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タイトル 「ソ連兵にさらわれた妹」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 上田 淑江さん(シベリア抑留 戦地 シベリア(ハバロフスク) 満州(佳木斯)  収録年月日 2014年7月19日

チャプター

[1] チャプター1 釜山から佳木斯へ  02:01
[2] チャプター2 動員された妹  02:39
[3] チャプター3 最後になった電話  01:59
[4] チャプター4 さらわれた妹  03:51
[5] チャプター5 妹を探して  04:29
[6] チャプター6 探し続けた妹の消息  03:41
[7] チャプター7 元兵士が書き記した房江さんの情報  01:18
[8] チャプター8 今も残る悔い  01:35
[9] チャプター9 母の悲しみ  02:48
[10] チャプター10 やり場のない怒り  02:07

提供写真

再生テキスト

Q:上田さんはご家族で満州に行かれたんですか?

そうです、はい。

Q:昭和何年ですか?

そうですね・・・父たちが早く行きましたからね。昭和何年かな・・・私が昭和16年に女学校卒業したんですから、その2~3年前だから、14年頃でしょうね。はい。

Q:女学校は満州の女学校で?

いえ、女学校は釜山(プサン)です。

Q:釜山の?

朝鮮・・・満州を転勤がありましてね、父のね。それで釜山に長くいまして、それから満州に行きましたのね。

Q:お父さんはどちらにお勤めだったんですか?

満州で。やっぱし、三江省の佳木斯(ジャムス)ていうところのね。建設省に勤めておりましたのね。

Q:ご兄弟は何人で?

5人。

Q:5人?

はい。姉と兄、妹、弟。全部亡くなりました。房江(妹)は殺されたんですよね。

Q:房江さんのお話を詳しくお聞きしたいんですが、何歳違いでいらっしゃるんですか?

私と4つ。

Q:4つ?

4つかな?そうですね。大正、私が13年で、あの人が昭和3年ですからね。4つですね。

女学校卒業しましてね、姉も私も全部、満州のその警察庁(警務庁)に勤めてたんですよ。で、この子もお姉ちゃんたちと一緒にって、公務員試験受けましてね、頭いい子でね、通ったんですよ。通った後に召集が来ましてね。何日かお勤めをしたのよ。だけど召集来たからね、行っちゃったの。おとなしい、優しい子でした。私みたいにおしゃべりでなくね。私がいちばんおしゃべりなんです。きょうだいの中でね。いちばんおとなしくてね、頭のいい子でした。だからもう、母が忘れられないんですよね。まぁどの子も一緒だって言いますけどね。特にこういうのはね、本当に忘れられないですよね。親としてはね。

Q:房江さんは、佳木斯(ジャムス)の高等女学校に?

そうです。はい。女学校卒業しましてね、その年はちょうど昭和16年(昭和20年の言い誤り)でした。それですぐ徴用っていうのがございましてね、最後の召集をね、女の人もありましてね、そして、看護婦じゃないのに、陸軍病院に召集されまして、参りましたのよ。そのときにまぁ、帰ってもいいとは一応言われたらしいんですけどね、帰らないで、お友達と一緒に赤十字病院(陸軍病院)の方に、一緒に行きましたよ。それから軍隊と一緒に合併してね、行動をともにしたみたいですね。

最後のね、女子の召集ですね。はい。もう終戦なる間際ですね。女の子には召集こないと思っていたんですけどね。

Q:召集はどういうかたちで来るんですか?

もう・・・町役場から赤紙が来るんです。はい。いつ何月何日にどこの本隊に行ってくれって。そういうのですね。だからもう最後の最後ですよね。

電話がありまして、そのままね、行きましたね。一緒に同級生もたくさんいましたからね、一緒に行きました。そして、ちょうどその、たまたまそこの教育班長っていうのが、よく、よくうちに・・・官舎が・・・官舎でしたからね、山1つ越えて向こう側が部隊だったんですよ。したら、そこの兵隊さんたちが、日曜日になるとみなさん遊びにいらしてね、母がよくするもんですから、「お母さん、お母さん」言ってね、母のところによく来てましたの。その方の一人が、ちょうど陸軍病院の班長だからって言うんで、妹も知ってる人に預けるんならいいだろうっていうことでね、行きたいって言うんで、そのままやりましたんですよ。はい。

Q:電話があったんですね?

はい。

Q:直接お会いにはなってらっしゃらない?

もう、行ったときからもう会っていません。そのときにね、ちょうどね、母がね、姉が長春に、今の長春に、(現在の)新京っていうところに、姉のところに行きましてね、留守だったんです。私しかいなかったんですよね。父はもう仕事の都合で戦争があっていますからね、帰って来なかったんです。ずっと役所の方にね、寝泊まりしてね、いませんでしたから、うちに。

Q:電話がかかってきて受けられたのは?

