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タイトル 「永久凍土の地での4年間」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 丹羽 伝吉さん(シベリア抑留 戦地 シベリア(マガダン) 日本(占守島)  収録年月日 2014年7月24日

チャプター

[1] チャプター1 終戦  04:03
[2] チャプター2 ソ連軍上陸  04:06
[3] チャプター3 “ダモイ(帰国)”と言われてソ連へ  04:18
[4] チャプター4 極寒の地・マガダン  04:47
[5] チャプター5 “囚人の街”  05:43
[6] チャプター6 鉱山で労働を課された日本人抑留者たち  06:43
[7] チャプター7 冷凍化した遺体の発見  04:41
[8] チャプター8 永久凍土の地  07:09
[9] チャプター9 まぶたに浮かんだ家族の姿  08:58
[10] チャプター10 炊事経験のない丹羽さん、炊事班班長になる  06:44
[11] チャプター11 民主運動  05:20
[12] チャプター12 生産競争  06:30
[13] チャプター13 昭和24年10月、約4年の抑留を経て帰国  04:30
[14] チャプター14 シベリア抑留体験を本にまとめた  07:06
[15] チャプター15 ニシン漁から始まった戦後  10:07

提供写真

再生テキスト

Q:8月15日の敗戦の情報はどういうふうに入ったんですか?

あのラジオで入りましたからね。だから、みんなラジオを聞いていたから、すぐ分かったんですね。あと、連隊本部のほうは日本のほうから連絡が行っていると思うんだけども。

Q:丹羽さんはそのときは本部の勤務というわけではなくて?

本部じゃないです。284大隊という大隊にいたったんだけどさ。そのときはね、私は8月1日に伍長に任官して、1回目の任務で本部へ命令受領に行っていたんだよね。そこで私は聞いたんです。隊にはいなかったんだけど、そこでハッキリ聞きましたから、これで終わったのか、負けるとは思ってなかったんですけどもね。

Q:やっぱり負けると思わないですよね。

そう。これにも書いてある、書いてあるかな。演習に行っていた班長が帰ってきたら部下の兵隊が「日本負けました」って教えたら、「そんなバカなことあるか」ってだいぶたたかれたみたいだけど。そのくらいみんな張り切っていたんだけどさ。

Q:どんな気持ちだったんですか、終戦って・・・

終戦ですか? いや、これで終わったんだなぁと思って。アメリカ軍が武装解除に上陸してくるだろうと。そして長い間戦争したんだから、皆殺しにされると、やられるときは階級の上の者から殺されるだろうって。私も伍長になったばかりだったんだけど。これ外したりなんか、そんなバカなこともしたりしたけどもね。

Q:そのころは、ソ連軍が満州に入ったということは情報が入ってなかったんですね?

満州と樺太、情報入ってないんです。だから、アメリカと8月15日終わったということで、ソ連とも終わったと思っていた。あと戦争もう関係ないなと思っていたの。そしたら3日後に突然上がってきて。ソ連にすれば千島と北海道半分、留萌(るもい)から釧路までこう斜めにいって、こっち半分とりたかったらしいんだけど。マッカーサーに反対されて、それはできなかったんだね。だけど千島列島は日露戦争でとられたとこだから、それを取り返しにきたと思うんですよ。普通はできないと思うんだけどね。ノックアウトされて倒れてる者に、またこうたたくんだからね。ひどい国だ。

ソ連はね。ソ連のあの・・・国端崎と、国端崎というのは(占守島の)いちばん北の端ですから。で、竹田浜ってのがこっちにあって、ここに2,000メートルくらいあるんですよ。これに上陸してきたんですね。上陸用舟艇で。寝込みを襲われたっちゅうような格好だったからね。

Q:18日の未明?

そうです。霧がかかってだいぶ苦戦したらしいけども、相当の数、船も撃沈させて。船に乗っている兵隊も海に入って、海に入ってなんかカモメが浮いているようだったとかって、見た人が、言っていますけど。

Q:丹羽さんはそっちの上陸したほうにはいらっしゃらなかったんですね?

いなかったの。282大隊と283大隊が、その国端崎と小泊崎の警備していた。私もそこに1年前には行っていたんだけども、陣地構築して、それで任務終わって、284大隊の自分の隊に帰ったんだけど、1年前にはそこにいたったんだけどさ。危なく難を逃れましたけどね。

Q:18日に上陸してきて、その後はどういう状況だったんですか?

3日間戦闘をやったんですね。そしてこんなことやっていたってダメだからって、停戦協定結ぼうって長島(長島厚大尉・戦車11連隊指揮官)さんが出ていったこと、あれ、ほんと普通なら大変だったと思うんだけど。味方の弾も敵の弾も飛んでくるとこ行くんだからね。私がその任務受けたとしたら行けなかったんでねぇかと思うんだ。敵の将校と会って停戦協定結んだようなあれだから、ホントの停戦協定は柏原と占守島の間の海峡でソ連の船の上でいちばん偉い人たちがやったらしいんだけど。

Q:それは何日ですか?

それが・・・18日までやったんだから、23日に武装解除したんだから、その1日か2日前だと思うんだけどね。23日小雨の降る中ぜんぶ三好野って飛行場あったんだけども、そこに全部集結して武器を山のように積まされていました。もうこれで終わりかと、私は大砲だから、大砲は持ってなきゃいけないから、ここに提げているゴボウ剣だけ投げてやって、あれしたけども。それでソ連の捕虜になってしまったということですね。

Q:占守島から離れるってなったのは何日ですか?

占守島からかい? 8月いっぱいたっても帰る話ないし、9月いっぱいもぜんぜんその話がないからね。どうなるかと思って心配したったら、10月16日に東京へ帰すからと言って、船に乗せられたの。乗ったの。てっきりそのつもりで、みんなも喜んで船に乗ったんだけど、どっこい違うとこへ行ってしまったでしょ。

Q:東京帰すってロシア語で言うわけですか?

そうそう、東京はあれだけど、「ダモイ」。帰るんだ、東京へ帰るんだ。まるっきり違うとこへ行っちまった。

Q:10月16日ですね?

