ホーム » 証言 » 寺崎 のぶ子さん

証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る

タイトル 「1人で渡満、そして抑留」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 寺崎 のぶ子さん(シベリア抑留 戦地 シベリア(ハバロフスク) 満州(佳木斯)  収録年月日 2014年6月10日

チャプター

[1] チャプター1 単身で渡満  03:14
[2] チャプター2 満州への旅路  04:42
[3] チャプター3 差別意識  03:27
[4] チャプター4 恐ろしかった軍隊教育  04:13
[5] チャプター5 突然の爆音  03:37
[6] チャプター6 終戦で一変した態度  03:16
[7] チャプター7 耳に残る悲鳴  04:18
[8] チャプター8 口にする寸前だった小瓶  05:26
[9] チャプター9 ソ連へ  04:31
[10] チャプター10 母を思って泣いた日々  03:58
[11] チャプター11 男性抑留者が置かれた過酷な環境  07:56
[12] チャプター12 ホールの収容所  03:53
[13] チャプター13 得意な芸能を持ち寄った演芸会  03:52
[14] チャプター14 “ダモイ(帰国)”  02:59

再生テキスト

Q:満州に行くきっかけは何だったんですか?

結局、おじいちゃんおばあちゃんと一緒に・・・叔父さんもみんな向こうにいたもんで、それで戦争中でしたから、やっぱり上の学校に行っても、軍需工場みたいな感じの、そういう所へまわされるってことで。それでうちの父が「タイプでも身に着けたらどうかな」って言って、父がそのタイプの養成所のあれを見つけて。そして札幌のタイプの養成所へ入って。そして、おじいちゃん、おばあちゃんと、叔父さんたちも皆向こうの方にいたので、それでちょっとタイプのタイピストは足りないからって言って、それで来たらどうかなっていうことで行ったんです。

Q:それは何歳のときですか?

17歳かなあ。

Q:札幌でタイプ学校は1年くらいですか?

いや、1年も行かないですね。6か月位かな。そのとき、実家は釧路だったんですけど、釧路から札幌のタイプの養成所に入ったわけです。そして、そこ終わってから、満州へ行ったのね。まあ、若かったからね。今思えば、よく自分ながら行ったなと思いますね。本当に。

Q:単身ですものね。

ね。

Q:満州に行くときには、日本から船ですよね?

そうですね。船ですね。下関、下関かなあ・・・とにかく釜山(プサン)へ上陸したんです。釜山へ上陸してから、今度は列車で。いや、今思えば、よく行ったと思いますね。自分でね。やっぱり若いから、もう全然何も考えないで行ったんですね、あれはね。

Q:一緒に行った方・・・。

一緒に、同じ所から看護婦さん・・・奥さんだったんだけど、その方ね。やっぱりご主人が満州の方へ行って仕事をしてらして、その方もちょうど向こうへ行くっていうあれがありましたので、それで一緒に途中まで連れて行っていただいたわけです。

Q:途中まで?

途中まで。一人じゃちょっと・・・何ぼ若気のあれって言ってもね、それはちょっと親が許さなかったと思いますけどね。

Q:汽車でどんなふうに佳木斯(ジャムス)まで行ったんですか?

何か途中まで一緒について行った方いらしたから、自分は全然何も考えないで。途中で乗り換えを2回位したかな。そのときに、ちょっと災難があったんですよ。私もそういうの分からないから、スプリングコート着ていたけど、ボタンを全部してなかったのね。そして、財布をこう入れていて。そして、そのときに、後で考えたら、すれ違った男の人がいたんですよね。そして、何歩か歩いて、「あら、切符買い替えなきゃならないな」と思って、胸にこうあれしたら、その財布がないわけ。それでね、すぐに警察にでも届ければいいんだけども、知らない土地だし、知った人もいないし、そのとき。そして、どうしたんだろう、あのとき。この前お話したその・・・。

一緒に途中まで行った、そのご主人の所に行かれる奥さんね、その方にお話しして、幾らかお借りしたんですよ。そしてまた切符を買い替えて、佳木斯まで行ったわけですね。もうあのときはもうどうしようと思いましたね。

Q:雰囲気も違う・・・

そうそう、そうです。泣くにも泣けなかったね、あのときね。たまたまそういう知り合いの方がいたから、事情をお話していくらかお借りして、そしてまた切符を買い替えて、そして佳木斯まで行ったわけですね。その途中で、この間お話したとおり、何か女の人を売買する、そういう方が、私は分からないけれども、やっぱり聞く人が聞いたら、そういう商売をしている人だなっていうことで。それで、憲兵隊だったんですよね、(助けてくれた方の)ご主人がね。それでご夫婦で乗っていらして。赤ちゃんを連れてね。

そして、そういう人のお話を聞いていて、ちょっと怪しいなと思ったんだね、やっぱり、商売柄ピンと来たの。それで奥さんが肩をトントンとたたいて、「ちょっとこっちへいらっしゃい」って言って、トイレの方へ連れて行ってくれたわけね。それで、「何かあの方の話を聞いたら、どうもちょっと危なげな恐ろしい人だから、気を付けて下さいよって主人がそう言っていましたから」って。そして、奥さんが一言そうやって注意してくれたのね。それから私もそのおじさんって言ったらいいか、何て言うか、その方とはもう口を利かないで。ピンと来たんじゃない? 向こうも、急に私の態度が変わったから。今までこうお話していたのが、しなくなったから。何かピンときたと思うんです。

Q:口を利かなくなるまでは、結構親しげに話しかけてくる感じだった?

そうでもないんですけども、話の内容…私も分からないって言っても、この人たち、そういう女の人をあれする人でないかな、という感じはしたんですよね。何か向かい合わせで、こう話をしている男の方たちのあれを聞いていたらね。

Q:どういう席順で座っていたんですか?

