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タイトル 「装甲が貫通し死んだ戦友」 番組名 [静岡スペシャル]陸軍少年戦車兵学校 ~少年たちがあこがれた戦争~ 放送日 2015年7月31日
氏名 飛岡 繁美さん(少年戦車兵 占守島の戦い シベリア抑留 戦地 日本(占守島)  収録年月日 2015年7月2日

チャプター

[1] チャプター1 陸軍の華だった戦車兵  03:37
[2] チャプター2 兵学校生活と訓練の日々  03:51
[3] チャプター3 「人車一体」  06:03
[4] チャプター4 悪化の兆しを見せる戦況  03:59
[5] チャプター5 満州へ  03:25
[6] チャプター6 占守島の防衛  10:12
[7] チャプター7 始まった戦闘  07:30
[8] チャプター8 出撃  04:28
[9] チャプター9 撃ち抜かれた装甲  04:55
[10] チャプター10 突撃していった連隊長  05:03
[11] チャプター11 戦場・死に直面して  04:54
[12] チャプター12 死んでいった仲間、生き残った自分  07:28
[13] チャプター13 シベリアへ  04:56
[14] チャプター14 故郷へ  03:22

提供写真

再生テキスト

Q:どうして少年戦車兵学校を受けようと思われたんですか?

時の、そのころ、軍国時代でしたから、遅かれ早かれ軍役に服さねばならん時代でしたから、男の子の元気である限り。ちょっと早めに入っただけです。

Q:徴兵を待とうとは思われなかったんですね。

思いませんでしたな。まあ早く入った方が楽になるからと思って。

Q:早く入った方が大変なんじゃないんですか?

戦局が厳しくなりかけとったころで、早く入って、早く苦労した方がいいと思ったんですけどね。どうせ取られるんだから、まあ早めにでも入ろうと思うような軽い気持ちでしたよ。

Q:ちょうど入学されたときが開戦の年ですね。

ええ、入学して間もなく米英と開戦になったんです。

Q:当時はもう、全国的に空気は戦争の雰囲気が強まってましたか?

ああもう軍国時分でしたから、昭和12年に中国と戦争を始めて、(昭和)16年ですから、もう軍国一色です。

昭和15年でしたね。松竹の映画に『西住戦車長伝』というのがあって、上原謙主演で、戦車の、戦車隊、戦車戦闘の映画がありました。まああれを見て、思いついたというんでしょうか、戦車兵学校に。こないだも皆さんがそう言ってましたね。先日の会合でも。

Q:同窓生の方が?

ええ。

Q:じゃあ当時のその10代の少年たちは、そういう映画とかにやっぱりこう影響されたんですかね?

そうですな。

Q:どういう気持ちでご覧になってました?

同じ軍隊に入るなら、歩兵なんかで歩いて歩いて行軍をして苦労をするより、戦車の方が華々しく感じられたもんですから。

いやまあそれは、行軍演習なんか、楽しかったですね。それから、校外訓育演習といって、靖国神社へ参拝したり、あそこの千葉の香取神宮か、あそこが戦の神様でしたから、あそこへ参拝したり、そういう修学旅行みたいなのがあったのは楽しかったです。それから行軍で、民家宿営をするんですよ。

Q:民家宿営?

はい。民家に泊まるんです。行軍で行ったら。千葉では茂原市に泊まりましたね。富士では清水市や藤枝市に泊まりました。行軍で行って。行軍って戦車の行軍、自動車の行軍。

Q:戦車に乗って町を練り歩いて、民宿をするという。

はい、そうです。

Q:それは、訓練としては何を鍛える訓練だったんですか?

行軍は操縦訓練ですから。それから途中で故障が起きたりしたら、修理などの教育訓練、そういうことでしたね。それから富士川で渡河演習をやりました。戦車の水が入ってきそうなところにはグリス詰めて、あのころ、今の富士川とは違って、まだ水量が多かったですから、戦車もこのぐらい、このへんまで浸かったかな。

Q:戦車の半分ぐらいは水に浸かるんですか?

半分以上は浸かったですな。あのころは水量が多かったから。

Q:じゃあ、川の中もそうやって入って、水に耐える訓練を。

ええ。富士山1周の行軍をしたことがあります。これは自動車で。あれはなんですね、本栖湖からずっと山中湖通って、籠坂峠を越えて、御殿場の奥に下りて、小山町ですか、あっこは。下りて、それから沼津のほうへ出てきて、沼津のへんでもう日が暮れたかな。

Q:そういう訓練は楽しかった思い出が。

まあ兵営より外に出るのは楽しいですから。

Q:何か日常的に同世代の男子でこう話した会話とか、どういう会話されてたんですか?

