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タイトル 「旧ソ連に残留した56年間」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 三浦 正雄さん(シベリア抑留 戦地 樺太 カザフスタン  収録年月日 2014年6月10日、11日

チャプター

[1] チャプター1 国境侵犯  06:49
[2] チャプター2 逮捕された人々  04:07
[3] チャプター3 忘れられない女性の姿  03:12
[4] チャプター4 収容所で亡くなった女性  02:25
[5] チャプター5 刑期を終えても  02:43
[6] チャプター6 孤独と不安  11:31
[7] チャプター7 遠い祖国  02:33
[8] チャプター8 ソ連で築いた生活  05:40
[9] チャプター9 68年の歳月を経て  03:41

提供写真

再生テキスト

(戦後、北海道稚内の)大岬のところで働いてたんですよ。昆布とったり。窪田さん、私の、これはお父さんのいちばんの友達だったんですよ。彼のところに住んでいたのは・・・。1945年と思います。樺太(現・サハリン)から大岬まわって、そのときに1年待っても、私のお父さん、お姉さん来るかなって、サハリンから日本に。何回も私あの・・・何回も港に見に行きましたが、彼らはいつになっても戻ってきませんでした。その後、ある日、あれは確か8月15日だったかと思います(実際は7月末のこと)。何人かがうちに来ました。いまはもうはっきり覚えていませんが、5~7人くらいが訪ねてきました。彼らは窪田さんに「ボートを貸してほしい」と言っていました。サハリンに行くために。エンジンも付いていない、ただのボートを。私は彼らがその話をしているのを聞き、「自分もサハリンに行きたい」と頼みました。

Q:お父さんたちがサハリンに行って帰ってこないから?

帰ってこないから。窪田さんは反対でした。(三浦さんが)サハリンに行くのは。「今ロシア(ソ連)だからロシアの軍隊に捕まるから行かない。行くのはだめだ」って話したんだけど、私は泣いて「お父さん、お姉さんに顔見てほしい」って。そのときは窪田さん「行け」って。

通訳/須田百合子さん:欲しいっていうのは会いたいってことですね。

そのときにこの女の先生といろいろ・・その(先生の)夫と、いろいろの人と私、小舟に乗って夜、サハリンに行ったんです。夜明けでした。

通訳:その女性は先生だったのですか?

そう、彼女は先生でした。彼女たちの両親がサハリンにいたんです。だから…

通訳:女性の両親?

彼女の両親です。(彼女の)夫は日本にいましたが、彼らは結婚したので、戦争が終わったから両親のもとへ行こうとしていた。それで私はちょうど彼らと一緒に行くことになったのです。

一晩中、必死でしたが、国境を越えたころでした。風が、強い風が来て、波が高くなって船がゴトゴト・・・小舟がひっくり返りそうになった瞬間もありました。恐怖で、一晩中入ってきた水をバケツで外へ捨てたりして、ちょうどみんな疲れ果てたころでした。サハリンの入り江に入ったらしく海面も静かになりました。みんな横になって寝ていました。不意に何かのエンジン音が聞こえました。頭をあげて見てみると、大きな船がいて、それはロシアの国境警備隊でした。

みんなロシア人だったですよ。軍隊の人たちは。一人の人は日本語少し話せた人(がいました)。

通訳:通訳さんがいた。

「どこから来た?」って言うの。「どこへ行く?」って言うの。私は「自分のうちに行くんだ。お父さん待ってる(から)」って。「何も分からない」って。「お前たちは逮捕された」と言われ、私たちの小さな船をつないで、サハリンのナイセというところ・・・大吠(樺太能登呂村)の近いところに、8~9キロメートルぐらいのところに、ナイセある。そこに連行されました。

通訳:ナイセっていうところ?

