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タイトル 「記憶に残る日本人抑留者」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 ガリーナ・セレブリャニコワさん、マリア・パヴロヴナさん(シベリア抑留 戦地 シベリア(ハバロフスク)  収録年月日 2014年6月28日

チャプター

[1] チャプター1 ハバロフスク近郊の村  03:12
[2] チャプター2 戦地に赴いた家族たち  03:14
[3] チャプター3 記憶に残る日本人女性たち  03:26
[4] チャプター4 男性抑留者の風貌  01:32
[5] チャプター5 ある男性抑留者との交流  06:47

再生テキスト

ガリーナさん:コルフォフスキー村には収容所はありませんでした。あったのは24キロという村で、村はハバロフスクのほうへ、ここから5キロほど離れたところにあります。日本人抑留者はそこに住んでいて、このコルフォスキー村には労働をしに来ていました。

Q:そこは確か今は隣に基地があるところですね? あと残っている建物と。

いえ、今あそこには前にあったものは何も残っていませんよ。人の住んでいる村があるだけです。工場のたぐいはありません。ここから一番近い村です。

Q:当時村の規模はどのくらいでしたか? 家の数は何軒くらいありましたか?

家の数は・・・まあ小さな一軒家しかありませんでしたよ。2階建ての建物なんてありませんでした。数は分かりませんけど、本当に小さな家ばかりで、決して大きくない村でした。

Q:あなたのお父さんや親類の方などが日本人と一緒に働くことはありましたか?

いいえ、私の母は働いていましたが。母は読み書きのできない人で、父は戦死しました。私は実のところ父の顔を見たことがないんです。私の生後半年で父は出征して、そのまま帰ってきませんでした。母は守衛として、教育を受けていない人でしたけど、鉄道の踏切の守衛として働いていました。私が日本人抑留者について知っているのは、しょっちゅう母の仕事場に行っていたからです。彼らは橋の改修工事をしていて、橋は守衛小屋のすぐ隣にあったんですが、収容者の日本人男性たちは毎朝そこへ作業をしにきていました。見張りが2~3人ほどいるなかで、彼らは働いていました。それで、冬は寒いので、母のいる守衛小屋に鉄製のストーブがあったので、彼らは仕事の合間にやってきてはこうして手をこすり合わせて暖をとっていました。それからはんごうを、お昼(昼食)が入ったはんごうを持ってきていました。彼らのはんごうは二重になっていて、下がスープで上がおかず、その逆のこともありました。こんな感じの平らなはんごうで。それに食事を入れて持ち運んでいました。中身は冷めてしまっているんですが、それをストーブに引っかけて温めるんです。ストーブとそのパイプに引っ掛けて、天井まで届くくらいはんごうを積み上げて部屋がぎゅうぎゅうでした。お昼のときはもう冷たくない、温かくなったものを食べていました。私が彼らと会ったのもそれを見たのも、母のところへ暖をとりに日本人が押し寄せていたからです。日本人と直接一緒に働いていた人はうちにはいませんでした。

(兄の)ワーリャ、トーリャ、それに姉のマリアです。戦争の前の写真です。左から父と母。

Q:この写真にはあなたはまだ写っていませんよね?

ええ、まだ私は生まれていません。

Q:お兄さんのイリヤさんとお姉さんのエカチェリーナさんはこの中にいますか?

いいえ、この写真には写っていません。ほかにもないか探してみます。

ああ、これは姉が遊びに来たときの写真です。うちの家族が写っています。これが戦争で脚をなくした兄のイリヤです。これが防空隊にいた姉のカーチャ、エカチェリーナ。これが私の兄弟全員です。

Q:お父さんはどちらで亡くなったのですか?

父はベルゴロドの近くで戦死しました。1942年のことです。

Q:何人兄弟でしたか?

8人です。私が8人目、末っ子です。

Q:ご兄弟の中で今ご健在なのは?

コヴァリョフ家に残っているのは私とマリア。それだけです。私たちの、それより上にも兄弟がいて、最後が私だったけど。残ったのは私たち。

Q:マリアさんはすぐ上のお姉さんですか? 7人目の?

