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タイトル 「ソ連に逮捕された母と姉」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 リディヤ・ヴォロンチーヒナさん(シベリア抑留 戦地 樺太  収録年月日 2014年6月18日

チャプター

[1] チャプター1 幼少の記憶  09:08
[2] チャプター2 子どもたちだけで生き延びた日々  05:13
[3] チャプター3 日本とソ連の間で  02:52
[4] チャプター4 解放された姉  02:12
[5] チャプター5 懐かしい樺太の地  03:57
[6] チャプター6 労働の日々  06:43

提供写真

再生テキスト

Q:今日はルミ子さんの小さいころの、サハリンの思い出いろいろお聞きしたいのですけど。

子どものころはあまりいい思い出はありません。いろんな人の世話になりました。姉のトーニャ(アントニーナ)に子どもが生まれれば必要とされましたが、そのときだけ。あとは、兄のところにも住んでいたんですけど、兄は独身でした。ほかにもあちこちで住んでいて。あと姉のヴァレンチーナ、姉のヴァレンチーナは働き始めたら独立して私を引き取ってくれました。

Q:お生まれは何年ですか?

1939年です。

Q:では6歳のときに戦争が終わったのですね?

はい。

Q:ご両親とは何歳まで暮らしていましたか?

5歳になっていなかったと思います。いつ両親が逮捕されたのか覚えていません。

Q:ご両親とも逮捕されたんですか?

いいえ。父はいませんでした。それよりも前に日本で亡くなっていました。

母と一番上の姉と2人が逮捕されました。

Q:どういう理由で逮捕されましたか?

正確に分かりません。聞いた話しですが、当時私たちは村に住んでいました。確か・・・保恵(現・ブユクリ)とか。

Q:ホリ? どこですか?

保恵。保恵です。そこに家があって住んでいました。戦時中、母が日本人をかくまっていたという理由で逮捕されたんです。国民の敵として逮捕されました。それが事実だったかどうかは分かりませんが、保恵というところには、私は日本人を見たことはありませんでした。そんな田舎の村に、誰がやってくると言うのですか? 私はまだ子どもでしたが覚えていることはたくさんあります。戦争のこと、飛行機が飛んでいたことは覚えています。でも私たちの身近に日本人がいたことは見たことはありません。(姉の)ヴァレンチーナはもっといろいろ覚えているかもしれませんが。

1953年にスターリンが亡くなって、名誉回復がなされました。そして母と姉が解放されました。姉はサハリンにも立ち寄らずにすぐに日本に行ってしまいました。

母の出迎えに行ったのは(姉の)ヴァレンチーナでした。夫とコルサコフ(旧・樺太大泊)に出迎えに行って、それから母はずっとサハリンに亡くなるまで住んでいました。亡くなったのは・・・何年だったかしらね。1983年か84年頃だったわよね。何年だったかしら・・・母は84歳でした。母はサハリンで亡くなって、そこに埋葬しました。その後ヴァレンチーナは子どもたちと一緒にアルマトイ(カザフスタン南東の都市)に引っ越して今もそこに住んでいます。

姉が話したかもしれませんが、ヴァレンチーナやほかの姉は日本の学校に行っていました。私は違うんです。私は「ロシア人だ」と言われて育ちました。ただ、ミドルネーム(*父や男系祖先の名(父称)をつけるのが一般的)がありませんでした。私の場合はリディヤだけでした。

その後、ソ連の法律で父称(ミドルネーム)を書きいれてもいいということになりましたが、私の書類はそれまで全部父称が入っていませんでしたので、全部を変えるにはものすごくお金がかかりました。だからそのままにしました。でもヴァレンチーナは、私たちがまだ一緒にサハリンに住んでいたころに、パスポートを作っているパスポート局の知り合いがいたので、「ヴァレンチーナ・イツローヴナ(*ロシア語では父の名前を変化させてミドルネームとする。「逸郎(いつろう)の娘」の意味。リディヤさんの場合のようにミドルネームが無いことは差別されるし大変なこと)」というふうに直してもらいました。私は変えませんでした。ほかのきょうだいのうち、トーニャやラーヤの2人はイワーノヴナ(「イツロウ」ではなく「イワン」に基づいた名前)にしました。私は変えたいとは思わなかったから、そのままにしました。

Q:お父さんがイツロウさんっていうんですね?

はい。モリ・イツロウ(森逸郎)です。

Q:何歳までお父さんと一緒に住んでいましたか?