まあそれは戦局のニュースが、最初は連戦連勝みたいでしたから、そういう話です。どの方面に行かせるだろうか。そしたら、どうして手柄を立てちょるだろうかいう話をしましたね。

Q:飛岡さんの日記にもよく「人車一体」っていう言葉が出てきますね。あれは、戦車学校で習う言葉ですか?

はい。あれは、戦車と同心になれということです。実際の戦闘でも夜は戦車の下にもぐって寝るんですが。満州でしたら、カンテラ、カンテラじゃない、アンカをおこして、それで戦車のエンジンが冷めないようにして、そのへりに、戦車に、底にもぐって寝るんですよ。戦車の中は冷えますから。鉄の塊ですから。厳寒の頃には。冷えてしまって、零下以下になるから。戦車の下に火鉢を抱えて寝たもんですが、それを「人車一体」と言ってました。当時は。

Q:そうすることで、どういうことを目指していたんでしょう?

まあそれは厳しい戦闘に耐えるということですね。戦闘は昼間だけするんではなくて、2日も3日も行軍をして、そのあげくにして、また行軍、また戦闘というようなことを予想しての訓練です。

Q:そのためには、人と車が一体になると。

はい。

Q:戦車に乗っての訓練っていうのは、学校のときは楽しみでしたか?

ええまあ、乗車訓練は楽しみでした。自分で操縦するのが。それも、代わりばんこにするんですから。40人の区隊に戦車が1台、2台、3台か。それから、トラック、自動貨車が1台配置されていたのですから、戦車の操縦も交代で順番に、行軍なんかでも何十分ずつかずつするんで、自分がハンドルを握るときは、ハンドル、戦車は操縦かんですか、楽しかったですね。

Q:中っていうのは、結構でも狭く感じられますか?

ああ狭いですよ。何メートルでしたかな、幅が。このくらいのところに、操縦席と銃手の席があって、もっと狭いかな。なんか。後ろに砲手は立てっとるの。砲手は座るほどじゃないから立っとるんですが、立ちどおしですが、その後ろに車長がまた立てって。まあ銃手と操縦手はこう座ってますから、こういう格好で。

Q:エンジンが積んであったり、火薬を積んでいたりということで、中は結構窮屈な・・・

はい。戦車の中には、壁にずーっと砲弾を積んでましたし。

Q:どうして壁に弾を積んでたんですか?

置くとこがないですから。壁にすぐ取って、込められるように。ずらーっと、くるーっと砲弾はぶら下げてました。

Q:壁は結構分厚かったんですか?

あんまり厚くないんですよ、日本の戦車は。あれが日本の主力戦車ですけど、あれでも3センチぐらいです。

Q:あれは中戦車?

中戦車で。

Q:中戦車で3センチほど。

はい。それから、軽戦車になると、1センチ少々ぐらいですから、対戦車銃でも軽戦車は貫通したもんです。

Q:そんな薄い壁の壁際に弾薬を並べていくって、危険じゃないんですか?

危険ですよ。貫通を考えておったら戦争になりませんから、貫通しないもんだとして戦車の構造ができとるわけですから。

Q:今思うとちょっと危険な。

はいはい。まあ薄くて、マッチ箱の親方ぐらいな戦車だったと思うんですよ。九五式軽戦車。

Q:昭和18年になって、卒業を迎えられる、2年間で卒業されたんですよね。当時は卒業のときになると、時代はどうなってましたか?

もうそろそろガダルカナルから、当時は転進という言葉でしたが、敗退してしまって、それから、アツツ島(アリューシャン列島・アッツ島)でも玉砕、もう玉砕というのが始まりかけていましたから、もう厳しくなっていました。もう日本が負ける方の下り坂を進んでいたです。あのころ。それよりもまだ我々は、まだ勝たねばいけんという気概を持って各地の部隊に赴任したんですけれど。

Q:それは、そういう負けている情報っていうのは入ってはくるんですね?

まあアツツ島の玉砕とか、ガダルカナルの転進とかいうことは分かるんですけども、細かい情報は分かりません。まだまだ威勢のいい報道でしたから、負け戦の細かいことは発表しませんでしたから。

Q:飛岡さんは個人的には、そこに疑ったり、不安になったりする気持ちって、本当になかったですか?

