね。これをね、書けるってことはね、これだけ書けるってことはね、すばらしい。私この絵を描くのはね、川柳ひとつ書くくらいのものだからね、せいぜい。

Q:三村さん。この文章は何年くらい書いていらっしゃるんですか?

三村:もう6年目になりますね。6年目というのは、はじめはこの『あいあい通信』というこれに、2か月に1回ずつ、2人で交代で書いていたんですよ。だからもう6年かかってしまいましたけども。初め出るときから、だいたい50号まで書いたら、本にまとめようと思っていたんです。今はまだ、これ39(号)、40(号)というところですからね、最近になってから、私が毎月出すようになったんです。

Q:それに木内さんが絵を描いて。

三村:そうです。

Q:一緒に文章を書いて絵を描いてって、一緒にできることはどう感じますか?

三村:とにかくこれだけの体験をした人が、その現場を描いてくれるということはありがたいですよ。見る人がね、おそらく、これについてそういうふうに感じるだろうと思うんです。読む人が。日本の普通の社会の状況とは違う、特別な場面ですから、これはね。

木内:百聞は一見にしかずでね、やっぱり見る、聞くことはすぐ絵になるっていうことになるんです。それで私の場合は、見て聞いたことが絵になる。三村さんの場合は見て聞いたことが全部頭の中に入って覚えちゃうということ。だからお互いに得手不得手ということがあってね、それができるっていうことはね、私はだから三村さんに会えたっていうことはずいぶん私は幸せだと思いますね。いろんな絵を思い出させるしね。

Q:経験したことを伝えるという意味でも、こうやって一緒にできるということは大きいですか?

木内:大きいですね。もう三村さんがいたおかげで、絵もずいぶん後から、この中に描いてる半分ぐらいは三村さんの絵だもんね。これなんかはみんな三村さんの絵ですよ、これ。三村さんからこういう絵って言ってもらって描いてね。これなんかだって、私なんか経験していない。これを描かせるということは、こういう情景を想像させるようなことを書いてくれるんですよ。あとは服装やなんかはもうそのときのあれで、同じに捕虜になっているからね、分かるから描けるんだけどね。

三村:いや、絵を描けるという人はね、そういう感覚はすごいですよね。

木内:それもね、経験してなきゃ描けないですよ。同じ経験してるから、描けるのね。

三村:そうですね。

Q:三村さん。木内さんが描いてくれたこの文章の挿絵とかは残しているんですか? さっきの文章の挿絵をいくつか見せていただけますか?

三村:これがそうでしょ。これがね、文章を書いたところに、絵の説明として裏にこれ書いてありますね。これ、そういうふうにして出したんです。これがそうです。

木内:ああ、そうだねえ、三村さんはね。

三村:北極圏で洗濯をやってるところですよ、囚人の収容所(三村さんはスパイ容疑で逮捕され、その後名誉回復された)で。

木内:まだ洗濯はさ、いいほうなんだよね。

三村:そうです。

木内:寒いところだけど、暖かいところにいられるしね。もっと厳しいことをさせれられたこともあったし、いろんなことをさせられたもんね。

三村:囚人暮らしなんてのはね、こういう、この生活はもうあれですよ、ほんとに、一般のものから見たら楽なものですよ。炭坑ですからね。炭坑の仕事っていうのはつらいです。

木内:ただ表へ出るだけだってつらいもんね、零下30度だからね。

三村:そうです。

Q:その当時の労働のこととか、はっきり今も覚えていらっしゃるものですか?

木内:覚えているよね。

三村:それは、仕事のことは覚えていますよね。まあいちばんつらい思いをしたっていうのは、森林の伐採ですよね。・・・捕虜の生活と、あと今度は裁判を受けて刑務所に入れられてからの生活(を)、これを比較してみるとね、あとのほうがずっと楽なんですよ。捕虜の時代というのは、ソ連の国民生活もひどかったんでしょうけれども、我々入ったときには、よく生きてこられたなと今でも思いますよ。つらいです。

木内:森林伐採なんか、これなんかがそれだね。

これが推こう中のもの。この次はね、『運命の岐路』という題で書いています。これがね、ハバロフスクの共産党学校の建設という内容ですね。こちらのほうは、『抑留の地を訪ねて』、あとで20年くらいしてから旅行をしたんですよ。そのときのことも書いているんです。

木内:旅行も連れてってくれたの?

