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タイトル 「切迫感をもって伝えた命令」 番組名 [歴史秘話ヒストリアスペシャル]幻の巨大潜水艦 伊400 ~日本海軍 極秘プロジェクトの真実~ 放送日 2015年5月6日
氏名 山西 義政さん(潜水艦・伊400 戦地 ウルシー  収録年月日 2014年10月23日、2015年3月11、12日

チャプター

[1] チャプター1 世界最大の潜水艦  05:38
[2] チャプター2 狭い艦内での日々  05:38
[3] チャプター3 切迫感をもって伝えた命令  06:09
[4] チャプター4 出港・高揚する気持ち  06:30
[5] チャプター5 洋上で迎えた終戦  09:33
[6] チャプター6 米軍に接収された「伊400」  04:09
[7] チャプター7 焼け野原になっていた故郷・広島  03:19
[8] チャプター8 干し柿の露店から興した事業  08:00

提供写真

再生テキスト

これは、世界一の潜水艦で、爆撃機を3台積んでるんです、晴嵐(伊400に搭載された水上攻撃機)って。それで、カタパルト(航空機を射出する機械)で飛ばすわけですね。そのときは、大砲、機銃、みんな、配置についているわけです。敵が空襲に来るからですね。それで、3台、カタパルトで飛ばしたら、すぐに潜航するわけですよ。いちばん大事なことは、飛ばす、それから、ここにおった大砲とか機銃とか整備兵がここから入って、ハッチと言うんですが、それを閉めて、船が潜航すると。これのスピードが、船が敵から攻撃されて沈むか、沈まないかいう生命線ですよね。その訓練をいちばんやりよったですよね。

Q:やっぱり、スピードがすごいあれだったんですね。

そうです。だから、月月火水木金金、あの猛訓練のいちばんは、飛行機を飛ばす、それから、配置についた途端、兵隊がハッチから下りるそのスピードの訓練ばっかりやりよるわけね。そのスピードが、船が敵から攻撃されて沈没するか、しないかの分かれ道だったと思いますね。

Q:そのとき、山西さんはどういう任務に就いていらしたんですか?

私は、機械ですから、機械のエンジンを回す配置ですよね。機関兵ですから。だから、そういうことは、訓練のときは見たけれども、実戦では機械についてますからね。

Q:晴嵐を飛ばす訓練のこととか、覚えていらっしゃることはあります?

あります。

Q:ちょっと、説明してもらっていいですか?

七尾湾(能登半島東部にある湾)でやったんですけどね。その訓練ばっかりですよ、スピードの。だから、後で聞いた話が、日本の現地といわゆる作戦をする最高主脳部の違いですよね。ですから、訓練するときには、私は七尾湾が主ですけども、波静かな日本近海です。しかし、太平洋へ出ると、波打つわけですよ。そうすると、この船がこうなる。そうすると、上に行くときはいいですが、下のときに、言葉で言うとピッチング言うんですけどね、下に沈むときにこれを発射すると、結局、飛行機が海に突っ込むと。そのことが主脳部は分からなかったんですね。

Q:晴嵐を飛ばすときの訓練というのは、どんなことをよくやられていたんですか?

飛ばすときは、訓練は、先ほどのハッチですよね。この中に入っとるんですから、3台。だから、ふたをあけて、カタパルトへ載せて飛ばす、油圧で飛ばすんですよね。これが飛んだら、すぐにまた次、飛んだら次、次と3台飛ばすわけです。そうしたら、すぐ沈むという訓練ですね。そのときには、ここにおった作業員が終わる。ここから入る。ここへおる人は、ここで作業した後、ここへ入って、飛ばし終わって入る訓練のスピードですよ。それがこの船の生命線なんでね。沈むか、生きるか。

Q:これは左舷機械ですかね。

ねえ。左舷と右舷と二つあるんですよね。一つ、故障があっても生きられるように。

Q:へえ。これは発令室ですね。

ええ。

Q:魚雷発射管って?

これは魚雷発射管でしょう。これが居住でしょう。居住区ですよね。この中に寝るんです。

Q:どんな感じだったんですか? 居住区での生活って、どういう感じでした?