向かい合わせで、あれですよ。二人二人と。そういう感じ。

Q:普通のよくある電車の・・・

そうそう。

Q:4人掛けというか?

そうそう。そういうことです。その方たちは、すぐ背中合わせの隣の席だったのね。

Q:憲兵隊の方ですか?

そうそう。そして、憲兵隊のそのご夫婦と、私ともう一人どなたかがまた背中合わせで、4人で座っていたわけね。若かったから、もう何かポカンと話を聞いていたんですね、私もね。そして、そのご主人が、「ちょっと危ないな」って。それで「注意してあげなさい」って恐らく言ってくれたと思うんです。それで(奥さんが)トイレのほうへ連れて行ってくれて、「ちょっと危なげな人だから気を付けていってください。主人がそういうふうにお話していますから」って。私もハッと気が付いて、「有難うございます」ってね。まあ、それから人様を信用できなくなりましたもんね。

私がいちばん印象に残っているのは、釜山で列車着いたら、今度、お客さんの食べ残しの物とか何かあるじゃないですか。そしたら、向こうの5~6歳・・・7~8歳ぐらいかな・・・男の子が・・・やっぱり食べ物がなかったからね。その残飯を拾いに、汽車の中であれしてたわけ。そしたら車掌さんが日本人だか朝鮮の人だか分かりませんよ。紺の制服を着たね。その子たちを逆さまにして、入口からドーンと投げるんですよ。(子どもたちは)おなかがすいてるから、食料をあさって。お客さんが下りた後。あれも印象に残っていますね。かわいそうなこと、ひどいことをするなと思って、私。それをしたのが朝鮮の人か、日本の人かは分かりませんけどね、やっぱり鉄道員の制服を着ていましたよね。

Q:子どもたちは?

子どもたちは、朝鮮人。もちろん。日本人にそういう子はいませんでしょう。朝鮮の国だから。列車が止まったら、やっぱりサアーっとそういう子が何人か走って、車の中にあれして、そして、そのお客さんの食べ残したそういう物を拾ってね。そしたら、もうそれも取り上げて、こうやって逆さまに足を持って、ベンッと入口から投げましたね。私あれも印象に残っている。かわいそうなひどいことをするなと思いましたもんね。だから、日本人も悪いんですよね。ああいうひどいことをいっぱいしているからね、いろいろとね。

Q:朝鮮半島は一応当時は日本国ですよね、当時はね。

うん。

Q:民族の何て言うか差別みたいなことがあったんですね?

ありましたね。だから向こうに渡ってからでもね、この前もお話したとおり、いろいろ食糧も配給になりましたでしょう?そしたら、三段階なんですよ。日系と、それから鮮系・・・朝鮮人と、それから満(中国)系と。食糧の配給が、そういうふうに三段階にお店屋さんのポスターにこう貼ってありましたもんね。だから、「何だか日本人もひどいことをするなあ」と思って、それも私、頭に残っていますね。だから、日本人も結構、そういうことあれしてるから、悪いんですよ、本当は。そんなこと言ったらにらまれるけどね、昔だったらね。「ちょっとあんたおいで」っていって警察に引っ張られましたけどね、昔はね。そういうこともありましたよ。お店屋さんに行ったら、ちゃんとこう三段階に書いてあるわけね。

日本人が300とか、鮮系が200とか、満系が100とか、何でも三段階ですもんね。だから、日本人も悪いんですよね。

Q:警察署に勤めていらっしゃるときに看護婦の募集があったんですか?

あったんです。あのとき、もうだんだんと傷病兵が多くなって・・・それで国であれじゃないの? やっぱり看護婦さんが足りないっていうことで、各官庁から2名ずつ出しなさいっていうことで、もう強制的ですからね。で、私も警察から、私ともう一人特務のタイピストと、二人あれして入隊したんです。あのとき百何十人か行ったのかな。

Q:特務のタイピスト?

皆、大体タイピスト…銀行辺りの人はタイプでなくて、事務の人も結構いましたけど、ほとんどタイピストでしたね。それで200人位集まったんです。行ってすぐに役立つわけじゃないですけどね。

でね、軍隊って厳しい所なんですよね。「貴様」とか・・・私たちに対しても「貴様」とか何とかって言って、そして三種の神器とか、時計とお金と後もう一つ・・・印鑑か・・・それがもう絶対三つのあれだからって言われて。「おい、貴様、言ってみろ」って、こういう感じですもんね。女の子に対してでもね。兵隊さん。下士官の生意気な人たち。ちょうど中年のおっさん。そういう農家から来たような、そういう人、威張るんですよね。ああいう兵隊・・・軍隊に入ったらね。そして、上流階級のお坊ちゃま方が入ってくると、すごくいじめるんですよね。何となくね。そういうあれありましたよ、軍隊で。そして、女の子も「貴様、おい、今のあれ言ってみろ」とかってこういう感じでしょう? 救護訓練の講習を受けて、百何十人なんだけども、下士官の人が一応説明するわけ。それで、その人がちょっとなまりがあって、おかしいのね、言葉が。そして、クスッと私笑ったのね。それが、あんな遠くからでも見たんだね。その人の目玉。そしたら、そばへ寄ってきて、「おい、貴様、今笑ったろ。今言ったとこを言ってみろ。復唱してみろ」って言われて、私今も目に浮かぶけど、おっかないおじさんで。ひげ面のね。

本当に軍隊って恐ろしいところ。「貴様」だよ。女の人を。

Q:満州に行って、タイピストとして行ったつもりが、まさか軍隊に入れられるとは・・・

そうなの。

Q:満州に行ったのは昭和20年ですか?