全然なかったと言えばうそですけれども、まあ何とかなるんじゃないかというぐらいな気持ちでしたが。まだ上から威勢のいい掛け声がかけられてきておったから、まさかみじめな惨敗を喫するようなことになろうとは思いませんでしたよ。

Q:上からはどんな言葉があったんですか?

上からは、いよいよ総攻撃を日本がする、力はまだあったと、あるんだから、安心して励めというようなことで、いわゆる大本営発表といわれて、戦後にずいぶん批判を、批判の対象にされている、なんですか、負けた分は隠し、勝った分を誇大に報道する。そういう報道が始まっとったんだけれども、まだそこまで裏は分かりませんし、まあまあなんとかなるんだろうという気持ちでしたね。

満州の部隊に行くとすぐ操縦士を仰せつかって、戦車を1台、責任を持たせられました。ですから、出動のない日は戦車の整備、出動するときには操縦。

Q:そのときは、その夜は、戦車の下で寝てたんですか?

まあそれは演習なんかで遠出をした場合にです。一回冬季演習といって、大規模な演習に出動しましたが、そのときはもう戦車の下に寝て、2日も3日も風呂に入らずに真っ黒な顔になって帰ってくる、そういう経験をしました。訓練を受けました。

Q:まだ敵はいないにしても、実際の戦地で戦車の下で寝る気持ちって、どんな気持ちなんですか?

敵はいないと言っても、すぐそこが国境線ですから、向こう側はロシア。ロシアが仮想敵国でしたから、もう緊張しましたよ。演習でも。

Q:戦車の下で寝苦しくはないんですか?

まあやはり疲れとるから、すぐ寝ますよ。それから、酒を、酒が支給されますから、酒を飲んで、寒さに耐えるためにもよく酒を飲みましたね。体が温まるから酒を飲む。

Q:気持ちを変えるためにも、お酒は良かったんですかね。

はいはい。

Q:やっぱり緊張した日々がありましたか?

やはりすぐそこが国境線だということで、緊張はしましたよ。まあ緊張の中にもまだ余裕がありましたが。

Q:その訓練とかをするとき、その戦車は故障したりっていうことはあったんですか?

日頃整備整備といって念を入れて手入れをしていましたから、演習中に故障を起こしたことはありませんね。

Q:当時使われていた戦車は、何年製ぐらいのものだったんでしょうか?

九五式軽戦車といって、私が乗っとったのは。

Q:昭和19年になって、満州から北千島の方へ移動されたんですよね。5月ぐらいにはもう日記には空襲がかなり来ていたとありましたけど。

はい。あれから来るんです、アリューシャン列島から。ほとんど毎日のように空襲が北千島にありましたね。

Q:それは米軍のということ?

米軍です。

Q:初めてそういう戦闘状態を見たんですよね?

はい。もう千島に上陸した第1夜、空襲がありました。もうそのころ、まだ日本の航空隊も千島にいて、かなりおりましたから、迎撃機が舞い上がって、空中戦をよくやったりするのが見えましたな。

Q:音とかはどんな感じなんですか?

上空で爆音がして、空中戦なんかやるんでも、あまりそんなに下には聞こえませんから。

Q:でも空ではやりあっているのが見えると。

はい。まあ天気のいい日でないと見えませんけれども。まあ天気の悪い日の方が多いかったりする。濃霧と吹雪、まあ吹雪の頃、これは敵もやってきませんけども。濃霧の厳しい日は来ませんし、天気のいい日だけやってきよったというようなことでしょうか。

Q:6月には艦砲射撃もあったと。

はい。艦砲射撃は直接近いところで受けたのが、(昭和)19年の6月ですね。アメリカの機動部隊がやってきて、飛行場が、海軍の飛行場があったんですが、北千島最大の飛行場でしたけど、そこを狙ってくるんです。我々は山手の方におりましたから、直接撃たれはしませんでしたけど、すごく砲撃音で。

Q:どんな音なんですか?

大砲の音ですか? いや、雷のような音ですな。それから後ろの山に日本の砲台がありましたから、それが砲射するその弾が飛び交う下におったわけですから。初めての経験で、ちょっと緊張しましたね。あのときは。これは敵が上陸してくるんじゃないかと思ったですけど、そんなことはありませんでしたが、1時間ほど砲撃して、飛行場を使用不能にして、それから去って行きましたが、約2千発ほど撃ち込んだというふうに記憶してますけれども。海軍の飛行場は数日間使用不能になりました。弾痕だらけで。滑走路が。

Q:亡くなった方も結構いらっしゃったんですか?