私です、はい。みなさんとご一緒だったらいいと思ってね。まさか殺されるなんて思いませんからね。

Q:その後の消息は少しずつ分かったと思うんですが・・・?

いや、なかなか分かりませんでした。何回も私、満州まで探しに行きましたけどね、みんな人違いでしたしね。そうですね・・・

Q:淑江さんは日本にはいつ引き揚げられたんですか?

えっとね、あれはね・・・終戦翌年ですね。はい。

Q:そのころは全く消息は分からなくて?

はい。全然分からなくて。

Q:そのころご家族の間ではどんなふうに想像とか、心配をされていたと思うのですけれども?

軍隊に預けていたほうがいちばんね、いいと思ったもんですからね、安心していたんですけどね。

ちょうど終戦になって、そして軍隊がまとまって、南下して、日本の方に逃げる途中でね、看護婦さんや、その召集された妹たちの部隊・・・たちと一緒にね、みんな集まって逃げてるらしい。逃げたらしいんですけどね、そのときに房江がちょうどね、足にマメかなんかできて、足痛めていたらしいんですよね。それで一番しまいボツボツ付いて行ったもんですからね。そしたらちょうど終戦になってソ連軍がウワーっと、一番タチの悪いソ連軍たちが入ってきて、入ってくるともう、女の子みんな手込めにしようと思って引っ張って連れて行くんですよね。

それで、もう夜中の真っ暗いところで、田んぼなんかのあるとこですから、もうみんなが一生懸命手探りで逃げたらしいんですけどね、房江は足が悪かって、その悪いもんですから、その上から積み木のようにみんな倒れましてね、一番下敷きになったんですって。したら一人ずつ除けて、一番最後になったもんですから連れて行かれたんですよね。そのときに、「班長殿、婦長殿、助けて、助けて」ってね、だから今一緒に行った方に房江のこと聞くと嫌がりますの。その耳・・・「声がね、耳に今も残っているからね、話したくない」っつってね。

Q:状況はどなたから聞かれたんですか?

それはお友達なんかが言っておられましたのね。「上田さんはあのときに足を悪くして、足、マメかなんかできてね、すごく足悪くしてたのよ」なんて・・・それで、みなさんからちょっと外れてね、団体の後ろの方から付いてきていたらしい。それでもう、ロシアの人が来てみんな連れて行きますからね、それぞれにもう・・・電気なんかございませんでしょ。真っ暗い中田んぼだとか、畑の中も、みんな逃げ回ったらしいんですけどね。その土地のことも分かりませんからね、あっちこっちに逃げたらしいですよ。で、捕まって、連れて行かれるときに、「助けてー助けてー、婦長殿」って、「班長殿助けて」ってね。大きな声で、トラックに連れて行かれたときに、トラックが見えなくなるまで大きな声で叫んでいたそうです。

延吉(中国吉林省の延辺朝鮮族自治州)の方に似た人がいるって言うんで、延吉まで行きましたの、探しに。

Q:探しに行かれたのは、この手紙が届く前ですよね?

全然まだ知らないときですね。殺されたか、どこで連れて行かれたか分からない、何にも消息なかったもんですからね。昔のあれですね・・・新京なんかに行くのも証明がないと行けませんのでね、いろいろと手続きいたしましてね、新京の副市長っていうの、向こうの女の方で。その方の証明をいただいて、新京に一旦行って、新京から延吉、延吉ですね。延辺って言いますね。延吉までね、また12時間汽車に乗って。通訳付けてもらって行きました。ちょうどそのときに、房江の班長さんになってた方が、ちょっと年上の方いらしたんですよ。その方もいろいろ心配だから、自分も一緒に連れて行ってくれって言われましたけどね、経費のかかることだからって言ったら、自分で出すからって言うんで、その方と2人で行きました。

そしていろいろ探していただいたんですけど、結局似た人っていうのが、朝鮮の人だったんですよね。無駄だったですけどね。でももうそのときは殺して・・・殺されていますからね、無駄も何もないんです。

Q:そのときはもう、残留婦人とかそういうかたちであってもお会いしたいという気持ちで行かれたわけですよね?

そうです。そのときはね、まだ殺された・・・殺されたと思ってたんですけどね、そういうハッキリした返事が無かったもんですから、また間違ってね、紛れ込んでどっかにいるかも分からないから、とにかく似たような人がいるから行ってみようということでね。

Q:亡くなっていると思っていたと言っても、まだ情報が無いので、生きている可能性も信じたいわけですよね?

