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タイトル 「15歳で逮捕後ソ連に残留」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 阿彦 哲郎さん(シベリア抑留 戦地 樺太 カザフスタン  収録年月日 2014年6月10日

チャプター

[1] チャプター1 カザフスタンに残留した日本人たち  03:20
[2] チャプター2 戦後・突然の逮捕  07:41
[3] チャプター3 10年間の自由剥奪  08:01
[4] チャプター4 鉱山での重労働  03:37
[5] チャプター5 療養収容所で亡くなっていく人々  04:32
[6] チャプター6 釈放  02:57

再生テキスト

Q:お互いカザフに日本人住んでるって知ってたんですか?

阿彦:知らなかった。

伊藤:知らなかったよ。この人(阿彦さん)1000キロ離れてるし。この人(三浦さん)は200何キロ。(ロシア語)200キロちょっと?

三浦:300キロメートル。

伊藤:300キロ離れている。

三浦:阿彦さんは1200キロ、私の自宅から。一回伊藤さんと阿彦さん私のうちに遊びに来たんです。1回。・・見たときに。

Q:カザフに行った日本人の方、今亡くなった方も多いと思うんですけど、大体どれぐらいいたんですかね?

伊藤:大体何人ぐらいいた? 日本人。

阿彦:150人。

伊藤:え? どこにいたのそれ?

阿彦:スパスクちゅう、骨を掘ったときに。

伊藤:ああ、それは兵士だべ? 捕虜みんな。

阿彦:捕虜の人たちでよ。

伊藤:2人で手伝ったとき、日本に(から調査団が)来て。

三浦:もう1人の人は、渡して分かっていた。名前はヨシダ。

伊藤:ヨシダコウイチ。

三浦:そう、ヨシダコウイチ。

伊藤:その人と俺しょっちゅう行ってたんだけど。亡くなっちゃったんだけど。行ったり来たりしていたんだけど。病気で亡くなった。

Q:150人っていうのは?

伊藤:150人っていうのは捕虜人のこと言っているんだ。俺たちみたいの(民間人)とは、関係ない人たち。

Q:骨を掘ったんですか?

伊藤:掘ったね。掘ったことある。

阿彦:それから焼いて、骨を焼いて東京のほうへ渡したんです。

Q:捕虜で亡くなった方を火葬にして?

伊藤:この人の家のところから、40キロかなんぼ離れているとこで。

阿彦:40キロ。

伊藤:そうだね? 手伝ったことある、一回。

阿彦:写真もあったんだけど、持ってこなかった。

Q:お墓作ったんですよね? 向こうに。

伊藤:昔のだったから、ただこう山になっているだけで。

阿彦:今は何もないんです。

Q:残ってないんですか?

伊藤:もう全部掘ってしまったの。

阿彦:平らになってしまった。

阿彦:俺はね、小学校6年を卒業して、それから高等科に2年、それから戦争当時だったから、青年学校っていうのがあったんですよ。その青年学校というのは、みんな、軍隊と同じような教育でね。服もみんな軍人の服だから。それで、その学校入ってからすぐ戦争が終わってしまって。それで、俺たちはみんな解散したんですよ。それで、その樺太(現・サハリン)で、渡辺鉄工所というのがあった。俺のうちの近くにね。その鉄工所で働いてたんですよ。そして、その1948年にロシアの兵隊が来て、逮捕されたんです。それで、逮捕・・・最初はみんな、通訳の人がいて、よく話す通訳でした。それで、その皆話すのが分かってるんだが、その裁判のときに、別の通訳で、何も話すこともできないような通訳でした。

Q:10年の刑もらった理由はなんですか?

阿彦:理由は、軍人だという理由で。

通訳/須田百合子さん:青年学校。

阿彦:うん、青年学校で軍服を着ていたから。

通訳:青年学校というのは、軍服を着ていたので、それが・・・

伊藤:(阿彦さんが)15歳のとき。

通訳:(ロシア語)誰かに密告されたのですか?