三村:旅行はね、(シベリアに)11年いたということは、言葉ももちろんある程度は分かるようになりますし。現地でいろんな人と会うこと、捕虜時代に(の)知り合いの人と会ってみたりね、そういうこともあったんです。そうするとね、つらかったことを忘れそうになって、顔を見ると楽しいことばっかりが浮かぶと。そんなことでしたね。だから現実に現地に行って、建築した跡なんかを見ると、ここでこんな苦労したなということは思い出されますけどね。けどもやっぱり建っている建物みると懐かしいですよ。

この前描いてもらったこの次出すこれなんかはね、国会議員が捕虜の収容所に訪ねてきたものなんです。それを今、文章とこれ(絵)とあわせて書いているわけですけど。これはうまいこと描いてもらいましたよ。

木内:そうですか、ありがとうございます。

三村:話は余計になるかもしれないけど、この絵を見てね、よく思い出したのは、日の丸が付いていたということ。鞄にね。国会議員は全部そろいの鞄を持って来たんですよね。それに日の丸が付いていたんで、日本にはまだ日の丸はまだ生きているのか、と思ったのよ。もう我々はね、あのとおりの生活をしたわけですから、もう日本も日の丸なんかは全然、力を持っていないと思っていたの。びっくりしましたよ。この鞄にみんな日の丸が描いてある。

三村:あとはね、捕虜時代のノヴォパブロフカ(チタ州カダラ地区/ザバイカル地方)というところ。みんなこれを思い出のように書くわけですが。ここは将校収容所なんです。将校だけ。話せば長くなるかもしれないですけど、あそこの将校収容所というのは、いろんな資料を見ても、どこにも書いてないんです。ノヴォパブロフカの収容所っていうのは。

木内:将校収容所っていうのは、普通の収容所よりも確か北だしね、きつかった。行くと帰れない人の方が多かったというようなこと聞いていますよ。

三村:そうですね。それで私はその収容所でスパイ容疑を受けたと言うことで、裁判を受けたわけですけど。あれはね、捕虜の収容所で裁判、スパイ問題というのは、これはものすごく大変な問題だったんですね。昔、憲兵とか警察官とか特務機関とかいう人たちというのはもう昔の人で、もうなんの権力もなにもない。ところが、捕虜の収容所でそういうスパイ問題を起こすということは、これからの将来の問題だというので、私どもね、いちばん遠いところへ送られたのが、たぶんそんなことだろうと思っているんです。北極圏のヨーロッパに近いほうですからね。(三村さんはボルクタ(現・ロシアコミ共和国)にも送られた)そんなとこへ送られて、もう絶対に帰れない、帰れるはずがない、帰すならこんな遠いところまで送ってよこさないだろうと思っていたんですね。

三村:それと帰る間際になってから、農家の近くに行って、草刈り作業をやったときの、絵にもありましたけどね。そのとき少女と一緒に、13歳の少女と一緒に、野山にブルーベリー、あの当時はそれとは知らなかったけれども、ブルーベリーを採るために一日中その女の子と一緒に歩いたという記憶。これはね、楽しかったですよ。捕虜あるいは囚人としてひどい生活をしてきたのに、最後に帰る間際になってそういうことがあったということはもう、うれしかったですね。その思い出、忘れられないことを、これも書こうと思っています。

Q:例えば、それなんかは木内さんに絵をお願いするとしたら、どんな説明ができますか?こんな絵ができないかなと言うと。

木内:もう今話聞いただけでもって、頭の中にその絵が全部入ってます。もうどんどんどんどん入ってます。もうその光景がみんな入りますね。何にもできない代わりそういうことだけはできるんですよ。今の話だけでも絵になります。

Q:ちょっと説明してもらえば頭に浮かぶ?

木内:ええ浮かびます。今の説明で十分浮かぶ。そのときの様子とか、その少女の行動だとか、全部分かります。

そうね、何しようか。スカートは履いているけどね。こういうのを着ているからね。向こうの人はね。わりかし地味なのを着ているからね。

ハンチャコを履いているからねえ、女の子。だいたい冬になるともっとサポークとかっていうもっとあったかいの。冬とどっちがいいかな。冬のやつとあったかいやつと、どっちのほうがいいかな。冬の方がいいかな?

三村:そうですね。ああこれはね、私も帰ってくるときは別れるときの格好な感じがするから。

木内:ああ、じゃあ夏だ。

三村:夏ですよね。

木内:そうだね。じゃあこれでいいよね。だいたい向こうの人は作業服みたいのが多かったからね。それで夏ならなおさらあれだね、バシンキか。

木内:三村さんだね。帰るときだから、日本の軍服はあまり着てなかったよね。

三村:うーんと、帰る服装はしてなかったですよね。

木内:このくらいの服装だね?

