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タイトル 「ソ連軍に連行された義姉」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 赤羽 房子さん(シベリア抑留 戦地 満州(大連) シベリア(チタ)  収録年月日 2014年7月18日

チャプター

[1] チャプター1 語学に通じた義姉  05:34
[2] チャプター2 ソ連軍に連行された義姉  04:27
[3] チャプター3 長い抑留  05:07

再生テキスト

私は大連で生まれ育ったんです。

Q:結婚されるまえから文子さんとはおつきあいといいますか、交流はあったんですか?

私は小さいときから英語を教えてもらっていました。女学校のときにも英語を習っていました。

Q:文子さんから?

文子さんから。

Q:女学校で英語を教えていらっしゃった?

個人的にです。

Q:結婚されるときは、文子さんと知り合いだったということもご縁になってるんでしょうかね?

いや、うち同士古くからの知り合いなんです。ですから、文子姉さんと、という訳ではないです。

Q:文子さんはどうして英語をご専門に勉強されてたんでしょう?

あの方は体が弱かったもんですからね。1番上の姉が大学行ったんですけども、女学校時代から体が弱くて、自分で勉強して英検とって、で、教えようと思っていたらしいです。

Q:体が弱くてということは、将来的なことを何か考えてということでしょうか?

そうでしょうね。とても弱かったみたいです。

Q:終戦のまえにはソ連の領事館にお勤めでいらっしゃった?

えぇ、そうです。日本語を教えていたんですかね。あれは、大臣のどっから言われたのかな。頼まれて、教えるようになりました。始めは英語で教えようと思ったらしいんですけれど、みんなが英語を知らないので、姉のほうがロシア語を教えるようになって、それで、ロシア語がだいぶできるようになったんです。

Q:どういう経緯でどなたの紹介でとか、そういう詳しい経緯は分かりますか?

なんか、私も忘れたんですけども、なんか州庁かなんかの関係だったかと思います。

Q:州庁っていうと? あぁ、関東州の。

はい。

Q:そういう行政機関の方からも、文子さんが英語を教えていらっしゃる人材で適任だっていうふうに判断されたということですか?

そうですね。なんか、なかなか居着かなかったらしいですけどね。姉が、日本語を教えるわけですからね。始めは、英語でと思ったけども、英語みんなできないので、彼女のほうがロシア語を勉強したわけです。

Q:その当時、日本とソ連の関係とかですね。大連という土地柄、ソ連の領事館があったんだと思うんですけども、文子さんやっぱり領事館で働くということで何か日ソの交流というのを意識してらしたんですか?

あんまりなかったんじゃないかと思います。

Q:ほかになにか終戦前に領事館のお仕事の関係のことでお話をお聞きになったことはありますか?

別にありませんねぇ。なんか、姉はね、なんかやっぱり報告出してたようなんですけどね。それは内緒だったんだと思いますね。

Q:報告っていうと?

領事館の中のことなんかを。

Q:どちらに報告していたんですか?

頼まれたとこですね。州庁のほうに。

Q:文子さんは領事館の仕事に行くときはご自宅から通ってらっしゃったんですか?

えぇ、そうです。

Q:日常的には生活はご一緒に?

あぁ、そうですね。

Q:義理のお姉さんということですね

そうですね。

Q:どんなお姉さんだったですか?

優しいお姉さんでした

Q:体が弱いということを感じる場面もあったんですか?

それはもう小さいときから、女学校時代から非常に弱かったらしいですね。

Q:そのときの経緯ご存知でいらっしゃいますか?

なんか、うちに来たときには私と妹はソ連の軍人が一緒に来たもんですからね。うちととなりの間に隠れて、窓からちょっと見ていました。そうしたら何か用意するのに、なんか姉は弱かったもんですから、薬か何かをだいぶ持ってったようでしたね。ほに着るものとかそういうものは持って行きませんでしたし、そんなに長くなるとは思わなかったと思います。

Q:お姉さんがソ連兵と一緒に?

はい。

Q:そうですか。どこから来たんでしょうかね? 

どこからっていうと?

Q:勤め先から一緒にきたんでしょうか?

そうですね。うん。

Q:そのときはそんなに長くなると思わずに出かけられて・・・そのとき家族の方はどんな雰囲気だったんですか?

私と妹はとにかく逃げていませんでしたから。なんか母がオロオロしながらなんか薬やなんかをね、探していたようでしたけどね。何を持っていったかよく分からなかったんですけど。

Q:ご自宅に一緒にお住まいでいらっしゃったのは、ほかには何人いらっしゃったんですか?

うちの主人がいましたし、あと両親がいました。

Q:文子さんのご両親?

