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タイトル 「軍服と丸坊主で男装」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 松本 スミさん(シベリア抑留 戦地 シベリア(ハバロフスク) 満州(佳木斯)  収録年月日 2014年5月26日

チャプター

[1] チャプター1 穏やかだった日々  05:05
[2] チャプター2 勤労奉仕に追われた日々  06:08
[3] チャプター3 軍隊生活  05:17
[4] チャプター4 ソ連軍の攻撃  04:51
[5] チャプター5 男装のため丸坊主に  01:57
[6] チャプター6 着の身着のまま、命懸けで逃げる開拓団の人々  03:01
[7] チャプター7 見せしめにされた遺体  02:36
[8] チャプター8 チョプロオーゼロ収容所病院へ  03:30
[9] チャプター9 収容所ごとに異なった食料事情  05:13
[10] チャプター10 “私たちの青春は捕虜”  03:27
[11] チャプター11 民主化運動とつるし上げ  01:31
[12] チャプター12 変化していた日本へ  03:45
[13] チャプター13 役場勤めを経て結婚  04:48
[14] チャプター14 シベリア抑留で得たもの  02:29

提供写真

再生テキスト

これこれ。これ、ガクッとした。

Q:いちばん前の? 左から6番目ですね。他の方よりも。

ガクッと座った。だから・・・

Q:これが入学記念ですか?

そうですね。多分体が弱かったので我慢できなかったと思うんですよ。

Q:ちょっと一休みした瞬間に、撮られちゃった?

そうなの。校庭でよく倒れたりしてたから。

家族写真って、うちの父のはあれなんですよ。こちらに中国の帽子かぶっているのと母と・・・

親の写真は、私、学校の写真は何も1枚も持ってこなかったのでないですけどね。

Q:中国の帽子。

引き揚げてきてすぐ亡くなりましたので。

Q:お父さん向こうで何のお仕事をしてらっしゃったんですか?

うちの叔父、母の弟、叔父さんが建築、佳木斯(ジャムス)の三江劇場っていうのを建てたりね、ずっと建築の方やってたので、手伝い、事務の方へ家族で全部行って。うち畑もなかったし田んぼもなかったから、何もしなかったんだと思うんですけどね。

Q:お母さんきれいなかたですね?

70~80(歳)くらいまで元気だった。写真なくてごめんなさい。

Q:やっぱり引き揚げてこられたかたって・・・

全部何も持ってこられなかったの。こういう持ってきた人はみんな前に引き揚げた人とかね。

それで(昭和)20年の3月に卒業しましたからね。(昭和)19年ぐらいからこういうふうになったのね。16年から戦争でしょ? (昭和)16年の12月8日だから。まだ向こうは戦争しいてるって気持ちがなくてね。12月8日、私たちはお昼、ちょうど友達と今でいう卓球っていうかピンポンって言ったころね。昼休みで友達としていたら「大変だ、大変だ」って言うので、何事かと思って下りたら、大東亜戦争ね、「戦争している」ってそれで初めて(知った)。でも大変って言っても私たちは向こうだから、そんなに大変なことも・・・。実際に受けるのは。

Q:飛行機が飛んでくるわけでもなく?

なくて。1年生のときは昔の警察のあったところが学校だったんです。だから寄宿舎はろう屋だったわけね。昔の。2年生になってこの学校に引っ越して、戦争なのにこんないい学校ができて。椅子なんかも自分が座る椅子だけ持って引っ越しなんかしたの、(昭和)17年でした。

Q:新築したんですね?

そうなんです。16年のときに戦争のとき入ったんですけど、まだできてなかったんです。2年生のときに確か引っ越ししてそれでこの学校へね。そしたらいよいよ畑作ったりしないと戦争しているからっていうので。真珠湾攻撃だとかそういう話が出てはくるけど、まだ私たちはそんなにせっぱつまったことはないわね。通年動員だとかいって、行くようになったのは・・・、4年生ね。それで代わりばんこみんな行くからそのわりではない。

私たち動員に行ってミシン掛けしたりしましたからね。いろいろしましたからね。

Q:ミシン掛けっていうと?

縫製工場行って兵隊さんのボタンつけやったり、やりました。

Q:前線の方にも勤労奉仕?

