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タイトル 「収容所の過酷な境遇」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 ワシーリー・コバリョフさん(シベリア抑留 戦地 シベリア(マガダン)  収録年月日 2014年6月22日

チャプター

[1] チャプター1 収容所で生まれた  04:11
[2] チャプター2 ドイツ占領下スパイ容疑で逮捕された父  01:50
[3] チャプター3 オデッサに戻ってきた父は再び逮捕され、銃殺された  02:14
[4] チャプター4 恐怖に支配された暮らし  04:10
[5] チャプター5 逮捕  01:35
[6] チャプター6 過酷な扱いを受けた抑留者たち  05:40
[7] チャプター7 女性抑留者の境遇  02:20
[8] チャプター8 釈放  02:15

再生テキスト

私はオデッサ州、オデッサというところに生まれました。

Q:生まれたのは何年ですか?

生まれたのは・・・1930年・・・一年目はひどい年でした。私は生れたときには・・・私は母と一緒に逮捕されました。私は母のおなかにいましたから。それが1930年の8月13日、それが私がはじめて逮捕されたときでした。オデッサ州のヤースク村でした。

逮捕の経緯は・・・次のようなものでした。1928年から30年にかけてソ連(現・ロシア)でもウクライナでもいたるところで蜂起がありました。ソ連はレーニンとトハチェフスキーが一緒にやっていました。人々を虐殺し、村々を焼いていたんです。

ヤースク村でも蜂起があったんです。村はとても大きな村で幅が11キロ、縦が3~4キロくらいありました。バリケードを張って大砲もあり、ソ連政府もそこにいました。それでもソ連軍は何もできませんでした。村人たちがバリケードを張ったからです。1930年にトハチェフスキーがタンボフを制圧しました。そして村々を焼き尽くしたのです。

トハチェフスキーらが来て、丘の上に大砲を据えました。軍使が来て、「あなたたちは何を要求しているんですか」と訪ねました。そこにいたのはほとんどが女性で、男性たちは前線に行ってそこにはいませんでした。彼女たちは「私たちはソビエト政権は不要だ」といいました。「自分たちでやっていきたい」と。すると「ソ連体制に反対するというのなら、大砲を見ろ、何もなくなるぞ」と脅されました。そして彼女たちは降伏しました。しかし降伏する直前に私の母は産気づいていました。叔父はこのとき、まだ未成年でしたが、馬もあって、母を連れて近くの病院に行きました。その病院に着いたときにGPU(ソ連・国家政治保安部)に捕まりました。母は逮捕されて地下室に連れて行かれました。母も叔父もです。そしてスパイ容疑がかけられました。叔父が母を病院に連れていかなければいけないと言いましたが、信じてもらえませんでした。それが8月13日が午前10時のことだった。翌8月14日午前10時、教会の鐘が鳴り始めました。村人たちに、祭りを合図するためにです。そのときに私が生まれました。そのとき初めて彼らは信じてくれて、ようやく病院に送ってもらえたのです。

略奪などが起こり、ソロヴェツキー収容所(ソ連で最初期の強制収容所「ソロヴェツキー修道院」)送りになる人もいて、父はルーマニアに逃げました。国境がすぐそばだったから。川を越えてです。川を越えて逃げた人はほかにもたくさんいました。そこで父親は逮捕されました。そこにトルコの要塞があって連れて行かれました。父もスパイ容疑をかけられました。父はうまく言い逃れができませんでした。ソ連軍が父親を返せと、ルーマニアも捕虜を返せという話になり、捕虜を交換することになり、父親はオデッサに戻ることはできたのですが、拷問を受けることになったのです。ゲシュタポ(ドイツ・国家秘密警察)のその拷問はすさまじいものでした。私も受けたことがありますが、鉄を下に敷かれ、つるされたり、ストーブに手を押しつけて、やけどを負わされたりとか。その焼けたにおいが臭くて気分が悪くなるほどです。私はそこで気を失ってしまいました。

父は裁判にかけられ7年の刑を受けました。そしてソロヴェツキー収容所へ送られました。そこから秋頃にほかにもいた囚人らと一緒に父は新しい土地に送られました。船が出港した後、早い冬が来て川は凍りつきました。そして船も止まってしまいました。船に乗っていたうちの7人が集まって警備たちを殺しました。彼らは逃げろと言ったのですが、オデッサに戻ってきた人もいました。父もその中の一人でした。それから父は女装をして工場で働きました。オデッサで働いて母と一緒に住みました。そこには私もいたし、1928年生まれの兄のワーニャもいました。ですが、1933年には私たちは逮捕され、父は銃殺されました。私はそのとき2歳半でした。母は父を訪ねてろう獄へ行きましたが、父が銃殺されたと聞かされました。そして母は自殺しようとして、私を抱いて路面電車に自ら身を投げようとしました。でもそこで止められて、救われたのです。母は逃げて、名前を変えなければならなかったのですが、それを拒否し身を隠してしまいました。そして、私たちは孤児院に引き取られることになりました。でも後に私たち兄弟は孤児院から逃げ出しました。