10月16日です。10月16日はなんか変なあれあるんだけど。千島に行くとき小樽から乗ったのが、10月の16日なんだよね。また16日に乗って日本へ帰れるんだなって思っていた。そしたら16日の晩、おそらくみんなろくに寝ないですんだと思うんだけど、私も朝になって、そして空気が悪いからね、4000人も乗っているから、いい空気吸ってくるかなって出て、甲板に出たら太陽がぜんぜん違うとこから出てたんですよ。日本へ帰るんであればね、西の方に向かってくるから、太陽は東から出るんだから、船の左舷から出なきゃいけない。それが右舷から太陽が上がってきていたんだ。「いや、これは変だ」と言って、すぐ船室へ帰ってみんなに話したら、「そんなバカな話ねぇんだ」って。本気にしないんですよ。磁石も持っていた人がいるんだけど、磁石もやっぱり北に向かっているんだけど、「鉄の船の中だから磁石狂ってるんだ」、なんてね、そういうこともみんな言って、ぜんぜんホントにしないんですよ。だって3日くらいしか戦争してないんだから。まさかそんなことしてね、あんなシベリアに連れてくるなんて思ってもいないもんだから。私もそう言われれば半信半疑なのよね。北向かっているけど、また西向かって走るのかもしれないと思ったり。そのまま、また、17日の夜は船で明かしたんだけど。

18日の朝もやっぱり甲板に出たんですよ。そしたら見えるのは真っ白い雪なんですよ。高い山ではなかったけどね。「10月に雪降るとこっていったらどこなんだ」って、「樺太か?」「いや、樺太だって、そんなとき雪降るわけないから、ぜんぜん分からない」。で、マガダンちゅう港に入って、そこでまた水でも積んで日本へ行くんだろうということだったんだけど、全然それは違って。下船されて、そして5列に並ばされて、かず数えられて、そして1時間くらい歩くと、我々が入った収容所があるからそこに行ったんですよ。

そしてまさかそこで4年もね、いると思わないんだけども、そしてすぐ次の日から作業ですから、作業も作業より場所、そこの兵舎のなかに、ラーゲリ(収容所)の中に入って初めてここは北緯60度のマガダンというとこだと、囚人ばっかりの街で4万人人口があるんだと、そして聞かされたわけ。えらいとこへ来ちまったなぁと思って。

Q:それは誰がそういう説明するんですか?

ロシアから結局、上部のほうに話があって、それを我々にまた伝えるからね。それは向こうの地図知らない私らは分かんなかったけども。マガダンってどこにあるんだかも分かんないんですよ。いま地図見ればね、あぁ、ここにあるのかって分かるけども。とんでもないとこに、10月の18日に雪降ってるとこって言ったら、えらい寒いとこだなとは思いましたね。

Q:囚人の街というのもちょっと考えられないことですよね?

あぁ、100キロも200キロも行くと金山があるんですよ。ロシアの何パーセントだか生産される金山と、それから鉱物・・・

Q:鉱物の資源。

そういったものをたくさんあるらしくて、そこはもうものすごい寒いとこなんですよ。そこに行ってきた囚人のあけて帰ってきた人たちと一緒になって仕事したことがあるけど、足を見せてくれるんですよ。足の指ないんですよね。凍傷にかかって、手の指もなかったり。

Q:囚人の人というのはロシアの囚人の人ですか?

ロシアの囚人、ロシアの囚人と、そこは重罪人の行くところらしいんだけど、そして、大陸のほうの人たちも行っているけどもね。マガダンというとこはロシアでいちばんの条件の悪いとこらしいんですよ。だから囚人が暴れて収まりつかなかったら、「マガダンへ送るぞ」って言えば大人しくなるっていうくらい嫌われているとこですね。4,000名行ったんだけど、私は4,000人ぜんぶがあそこに残ったと思ったんですよ。

ところが、終戦のときに戦闘をやった部隊の連中はずっと山奥へ連れて行かれて、100キロくらいも奥まで行って、そしてひどい目にあったんだけどさ。

Q:さっき奥地のほうから来ている、ロシアの囚人の人が足とかを見せてくれるんですね。

見せてくれる。10歳くらいも歳が老けて見えるんですよ。何ほど苦労したものかね。まぁ、話では洗面器に水を入れてパーッとまけば、氷になって落ちてくるっていうのと、それから焚き火をして、あたっててそれを離れたらパーッと顔が白くなるっていうこと、凍傷にかかるわけだね。焚き火はダメなんだっていう話も聞いたったけど。ものすごい、金山があるらしいんですね。

Q:手とか指の、指がなくなっているっていうのは、実際どういう状態なんですか?

凍傷にかかったということは血管が凍ってしまって、もう血が通わなくなるわけです。腐ってくるわけ、指が。だからこっちまで腐らないうちにこっから、切ってしまうわけだね。足の指も同じ。私は足の指とか、手は凍傷にかからなかったけど、顔をやられたんですよ。まず耳たぶがいちばんいきやすいですね。ピリってきたらもうかかっちゃっているから。あと鼻の頭と、こんどこれがいくんですよ、頬骨のここが腫れちゃってね。これがこのくらいの真っ白になっちゃうんですよ。だから、我々のほうの監督は「お互いに顔を見合え」って言うんですよ。「なにバカなこと言ってんだ」って。「人の顔ばっかり見てたら仕事にならねぇ。」日本人は作業に行くときも帰りもぜんぶ顔覆ってしまうんですよ。目だけだして行くんだけど、目もこう息でくっついてしまう、まつ毛くっつくんだけど。作業しているうちに少し温まってくると、こう息苦しいから、これ外すんですよ。そうするとこれ湿気あるもんだから、やられちゃう。

Q:やられちゃうっていうのは、どういう意味ですか?

凍傷にかかる、顔が。ほとんどみんながかかるようなもんで、「あぁ、おまえもかぁ」、「おれもかぁ」っていったような感じで、えぇ。これこんどかかったら1週間か10日くらいしたら真っ黒になって、かっこ悪くてね、顔出しとれん。

Q:その囚人っていう人たち、ロシアの人たちですね、指がなくなっていたり、10歳も老けて見えるって、実際の年齢聞いたらびっくりするような状態なんですね?

えぇ。実際の年齢聞いたらね。いやぁー、10歳くらい違うような感じでね。よく期が明けるまで働いてきたもんだなと思うけど、ほとんど死ぬ人が多いんじゃないですか。

Q:とんでもないところに来たっていう感じでしょうね。

はい。囚人の街。4万人のマガダンというとこだって、北緯60度のね。囚人の街っていうから、なんでここに囚人ばっかりいるんだろうと思って、囚人で、栄えた街みたいですね。はじめ4万人って言っとったけど、あと10万人くらいになったり、私らが帰るころにはだいぶ人口増えていたんじゃないでしょうかね。

Q:実際に囚人と言われる人と接してみると罪人という感じなんですか?

いや、それがね。「何やって刑食ったんだ」って言うと、何やったか分からないんだって。結局、囚人を、結局ロシアで作っているわけだ。あいつらの何かしたから、こういうことしたようだって密告するでしょ。そしたらそのまま連れていかれちゃって、だから「おれ何やったか分かんないんだ」って人が多いですね。あと、泥棒とうそつきは本当にうまい、ロシア人はみんなうまくてね。物をかっぱらっては、そして刑を食らったものもいると思うんだけども。何やったか分からないという人が多いですね。

Q:すごいことですよね。

うん、もう罪人を作ってるんですよ。ここに何万人、人がいるから、帰ってくるのが何千人いるから、何万人ここへまた送らなきゃいけないって。したら集めろっていうことで。

Q:日本人が4,000名一緒に送られて、他の人たちは奥地のほうに行った人もいるっていう、その人たちはどういう状況だったんですか?

