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タイトル 「若さで乗り切った抑留」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 大島 幸恵さん(シベリア抑留 戦地 シベリア(ハバロフスク) 満州(佳木斯)  収録年月日 2014年6月14日

チャプター

[1] チャプター1 満州の両親の元へ  03:52
[2] チャプター2 陸軍看護婦になる  05:27
[3] チャプター3 穏やかだった佳木斯(ジャムス)の日々  02:17
[4] チャプター4 昭和20年8月、ソ連軍侵攻  02:57
[5] チャプター5 青酸カリ  03:29
[6] チャプター6 ハバロフスク  07:22
[7] チャプター7 収容所の日々  05:28
[8] チャプター8 “ダモイ(帰国)”  04:28
[9] チャプター9 故郷へ  05:10

再生テキスト

Q:まず、大島さんが佳木斯(ジャムス)に行ったのは、どういうきっかけですか?

両親がね、あそこに開拓団と言うのがあったんですよ。埼玉県から開拓団に行きまして、佳木斯の郊外に行きました。

Q:開拓団のお名前は?

中川村開拓団。

Q:秩父からですね?

ええ。満蒙開拓、中川村開拓団。

Q:そのとき大島さんはまだ東京にいらっしゃったんですよね?

東京で学校に行っていました。あとから半年くらい遅れて、あとから行きました。

Q:大島さんは女学校をやめて、佳木斯に行ったんですね?

ええそうです。

Q:それはどうしてですか?

やっぱり北のほうがちょっと危なっかしくなってきたので、親が引き取ったんだと思います。

Q:日本のほうが危ないから?

ええ。そのころ北のほうが不気味だったから。親が手元に置きたかったんじゃないですか。

Q:佳木斯に行ったとき、中川村開拓団に行ったとき、どういう印象でしたか?

何かね、行ってみたら本当に土地は広いけどね。何もなくてね。貧しい生活でした。だから本当に日本人が・・・だけど、土地がそれこそ見渡す限りの土地をもらえるというので日本人みんな行ったんですよね。その子どもたちがみんな引き揚げて、それで惨めな満州のね、キコウがあったようなわけでね。

それで終戦と同時に、もう本当に何というんでしょうね。日本人なんかかたっぱしから殺されるわね。何かみじめでした。だからその原島スエさんというのが仲間なんですけどね。松本スミさんと言うのがね、お父さんが商社で佳木斯の街にいたんです。だからあの人はね、本当にお嬢様だったんです。でも年が同じだったもんですからね、仲が良かったんです。

Q:大島さんが看護婦になったのは、何がきっかけなのですか?

結局、学費は全部お国で持ってくれるし、お金がかからないで、ゆくゆくは開拓団の看護婦にしたかったんじゃないですか。だいぶ日本も開拓団に力を入れていたから。だから子どもが大勢いましたよ。小さい子が。これのおじさんたちは3人だね。クラさん入れて。向こうの学校出ているんです。

Q:大島さんが佳木斯の病院に行ったのは何歳のときですか? 佳木斯の陸軍病院に入ったのは何歳ですか?

18(歳)でしょう。

Q:2期生ですね。

そうです。

Q:中川村開拓団からは同じ病院にたくさんいらっしゃったんですか?

そうですね。だから同期は原島スエなんていうのは、私なんか一年上ですけど。それの、あとは幾人かいたけど。

Q:教育隊の生活はどんなものなんですか?

それこそ、初年兵と一緒ですよ。中で部屋も寝るとこも全部一緒でね。でも楽しかったです。みんなよくケンカしてね。

Q:どういうことでケンカするんですか?

私が生意気だったんでしょうね。私が片方の大将だったからね。生意気だったんでしょう。

Q:大島さんは東京の女学校に通っていらっしゃったから、だいぶ違う生活だったんじゃないですか?

本当にね。行ってみたらずいぶん惨めな生活だなと思って。でもあれだけの所で、零下40度にも下がるところだけど、みんな寒いとも何とも言わなかったね。暖房ったらペーチカだけでしょう。

Q:初年兵と同じと言うことは、規律が厳しいんですね?

厳しいです。私なんてね、わりあい悪い事するから憎まれるんですよ。だから私なんかはね、風当たりが強かった。

Q:悪いことというと?

そうですね。わりあい、患者さんが手紙よこしたんですよね。それをね、面白がって手紙の取りもちなんかしてやったりしたもんだからね。よく怒られました。

Q:患者さんが看護婦さんに憧れて手紙を書くんですか?

うん。みんな若いもの。男も女もね。いちばん年寄りで30代じゃないですか。偉い人を除いてはね。

Q:この本の大島さんの文章には、「勉強も、東京の学校から来たから現地の人に負けられないから一生懸命やった」と書いてありますね。

そうです。佳木斯医大というのがあるんですけどね、そこに学生がいっぱい来ていました。だから私たちはね、看護婦の試験なんかを受けるときなんかは、佳木斯医大で受けたんです。なんかこの辺、佳木斯医大の先生が多いですね。10人くらいいます。

Q:病院の向かいは師団司令部ですね?