そうです、行ったんですよ。私たちは兵隊さんと一緒に夜泊まって3か月ずつ東安(現・黒竜江省東部)っていうところに動員に行きましてね、ほふく前進なんかやりましたよ。グググってこうして。

Q:東安って国境に近い。

すぐのところなんですよ。朝、兵隊さんと一緒にラッパで起こされて夜は信号ラッパで寝るようにして。

Q:勤労奉仕、動員って内地だと軍事工場で働いたとか?

私たちはね。鉄砲の弾磨きに行きました。弾をね。だから「家族には絶対内緒にしとくように」って言われて。うちに帰って「どんな仕事しているの?」って言われても。「秘密だ」って言ってね。あれしていましたね。

Q:国境近くの部隊に行って、親が心配しますよね?

これ分かりますよ。これ2回生。自分がこれ。ふくれっつらしているから。ね?

Q:この2段目の?

これ。いちばん上の。

Q:左から4番目? このときはおさげにしているんですかね?

おさげでね。あとでこうもう少し(したら)みんなで三つ編みにして。

Q:このとき看護婦の免許もらったときですね?

はい、そうですね。

これなんか勤労奉仕で行って、みんなでしてこれもそうだと思う。はちまきして。

Q:これ松本さん? この。

はい、そうです。

これは東安ね。いますよ。上から上3番目。東安行きましたから。

Q:部隊に行ったって感じですよね?

そうですよ。それだからみんな服装も地味で。

Q:それ用の服を着るんですね?

何か着たんでしょうね。私たちは黒でしたからね、・・黒。国民服みたいの、襟白いのしてみんなはちまきしているでしょ?大したもんですね。ほんとだ。「いざ出陣」だって「(校舎を背に)4年い組」だって。2期生だからね、半分ずつ行くんですよ。だから行く人だけなんでしょうね。でも結構みんなで行くから。東安の部隊ね。行っているんですね。みんなで行くから楽しいってことは楽しいっていう面もありますね。

これ私だわ。この2段目のこの人か。左から2番目じゃないかな? 笑っている。珍しく。見たら東安行っているから。結構働いたんですよ。東安に行かないときは佳木斯(ジャムス)の部隊に行くんですよ。ホースの古いのと古いのを繋ぐんですよ。それで水を流して漏らないように。だから結構労働。それでこのボタンつけしたり結構作業していますよ、みんな。いつ撮られたのか分かりませんけどね。よくいますね、2期生だから、ミシンやったり。それで私ミシン覚えたんです。動員に行ったおかげで。それで引き揚げてきて結婚してから縫製工場に「ミシンできます」って言って入ってね。

Q:役に立ったんですね?

役に立ったの。ほんと。和服のこのここからね、コートをただ縫うだけなんですけど、息をすると曲がるんですよ。だからガガって動力ミシンを踏んだこともないのにね。よくあれで勤まったもんだなと思いますね。このおかげで。

Q:昔取ったきねづかで。

きねづかどころかヨタヨタしながらのミシンだったんですけどね。でもやっぱり戦後ね、役に立ったんですね。これを見るとね。もうみんな兵隊さんのワイシャツのボタンつけたり縫ったり。結構みんな行ったからやったんですね。知らない間にね。

私たち朝起きられないので靴を履いてね、洋服着て寝てたの。そしたら回ってくる人がみんな靴の裏をたたいてね、起こされてどうしたのかなと思ったら「こんな靴はいて寝ちゃだめだ。」ちゃんとね、「私たち朝起きれないから」ってそういう笑い話もあったりして。回ってくる不寝番が、これからは自分たちが回ってくるからちゃんとしてないとダメって言われてみんな脱いで靴下履いて毛布が何枚か決まっているんですよね。畳んでちゃんとしてラッパが終わるまでに出ていかないとダメなので。大変でしょ?朝起きて顔洗う暇もなくて。ご飯食べるのもメシアゲって当番があって、ご飯もらいにいって、それでご飯して。そのとき結構つらいと思ったときはないわね。もうなんか遠足の続き、働くのはね、日中仕事したって、自分たちが卒業したあとどうしてもやらなきゃいけないから、かえってよかったと思いましたよ。この被服倉庫なんかね。

Q:無我夢中っていうか・・・

それで帰ってきて代わると今度病院とかどっか行ってね。昼休みになると卓球させてくれたり。慰問袋ももらいましたよ。「兵隊さんご苦労さま」っていうの。みんな1つずつぐらいもらうでしょ?あのころ勤労奉仕で行っていると頂くんですよ。そうすると中に「私たちがいただいてもいいんですか?」っていうと、「みんな一生懸命働いているんだから」とかね。だから弾磨きに行ったりこっちの方いったり結構いろんなのやりましたね。

Q:慰問袋って内地の方が作ってる?