20年じゃないね・・・18年かな、19年かな。福本さんはもっとかわいそうだよね。あの方ね。家族で行って、全然荷物開かないうちに軍隊に入ったでしょう? あの方もね。だから、あの人こそ気の毒だわ、本当にね。

Q:行ってすぐ戦争負けちゃって。

そう。荷物のこん包ほどかないうちにあれしちゃったからね。気の毒だ、あの人本当に。あの人も省公署かどこかのタイプ。佐藤さん(佐々木一子さんの旧姓)もタイプでしょう? あの人もね。あの人も省公署にいた。私も省公署っていう所にいて、少ししてから今度警察の方にまわったからね。

Q:各官庁から2人ずつと決まっている?

そうそう。そういう命令が来たんだわ。だから、いやおうなしなの。だから、銀行の方もたくさんいらしたしね。何人かね。何百人集まったのかな、あのときね。恐ろしかった、軍隊は。本当。

ちょうど8日目かの講習を受けた晩に大雨が降ったわけね。そして、その晩にものすごいドドーンという音が12時頃にしたんです。そしたら、「何だろう。雷が落ちたのかしら」って言って、皆が騒いだら、それがソビエト(現・ロシア)の奇襲攻撃だったわけね。

Q:8日目だったんですね?

8日目なの、入って。

8月の始め。夜中ですね。その日、大雨が降ったんですよ。だから、私たちも雷が落ちたのかと思ったの。そしたら、そうじゃなかったの。ものすごい音がしたの。それはソビエトの奇襲攻撃。ソビエトが爆弾を落としたからね。それからもう次の日から、ブンブンとソビエトの飛行機が飛んできて。そして、また、天気が良かったの。次の日はね。それで、私たちも若さがあったから、「ああ、また飛んできた」って、今思えばばかみたいに空を見上げてたけど。いや、すごいですね。爆弾をボンボン。そして、官舎があったから、官舎のタンスやなんか、皆舞い上がるんですよ。爆弾落とされるとね。

Q:命の危険がね・・・

そう。

Q:空襲みたいなことですよね?

そうそう。

Q:周り火事になったりしないんですか?

火事どころじゃないですよ。だって、あなた、戦争だもの。ソビエトなんて奇襲攻撃してきたんですもの、そうやって。だんだんあれして、危なくなってきたら、今度は日本と同盟(日ソ中立条約)を結んでいたけども、急に攻撃してきたのね。夜、夜中にね。雨の降る日。私たちは、雷が落ちたと思ったの。すごい音がしたの。ドドーンっとね。そしたら、もうソビエトの、それが奇襲。裏切ったわけ。結局ね。だからソビエト嫌い。本当。

Q:皆さん、爆弾が落ちて、その後何か命令とか? どういう行動をしたんですか?

爆弾落ちてね、もうそのまま行動も何も・・・もう部隊長がこのまま・・・結局、もう捕虜みたくなっちゃったから、ソビエトの言うようにして行かないとあれだからって言われて、皆そのときに泣いたけどもね。ある程度、病院だからガーゼとかある程度の薬をちょっと持って、そして、ここに赤十字の軍服を着せられたから、皆。女の子もね、兵隊さんと同じ。それで、今度は赤十字の一応をマークつけたら大丈夫だからって言ったけど、それがとんでもなかった。そして満州に連れてかれて、また引き返して、船に乗せられて…兵隊さんと乗せてもらえるかと思ったら、乗せてもらえなくて・・・夜暗くなってから、今度はソビエトが占領していた方正っていう所へ、夜、夜中、真っ暗な中歩いて行ったんですよ。

終戦になって、この前お話したとおり、ソビエトへ引っ張られる途中、私たち、何て言うの…汚い川みたいな所に水をくみにいったんですよね。そしたら、その満州にいたときに警察署にいたから、よく白系ロシア人が旅行をするときに証明書をもらいに来るんですよ。
そして、その白系ロシア人も大きな方で、何回か警察で顔を合わせていて、そのときはまだ娘だったから、「お嬢さん、お嬢さん、こんにちは、こんにちは」なんて言われてたけどね、終戦になって、今度は方正っていう所へ、その人たちも私たちも一回駐屯したわけね。そして、水をくみに行ったら、偶然その白系ロシア人の大きな人が、「やい、貴様、日本負けたろ」って、こうやって言われたの。私、その顔が今でも印象に残ってる。恐ろしかった。もう大きいでしょう? こう、見上げるような人ですもんね。その人が、口ひげ生やして、あれして、「やい、日本負けたろ」ってこうやって、水くみに行ったら言われたの、そのときに。よく警察に証明書を取りに来ていましたからね。そのときは「お嬢さん、お嬢さん」ってすごい愛想が良かったの。

Q:何歳ぐらいの方ですか?

30・・・そんなおじいさんでもないね。38~39・・・四十いくつ位かな。やっぱり、ロシア人だから、そのころでもスーツの良いのを着てね、とっても大きいんですよ。身長が。もう私らは下からこうやって見上げるような。そうして、こう口ひげを生やしてね。そして、警察に証明書をもらいに来たときは、「お嬢さん、こんにちは」って言われてね、お世辞もだいぶなんだけども、それが「やい、貴様、日本負けたろ」って、湖みたいな所で言われたときは、もうさすがにゾッとしましたね。おっかなくて。あの目が・・・。ああいう人たちの目って恐ろしいでしょう? それも何か印象に残ってる。

Q:そういうふうに言うってことは、日本に不満を持っていた?

いや、それはもちろんそうでしょう。だと思いますよ。

Q:どんな不満なんですかね?