そうです。立派な建物でしたよ。今で思えばね、立派だけど。今行ってみれば大したことない。偉い人がふんぞり返っていた。

佳木斯の街はね、日本の兵隊さんが大勢いてね。ぞろぞろ。休みの日なんかとってもにぎやかでした。でも私たちは恵まれた生活したほうだと思いますよ。そんな危険にもさらされないしね。

Q:この間お話しを聞いたときに、向こうのクーニャンたち(若い女性)が街を歩いていたのが、それがすごくきれいだったって言っていましたよね。

きれいです。でも日本人ほど笑顔を見せないね。笑顔を見せちゃいけないんだって。美人が多いもん。

Q:向こうの娘さんたちは、どんな様子で歩いているんですか?

中国服着ていますよ。ギョーザなんかごちそうになったことあるね。私たちは、だからわりあい、日本人としては自由に過ごしたほうじゃないでしょうか。満人(中国人)の家庭も見たことありますもん。

私なんか怒られたって構わない。満人の家庭入るから。行ったけどね、わりあい。婦長に見つかると怒られたんですけどね。今でも佳木斯会館なんかのギョーザなんて、隠れて食べたの覚えています。満人のものなんか食べると怒られるんですけどね。

だから朝4時頃たたき起こされて、「すぐ庭に集合しろ」って言って。それっきり病院には帰ってないです。それで私たちが裏にボーイを一人使っていたんですよね。そしたらボーイが、ボーイのほうにはニュースが入っていたそうで。「戦争だから望月さん逃げたほうがいいよ」なんて。それから私がいちばん先に戦争だってのを知ってね。その少年に持っていた本を全部、学校の本から何から、いっぱい着るものも。着るもの私たちは軍服きりいらないから、軍服になっちゃったんですよ、白衣じゃなくて。それでそこから軍服着せられて、ボーイを帰しました。

Q:ボーイというのは中国人の?

中国人のボーイ。

Q:奥田少尉が女性部隊を引率して行動した?

私たちのね、教官です。背の小さい大人しい先生でね。

Q:日本が負けて女性だけを引率するわけですから、すごく責任を感じていたでしょうね。

そうでしょうね。本当に、(背が)160(センチ)あるかないかでしょうね。160なんて無いかもしれない。155くらいかもしれない。私なんかと並んでスレスレくらいだったもんね。でも良い先生でした。眼科の先生だった。

Q:松花江を下っているときに奥田少尉が引率していたんですね?

そうですね。

やっぱり若さってすごいもんですね。そんなつらいなんて思ったことないもん。ただ初めて女の子がさらわれていったときは、「あぁこれが戦争なんかな」と思った。

Q:さらわれた場面をご覧になったんですか?

引っ張られていくのをね。背の高い人でしたよ。

Q:ソ連兵が背の高い女の子をさらっていったんですよね。

ええ。

Q:その方は何か声を出したんですか?

何か「婦長さん、私死ぬわよ」とか言ったって話でしたね。

Q:大島さんが青酸カリを渡されたときのことを覚えていらっしゃいますか?

青酸カリね30ccでね。それの瓶に朝、粉末をね。錠剤なんてまだあんまりない時代だから。だから粉末を入れてよく、瓶を30cc。だからそれを渡されたのを覚えています

Q:渡されたときに、どういう説明を受けて渡されましたか?

「日本の女らしくね、堂々と死になさい」ってね。「逆らっても無理だから」って何かそういう、婦長が言ったそうです。「日本の女らしく死になさい」って。「繰り返し言われたんよ」何て。

Q:大島さんはその薬を飲むときがあると思いましたか?

青酸カリですか? 今は青酸カリなんか飲むことないですよね。もっといい薬がある。このくらいの30ccのね、なにか平べったい瓶でしたよ。汚いような。でも自殺事件があってから取り上げられちゃったけど。

ソ連の港、ハバロフスクに着いたときにね、近所の子どもがぞろぞろぞろぞろ後ついてきました。物がない国なもんだから、子どもたちが、私たちが持っているものを欲しがってね。

Q:めずらしいから見に来るって感じでしょうかね。

そうですね。

Q:そのときは女の方たちだけですか?

ええ。いくらか引率していた兵隊さんが5人くらいいたかな。もう負けてからだから。

Q:ソ連に連れて行かれたわけですよね。そのときはどんな気持ちだったんですか?