ええ。非常に窮屈でしたね。普通、海軍はハンモック。兵隊と下士官はですね。それから、士官になると、こういうベッドに寝るんですよね。ただ、ハンモックで寝たりできませんから、もう、こういう蚕棚のようなところで居住するわけですね。だから、機械も非常にコンパクトに、居住も非常にコンパクトに、あんまり運動はするな、息をする程度にせよと。だから、電気・・・なるべく明かりを消す。全て、消耗しないようにね。生活でも、水はコップに2杯とか。歯を磨くとか、顔を洗うということはない。そういう生活ですよ。だから、非常に体が衰弱するわけですね。食事も、普通の軍隊も海軍も将校は白い飯ですけども、米。下士官や兵隊は全部麦飯ですよ。ところが、潜水艦だけは士官も兵隊語では銀飯言うんですがね。下士官も兵も銀飯。それでごちそうは、いろいろな缶詰をぎしっと積んどるんですが、出港して10日もたつと、そんなものは食べたくない。何が食べたいかいうたら、酢レンコンと梅干し。これがもういちばん食べたいものに変わるわけです。というのは、体がそれだけ衰弱するんですね。大体、動き回ることができんわけですから。だから、今考えると、いい配置だったな、思い出もたくさんあるな、しかし、窮屈な生活だったなというような感じだね。

Q:さっき、外で、家族みたいだっていうふうにおっしゃったじゃないですか。あれはどういう感じだったんですか。船内での・・・

普通、海軍は、月月火水木金金で厳しいんですよ、いろいろ。階級が一つ違うと、大名とこじきぐらい違うんですから。でも潜水艦だからね、これだけの船(艦)にこれだけしか載せていないし、このぐらいの兵隊を動かすのには将校1人か2人でいいんですよ。ところが、ものすごく高度な機械と高度な仕事をせないかんから、下士官、兵隊がこれだけいわゆる幹部ばかりだというような。大体、海軍でいちばんよくなかったことは、やっぱり、軍務でなくて、私生活だね。上の人が下の者を制裁してみたり、あるいは、軍人精神注入棒いうかしの棒でけつをたたいたりするんです。潜水艦には、一切、そういうことはなかったです。家族的で。しかし、一つは、こういう居住で、そんなことをしたらすぐに上に見つかるからね。こういうところに住んどるわけですから。だから、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、航空母艦と違って、潜水艦というのは、やはり、家族的だったなあ。それは、間違って沈んだら、全員が一人残らず死ぬわけですから。戦艦とか巡洋艦いうと、戦艦大和がいい例ですけども、沈んでも何割かの人は海に浮いとるから、助かる可能性があるんですね。潜水艦は、全員潜水ですから。そういう面では、伝統的に軍隊の中でも海軍の中でも家族的な雰囲気になったんかな。

ただ、私の配置は、機械長の伝令という機械室の指示、命令を伝える役でしたからね。大体、船がどういうような状況か、よう分かるわけですよ。今の手話いうのがあるでしょう。言葉でものを言う。海軍は、手旗信号。でも、私の場合は例えば、「出港用意」ね。何時、8時いうと、「出港用意、200」。これね。出港用意なら「出港用意」、とこう出港でしょう。「用意ドン」。言葉で言うと同時に、できるだけ動作で見せるというね。それをやりよったわけですよ。だから、潜水艦でいちばん重要なことは、ベントを開く。要するに、潜水艦が沈むのは、大きなタンク、水が入るタンクを備えて、それに水が入ると沈むいう原理ですよね。これをタイミングよく伝えるのがいちばん大事なんです。だから、「ベントを開け」っていったら、それも「ベントを開け」じゃないんです。「ベントを開けー」とこういうふうに切迫感を持って言わないかんのですね。だがら、いよいよ合戦のときは、「合戦準備」というのも、「合戦準備ー」って。その表現が言葉だけではなくて、動作で表す。それが大事なんですね。「合戦準備」と言うと、悠長な戦争になるけど、「合戦準備ー」、「ベントを開けー」って。合戦準備だから、いつでも沈めるように水弁を開けというようなね。

Q:何かアクションもあるんですか。伝えるときの。

それも、言葉に切迫感がついて言わないと伝わりにくいですね。伝わりにくい。だから、「合戦準備」言うたんじゃだめで、「合戦準備ー」って。

Q:何人ぐらい働いていたんですか、ここでは?