そうそうそう。慰問袋送ってくるじゃないですか?戦地にいる(人のために)。向こう(満州)も戦地ですからね。外国の。慰問袋もらいましたよ。いろんなのが入っているの。心こめてみんな慰問袋作るでしょ?それを「私たちが頂いていいのかしら」なんて言いながらね。でも開けてみて「こんなのが入ってた」とかね。そういう大事、「せっかく真心こめて作ったものだから大事にね」とか言われて、結構そういう熱い思いも頂いたりして、3月卒業だけどそのころまでいろんなあの。

私たちは3月卒業するでしょ? それで東京だったら都庁みたいな、三江省(現・黒竜江省北東部)公署っていうところ、三江省は佳木斯だから。そこへ勤めましたね。勤めたのが4月からだとして5、6、7月には召集令状みたいのがきて。だからあっという間に。それでも「自分のうちに帰りなさい」といったときに私と友達と省公署へ給料もらいにいったもん。その日にね。そしたらね、いっぱい下さったの。シベリアまで持って行ったの覚えていますよ。使わないでどこも使うときないの。

Q:その召集令状ってどんなもの?

召集令状っていうかよく覚えてないけど・・・

Q:どこからですかね?

病院の方から。看護婦養成のあれっていうの、あのころ戦時中だったから。それで150人くらいいたんですよ。各、同級生もいれば働いている人もいれば兄弟で来る人もいれば、みんな最初300人くらいいたらしいんですけど。帰った人もいれば「帰りなさい」といったときにね。

Q:年齢はみなさんどのくらい?

私たちが1番若いか、もうちょっと若い人がいたのかな?中学入らないで勤めた人もいるでしょ?1番若い人、私たちが18でしょ?20年の歳は。

Q:満17歳ですかね?

そうですね。それで2年いたんですからね。シベリアに。すごいですね。帰ったときには19歳。

私たちの病院とするでしょ? 病院の横に落ちたと思いますよ、すごい音。私ちょうどその日不寝番だったの。それで起きていたの。デーンて、すごい音がして、走って行ってみんな起こして、そしたらみんなも起きていましたね。ものすごい音だから。何事だったのかと思ってみんなが集まったらもう情報が入っていて、ソ連が宣戦布告してきたから、これどうなるか分からないから。1つの爆弾であれだからすごいですね。それで国境のほうにいた開拓団の人たち、戦車隊、ソ連の、潰されちゃったって人がいる。それが佳木斯医大の人のお母さんなんかね、見ちゃって大変だった。逃げるのがやっとで・・・。国境は近いしね。私たちまた来たでしょ?

Q:1回おうちに帰って家族の方に会ったわけですよね?

会ったんです。

Q:そのとき家族の方ももう会えるかどうか分からない・・・

そんな深刻じゃなかったんですよ。「私たちが戦わなかったらあれだから行くけど、お母さんたちはどうするの?」ったら「今ね、佳木斯の駅行って南下する。戦争が終わったらね、帰ってくるから荷物を整理している」って言って、ちゃんとたたんでる。

Q:ちょっと落ち着いたらまた戻ってくる?

そうそうそうそう。とてもあれで避難するなんてもんじゃなくて、軽い、「ちょっと南下してくるんだ」って。着の身着のままくらい。だからうちの中をちょっと片づけて、それがそのまま。

Q:スミさんは「戦わなければならない」っていう気持ちで?