何人か亡くなりましが、そんなたくさんの数字じゃありません。10何人でしょうかね。

Q:じゃあ、音というかその空気が怖かったということですか。

はいはい。

Q:そのときには、手記の方には初めて死が迫ったような恐怖と書かれてましたけど、お気持ちとしてはどんな感じですか?

いえまあその、なにぶんすごい砲撃音で、緊張しましたから、やがて敵が上陸してきたら、これは戦闘が始まるぞと、戦車も出動せねばならんと思う程度で、死が迫ったようなというのは、やはり文章の形容です。

Q:なるほど。そこまでではまだなかったけれど、でも怖かったという。

はい、緊張しました。

Q:戦車に肉薄する、肉薄攻撃演習というのもあったと書かれてましたけど。

はい。それは歩兵隊がやる訓練で、戦車がモデルで来るんです。仮想敵になって、上陸して、進撃してくる。それを歩兵が爆雷を抱えて、接近してきて、戦車に投げつけて、そして反転して逃げる、そういう訓練をしに歩兵隊に行きましたね。

Q:敵の戦車に爆弾を直接投げるという作戦?

はい。戦車の下に投げ込むんです。ですから、特攻です。死を、たぶん死ぬでしょうな。すぐ反転をする訓練をしておりましたけれども、投げ込んで、バッと身を伏せて、後ろに下がる訓練をしました。しておりましたが、まああれが爆発すれば、戦車も動けなくなる代わりに、攻撃をした方もやられるでしょう。とても助からんのじゃないかと思ってましたけれども。

Q:生活とか物資っていうのは十分北の方まで届いていたんですか?

いえ。もうそのころになると、(昭和)20年になると、内地から補給する貨物船なんかはオホーツク海で次々と沈められてしもうて、いくらも届かんようになったもんですから、食料はだいぶ持っていましたけれども。節約するためにコンブとかサケ、マス、そういう物はずいぶん採れますから、現地で。それを混ぜて量だけは普通の量にするって、そういう給与になっていました。

Q:現地で自活する方向になって。

はい。現地自活と言いまして。ええ。内地、内地から補給を頼らずに、主食は節約して食い延ばしを図り、コメ、サケ、マス、現地で採れるコンブ、そういう物を混ぜて主食にするように。まあ、戦国時代の城に籠城すると同じように、北千島籠城と、占守島籠城と言われることを言ってましたけども。

Q:つまりそれぐらい国力も落ちてきていたということですか?

落ちてきたわけです。そのうちにあの、千島の航空隊は全部北海道防衛に引き揚げてしまいましたから、もういよいよ前線に置き去りにされた島ということで、前途は、前途のない、展望のない、陣地守備、守備隊ということでしたなあ。もうそのころは、これはもう負け戦だというように感じるようになりましたから。もう南方の島が次々と陥落するという。玉砕していく。いずれ我々、この島も玉砕じゃなあと思う気で、気になってしまいました。それでも何とか助かるんじゃないかと思って、いよいよ絶望までには至りませんでしたけれども。

Q:(8月)15日付近はどういう感じだったんですか?

終戦、まあ、戦争が済んだということで、何か解放されたような気持ちになって、やれやれこれで苦しい軍務が終わった。いずれ内地に帰れるだろうと、ま、そういう気持ちになったんですが、ところがそれから3日後、ロシア軍が上陸してきまして、厳しい激戦をしまして。実際の戦闘は日本軍の方が勝っとったんですが、あのう、もう日本の本国が手をあげてしまっているから、やむなく終戦、停戦ということで日本が負けたんだから武装解除を受けて、それから一切、ソ軍の軍令に服さなければならなくなって。ま、捕虜になったわけです。

Q:18日の日は、どうやってソ連が来たということが分かったんですか?