いや、分からない。やっぱり日本人は何でも全ての人種に・・・いろんな人種の人がいたけど、こう押さえつけて、日本人ばっかり全ていいことをしていたからと思いますよ。やっぱりそういう反感持ってたんじゃない?いつも、ふだんも何となく・・・だと思いますよ。

ここへ、出るときに赤十字のマークをつけたけど、もうそんなの全然あれですもんね。もう用をなさない。もう真っ暗の中をはって、はって。知らない所をね。

Q:つけたのは?

赤十字のマーク。だから、軍服の上に、白地に赤だから目立つでしょ? ところが、もうそういうのはお構いなし。ソビエトのジープがもう面白がって。兵隊さん方がウワーッと。そしたら、怖いから、声を出すなって言ったって、女の子だからね。声を出すでしょう?キャーキャーって。声出すなって言われたって、恐ろしいから出すもんね。そして、何かテント張りの知らない山の中へ連れて行かれて。そこで2日か3日いたのかな。

Q:ソ連のジープは何しに来るんですか?

面白がって、女の子をさらおうと思って来たんじゃないの? 今思えば。怖いから、皆キャーキャー言うでしょ? 「声出すんでない」って言ったってね。暗闇で。だからソビエトの兵隊は、今思えば面白がって、さらいに来たんだよね。私たちもドブの中へ落ちたりしたけれども、もう急いではい上がって、二人ずつ手をつないでようって言って、棒きれを拾って、そこの言われた所まで行くったって、もう山の中で、歩いたこともない、真っ暗闇でしょう?「声出すな」って言ったって、出しますよね。怖いからね。そしたら、ソビエトの兵隊が面白がって、ジープでウワーウワーッって。そのときに一人さらわれたのね。「助けてー!」って言われたけど、どうしようもないし。日本の兵隊さんもいたけども、ソビエトの兵隊に拳銃突きつけられたら、もう負けた国だから、手が出ないわけね。

あの声は、今でも耳に残ってますね。「助けてー!」って、本当、絹裂く声って言うんですか。ソビエトの人って大きいでしょう? みんな。そして面白がって、ジープで夜だけライトつけて、こうやってあれして、手引っ張られたら怖いですよね。

そして、私たちは、言われたところの、山のテントの所に行こうと思って、暗がり歩いてたら、ソビエトのジープが行ったり来たり、行ったり来たりしてて。そして、今思えば、ソビエトの兵隊は、日本が兵もするかもしれないけど、面白がって、ただワーワー声だして、そして今度は、歩いてる子を、こう引っ張り上げるわけね。体格がいいでしょう? 向こうの人は。だから、あのとき、一人だけどね、そういうことは。向こうでは帰したって言うけど、帰っては来ませんでした。私たちが知る・・いる間はね。

Q:班長さんが兵隊さんに相談してソ連軍に交渉したんですよね・・・班長からすれば、自分の責任持っている・・・。

そりゃそうですよ。やっぱり部下ですもの。責任ありますもの。だから、今思えば、ちょっと年配の方だったね。もうその方も泣いてね。泣いて、日本の将校さんに掛け合ってましたね。「ぜひ取り返してちょうだい」ってね。今でもあの場面は目に浮かびますね。とにかく、もう負けたからどうしようもないんですよね。何がどうしようこうしようっていうわけにもいかないし。もうその話は通らないからね。負けた国はね。

Q:班長の名前は覚えていますか?

班長さんは、名字しか知らない。林正っていう人。林正班長っていう方ね。

病院を出る前に、「これを持ちなさい」って。やっぱり年配の院長先生。「万が一あったら、これを飲みなさいよ」って言って。そして、この位の瓶のを皆もらって、ここに入れて行きました。でも、やっぱりそれは一回位ありましたね。飲もうと思って。コーリャン畑っていうの? とうきび畑、日本で言えば。ああいう所へ入って、そしてもうソビエトの兵隊がウワーってあれしたから、「もうだめだ」って言って、そしてここから出して、口を開けようかなと思ったら、また「逃げてー!」っていう声が聞こえたから、それをしまって、そしてまた逃げました。だから、病院を出るときに、やっぱりあれ・・・部隊長、偉い人は、やっぱり考えがね、万が一を考えて、そして「皆さんこれを持って、万が一のときはこれを飲んでくださいよ」って言って。この位の瓶だね。

Q:万が一のときっていうのは?

だから、万が一って言ったら、大体あなたあれでしょう。ソビエトにあれしたときとか、そういうことを言ったの、うたったんじゃないの? 部隊長さんは。だから、皆ここの懐に入れて。そして、今度はだんだん薄暗くなってくるし、知らない土地だし、心細くなって、そして「皆さん青酸カリは持った?」って言われて。誰が号令かけたか忘れたけど。そしてここから出して、口を開けようとしたら、「逃げてー!」って言われて、またそれをしまって、そして逃げたのね。知らない土地だし、真っ暗闇だし、もう赤十字のこんな白地に赤でしょう? 目立つでしょう? 夜中にそんな白地なら。「その赤十字のマークを外して」って誰かが声をかけて、外して、そしてもう山の中をこうはって。暗闇ね。分からないから。そして、その言われたテントのある所まで逃げました。

Q:青酸カリって昔はそれが当たり前だったのか・・・今の人からすると考えられないっていうか。いざとなったら飲んで死になさいということですよね?

そうですよ。だから、はっきり言ったら、辱めを受けない前に、万が一のことがあったら、これを飲むんですよって言って。

Q:さっきテントですか? 集合場所まで着いてその後はどうしたんですか?

