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タイトル 「カザフスタン残留邦人」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 伊藤 實さん(シベリア抑留 戦地 樺太 カザフスタン  収録年月日 2014年6月10日、11日

チャプター

[1] チャプター1 機関士として働く  04:18
[2] チャプター2 居眠り  04:44
[3] チャプター3 逮捕される  04:59
[4] チャプター4 極寒の地での2年間  05:23
[5] チャプター5 見知らぬ土地への道  05:34
[6] チャプター6 村での生活  09:18
[7] チャプター7 刑期を終えても続く抑留  03:23
[8] チャプター8 旧ソ連政権下の日々  05:25
[9] チャプター9 日本人として暮らす  05:05

再生テキスト

(19)45年で戦争が終わって、そしてずっと機関士になったばかりで…蒸気機関車の機関士。18のときだったの。

次の年の46年の6月30日・・・今月の30日、30日に・・・29日に貨物列車へ行って、帰って来たの。朝。もう5時頃に帰ってきたの。終わって、もう夕方からずっと8時間やって、帰って来て。そして、朝、もう帰ろうと思って、機関庫に入れて、機関車を。そして、そこで洗ったり、あっちこっち掃除したり、いろいろして。帰ろうと思った途中、そのロシアの当番の人。その、なんて言うか副区長かな。その人に頼まれて。行ってくれって。「何?どこに行くの?」って言ったって、「仕事終わったんだよ、もう。家に帰るだけだ」って言ったの。でも、「行ってくれ。助けてくれ」って言われて。「何助けるの?俺は帰らなきゃならないから、他の人を呼べばいいんじゃないか」って。それをロシア語では言えなかったけども、大体そういうような言葉で言ったんだ。話を、ロシア語だって分からないし、日本語・・・日本語分からないし、あの人は。それでも、もうロシア語で、こう、「刑務所だ」と。入るから、「1分でも遅れれば、軍事裁判にかけられるから」って言われて。それでばかで行ってしまったの。考えて考えて・・・機関助手16歳。全部の石炭を片っぽの手で焚(た)くのよ。疲れてるんだよ。眠ってもいないし。腹も減ってるし。お腹すいてるし。そして、「どうしよう、行かない」って言うの。「絶対もう帰る」って。その人、断られたし、どうしようと思って。機関士だし、俺、上の方だし。機関助手より。「行こう、行こう」って頼まれて。そして、そのロシア人だって、何も食べてないし、疲れてるし、眠ってもいないし、仕事して帰ってきたばかりで、当たり前よ、普通交代するの。それでも機関車がここまで来て、それを駅まで・・・。「もう次に行かれないから、頼む」って。それで、馬鹿で行ってしまったんだ。「行こう」って言われて。「俺手伝うから」。

Q:ロシア人は何で帰らなきゃいけなかった?

ロシア人は、全部日本の人・・・戦争が終わったばっかりでね。まだ、交代交代にまだ日本に帰れなかったんだ。まだみんな住んでたんだよ。全部、町だったから。小っちゃい町だったけど。それで、住んでて、そして辺りもう全部家建ってるのよ、日本人の。そうして。そして、ご飯・・・おにぎりも何も考えてないんだよ、ロシア人。パンも何もないし。それで言ってきたんだよ。「行こう」って。

乗って、8時に発車して、それの駅から。そして、もう5分位前だったんだ、ちょうど。今でも思い出す。忘られないし。30日の、その1時5分前位。居眠りが始まったんだ。機関士だったし、座ってるし、仕事は。機関助手は立ってるし、こう。立って、石炭を焚(た)くのよ、こうやって。昔はこれだったの。今は分かんないけども。そして、焚いてて、もう5分前だ・・・ちょうど、駅が近いんだよ、もう。もう曲がり角で、信号見てみるって見てみたら、機関助手が焚いてないで眠ってるんだよ。居眠りしてんだ。こうやって、立って。2人とも。俺も居眠りしそうになってて、機関助手が居眠りしてんの。こうやって。起して、目で信号が見えないから見れって、向こう側を見たら、赤。すぐに停止をかけたけども、こうだったもの。坂だった。曲がり角で、坂だったし、全然止まらなくて、もう信号が見えて来た。赤。もう、10メーター、5メーター、3メーター、2メーター・・・それはいいんだけど、向こう側からまた日本のあれ・・・貨物列車・・・長い貨物列車。そこで駅に止まれなくて、こっちに来るの。それだから、赤。急に停止したの。もう半年以上やってたんだけども、もうこれ赤ってことなかったんだ。思ってもいなかった。入っていくだけだったら、停まればいいの、駅で。その赤になってしまって。そして、止まったのがちょうど、俺はもう信号・・・10メーターか・・・はっきり分からない。12~13メーターあるか・・・誰も計った訳でないけども、大体。そして、向こうから貨物列車が止まれなくて、ここにいて、止まったの。俺はもうこれは衝突だと思った。髪の毛ずっとこう上がって。帽子がこうなってたの。と思ったけども、そのときはもう駄目だと思ったの。それでも逃げなかったよ。座ってたよ。そして止まったの。そこは20センチあったか、30センチあったか、50センチあったか分からない。こう止まったんだ。衝突しなかったの。そして、すぐに、もう俺戻したの。信号の方へ。やっぱり、もう戻れない。戻してもだめよ。旅客列車だったから、もう。貨物列車が旅客列車だったから。