奥に行った人たちね、主に伐採作業をやらされたらしいけど、今度雪が降って条件が悪くなってくるでしょう。ノルマは働けられない、食べ物少ない、それでほんとに何か月してから、私らのいる、マガダンに下がってきましたけど、見る影なかったですよ。ここの肉なくなるんですよね。お尻のこのあれもなくなるし、これはもちろんあれだ、この節ばっかり大きくてね、透き通って見えるくらいに肉ないんだよね。よくこれで生きてたもんだなと。かわいそうだったね。

Q:奥に行っていた部隊というのは、丹羽さんたちの部隊ではなくて別の部隊ですか?

うん、部隊。海軍も行きましたね。海軍もいくらか抵抗しているからね。だから3,000名くらいマガダンに残って、あと1,000名くらいは奥のほうに行ったようだけども。

Q:その人たちが帰ってきた現場を見たんですか?

えぇ。トラックから降りて、トラックで運んでくる。トラックから降りるのにね、まともに降りるのいねぇんだ。ずるずるっと滑り落ちるって言うか。それ目撃しちゃったからね。いやいやひどいなって思って。あとで私も32キロに伐採に行きましたけど、いや困ったことになったもんだなって思ったんだけど。でも、案外条件が良かったっちゅうか、ノコ(のこぎり)の改良したりなんかしてね。兵隊たちあまり、そういう苦しい思いしなかったけども。

Q:日本人の人たちは伐採とか、炭鉱みたいなところに入れられた人はいないんでしょうか?

いるの。炭鉱とか、そういうとこには入った人たちがいるんだけど、その人たちも恐らく奥地だから食料が十分に来ないのと寒さで相当まいってるはずなんだよね。

Q:丹羽さんたちの体験をお聞きしたいんですけれども、街のほうで建設の仕事が多かったんですよね?

建築のほうが多かったですね。だから寒いときでも建物があって、その影に入るとか、中に入るとかっちゅうことになれば、寒さっちゅうのはそんなにきつくないからね。助かるんだってさ。山のほうに行ったら吹きっさらしの木しか生えてないところで作業するんだから、大変だったんじゃないですか。

Q:亡くなった人の犠牲者の数字を見ると少なくはないですよね、マガダンのほうでも。

えぇ、500人くらい、4000人行ったけど、500人くらい死んでるんじゃないかと思うんだけども。正確なあれは分からないけどもね。3年目にね、300名、300人、身体検査やるんですよ、ロスケが。して、ここ見たり、お尻のここつかんでね、皮ばっかりだったら「オカ」ってね、少し肉あれば、「オカ」となんだっけな。そうふうに区別して、「オカ」ってそういうふうに言われた人たちは帰ったんですよ。それと、そういう体の弱いのと、けがして作業のできないものとか、そんなものを置いたら飯食わせなきゃいけないんだから、帰したほうがいいって帰したんじゃないですか。

私の部下も1人帰ったんだけどね。根室の人なんですけれども。帰ってきてから厚岸の私の家に寄ってくれた、「丹羽さん元気でいたよ。いるから」って。そのときはもう、母親亡くなってしまっていたから、生きてるうちにそういう話聞けばね、喜んだと思うんだけども。

Q:丹羽さんの周りでも亡くなる方って多かったですか?

いや、それがあんまり分かんないんですよ。ラーゲリっていうのは塀囲まれて、有刺鉄線で囲まれて、歩哨(しょう)立っているからね。1歩も外へ出られないんですよ。医務室っていうのはラーゲリの中にあるんですよ。そこで診断して治るものはそこでちょっと休ませたりなんかして、これ重症だなって思ったら、入院させられるんだ病院に。病院が外にあるんですよ。外に、ラーゲリの外に。だからそこまで行ってしまったら、どういうふうな状態になってるのか全然分からないんですよ。そしてそばに寝たったやつがまた帰ってくれば、あぁ生きてたんだなって思うけど、恐らく(帰って)きた人間いないんじゃないですか。

Q:新聞の、今から20年くらい前ですけども、マガダンの建設現場から永久凍土の凍った土の中から冷凍化した日本兵の死体が見つかったっていう、そういう記事も見ましたけど。

私の戦友の小山内っていうやついるんだけど、小山内くんは遺骨収集に行ってきているんですよ。厚生省のあれでね。私にも声掛かったんだけど、ちょうど参議院の選挙があって、私選挙管理委員長しちゃっていたから、行けないでしまったんだけど。あのビデオ撮ってきたのはありますね。小山内から送らさってきて見たんだけど、うん、えーと・・・

これも私作った本だけど、これ、18遺体見つけたらしいんですよ。で、ここで焼却して、遺骨にして持って帰ってきたんだけど。これが我々のラーゲリだったのが、これ1棟だけ残っていたっちゅうんですよ。あとみんななくなっていたけど、これもこれと同じように、これより詳しくシベリアの状況書いてあるんだけどもね。これ訂正なんですよ。

Q:小山内さん何かビデオも撮られたんですかね?

小山内がビデオ撮ったの、誰か厚生省の人たちが撮ったんだと思うんだけど、ビデオ送らさってきたんですよね。

そしてついでだから話しますけども、ソ連は死んだ人はみんな解剖して、どんな病気だったか調べるらしいんだけど。それぜんぶ日本人もロシア人も死んだ人、それやっているけど、日本人の収容所でも死ぬからさ、病院で死ぬんだと思うんだけど、病院にそれがついていると思うんだけど、そしてね、死体置き場があって、そこに持ってって、何十体と集めるわけだ。そこに行ってきた、作業に行ってきた人に聞いたらね、マネキン人形をね、積んであるみたいだって言うんですよ。そして、それをこんど何体かたまったら、墓場、穴掘ってあるとこへ持ってってね、入れるんだけど、こんど、先に置いた人は凍ってしまって硬くなっているでしょ。して、いま死んだ人は生ぬるいあれだから、溶けて、またしばらくしてくっつくらしいんですよ。それを金棒でこうやってこじって離すらしいんだけど、「手が折れたりな、首がもげたりするんだよ」なんて、私はそういう現場に行ってないから話しだけしか聞いてないけども。

Q:それ聞いたときはどんな気持ちだったんですか?

いや、おれもそういう目に遭うのかなって。ここでは死にたくないと思っていたんだけど、まぁ、よく生きて帰ってこれたけども。

15ドーム(15号ドーム・4階建てのアパートだった)を建てるんだ、その基礎を掘るとき3交代でやらされた。3月、来年の3月まで、間に合わせなきゃいけないからね。それで3交代でやらされたんだけど。そしてある程度掘ってくと少しは柔くなるんですよ。永久凍土3メートルですから。3メーター50掘って基礎を作らなきゃならないんですよ。うん。永久凍土3メートルですからね。考えられないですよ。夏になると1メートルくらい溶けるのかな。そしてまた冬になったら凍ってしまうから。

Q:3番方っていうと何時から何時までですか?