三村:ああ、そうです。

Q:今書いているのが三村さん?

木内:三村さんです。つかんでいるところをやっぱりね。女の子だからね、別れ際だからね、花束かなんか持たせた方がいいと思うから。花束持ってこなかったかも知れないけど、それに近いような何かは持ってきていると思うんですよね。

三村:持ってきましたよ。もらったものをね、よそにあげてしまいましたけどね。(茨城県)城里町の公民館でもらいたいと言うので展示会用に持ってって。鏡だとかね、ハンカチだとか。そういうものをもらいました。

木内:でしょうね。あのね、夏はね、すごくね、ひまわりがすごいんですよ。ものすごいひまわり畑で。そういうところが各所にありましたからね。あったですよね、ひまわり畑?

三村:そうですね。

木内:だからそういう意味でもって、おそらくバックはひまわりになると思います。このくらいの下絵でもって、あとは筆で描いています。筆使って、今あったでしょ? これがね、この絵がね、即これになっちゃうんです。それでこれを描いちゃうと、今度色を付けるんです。ぱっぱっぱっと。だからだいたい想像がつきますね。今言った話でもって。ひまわり畑描いて、(女の子が)追いかけてきて花を渡しているところ。

Q:三村さんはこうやって今も文章を書いて、人に伝えるっていうのは、なんで自分で今も書いているんですか?

三村:それは自分の過去のことをね、過去といえば、捕虜になり、囚人になったという経験を11年間も持ったわけです。22歳から33(歳)までの11年間ね。本当に人生の華の時代だと思うんだけど。そういう、戦争のあとの、いわゆる「戦争の後遺症」といいますかね、戦争はそれだけじゃ済まないんだと。こういうふうな生活をした人もいるというふうなことも、知ってもらいたいと。そういう気持ちはあります。だから私は現代の若い人たち、あるいは若い人だけではなくて、日本の国民全部のものの考え方、これを自分で書きながらね、こういうものをどう受け取るかということをやっぱり頭で考えますよね。だけどね、もう、まあ悪くいえば、絶望的な感じを受けることもあります。

Q:三村さんや木内さんが経験したような、戦争とその後の「後遺症」とおっしゃいましたけど、そういったこと、やっぱり繰り返されてはいけない。

三村:そうです。そう思うけれども、それがかなわない時代が来ているというふうに思うんですよ。だから絶望という言葉を使ったんだけれども。希望を持てる、こんなことがいったいあるだろうか、今の政治で、そう思いますね。

Q:それでは、そういう中にいる、今の若い人には、ご自身の抑留の経験とか記憶とかをどのように受け止めて欲しいですか?

三村:それはね、体験したそのままを、聞いて書いてそして考えて、そういったものを伝えていくというつもりで書いているわけですから。ただ、それを本当にそのとおりに受け取って読むかどうかという疑問を持っています。失礼ですけど、そうなんですよ。それでも書かざるをえない。書かないでそのまま逝ってしまうということは、もう耐えられないです、私はね。だからもう、毎日夜の11時過ぎまで書いているんです。毎日です。

出来事の背景

【絵に託す シベリア抑留の記憶】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)8月。ソ連は日ソ中立条約を破棄し、満州国に侵攻した。圧倒的な戦力を前に、関東軍の大半は抵抗できずに撤退し8月15日の終戦を迎えた。武装解除された日本軍将兵や民間人はソ連によって捕らえられ、57万を超える人々が各地の収容所に送られた。
当時ソ連は、ドイツとの戦争で国土が疲弊。深刻な労働力不足に直面していた。スターリンは、抑留者の強制労働によって豊富な資源が眠るシベリアの開発を推し進め、国力回復の足がかりにしようとしたのだ。冬には氷点下30度を下回るシベリアで、抑留者たちは森林伐採や炭坑作業など過酷な労働を強いられ、少なくとも5万5千人が命を落とした。

証言者プロフィール

1923年
(木内さん)11月、東京市赤坂区(現・港区赤坂)に生まれる
1944年
陸軍へ。第29飛行戦隊・対空無線隊に配属される
1945年
遼陽(現・遼寧省中東部)で終戦を迎え、シベリアを経てウクライナなどに抑留後、1948年に帰国
1923年
(三村さん)3月、茨城県岩船村(現・城里町)に生まれる
1943年
陸軍へ。独立歩兵第24大隊に配属(予備士官学校12期)
1945年
通化省大栗子(現・吉林省)で終戦を迎え、シベリア・ノヴォパブロフカ、チタ、ボルクタなどに抑留後、1956年に帰国

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シベリア(ノヴォパブロフカ)

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