はいはい。

女性(房子さんのめい):ソ連は戦後入って来たわけでしょ? 戦後っていうか戦後のちょっと前か。9日に来たって言うのよね。でも大連まで来るのはちょっと時間かかったでしょうね。

そうね。

女性:あれ何日とか書いてあったかな? どっかに書いてあるはずですけどね。

女性:日本人と一緒に来たの? その人は日本人だったの?

ううん。向こうのロシア人。

女性:でかい人が来たの? 一緒に。

女性:軍服着てました?

確かね。

女性:じゃあ、憲兵ですかね。ソ連のね。

そうでしょうね。

女性:それが入ってきてたのね。

女性:それでたぶん大連市長の毎日、ちゃんと朝から晩まで仕事に行ってたかどうか知らないけども、勤めてたときに憲兵がきて連れられたんじゃない?

そうだよね。

女性:そしていったん、向こうの事務所みたいなところで何か話を聞かれて、それから家へ薬がいるって言われて取りに行ったんじゃないですか?

そうでしょうね。何か必要なのものを持って行く。本には洗面道具なんかって書いてありましたね。

女性:おかあさんが心配して・・

私なんて外にいるから何を持って行ったかというとちょっと分からないですよね。とりあえずいるものをってことで、その長くなると思わないから、着替えとかいうのでなくてね。とりあえずいるものっていうのを持って行ったんだと思いますよね。

女性:その後なんか綿入りみたいなのを・・。

かいまきとかね。それは持って行ってた。差し入れです。それはずっと持っていたみたいね。

Q:シベリアに、ソ連にいたって分かったときのことなんかはご存じでいらっしゃいますか?

それは分からない。

Q:帰ってくるまで?

そうですね。なんか本によると姉は大連のほうに手紙を出そうと思ったけど、「大連には日本人いない」って言われて、それで姉の東京にいる場所に知らせたかったんですけど住所が分からなくて、信州のおじのほうに出したらおじのほうから東京のほうに連絡があってみんなびっくりして喜んだってことは書いてありましたけどね。

Q:それまではみんな、ね。

10年もね。弱い人が元気でいるとはちょっと思えなかったんでびっくりしたくらいでしたね。

Q:それまではどう思っていたんですかね? ずっと行方不明っていうか。

全然分からなかったですね。

女性:今どうしてるかとかね、とかそんな話した?

あんまりしなかった。みんなそれぞれにそんなに元気でいると思わなかったでしょうね。

大連の港が近かったからみんな荷物は随分持っていたんですよ。それから布団なんか持っていた。それで私はリュックサックに日本に帰ったら売り食いしようと思って着物をいっぱい入れていたんですけどね。ソ連の兵にとられまして着物をとられたんです。けど帯は盗られなかったんですよ。向こうでは必要なかったと思う。ですから帯のいいのは持って帰って役にたちました。

女性:そのときに文子おばちゃんのものとか。

文子おばちゃんのものは持ってこなかったと思う。あのときはほんとに布団まで持ってきましたもんね。布団の中にお金を入れて持ってきたような気がしました。

Q:お母さんは文子さんと会えたんでしょうかね?

会えた。

女性:おばあちゃんはおうちに来て、それからだいぶたってからハガキが行ったわけですからね。それですぐに連絡があって、みんなびっくりぎょうてんして・・・おばが迎えに行ったわけです。舞鶴。それが写真、新聞に乗っかった。

Q:お母さんだけでも会えてよかったですよね。

女性:文子おばちゃんは帰ってきておたくに行ったんですか?

いやうちに一緒ではなかったですね。

女性:そう。

Q:これ文子さん何歳ぐらいですか?

ちょっと分からないですけど。これなんて書いてあったんだか・・・昭和5年って書いてある。

Q:おさげっていうか、ここ三つ編みにしてこう、編んでますね。

姉ですか?

Q:はい。

まだ若いわね。

Q:普段生活していらっしゃるときもこんな格好ですか?

着物でしたね。まだね。・・・洋服だったかな? なんか服の覚えがないわね。

Q:ソ連兵と一緒に薬を取りにいらっしゃったときも着物姿ですか?

洋服だったでしょうね。そうですね。そういえばね。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1920年
(赤羽房子さん)大連に生まれる
1937年
弥生高等女学校を卒業後、東京の御茶ノ水家庭寮に進学
1943年
東京で結婚し赤羽家に入り、翌年、夫の転勤で大連へ。大連で終戦を迎えた後、1947年2月に帰国
1909年
(故・坂間文子さん)大連に生まれる
1929年
神明高等女学校卒業後、ソ連領事館で日本語教師として働く
1945年
8月、ソ連軍に連行され、シベリア(チタ、アクモリンスク/現・カザフスタンのアスタナ)に抑留される。1955年に帰国

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