阿彦:そうです。

通訳:誰かが密告したみたいだっていうんですよね。その場面をつかんだ…軍服着ているのをつかんだ訳じゃないので。だって戦後2年たってから逮捕されたっていうのは、もう軍服を着ているのは見ていないんですけど、誰かがきっと密告をしたんだろうと。

阿彦:裁判も軍法会議で、58条・・・それは、ロシアのいちばん悪い人の刑なんですよ。58条・・・。

「プンクト・チテーレ」(日本語で「第4項」)というのは。テロリスト、そのような。

通訳:58条というのは、ソ連では当時はテロリストたちが捕まったときにも刑をもらうのが、58条なんですって。

Q:国家反逆罪みたいな?

通訳:そうそう。それと同じ刑をもらったの。裁判のときは、通訳さんがきちんと阿彦さんのことを伝えてくれなかったし、だからその自分の無罪っていうことを証明できなかったっていうことで。後で分かったら、刑はそういう58条っていう刑をもらったっていうことですね。

Q:軍服着ていたって、終戦から2年たって、軍人だっていうことを・・・

阿彦:1948年にその裁判・・・10年間の刑です。それで、その各地の労働収容所に、そこで働いていたんです。

Q:密告した人は?

阿彦:誰だか分からない。

Q:何で密告するんですか?

阿彦:早くうちに帰りたいっていうような。

通訳:同じ罪人で、例えばそういう密告をすると、罪が軽くなるとか、もしかしたら刑がもっと・・・例えば5年もらったら3年とかってなるとか・・・

伊藤:早く帰れる。

通訳:っていうことがあったので、そういう密告する人たちがいたみたいだとは言っています。

阿彦:早く自分のうちに帰りたいと、そういうような人が、誰かを・・・。「この人がどこで働いていた」とか。

通訳:「前はこういうことをしていた人だ」っていうことを密告したみたいです。

伊藤:それが、ロシアではそうなるんだ。そういうときは。誰か、本当でも、本当でなくても、言った人が(言ったことが)本当になってるの。

Q:証拠がなくても?

伊藤:そうそう。もう言った人がそうなってる。その人はもう褒められるし。賞状をもらってるし。でなかったらお金をもらうか。そういうことがあったの。戦争後は。

Q:密告、その知っている人が密告するわけですよね? 友達とか。

伊藤:うん。関係のない人が・・・それでもこの人には関係ないんだ。自分の何か刑でもなんでも、いいことをしてもらいたいって、そんなことをやってるの。

通訳:伊藤さんの話では、全然知らなくても、例えば何かをして密告をすると、自分の刑が少なくなるとか。

伊藤:うそでも言ってでも。

通訳:そういうことで、早く出されるか、何か刑が減額されるっていうのかな。

伊藤:褒められるんですよ。

阿彦:それで、豊原(現・ユジノサハリンスク)の刑務所に、そこから・・・刑務所に、刑務所に、その壁に書いてあったよ。「父母妻子兄弟健在にして、我の捕虜の有様を知らず」とね。先に来た人が、誰か書いたんですよ。そのような。

伊藤:よく忘れないね。

阿彦:軍人だもの。軍人、記憶力・・・。朝早くから起きると、すぐ軍人勅諭をね、『5か条のご誓文』って言ったんだよ、その当時は。「一つ、軍人は忠節尽くすを本分とすべし」「一つ、軍人は礼儀を正しくすべし」と。「一つ、軍人は武勇を尚(とうと)ぶべし」と。「一つ、軍人は信義を重んずべし」「一つ、軍人は質素を旨とすべし」とね。

逮捕されて、樺太の本斗町・・・本斗(現・ネベリスク)っていう所です。そこで、その裁判まで半年ぐらいですね、刑務所で。それから、明日、その裁判だというから、それで待っていたんですよ。その裁判を。そして、その裁判も、たくさんロシア人が座っていたんです。それで、何も悪いことをしたんじゃなかったが、俺を軍法会議だもん。ロシアの軍法会議で、裁判の・・・10年間の刑を。どうして、俺何もしてないのに。どうして俺に10年間・・・10年間の刑だから。通訳が何も言うことができないの。後でって言って、答えるのができない。それで、このようにして・・・。(ロシア語)手を振ったんだ。

通訳:通訳の人がよく通訳をしてくれなかったっていうことですか?

