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タイトル 「母と姉が抑留された」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 ヴァレンチーナ・トカチさん(シベリア抑留 戦地 樺太  収録年月日 2014年6月19日

チャプター

[1] チャプター1 樺太(現・サハリン)に生まれ育つ  05:33
[2] チャプター2 1945年8月、ソ連軍侵攻  04:48
[3] チャプター3 取り上げられた母の資産  02:33
[4] チャプター4 少女時代  04:12
[5] チャプター5 母の帰郷  02:55
[6] チャプター6 生まれ故郷に戻らなかった姉  02:52
[7] チャプター7 再会と墓参  02:19

再生テキスト

Q:子どものときのお名前は森博子?

はい。

Q:生まれたときはお父さんが一緒にお住まいでしたか?

ええ。父は一緒に住んでいましたが、私が8歳の頃に、父は病気になって、治療のために日本に帰りました。そして日本で亡くなりました。

Q:子どものときは日本の国籍ですか?

ええ。日本の国籍でした。でもそのことは知りませんでした。1995年に姉の所に行く前に、ビザの申請で日本領事館に行ったときに、私の国籍が日本だと言われました。それまでは、全然知りませんでした。

Q:その前はロシア人だと思っていたんですね?

はい。実際は二か国の国籍になっているんです。

Q:二重国籍、今はカザフスタン国籍ですか?

はい。カザフスタン国籍です。

でも姉から言われたのは、「私が死んだら日本にある記録の名簿(戸籍から)消してもらわないといけない」、日本にめいがいますから。実際それがどうなっているかは分かりません。もうどうでもいいことです。

Q:子どものときお住まいだったのは樺太の保恵(現・サハリンのブユクリ)ですね?

はい。

Q:その当時は日本領になるわけですね? 樺太。

はい、そうです。1945年までは日本のものでした。1945年からはソ連領になって、国籍もソ連になりました。

Q:(日本語)子どものときは日本の学校に行かれたことがあったんですか?

(日本語は)少しは分かります。お姉さんのところに行ったときは日本語がだいぶ通じるようになりましたけど、もう忘れてしまいました。

Q:その当時保恵に住んでいて、日本人っていう意識とソ連人っていう、その辺が分からないんですけど。家庭がどういうふうに、日本人として生活していたのか?

あまり意識していませんでした。・・・それはまだ小さかったからです。お母さんがいてきょうだいがいて。それがすべてでした。1941年に戦争が始まったときは、私は11歳でしかなかったですから。それ以外は覚えていないんです。何を覚えているって言うんでしょう。

Q:家の中ではロシア語でしたか?

ふだん母はロシア語で話していました。

Q:その学校は、博子さんのようなロシアの方とか日本の方とか生徒さんいろいろ混ざっていたんですか?

私たち以外誰もいませんでした。

Q:あなたたち以外に誰がいなかったということですか?

つまり私たち以外にはロシア人はいなかったということです。母がロシア人でしたから。
あとは日本人の子どもでした。

Q:誰も?

ロシア人は私たち以外にいませんでした。保恵という町を作ったのは父でした。彼がはじめに家を建て、それからほかの人たちが集まってきました。父はどのような仕事をしていたのかよく分かりませんが、何か大使館関系だったのではないかと思っていますが。

Q:リディヤさん(ヴァレンチーナさんの妹)は、(父親は)生物学の研究者みたいなことおっしゃっていましたよね?

そのような感じはしますが、具体的なことは全然分かっていません。日本に行ったとき、父の親戚の人が来て、(その人が父と)どういう関係だったのか詳しく分かりませんが、(その人も)以前北サハリンに住んでいたそうです。そしてそのとき(日本に行ったとき)はいろいろ教えてくれました。父の家族は一般的な家庭ではなくて地位のある一家だったようです。そのとき親戚が教えてくれたのは、場所はずっとその家族の所有でしたが、だんだん売ってしまったそうです。

Q:お父さんとお母さんは仲よかったんですか?

よく覚えていませんが、これだけ子どもがいたのですからきっと仲よく生活していたんでしょう。

Q:1945年にソ連と日本の戦争が始まりますね。そのときのことを覚えていますか?