何歳までどころではありません。生まれたとき、父はもう日本にいました。重い病気だったので、日本に帰って、それは治療のために送られたのか、自分で帰ったのか分かりませんが、治療のために帰国してそれで日本で亡くなりました。父に会ったことはありません。

Q:お母さんは一人で、子どももたくさんいて、お父さんのことをどう思っていたのでしょうか?

私には分かりません。姉(ヴァレンチーナ)なら分かるかもしれませんが、私は分かりません。覚えているのは、田舎で、保恵で住んでいたときは大所帯でした。馬や鶏がいて、ウサギもたくさん飼っていました。ウサギは勝手に繁殖して増えていました。(逮捕された)長姉はとても乗馬がとても上手でした。きれいな馬を持っていました。覚えているのはそのくらいですね。ほかに覚えていることは、あとは、どこから手に入れたのかうちにはリンゴがありました。サハリンではリンゴはほとんどありません。当時はどうだったか分かりませんが。けれども家にはリンゴがありました。地下の倉庫があって、そこには箱に入れたリンゴが並んでいました。私が大好きなのはサツマイモ。大好きでした。あとは、小豆。今でもあると思います。お菓子をよく覚えています。それはあとで日本でも食べましたが。小さなおわんにゆでられた小豆が入っていて、甘くて粒がこんなに小さくて本当においしかった。リンゴもおいしかった。これが子どものころの思い出です。

戦争中、戦争の直後は周りの人もみんな苦労していましたね。子どものころの思い出は、学校のことではありません。ユジノサハリンスク(旧・豊原)にアザラシの工場があって、ヴァレリー兄さんは、そこで猟師として働いていました。あの島、何という名前だったかしら…アザラシの島、サハリンにあるその島に行っていました。アザラシ工場、アザラシ島。季節がくると大勢で近くの島に行って、アザラシを捕っていました。ヴァレンチーナは同じ工場でその皮を加工していたんです。座って、こんなふうにして…。2人(兄と姉)は一緒にそのアザラシ工場で働いていました。私は兄と姉と3人で一緒に住んでいましたね。私はまだ小さかった。ブランコから落ちてひじをけがしたことがあります。兄に泣きついたら唾をつけてくれました。「すぐに治るよ」って言われました。そんな小さいころの思い出ですね。私も、ロシア人の将校の奥さんのためにいろいろ洗濯をしたりしました。小さかったので、洗えるものも限られていましたから、その奥さんは何かハンカチーフのような小さいものを渡してくれて、それを洗ったりしました。そのお駄賃として、軍人は(配給がよかったようで)だいぶ食べ物をもらっていたので、大きなパンをくれました。覚えているのは、奥さんはパンをだいぶ厚く切ってくれて、上に缶詰のお肉をいろいろのせてくれてもたせてくれました。それで姉(ヴァレンチーナ)がスープを作ってくれました。これが小さいころの思い出ですね。あとは他の子どもと同じように外で遊んで騒いでいました。学校がなくてよかったと思っていたかもしれません。あまり覚えていないけれど。学校に行き始めたのは9歳のときでした。

働き始めたのは・・・、まだ16歳ではなかったんですけど、もう幼稚園で子どもの面倒を見て働いていました。あとは、隣に住んでいたおばさんが、ボイラーで水を出す人を探していて、そのときはすでに16歳でパスポートも持っていて、教育も受けていたので、そこで働くようになりました。ボイラーでです。しばらくして、隣のおばさんは炭鉱で働き始め、その一年後、私も誘われました。そこでは年齢も聞かれず、私は地下の炭坑で働き始めました。そこでずいぶん長いこと働きました。あれは1959年だったわね? 私はまだあのころそこで働いていたのよね。

その後、1959年に女性が炭坑の中、地下(坑内)で働いてはいけないという決定になり、同じ年には主人と出会い、洋服を作る工房で働くようになりました。最初は見習いとして。姉のアントニーナとヴァレンチーナもその洋服の工房で働いていました。婦人服を作る工房でした。それから年金生活になるまでずっとそこで働いていました。

1年生のクラスに入学できたのは9歳のときでした。なぜかというと、就学年齢が来たとき、そこにあったのは日本の学校だったので、まずそこに連れていかれたんです。しかしそこでは「あなたはロシア人なのでだめ」と言われました。次にロシアの学校に行ったら反対のことを言われました。ですから、9歳までは学校には行きませんでした。それでもだんだんサハリンの生活は落ち着いてきて、9歳でロシア語の学校に入学できました。

Q:ロシアの学校に行ったら「日本人」と言われたのはなぜ?