1番方が8時から(午後)5時までかな。5時から、9時間、8時間、7時間なの。3番方は7時間でいいんだけど、1番方ってのは9時間ですね。朝8時から、(午後)4時か、5時まで、うん、5時頃までだね。5時からまた朝、明日の(午前)8時までだからね。そこの現場まで、現場が8時からだからそこに行くまでに時間掛かるから7時頃になったらもう出るんですよ。7時頃になったらもう出るんですよ。6時頃起きてご飯食べて。7時頃になったらもう出てかなきゃいけないでしょ。

Q:夜の7時ですよね?

いやいや、朝。

Q:1番方の場合?

うん、1番方の場合ね。3番方は、夜中にパンもらっているんじゃないかと思うんだけどさ。

Q:2番方が7時間ですか?

8時間、2番方が8時間。

Q:じゃあ、7時からだと夜中の1時ですね。

(午前)1時かそこらでしょ。そこから3番方が朝までね。うん。3番方は7時間でいいんだけど。それでもきつい。夜中に行って、そして朝まで働くんだけども。

占守島にいたときも、まぁ、あそこも白夜ですから。(午後)10時頃まで物が見えるんですよね。発電所の勤務ちょっとやったことあるけども。11時までかな、11時まで電灯、発電してやめるんだけど、あと消灯になるからね。10時頃まで200メートルも300メートルも見えるから。朝日上がってくるの(午前)2時か、3時頃になったら明るくなってくるでしょ。だからほとんど夜中明かりないんですよ。発電所やめちゃうから。

Q:マガダンで働いているときも夜1時、2時から明るくなるんでしょうか?

同じです。いや、占守島、千島よりまだひどいですよ。あの太陽がころころころっと出てきて、地平線を転がるようにして、こう入っちまうんだから、上に太陽があるってことはないですからね。だから寒いんですよね。太陽上がらない。だから、畑のものも、畑もなんか、農業のほうもやっているらしいけど、ものが満足にできないですよね。植え付けが遅くて採り上げるとき早いから。うん。うん。だから、私も炊事へ入って分かったんだけど、野菜ったらキャベツの下っ葉ですよ。ここらではスーパーあたりでは見ない。

取って投げるあれ。その中の実がどのくらいになるか知らんけどね。恐らくこんなもんだと思う。下っ葉ばかりですよ。こういうキャベツになる期間ないんですよ。それとトマト。トマトが、青いトマトですけどね。このくらいのトマトですけれど、青いんですよね。それがみんな・・近づけて大きな樽に漬けられているんですよ。それをお汁の身にして入れるんだけどもね。

えぇ、おいしくないからね。食べ残すんだよね。少しあの、食料の事情よくなってきてから、そういうふうに残すやついるんだけど。それで私が炊事に入ったときに、これキャベツみんな食わせなきゃダメだと言うことで、こんどキャベツをミンチで砕いてね。そいで米っこで練って羊かんみたいにして作って食べさせたんだけど。もう、このミンチで砕くのが大変なんだ。機械でやるんならいいけど手でやるでしょ。でも兵隊は喜んでくれたけど、こんなことやるもんじゃないって、1回でやめてしまいましたけどね。そのとき私が夜中にそれ作っているやつに手伝ったんですよ。そうしてこう練って練っていると暑くてたまらないからシャツもみんな脱いでそうしてやっていたら、ロシアの通訳が入ってきて、通訳はいつも見ているから、顔なじみなんだけど。「おい、ダメだよ、丹羽、ソ連ではね、裸は禁物なんだ。何か着なさい。」なんでこの野郎、夜中に来やがったんだと思って。そうやって注意されたことあったけど。

Q:マガダンに4年間いる間ですね、最初いつ帰れるんだろうって、そういうこと気にしているとほんとに苦しいと思うんですけど。

はい。最初の年はまだ元気が良かったから一冬越しても、みんな大して弱ることなく、みんな達者で迎えた。2年目、3年目になったら、ホントに弱ってしまっているから、秋になったらね。11月ころになったらもう船通わないから、そうすると来年春まで帰られないんだと。そういうふうに思ったときに、来年春までどうやって生きたらいいんだろうと思う。生きていれるだろうかと。とにかくそれでも1日1日ね、生きてれば、まぁいつかは帰れるんだろうとそういうふうに慰めてがんばったもんですけどさ。

Q:10月くらいから春までは船がこないんですね。

そう、5月ころまで流氷があってね、船航海できないんですよ。

Q:死ぬかもしれないって、そういう場面もあったんですか?

ありました。うん。この15号ドーム建設するのに、基礎工事やったんです。それが12月頃から始まって来年の3月までに掘ってしまわなきゃいけないわけなんですね。それカチンカチンに凍っているもんだから、ツルハシなんか受けつけないんですよ。カチーンって火花散ってなげられる。だからこういう鉄棒でもってコツコツ削っていくか、それでなきゃできないんだけど、そこで来年の春までにどかさにゃいけないから、1番方、2番方、3番方って、夜ぶっ通しで作業やっているから。昼と、2番方まではまだいいんだけど、3番方なったら夜中に出てくでしょ。朝帰ってくるでしょ。朝帰ってきてもまだ他にもいっぱいいるからうるさくて寝られないんです。

私特に寝つきが悪いほうだもんだから、寝られないで、寝られないで、ほんとに夢遊病者みたいになってしまったことあるんだけど。作業所に行きも帰りも、ほんとにもう下向いて、前の人のかかとを見ながら歩いてうまくいったらつかまって歩いて行くくらい。そのくらいなったときは、いやぁ、もうあと持たないんじゃないかって思ったけども。でもこうそう思ったころに、また1番方に変わったから、うん。それと製粉工場に行ったとき、小麦がトラックで入ってきよるんですね。それをこんどあそこの製粉所はね、2メートルくらい高いところへ上げて、そこからタタタって流してきたやつをここで、カネのこういう、なんていうんだ、たたいて潰して、そして皮だけ飛んでくようになってるんですよ。それをその作業に行ったとき、日本の俵とか、袋とかって、大抵60キロなんですよね。向こうは70キロなんですよ。それを日本では2人で張り方(担ぐ人)っていうのがいるんだけど、2人で「よいしょっ」と肩にあげてやるんだけど。やらされたのは、その張り方1人しかいないんですよ。どうやってやるのかと思ったら結局こうやって振って、こんど担ぐものはこう担ぐ、そっちは手放すからあれだけど、それをこんど2メーターくらい上までね、運び上げなきゃいけないわけだ。