もちろん覚えています。私は1931年生まれですから・・・1941年には10歳。だから1945年のことは(14歳になっていますから)よく覚えています。

終戦後はだいぶ苦しい時期になりましたね。母と姉は逮捕されてしまい、私たちは誰にも必要のない存在になりました。しかも住んでいた国が突然違う国になってしまったのですから。いろいろ苦労しました。新しい国家ではいらない人たちになってしまいました。

Q:お姉さんとお母さんが逮捕された理由はなんですか?

母は北サハリンに住んでいたときは富裕層でした。未亡人でした。その後、父と結婚して一緒に南サハリンへ逃げたんです。そして1945年はソ連が来て、母を逮捕してしまいました。

Q:国境を越えたのが理由ですか?

母は結婚したから移住したのですが、けれども当時は理由が必要であれば、作られる時代でした。例えば、姉が逮捕された理由はロシア語を勉強していたからです。

Q:理由が作られるっていうのは、逮捕される理由が作られるっていう意味ですか?

はい、そうです。

Q:そういう、罪の無い人が罪を着せられた時代ですよね。

そうですね。罪を犯したという理由ではなくて、ただ逮捕することが目的でした。

Q:お母さんとお姉さんが逮捕されてから、残ったきょうだいはとても悲しかったと思うんですけど、どんな様子でしたか?

おなかをすかせて眠り、おなかをすかせて起きて・・・そんな生活でした。

Q:家にそのまま残っていたのですか? それとも・・・

爆撃が始まったときは2日間の食料を持って逃げるように言われました。そしてどんどん連れていかれてユジノサハリンスクまで(旧・豊原)まで移動しました。そこで母と姉は逮捕されて、連れて行かれました。私たちはそのまま取り残されました。もともとの家は残してきたままでした。

Q:お母さんとお姉さんが逮捕されたのはユジノサハリンスクですね?

はい。姉は通訳として働いていました。先に母が逮捕され、次に姉が連れていかれました。

Q:逮捕されたのは、ソ連軍の人が迎えにきたのか、その様子を覚えていますか?

覚えています。軍人が来て逮捕しました。

Q:当時住んでいた住まいでですか?

そうです。

Q:子どもたちだけ残されたのですね?

兄は最初は南のほうへこなかった。あとから来たんです。私とリディヤ(妹)と、ほかの姉妹と4人残っていました。2人の姉妹は違うところに移住して、私は妹(リディヤ)と2人で住むようになりました。そのとき私は働き始めました。戦後で賃金はとても安かったんですけど、何とか頑張って生活していました。

Q:離れた場所に住んでいたお姉さん2人はどちらに行ったんですか?

(2人の姉たちは)それぞれ自分の将来を考えて、違うところへ行ってしまいました。

Q:お父さんの親戚や日本にいた人たちは助けてくれなかったのですか?

戦後の日本にしても生活がだいぶ大変だったでしょう。だからお互いに助けあう余裕はなかったと思います。自分たちの生活で精いっぱいだったのではないでしょうか。日本だって大変だったでしょう?

Q:2つの国籍で結婚した家族で、その2国で戦争したから本当に大変でしたね。

はい、大変でした。母はお金持ちだったので、いつも追われていました。ソビエト政権では裕福な人は逮捕されましたから。だからどこかへ逃げなければならなかったのです。それで父と出会って結婚したのです。子どもを救うために。最初の結婚で2人の子どもがいました。彼らもどこかへ逃げてしまいました。姉は、アメリカに行ったようです。兄は満州(現・中国東北部)に行ったらしいです。そこで行方不明になりました。戦争でしたから。サハリンから満州に、近所の人たちと一緒に仕事をしに行きました。最初のうちは手紙も届いていましたが戦争が始まってそれもこなくなってしまいました。

Q:富裕層が追放されたっていうのは、ソビエトの政策だったんですね。お金持ちは皆、物を没収されてどこかへ流刑されるというような。

はい、母は最初の結婚のときから裕福でしたので。

Q:その前は北サハリンにお住まいでしたよね?

アノールというところでした。私はその町のことは知りません。知らないところです。

Q:お母さんの家はなんの仕事で裕福だったのですか?