そして、向こうは信号まだ来なかったし。俺の所、こうなったから。向こうは大丈夫だったんだ。刑をもらわなかった。俺だけ。それ信号から出たっていうことで。何も衝突した訳でもないし、人を殺した訳でもない。機関車も何も傷みを受けてないのに。それで、その日はそのまま帰って・・・。アクト何ていうの? 須田さん・・・アクトって?日本語で。アクト(書類)

通訳/須田百合子さん:書類書かせた。

Q:始末書?

通訳:始末書でなくて、報告書でもない。自分が悪かったっていうの書かされるんですよ。始末書にちょっと似てますかね。

うん、それを書かせて、何ぼメートル大体・・・衝突しなかったっていうことが書いてあったんですよ。何か知らない。ロシア語で書いてあるけども、サインしたけども。それで、そのまま真っ直ぐ帰って行ったのよ、その駅。そして、夕方帰って来て、仕事から帰ってから、電話をもらって、「出てこい」って。そこで捕まったの。それで捕まって、連れていかれて、真岡(現・ホルムスク)の・・・警察でない、軍事、何て言うんだ。

通訳:軍のほう。

軍のほうの…。

通訳:鉄道ですから、当時きっと…。

軍の。

通訳:軍の方の裁判みたい。

そこに連れて行かれて、そこで夜、ずっと朝まで何も聞かないんだ。そして、座っていたんだ。「座ってろ」って。廊下で。朝までずっと。道路があるのよ。大きい、12~13メートルあるかな。道路。そこにみんな家が建ってるのよ、日本人が住んで、寝てるんだ。そこへ逃げようとも思わなかったよ、俺。大丈夫だと思って、何も、刑も何ももらわない。何も殺したわけでないと思って。それだけど、そこから豊原(現・ユジノサハリンスク)に次の日引っ張って行かれて。豊原で半年。6か月。刑が、毎日待ってたんだけど、刑をもらえなくて。裁判できなくて。そして、ある・・・何日だか日にち忘れたけど、6か月は、はっきり言えないけど、今では。

起されて、夜中。眠ったばかりなのに、夜中に起こされて。「起きれ、起きれ」って言われて。見ると兵隊が立って。これまで。そして、「ダワイ」(動作を促す言葉)って「起きれ起きれ」って言われて、起きて、そして「行こう」って廊下へ連れて行かれて、後ろに手を・・・。そして、「これから裁判だ」って言われる。誰もいないのに、どうして裁判やるんだよと思って。そして、それでいて、夜中に入ったら、裁判長、裁判をする人が一人。ロシア人。そして、隣に通訳。ロシア人が座ってるの。そこに入って行った。そして、「こんばんは」ってロシア語で挨拶して、その間、「あんたがこういうわけで信号から出たか」って「はい」って。「衝突はしなかったけれども」って言われて。「はい」って。実際のこと聞いてるから、「はい」って言ったんだ。「はい、それで軍事裁判、2年6か月の刑」って。「はい」って。どうにもならない。思ってもみなかった。涙は出なかったけれども。「はい」と思って、家に帰って…また部屋に戻されて、もう皆、罪人は板間に寝てるんだ。こうやって。・・・毛布も何もない。枕もない。みんなこう寝てるんだから。20人ぐらいだよ。みんなこうやって寝てたんだ。

そして、また戻されて、眠った。もう、すぐに眠ったよ。何も考えてもいない。その裁判…どんな裁判だかわからない。2年6か月もらったけども。そして、また起されるんだよ。「起きれ起きれ」って。また裁判だと思ったの。「文句言うな、黙ってろ」って言われて、行って。そして、連れて行かれて、また廊下。そして、車。まっ黒な、窓が全部こう、網っていうか。

Q:鉄格子?