それが階段でなく、こういうスロープになった板はらされて、そこ登ってくんだけど。上まで行って下ろしたらもうヘタヘタとのびるくらいきつかったんだけど。そいで、トラックのぜんぶ上げちまう。そうすっとこんど製粉ができてるでしょ。またトラックに積まなきゃいけないでしょ。これはまぁ、70キロだけど、いま言ったように2人、張り方(担ぐ人)1人でこうやって。日本の張り方っていのは2人いるんですよね。

Q:70キロって、その当時自分より重いような。

えぇ、そうね。そして、これ行ってきた小山内ってやつね。「丹羽さんまだいいさ、背大きいから引きずらないから」って、彼小さいのよね。担いでも引きずるんだとさ。そういう話もしていたけど、そこで2日目、3日目、4日目あたりにもうのびちゃったんですよ。ぜんぜん体に力なくて壁に寄りかかって座ってしまったんだけど、ロスケが「ダワイ、ダワイ」って、「やれやれ」って、「仕事しろしろ」って言うけど、なんとされても動けなくて、して、戦友たちはね、「丹羽、休んでれ」って言ってくれるんだけど、私が休んだ分みんなに負担掛かるでしょ。だから何とかしたいと思ったって、ぜんぜん体動けなくなってしまった。いやぁ、ここで参るのかなって思いましたね。だけど、まぁ、そうなれば、うちのこと考えるんだね。だけどよく考えましたらね。体は動かないけど、呼吸は別に苦しいわけじゃなかったんですよ。あぁ、これは大丈夫だなとは思っていましたけどね。まぁ、2回くらいだね、ひどい目にあったのは。

Q:今おっしゃった、家のこと考えるってのは、どういうこと考えるんですか?

家族のこと考える。いやぁ、もう見れなくなるのかなって思ったりね。ぽーっと頭に浮かんでくるんだね。だから、病気で、病気ったって恐らく、ほとんど栄養失調ですから、その人たちろくな手当てもしてもらえないで、誰もみとってくれないから1人でしょ。だから、恐らく私のように故郷のことを思いながらね、そして1人で死んでいってると思うんですよ。誰も行けないんだから。自分たちだけだから、そういうふうにして死んでいってると思うんだよね。

Q:精神的なつらさですよね。

そうですね。私も下痢も何回もしたし、何でも食べた、犬の肉も食べましたけどね、生きていくには何でも食べなきゃなんですよ。他に食べるものなければ口に入るものは何でも食べる。下痢する。いやぁ、これは、こんなことしていたらダメだなぁと思って気をつけるんだけど、背に腹は変えられなくて、やっぱり食べてしまうんですよね。そうやって私は幸い栄養失調にならなかったけども、恐らく一歩手前だったと思うんだけど、栄養失調になっても別に何にも手当てしてもらえないんだから、そのまんま逝ってしまうんだね。

私のとこの大隊長は占守島での中隊長だったんですよ。その人が大隊長になって行っとったんだけど、ソ連側に作業の能率によって食事をいろいろ変えて食べさせろってそういう命令受けたらしいんですよ。山田という人がね。ところが山田さんは、おれは4,000人ぜんぶ連れて日本へ帰る義務があるんだから、それはできないって断ったらしいんだ。そうしたらもう即裁判にかかって、10年の刑で山奥へ入っちゃった。そしてもう1人、こんどその後に阪東っちゅう主計の人だけどね。そのあとをやったんだけども、この人は言うこと聞いて、甲乙丙、丙っちゅうのは病人の食事。甲乙丙に分けて食べさせたらしいんですけど。たらい回しやったらしい。今日はこうだったら明日乙とか、明後日は丙とか、こういうふうに回したらしい。それもばれちゃった。それもばれちゃって阪東さんもまた10年の刑くらって行ってしまったけど。

ほんとに何か失敗したらそうやって、すぐどこへ連れて行かれるか分からないでしょ。私も炊事班長はやったけど、いちばん先にやっていたのは曹長だったんですよ。これは千島当時から炊事やっていたナリタちゅう曹長だったけど。これがいつの間にかいなくなってしまったんですよ。そいつの姿見えなくなっちゃった。そのあとに今度軍曹がなったんだ。名前は忘れましたけどね。軍曹がやった。それもいつの間にかいなくなってしまった。そして今度伍長の私にね、「丹羽さん、炊事班長やってくれないか」って言ってきたけどね、私は断ったんですよ。断ったけども、「炊事経験ないし、できないから」って断ったんだ。それがいつの間にかいなくなっちゃうから、おれもそうなったら、みんなと一緒に帰れなくなったら大変だと思って。断ったんだけども、ナチャーリニクラーゲリって、収容所の所長が、ロシアのね。その命令で炊事班長やるように出たからって、仕方ないからやったんだけども。炊事は9か月やりましたね。おかげさんで、炊事入るまで痩せてこんな痩けとったんだけど、炊事入って太ってきて、余分に食うわけでないけど、食べ物は豊富にあるからね。そしてまた勤務員がね、また上手なんだなぁ。スープ作ってもね。肉をすこし入れたやつを上っ面に油浮くんですよ。で、油は上っ面からとって、で、下から肉とか、いいものとか取って、そして食事のときみんなで食べるんだけど。それだけでも、あれだね、よかったですね。

最初18人だったんですよ。私が入ったとき。18人だったんだけども。生産競争が盛んになってきたところだから。炊事のやつらは寒い思いもしないで、食うものもいっぱい食って楽しているんじゃないかって、こういう批判を受けると思ってね。今度12人に減らして、6人は外の作業に出てもらった。そして、いつも一緒に働いていた、よく働く連中はきてもらってね。少数精鋭主義でやったんだけど、ぜんぶそれで間に合うんだよね。私カーシャ(かゆ)を炊くとか、スープ作るとかって言うけど、手を出したことないんだけども。ぜんぶもう勤務員がね、なんにも指図しなくてもやってくれたから。私の仕事はメニューを作ることと、それから糧まつを受け取って、1週間分で受け取って、そしてそれを1週間に分けて食べさせるから、そして、残品がね、多くてもしかられるし、少なくてもしかられるし、だからそれだけ気を遣ってやったけど。メニュー作るときはね、外の作業のロシア語はね、だいたいマスターしていたんだけど、炊事入ったらぜんぜん違うでしょ。物の名前から分かんないでしょ。キャベツだとか、バレイショだと言われたの、これは覚えたったけど、カポスタ、カルトチカってね。そういうのは覚えたんだけど、あとはメニュー作るったってね、食材の名前分からないでしょ。

それでもメニューが1枚貼っていたからね。前の人のやつね、それ見てこう作ってね、持ってって、医者の点検受けるんですよ。そして、持ってって、「メニューです」って持ってったけど。「これなんだ?あれなんだ?これなんだ?」ってね。いやーいやいや。自分で書いても分からないんだからね。説明できないでしょ。そしたらそばにいた医者がね、「日本人が書いたんだから、日本人が分かっているんだからいいじゃないか」って言ってくれたんだよ。それでやっとメニューもらってきてね。だからメニュー作るったらね、朝の2時から3時まで掛かるんですよ。ふだんそればっかりやってられないから。もうメニュー作らなきゃならん時期だなあと思ったら2時から3時まで掛かって作って、そして昼はまた同じに起きて仕事していたけど。