一人目の夫が裕福でした。

Q:ご主人が裕福だったんですね。

(話しておくべきことは)一人目の夫は第一次世界大戦に行って、そこでけがをして、後に亡くなりました。そして母は2人の子どもと残されました。そこで革命が起こり、つけ狙われるようになってしまったのです。裕福な人は嫌われる存在でしたから。

私たちはまだ小さくて、監獄にいる母と姉のところへ行ってもいいということは全然分かりませんでした。誰も教えてくれませんでしたし。けれども1回だけ会いました。そのときは、兵隊が1人来て、案内してくれたのですが、そのときはきょうだいみんな行って、お母さんとお姉さんと会って、そのときは初めてユジノサハリンスクにあった監獄へ行ったんですけど。お母さんと姉もいて一緒に話はできました。

彼女たちはその後シベリアへ送られ、私は結婚しました。シベリアの収容所から手紙が来ました。けれども当時私たちはあまりそれを言わないで隠していたんです。政治についてなにも知識はありませんでしたが、ソビエト生活をだいぶ味わったので、何も言わないほうがいいと思っていたのです。母が解放されたとき初めて、母が粛清されたということを周りの人が知るようになりました。その理由はどこにあったのかとか、いろいろ詮索されましたが、私たちは何も言わない方がいいと黙っていました。

Q:何の理由を? 誰が?

周りの人たちが勝手にいろいろ粛清の理由を勘ぐっていたんです。でも私たちは黙っていたんです。政治が分からなくて恐かったから。

・・・名誉回復が行われても私たちは最初分からなかった。夫の両親も、名誉回復があったということは何も分からなかった。その後、国から補償金をもらいました。

名誉回復がはじまったのはスターリンが亡くなってから。フルシチョフ時代でした。

私たちはずっと黙っていました。

Q:私が今聞くと、ロシアの歴史っていうか、時代にお母さんは追われ、また次の時代、日本と戦争が終わってからも逮捕され、また次の時代が来てまた抑留にあって。本当に苦労されていますよね。

そのとおりですね。

革命の後もいろいろ悩んでいましたし、終戦後も理由なしに逮捕されたんです。

笑い話ですが、国からもらった補償金はとても安かった。けれども、それをまだ生きている子どもたちのあいだで分けて、妹は日本の姉にも送りました。そのとき私たちは小銭のような金額を見て笑いましたよ。

Q:名誉回復ということは、無実の証明がされたということですか?

そうです。

Q:名誉回復されて、理不尽な粛清だったと証明されたのですね。ご自身の気持ちとしては・・・

悔しい思いです。何も罪がないのに、どうして逮捕されたのか。

Q:お母さんが解放されたのは何年ですか?

1958年頃だったと思います。はっきり覚えていませんが、けれども、娘が1954年生まれですね。お母さんが帰ってきたときは娘は3~4歳でしたからね。

Q:長かったですね。

それは母も姉も、だいぶ長かったですね。それで1950年代にはご存知のようにいろいろ改革があって、日本との交渉が始まって、日本の抑留者が帰還させられたし、粛清された人もだいぶ解放されるようになりました。姉はソ連には住みたくないと日本へ行ってしまいました。母は子どもたちのところに帰ってきました。

Q:お母さんが帰って来たときはどんな様子でしたか? 10年以上離れていましたけども。

母からは手紙も来ていましたし、新聞やラジオでももうすぐ母が解放されるのは分かっていました。それで、サハリンのコルサコフ(旧・大泊)という港に、出迎えに行きました。最初、私は母の顔が分からなくて・・・

Q:分からなかった?

分かりませんでした。

Q:お母さんのほうは?

母も私たちが大きくなっていたので・・・

Q:お互いにどうやって分かったんですか?

どうして分かったんでしょう、なんとか分かりました。

母と会って、自分のところへ連れて帰って、ずっと一緒に住んでいました。

Q:お母さんとお姉さんはユジノサハリンスクで逮捕されて、そのあとシベリアに送られたんでしょうか?

シベリアのほうは・・・どこか覚えていません。いつも手紙をくれていたのですが。

Q:彼女たちは同じ収容所だったのですか? それとも別々?

多分同じだったのではないでしょうか? あまりそのことは気にしていませんでした。当時はそのことについてはあまり深く詮索しませんでした。黙っていました。でもどこでしょうね。(タイシェットの近くの)タイガと聞いたと記憶しています。日本人の抑留者がいたところと同じところだったようです。

Q:お姉さんですが、シベリアで解放されてから、サハリンに戻らず日本に行ったのはなぜですか?