この記録によると、3交代ですからね、8人ぐらいじゃないですかね。ただ、合戦準備に入ってくると、「全員、配置につけ」いう指示を出すわけ。だから、普通は8人でやるのを、三八24人で入るというようなね。

だから、どこをどうしたらいうことは私は分かりませんが、ディーゼルエンジンが作動しとるなと。これが機械で、これがハッチでね。これだけは分かりますね。それから、これを見ると、いかに日本でも蛍光灯は熱を発しない電気が使われてたんだなと。非常にね。潜航してから上に敵の駆逐艦が来たら、機械を全部止めるんですよ。それで、冷房機も何もかも全部停止するから、ものすごい温度が上がるわけですよ。そんな記憶と、そんな船だなと、潜水艦だなという。これだけは昔のことを思い出しますね。

居住も、非常に狭い中に、これだけの中に200人近く生活するんですからね。こういう蚕棚のようなところで寝とったんでしょうね。寝起き、それから。

Q:山西さんもこういうところで寝ていたんですか?

そうです。兵隊じゃからね。それで、海軍は、本来、ハンモックなんですよ。巡洋艦も戦艦も駆逐艦も、ハンモック。海兵団へ行ってもハンモックですけどね。でもここだけは、こういう蚕棚のようなところですね。

Q:潜水艦だけなんですか?

ええ。上と下で寝るから、さらに親密感が。ああ、これがハッチだな。これは兵隊でしょう。こっちが士官室です。だから、ちょっと上等ですよね。

何度か、死ぬような運命に遭遇したけども、全部、なつかしい思い出ね。特に、潜水艦で呉を出港して、いざ、合戦いうときに、呉を出るときに、全員が上に、非番の者は外に出て手を振る。そうすると、昔、あそこに奥さんとか女学生とか勤労隊で働きに呉港に出ていたんです。それがはちまき巻いたり、たすきで「行っていらっしゃい」言うて出港を見送ってくれる。それで、船が出る。そういうロマンですかね。

Q:出港するときって、皆さんはどんな感じだったんですか? ずらっと並んで手を振って送ったっていう感じだったんですか? 呉から出ていくときは。

呉を出るときは、勤労奉仕隊とかね、昔はあるんですよ。女学生なんかね。そんなのはやっぱり、呉の軍港の中で仕事をなさってるが、出港するいうときには船を見送ってくれるわけですね。あれがいちばんよかったないうような。

Q:旗とか持っていたんですか? 日本の旗、国旗を。

いや、はちまきです。今でもわくわくするんですね、そういうことを思い出すと。「出港用意」なあ。だからね、私は、歌謡曲とかあんなのは歌ったことが全然ないんです。でもね、あのころはやった歌を覚えとるんですよ。だからうちの人で私が歌を歌った(のを聞いたことある)ことは一度もないでしょう。70年、会社が始まって。でもね、あのころはやったというか、歌ったのは、潜水艦で言いますと、「轟(ごう)沈、轟沈 凱歌があがりゃ つもる苦労も苦労にゃならぬ うれし涙で潜望鏡も 曇る十時の 曇る十時のインド洋」いうね。ロマン。敵の船も沈めると、何千人の人が死ぬるでしょう。でも、戦争中は、潜水艦の歌ね。魚雷一発で敵の船を沈めたら、こういう歌を歌ってね。凱歌。万歳って。

Q:今の歌は初めて聞いたんですけど、いやあ、驚きですね。覚えておられるっていうのがすごいなと。

やっぱり、ロマンです。それから、まだロマンがあるの。

Q:そうなんですか。

潜水艦は、もてたわけです、水兵が。
 
「腰の軍刀にすがりつき 連れてゆきゃんせソロモンに 連れてゆくのはやすけれど 女は乗せない潜水艦 女乗せない船なれば ・・・黒い黒髪断ち切って ついていきますどこまでも」とこんなの。もてたんです。潜水艦と飛行機は。

航空母艦に乗るときもわくわくしたし。航空母艦は、発着訓練をやるのね。発着訓練。それで、非番のときはそれを見よって。潜水艦に乗るときもわくわくしたし、どこ行きよってもわくわくしよるね。やる気十分で。

Q:会長は、発着訓練を見てたんですか?