その後はね、そこは小っちゃな港なのね。それで、最初から、佳木斯っていう所から出て、そこから船に乗って、ソビエトに連れて行かれる予定だったんだけど。何かの都合で、日本の兵隊さんだけ乗せて船が出ちゃったわけ。なぜかね。それに奥田少尉っていうね、身体の小っちゃな日本の軍医さんがいたんです。その人が、ソビエトのその将校に、「なぜ女の子も一緒に船に乗せないか」って掛け合ったの。だけども、何か分からないけど、「だめ」って言われたのね。そして、ソビエトの、その将校はすごく大きい人なのね。それで、日本のその奥田少尉っていう軍人さんは小っちゃいのさ。そして、そこで格闘が始まったの。兵隊だけ先に船に乗せて、女の子は後ってストップがかかっちゃったの。暗くなってから。そしたら、その奥田少尉が、「女の子も一緒に乗せてくれ」って。ソビエトのその軍人は「だめ」っていうことで、格闘が始まったわけ。私は、あの場面を今でも覚えてる。

Q:格闘っていうと?

つかみ合いのもうあれさ。だけど、こっちは小さいし。その人は小柄な人だから。相手は大きいし。それで、「皆、逃げれー!」って声かかって、今度は「二人ずつ手を繋ぎなさいよ」って言って手を繋いで、テントのある所へ何か知らないけど向かって歩きだしたのね。それで、兵隊さんだけ全部乗せて、女の子は残して、そして船はもう出ちゃったわけ。だから、向こうは向こうで何か企みあったんでしょう? 今思えばね。

Q:奥田少尉としては、兵隊と一緒だったら何かあっても守れると?

そうそう。そういう気持ちだったと思います。だから、ソビエトの将校がこんなに大きいでしょう? その奥田少尉はまた小っちゃいんだよね。それでも格闘して、歯向かってくれたもんね。「女の子も一緒に乗せてくれ」って言って。「だめだ」って言われた。だから、何かそういう修羅場がいろいろありましたよ。やっぱりね、敗戦国だから、どうしようもないんだわ。本当。よく生きて帰って来たと思います。我ながら。

日本の言うことなんて聞いてもらえない。全部ソビエトの命令。だから、もう不安だったのね、私たちもね。もう夜・・・夜中ですもんね。ナホトカ(ハバロフスク)っていう所に着いたのね。秋風が吹いてね。今思い出しますね。そしたら、ソビエトの子どもたちが、ヤッポンっていうの。日本(のことを)。「ヤッポン負けたべ、やーい。ヤッポン負けたべ、やーい」とこうやってついてくるの。腹立つね。「何こんちきしょう」って思うけどね、そういうわけにいかないでしょう? そして、ソビエトの警護についていく兵隊が途中で、「時計出しなさい」ってね。「時計出しなさい」って。

Q:日本語で?

時計が欲しいのさ。ソビエトは。

Q:日本語で言うんですか?

片言。そんな上手な日本語じゃないよ。日本語ができなくても、こうやってあれするでしょう?「時計、時計」ってね。とにかく時計が欲しいのね。そして、「ヤッポン負けたべ、やーい。ヤッポン負けたべ、やーい」って言うのね、その後ね、今度。憎たらしいこと。秋風が吹いて、ザワザワとね。上陸したときにね、涙が出ましたよ。本当に。

収容所に行ってからでもね、一か月に何回か、私物検査ってあるんですよ。何も持ってないんだけどね。結局、時計やなんか持ってたら、皆取り上げるわけね。そして、ある程度きれいな風呂敷なんかあるでしょう?そういうのも取り上げたりね。とにかくソビエトは物がなかったから、欲しいの。何でももう取り上げちゃうの。

Q:物がないのは見ていて分かるんですか?

分かりますよ。だって、見ていてって言ったって、そんなにあちこち見れるわけじゃないけれども、やっぱり日本人のそういう物を欲しがるっていうことは、物がないっていうことでしょう? だって、ソビエトだって何年も戦争して、物資もないんだから、もうないのが明らかなんですから。

Q:ソ連の命令でソ連に連れて行かれて、これからどうなるんだろうという気持ちですよね?

いや、それはありましたよ。不安。不安がいっぱいありました。いちばん最初、夜中に着いた所は日本の偉い人ばっかりの収容所だったからね、食べ物も良かったの。そこに一週間位いて、今度は山奥に連れて行かれたの。山奥の収容所は、もう本当に向こうの囚人ばかり収容していた所なんだね。

女の人も分散させられて、風の便りに聞いたけど、労働っていうのはなかったみたいだね。ただ、掃除と、それから収容所の中にいて、兵隊さん方のあれしたものの繕いものとか、そういうのはしましたけど、私たちは掃除させられたのがいちばん大変でしたね。馬の飼い葉おけみたいな、こんなおけに水をくみに行ってね。重たいあれに水入れて。だって、寒い真夏(冬)にお湯なんかないから、水でね。絞れっていったって、なんきん袋の雑巾なんか絞れないわけね。今、こんな手しているけど、前なんてか弱い手しているのに、本当。下から、もう半分ビショビショ。でも、ソビエトって、フェルトみたいな長靴を履くんですよ。寒いから。

あれ、しみるでしょう? 水。そしたら、ソビエトの兵たちこうやってあれして、怒るわけね。ワダワダって、水ね。「水があるからだめだ」って。だって絞れないんですもの。なんきん袋みたいな、こんなんだったら。お湯じゃないから。それで何回か怒られたからね。あの水おけ・・・水をくみに行ったのは、もう今でも忘れられないあれですね。福本さんはしたことないでしょう。佐藤さんはしたんだからね。あの人は最初から最後までその仕事だったから、大変だったと思いますよ。