そうですね。殺されたとかね、連れて行かれた言ってもね、本当に殺されたか、連れて行かれたか、連れて行かれてもまだ生きている方もいますし、そのままソ連に抑留された方もいますからね。分かりませんものね。だからまぁ運良くアレすれば殺されないでどっか連れて行かれたかも分からないと思いますよね。やっぱしきょうだいですからね。やっぱしまだ両親もいましたしね、母がすごく心配してましからね、やっぱし。私が行かないと、兄はもう召集で北支(中国北部)の方に行っていますしね。姉はもう満州に行ってましたしさ。弟はまだ中学生。で、あと妹ですからね。どうしても私が動かないと、行く人がいませんからね。私がもうあっちこっち、行かせていただきました。まぁいいことだったらいいけど、こういうことは嫌ですね。

Q:おつらい思い出を思い出させてしまって申し訳ないです。

大丈夫です。もうね、やっぱし、何回聞かれてもね、忘れませんから泣けてきますよね。いいんです。やっぱしね、後に残しておかないとね、こういうことがあった、女の人が抑留されてソ連に連れて行かれた、そういう人と違うんですからね。房江の場合はもう全然あれが違う・・・違いましょ。ですからどうしてもそのことだけはね、声を大にしてみなさんに知っていただきたいんです、私はね。はい。三橋さんなんかもソ連に2~3、2~3年ですか?

Q:2年ぐらいですかね。

抑留されたんですよね。みなさんそんなでね、房江はソ連に行かないで、満州の間に連れて行かれて殺されたんですからね。満州でね。ソ連に行ってませんの。だから一般の人のような抑留とまた違うんですよね。全然房江のようなあれはございませんでしょう。

「今更もう、どんなことがあっても驚かないから、どんな状態で亡くなったのかね、ぜひ教えて欲しい」って、年賀状出す度に、もう10年くらい書いて出したんですけど、なかなか教えてくれないで、最後に来た手紙に・・・あれは電話がかかってきたんですよ、お正月。ビックリしましてね、「なんか具合が悪かったんでね、一応話しとこうと思って」って。それから間もなく亡くなったんですけど、話してくだすってよかったんですよね。それで、見たのは宮田さんじゃなくて、東さんっていう方が見たもんですから、その方の娘さんが福井にいらっしゃるんで、福井の方に連絡とって伺いましたけど、あんまりそういうお話をお父さんなさらなかったみたいですね。まぁそれこそ口に表せないくらいの殺されようだったらしいですね。はい。

Q:詳しいことはお聞きになられてないんですか?

聞きました。ちょっと話します・・話できません。恥ずかしくてね。かわいそうで・・・

「自分は見てないけれど、東さんからいろいろ聞いてね。話、親兄弟には話せないから、今まで黙ってたけど申し訳なかった」ってね。手紙が来ましたね。

Q:そのお話を聞いたときはどんなお気持ちに?

それはもう・・・きょうだいですからね。もう・・・口にはあらわせない悲しみでしたよね。今でもそういう話、嫌です。はい。涙が出ますね。

Q:宮田さんと東さんは、同じ佳木斯の陸軍病院の方ですか?

ええ、陸軍病院じゃなくて、私もね、佳木斯で、警察に勤めてたんです。終戦後女学校卒業して、向こう行きましてね。それでその分室っていうとこ、警察の分室ってとこ勤めておりました。分室っていうのは、結局警察の特別なところなんですね。その関係があるのが特務機関とかなんかそういう関わり合いがありましてね、その特務機関のほうに宮田さんと東さんいたんですけど、普通、身分を隠して警察のほうに勤めていたんですよね。終戦後分かったんですけどね。前からその特務機関のほうに勤めて・・・。

Q:これはどういうこと書かれているんですか?

房江が殺された日時とかね。それから日時とか、どこの場所とかね。それから、朝か夕か、夕方か、部隊名ね。

説得に参りましたけども、房江さんの亡くなった日時場所を分からん・・・忘れましたって書いてありますね。もう何年もたったら忘れるんでしょうね。書いてないもんだから。これ二二四部隊っていう部隊が、私の官舎の、小さな山の向こう側にあったんですよね。そこにみんな、そういう看護婦さんなんか・・・赤十字病院(陸軍病院)ですね。この二二四部隊っていうのはね。

Q:何部隊ですか?