そうですよ。航空母艦のですね。私が乗っておったのは、「飛鷹」いうんですけどね。横須賀沖で発着訓練をやるんです、飛行機の。しかし、そのころは昭和18年の終わりごろでね、アメリカの潜水艦はもう横須賀の近くまで来とったんですよ。ですから、魚雷を3発くって、沈む寸前まで、「飛鷹」(昭和19年6月20日沈没)でやってたんです。だから、横須賀海軍工廠(しょう)へ修理に入ったんです。それで、何か月か修理して、出港する1日前にチャンスがあって、高級学校に受かったわけですね。そこで命拾いをしたんです。だから、私は、高級学校に受かったから横須賀で学校に行ったと。私の戦友は、そこでじゃんけんで負けたから、ソロモン群島、何とかに行って沈んだと。じゃんけん一つですよね。

(同型艦の)伊401号は、コミュニケーションが悪くて(8月)15日に来なかったから出港を待ったわけですね、攻撃を。私の潜水艦長は、日下中佐ですからね。みんなは、いや、もう放っておいて攻撃しましょう、こう言ったけど、日下艦長は、いや、やっぱり、司令がおって、司令が指示するまでは攻撃はしないと言うので、やらなんだわけです。やっておったら、どうか分からんわけね。沈んどるか。そして、そのうち、翌16日は、もう戦争を放棄して、戦争停止というようなのが来ましたからね。だから、人の運命いうのは、船が遅れたから攻撃しなかった。もし一緒におったら、もう攻撃するからね。人間がシナリオを書いたのではなくて、100海里のところを間違ったと。何で間違えたか分かりませんが、間違ったから、一緒に15日出撃いうのに、間違ったと。あんなことが運命の分かれ道ですね。

Q:途中で伊400と合流する予定だったじゃないですか。あれって、伊400の中で何かトラブルが起きたりというようなことがあったんですか?

伊400にトラブルはあったんですけど、合流をしようやというところは、そのためじゃないんですよ。これとこれとのコミュニケーションが悪かったんですね。なんでか知らんけどね。100海里、違ごうとったね、会うところが。何で、いちばん大事なね。だから、二つの船を一緒にして、3機、3機を積んどるから、これでサンゴ礁の太平洋艦隊、航空母艦を襲撃しよういうのが戦争ですが、これが集合の場所を間違えたんですね。一説には、台湾海峡で暴風雨があったから遅れたということは聞いたんですがね。艦内で、電信兵から。でも、この本を読むと違うんですね。何かの間違いで合流点を間違えたと。この距離が100海里離れておったとこういうわけですね。何でだろうかと思うんです。大事なことが。

Q:艦内では、暴風雨に遭ったという話になっていたんですか?

ええ。暴風雨で遅れたと。それで、いざ、合戦いうときに出撃しないから、なぜやいう。わしらは兵隊だから、わけが分かりませんが、電信兵に聞くと、「いや、僚艦が来るべきときに来るべき場所に来ない」と言う。そのために、遅れたんですよね。遅れたために、15日には「耐えがたきを耐え」という天皇陛下が放送をしたのです。それで、伊400潜の電信兵は、それを聞いたけれども、音波が悪くて、聞きづらくて、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」いうのだけ聞こえたんです。その前の日に、外国の通信が入りますからね。シンガポールから、いろいろなところから入る。それには、日本がポツダムでもう負けたということがかすかに入る。あっ、あれがそれじゃったら、今の天皇陛下の「耐えがたきを耐え」いうのとこれとで、戦争に負けたんだなと。こういうことが艦内に流れた。そうしたら、明くる日に海軍中将なんとかさんがですね、戦争放棄、戦闘停止、もう戦争はするないうような意味でね。停止という指示を聞いたからね。それで、呉に帰れと。こういうことで戦争が終わった気になったという。

Q:玉音放送が何となく流れて、日本が降伏したというのが何となく艦内で分かったときなんですけど、伊400の乗組員の皆さんはどんな反応だったのかなって。どうだったですか?