そう。だって教育がそうだったでしょ?ずっと。戦わざる者食うべからずでね。そういう教育だったから。それで8月15日、方正で終戦は知らなかったですね。方正は病院と一緒だったからそんなに心配事はなかったですね。でも軍服は着ていましたよ、もう南下するときは。

そうそれで私たち港へね、男の人はみんな乗せて先に帰ったと思ったらシベリアへ行ったのね。私たちがふ頭のところで見ていたら、汽車がずっと、あれ考えると南下してるんじゃなくてみんなシベリアへ行ってるの。兵隊さんがいっぱい乗っててね、手を振っているの。私たちもみんな帰れると思って。方向も何も分からなくて。私たち乗って、乗ったときもね、その船の横に爆弾が落ちたんですよ。だから気をつけなきゃとか言ってね。あの方正で1日は私たちはふ頭でね、待ってたけど、女だけ乗せてもらえなかったんです。それで方正の司令部の方に戻るときに道があるでしょ?そうしたら道を通るの危ないから。下がコーリャン畑じゃなくて、あのとうもろこしとかコーリャンがずっと、8月で。そこを私たちね、走った。そしたら一人、私の同級生で上田房江っていう人がさらわれて、司令部に行ったら一人いなかったのね。だから私たちはまた翌日また歩いてみんなでふ頭に行って1日、そのとき乗せてもらったんですよね。

(軍服は)ダボダボだったかも分からない。それだから帽子も8月だからこういう垂れのついたあるでしょ? あの帽子かぶった。私なんか坊主にした。方正で。

Q:どういうふうに? 皆さんで決めて?

そうね、同じ部屋の人、私の同級生3人ぐらいね。(髪が)長いとソ連の兵隊さんが来るでしょ? おっかないから男としていないといけないでしょ? 赤十字のあれをしてると大丈夫っていうけどあのころ分からないから。無事だったから、まあね。帰ってくるころは伸びてましたよ。

Q:2年間行ってね、坊主っていうのはみなさん?

いやみんなは坊主にしたわけじゃないと思います。私たちは若かったから一人が坊主になったら私もなんて言ったと思いますよ。

Q:もったいないっていうかどんな気持ち?

そんな気持ち全然なかったように思う。

私と同級生だから何人かね。同級生じゃない人も同じ部屋のグループが結構坊主になって。

Q:覚悟を決めるっていう。

決めるっていうんじゃなくて、何となく、何ていうのかな、運命共同体じゃないけど任せたっていうふうじゃないですかね。自然の成り行きで。人の行くところはついていかなきゃ。

そのときにみんな、開拓団の人が鉄橋は向こうがやったのかなと思ったら、日本が自分でソ連がこないように鉄橋壊したのに、そしたら開拓団の人がこれなくて、南下できないでしょう? その鉄橋がなくて。それで松花江をロープで元気な人が渡ってきて、こっち来て、そのロープを伝って。すっごいあの姿見たら気の毒でしたよ。弱い人は遠くに流されて実際自分の子どもなんかでもつかまってないからだめだ。何人もそれを見た。

Q:渡る力がなくて?

なくて。流されたら終わりだもの。それでも縁のある人は助かるのよね。中の島っていうのがあるからね。その島に渡った人は生きた。それで向こうの人の奥さんになったり向こうに永住したりして、やっぱり運命に翻弄された人もいっぱいいるわけね。

Q:そういうのはあとあと分かった話ですよね?

そう。でも私たちそこにいたときに実際にあった人の話もありますよ。

Q:引き揚げて避難してる人たち?

私たちそこの方正にいたでしょ?そしたら方正の港へ来るんですよ。足もビヤビヤで何もなくて、だから方正は残留孤児のあれだっていうので、書いてあるけど、実際私たちも見てる。だから着いた人。ちょうどあのとき、被服倉庫があって、みんなに反物でもシャツとかそういうのあげたりしてね。もらった人もいると思いますよ。運良ければね。

Q:そこで残留孤児みたいな子どもを置いてきたとか?

置いてきた。実際にね。会いましたよ。

Q:そういうお母さんと?

「やっとね、来たんですよ」って言って。足が、8月だから、足の裏が腫れてやっと、何も履いてないの。自分たちも裸で出てきたでしょ。着の身着のまま。だからそういう人もたくさん。向こうに残っていたら、残っていたで、引き揚げもあったんでしょうけどね。戦争っていうのはだめですよ。

冬の間。雪の中をまき、枝を取ったり。兵隊さんは石切り山って石を切って取ってみんな働いて。それで逃げた人を、こんな大きな、木があるのね、そこへ2人銃殺したのを飾ってあるのよ。そういうの見ると逃げられないでしょ?