当時は日本語の学校とロシア語の学校の両方ありました。なぜか周りの人たちは皆、私たちが日本人の家族だと知っていたんです。

戦争直後はまだ日本人は大勢いました。後はだんだん帰るようになりましたが、帰還していったのですが、私たちはそのまま残ったんです。

Q:ルミ子さんは生まれたときは日本の国籍ですか?

国籍はありませんでした。

上のきょうだいはどうだったのか分かりませんが、兄と私は誕生の証明書もありませんでした。その後、モスクワに申請書を送らないといけないと言われました。兄は何も書類がなくて、パスポートもなくて、ずいぶん長い期間就職できませんでしたから。しばらくして(モスクワから)返事が来たのですが、全部は覚えていませんが、「モリ・ヴァレリアンは日本人」と書いてあった。そして、「モリ・ルミコ(リディヤ)はロシア人である」と。おかしいでしょう? 同じきょうだいなのに。私はそのままロシア人で、兄は日本人のまま亡くなりました。その返事に基づいて後でパスポートをもらったんですけど、私はそのままロシア人になりました。ただ、パスポートにはミドルネーム(父称)がありませんでした。

(逮捕された)姉は解放のあと日本に行ったのが初めてではなくて、勉強のために日本に行ったことがあったんです。だから日本語の読み書きもできました。中等学校(女学校)か何か、高等教育を受けて卒業したんですね。どんな学歴かは知りませんが。逮捕される前に、日本の学校を卒業していたんです。逮捕されたとき彼女はまだ若かったですから。逮捕されたときには、サハリンに戻っていました。(釈放された後)日本人だからということで日本に行く許可が下りなかったのか、それともすぐに日本に帰されたのか、あるいは彼女自身が日本行きを望んだのかその辺りの事情は分かりません。それよりも、入籍はまだだったのですが、夫がいました。その彼と一緒に日本に行きました。姉は結婚したから日本に行ったのかもしれません。

Q:お姉さんの夫は抑留されていたんですか?

そうです。

姉の夫はどうして逮捕されたのかよく分かりませんが、分かっているのは、満州(現・中国東北部)に住んでいた人でした。お母さんはロシア人でお父さんは日本人でした。お母さんはアメリカに住んでいたんですね。2人ともすでに亡くなっています。

私はサハリンに生まれて、サハリンは大好きです。今でも心が痛みます。ここでもう15年間住んでいますが、落ち着きませんね。

Q:とってもいい場所ですよね。きのこもたくさんあって・・・

そうなんです。なんでもあって。いろんな所を歩いて、忘れられない故郷です。もう年ですから昔ほど歩けませんが。

ベリーもきのこもなんでもあります。いろいろな植物があって、どんな植物かすべて知っていました。ラプーフとか、ワラビとか、山菜を食べていました。今でも食べたいです。日本にまた行けたら春だったら、ワラビには間に合わなくても、ラプーフが食べたい、食べたいといつも思っています。ラプーフは日本語で何と言うか知らないのだけど。

Q:フキのことですか?

そうかもしれないね。

こんな大きなのがサハリンには川のそばに生えているんですよ。中には穴があいていて、向こう側が見えるんです。

こんなに大きくなってクリル諸島にもあります。サハリンではきれいな水が流れる川のほとりに生えているんです。採ってきて小さく切って塩漬けにします。こんなに大きくなったのは取らないけど、中くらいのは茎を採って食べるのですが、本当においしいんです。

日本食料品店にはあります。

Q:モスクワにも?

はい。娘と一度行きましたが、好きなものをたくさん買いました。小豆も。日本語では何と言うのか知らないけれど、パックとしては大きなのもあるし、こんなふうに小さいのもありますが・・・

Q:ようかん?

そうかもしれません。ほかにも、小豆入りのお菓子もありますね。

Q:小豆ってロシアにはないですか?

ありません。

Q:フキもこのあたりでは生えない?

ここにはありません。ここに移住するときはね、サハリンからきのこを持って来て、別荘に植えたんです。最初は出たんですけど、あとは消えてしまった。

Q:ここへはどうして? 移住をして長いのですか?

15年前に引っ越してきました。

夫/レオニード・ヴォロンチーヒンさん:ここへ移住したのは1999年だったね。

Q:どういう理由で?