鉄棒の。そこに乗せられて、そして大泊(現・コルサコフ)っていう港。そこに連れて行かれて、豊原からそこまで30分かかるか、かからないか。連れて行かれて、そこに乗せられて。誰も・・・一人だけだ。そして、降ろされて。そこで夜が明けたの。朝。もう裁判して、居眠りして、連れて行かれて、夜が明けたんだから。時間が分からない。時計も何も全部とられちゃったから。何もないんだ。そして、乗せられて、ウラジオストクに行かれてさ。3日何ぼ・・・4日目だな。着いたの。それから始まったの。人生は。こんなに長い人生を思ってもなかった。連れて行かれて、そしてハバロフスクまで連れて…ウラジオストクから3日・・・刑務所に・・・。そして、ハバロフスクに連れていかれて。

うん、フファイカ。ロシア語ではフファイカっていうけど、ジャンパー。それを着せられて、シャツ一枚だったの。一枚しかないんだし。その何もないし。そして、乗せられて、そこに連れて行かれた。一人でない。20~30人いたかな。30人かいないな。十何人、そこへ座って、こう。で、連れていかれた。何時間かかったか知らないけど、森林。木ばっかりこんな太い。ダーッと。25メートル、30メートルある、長い、高いやつ。そういう所に、収容所っていうのがあったの。そこに木で、丸太で作った、こういう家。

そこに連れて行かれて、そこで刑を過ごしたの。2年。そして、それはいいけども、冬だし、寒いのに、(氷点下)40度、41度…。「ダワイダワイ」って言われて、仕事。マイナスだよ。41度まで仕事させられるの。42度になると、「今日は行かなくてもいい。休みなさい」って言われて。そんな寒い…41度で仕事してたんだから。伐採ってあれ。こんな、2メートル位ある、この。のこぎり、2人で切って。そして、まさかりで最初やって、そして、まさかりで、これ位切って。そして倒れるように。そして、こうやって切ってさ。こっち、倒せるほうに倒して。そういう仕事をしてたの。冬、ずっと。春まで。

Q:その間、日本人は周りにいるんですか?

日本人は5~6人いたった。捕虜人の方から来たって言って。

Q:やっぱり刑で?

ええ、満州里(現・内モンゴル自治区)から。何かしたんだかしらないけど。何も話できなかった。朝鮮人がすごくてね、向こうからしたら、朝鮮人に「黙ってろ!日本人の・・・」ってもういじめられたんだ。こうやって。ロシア人より怖かったよ。朝鮮人。罪人なんだよ、その人たち。それで、もうみんな隅っこに座ってたんだ。何も「しゃべるな、日本人」って。

そうやって、春になって。春になると、暖かくなるから良くなったけど、仕事に行ってて、それであれ、パン。一日仕事して。仕事しないと、700グラム。一日の、一回分食べるの。

この黒パンがすごいんだよ。わらから何から、いっぱい小っちゃいの混ざって。いろいろあったの。そうでしょう?そして、食べて、何とか…それでも俺は良かったんだ。一か月位したら、何だか俺を責任者にしてね、連れて行って、25~26人だったか。ロシア人が「連れて行け」って言われて、そこで2人分食べないように、1人・・・見てて、数えて。何人全部食べたかって。そして、自分・・・くれるんだ、あの何て言ったっけ・・ブリガト・・・のあれ。班長か。班長いたったんだ。ロシア人。その人の命令で俺は頼まれて、その人にいっぱいいい所をついで、それを持っていくんだ。そうやって。俺に、「食べないで二人で食べよう」って言って、そこで食べたのはよかった。何ぼか。タバコもいつもその人はタバコ・・・班長が探すんだ。どこから持ってくるんだか知らない。タバコをそのときは吸ってたけども。そういうときもあった。そして、また冬、また夏、また冬・・・こうやって、もう2つ冬行ったか…もう2年だったから。そして、冬になってから、1月に刑が終わったの。6月から半年、12月まで・・・正月まで豊原の刑務所で6か月だったから。そして、それ2年だから。ちょうど1月から1月まで2年。