ナイセという場所があります。地図にも載っています。そこで私たちはみんな、あらかじめ用意されていた、半地下の建物(ゼムリャンカ/ロシアの半地下構造の土間の建物・壕(ごう)舎)へいれられた。私たちはそこへ座っていました。そしてその後、そこから連れ出されました。

ゼムリャンカ、穴を掘って作られたところで大体1週間くらいと思います。

Q:ゼムリャンカ、そういうところに入れられて。

窓はこれくらいのあるんです。軍隊の人は見てるんですよ。「立つのはだめ。寝てください。」みんなこうやって。1週間ぐらいこんなことですよ。これは大変ですよ。

通訳:「立つのも、座るのもだめ」って言われて、ただ寝てる。

立ったらこれ(小窓)を見ている軍隊の人がドア開けて「コラーッ」って、こんな(様子)だったんですよ。私じゃない。(隣の)男の人、大きい人たちは。

通訳:1週間?

1週間。

その後で能登呂村(樺太)ってあるんですよ。能登呂村の方に運んで。ロシアの小さい車、みんな乗って。窪田さんから、行ったときに、窪田さん「薬とかタバコとか私のお父さんにやってください」(って)。私がもらったんですよ。 そのときに来たときにお父さん(は)、道路のとこに出てきて、私、車に行ったんですよ? 全部5人6人の人が車に乗って。私、お父さん来たんですよ。「近いところに車、だめだ」って。ロシアの人が「だめだ」って。「近くに行くのはだめだ」って。私、お父さん(に)これを窪田さん言ったんだからもらってください(窪田さんから預かったから、父に渡してください)。軍隊の人、ロシア人(が)見て、「なにあるかな?」と見て。見たら、薬とかタバコ、そのときにこうやって投げて、お父さんにやったんです。それだけ。話するのは全然だめ。

私が(ウラジオストクへ)行ったときは、人は40~50人ぐらい。朝鮮人とか日本人、ロシア人とか、いろいろな人がたくさん乗っていました。真岡(現・ホルムスク)からウラジオストクまで。ウラジオストクで、バラバラでこの人は向こうへ行った。イルクーツクのほうとか私はマリンスキのほうに行ったの、いろんな人はどこへ行ったか分かりません。

Q:さっき言った女の先生ですね? 大泊から一緒に行った。その人はソ連行ってからもしばらくは一緒にいたんですか?

誰?

Q:その女の方、先生。

はい、私と一緒に真岡からウラジオストク。ウラジオストクで一緒に1つの汽車で。刑務車両というのがあってね、この汽車に乗ってこの女の人一緒に。2人ではない。14人、15人。日本人も1人の人もあったんですよ。

こうやって私たちをみんな留多加のほうに行って、その後で1か月くらいここのところで刑務所で住んで。その後で裁判だったんですよ。そのときに5人6人の人は大きい人(大人)だから3年です。私は子どもだったから1年6か月。私たち(刑を)もらったんです。それから1日の日に真岡のところに行ってロシアの大きい船にみんな、50人~60人ぐらい。船でウラジオストクに行ったんです。

3日。真岡からウラジオストク。食べるものを何ももらってなかったんですよ。一日ひとつの…バケツではなくて、タンクのようなもので水が下ろされてきて…

伊藤實さん:バケツ、バケツ。

7メートル、7メートル上のほうから地下の所まで7メートル。

通訳:地下にいたわけ、地下にいたのね。

水、船倉

船倉まで7メートル。このひもで水を。

通訳:船に乗っていたときのことですね?

そうです。船に乗っていたとき。

通訳:船で。

想像してください。50人~60人の人が水を飲む。全部1人はいって、こんなもの、何もあるか…缶詰の缶で水をくんで飲みました。食べ物をくれなかったのは、彼ら(警備員)を襲う体力を失わせるためでした。

その後、船が停泊したとき、縄ばしごを登らなくてはいけなかった。鉄製ではなくて、縄ばしご。ひものはしご。それを登る。私はまだ力が残っていた。まだ子どもだったから上まで登れたが、他の人たちは登れなくて、この辺りをくくりつけて、引き上げられていた。

通訳:それはどこへ着いたのですか?

ウラジオストク。

通訳:何日くらいかかりましたか?

3~4日でした。

Q:女の人たちは何人ぐらいいたんですか?