阿彦:はい、そうです。

通訳:だから、もう諦めて。ロシアの人が諦めるとき、手をこう振るのがあるんです。ジェスチャーが。手を振ってしまったと。もう諦めたと。

阿彦:それから、裁判が終わって、10年間の刑でウラジオストクから、樺太の大泊(現・コルサコフ)から、ウラジオストクまで連れられてきて、そこから・・・ウラジオストクからハバロフスク、イルクーツクとみんな、その・・・収容所。それから、カザフスタンのペトロパブロフスク(ぺトロパブル/カザフスタン北部にある都市)・・・セーヴェル(北)の、ペトロパブロフスクまで連れられてきて。それがちょうど正月でした。

そして、カンボーイ(監視兵)が俺を連れて、部屋を開けたら、たくさんの人が・・・場所もないんです。入るのに、みんな。そして、ここに・・・なんていう。パラシュ(監房用の便器)

Q:トイレ? 便器?

伊藤:ロシア語でいいわ、通訳おるし。

三浦:(ロシア語)須田さんが通訳してくれるよ。

阿彦:そこにも座ってるんですよ、みんな。それで、俺が入ることができない。隣の部屋を開けたら、同じような。たくさんの人が。その監護兵が俺をこうやって、(ロシア語)そこへ押し込まれた。

伊藤:トダ(“そこへ”と言う意味)って言ったって分からない。ロシア語だよ、それ。

Q:何となく分かります。

通訳:それはラーゲリ? 

阿彦:ダ(そうです)。収容所です。

通訳:始めはサハリンのコルサコフ(旧・大泊)から、港から、次がウラジオ(ストク)に行って、ウラジオから。

阿彦:ウラジオ行って、ハバロフスク。

通訳:ハバロフスク行って、ハバロフスクから、イルクーツクへ行って。

阿彦:そのようにして・・・。

通訳:転々と収容所を転々として。最後にたどり着いたのが、カザフスタンのペトロパブロフスクという収容所で。その収容所に行ったら、どこの部屋も人がもう満員で。罪人たちが満員で、入る場所がないくらい満員だった。

Q:豊原(現・ユジノサハリンスク)からウラジオストクに行くまでの間に、女の人を見たことはありますか?

女の人は、その船でウラジオストクまで・・・そのときに女の人は30人くらいいたんでねえか?

伊藤:日本人?

阿彦:日本人だか、誰だか分からない。

伊藤:女の人。

阿彦:女の人だ、みんな。その当時は・・・

伊藤:ロシア人もいた?

阿彦:若い人だか、年寄りの人だか分からない。着物を・・・

Q:着物を着て?

伊藤:それは日本人。

阿彦:船に乗ったときは、俺は働いていたんだよ。その船で。みんな酔っぱらってしまってね。立つ人がいないんだもの。その・・・

Q:吐いちゃって?

阿彦:それを俺がみんな・・・俺は子どものときから海で育ったから、酔っぱらわないんだよね。慣れてるから。

通訳:船酔いはしないっていうことです。

阿彦:それで、兵隊の人が、連れて・・・

伊藤:酒じゃない。船酔いはしないって。

阿彦:それで、その掃除をしたんですよ。それで、その・・・みんな下のほうに座ってるけど、俺は上のほうに、よい空気を吸って。外だから。それで、そのウラジオストクから、ペトロパブロフスクまで連れられてきて・・・そのラーゲリ(収容所)があったんですよ。

それで、うちから出たときは、・・・1級でした。1級、2級、3級、4級まであって、それをジェズカズガン(現・カザフスタンのカラガンダの都市)っていう、ここにあるんですよ。カザフスタンに。そのジェズカズガンで・・・(ロシア語)銅山で働きました。

通訳:鉱山。

阿彦:炭鉱じゃなくて、鉱山。そこで働いたんです。

通訳:何が4級だっていうんですか?

伊藤:1級2級って何の級?

通訳:(ロシア語)何の級ですか?