中にはやっぱりね、「いや、それはデマだ」と。「伊401が来ねば、我が艦だけでも突撃しよう」、こう言う者もおったんですよ。しかし、日下艦長は、やっぱり、ああいうふうに言う、あの人は何ていう人だったかな。・・・いつも伊400潜と伊401が共同歩調をするんです。それは、艦長が乗っとるけれども、一応上に司令がおるんですよ。大佐でね、何とかりゅうのすけ言うんですがね。

Q:有泉龍之助(第1潜水隊司令・伊401に乗艦していた)ですね。

やっぱり、この人の指示を受けるべきだと、それは。やるかどうかはね。

Q:それは誰が言ったんですか?

この中の将校の中で、「戦争が終わったいうのはデマだ」と。それで、「伊400(伊401のこと)潜が来なければ、伊401(伊400のこと)だけで攻撃しよう」という将校もおるんですよ。そのときに日下艦長が、「いや、わしの上には何とか大佐がおる、この人の指示がないのに行動してはいけん」と言って止めたんですよ。だから、よかったんだね。

Q:そうなんですか。日下艦長ってどういう人だったんですか?

日下艦長は、我々は兵隊じゃからよく知りませんが、やっぱり、温厚で古武士的ですよね。この中でもどこかに、アメリカの将校が船を引き取りに、もう戦争は終わったよと。アメリカが武器、弾薬は全部捨てなさいと。だから、飛行機は、3台全部、横須賀に帰るまでに海に沈めたんですよ。それで、魚雷、これも全部発射したんですよ。刀、鉄砲も海に捨てたんですよ。こっちに帰るときにね。やっぱり、敵の駆逐艦が迎えに来たわけね。それで、捕縛する。いわゆる捕えるという意味でね。捕えられて、軍艦旗をアメリカの星条旗と切りかえる。そういうときに、写真に艦長は載ってませんけどね。ある一部に載っておるんですよね。そのときの顔立ちを見ると、古武士的だね。人格者。小さい人でしたけどね、この人ね。小さい人ですよね。

いちばん感激するのは、戦争が終わって、どこかな、これが日下艦長ですけどね。艦長ですよね。この中でいちばん歴史的な、感激的な、何とも言えない感無量の写真があるはずですよ。戦争が終わって、いわゆる潜水艦を向こうへ引き渡すときに、ああ、ここだ。やはり・・・日章旗ですね、日本の日章旗があったのをアメリカの星条旗に代わるこの瞬間ね。

日本は戦艦大和と比べても、伊400潜は世界的な潜水艦だと。こういう技術があったから、終戦後、いっとき、日本は船を造る造船業で世界一の時があったわけですが、これは、こういう大和、あるいは、伊400潜水艦を造る造艦技術いうものが世界一じゃなかったんかなというように思いますね。ただ、飛行機ということになると、ゼロ戦がありましたけども、やはり、飛行機いうことになると、アメリカのほうがすぐれとったんかなと。

生きがいがあって、いちばんわくわくした時代はどこかいうと、この潜水艦に乗ったときだなと。その次が、やはり、戦争が終わって、生活のために闇市で商売を始めた、そのころが2番目によかったと。あとこっちは、あんまりわくわくすることがなくなったなというような感じですね。それじゃ、もう一度、戦争があったらおまえは行くかいうと、それはごめんじゃけど。でも、やはり、人生でやりがい、生きがい、わくわく感があったのは、この時代だな。貴重な写真ですよね。こういう人は、あまりおられんのじゃないかと思いますけどね。

Q:山西さん、お名前はどこにあるんですか?

終わりのほうのここですね。「機兵長」と位が書いてある。「山西義政」とここに書いてますね。大体、1年に一つずつ位が上がるんですが、最後のほうですね。ここへ横並びに並んでおるのは、私の同年兵、要するに、同じ時期に入ったいう人たちですね。

Q:広島に新型爆弾が落ちたっていう話も・・・

途中でありました。

Q:知っていたのですか?