Q:脱走した人がいたんですね?

いたんですよ2人。冬ね、足跡で分かっちゃうのね。それを気が付かないでしょ?逃げるために一生懸命で。

Q:それを見つかって。

連れられてきて、その収容所のすごい大きな木があるの。そこに何日も置いてる。

Q:亡くなったっていうのは向こうで遭難してなくなったんですか? 脱走した人は。

脱走して亡くなった。亡くなったんじゃなくて銃殺されて捕まって。もうそこがソ満国境でしょ? だから逃げてもいけると思ったんじゃないの? でも満州にいても一緒なのにね。それだけ大変だったんでしょうね。

Q:ソ連兵に射殺されて見せしめみたいにして。

この4つの角に銃兵いるんですもん。銃持って。それだから気を付けないといけないよね。だけどちょっと油断して夜なんて立ってたって、寝るときあるから逃げたんでしょうね。途中まで。だけど冬だから、雪の跡を追っていくと分かるんですよ。それで捕まって。その後が大変、なお厳しくなるから。

Q:監視兵も警戒しますもんね。

警戒する。だから結構大変。

お正月になる前に向けて行ったからチョプロオーゼロがいちばん、私たちが行ったときはまだ私たちの宿舎はなかったんですよ。それだから将校さんの部隊長とかその人たちの寝てるのに布団がないからみんな1人ずつ一緒に寝せてもらって。そしたら私たちすごく安心したらしくてね。靴だけは脱いだけど服は着てるでしょ? そしたら自分の子供みたいな感じなんですかね?私長谷川重一先生って名古屋の病院長だったのが、ちょうど一緒のところにいられて、内科の先生で他はあのころまだ階級はとらなかったから部隊長と、大佐とか将校さんでも見習い士官で、丸尾さんは別なところだったと思いますけどね。それで私たちの宿舎を建ててくれたんです。女だけのね。でもまきが20本くらいで寒かったですよ。

Q:長谷川院長からすると自分の子どもみたいな。

そうそうそう。だから偶然にも長谷川先生の子供だから、新海さんって人が私の同級生その隣。それで全部1人ずつ結局間に挟まって寝たわけですね。そしたら朝起きたら、新海さんが先生の上にドーンて、どれだけ疲れているのか。私は自分の寝相分からないけど、起きて目が覚めたらこんなになってるの。先生黙って寝てるの、みんなね大変だったんだなと思って。私たち疲れていたんだね、きっと。

(チョプロオーゼロ収容所病院に移送される前に)私たちは「ダモイ」っていって20人どこ行くか分からない。そのときがいちばん恐怖だったのね。そしたら乗って病院について、5人が看護婦さんがいたでしょ。あーっていったら病院長もいたでしょ?だから安心、「よかったー」って。そしたらものすごく大きな病院、1つまとめて作って兵隊さんが、日本人だけの病院なの。だから安心。日本語は通じるし。
私たちは最初みんな伝染にやらされたの。用事がないから。伝染病。だけど毎日死んでいったの。

「看護婦さん看護婦さん看護婦さん」っていうから手をさすってあげたりね。「大丈夫よ、大丈夫よ」って言って。「だんだん冷たくなっていく」って自分でおっしゃるの。で、「看護婦さん、看護婦さん」って言ってね。そのときはほんとに一生懸命だった。夜勤もあったしね。そのときはもう未熟だとか言ってられないもんね。

私たち病院の中だったから。わりと日本のお医者さんがよくしてくださった。私も急性肺炎になって入院しました。長谷川先生のところに。そうするとね、白いご飯が出るんですよ。病人は、熱があると。そうするとみんな友達がとりに来ておすそ分け。 みんな白いご飯じゃないでしょ? でもね、病院の中はね、日本人が全部食堂行ったからその点はよかったように思いますよ。チョプロオーゼロは。向こうの十分所はね、厳しくて長い、台所から流れてくるのを蹴っ飛ばしてキャベツのこんなのを食べている人もいましたよ。

Q:下水みたいな。

そうそうそう。だから厳しかった。まだあのときはほんとに山の中でしょ? 石切り山だから。だから厳しかったと思いますよ。だって私なんか大豆でしょ。そしてパンはこのくらい出るのね。この丸パンがあるでしょ? このくらいの厚さの。それを何十名かに切るんですよ。だからここのカステラ1つもないでしょうね。

Q:1切れのカステラより小さい?