阿彦:1級っていうのは、働くことができる。元気な人。1級から4級まで下がってしまったの。そのジェズカズガンで。それで・・・

通訳:じゃあ4級まで下がったっていうことは、働くことがほぼできなくなったっていうことですよね。

阿彦:もう一度お医者さんが来て、調べて。働くことができるか、できないかっていうので、俺は働くことができないというようになってしまった。・・・骨と皮だけで、肉がないんだもの。痩せてしまって。食べることができないっていう。

伊藤:若かったから生きてただけで。

阿彦:働くことができなくなって、それから・・・。

伊藤:ブラブラしてるの。

阿彦:スパスクという所まで移動されて。

通訳:ペトロパブロフスクから、今度は違う所に行ったんですか?

阿彦:うん。

通訳:どこですか?

阿彦:ペトロパブロフスクから、ジェズカズガン。

通訳:ジェズカズガンっていうとこ。そこの鉱山で働かされたんですけど、今私も初めて聞くんですけど、1級から4級までになると、1級の人はまだ働く元気な人。

Q:健康のあれ? 一番元気な人の級?

通訳:そうそう、それで4級ですと、もう働けない人が4級になるそうです。そこで診察を受けて、働けない・・・

阿彦:その4級の人たち、俺もその4級だったからね。脚のない人・・・けがをして脚のない人とか、手のない人とか、そのような人たちがみんな働いてるんですよ。

伊藤:働いてる?

阿彦:うん。手がない人が、右の手がない・・・そのような人が、左の手で・・・

通訳:働く。

阿彦:ナシルキ(荷かご)何て言うかな・・・。

伊藤:荷物持って歩くような?

通訳:鉱山で運び出すような、そういう仕事。

阿彦:スパスクのラーゲリは、いわゆるみんな、今日明日死ぬというような人たちがみんなそこに連れられてくるんですよ。今でも・・・

通訳:スパスクの収容所は、身体障害になった人たち、働けない人たち・・・

阿彦:今でもスパスクはあるが・・・

伊藤:ようやく動いている人たち。

通訳:重い病気にかかった人たちを収容する所なんです。

阿彦:収容所です。みんな壊してしまって。

阿彦:スパスクに・・・

伊藤:何か月いたの?

阿彦:何か月・・・ちょっと今分からない。

Q:日本人もいました?

伊藤:日本人おりました?

阿彦:日本人はいたが、話すことができないんです。

伊藤:話すことができないって。

阿彦:それで、今でも日本語を話すことができない。忘れてしまった、みんな。誰とも話さなかったから。

阿彦:スパスクには外国人がたくさん、向こうに埋められてるんですよ。

通訳:(ロシア語)収容所にいた人たちですか?

阿彦:(ロシア語)そうです。

通訳:(ロシア語)そこには、体が不自由な人や病人がいましたか?

阿彦:(ロシア語)いました。

通訳:(ロシア語)そこは、特別な収容所だったのですか?

阿彦:(ロシア語)そうです。そこでは毎日のように、人が死んでいきました。

通訳:スパスク、スパスク。

通訳:そこの収容所は、もう助からないような人たち。それと、身体障害者だとか。

阿彦:日本の捕虜の人たちも・・・。

伊藤:捕虜人もいっぱいだった?

阿彦:100・・・

伊藤:100人?

阿彦:200・・・

伊藤:そんなにいたったの?

阿彦:はい。俺たちが掘ったり・・・

伊藤:本当に苦労したんだ。誰も、言葉では想像できない。

阿彦:2回・・・1回目、みんな掘ることができなくて・・・。

伊藤:掘ることができなかった。

阿彦:2回目にきたんですよ。

通訳:(ロシア語)その捕虜の人たちも、スパスクの収容所にいたんですか?

通訳:200人ぐらいの日本の捕虜になった兵隊さんたちも、その収容所にいた。ほとんどがそこで亡くなったと。

伊藤:ようやく動けるような人たちばっかりだもん。毎日死んでいったんだ。

阿彦:帰れなくて。名簿がなかったんだもの。俺は軍人の裁判を受けたが・・・軍人だって言って裁判を受けたが、俺は一般の人だからね。日本の(軍人の)名簿には何もないんだもの。