いいえ、私たちの間にもう2人いました。兄と・・・ああ、3人いました。もう皆いないけど。残ったのは私とマリア。10歳離れています。彼女の方が10歳年上です。

家族で戦地に赴いたのは、父と兄と上の姉とその夫です。父は戦死して、兄は片脚をなくして帰還して、3年前に亡くなりました。姉は幸い生き残りましたが、夫の方は戦死しました。ですからうちは2人の戦死者と、1人の重傷者と、姉と。その4人が戦争に行きました。

Q:ご家族ではお父さんがまず徴兵されて、お姉さんも出て行って・・・。

それから姉、兄のイリヤもです。彼は戦場から帰ってきましたが脚を失っていました。脚のここから先がなかった。

Q:きっと残った家族は大変だったと思うんですが。

とても大変でしたよ。母1人で・・・子どもは戦地に2人出て行って、6人残りました。戦争が始まったとき、末っ子の私はまだ6か月でした。本当に大変でした。

Q:当時日本人抑留者は村の仕事を手伝うとか、そういうことはしていましたか?

分かりません、私が見たのは女性たちが畑で働いているところです。今はさびれた採掘工場があるところですが、以前は畑がありました。女性たちはその畑で夏の間は、ジャガイモやニンジンを収穫していました。今思い出しましたけど、女性たちは、髪をこう後ろにまとめて、髪からなにか突き出していました。丈の短いジャケットと、ズボンのようなようなものをはいていました。そういう格好でジャガイモを掘っているのを見ました。彼女たちがここで何をしていたのか、どうやってこのコルフォフスキー村に来ていたのかは分かりません。もしかしたら女性もあの収容所にいてそこから送られてきたのかもしれません。でも村の住民を手伝うことはありませんでした。抑留者には行動の自由がありませんでしたから。つまり、全員に見張りがついていたんです。だから住民を手伝うことはありませんでした。自由に動けなかったのでね。行動を制限されていたんです。

Q:女性が何人くらいいたか覚えていますか?

私が見たのは6~7人だったと思いますが。彼女たちがどこから来たのかは分かりません。子どものころの記憶ですから。当時は私自身も、私もせいぜい6~7歳、それより上ではありませんでした。

Q:彼らとあいさつをしたり、交流する機会はありましたか?

女性とはありません。男性たちとは、母のところに温まりに来たときに、頭をなでられたり、肩をたたかれたりすることはありました。言葉をかけられたような気もします。なんにせよ、彼らは好意的で、何を言っていたかは分かりませんが、交流はありました。女性たちには監視兵がいたので、自由がありませんでした。女性たちには近づくことができませんでした。ですので女性たちについては分かりません。

Q:他に何か印象に残っていることはありますか?

いえ、思い出せません。子どもでしたからね。ただ、この外国人たちが抑留者で、捕虜だということは分かっていました。なぜそうなったのかは知りません。単純にジャガイモを掘る様子が、自分たちのと違って、膝をついて掘っていて珍しかったのです。私たちはただ外国人の女性に興味がありました。髪型がてっぺんは高く、横からこう集めて後ろでお箸みたいなもので留めているのはよく覚えています。

Q:女性たちは何歳ぐらいでしたか? 若かったですか、それとも?

皆若かったですよ。皆若くて美人でした。

Q:男性の抑留者についてお聞きします。お母様の守衛小屋に来た彼らと会ったとのことですが、はんごう以外で何か印象に残っていることは?

帽子とコートが変わった色だったのを覚えています。これよりもっと暗い色の。私たちロシア人のコートは襟元がしっかり暖かいのですが、彼らのは上半身が軽装で下が幅の広い毛皮で覆われていました。他にも何かあるかもしれませんが、コートがそんな感じでした。どうして足元を暖かくするのか、足が冷えるのか、襟元には何もないのかと不思議でした。帽子も同じような色で、頭部分は何もなく、耳の部分に毛皮がついていました。

Q:それが日本の兵士の服装なんですよ。

ああいう服装なんですか。全てに驚きました。どうしてコートの裾を暖めるのか、どうして首は寒いままなのかと。コートの下はどうなっているのか、彼らはちょっと立ち寄るだけでコートを脱ぐことはなかったので分かりませんでしたね。

Q:冬に女性を見かけることはありましたか?