戦後は、専門学校に入りたかったのですが、国民の敵の息子だという理由で入れてもらえませんでした。そこで私は普通工養成所(工場付属の学校)に行きました。名字はロイシェンコだったのですが、なにかの証明書をもらっていたですが、身分証明書はありませんでした。そこで母は申請書を出してぼくに母の旧姓をつけて、その後はその名前で身分証明書をもらいました。その証明書で普通工養成所に入ることができました。そこで勉強をしましたが、夏には母に会うために村に戻りました。そこへコルホーズの代表たちがやってきて、

(コルホーズの人たちから)トラクターの運転をしないかと誘われました。「でもまだ卒業していないから」と言って断りました。ほとんど卒業はしていたのですが、130人の卒業生のうち14人はその付属の工場で残って働くことになっていたので、「あとでそのことで裁判にかけられたくない」と言ったら、「誰もお前を裁くようなことはしない」と言われました。でも私は同意しませんでした。それなら「代わりにお前の母親を裁判にかける」と言われました。「何の罪でですか?」と聞くと、「ノルマが達成しないから裁くんだ」と。「それならどうぞ」と私は答えたのですが、後に、私がしたことは・・・対象は母だけでなく、村にある文化会館でつるし上げが行われたのです。

その批判の日にその場へ行くと、車が2台あり、私は下のほうにいて爆弾のそばに座りました。6~7個爆弾がセットされていて、導火線が墓地のほうに続いていました。私はその会館に座っていたのですが、いつ爆破されるかと思いました。母もろとも殺されてしまうのではないかと思いました。そして母に対しての批判が上げられ、村ソビエト(村議会)の書記が立ち上がり、助けてくれました。「彼女は占領時に何度も逮捕され、刑罰を受けたじゃないか」「子どもたちもつるしあげにあったじゃないか。この上まだ彼女を批判するのですか?」と。その場にいた人たちはお互いに顔を見合わせました。みんな私たちがつるし上げにあったことを知っていたのです。

Q:それで文化会館はどうなったんですか?

母は解放されたのですが、周りの関心を集めたので、人の目も気になりました。結局私は、コルホーズで働くことになり、トラクターの運転手をしました。穀物を運んだりしました。農民たちに配給されるものはなく、共産党の(村ソビエトの)執行委員会の人たちがやってきて、「これを5粒~6粒、農民にやれ」と言いました。そうするとコルホーズの代表が殴りかかろうとして、私はそれを止めに入ったのですが「コルホーズの代表です」と答えたら、「彼と彼の親を連れて行け」と言いました。そういうことがありました。結局私はトラクターの運転をして働き、土地を耕したりしました。そして私をコルホーズに連れてきた代表は銃殺されました。

Q:(逮捕されたのは)何年だったんですか?

1950年10月26日でした。朝の4時でした。

Q:逮捕の理由はなんだったんですか?

殺人(容疑)でした。罪状も読み上げられることなく連れていかれました。前のドイツ人が来たときと同様にです。それでオデッサの監獄で1か月たってから、ようやく判決が出ました。起訴されたのですが、テロ活動をしていたという理由でした。ドイツ人と同じで根拠もない理由でした。テロ活動をしているからという判決文もありますが、今日は持ってきていません。

(監獄では)収容所のときと同じように働きました。収容所では食事がありましたが、そこでは食事はありませんでした。コルホーズで働いていたときも食事はありましたが、そこではありませんでした。

一年間トラクターで働いていたときには、お金はもらえませんでした。60キログラムの小麦をもらいましたが、そのうち、食べられる小麦は16キロぐらいであとは、ごみと雑草でした。収容所でも監獄と変わりはありませんでした。毎日12時間ぐらい働きました。

1952年二つ目の収容所に入ったとき、幅30メートル、高さが6~7メートルぐらい、幅が人の背丈ぐらいで人の死体が積み上げられました。「銃殺されたのですか?」と聞くと、「秋に飢餓で亡くなった人たちだ」と。

当直の人がハンマーで、死体の頭をたたいて死んでいるかを確かめていきます。住居区でたたいた後、作業区でももう一度たたいて・・

Q:頭蓋骨をたたくのですか?

そうです。逃げられないようにです。きりみたいなもので刺したりもするのですが、それでもフィンランド人が一人生き延びて逃げた人がいました。その人は3回も脱走して、それで25(年)の刑をうけました。

ノリリスクでは死体はふたを外して死体を放り投げていました。ノリリスクでは埋葬する人はいなかった。埋葬地はツンドラの沼でした。クマがやってきてその死体を食べていました。

Q:ノリリスクからマガダンへはいつ来たんですか?

蜂起の後です。

Q:それはいつでしたか?

1953年です。

そこ(ノリリスク)から私たちは移送されました。そして多くの人が銃殺されました。

そのあと列車に乗せられてドゥディンカに連れてこられました。そのあと貨物用の船(だるま船)に乗せられました。私たちは何千人もいて、私たちの船に乗っていた班長など32人が絞首刑になりました。

Q:ドゥディンカ?