3年目からだったと思うんだけど、軍隊の階級制度がなくなったんですよ。そして、ソ連の特別教育を受けたマルクス・レーニン主義の特別教育を受けた若い連中が、20歳過ぎのね、若い連中が天下をとるようになったんですよ。曹長だとか、軍曹だとか、本部にいたのみんな出されちゃって。21か22の若いやつらにみんなとられちまった。

民主運動ね、そうやって若い連中がソ連の特殊教育受けた連中が天下をとったんですよ。そしてこんど、一般にもね、サークル、毎晩サークルやるんですよ。そしてマルクス・レーニン主義の勉強をさせられるんだけども、そこに行かない連中はこんどつるし上げ食うんですよ。寝台居士だとか何とかでね。行かれない連中もたくさんいるんですよ。私は勉強するだけしなきゃいけないと思って、そして勉強したものから帰すとかそんな話しもあったから、いやいやながら勉強はしましたけどね。だから、マルクス・レーニン主義もいいところはあるんだよ、やっぱりね。それを、日本に来てそれを振り回したら相手にされなかった。

Q:いいところってどういうところですか?

子供が産まれても国の物だから養育費が出る。それから頭が良くて、勉強できれば上の学校、どこまでも無料で行ける。そういった、それから病気しても無料だね。金かからないで治すらしいんだ。その代わり、治ったらすぐ次の日から作業しなきゃいけなくなるけど。だからマルクス・レーニン主義の勉強はぜんぶに教育しているんですよね。それを若い連中が習ってきて講義するでしょ。それ受けなきゃ寝台居士だってたたかれるし。

Q:寝台居士ってベッドの寝台ですか?

寝台にごろっと寝てるって。作業に行って疲れたらね、ごろっと寝ていたいですよ。よっぽどの体力に余裕がなかったら勉強なんかできないですよ。それでも3年目くらいから食料事情も多少良くなってきたんですよ。いじめっぱなしで、日本に帰したんじゃ、ソ連という国が悪い国だって言われるから、少しは良いとこ見せるっちゅうことで。食料事情少しよくなってきたんですよ。私が炊事に入ったころは、もう食べ物は余すくらいの量になってきましたからね。

そして今度、4年目かな。いろんな施設に連れてってくれるんですよ。映画館に行って映画見たこともあったけど、天然色なんですよ。そのころ日本は白黒だったと思うんだけど、いやぁ、これ天然色だって。見てきたけど、言葉分かんないから何もおもしろくないけどね。それから博物館っていうのも見せてもらったけど。博物館に行ったらね、いちばん感心したのは、バレイショのね、芽をくり抜いて植えるんですよ。そうすっと芽がでてくるらしいんだけど、そして残ったのは食べちゃう。食料にする。なるほどなぁと思ってね。うまいこと考えるもんだなぁと思って。ものの苗床っていったらこういうふうになるんだなぁと思って、うん。芽をくり抜いて植えると芽でるらしい。残ったのを食べるからね。無駄が1つもないわけだね。

Q:映画っていのはどういう内容の映画ですか?

なんだろう? 分からないなぁ。ただ、そこに映っているから見たけど、ぜんぜん覚えないですよ。そんなどんな映画だったかね。忘れちゃったけども。

生産競争はやらされた。その若い連中に天下とられてから、生産競争、生産競争で。いじめられたから。職場、職場で、みんな今日仕事したあれを証明書もらってくるからね。それを本部に出すとどこそこは何十パーセントだと、どこそこが100パーセントだと。そしてもう次の朝、発表するの、作業に行く連中を前にして。

Q:いちばん生産性が低いと何か罰があるんですか?

いや、罰はないけど。生産の低い人は食事で加減されていると思うんですよ。グループで悪いってことは個人でも悪いはずだから。だから、食事でやられていると思うんだよ。私が32キロに小隊長で70名の小隊長で行ったとき、最初ロシアのピーラーって2人ノコなんだよ、2人でこうやってやらなきゃいけない。そのノコでぜんぜん仕事にならないんだよ。それからノコ鍛冶って、ノコ作る職人がいたったんですよ。ノコすったりするなんかするね。それに今度ピーラーのダメになって使えないやつがあったから、ロスケに交渉して「これで1人ノコを作らせてくれ」って。言ったら。「いや、ダメだ」って。あの国はね。壊れてても良くても、数なければダメなとこなんですよ。それと風呂のことは後から話すけども、そうやって交渉して、とうとうロスケから許可もらって、1人ノコ作ったんですよ。1人ノコ1日に1ちょうか2ちょうよりできないけど。ロスケのまえで木を切って見せたら。「あぁ、これは良いから、したら作りなおせ」って。言うことでどんどんどんどん作ってやったから。能率上がって、100パーセントから200パーセント、300パーセントまで上げたんですよ。で、生産競争でトップだったんだけども、本部から離れているから表彰もなにもなかったけどもね。

そしてこの環境も良くしてやらなきゃダメだってことで、ドラム缶で風呂作ってね。そうでなきゃ、石を焼いてね、それに水かけてバーっと湯気でたら、それで温まってこすれったって、そんなこと、そんなことしていたら夜中になってしまうでしょう。これはとってもダメだなぁと思って。ドラム缶あったから作らせてくれって。頼んで、頼んで、ドラム缶の風呂を作ったんだけどさ。3つ作ってね、それ絵にも書いてあるけども。そして千島でもドラム缶っていうのは、使って入っていることあったんだよね。ところが私のね、こことここ、足が長いでしょ。このまま入って膝を折ろうとすると、こっちの方と、こっちの方でドラム缶につっかえちまうんだ。だから、しゃがまれないんですよ。だから仕方ないから膝から先に入って、幅がつまって入られないんですよ。

Q:大きいドラム缶ないと。

ドラム缶の寸法決まっているからね。これはまぁ、喜ばれたね。そして、ロシアのやることは10日に1回なんですよ。入浴が。10日に1回であれば、土曜日に当たればいいけど、金曜と木曜日でも、いつでも入浴の日になるでしょ。次の日作業に行かなきゃいけないでしょ。遅くなった者は大変だから、それで1週間に1回にしてくれって、頼んで、頼んで、1週間に1回にしてもらったけど。そうすると土曜日に風呂沸かせばゆっくり入れるでしょ。次の日休みだからね。そして今度そういうふうに改善してあって、3月になりましたらね。だんだん雪が溶け出したんですよ。そうすると雪の上に腰ついてノコで引くからね。体が濡れるらしいんですよ。濡れるらしいんでねぇ、濡れるんですよ。そうすっと足が痛いとか、腰が痛いとかって人が出だして、これは困ったなぁと思って、2~3人ずつ毎日理由つけて休ませたけどね。このまま行ったら病人続出だなぁって思っていたら、下山命令がきたんですよ。1人ノコ作って能率が上がったもんだから、予定より早くノルマ、デカし(仕上げ)ちゃったわけだね。それで「下山してこい」って言って。それで下に帰ったんだけど。パーセント良かったし、大いばりで帰ったんだけど、それからなんですよね。行ったらまたなんかやらされるなと思っとったら、炊事の話しでて、1回断ったんだけど、どうしてもダメでやったんだけど。やったおかげで帰れたけどね。作業ばっかりやっていたんじゃ。