分かりません。そのほうがいいと思ったのでしょう。たぶん姉はこれからもつけ狙われるのは嫌だと思ったのではないでしょうか。嫌だったのだと思います。姉は実際、ソ連に住んだことはなかったですから。ソ連時代は収容所生活でした。つらいソ連の日々より、慣れ親しんだ(樺太時代の)日本を選んで、日本に行ったのでしょう。

Q:日本の生活に慣れていたというのはどういうことですか?

1945年までは私たちが住んでいたところは日本領でしたから。

Q:お姉さんが逮捕されたときは何歳?

21歳でした。

当時の21歳の女の子は子どものようでした。逮捕されることに対して何ができたのでしょうか。

Q:通訳をされていた?

はい、姉はロシア語を勉強していましたから。

Q:どこで誰の通訳していたのですか?

終戦後ですから詳しいことは分かりません。でも姉がロシア語ができるということは知られていたのでしょう。でも通訳で働いていた時期はそんなに長くはありません。

逮捕する理由は作られたものです。

当時は彼女たちだけではなく多くの人が逮捕されました。

スターリン時代のときは多くの人が粛清されました。

スターリンが1953年に亡くなって、釈放されたのは1958年のころだったでしょうか。

Q:お姉さん、若いのに苦労されましたね。

何か罪をしたわけではないのに。だから、ソ連に残りたくはなかったのでしょう。

先に日本に帰ったのは病気だった姉の夫でした。病気の抑留者をみんな集めて先に日本へ戻されたんです。彼女はその後でした。

Q:戦後お姉さんと会ったのはこれがはじめてですか?

はい、そうです。

(妹の)リディヤと、その息子です。これもそのときの写真です。

別れてから40年後会ったときはとてもうれしかったです。いろいろ話もしました。

Q:当時、ロシアが大変だったということが分からなかっただろうし、あえて話そうとはしなかったのですね。

当時のソビエトの人は、黙ることに慣れていましたから。彼ら(日本の親戚)には理解しづらかったかもしれません。

お姉と会って、父の墓参りもできて満足でした。そのときは「お父さん、来たよ」と話しかけました。とても満足しています。観光などは何もいらなかったんです。いちばん会いたかった姉に会えましたから。

Q:やっぱりお父さんの写真をこうやって飾っていらっしゃるんですね。

偶然見つけたんです。住んでいた保恵から南のほうへ移動するときは、急いで取るものを取って出ましたから。

Q:お父さんの写真をこうして飾っているということはお父さんのことを今でも思っていらっしゃるのですね。

もちろん。父親ですから。

Q:お父さんが日本人だということはどのように意識されていますか?

父は父ですから。無二の存在です。

Q:国は関係ないということですね。

日本人にしてもアメリカ人にしても黒人だったとしても、父は父です。

Q:少し顔が似ていますね。

そうですね。似ていると言われます。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真1945年(昭和20年)8月9日、ドイツ降伏後の対日参戦を英米と密約していたソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州、樺太、千島などに相次いで侵攻しました。
樺太(現在のサハリン)では終戦後、集団引き揚げなどにより一部の人々が本土に引き揚げましたが、戦後の混乱で日本に帰れず、樺太に留まらざるをえない人もいました。

ヴァレンチーナ・トカチさんは1933年、樺太の保恵(現・サハリンのブユクリ)に日本人の父親と白系ロシア人の母親との間に生まれました。早くに父親を病気で亡くしたヴァレンチーナさんですが、ソ連侵攻後、スターリン政権のもと、母親と長姉がいわれの無い罪を着せられ逮捕、シベリアの監獄に送られました。1953年にスターリンが死亡し、1955年に母が、1956年に長姉が解放されました。

証言者プロフィール

1933年
樺太の保恵(現・サハリンのブユクリ)に日本人の父親と白系ロシア人の母親との間に生まれる
 
病気のため帰国していた父親は終戦前に死亡
1945年
8月、ソ連軍侵攻。その後、母と長姉が抑留される
1955年
母が解放されサハリンへ
1956年
姉が解放され日本へ
1980年代
カザフスタンに移り住む

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