二二四部隊。はい。

(東さんの住所は)福島かと思ったら福井のほうだったんですよね。間違ったんです。何回もこういう手紙をね、あっちこっちにね、出すんですけどね、知ってる方は宮田さんと東さんだけだったですね。はい。

Q:同じ立場で想像したときに、そういう結果が分かったときに本当に誰に対して怒ればいいのか、もちろんソ連兵、どうして終戦間際にそんな一般の女の子まで召集されなきゃいけないのかとか。いろんな感情が湧くんじゃないかと思うんですけども。

今の人はね、召集なんたって、そういう言葉も分からないし、どうして召集なんていうようなことおっしゃいますけどね、戦争のころはみんなそうなんですよ。本当にかわいそうでしたね。だからあのときに、私が引き止めてね、軍隊の方にやらなければよかったと思ってね。やっぱし最後まで私がいたんですからね、私、やっぱし気になりますよね。私たちが・・・母たちが新京に行っていましたからね、いなかったから、私が連れて、弟と妹連れて逃げるのは、逃げられないかも分からないもんですからね、やっぱし軍隊に預けた方が無難だと思って、それでみなさんと一緒に行っていいって言ったんですよね、私がね。帰って・・・帰ってきてもらって一緒に連れて帰ったほうがよかったんですよね。はい。

母はね、「もう生きている、死ぬことない。どんなことがあってもね、生きているんだからね、探して連れて来なくちゃ」ってね。もう私がもう、外務省に行ったり、あっち行ったりこっち行ったりしましてね、随分探しましたね。

Q:あっちこっち探したけれども、この手紙で、決定的な事実ということですよね?

ええ、この手紙の前に宮田さんからお電話でちょうだいしたんです。亡くなったということをね。もう亡くなっ・・・殺されているとは思っていましたね。連れて行かれた・・・連れて行かれてね、そんな、いつまでも生かしておりませんからね。向こうの人はね。で、一番・・・終戦後ね、本当に・・・一番悪い囚人がね、解き放されたんです。それそういうのが一般に出てきてあれしたから、もうひどいもんですよね。普通の人間ではないですよね。

Q:お母さんも悲しまれたのではないでしょうか。

あぁもう母ももうね、「あの子はね、死んでない。生きている、生きている。どんなことがあってもね、どんなにあってもね、生きて帰ってきたら大事にしてやらなくちゃ」ってね。もう亡くなるまで言っていましたね。

Q:宮田さんからの電話とこの手紙があった後も、そういうふうにおっしゃっていたんですか?

ええ、もう。電話が来たときに、私がもう電話口でブルブル泣きましたからね。「何があったの」って。なかなか話しませんでね。でまぁ、落ち着いてからいろいろ母に話してあげましたけどね。連れて行かれて、連れて行かれたということは聞きましたからね。母もやっぱし、連れて行かれてどんなんなったか分かりませんからね。どんなに変わり果てても連れて帰らなきゃいけないから。それで延辺に知った人がいるって言うんだったら、「行ってきなさい」ってね。私にお願いされましてね。

まぁなんせ戦争がいけませんよね。平和がいちばんいいですよね。房江みたいに犠牲になったのは、終戦後どなたもいないんじゃないですか。房江だけだと思いますよ。こういう目に遭ったのは。みんなソ連に連れて行かれてね、殺された人もいるし、勝手に逃げてあれした人もいますしね。だけどもこんなにちゃんとしたルートの中にいてね、連れて行かれて殺されたというのはね、全国に房江だけだと思いますね。だから、みんなソ連に連れて行かれた方と一緒にしてもらいたくないの、私は。はい。

抑留されたんじゃないんですよね。拉致された。抑留と違ってね。だからよくテレビで抑留、抑留、って言われますけどね、抑留じゃないんです。抑留、行ってないですから、ソ連に。拉致されたんです。だからそこをね、しっかり放送してもらわないとね。仏さんも満足じゃないと思いますね。

Q:これいつ撮った写真ですか?

向こうで撮ったらしいんですけどね。これは満州から帰って来てもらったのかな・・・どうし・・・。

女性:なんか房江おばちゃんの遺影として、おうちに飾ってある・・・

忘れたけれど・・・きっとあのね、その班長さん、澤井さんが持って来てくれたと思うの。自分の・・・みんなほら、入隊すると、写真撮りますでしょう。その写真だと思うんですよ。軍隊、軍服着てますしね、帽子もかぶってますからね。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1924年
(上田淑江さん)朝鮮半島・釜山(プサン)に生まれる
1941年
第一高等女学校を卒業後、両親が移住していた満州(現・中国東北部)の佳木斯へ移り、警務庁で働く
1946年
帰国。行方不明になった妹・房江さんの行方を探し続ける
 
1928年
(故・房江さん)釜山に生まれる
1945年
佳木斯高等女学校を卒業し警務庁で働き始め、7月、動員され見習い看護婦になる。8月31日、方正でソ連兵の一団にさらわれる

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