自分たちでたく燃料をね、拾いにいくの。そして雪の中に枯れた木があるでしょ? それを折ってひも持ってってしょってくるの。自分たちのたく燃料だけね。だから私と佐々木さんでいつも組んで行ってたから2人してよくね、母の名前呼んだり、空に向かってそんなことしたって意味ないんだけどね、2人で泣いた記憶あるよ。あの人と2人で。そして3人ずつ、3人3人だったから佐藤さん(佐々木一子さん)と私ともう一人、須藤さんっちゅう人とだったから、2人でいつも毛布かぶってね、毛布2枚しかないから1枚敷いて1枚はかぶって2人でね、そしてよくいろんな話したし、山に焚き木取りに行って母の名前呼んで2人して泣いたりして、「早く帰りたいねー」っちゅってね。雪の中ね、こうやって足で雪よけてね、そしたらね、自分たちであれする燃料しょって、拾ってくるんですもん。あの寒い中ね。ソビエトの寒さって半端じゃないですもんね。痛いからもう。

Q:手袋とか防寒具とかは。

防寒具ってね、日本出るときにね、日本のね、軍人、兵隊さんのね、配給するものは全部。だから全部男物。靴も全部。防寒具なんて別にそんなに立派なものあるわけないでしょ、ソビエトに。そりゃ日本からぶんどったんだ。私なんか体小さいからいちばん小さいのったってブカブカで。点呼なんかあって寒いのね、ソビエトって5列でないとね、4列とか3列ってなったら計算できないの、ソビエトの兵隊って。そしてね5列なった途中でなにか話しかけるとまたやり直し。私小さいから、小さかったら「マリンケ」って言うんですよいちばん小さいからマリンケね、寒いから入って私にね、言うの。「あんただけ入りなさい」ってもう「マリンケだからかわいそうだから」ってね。そういうこともあったよ。ああ小さくていいこともあるなとそのとき思った。

Q:そのとき、佐々木さんとかは入れないんですか?

佐々木さんだと大きいってわけじゃないけど私より背高いでしょみなさん、福本さんもね。とにかく私が並んだ中でいちばん小さいから「マリンケ寒いからかわいそうだからダモイダモイ」って「早く入っていいよ」っちゅって。小さくていいこともあるな。そういうこともありました。

Q:さっき山で母の名前呼ぶって。

ああ佐藤さんと2人でね。2人でまきしょって、そして今度空に向かって、いやー母の名前って「お母さん、お母さん」っちゅって2人で叫んで泣いた覚えあるね、何回でもね。寒い雪の中あんた足あれして、そして枯れ木探してしょってくるんだもんね。

Q:山でね「お母さん」って言ってるときはどんな気持ちでそう・・・

いやー。佐藤さんと2人でね、よく叫んだよー。そんなの叫んだってね、無駄なんだけどね。17や18のあれだもんね、まだね・・・まだ私たちも。

そしてまた変な話だけど女の子ってね、何かああいう境遇にあってもある程度痩せるけどね、兵隊さんみたいに痩せないのね。そしたら女の子ね、食糧別にもらってるだろって兵隊さんが騒ぎ出して。それで今度違う大隊行ってから2年目くらいしてからかな、その小川さんっちゅう人(小川大隊長)が兵隊が騒ぎ出したから、今度はね、みんなで食堂みたいなところ作って食べたらいいんじゃないのかっちゅう案出して。そして兵隊さん方やっぱ大工さんみたいな人もいるからばたばたーっと広間の食堂みたいなところ作って、そして女の子もみんな券もらってねそして同じ場所で食べるようにしたんですよ。そういうね、騒ぎがあったの。「女の子はちっとも痩せないからきっとね、食糧別にもらっているだろ」って、そういうこと言う兵隊さんが出たわけ。

そしたら小川さんがこれは騒ぎ大きくなるっちゅって、そして今度ソビエトに交渉してそしてこう食堂みたいなのね、作ったんですよ。

Q:なんで食堂があるのかなと思ったらそういう経緯だったんですね。

そうそう、そうそうそう。そして日本から選ばれた兵隊さん3人か4人ね、炊く人とそれからこう券持って券もらってそれで食べる人、そしたら平等だなっちゅうことになるでしょ同じもの食べてるってね。

Q:やっぱりでも女の人って子どもを産むから脂肪を・・・

そうなの、女の人はそう痩せないんですよ。同じもの食べていたって、男の人は極端に痩せるのね。だから佐藤さん言っていたかもしれないけど「芋の皮ちょうだい」ってね、私それ知ってんだわ。私の、あの人は向かいで食事していたから、そのとき兵隊さんが来てあの人のむいた芋の皮ね、ちょうだいって言って、なんかあげたかあげなかったか、忘れたけど私。そういうこともありました。

Q:やっぱり人間飢えるとギスギスするもんですね。

そうなの、そう。いやまたね大の男がね、芋のあんた3つや4つもらってさ、なんちゅうのコーリャンだのもらってそして労働だもん痩せてね、亡くなるのは当たり前だわホントに。私たちこそそんな労働ね、そんな石切りの労働できない、もちろんやれったてできないからあれだったけども、いやーホント。亡くなったホントもう兵隊さんってみるみる痩せこけてったもんね。かわいそうだったわ。頭変になる人もいたしね。やっぱお坊っちゃん育ちの人はねああいう境遇になったら絶対だね、頭おかしくなっちゃうね。

Q:やっぱりこうね、苦労した人っていうかそういう人の方が耐えられるんでしょうかね。

そうだね。

Q:兵隊さんもいろんな年代の人いますよね。

そうですね。やっぱり20代から40そこそこ、40そこそこいたかなーどうか分かんないけど。やっぱり段階はあれですよね、ありましたね。

Q:話があっちこっちして申しわけないんですけど石切り場のところで男の方が働いてる様子を見ることもあったんですか?