ドゥディンカとはノリリスクの村です。エニセイ川から湖に曲がるところの・・・

Q:では海を伝って運ばれたのですか?

いや。エニセイ川に沿ってです。クラスノヤルスクから貨物用の船に乗って連れてこられたのは秋でした。ドゥディンカまで来たときには薄い氷が張っていて岸まで船が近づけませんでした。そこでタラップ代わりに板が敷かれ、手すり代わりのロープも何もなくて、岸にも監守、船にも監守がいました。2人組で(手を組み)渡るのですが、私は「触るな」といいました。なぜなら飛び込む人がいたからです。彼らはノリリスクに戻れないなら、身を投げてしまおうという人たちがいたからです。私は巻き込まれたくありませんでした。それで私はつかむものも何もないまま、なんとか岸に渡りました。こうして私たちはクラスノヤルスクに連れてこられて収容所に入れられました。そこには入る人と出て行く人たちがいて10万人ぐらいいたと思います。収容所はとても大きくて、1キロぐらい敷地があってセメント工場がありました。何かを運んでいる人にここにはどのくらいの人がいるんだと聞いたら、10万人以上と答えました。

私たちは2か月間くらいかけて移送されました。ワニノ港まで送られました。そこで私たちを銃殺する予定だったようです。自動小銃を抱えていた人もいたし、大砲もありました。徴発された武器でした。私たちはついたときに市場みたいにベンチがずらっと並んでいて、私たちは並べられて洋服を脱ぎ、その中に紙が入っていないか調べられました。

ワニノからアメリカの“リバティ”という船に乗せられました。それは名前を変えられていました。“赤軍隊”という名前でした。私たちは6~7千人詰め込まれました。そして女性が5千人くらいいました。船は満員でした。2週間かかって船で連れていかれました。なぜなら海へ出たからです。

ミハイル・ハユージンにしました。という少佐がいて、その人が国連あてに船内の状況を手紙に書いて、何か(大小便の)の入れ物に入れて海に流しました。船の鉄の板をはがしてみるとそこは食糧庫になっていました。そこには食糧とかシャンパンがあってそこでは飲み食いしている人がいました。そのシャンパンボトルに手紙を入れて海に流したのです。誰かがシャンパン瓶(に隠された手紙)を拾ってくれると思ったのでしょう。

Q:女性の囚人たちは収容所でどのような生活をしていたのでしょうか?

男性とまったく違いはありませんでした。ノリリスクでは女性の居住区と男性の居住区が分かれていて、女性が作業に行くときに男性の居住区のほうを見ただけで銃殺されました。何か話しかけたりしても銃殺されました。男性と話しただけで。彼女たちは殺されました。
それは1953年、あるいは1952年でした。

女性たちは木を担いで村に運んでいっていました。6人くらいで丸太を一本運んでいました。マガダンにスタジアムを建設する前に・・・6~7キロの距離を運んでいました。KGB(ソ連・国家保安委員会)の建物、あっちのじゃなくてこっちのです。土を掘ったのは女性でした。建設作業は男性でした。

崩落事故もありました。基礎を掘って穴を掘ったあとにコンクリート打ちをしなくてはいけないときに、何かが落ちて16人の女性が亡くなったこともありました。私の友人の妻がそこの班長だったんですが、その日は病気で休んでいました。「なんで仕事に行かなかったんだ、行っていたら防げたかも知れなかったのに。」と言われてクビになりました。

Q:それはどの建物の工事のときですか?

スポーツ会館です。1945年から1946年くらいの話です。

女性たちは過酷な労働を課されていました。ものすごくこき使われ、搾取されていました。そのあと2年くらい私は審議にかかっていたのですが、そのとき女性のいた監獄の近くにいました。夜中にはものすごい悲鳴が響いてきました。

Q:収容所から解放されたのはいつですか?

1956年8月16日でした。

結局、釈放する理由としては、これ以上収容所にとどめておく意味がないという理由でした。そんなこと想像できますか? 意味がなかったんです。理由もなく私たちを、何万人も100万人もの人を・・・。

その後オデッサの裁判は私が無罪だということを認めました。社会的な犯罪はなかったということです。でもすぐには名誉回復にはなりませんでした。最高裁判所に申告してそこでようやく名誉回復ができました。

Q:何年だったんですか?

84年だったか・・・いや94年だったかと・・・

Q:社会主義についてどう思いますか?

どの社会主義のこと・・・何なんでしょうね。私は軽蔑します。ソ連政府を軽蔑するのと同じように。映画の撮影があったとき、私はあの世へ行っても恨んでやると言いました。大嫌いです。社会主義はどこから来たのか・・・社会主義のあとは共産主義。どちらも同じです。

出来事の背景

【ソ連時代の悪夢を越えて】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1930年
オデッサ(現・ウクライナ)の収容所で生まれる
 
孤児院で育つ
1950年
政治犯として再逮捕される
 
ノリリスク・クラスノヤルスク・マガダン収容所など
1956年
釈放される
 
無罪が確定したのは1980年~1990年代

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