女の人は1人ロシア、2人日本の女ありました。3人の女(がいました)。この女の人の夫は私たちと一緒に収容所に行けませんでした。その後、船が着くと選別が始まりました。例えば、5~7人は別の方向へ、例えばコムソモールとか、ナホトカとか、ハバロフスクとか。そのときにこの女の先生は私たちと一緒に刑務車両に乗せられました。夫は、最後の瞬間に妻を抱きしめ叫びました。すると監視兵が飛んできて彼らを引き離し、投げ飛ばしました。彼女は泣き叫び、彼は別の方角へ連れて行かれました。そして彼女は私と同じ刑務車両に乗せられました。

Q:女の人は名前分からないんですか?

名前全然分かってません。もし分かっていたら…名前分かったらどこにいるか。

それは恐ろしい光景でした。妻が夫にしがみついている姿を想像してください、彼らは北海道で結婚して、子どもはまだいなかったと思います、まだ若い夫婦でしたから。それがこんな運命に見舞われるなんて。妻は夫と離れたくない、夫が抱きしめる、監視兵が2人を引き離して突き飛ばす。今でも目に焼きついています。恐ろしい。

その後、ウラジオストクからイルクーツクに行きました。イルクーツクに着く前に、アムール川があるんです。バイカル湖、アムール川ね。汽車がアムール川のすぐそばを行くところあるんですよ。そのときに1人の日本人が汽車で亡くなったんです。私に話したんですよ、日本人。今亡くなったあの人を投げたんですよ。アムールの川のほう。氷があったんですよ寒かったから。(氷点下)25度、30度だから。氷の方に投げたんです。このこと私の隣に座っていた人が、刑務車両ですから鉄格子がついていてね、その人が、「おーい、見てみろ、今人間が投げ捨てられたぞ!」と言ったんです。その人は病気か何かで死んだんでしょう。それで投げ捨てられたんです。そこは収容所ですから、法律なんてないんです。

朝8時みんな名前を、「ミウラ、ハマダ・・・」、いろいろな名前を「全部立ってください」。みんな仕事に行くんですよ? そのときロシアの軍隊の人が話をして1メートル左、1メートル右、すぐ鉄砲でやるってこんなことをもらって(こんな状況で)仕事に行ったんですよ。1日の日に、私仕事に行って戻って来たときに、そのときにこの女の先生が亡くなったんですよ。亡くなったときに「正雄さん、小さい私の兄弟」って、話してたんですよ。 「正雄さんどこにいる? 話したい」って。私いなかったんですよ。仕事に行ったんだから。何を話したいのかって思ったら、夫はどうなったか。うちの日本に帰って話して下さい。どんなことを欲しかったんだけど、私はうちにいなかったんだから・・・。その人は亡くなりました。彼女が埋葬されるために運ばれて行くとき、埋葬なんてもんじゃないな、ただ埋めるだけだ、あれは。

歩いていた私たち抑留者はみんな立ち止まって、ほとんどはロシア人でしたが、みんな帽子をとりました。私は「どうした? 何があったんだ?」と聞きました。一人の日本人が話をして「三浦さん。あなたのズナコーマヤ(知人女性)友達の女の人が今亡くなったって。これは私、聞きました。

刑期が全て終わったとき、つまり収容所で働いて、解放されて、カザフスタンに来たとき、しばらくしてから仕事を始め、ロシア語も話せるようになりました。読み書きもできるようになりました。そのときに私行ったんですよ。KGB(ソ連国家保安委員会)ってあるでしょ? KGBの大佐に。私、話したんですよ。ロシア語で。どうして私が、14歳なった、まだ未成年だったのに。(ロシアの成年は)16歳でしょ? 14歳だったときにどうして私は裁判にかけられたのか?と。するとKGBの大佐は「三浦さん」、じゃなかった、私はミハイルと呼ばれていたから、彼の方が若かったから「ミーシャ(ミハイルの愛称)、当時はスターリンの命令、スターリンの法律だったから、私たちは何もできなかったんだ。だから許してくれ」と言いました。

そのときに、私の小さいときの写真見たことあります? この写真はその人からもらったんです。

彼は私に「ミハイル、これをあげるよ」と言って、渡されました。いつ写真に撮られたのかも分かりません。

Q:写真今見せてもらってもいいですか? KGBの人にもらった写真。

これはカザフスタンの私の自宅でした。これはリンゴの木とか梨とか、全部この木は私の木。これは私と妻と2人で。これは孫。これは日本で、私の息子、今ここで車の会社で働いてる。ユキオっていう。これは私の娘の子ども。

伊藤:なんぼ? 年?