なんかでね、なんかでついてって1回見たことある。すごいこうね、なんちゅうの絶壁みたいな感じですもんね。わあーってこういう感じですもんね。そして石、凍ってるでしょ、もうねなんちゅうの防寒の靴じゃないからね、日本からぶんどったあれだからね、なんか裏に金付いてるのよ。

そしてこう崖みたいなとこ行ってなんかやるんじゃないの。1回ついて見に、これは足滑らして亡くなる人けっこういたからね。いやこれはもう危ないとこだなって思って、1回見たことある、そこの作業。だからかわいそうだなと思って。そして食料はあなたね、ほんの2口か3口でしょ、栄養何も無いでしょ。だからみるみる兵隊さんは痩せてくもんね。そしてもう体ふらつくし。だからそういうところで滑って転んだ兵隊さんも何人かいるんだわ。あらこんなところで働くんだもん足もなんも滑るわなと思って、私見たことあるね。石切り場だからねツルツルでしょ、そこもね、雪降ったりするから。そしてなんちゅうのやっぱり足元がふらついているから余計ね、だから石切り山あれして亡くなった方もけっこういるし。

Q:石切り場に1回だけ行ったっていうのは。

私が? 何で行ったんだろう。分かんない。1回だけ見に行ったことある、あらーかわいそうだねーって。それとあの佐々木さんと芋堀りのね、あの兵隊さん方芋堀り宿泊でそして山の方へ行ったんだわ。そして佐藤さんと二人で、ああ兵隊さん方芋掘りの宿舎なんて行ってみるかって若いからな、考えないでね、そして怒られてね。その小川さんの向こう着いてからね、「すぐ帰んなさい!何しにこんなとこへ来るの!」ってどなられてね。いやそりゃあとから考えたらね、変な話兵隊さんばっかりでしょ。そこへ私と佐々木さん2人でね、おもしろ半分で行ったから、怒られて、「すぐ帰んなさい!」って言われて。そして送り返された。

食べ物なくて労働でしょ? だから本当に亡くなるよね。もうみるみる痩せてひょろひょろしてたもんね、みんなね。そしたらあそこの国って絶対熱出ないと休ませてくれない国だから。なんぼね、どこどこ具合悪いここ具合悪いあれしてもダメ、熱ないと。私もね1回下痢してね、あれしてね、収容されたけどね。熱ねちょっと出たからって3~4日収容された。別にお腹壊したってね、薬ないのよなんも。ただじゃがいものね、焦げたのね、飲ますだけだから。あとうんとひどくなったらそりゃまた病院みたいなとこに連れてくかもしれないけど。だからお腹壊したとこ壊したってね、じゃがいもの黒コゲしかないの、薬。いや、ほんと。そういう国だったから。
佐々木さんといっつもね、毛布1枚敷いて1枚2人でかぶって。「帰ったらアレ食べようこれ食べよう」って食べの話ばっかしてね。いやーそして変な話もう建物も古いからね、今度壁の割れ目からね南京虫が出てくるの、すごく出てくるの。でもう朝起きると足やなんかかまれて足ボコボコだもん。別に薬あるわけじゃないでしょ。

それは後。だから、最初に行ったところは将校さんだったでしょう?それから山奥に連れて行かれたでしょう? そこはもう・・・そこへ行って、何日位かな・・・次の年かな・・・こう分散させられたからね。でも、山奥に行ったのは、いちばんひどかったの。ホール(ハバロフスクの南)へ行ってからは、やっぱり上の人がしっかりとした人だから、ソビエトの脅しも何かあったけども、わりとかばってあれしてくれた人だからね。それ・・・まあ、いいわけはないわね。いいわけはないけれども、前の・・・。前の部隊は、「女の子なんか知らんぞ」ってこんな感じだったから。その上の人ね。そういうことをした人だよ。偉い人が。日本の。「女のことなんか知らない」ってこうやって。そして、二回目の収容所に行ったときは、もう亡くなったけど、その岐阜の隊長さんはしっかりした人だから、向こうの脅しは聞かない人だったからね。

Q:小川さん。

小川さんっていう人です。亡くなったけどね。あの方に助けられた。だから、兵隊なんかかばって、自分も何回か営倉って言うの? そういう所に入れられたもんね、小川さんは。それでも、絶対に向こうの言う事は聞かない人だったから。兵隊をかばってね。そういう立派な軍人さんもいました。

Q:小川さん、大隊長の所に、皆さん6人だけですよね?

そう、次の年に分散させられたのね。

Q:そのとき、小川大隊長と最初にどういう話をしたか覚えていますか?

夜中についたのね。そして、「皆、我々兵隊が意気地ないから、皆さんをこんな目に合わせて申しわけない」って言って、そして小川さんはそういうお話をしたよ。それを覚えてる。その前の収容所は、中野さんっていう人だったの。そこの将校はね。「女の子の点呼なんか知らんぞ」って、こういう人だったから。そんだけ差があるのよ。今度、分散させられたときは、小川さんっていう人。「申し訳ない」って。「我々軍人が意気地ないから、みんなをこんな目に合わせて申しわけない」って言って。「絶対に皆さんを無事に日本へ帰すから。努力するから」って言ってくれて、皆あのときに泣いた。そして、みんなして、6人して、下手くそな盆踊りをあのときに踊ったの覚えてるよ。

Q:最初の日にですか?

最初の日。

Q:それはどういう気持ちで?

どういう気持ちだったろう? やっぱり、兵隊さんの気持ちもすさんでるから、少しでも慰めになったらいいかなと思って。私は、その盆踊りってあんまり知らないんだけどね。知らないけど、何かでたらめで踊ったんでない? 今思ったら。それでもみんな喜んでくれて。兵隊さんね。

Q:すごくけなげですね。

そうそう。

Q:若い女子なりに。

そうそう。

Q:皆さん喜んだでしょうね?