そしていちばん痩せたころにね。こんなときうちに帰ったらどう思われるだろうと思ってね。こんなとき帰りたくないなぁとは思っていましたけどね。かっこわるくて、何ほど心配かけるか分からんからね。ところが炊事班長やって、マガダンで炊事班長やって、それからマガダンからナホトカに行く船の中でも炊事やっていたんですよ。それみんな従業員同じ人だから、黙っていてもやってくれるからよかったんだけど、今度しけ(時化)に遭っちゃって、しけに遭ったら炊事勤務も酔っ払っちまって、ごはん炊きする人いなくなっちまったでしょ。あれにはまいったですね。

でも何とかやりぬいて。そしてナホトカにきてこれで炊事も終わりだなぁと思ったら、こんど炊事の手伝いさせられたんですよ。そこのナホトカのね。何万人って集まっているんだから、相当な炊き出しやらなきゃなんだけども。そこの手伝いさせられて、そしていよいよこんど船に乗ってから、あぁこれで・・・日本の船に乗ったら船員たちがごはん炊きやってくれる。白いご飯にみそ汁でしょ。そして、あぁこれで楽して行けるなぁと思ったら、こんど配食やってくれって言われて、また勤務員集めて、配食の手伝いでしょ。炊くのは船員が炊いてくれるからいいけど。そして何班、何班ってきて、何十名、何十名ってくる。

配る。それもやって、えぇ。日本へ、だから帰るまで、舞鶴に上がるまでそうやって仕事していたから。乗ってきた船の名前、何としても分かんなかったんですよ。覚えてないの。忘れたんでなく。覚えなかったんだと思うんだけど。忙しくてそれどころではなかったからね。そして引き揚げ入国のあれがあったからね。そこに電話して「昭和24年の10月24日の何丸が帰っていますか?」って、「英彦丸」だって。英雄の英にひこ(彦)ね。英彦丸だって、初めてここで、あぁ、英彦丸って船に乗ってきたんだなぁって。

Q:昭和24年の10月24日。

22日にナホトカ出て、2日で着いたんだけど。24日の朝になったら陸が見えたから、みんな万歳して喜んでいたけども。

Q:やっぱり10月にご縁があるんですね。

そうそう。10月24日って言ったらね。10月の16日に小樽から乗って千島の占守島に着いた日なんですよ。24日。16とか24とかね、なんか縁あるみたいで。まぁね、後から考えてみればね。そして私が勘違いしていたっちゅうことは、船が岸壁に着いてね、そしてタラップを降りたと、こうばっかり思っていたんだよね。たら違っていたの。沖で泊まって、こんどポンポン船でもって、それに乗って陸の桟橋に運んだらしいんですよ。大きい船が着く岸壁がなかったみたいだね。だけど、海軍の基地だったから、軍艦着けるとこはあったはずだと思うんだけど。

Q:こないだマガダンに行って現地の人にお話聞いたときですね。日本の人たち、日本兵が仕事終わって行進して帰ってくるところ見たことがあるって言って、赤旗を掲げてね、ソ連の歌を・・・

歌を歌ってでしょ?ワルシャワの労働歌とかね、あれは、歌わせられたから、覚えているけどもね。そういう労働歌ですね。普通の歌謡曲とかそんなんでなく。ほとんど労働歌だと思うんだけど。

Q:ワルシャワの?

ワルシャワの労働歌か。うーんと、どういう歌だったかな。ちょっと思い出せないけど。いつも分かっているんだけど、出てこない。

「おーい、冷てぇだろうなぁ、冷てぇよなぁ、零下30度50度の永久凍土の中だもんなぁ。腹減ったよなぁ、なんぼ食いたくても食う物のないのは哀れで、悲しくて、こんな情けないことはないよなぁ。口に入るものは何でも食べた。そして下痢をして、栄養失調になって倒れてしまったんだもんなぁ。ろくな手当てもしてくれないで、見殺しにされたんだもんなぁ、悔しかったろうなぁ、苦しいよなぁ、故郷の家族のことを想いながら誰にもみとられずに亡くなってしまったんだもんなぁ。おれたちはもう帰ってから60年たったよ。迎えに行けなくてごめんな。おれたちもう歳だ、もうすぐお迎えがくるから、60年がんばって生きた苦労話を土産に持って会いに行くからな。冷たいだろうけど我慢して待ってろよ。」

これにロシア語を入れれば良かったなって。「タワーリシチ、ダズビダーニャ(同志よ、さらば)」って入れたかったんだけど。いや、この歌って、結局歌になってないと思うんですよ。っちゅうのは、7だとか5だとか、やるやつ。ただ思いついて、彼らはホントにかわいそうだったなって思って書いたんだから。いや、いまよく読めた。涙出てだめだ。

死ぬときはほんとにラーゲリから病院に移されるから、誰も見舞いに行けないんですよ。見舞いにも、どうなったかも分からないでしょ。どうしようもないんですよね。ほとんど栄養失調だから、みんなバタバタ死んでったんだと思うんだけども。

この本、この本しょっちゅう、私のやってきたこと細かく書いてあるんだけど、これ平成18年に作っているんだね。最初10冊作って、親戚だとかなんとかやったら、足りなくなって、また10冊作って、そしてとうとう60何冊作ったんですよ。これがこうやって、これでだいたい書いたから、いま作った本が、作りやすかったんだけど、だけど、省略しないで、もっとね、こっちのやつをこっちに入れれば良かったなって思ったんだけど。

これね。これ切ってしまったんだけど、炊事勤務員それだけいたんだ。12名、13名いるけど1人違う人だから、そしてここに優良作業員のバッヂをね、付けたんですよ。よく働く人がもらってつけたんだけど。これ付けたまんま、もしアメリカの、日本へ帰ってからね、アメリカの検閲受けるとき、ロシアで一生懸命やってきたら、アメリカの兵隊のやられるんでないかと思って、それでこの・・ためにバラバラにしちまったんだよ。バカなことしたんだけどさ。写真ってのはこれ1枚しかないんだよ。

Q:これは丹羽さんも写ってらっしゃるんですか?

うん。これ真ん中だ。これは労働委員長かな。真ん中、手前。

Q:この写真の原本もあるんですか?

写真の? あぁ、あります。

Q:これが軍服姿の唯一の写真ですか?