伊藤:書いてないんだ。樺太で。

阿彦:名前がない。

三浦:(ロシア語)つまり、軍人は全く別なんです。私たちは(民間人で)、一緒にされるべきではなかった。私たちは軍人ではなかったのですから。

伊藤:そう、そう。

通訳:例えば、軍としてこういう軍事裁判を受けた人と、一般人の人たちの裁判を受けたのは全然違うので。(民間人で)軍で裁判を受けた人たちは、名簿がなかったって言ってますね。だから、名簿に名前が載っていないから、こちらに帰ってくる対象に・・・

伊藤:帰せない。

通訳:ならなかったっていう。

阿彦:その後、何回も大使館のほうへ、大使館がどこかにおるっていうので、何回も、そのアルマ・アタ(現・アルマトイ市の旧称)、それからモスクワ・・・何回も書いたが・・・

伊藤:誰が書いたの?

阿彦:俺が書いたよ。

伊藤:書いたって届かないのよ。俺だって何回も日本に手紙やったけど、届かないんだって。全部破って。

Q: 1950年頃、日本の軍人まだいますよね、カザフに。

阿彦:俺が収容所から出たのは、54年。

伊藤:え? そんなにいたったの?

阿彦:うん。スターリン大統領が死んだときは。

伊藤:53年。

阿彦:53年。それから、アムニスチヤ(恩赦)になりました。それで、俺が・・・。

伊藤:刑を短くしたんだ。

通訳:(ロシア語)結局10年くらい収容所にいたのですか?

阿彦:(ロシア語)いいえ、6年でした。

通訳:スターリンが亡くなった後で解放されたので。

Q:恩赦みたいな?

通訳:恩赦みたい。6年間。10年刑もらったんですけど、6年間で、スターリンのおかげで出たっていうことですね。亡くなったおかげで。

伊藤:それでどこに行けって言われたの?

阿彦:アクタス村へ解放されました。

伊藤:もう刑終わったの?

阿彦:刑は終わった。

阿彦:はい、俺の所からも、日本人がいたんですよ。その人たちはみんな56年に(日本に)帰って、俺は、「どうして俺にはないのか?」ってね。

伊藤:名簿がないから。

阿彦:その手紙を書いたんですよ。そしたら、手紙をもらったら、それの意味は、「お前は兵隊には関係がない」と。

伊藤:軍隊でない。軍人じゃない。

阿彦:軍人じゃないと。

通訳:裁判を受けたのは軍事裁判で・・・

阿彦:軍事裁判で。

通訳:裁判で兵隊だったと。だけど、最後は捕虜の方たちがみんな、日本へ来るときは、「なぜ、阿彦さんには帰れっていう命令を出してくれないのか」って聞いたら、どこへ問い合わせたか知らないんですけど、そしたら、「お前は軍人でないから、一般人だからだめだ」って言われたって。

出来事の背景

【旧ソ連に残留】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)8月9日、ドイツ降伏後の対日参戦を英米と密約していたソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州、樺太、千島などに相次いで侵攻しました。
樺太(現在のサハリン)では終戦後、集団引き揚げにより多くの人々が本土に引き揚げましたが、戦後の混乱の影響で日本に帰れず、樺太に留まらざるをえない人もいました。
中には旧ソ連のスターリン政権のもと、いわれの無い罪を着せられ逮捕、抑留され、強制労働に就かされる日本人住民もいました。
抑留者の帰国は昭和22年から断続的に行われましたが、昭和31年10月19日の日ソ共同宣言で国交が回復したことを受け、最後の集団帰国が行われます。しかし、抑留中に犠牲となった人、その後も旧ソ連での残留を余儀なくされた人は多数にのぼります。

証言者プロフィール

1930年
樺太の本斗町(現・サハリンのネベリスク)に生まれる
1945年
本斗国民学校を卒業後、渡辺鉄工所で働きながら本斗青年学校で学んでいるときに終戦を迎える
1948年
6月、突然逮捕される。58条で自由剥奪10年の判決を受ける
1950年
ジェズカズガン(現・カザフスタン)で重労働の後、スパスク療養収容所へ
1954年
恩赦で釈放されたが、帰国できず、ソ連解体後はカザフスタン国籍取得
1994年
名誉回復を受け一時帰国。2012年、永住帰国を実現したが、2014年、カザフスタンへ戻る

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