三浦:これは14歳のときですよ。1947年。47年。

通訳:戦後2年たってからですね。

私は働いていて夜も仕事から戻ってきて、夜寝るときに誰にも話、日本人たくさんいたんですよ。だけど話することはだめだ。私は仕事してうちに戻ってきて、ラーゲリ(収容所)戻ってきて食べる。これだけ。だから仕事して仕事して、いつ刑(が終了)になるか分からなかったんです、私。解放された日のことです。収容所で朝、私起きたら仕事に行こうかなと思ったんです。そのときにロシア人と日本語を話す人と2人で来て、「三浦正雄、今日から終わったんだ、ここで。仕事をするところは遠いところ、カザフスタンに行ってください」。

私は日本語で話したんだから。通訳の人が。私はカザフスタンって分からないんですよ。「どうやって行きますか? 分からない」「分かる。」「(とにかく)行ってください。」って言う。そのときはパンをもらって。スハリってなんて日本語で言うのかな?

通訳:乾パン。

乾パンをもらって5キロぐらい。それからオオモリって魚あるんですよ。湖のバイカルでとったオオモリ、オオモリを何分かもらったんですよ。カンに。・・・それからもらって1つの袋にもらって。行くってどこへ行くスタンツィア(駅)。マリンスキ駅まで。ロシアの軍隊の人「行こう」っていう。ロシアの人は日本語分からないでしょ?「行こう。」一緒に歩いて、3キロメートルくらい行ったんです。私は「いや、私は行かない、行かない、ここで一生仕事してここに住んでます」って言う。「いや、だめだ」と。「これからあなたは刑は終わったから行ってください」と。「残れません、私は。」「行け」って。スタンツィア(駅)に来て「今汽車が来るから、汽車来たらこの汽車に乗って下さい」。私は乗ったんだけど1つの紙をもらいました。例えば書いてあるでしょ。「日本人三浦正雄、1年6か月ここで刑務所で働いた。こんな紙と思います。これを私はもらった。あの人が「この紙を見せてください誰にも」。こうやって(身ぶり手ぶり)紙振って、私話分からないでしょ。紙を振って「この紙をやってください」こんなこと。私大体…思いました。それから汽車に乗ってどこへ行くか分からないんですよ。カザフスタン、ロシアのほうのスタンツィア・マリンスキ(マリンスキ駅)、ノヴォシビルスクと。ノヴォシビルスクの駅で乗り換えるっていうの。汽車のカザフスタンに行く汽車に。みんな乗ってるこの汽車でノヴォシビルスク駅まで来たときに、大体Uターンのところだったんです。汽車止まって私座ってるんです。みんなの人が私、汽車行かない。「乗って下さい。」例えばこんな話して、見ても私も、このひとつの袋の持って、乗りました。スタンツ、駅の小さい窓があるんですよ。みんな切符持ってなんかしてるかわからないけど女の人見てカンパンセール(切符にハサミを入れること)をしていました。私は切符も何もない。私はこの1つの紙だから。私、この女の人に、女の人見てから「カザフスタン、カザフスタン」。こういうふうに紙振って暗くなったら「夜になったら汽車が来るって」。こうやって(身ぶり)手振りふったんですよ。私どうやるか見ても・・・大体分かったんだ。

(この女性は)私(が)、食べ物もらった人だよ。あの、長い(移動の汽車で)4日くらい行ったとき、もらったこの女の人(に)。初めのときは1日、2日のあとで。あの人は自分にこうやって「ナターシャ、ナターシャ」、「私は誰だ?」(って聞いているのが)分からないんですよ。私、思った思ったら、「ナターシャ、ナターシャ、ナターシャ」今なら分かるよ。 そのときは「ナターシャ」何も分からない。私は「ナターシャ、ナターシャ」「マサオ」って。本当ですよ。

Q:名前が聞きたかった?