そうそう。そんなもんだわね、黒パンだから。それを1人1つずつだから兵隊さん足りないわね。私なんかここへ置いといて大豆食べていたら、兵隊さんがパッと取ってパーッと走って行った。何回もあった。でも「まぁいいか」と思ってね。だから厳しい。

Q:自分のをとられて、自分も飢えているわけですよね?

自分もね。食べるのなくなって。でもだんだんシベリアに入ってから胃が小さくなったんだと思います。

Q:とられてもまぁいいかと思うっていうのはやっぱり男の人のほうが。

そうね、だって同じ日本の(兵隊)、並んで食べているでしょ、みんな? 私、端だったのね、席が。バーッて、はーって言っているうちに、追っかけもしなかったね。だって悲しいことだもんね。そのパン1つくらいで。自分が出しておいたのが悪い。厳しいのよ、食べるのにも。でもチョプロへ行ってからはね、ほんとに食生活は楽だし、丸尾さんのお話にあったと思うんだけど、あの人水くみの、言ってました? あの人水くみの隊長をやって馬がいたのかな? 牛がいたのかしら。最初は人が引っ張ったんだろうけど、水くみに水がないのでね。川まで水を飲み水とか、たるにくんでくるんですよ。病気で入っても治ったら錬成隊っていうのがあってね、丸尾さんが隊長みたいになって、元気になって働けるようになったらまた本隊に戻るわけですよ。病院だから。そんな仕事をなさっていて、すごく頑張って、それでアカザって野草があるのね。それを採ってきて、病院の食事のほうへ渡すと、それをね、加工しておまんじゅうかなんか作ってくれて。だから結構よかったですよ。おやつが出たり。

Q:アカザを採ってくるのはスミさんたちですか?

いや私たちは病院だからいないんだけど、その水くみにいくでしょ? そうするとその道にアカザがいっぱい。私引き揚げて来て、アカザを一生懸命食べた。そして倹約しようとしたらだめ。病気して、そういうの食べてもだめ。臨機応変にしないとね。

その水くみに行くとか外に出ている、丸尾さんなんか言葉を覚えて聞いたりなんかして。ラジオのあれでね。舞鶴かどっかで地震があったっていうのも聞いて、21年か22年かな? 地震があったらしいのね。大きな。そういう情報入りましたよ。それで国交が正常化されれば引き揚げがだんだん進んで行くとか、街のラジオかなんかで。日本人って頭がいいのね。なんかもってくる。それが耳に。私たちそのうちに帰れるよっていう情報を。

Q:気が弱い人だったらその情報聞いたら余計に里心ついちゃって参っちゃいそう。

そうね、でも私はもう仕方がないでしょって。

でも最初はほんと洗面器1つを20人ぐらいで顔洗ったぐらいだけど、でも慣れて来るんだね。まきは20本だけ丸尾さんたちがもらってきたり。その人その人の才が建築家もいたり大工さんもいたり左官屋さんもいたり、だんだんだんだん分かってくると結構まき割りの人がいたり、それでドイツの人もやっぱり捕虜でいたの。 そしてやっぱり向こうの人は薬局とかそういうのあれして日本人で薬剤師なんかもいるでしょ? やっぱり病院だから。それで薬剤室っていうのを小さく建ててもらって。それでそこへもらいに行ったり、その中は自由だから。結構、内科はこの辺だけどここは外科があったり病理があったり、歯医者さんがあったり。そしてその隣がこっちが伝染があったりして、結構大きな。そこはソ連の囚人の人がいたりしたところを直して、私たちはこっちのほう建ててくれて。だから2段ベッドでね。2人ずつで。私と森岡折江さんていうのが専有で2人。その隣が白井富恵さんと新海千鶴子って菊水隊で2人。下の段はそれぞれ歳上の人が20何人いたわけですから。でも物がなくなって何もないとね、人間って、またそれはそれなりよ。だからそんなもんだな。私たちのそれこそ若い青春は捕虜だね。

Q:シベリアの話しですけれども、シベリアで民主運動ってあったのですね?