電信兵から、ええ。原子爆弾いうことは電信兵は言いませんけどね。電信兵いうのは、日本を離れてシドニーのほうへ行くと、外国の音波も入るんですよね。その中で、「広島にどーん」と。何のことか分かりませんけど、「広島にどーんと新型兵器」。そのくらいのことですよ。だから、帰ってみて、軍隊をやめて広島に帰ったときに、本当に焼け野原で、似島がここから見えますけどね。もう、全部なくなったから、非常に近く見えたね。そんな印象がありますね。だから、原子爆弾いうのは、原子爆弾とは言わなかったが、やはり、外国の放送を受信しておりますから、ぼーんという表現ですよね。

もう、広島に帰るときには原爆で何もないでしょう。私の母親は、原爆で亡くなっていて、独りになっちゃったですからね。そこからはもう、軍隊のことは頭から消えて、あしたから、あるいは、今後の生活を何しようかいうほうへ頭がもう行っちゃうよね。広島は、東洋工業が唯一大きな企業で、製造業なんです。あとは何もありませんでしたからね。だから、ここは第5師団で軍の仕事が多くなったね。兵器廠、被服廠、糧秣(まつ)廠いうのですね。もちろん、そういうところに就職するとか、あるいは、軍の仕事をするなんてありませんからね。あとは、手に職もないじゃないですか。何で生活するかいうのは、自然に駅前の露店に結びついたんですね。駅前の露店に結びつく。それじゃ、商売のネタは何にするかというときに、干し柿につながるわけですよ。

Q:広島に戻られたときは、本当に何もなかったんですか?

広島には、全然、何もないですね、原爆で。だから、うちの本社に資料館がありますよね。あれは、原爆が落ちたところからずっと、一目見たら、広島の復活が全部分かるんですね。

私には兄弟がおったけど、生き残ったのは、軍隊に出るときは妹と母親でしたね。ところが、母親は、原爆で亡くなったと。妹は、嫁いでどこかへ行っとるというような、帰ってから分かるよね。だから、ここからが私の生活の、それじゃ、何をするかないうのはね。勤めるところがないでしょう。手に職がないからね。そうしたら、駅前を降りたときに、ああ、あそこで何かやりよったなと。あれなら私でもできるかも分からんなと行ってみたら、ああ、これならできるなと。ただ、ネタがないじゃないかいう。何を売るかやね。それで、考えていると、ああ、ワタナベセンキチが家で干し柿言いよったな。あれは・・・・だから、それじゃ、行ってみるかと行って、山の上ですから、畑がないよね。米をつくるわけにいかんから、ワタナベの家はね。だから、柿の時期に柿をうんと買うて、干して、売って、これが生業だという。そうしたら、「それを分けてよ」いうことで、闇市で売ったら、すぐに売れて、すぐに持って帰った。ああいう繰り返しで、そのうちにだんだんと覚えてきたね。物々交換で、地下足袋を持ってきて買うてあげた。結婚衣装を買うてあげた。これは昔の父親の洋服だから、引き取ってよと。そんなのが何でも売れた時代だからね。それが私の生活です。ただ、何で生きてきたかいうと、子どものときに、やっぱり家が貧しかったから、尋常(高等小学校)も何年生ぐらいからか、新聞配達があって稼ぐとか、近くの川に行って、ハマグリとかアサリをとって、それを売って歩くとか、そういうことをやったから、いわゆる、商売のようなことが苦にならなかったんじゃろう思うね。何でもやれると。