700グラムのパンの、1日分700。そうしてニシンの頭の方と尻尾だけそれ2日分だからそれ。おかず。パンのおかず。しょっぱいのよ。ちょこっとかじるとパンかじる。しょっぱくて食べられないんです。その11日分だか12日分もらったの。カザフスタン、アルマ・アタ(現・カザフスタンの都市アルマトイの旧称)行くまでに。それはもらったんだけどそれがノヴォシビルスクぐらいまで来たときにもう終わってしまって食べてしまってみんな。11日分。

しょっぱくて食べなきゃ水飲むだけで。そしてどうしたらいいと思って60ルーブルくれたのよ。それが向こうでバスがアルマトイからこうウジナガシュ(ウズナガシ)村かそこまで行くのに。それに60ルーブル、行くまでにも4日かかった。アルマトイまで。そしたらその間に途中泊まるでしょ? 駅に。パン買って。パンでない、ロシア語でレピョーシカ(小麦粉の生地を平たく丸くして揚げた物)っていうんだよ。パンでなく昔。人が来てこう市場みたいに、売ってるのよ、そこで。早くして列車から降りて。そこでたかってパンと牛乳、コップ1杯飲んで、パンが1つが1日分食べた。なんぼだ。10ルーブルだったかな?

「ここまで行け」って言われて着いたら夕方、日が降りるころだったの。そして天気のよかった、今でも忘れられない。そしてお金は2ルーブル残った。ポケットに入れてあったんだ。60ルーブルから58ルーブル食べてしまって飲んでしまって。駅について降りたら天気もいいしどっから行くんだかわからないんだから。すいません、日本語ではないけどロシア語で「すいませんどこに行ったらどうやって行ったらいいんだろう」って聞いてみたら「もっと向こうだ遠いぞ」って言われて。

どうしたらいいと思ってあんたどこへ行くんですかって聞いたらロシア語でカスケレンへ行くんだって。カスケレンって分かるでしょ。カスケレン、ウジナガシュ村とアルマトイの半分ぐらいなんだ。中間なんだ。こっから20キロくらいあるんじゃないかな?10何キロ。駅から。もう夕方だからどうしたらいいか。えーって思って。「すいません俺乗せてくれ」って。車の会長が誰だかわからないけど偉い人の車なんだそれ。「カスケレンまで連れて行ってくれ、わからないから。」乗れって言われて乗ったの。そしたカスケレンに降ろしてもらってそして雪降って来た。1月だから。

あっという間に雪、白くなったよ。あっという間に。どうしたらいい。どっちのほうだって聞いたらもう・・・ウジナガシュ村。「もっと向こうだ」って。20何キロ離れてる。30キロ近くあるって。聞いたら「まだ遠いからどうしたらいい」。誰か車探してバスないから今車探してついでに乗せてもらって。「はい」って言われて。その前にさ、運転手が「ルーブルくれ」って。ルーブル、10ルーブルでいいから。忘れたけどなんぼだったか。俺お金ないよって、罪人でお金60ルーブルもらったけどみんな食べてしまったちゅうあれで。

ずっとこう回ったら左側にカイナザールって村ってちっちゃい牛の牧場あるの。そこに行って暗くなったからどうしたらいい、班長か誰かこう偉い人に探してこれあげなさい、何とかしてくれるって。探して家見つけてそこに連れていかれて「こっち来い」って言われて。ドイツ人のおばあちゃんとそれからウクライナのおばあちゃん2人で住んでるんだちっちゃい。ベッドにこう2人で。ストーブあったしここの陰で「座れ、ここで眠りなさい」って言われて「はいありがとう」っていって、「眠れ」って言われたってベッドも何もないとこ。板でもなにもないし土で。黄色い土でやって、塗ってこういううちだ昔は。ズブリャンカってロシア語で。サマンって土でやったやつではなく、ただこうやって板をひいてそれ押して・・・作ったやつ。それが乾くとこれぐらいの厚さでこのぐらいの大きさ、上で。「そこで寝なさい」って言われたけど。

Q:そのころ、今のおじいさんとか、泊めてくれた警備の人とか会話どうやって?

ロシア語を半分ずつ。ドイツ人のおばあちゃんとかロシア語がはっきりしてるから。

Q:伊藤さんもそのころはロシア語少しは覚えて?