軍服姿? 軍服よりなかったからね。軍服着ている。

Q:兵隊時代の写真ってあるんですか?

兵隊時代の写真はこれ1枚しかないね。

まぁ、(母は)亡くなっていたんだけど、舞鶴にいるときにもう勘づいたんだけどもね。家からの手紙がきていたんですよ。そしたら1番上の妹の名前の妹の名前で来てたし。いやぁ、おふくろが、俺が帰ってきたっちゅうのに、自分の名前で手紙書かないっておかしいなぁって思ってね。私子どものころ弱くてずいぶん母親に迷惑かけたし、病気も治してもらったんだけど、写真も入っていたんだ。写真の中に母親と、3番目の妹かな。それの写真がないから、あぁ、2人亡くなっているなぁと。そう、もう勘づいちゃったんですよね。まぁ、外れることを願っていたんだけども。釧路まで、厚岸だから私、釧路まで来たとき、釧路から弟が乗ったんですよ。釧路まで迎えにきてくれて。こっから厚岸のあいだに「おっかさんがこうやって亡くなったから」って知らされて。そして家に帰ったら孫じいさん(おじいさん)が仏壇のまえに連れてかれて・・・悔しかった、ほんとに。

元気な体見てもらいたくて、がんばって、がんばってね、帰ってきたらいないんだもん。まぁ、これは私ばかりでなく、日本中、なんぼもいるんじゃないですか、何十組も何百組も、いろいろな悔しいこと悲しいことみんなあったと思うんだけど、それでも私はね、仕事が待っているから、漁師やっていたんだから、漁師の仕事があるからね、まだいいんだけども。サラリーマンとか、なんとかなったらね。「シベリア帰りの赤だからだめだ」って断られるとこいっぱいあったらしいんですよ。徹底的に赤になった人もいるかもしれないけど、勉強はさせられたけども、芯から赤になっている人なんかいないと思って。それでもシベリア帰りで赤だからダメだって。就職のとき断られるみたいなんですよね。私は仕事が待っていたから、すぐ漁師の仕事をしましたけどね。

Q:漁師の仕事はいつまでやられたんですか?

漁師? 帰ってきたの30(歳)だから、そして40まで、10年間漁師やりました。そして、もう漁師も資源が枯渇してきていますからね。弟が手伝ってくれていたんだけど、2人で漁師やっていてもダメだから、「おまえ高校でてるんだし、商売替えしねぇか」って。「いや、おれ漁師好きだから漁師やってる」っちゅうことで、したら「いままで蓄えた道具もぜんぶ置いてくから頼むぞ」って。そして私は標茶(シベチャ)に行って、いろいろなんかやっていたけども、しまいにガソリンスタンドやったんですよ。ガソリンスタンドね。お金なかったけど、なんとかして、やることができたんだけど。それで60までか。20年くらい商人やったんだけども。カッパが陸にあがったみたいなもんで、お客さん今まで買っていたのが売るほうになったでしょ。まぁ、考えてみても分かると思うんだけども、それもやっぱりシベリアとか軍隊でもってね、何千人ちゅう人間と付き合ってきているから。まぁ、お客さんのとこ行って。「ガソリン買ってください」って頼みに行くのもやれたと思うんだけどさ。漁師ばっかりやっていて、商売替えしたって、商売できないですよ。それは確かにシベリアと軍隊のおかげだなと思ってね。

私が10年間(漁師を)やったときに、(昭和)34年に移ったんだから、32年、3年というのはものすごいニシンが獲れたんですよ、うん。私も取ったほうなんだけども、そのお金があったから商売替えできたけどもね。厚岸はニシン景気ですごかったんじゃないですか。ところが私が(昭和)34年に標茶行ったんだけど、35年からニシン獲れなくなってしまったんですよ。友達もね、「まだおまえそんなとこ行くの早いべよ、ニシンがこんなに取れてるのに」そう言ってくれたんだけども。まぁ、行ったんだけども。後になって会ったら、「おまえニシンいなくなるの分かってたのか?」「んなこと分かるわけないべよ。」って。

活動はしていました。上芭露(カミバショ)って日本海のほうの、あそこでニシン取れとったのが、私らが取った何年か前にいなくなってしまった、取れなくなってしまったんですよ。私が取ったときは向こうで取れなくなった網を買ってきて、こっちでつくり直して入れて。ニシン取ったんだけども、むこうのニシンがあれだけ取れていたニシンが取れなくなったんだから、厚岸もいつかはこうなるぞと、そういうことでカモメ会ちゅう、会作ってね、道庁にも行ってきたし、それから生産試験場かな、行って資源調査やってくれって頼んで。今年はできないけど、来年からやってやるからって言って、ニシンの稚魚に標識つけてね。標識放流をやったり、そういうことやって。厚岸のニシンはどこまで行くかやったら、うーんと、様似(サマニー)(町)かな、どっかあっちの方まで行っていたらしいんだけども。そして、そのニシン取ればタオル一本くれるんだよね。だから水産試験場の文献には私の名前も載っているけども。

とにかく、1日1日生きてなきゃダメなんだと。何か月先に帰してもらえないかとか、帰れないかなと思って消極的になっていた人はやっぱり参ってったんだと思うんだけども。私は1日1日生きてれば、いつか帰れると思っていたから、そういうふうに考えて、やったから、まぁ生きてこられたのかなと思っているんだけども。いくらね、3か月後に帰るからって、4か月後に帰りたいって言ったってね。1日1日たたなかったら、そうならないんだから。まぁ、それで生きて帰ってこられたのかなと思ってね。焦ったらやっぱりダメだったね。焦っているものほど、参ってったんでないかなと思ったんだけど。それにしても、ひどい目に遭ったね、とっても。

出来事の背景

【シベリア抑留を生き抜いて】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)8月。ソ連は日ソ中立条約を破棄し、満州国に侵攻した。圧倒的な戦力を前に、関東軍の大半は抵抗できずに撤退し8月15日の終戦を迎えた。武装解除された日本軍将兵や民間人はソ連によって捕らえられ、57万を超える人々が各地の収容所に送られた。
当時ソ連は、ドイツとの戦争で国土が疲弊。深刻な労働力不足に直面していた。スターリンは、抑留者の強制労働によって豊富な資源が眠るシベリアの開発を推し進め、国力回復の足がかりにしようとしたのだ。冬には氷点下30度を下回るシベリアで、抑留者たちは森林伐採や炭坑作業など過酷な労働を強いられ、少なくとも5万5千人が命を落とした。

証言者プロフィール

1920年
北海道厚岸町に生まれる
1942年
8月、盛岡第62連隊に入隊
 
10月、独立歩兵第284大隊に配属され、占守島へ
1945年
8月、占守島で終戦を迎える。シベリア・マガダンへ
1949年
帰国し、故郷へ。その後は、漁業などに従事

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シベリア(マガダン)

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