えーと、午前、午前2時。2時過ぎにソ軍が国端岬というて、あのいちばん北の端ですが、そこに上陸をしかけたという情報がありました。それから間もなく出動命令が下って、戦車に乗って出動したわけです。

Q:一応終戦していたわけですよねえ。

はい。ああ、終戦は、その前に大体知っていました。まだ正式なシサツはなかったけれども、よその部隊では、終戦の詔書の奉読式をしたとかいう情報が入ったり、それから本部の通信係に行っていた、うちの中隊長車の通信手の少年通信兵出身のセト軍曹というのが本部から帰ってきて、「これこれの通信を、受信した」ということをみんなに話したので、こりゃあ日本が負けたということで、まあ、ハッキリと知りました。やれやれ、これで、長い軍役は終わるんだ。もう解放されたような気持ちに半分はなっていたんですけど。そこへソ連が上陸してきて、厳しい戦闘をせねばならなくなったということです。

Q:もう武装解除し始めていた戦車もあったんですよね。

武装解除は、あのう、敵に解除されるんですから、戦争が終わったということで、もう戦車を海に沈めてしまおうとか、それから、銃とか砲とか戦車は積んでいますが、それを下ろしたりしとった戦車もある、あのう、隊もあるようです。私どもの中隊は何の正式な停戦の、終戦の下達がないから、8月15日以前の武装のまま、そのままの状態でしたから、やれ出動ということになるとわりと早く出発できたわけです。

大体その敵が上陸してくると、まあ、あの水際で、水際で、まあ防御するというのが従来のやり方でした。ところがアメリカは、南方の方の戦例を見ますと、徹底的に艦砲射撃や空襲でたたいて、たたかれて、まあ海岸の陣地や・・・はほぼ全滅してしまってから敵が上陸してくる。そういうことで水際撃滅戦法をやめて、敵を一旦上陸させて、そして重心持久戦法と言いますか、中でいろいろと陣地を構えておるところに呼び込んでたたくという戦法に変わっていましたから、そのころは。

大東亜戦争の初期のころは水際防御、何でも海岸で上陸させないという戦法だったんですけども、それじゃあとても、優勢な敵の空襲、空爆、艦砲射撃などに抗しきれないから、一旦上陸を許してそれから縦横に構えた陣地でよって持久しようという戦法に変わって。それからが、ま、内陸部の陣地構築が厳しくなって。ま、昼夜を問わず陣地構築にずーっとかかっておった次第です。

そういうところに、ソ連軍がいきなり上陸してきたもんですから、艦砲射撃もわずかで空襲もなしに上陸してきた。相手がソ連だということが分かると、ソ連なんかに負けるもんか。やれと言うことで、もう戦車が出撃したんです。今まで出撃をしないで陣地に潜んで砲塔だけ、砲塔と言ってもあの、戦車の上の方のこうグルグル回るところです。あれだけ地上に出して、あとはあの、壕(ごう)の中からトーチカの代わりのようにして射撃をするという陣地をこしらえていたんです。ところが、まあ相手がソ連だから「やれ」ということで、陣外出撃、陣地の外へ出て戦うということで、一斉にうちの戦車隊は出動したわけです。そして、敵は上陸してきて海岸の領地を占領しとったところに戦車を殺到して敵を追い返して海岸近くまで圧縮してしまって、ま、戦争は勝った状態だったんです。戦闘は。

Q:日記の方には、その日にこう、すべて下着も新しくして新調したと。

はい。まあ、そうなんです。まあ、ソ連が上陸してきたから出撃ということになって。まあ、全部下着から替えました。

Q:準備されていたんですか?

ええ。まあその、別に準備をしとったわけじゃないんですけれども。ずっと着てきた汚れた物で戦闘に出たんではいかんと思って。ああ、昔の侍の流儀にならって、まあ、全部下着から替えて出発しました。出動しました。

Q:昔の侍の心境と言うと、こう、死を覚悟してというような側面もあったんですか?

え、まあ、死を覚悟するということはあんまり感じなかったけれども、戦闘に出て行くんだから、死ぬかもしれんと思いましたけれど。人間の本能で、なるべく生きたいという本能がありますから。出動命令が下った以上、もう後ろへ下がることはできませんから前へ前へと、命令のままに出て行かねばならないんで。えー、悲壮な気持ちでしたねえ。男児の本懐かもしれませんが。

Q:それは悲壮な気持ちになりますよね。それで、その戦闘状況なんですけど、その相当大変だったとお聞きしますが、どういう状況だったんですか?

ソ軍は戦車もなく歩兵が主力でしたから、迫撃砲というあの、小さな砲を持っていたぐらいで。それで日本の戦車隊が押しかけて行ってずーっとすぐ押し返してしまったんです。四嶺山という山を、上陸地点から近いとこですが、要地ですわ。そこはいったんソ連軍に占領されていたのを戦車が進出してすぐ奪い返しました。それから山の敵の上陸地点までグーッと押し返してしまった。そういう状態で停戦交渉が始まって。

Q:戦車でこう出撃されて行ったときに、その砲撃や銃弾に遭われたわけですよね。

いや、まあそれは四嶺山を越えてから。

Q:越えてから。

はい。

Q:越えてからどういう状態だったんですか?