少しなんぼかこう話するだけです。名前何も分からないけど、あれこれもらうだけだ、やるだけだ、その言葉だけ知ってる。そして持ってきて、そこに敷いて眠ったの。朝になって、ちょっと食べさせてもらった。牛乳。牛搾ってたから。2、3日で帰っていくんだってウクライナに、おばあちゃん言ってた。そして牛乳飲んですぐ、眠ってしまった。ジャンバか?フファイカ、それかぶってそのまま寝たんだ。そして朝起きたら、俺たち私たちあなた何するの?食事やらないからねなんとかいってある。

ウプラヴリャーユッシー(管理する人)なんて?

通訳:管理する人。

その人に「行け」って言われてカザフの人。「どこに住んでる」って「今来るからそこに集まるから」って。本当にそこに行って俺こういうもんで食事言われて、おばあちゃんに言われたから「食事くれる?」って言われて。「はい」って言われて。書いて、ロシア語で「10キロずつやれ」って。何10キロ?・・・って何だっけ? 「トウキビ10キロ」って書いて。「ジャガイモ10キロ」、書くのはいいんだ。10キロって書いて10は読めるけど。そしてロシア語で何書いてあるか読めないけど10キロは読める。それ持ってったんだ。「どこさ行ったらいいの?くれる?」って。「向こうさ倉庫あるから、下の方に」冬だから穴掘ったこういうところに。もっと長いかな。そういうとこ2つあるのよ。こっち側とこっち側。「こっち側行きなさい」って言われて、その人が倉庫の責任者だから。・・・ってそこで言われて行った。行くっていってもその前にさ、「バケツ持って来いっ」て言われて「なんでバケツ?」「カルトーシュカ(ジャガイモ)、ジャガイモやるやつ。」「はい」ってそして行ったら、おばあちゃん「バケツ貸してくれ」って言われて。「ジャガイモくれるから」って言われて「はい」って言って。10キロって書いてあるんだけどその10キロが見たらこのくらいの山になっているんだ。すみっこに。その辺りは、それはいいんだけど、見てるので臭いのよ、辺りがすごいのよ。ネズミが走ってるんだよ。ネズミ。その前に1月の前にあったジャガイモが腐ってるの。もっとすごいの、臭くて臭くて。ネズミどころか、もうぐちゃぐちゃになってるの。日本語でいえば。ジャガイモこんなにちっちゃいんだけど見えないの。もうこんな山盛りになってるような、わけわからないの。「こっから探しなさい10キロ」っていう。「探しなさい」って言ったって何あるかぐちゃぐちゃになってる分からないの。

みんなああここに丸いの1つ見つかった。このくらい。鳩の卵みたいなちっちゃい。鶏のこんなんでない、そんなのをもう集めて、こう触って丸いと思ってつかんで入れるだけで。そのうちいろんな汚い物全部入っていくし、洗ってるわけでない。1つ1つ。山盛りになったら「もうたくさんだ、もう10キロある」って言う。その人が。責任者。たくさんたくさん。ありがとう、「スバシーバ」って言って持ってきた。これ10キロ?これジャガイモ?びっくりして。いや、すごいね。こんなジャガイモ人間にくれるんだからって。しょうがないから「何とかしてくれ」って言って。それをすぐ洗ってくれて、見たら1キロ半。2キロなかったね。じゃがいも。きれいな洗ったやつだけ。2キロなかったよ。1キロ以上あったかな? それを煮て「もっていきなさい」って。「トウモロコシもらってこい」って言われてもらってきたの。トウモロコシもそうなの。こっちの暗い所で何も電気も何もないのよ。灯油のつけた、こういうランプあった。それでもってこうやってみて「ここだ」って。見たらほんとにネズミだらけ。食ってるの。そこで食べてるのよ、そこで。食べてるのはいいけども。おしっこしたから臭くて。もうすごい言葉に表せないよ、びっくりした。こんなもの俺食べなきゃならないんだって思って。

Q:伊藤さんみたいなシベリアから刑が終わったっていう証明書1つでよその人がくるわけですよね?