「私、マサオ。」「マサオ、マサオ」当時分からないですよ、あの人は。大体名前と思ったんです。こうやって行ったんですよ。

いやあ、日本人私一人だったです。だから大変でした。そのとき夜になって、何も電気なかった。1つ1つどこかにあったんだけど。みんな戦争終わってから、手もない人、足もない人たくさんの人が床に直接、寝ていたんですよ。私は何も持ってないんですよ。上着どころか何も持ってないからどこに寝るか分からないんですよ。ただセメント(の床)で寝たんですよ。みんなの人は古い布団とか、なにかやって寝てるんですよ。私は何も持ってないから。歩いて、歩いて、見渡して、空いている場所を見つけて、横になって眠りました。頭の下には、枕の代わりに、配給されたパン、乾パン、かたいパン、これを頭の方にやって(夜)11時、12時と思います。夜のところに寝ても眠ることできないんですよ。これから私はどこに行く、どうやるか誰もいない、こんなこと覚えて(考えて)心配して寝ることできなかったんですよ。そのあとであとで、少し眠った。そのときに誰かがこの袋を私のほう。ひゅーっと。頭が打った。その拍子に目が覚めて、何が起こったかさっぱり分からないんです。周りを見ると袋なんかない。私は日本語で「助けて、助けて」っていってもロシア人は誰も分からないんですよ。私大きい声で「助けて、助けて」どうするかと思ったの、今食べものなくなったんだ。私、いっぱい心配して大きい声で「助けて、助けて」って言った、その後で誰も分からない私の言葉を。朝明けて、ノヴォシビルスクの駅の前にツドメ・・・、バザールのことだよな? ツドメがあったんですよ。小さいツドメ。そのところに、たくさんの人がいろんなもの売っていました。トウキビ、煮えたトウキビ、パンとか、いろいろなスーツ(服)とか何とかズボンとか靴とかみんな売っていたですよ。そのところへ私行って、見てるんだけどこんなパンたくさん売ってるんだけど、あの伊藤さんは(刑期が)終わったとき、伊藤さんはお金もらったんだけど、私は1円ももらってなかった。この紙だけ。だから食べるもの売ってるんだけど、買うことはできない。そのとき立ってどうするかなって思ったときに、私見たら、私、解放されたときに収容所でもらった上着、軍用の上着、ほとんど新品で、ちょっと破れていただけの新品がありました。近くである人が、手に物を持って立って、それを売ろうとしていましたた。1人が近づいてきたが、ちょっと見ただけで何もせず去って行きました。2人目、3人目と続いて、ふと見ると、1人の男がそれをつかみ、金をやっていた(人がいたので)。私は、自分もこれ(上着)を売ってみようと思いました。

そのとき私もこうやって持ってるんですよ。1人の女の人が見ても買いません。私は立ってますよ。1人の男の人、大体今思ったら、50歳ぐらいの男の人、ロシア人。すぐとって、お金を。25円(ルーブルのこと)だったんですよ。そのときにはロシアのお金。25円お金を私にやって、これを服をすぐもって「おお、よかったな」って私思った。25円。この25円でなにを買うか、分からないんだけど。これは今パン買うなって思ったんですよ。トウキビ売ったり、ジャガイモ煮たのもたくさん売ってるんだけど、私このパンほしいなって思った。このぐらいの。パン。

『1950年代のはじめ、イリ駅(現・中国ウイグル自治区カザフイリ自治州)に特別列車が止まりました。それは日本人抑留者を日本へ帰国するための、極東方面に向かう列車でした。日の丸を掲げたその列車にはたくさんの日本人抑留者が乗り、ロシア語で「さようなら」にあたる、「ダズビダーニャ」。口々に喜色満面で、叫んでいました。私も一緒に日本に帰りたくて、列車に乗ろうとしたところ、日本兵の1人が、「この列車に乗るのは日本兵の捕虜だけだ」。「捕虜でないものは乗ることができない」と言われました。乗ることを拒否された私は、イリ駅に1人残され、祖国へ向かう列車を見送るだけでした。』これは1950年でした。

それは捕虜でした。

通訳:だいたい何人ぐらいでしたか?