喜んでね。もう涙流して手をたたいてくれた。まさか女の子がソビエトに来ていると思わないの。誰もね。びっくりしてね。

Q:そういう演芸会とか慰安のためにやるんですね。

そうそう、そうそうそう。

Q:そういうとこではみなさんも参加して何かやったんですか?

そうだね、私踊りをちょっとやってたから踊り少ししたかもしれない。佐藤さんは全然いやで、あの人は歌だかなんだか1回か2回歌ったかな? だから器用な兵隊さんいて、馬の尾っぽ切ってきて他のあれしたかしれないけどちゃんと三味線上手に作ってきて、長唄の先生いたからね。演芸会があったら長唄の先生がそれあれして、そのときはソビエトの偉い人の何人か招待してやりましたね。

Q:どういう演目やったか覚えてらっしゃいますか?

いやー、忘れちゃった。あんた長唄の先生に歌ってもらったって、こちとら踊れないからな全然。

Q:でもやっぱりそういうこう・・・

あんまりね時代物はダメ。ご法度。というのはねやっぱり刀みたいなの必要になるでしょ?だからソビエトの方からね、そういうものはダメってね、これ。そういう声かかったの。

Q:忠臣蔵みたいなのは。

そうそう、そうそうそう。

Q:やっぱり考えてるんですね、向こうも。

そう、そうなの。だからちゃんと見に来ますもん。(演芸会が)ある日は、監視。やっぱりそういう方向にね、流れたらね、昔の日本にはあれだってそういうあれがあるんじゃないんですか向こうは。必ず見に来るの、1人。でも大勢の中でね。結局、だから歌舞伎役者の三味線弾いて長唄歌う人もいたし、ダンスホールの楽士さんもいたし。そういう人たちはアコーディオン向こうから与えられて、あのソビエトの女の人たちはダンス好きだからそのそっちの方ばっかりね、作業しないで歩ってる人もいましたよ。だからああいうのは役得っていうんでしょうね。だからあの電気の方のできる人は役所に行って電気のそういう仕事だけだから外行ってあまりひどい目にあわなくてよかったし、やっぱり特殊な技術を持っている方はねやっぱりそういう点は良かったかもしんない。その代わりすぐは帰してもらえなかったかもしれない。

Q:重宝がられちゃって。

そうそう、そうそうそう。

Q:ソ連の方で演劇の演目の内容をチェックしていたりとか?

だからね、私はそれは知らないけども。やっぱり上、なんていうの、上の人かなんか知らないけども、やっぱりそれはある程度は届け出、こういうものこういうものしますって。だから時代物は全然ダメ。それはもちろん出しますよ。そしたらあんた向こうの人ちゃんと見に来ますもん。でもなんにもないからね、それが楽しみでね。一子さんはね、佐々木さんはねなんか1回出たね。1回出てあと絶対出ない、あの人そういう向きでないから。私はねバカだからね。子どものころ踊りやっていたから、踊りをちょっとやったかもしれない。

だからもうダモイダモイダモイ、帰るっちゅうことをダモイって言うけど「ダモイだ、ダモイだ」って何回だまされたかね。兵隊さん方は外へ出てるから、「どこどこの汽車どっち方面行ったよって、きっとダモイのあれだわ」っちゅって。ああまたね、あれだなって思うけどもそれでもああそうかなって・・・なんかほっとするね、帰った人がいるなんて言われたらね。

Q:それを見てるからまあ、自分たちもいずれは帰れるっていう。

そうそう、そうそう、そう。だから私たちのときもね、もうね、朝なんかなんもあれだったの夕方になってからね「ダモイだから支度しろ」って、支度たって何もないけど「急いで何時何時に集まんなさい」っちゅって、夕方ばたばたばたーっと。それからナホトカに連れて行かれたけども1週間、10日、待てど暮らせどなかなか港には連れてってもらえませんでした。

Q:1週間ぐらい宿舎ですかね?

うん。1週間じゃきかないね、もっと止められましたね。向こう行ってナホトカ行ってからね。

Q:さっきそのダモイの列車が行くの見えたっていう、そのみんな帰っていく人がいるって分かる前はいつ帰れるか分からない?

分からない。それも全然分からない。だってね、ソビエトはね、今日帰るからって言って例えばそういうとこ行くでしょ? だけどね、何かちょっとあれするともうね、なんかこう引っかかりがあるとすぐご破算だもんね。だからナホトカ行ったらすぐ帰れるね、なんてとんでもない、けっこうナホトカに行っても止められたからね、しばらく。

Q:10日間くらいいる間はどういうことをするんですか?

何もしなかったね。ダモイって決まってから連れ行かれたから、何もしなかった。すぐ帰してくれるかなって思ったら、でも何日か置かれましたね。そしたら向こうの方に日本へ帰る船が見えるのね、見えないんだろうけど、こうしてみんなで手を振ってね。だから私たち帰るときもそうだったけど、「早く船動け、早く船動け」ってね。「早く船動かないとまた戻される」ってね。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1927年
北海道・釧路に生まれる
1943年
札幌のタイプ学校で学んだ後、満州(現・中国東北部)へ
 
三江省(現・黒竜江省北東部)公署、警察署でタイピストとして働く
1945年
8月、動員されて見習い看護婦になる
 
8月、方正で終戦を迎える シベリア・ハバロフスク、ホールへ
1947年
4月、帰国 

関連する地図

シベリア(ハバロフスク)

地図から検索

関連する証言

ページトップ