いえ、女性は夏しか見ていません。冬ではなく、夏にだけ。

マリア:彼らには、なんていうのかしら、彼らには見張りはいませんでした。ただ石を採取していました。1人か2人で、それだけです。いつも平穏に事が進んでいましたし、誰も逃げたりしませんでした。他にも言いたいことが。戦争で脚をなくした兄がいるのですが、工場の隣で働いていたんです。私はときどき兄にお昼を持って行ったんですが、そこでサトウという日本人が働いていたんです。健康的な若い男の人でした。脚をなくした兄にお昼を持っていくときに、彼と知り合いになりました。いつもではないですが、時々彼に家からジャガイモを持っていってあげることもありましたよ。そのくらい親しかったんです。彼らには見張りがついていなくて自由に動けました。この近くにパン屋があったんですが、そこに彼らが来るとパン屋は彼らのためにパンを焼いて、彼らはまきを持ってくるんです。見張りは全くいませんでした。抑留者が2~3人で来て、パンを焼くための薪を持ってくる。そういう習慣でした。あとここからずっと行ったところに草刈り場があったんです。何回か母と行きましたが、そこにパン屋の人と一緒に日本人が2人来ていたんです。見張りはいませんでした。怖がる人も突っかかる人もいなかったし、極めて平和な状況でした。

Q:サトウさんについてもう少し詳しく話してもらえますか?

詳しくと言っても、彼は私の言葉が分からないし、私も彼の言うことが分からなかったので。肩にポンと手を置いたり、頭をなでられたり、笑顔を交わしたりしていました。彼は見張りなしで1人で仕事に来ていましたよ。

Q:彼は何歳くらいでした?

30歳くらいでしょうか。若くて、健康で、ハンサムな人でした。背が高くて。30歳以上には見えませんでした。

Q:抑留者と一緒に仕事をすることはありましたか?

いいえ、ありませんでした。ただ彼らが薪を取りに家の近くに来ると、興味があるので近寄って彼らを見ていました。でも彼らは私たちと話せませんし、私たちも話せなかったので・・・。

1人としか交流はありませんでしたよ。1人だけ、サトウだけは覚えています。ほかの人と交流はありませんでした。外国人に興味があったのでただ近づいて眺めることはありましたが。互いの言葉を知らないので交流もできませんでした。

Q:でもサトウさんの名前は覚えていたんですね。

もちろんです。何度もお昼を持って冬の間中そこに通っていましたから。そのときはもう14歳でしたからはっきり覚えています。彼がサトウと呼ばれていたのはよく覚えています。

Q:お兄さんのイリヤさんは日本人と関わりのある仕事をしていたんですか?

いいえ、作業場ですから兄は自分の作業をしていただけでしょう。兄の仕事は、なんていうのかしら、作業台で研いだりするの、ああ、旋盤工。作業台で仕事をしていたから。

Q:ある出来事についてお話しします。帰還した日本兵の話なのですが、収容所で仕事がつらくなって脱走しようとした若い日本兵が射殺されたことがあるそうです。

私たちは知りません。

Q:射殺された後、他の抑留者に脱走する気が起きないように、みせしめとして埋葬しないまま置いたそうです。

知らない話なのでなんとも言えません。もしそんなことがあったら村ではすぐに話が広まります。1人が口にしたら村中が知ることになるのです。でもこの村ではそんな話を聞いたことがありません。私の知る限り、監視は厳しくありませんでした。抑留者は全員で50人か、もっといたかもしれませんが、見張りは2人だけでした。銃を突き付けて移動するなんてことはなかったです、肩に掛けてはいましたけど。脱走もありませんでした。皆普通に歩いていただけです。見張りも2人、それだけです。静かにゆっくり歩いていました。 彼らが歩いているのを一度見たことがあります。うちの菜園の隣に採石場へ続く道があったからです。貧しかったですが、1945年には私も14歳になっていました。ものが分かる歳になって見た光景です。

Q:当時はここではなく別の家に住んでいたのですね?

ええ、最初は皆と同じようなバラックに住んでいましたが、それから一軒家に移りました。1941年にはお金が貯まってもう自分の家に住んでいました。でも菜園だけはバラックに残してあったんです。新しい家の周りには平地がなくて、庭には木が生えていたし、作った菜園が惜しかったので。あれはたしか1950年のことだったと思います。日本人たちが歩くのを自分で見たのは。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1931年
姉・マリアさんコルフォフスキー村に生まれる
1941年
妹・ガリーナさんコルフォフスキー村に生まれる
 
父は戦死し、母と戦地から帰還した兄は日本人抑留者とともに働いた

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