いやあ、覚えていないな…。アルマトイで働いていた捕虜なら、彼らは“カズパトレブソユーズ”(大学名)を建てていたんでしょう。旧KGBの建物です。こういった建物はみな、彼らが建てていたんです。

Q:(列車に)一人ぐらい乗せられないんですかね?

伊藤:日本人、チアートル(劇場)も作ったんだろう?

通訳:彼女がね、あなたも一緒に帰りたかったのでは?と言っていますよ。

三浦:もちろんそうでしたよ。残る理由はなかった。

通訳:たった一人くらい、乗せられなかったのか?って聞いていますよ。

三浦:いいや。名簿があったから。

三浦:名前。誰と誰と誰と誰と。

通訳:厳しい、検査を受けなくちゃならないから、名前が載ってない人は絶対にだめ。

Q:でも、そのときはどんな気持ちでした?

そのときは涙だけです。何でもないです。ただ涙だけ。1人だからね。1人で。

Q:結婚は何歳のとき されたんですか?

結婚は32歳と思います。8月の大体・・・32歳だった。8月終わってから、私の誕生日は8月1日だから。8月終わって、妻はよく分かってるんだけど。そのときはコルホーズも終わりました。ソフホーズ(国営農場)もトラック働くの終わりました。車の運転手も、車の運転免許を勉強して6か月、運転免許をいただきました。そのときは、私話しても1962年のときは、8クラス、運転免許を取るのには、当時(8年生を)卒業している必要がありました。

そのときは1人の人がいたんですよ、主任技師、あの人が話して「三浦さん、君は何回も勉強することはいらない、あなたトラクターで運転したんだからこれは車と同じ。だから学校の就学年数は必要ない」(と言われました)。

そうやって私は6か月勉強してようやく運転免許をもらいました。今でも持っています。ロシアの。この運転免許で私が思った。人はよくなったらもう1度よく欲しいなと思って。このトラクターで何日も働くのいらないと思って。アルマ・アタ(現・アルマトイ市)に行ってタクシーでラボータ、働いて欲しいな(働きたい)って思ったんですよ。初めはベンザヴォース(ガソリンタンク車)、なんて言うんだ?ガソリンを運ぶ車のこと。

通訳:ガソリンの配達するそういう仕事。

ガソリン配達する大きい車で私働いた。1年ぐらい。そのあとでアルマ・アタに行ってタクシーに乗って、タクシーで働いていました。

アルマ・アタの、第3モータープールというところで。タクシー会社ね。

通訳:タクシー会社がいろいろあるんですけどその中の1つの会社で。

伊藤:会社いっぱいあったんですよ。

3番の会社で私、働きました。2年ぐらい働いて、その後で、カルガレー、伊藤さんのほうから近いところにカルガレーってあったんですよ。そのところでおっきい車、道路ストローイル(=造っていた)造る、中国のほうに道路を造ったの。この大きい車で私働いていました。

そのとき伊藤さんのこと分かってました。12キロメートルだから。

Q:アルマ・アタって中国と近いですもんね?

近いです。300キロメートル。私はこのものを持って、毎日毎日、行っていました。1962年のときは中国へ運転して行くときは、通行許可書が必要でした。でも私はパスポートがありませんでした。ですからKGB、KGBに行ったんですよ。そこで許可をもらった。特別な通行許可書をもらって、中国の国境を越えて行くことができました。その後で私働きました。その後、だいたい5か月くらい働いて、ソ連国籍を取得しました。

Q:ソ連の国籍とったのは19何年ですか?

(19)63年と思います。62年、63年だと思います。ちょうど、(19)64年にはニーナと入籍する予定だった。パスポートがないと入籍できないから。

仕事に就くこともパスポート取得に必要なことでした。

Q:それから結婚されたんですか?

そうです。結婚するときはパスポートがなかったらだめですから。

通訳:彼女のほうはパスポートを持っていたのですか? 彼女はソ連国籍だったのですか?