Q:最後に、すごい難しい質問かもしれないですけど、山西さんにとって、伊400という潜水艦は、人生においてどういう意味があったものですか? 伊400とは。

やっぱり、戦争に行って、海軍ですから、船に乗るとしたら、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、航空母艦といろいろある。航空母艦にも乗ってみたなと。しかし、潜水艦がいちばんロマンでよかったなと。第一、家族的じゃないですかね。食べ物は何でもある。それから、やはり、これだけの設備をしながら、実戦は、最後のところでやらなかったわけですからね。悲惨な思いがないね。ロマンで、いいとこばっかり。やっていることが雄大ですよね。たった2台の潜水艦で、6機積んで、アメリカ太平洋艦隊のところへ、言葉が勇ましいけども、殴り込みをかけるだけの軍事作戦をやったんでしょう。その間に、訓練は七尾湾で随分やったなと。ここでいちばん、びっくりするんじゃないですかね。写真で見ると、航空母艦がわあっと並んどるでしょう。あれに6機が行くんですから。そういう作戦をやった。1日の違いで戦争が終わった。何で1日やいうたら、片一方の相棒が来なかったんだと。何で来なかったんやいうと、いや、その原因は分からんけども、コミュニケーションが悪くて、合流点から100キロも離れたところでうろうろしておったというね。だから、うろうろしておったから、私は生き残ったかも分からんね。

ただ、何百万人の中の一つの潜水艦で、その中の1人の活躍で、この人が柿を売り出したから、今の2万人の人が働く職場ができたという。それがずっとつながってるからね。だから、おもしろかったと言うてええか、我が人生は。

Q:今もやっぱり潜水艦がすごく泊まってますよね、ここから見ると。

はい。そうねえ、ここはやっぱり潜水艦の基地で、これが潜水用の桟橋。船が沖に泊まっておるから、ボートで迎えに来る、そういう作業があったんだと思うんです。72~73年前の伊の400潜のことをここで思い出すね。はい。だから、こうしてこの現代の潜水艦を見ると、私が乗っとった時代と全然違うけども。やっぱり、ああ、あれでやっぱり戦争に行ったんだなというね、そういう思い出が、70年前のことが、もう、すぐ前にあったような、そんな気がして・・・、20歳に若返るんじゃないですか。

出来事の背景

【“幻の巨大潜水艦” 伊400】

出来事の背景 写真 伊号第400潜水艦-通称「伊400」は太平洋戦争において世界最大の潜水艦で、当時日本の持てる技術すべてを投入し建造されました。伊400最大の特徴は“潜水空母”であること。通常の潜水艦の2倍となる艦体に3機の攻撃機を格納、敵地近海で浮上し攻撃機を発進、奇襲できるという当時の日本海軍艦艇でも有数の攻撃力を備えていました。
 伊400の建造開始は昭和19年12月。数々の技術的問題を乗り越え、3年の月日をかけて完成します。建艦計画時には、その特性からアメリカ本土空襲が考えられましたが、伊400が海に出た頃には、日本を取り巻く状況は一変していました。
 戦局が悪化し敗退を重ねた日本海軍では、ベテランの潜水艦乗組員もその多くが失われ、伊400の195名の乗員のほとんどが10代・20代の若者ばかり。作戦も米本土攻撃から「パナマ運河攻撃」に変更されます。当時、日本と同盟関係のイタリアが降伏、ドイツも敗色濃厚で、ヨーロッパ戦線・大西洋側にくぎづけだったアメリカ海軍の戦力が日本と戦う太平洋になだれ込んでくるのは確実でした。そこで米軍移動の最短ルート・パナマ運河を“潜水空母”で破壊、通行不能にする作戦でしたが、これも準備・訓練のうちにドイツが降伏、米艦隊の移動も完了し、作戦意義を失います。
 再び作戦は変更。次の任務は、南太平洋のウルシー環礁攻撃とされました。ウルシーでは多数の空母を擁する米海軍の大機動部隊が集結し日本侵攻を準備中。そこを伊400で攻撃、米軍の艦艇を一隻でも多く沈め日本防衛の捨て石となる。まさに決死の作戦でした。
 しかし、伊400が同作戦に従事する他の日本潜水艦との合流点に到着、待機中に、日本は終戦を迎え、戦闘は停止。伊400は“幻の巨大潜水艦”として、その戦いを終えたのです。

証言者プロフィール

1922年
広島県佐伯郡玖波村(現・大竹市玖波町)に生まれる
1943年
大竹海兵団に入団
1944年
潜水艦伊400に乗り組む
1945年
7月、ウルシー環礁へ向けて出港
 
8月、太平洋上で終戦を迎える
 
戦後は露店を始め、株式会社イズミを創業する

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