俺1人来ただけでそこへは誰も来てなかった。三浦さんはどこか全然違うとこで。阿彦さんも1000キロ離れたところで誰がどこにいるか知らない。いつも暇なとき、暇ってわけじゃないけど思い出すと、日本に帰りたい、どうして俺こんな苦労しないといけないと思って。日本に帰りたい。母親、兄弟どうしてるかと思って。いつも涙が出てきた、泣いてた。出てくるの。なんでこんな、俺、何をしたんだろうって。そしてそういう長くなるけども、そういうふうに仕事して夏、冬もそうだし2年間、そこでカザフで暮らしたけど石けんっていうの見たことないよ。洗ったこともないし石けん、見たことないから洗えないし。帰ってきたら食べて寝るだけで、何ももう汚い話だけど、シラミだらけです。2年間だよ? 風呂も入ってないし。ただ子牛と一緒に水飲んで、山できれいな水出てくる。冷たい水、夏は。ほんとに冷たい。足入れるとはだしで冷たい。山のきれいな水でそこ飲んで、それで洗うだけで。洗うだけって、石けんも何もない、こするだけで。それも時間もないし。逃げないように子牛見てるんだよ。そういう時代だった。

Q:伊藤さんが働いてるところの牧場主っていうか、そういう人は、伊藤さんみたいな遠く、シベリアで刑を受けた人を働かせるような、そういう仕組みになっているんですか?

そうでないよ。俺は特別誰もいなかったから、食べるものもなかったから、そこで食べさせて着るもの着せられてくれるもの着ただけで、ただ仕事してるだけで。まじめに。ばかで。日本人の特徴そうだった、そうだと思ったって逃げられないし。アメリカや日本の言葉出せないし。またつかまって刑務所入れられるかと思って。そういう時代だった。全部我慢してた。文句も言わずに着るものあるものそうやってくれるものくれたらありがとう。お金だって見たことなかった。店も何もないし山の中で。

Q:その紙切れ1枚でシベリア東の方からカザフまで行くっていうのがね。

今では、みんな共産主義ってそういうもんだった。今は共産主義ではない、ロシアは。もうやめたんだよ。中国で北朝鮮まだ共産主義だけど。始まったのはロシア、レーニン。

Q:今でもそういう流刑って言う?

それでも国民はそのまま残っているの、そのまま、ずっと。共産主義の。ただお金持ちの人は、別によく暮らしているけども。貧乏な人は貧乏で残っているの。そういう時代だよ、今ロシアでも。ただ三浦さんもきのう言ってたけども、年金も何ももらってない。ロシアの人たちは年金もらっているけども、カザフの人はくれないんだ、これ。ただこれ日本で今暮らしているけども。

Q:日本人のみなさん。シベリアからカザフに送られていますよね? 遠いところに送られていますよね? それは何か意味があるんですか?

意味って東洋人っていうか。日本、「黒い髪だからカザフスタンに行け」って言われて、全部三浦さんもそうだし阿彦さんもそうだし。

俺たちはまっすぐカザフスタンに行って苦労して話の通じないところで。

Q:何か遠いところにやるんですかね? 日本から。朝鮮の、その沿海州・・・

そうそう逃げないようにどこも誰にも文句でなく、知らないよう誰も。だから俺捕まったときはサハリン、全部日本人10名だ15名だって日本人暮らしているんだよ、ずっと。街だから。そこに逃げられなかった。逃げようと思ってもみなかった。「逃げんなよ」って言うから、「逃げないよ」どうすんの?「俺は帰れる」って。刑も何もないし罪人でもないから、「帰る、帰るから」って。ばかで逃げた方がよかった。こうなると思ってなかった。それは人生だけどね。

三浦正雄さん:ちょっとロシア語で話してもいいかな? なぜソ連は私たちをバラバラにしたのか? 日本人一人一人だけ二人はだめだった。彼らは故意に、私たちが話をして行動を起こさせないようにしたんだ。それがソ連のやり方だった。だから伊藤さんはウジナガシュ村で、私はウジジャルマ村だった。そうだよね?

この人は全部分かってんだよ。日本人は一緒に集められないっていうことで。あっちこっち向こう。

三浦:一人一人。

通訳:三浦さんが今言ってるのは、日本人を二人も一緒の所に住ませなかった。というのはやはり理由は、お互いに連絡とれないようにということが一番の理由かなと。

Q:一人ぼっちだったらその場所で暮らす?

伊藤:俺は最後にこれ、ロシアの大統領、ゴルバチョフ。その人のおかげで日本に来れるようになったんだ。それから始まった。カザフスタンでも集まって、・・テレビで。いや、アルマ・アタテレビで、3人で集まって、こうして映したでしょ? そういうことできるようになったんだよ。それまでは全然だめだったんだよ。どこに誰が暮らしてるか、話も電話も何もないし。

ありがとう。ゴルバチョフ大統領さん。そのおかげで今ここで暮らしている。

Q:ソ連がなくなって・・・スターリンに対してはどう思いますか?