そうですね。民衆運動はね、私たちが帰ってくるころね、盛んになってね。

お互いにね、刺し合いしましたね。私たちは看護婦さんのほうだから、そういうことはなかったんですけど。男同士で、結構やられているの。やられたらしいですよ。

Q:どんな状況だなんですか、具体的に。

告げ口するってことじゃないですか? お互いに。嫌いだなって思ってると。あれは赤に・・・ちょっと反民主主義だとか。でも共産党の教育は受けましたよ、私たちは。

Q:どんなふうに?

うん。共産党はいいってことですね。平等で、いいことを一生懸命言います。「はい、そうです」って言わないと帰ってこれないんですよ、一応は。反発したらつるし上げになるわけ。

あの救護看護婦の人は、1人くらいやられたかも分からないけどね。

Q:つるし上げですか?

そうそう。お前は威張ってるとか。

今年11月で86歳でしょ。そうしたら、もう約半世紀も前の話だから、でも戦争やると、もう全部、親兄弟からみんな、私たち佳木斯(チャムス)にいたから、家の父は引き揚げてきたら疎開者の人が家に住んでいたの。だから、出て行ってもらうのに結構かかって。

Q:家がない方?

そう。ほら、うち空いているから住んでいたのね。だからそれを出てもらうのに、また村の人も役場の方でも、何かしたんじゃないの? 自分の家だからね、やっぱり。でも父も大変だったよね、仕事がないから。それで、お菓子屋みたいの何かやったって。

Q:家族で亡くなった方はいますか?

全員引き揚げてきたんですよ。それで私、(昭和)22年の7月に、6月28日だと思うんですよ、ナホトカを出て。それで帰ってきて7月4日へ新潟に帰ったんですけどね。そのとき、私、正直母たちが帰っているって分からないの。それこそ、うろ覚えでね、本籍地書いていたでしょ。それで役揚へ電報打ったの、運賃着払いで。お金も何にもないから。「父母元気なら知らせてほしい」って言って。よくそこの頭が回ったと思うのよね。運賃着払いで。そしたら、「父母皆元気すぐ帰れ」って電報が来たんですよ。

それで巻(現・新潟市の一部)っていう所まで、直江津からのこっちへね、回ってくれて着いたら妹がまだ小さかったのね、小学校入っているのかな? (昭和)20年のときに4つだから、それからまだ小学校1年生くらいだったかしらね。それで、迎えに出ていて、舞鶴で軍服着ているでしょ。そしたら洋服、ワンピースをね、一枚ずつみんなに出たんですよ。でも、ワンピース着る態度じゃないでしょ。それで「軍服でいい」って言って。そのまま私は平気で乗ったのね。それだから、ちぐはぐな格好ですよね。

Q:汽車に乗っている人たちと違って?

うん。それに着いてバスが出ても、本当にみんなが不思議そうに私を見ていましたね。みんなだって、パーマをもうかけているし。うん、もう全然違いましたよ。

Q:もう内地は復興しているっていう。

(昭和)22年だから、もうだいぶ復興していますよ。人間ってすごいのね、復興が。うん。それで着いたらもう、ほんとう村中の人がまあ大騒ぎ。

いろんなことありましたよ。でも1年勤めて、結婚の話もあったんだけど、家の母がね、シベリアに行ってきたら、何か悪いことされたと思われるから、必ず村の口にのるっていうの。

「だから遠く行ったほうがいい」って。遠く行くっていったってね、そうしたらたまたま松本のほうが、お兄さんが、長谷川先生がね、そういう話になっていたから、「どうしてますか」って言って。

Q:長谷川先生の方から?