あれが若さというものですね。そんなに別に泣いたりわめいたりする人は一人もいませんでしたね。これからのソ連の生活のことなんかを話していました。だから、若さだからみんな乗り切ったんでしょうか。

(ソ連兵は)わりあい分け隔てなく。捕虜と、自分たちは勝った国でしょう。その差がわりあい感じられなかったね。朝なんか会うとね、向こうからね、「おはよう」って言う。一応ソ連語で「ズドラーストヴィーチェ(こんにちは)、ズドラーストヴィーチェ」って言うんですけどね。ソ連語であいさつ返すの。個人的にはいいんでしょうね。集団的になると悪いことする。だって土曜日の夜なんか私なんか、それこそ夜の宴会に招いてくれたもの。おいしい物はないけどね。自分たちだってまずいもの食べているからね。

Q:それは看護婦さんだけ招いてくれたんですか?

個人的にね。

Q:大島さん一人だけ?

もう2~3人いたでしょうかね。私は心臓強くてどこまでも行ったんですよ。みんな教養がないからね。1週間に2回くらい本部のほうから来ると、みんな緊張しますけどね。ほかは自由です。

Q:本部から来るのはソ連軍の偉い人ですか?

ゲーペーウ(秘密警察)なんて言うでしょ。ああいうのが来るんです。それで「お前たちは学校行かない、どうするの」ったら、「学校は指定されたものっきりいけないんだ」って。
幾人ぐらい行ったらね、一つの学校に2人か3人ぐらいしか行かない。その学校はだから国でみんなやってくれたのね。

Q:ゲーペーウの人はみなさんの収容所に視察に来るとどういうことを視察するんですか?

思想的なあれじゃない? でもみんな紳士だよ。だって朝なんか行き会うでしょう。向こうから「ズドラーストヴィーチェ」ってね、向こうから挨拶するもんね。

Q:思想的に何か問題があるとか思われると大変ですよね。

そういうことはなかったね。思想的なこういういろんなことを話すということはない。

ゲーペーウーなんたらね、位が高くてね。そんな一般的なところに出ていない。

Q:そういう人たちに目をつけられたら大変ですよね?

だから日本人は何しろどこに行っても、捕虜になってもやっぱり日本人よ。みんな礼儀正しかった。

Q:さっきね、みなさん若いから乗り越えられたと(おっしゃいましたが)、女性でシベリアに行った方で年配の方もいらっしゃいましたよね。将校の奥さんとか。

そういう人はわりあい見なかったね。ソ連に入ってから一回も見なかった。ソ連に入って見たのはやっぱり中国人とソ連人だけね。日本人は見ない。ただ日本人の、民間人がいるから聞いたら、ドイツ大使館のドイツが負けたからね、ドイツ大使館のマダムが2人いました。それがなにか生意気でね。日本人をバカにする。だから私たちはソ連の捕虜なっているのにね、ドイツの大使館の人にいやな思いさせられた。

Q:皆さんは収容所で、日本の兵隊さんの病人とかけがした人とかの看護もしたんですか?

しない。そういうところは日本人との差がはっきりしている。ドクターはソ連人だけどね。

Q:皆さんは収容所ではどういうお仕事をしていたんですか?

看護婦? 包帯洗ったり洗濯物したり。食べるものは作らないね。わりあいなんか、自由にさせといたね。日本人を大切にしていてくれた。そんなつらい思いしたことないもん。

Q:看護婦さんのほうだけですか? 日本人っていうのは 兵隊さんも看護婦さんもどっちもですか? 大事にしてくれたっというのは、兵隊さんと義勇隊の方と看護婦の方もいますね? 看護婦を大事にしてくれたんですか?

看護婦さんを大事にしてくれた。おいしくもないけど、あめなんかくれたりね。

Q:やっぱり 女性だということで、いろんな危ないこととか恐怖感とか、いつ何があるか分からないという、そういうこともあったと思うのですけど、気持ちというか・・・

別にそういう思いはなかったね。何しろ向こうはね、人間関係はいいです。

Q:食べ物は、看護婦さんのほうが兵隊さんより多く食べていたってことがあるんですか?

いや、ないけど、お腹がすいてしょうがないということはなかったね。

Q:食べ物の量は同じ?

兵隊より看護婦の方が少し少ないのかな。でも兵隊はお腹すいていたよね。

炊事に顔きかせといて。炊事なんか行くったって、私、もっちゃんというんですよ。もっちゃんというんでね、人気者だったもん。だから私お腹すいた覚えなんか一回もない。「日本にはおにぎりってこういうものがあるんだ」なんて言うとね、おにぎりなんか握ってきてくれたもん。

Q:誰がですか?

炊事の兵隊が。

Q:炊事の兵隊さんは何人ですか?