おじいさん(夫)と私と理由は同じです。小さな部屋でしたけど、家賃が高くなってきました。子どもたちももうここに移住してきていましたから。このアパートもありますし。ここは私たちがつくりました。

ワフショというところに住んでいたとき、トーニャ(姉)、ヴァレリー(兄)、ワーリャ(ヴァレンチーナ・姉)、みんないたけど、電話があったのはうちだけでした。そのときは私の夫は共産党員、とても活発な活動家だったので、電話を付けてもらえたのです。当時電話をつけてもらうのはとても大変なことでした。

ソ連時代、「5か年計画を4年間で実現しよう!」とか、そういうスローガンがたくさんありました。夫たちの班は計画以上の成果を上げて、政府からもらったメダルなどはたくさんありました。そうして、英雄の勲章までもらえるはずだったのに…。

Q:悔しかったでしょうね。

夫:何を悔しがるって・・・

政府に腹を立ててもしかたがないですね。夫はシュワルナゼの署名が入った手紙も持っているんですよ。メダルもたくさんあります。

彼は若者の大型トラック運転コンクールで優勝したんです。彼はもう年金生活者だったのに。夫はユジノサハリンスクで、アメリカ村の建設に携わりました。彼は日本車の運転許可を持っていたんです。教習も受けていました。「ふそう」とか「日野」とか、大型トラックを運転して働いていました。

夫は、私が半分日本人だということで、努力が報われず大変な苦労をしました。夫に「労働の英雄の星」という勲章が(サハリンまで)送られてきたのに、結局もらえなかったんです。「妻が日本人だから」と言われて。タブーだったんです。もしかしたら今でもそうかもしれません。ここに移住したときもそうでした。狩猟ライフルを持っていたのですが、サハリンからここの当局まで、彼の身辺を調べるようにという内容の手紙が届いたのです。だから政治的なことをあれこれ言うことはできませんでした。まあ私は政治には興味はありませんが。私は別荘があれば十分です。

今のところ、年金はプーチンが少しずつ上げていますが、ここの地域はお湯が30パーセント値上がりしましたし、公共料金がひどく高くなってきています。

これらがいちばん栄誉あるメダルです。

Q:すごいですね。

これは孫が…。見てください、孫が遊んでしまって、あちこち取れています。

Q:すごいたくさん。

いろいろ5か年計画を早く実現した人がもらえる優秀な労働者のバッジです。73年、77年、79年、78年、これが75年・・・。

一番大事なのが、トップのがその3つですね。

一番高い栄誉のメダル。

その次がこれ…

Q:こんなにたくさんもらっている人はいるんですか?

そんなに多くはないですよ。

Q:働き者ですね。

そうなんです。ちょっと病気になって体が不自由になっていますが、それでも働きたいという気持ちはずっとあります。

ダーチャ(別荘)で仕事はたくさんあります。掃除をしたり、雑草を刈ったり、水をまいたり肥料をあげたりします。週末、土曜日、日曜日は若い人(息子や孫)が来てシャシリック(ロシアのバーベキュー)をしたりします。でも、私たちはここで働くだけです。

これが私の庭です。若い庭です。まだ2年目です。去年はここにはなにもありませんでした。花を植えました。行きましょう。これはキュウリです。

これはニンジンです。

Q:持ってきたフキを植えたのはどこですか?

この辺りに植えていたのですが、枯れてしまいました。

フキは、水、湿気、霧などを好みますから、サハリンの気候でないと上手くいきません。

今年どれくらいとれるかまだ分かりませんが。自分たちで食べる分はあります。去年収穫したジャガイモがまだありますから。

これが私の別荘です。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真1945年(昭和20年)8月9日、ドイツ降伏後の対日参戦を英米と密約していたソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州、樺太、千島などに相次いで侵攻しました。
樺太(現在のサハリン)では終戦後、集団引き揚げなどにより一部の人々が本土に引き揚げましたが、戦後の混乱で日本に帰れず、樺太に留まらざるをえない人もいました。

リディヤ・ヴォロンチーヒナさんは1939年、樺太の保恵(現・サハリンのブユクリ)に日本人の父親と白系ロシア人の母親との間に生まれました。早くに父親を病気で亡くしたリディヤさんですが、ソ連侵攻後、スターリン政権のもと、母親と長姉がいわれの無い罪を着せられ逮捕、シベリアの監獄に送られました。1953年にスターリンが死亡し、1955年に母が、1956年に長姉が解放されました。

証言者プロフィール

1939年
樺太の保恵(現・サハリンのブユクリ)に日本人の父親と白系ロシア人の母親との間に生まれる
 
病気のため帰国していた父親は終戦前に死亡
1945年
8月、ソ連軍侵攻。その後、母と長姉が抑留される
1955年
母が解放されサハリンへ
1956年
姉が解放され日本へ
1958年
ロシア(ソ連)人の男性と結婚
1999年
モスクワ近郊に移り住む

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