いやいや。長谷川先生から聞いているけど、まだ23年の9月に引き揚げてきているんですよ。私たちよりずっと遅く後片づけしたりしているから、松本はね(旦那さんのこと。チョプロオーゼロ病院にいた衛生下士官だった)。どうせ、結婚しなきゃならないから私が。手紙が来て、それで私役場から、役場の封筒とハガキとみんな便箋もらって書いて出したら、あの人のお兄さん堅物だから、そんな役場のね、公用で書いてよこすようなのはね、「ろくなやつじゃない」言ったの。「ろくなやつじゃないから」って言うので。それで、そんなこと、まじめな人だと思うけどって言ったけど・・・。本当、もらってね、出しなさい、出しなさいって・・・せっかくね、「そんなんだったら、出してあげなさい」って言って、それこそ便箋から何もないから、私はね。それで、元気であの・・・って言ったら、お兄さんっていう人、お兄さんってお姉さんの旦那さんが、もらいにっていうかね、「どうですか」って言ってきたら・・・家の母がね、もう「遠く、行ったほうが(いい)・・・」。でも、「なんにもうちはないんですよ」って言ったの。だから役場からみんなでショールとね・・・何か頂いたかしらね、着物を。それで、一枚着物銘仙か何かもらって、本当寂しい・・・。長靴を履いて嫁に行ったら、向こう上天気だったの、金沢。そしたら主人の妹がね、靴を脱いで私に、その人大きい人だから24くらい・・・パッカパッカっていうの履いて1里くらい歩いたっていうのを覚えています。向こうへ着いたら11月20日が結婚式で、19日の日は、新潟は雨の、ものすごいみぞれが降ったり雨だから、長靴履いて嫁に行ったの。だから靴もない。そしたら向こうへ着いたら、上天気なの。それだから今日、花嫁さんがね、長靴履いていたってあれだからって、妹が自分の靴をね・・・貸してくれて。

Q:お母さんも、お嫁に行くときにソ連から帰ってきたってあんまり知られない方がいいんじゃないかっていう、世の中の考え方ってそうだったんですか?

そう。私、今でもそうだと思いますよ。何かあったんじゃないかって。私も実際言われたもの。

Q:どういうふうに?

だから、みんな女の人はね、犯されたとかね。いや、そういうことは一度もなかったんだけどな。私たちは本当に助かったのね。

Q:皆さんの場合は団体で兵隊さんたちにも守られていましたし、満州でそのまま解散していたら大変なことだったと思うんですけど?

あ、それがいちばん怖いかもしれない。そういう人たちはいるんですよ、やっばりね。まだ帰ってこなかったり、そのまま残ったり、満州の人と中国の人とお嫁に行ったり。やっぱりもう帰ってこられない事情もあったりして、いろんな人がいるでしょうけど。私たちは恵まれていたのね、考えてみると。そういうこと、一度もなかったし。

Q:なのでソ連から帰ってきた人たちのほうが、無傷っていうか。

そうなんです。

Q:でも日本人はそういうことを理解しないで。

そう。私、役場へ入ったでしょ、そしたら言われて。「なんか大変だったんでしょ」とか、「体は大丈夫なのか」とかって。いや、本当に何ともないんだけどね。

Q:シベリアの経験っていうのは・・・

いきているんじゃないでしょうか。私、シベリアから帰ってきたから特別どうってことじゃなくてね、向こうで生きてきたっていうことは結局、無心になったのね。もうだから帰って来て、みんなと競争しようとかなくて自然と生きてきたから、それがよかったかも。人と競争してね、人の上に立とうとか、ていうことはないし、着る物でも、この人よりいいの着なきゃならないとかいうことじゃなくて、自然と何かね、あたわりがある物には、くるでしょ。私が余分だからと思って人にあげると、また次来るし。不自由しないんですよね。だって生きていくのに、そんなにぜいたくしないでね。

そんなにあれもほしいこれも欲しいって言ったって、人間どんなに欲かいたってね、死ぬときは裸だもん。だから、どんなにお金を残しても、無理して残すことはないし、と思います、私は。変な結論だけど。ないからひがんでいるのかな。

Q:そこで腹をくくったというか。

そうね、だってシベリアで生きて帰れただけでもすごいことですよ。何にも傷もなくて。

引き揚げ証明書。

Q:名前と本籍。

はい。私、旧姓山本ですから。

Q:これどちらでもらったものですか?

舞鶴。

Q:これずっと、その当時のものですよね?

そのままなんです、よくとっていたよね。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1928年
新潟県に生まれる
1945年
佳木斯高等女学校を卒業し三江省(現・黒竜江省北東部)公署で働く
 
7月、動員されて見習い看護婦になる
 
8月、方正で終戦を迎える シベリア・ハバロフスク、チョプロオーゼロへ
1947年
7月、帰国
1948年
結婚

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シベリア(ハバロフスク)

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