中国人が多いね。監督しているのがソ連人でね。個人的に会えばみんないい人なんだけど。集団的になると悪いことするの。だから私は持って行った教科書なんか中国人の男の子たちにみんなくれてきちゃった。もう私たちはこれで日本に帰って来ないかもしれないからってんで、「家へ持って帰りな」ってなにか大八車に積んでやったの覚えている。向こうだってそんなにいい生活しちゃいないもんね。ソ連人もね。個人的に付き合えばね、いいもんですよ。集団的には悪いけどね。みんな礼儀正しいし。

Q:皆さんがハバロフスクの収容所から日本へ帰国できるというのは、どういうふうに連絡が入ったんですか? 収容所にいるときに日本に帰すよって連絡があったんですよね?

あれはどういうふうに連絡入ったんだっけ。その前から…帰ることを“ダモイ”って言うんですよね。みんな「看護婦さんダモイよ、看護婦さんダモイよ」ってことを時々ソ連の少年兵が言ってたよね。だからいちばん先にそれを知ったのは(昭和)21年だもんね。少年兵って言ったって17(歳)ぐらいだもの。

Q:少年兵は何人くらいいるんですか? 

収容所?いくらあるんでしょうね。奥の方にいっぱいあったのよね。みんな山の伐採仕事をしていたから。

Q:日本に帰れると分かったときは皆さん喜んだんですか?

そうですね。喜んで、「いつ帰れるか」って言ったら「いつかは分からないけど日本へ帰るよ」ってのは、兵隊がやっぱり(昭和)21年になってからね。21年の春ごろの話かな、氷の張るころだから。

Q:引き揚げのときは、ナホトカの港に集まったんですよね?

ええ。ナホトカでね、貨車。貨車で送られた。兵隊が護衛してね。そしたら、日本の兵隊が、船員さんがいっぱい迎えに来ていましたっけ。あそこに4日間くらいいたんですよね。

Q:その4日間はどういうことをしていたんですか?

いろいろ消毒したり。それと自分が軍服で来たでしょう。だから着る物を体に合わせて自分の着る物を作ってもらったり。やっぱり4日間くらいいましたよ。舞鶴にね。

Q:ナホトカに来たときは、皆さんの収容所の他のところに行った女性たちも来ていたんですか?

幾人かいたけど、あんまり来てなかったね。中にはアメリカ兵なんかいて、あんまりきれいなんでびっくりした。日本が負けるわけだ、と思った。日本人とかそれこそ着るものもないようなね、ぼろぼろでしょう。アメリカ人って、ちゃんとアイロンかけてたもんね。ズボンなんか。これじゃ日本は負けるわけだ。

(家族とは)別れたっきり。舞鶴まで来たら「ご両親は帰っているよ」っていう電話が入っていた。来てみたらあんまり貧乏生活していたんでびっくりした。埼玉県の秩父っていうところに帰ってきたでしょう。行商人していましたもん。

Q:前に住んでいた家はあったんですか?

なくってね。あそこに義勇隊の日輪兵舎というのが山の上にあったんですよ。そこへね、集団生活。そこへね、7所帯くらい入ってね。この丸いうちへね。日輪兵舎。なんか日本へ来た方がみじめみたい。

Q:日輪兵舎は茨城県のですか?

日輪兵舎というのはね、国から埼玉県が買い取って。それからあそこに兵隊を置いておいてね、開墾させておいたんですよ。そこに引き揚げ者を入れたわけ。

Q:ご両親はちゃんと帰っていたんですか?

両親はね、父親は向こうで殺されたの。母親が子どもを引き連れて帰ってきた。これのおじさんになるのね。

Q:お父さんは満州でどういうふうにして亡くなったんですか?

切り殺された。長いんですよね。それで切り殺された。それで子どもたちが父親迎えに外に出たら、何か道の中くるくる転げまわっているものがあるんだって。どうも人間の死体らしいっていうので。それで子どもたちが駆けつけて行ってみたら、うちの父親が切り殺されて。

Q:終戦の後ですか?

終戦の後。だからうちの母親は苦労しましたよ。闇屋しながら。

Q:せっかくソ連から帰ってきてから、お父さんがそういう目に遭ったという話を聞いたら、やっぱり残念ですよね。

そうですね。全く満州なんか行かなければいいのに。みんな満州満州で、みんな満州熱に浮かされていたから。

Q:大島さんがソ連から帰ってきてから、 お父さんが亡くなったことはお母さんから聞いたんですか?

そうです。

Q:初めて聞いたときはどんなことを思ったんですか?

やっぱりまだ私も若かったし、「満州なんか行くからさ」とか言ってね。そんなことくらいっきり。そのころの満州熱ったらすごかったもんね。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1927年
埼玉県中川村(現・秩父市)に生まれる
1943年
開拓団に参加した両親に呼ばれて満州(現・中国東北部)へ
1944年
陸軍看護婦になる
1945年
8月、方正で終戦を迎えた後、シベリア・ハバロフスクへ
1946年
12月、帰国
 
その後は、看護婦として働く

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