スターリンはすっごく厳しいもん。全然しゃべることもできない。

見ざる知らざる聞かざるだよ。何にも分かんない。そういう時代だった。何にもできなかった。罪人でこんなロシアのお金、なんたっけ人間のところ、ヒゲこう、レーニンか誰かの顔にヒゲ書いたっけ10年の刑もらったよ。その書いた人、子どもでなく。その父親が、10年。・・・に書いてある。

Q:お金に子どもが?

そして父親が引っ張っていかれて、10年。

これ妻。26のとき。これ?やったのここに。これ孫来て、孫も来てカザフスタンで会った。墓参りに行った。妻は亡くなった、墓。これが亡くなった。37年前、亡くなった。そしてその人とそこで始まった。その人と始まった。その人はそこで仕事してたから。夜、豚の母親の子ども、なんていう? 子豚が生まれるとき、そこを見てる、夜産まれたら。

三浦:子豚の養育場

そこで仕事してた。夜、夕方だけ行って。そしたら付き合って「結婚するか?」 「まだわからない」って、すぐ言わなかった。「1週間様子見てみる」って、そして1週間後「いい」って、それで結婚したの。着るものって一枚のシャツとズボンとパンツと・・・その他何もない。靴しか。11月だったし。

Q:結婚したの何歳のときですか?

25。俺は25、(妻は)22だった。3つ下だから。37年前に亡くなってるけども。それ以来ずっと一人で。17年前は次女と一緒に暮らしてたけど、今ドイツ人になってるけど。日本で生まれたから日本で死ぬって言われてここに来たんだ俺。ドイツには住めないって。赤十字社この前行ったでしょ?赤十字社。もう1つサインするだけで残ったらそれでいい。帰らなくてもいいここに住んでもいい。お金をくれるか、なんぼか手続きして。

「いい、いい、だめだ」って俺サインしなかったそのとき。「帰るわ」って。みんな泣いてた、子どもたち。孫。せっかく作ったのに赤十字社から国際的な赤十字社に。「だめだ、日本で生まれたから日本で帰る」、「向こうで死ぬ」ってここへ3年前来たの。津波でしたし、心配してたから助かって。おかげさまで今、ここで暮らしている、3年。

Q:伊藤さん、どれが誰か紹介してくださいませんか?

これ俺だし、長男、長女、次女、これは息子の嫁さん・・・ドイツ人。これは孫・・・これは孫の旦那、これも孫の旦那。これは孫、今これ来るの、8月に来て。

Q:皆さんドイツにいるのでしょうか?

ええ、全部ドイツ人に・・・これもらってきたの。もう2人ここにいないのだけど…2人。3人か。3人いなかったけど、会って来たみんな。

Q:全員子どもさんはドイツにいるのでしょうか?

はい。これ全部だもの・・・。同じ町でないけれども・・・あっちこっち、集まったけど。ひ孫8人だもの。孫6人。

出来事の背景

【旧ソ連に残留】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)8月9日、ドイツ降伏後の対日参戦を英米と密約していたソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州、樺太、千島などに相次いで侵攻しました。
樺太(現在のサハリン)では終戦後、集団引き揚げにより多くの人々が本土に引き揚げましたが、戦後の混乱の影響で日本に帰れず、樺太に留まらざるをえない人もいました。
中には旧ソ連のスターリン政権のもと、いわれの無い罪を着せられ逮捕、抑留され、強制労働に就かされる日本人住民もいました。
抑留者の帰国は昭和22年から断続的に行われましたが、昭和31年10月19日の日ソ共同宣言で国交が回復したことを受け、最後の集団帰国が行われます。しかし、抑留中に犠牲となった人、その後も旧ソ連での残留を余儀なくされた人は多数にのぼります。

証言者プロフィール

1927年
山形県西荒瀬村(現・酒田市)に生まれ、両親と2歳のとき樺太野田町(現・サハリンのチェーホフ)に移住
1942年
樺太鉄道に就職し、3年後、機関士に昇格。樺太で終戦を迎える
1946年
運転中に居眠り、2年半の判決でシベリアへ
1949年
ウジナガシュ村(現・カザフスタン)に強制移住
1952年
ドイツ系の女性と結婚。90年、初めて帰国
1997年
永住帰国
2006年
妻の墓参りを果たす

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