ええ、ソ連国籍でした。それからカザフスタンになりました。

通訳:それは知っています。当時の話です。

当時は、もちろんです。ロシア人。

(彼女は)ロシアのパスポートを持っていました。その後で私ももらいました。

通訳:調べたのは、刑を受けて亡くなった人の名前です。

三浦:それは……私と覚えているのは1人だけ?

Q:それで、マリンスクマルガロード。

三浦:マリンスクマルガロード。私は名前は分かって・・・名前は覚えていませんよ。マリンスク・・・あの人だよ。あの女の人。

Q:村上和子さん、30歳、教員って…

通訳:ここに、教員、30歳、名字は村上、と書いてあります。

三浦:あの人です!あの人です!今は分かっていますよ。あの人です、これは!違うの、女の日本人の(人)なかったんです。私よく分かりますよ。ロシアの女の人がたくさん入っていました。カズコさん。

通訳:教員。

学校の先生ですよ。

通訳:彼女は30歳だった、と。

Q:樺太と書いてあるんです。

三浦:はい。樺太で私と一緒に裁判した。この人ですよ!この人。

Q:亡くなった原因は、肺結核・・・

通訳:死亡原因は・・・

伊藤:肺結核だって。

通訳:肺結核。

最後に彼女が私に会いに来たとき、体全体が腫れていました。

通訳:彼女が亡くなったのは1947年だそうです。

亡くなったんですね?それなら確かだ。これは本当ですよ。私、これのところに書いていました。ここで。

通訳:同じ収容所、名字も書いてある、教師、サハリンと。全部ここに書いてあります。

私もここで言ったとおりでしょう。

Q:1947年5月って書いてあります。

三浦:はい、そうなんです。ビート…草をとったときに、もどってきたときにあの人亡くなったんですよ。村上。

伊藤:名字、村上。

三浦:夫は村上と思いますよ。あの人はどうなったか分からないですよね。この夫です、この女の人の夫。稚内から私と一緒にいたんですよ、この人…女の人。

彼女が私に何を言いたかったのか、それが分からず今も残念です。

三浦:戦争なかったら伊藤さん、こんなものなかったと私思います。

伊藤:当たり前や。

私は彼女の夫がどうなったのかずっと気になっていました。彼女は亡くなってしまったが、彼女の夫がどんな運命をたどったのか。生き抜いて日本に帰ることができたのか、帰れなかったのか。そのことがずっと気になっていました。

あぁよかった、今はっきり分かりました。たくさんの人が亡くなったんだ。

出来事の背景

【旧ソ連に残留】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)8月9日、ドイツ降伏後の対日参戦を英米と密約していたソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州、樺太、千島などに相次いで侵攻しました。
樺太(現在のサハリン)では終戦後、集団引き揚げにより多くの人々が本土に引き揚げましたが、戦後の混乱の影響で日本に帰れず、樺太に留まらざるをえない人もいました。
中には旧ソ連のスターリン政権のもと、いわれの無い罪を着せられ逮捕、抑留され、強制労働に就かされる日本人住民もいました。
抑留者の帰国は昭和22年から断続的に行われましたが、昭和31年10月19日の日ソ共同宣言で国交が回復したことを受け、最後の集団帰国が行われます。しかし、抑留中に犠牲となった人、その後も旧ソ連での残留を余儀なくされた人は多数にのぼります。

証言者プロフィール

1932年
樺太能登呂村大吠(現・サハリン)に生まれる。その後、父親は再婚のため別居。兄弟が出征し自宅に1人残される
1945年
終戦を迎えた後に、父親の友人と共に北海道へ渡る
1946年
7月、小舟で樺太へ向かいソ連軍に捕まり1年半の刑を受ける
1947年
出獄後、アルマ・アタ(現・カザフスタンのアルマトイ)で3年間の強制労働。帰国が許されず、漁師の後、トラクターの技師になる
1964年
ドイツ系の女性と結婚。猟などで生計を立てカザフスタンで最高位の国家資格を持つ漁師となる
2002年
永住帰国を果たす

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