敵は戦車なんかないんです。持ってないんですから、歩兵が主力ですから。戦車で思い切り圧倒して行きました。それでも戦車は、大体あの千島の占守島なんか大きな植林や山林はこう、ないんです。1年のうち半分ぐらいは雪におされてしまうから、人間の背丈ぐらいより大きな植物はないんで。ハイマツ(這い松)と言いましても、松の木でもはったように地上を、なってしまって、上をちょっと頭持ち上げとるぐらいです。先の方を。ですから、戦車はもう丸見えです。進んで行くのが丸見え。向こうは歩兵ですから、ちょっとかがんどけば見えにくい。それでなかなか、苦戦をしました。

それで次々とやられた戦車が出てきました。私の戦車も敵弾を受けてエンジンが燃え出して、それでやむなく放棄したんですけれども。その前に私の隣に座っとる銃手が敵弾が貫通して入ったのが頭に当たって、ガクッとこう死んでしまいました。ものも言わずに。

Q:それをすぐ隣、その狭い戦車の中で隣で。

介抱、介抱してやる間も何もありゃしません。一発で死んでしまったんですから。それで私、戦車はエンジンが燃え出してから、このまま放っておいて、放っておいて火葬にしてしまうのもかわいそうだから、戦車から下げ出して、付近にあった壕(ごう)に死体を担ぎ込んで。担いで帰るわけにもいかず。まだ戦闘中ですから。そのまま置いてきたんですが、ああ、非常に、しばらく、うん。気持ちが休まりませんでしたねえ。かわいそうなことをしたと思って。長い間の戦友だから。

Q:仲がよかった方だったんですか?

ええ。まあ、同じ戦車の乗員同士ですから。もう兄弟以上です。

Q:満州時代から一緒だった方ですか?

いえ、私より1年下の伍長でしたかね。私は軍曹でしたけど。千島に行ってから連隊にやってきた組で。連隊に来るとすぐ私の車の銃手になりましたから、それ以上ずっと付き合いで私の助手のような存在でしたが、愛知県出身の、1回墓参りに行きましたけれども。

Q:その装甲の薄い中戦車を撃ち抜かれたことを考えると、そういう戦車で戦わせた日本とか戦争とかを憎い気持ちにはならないんですか?

まあ、今から思えば、むしろいい経験をしたと思うだけで。上層部を恨んでみてもしょうがないですから。別に、まあ日本の国力、国力、資源のない日本の国、無理に手を広げた大東亜戦の戦場。そういうことを考えると、どうもしかたなかったでしょう。

Q:他にも同じ連隊の方々は、相当死傷されていたんですね。

えー、戦車を19台やられましたかな。19台「かく座(壊れて動けなくなること)」して炎上したりして、敵弾を受けて。そのうちの1台も私の戦車ですが。大体、ポツダム宣言を受諾して日本は降伏しとるんですから、たとえロシア軍が上陸してきても、無理に出撃せんで武装解除、おとなしく武装解除受ければよかったんだけども。当時の軍人の感情として、おめおめと一戦も交えずに手を挙げるわけにはいかなかったということでしょう。

最初四嶺山という山、敵が占領しとった山を奪還するのに、いちばんに、連隊の先任将校、丹生さんという少佐でしたが、その人が戦死したんで、その人は、連隊長と一緒に同じ戦車に乗っとった。それでそのまま戦車に、くくり付けて進撃したのを見ました。もう、私は連隊長がもう戦死されたんだろうか思ったんだけど、でないで先任将校の方でしたから。

Q:遺体をくくり付けて出撃するっていうのは、連隊長はどういう心境だったんですかね。

あのう、連隊長はもう死を、死ぬつもりだったんでしょう。日本が無条件降伏して、生きて帰っても軍人の面目は立たないからいうことで、死を決しておられたと思うんです。それで一緒に苦労した先任将校を戦車から降ろさずにそのまま一緒に進んで行かれたということです。

それからどんどん進んで行って、今度は隣に座っとる同僚が戦死して、まあ、やけくそのような気持ちに一時なりましたね。まあ、どうでもなれと思って。けど、戦車が動かなくなってしまったもんですから、降りて、まあ生きて帰れたんですけれども。

Q:他にも戦死された方は運び出されたりもされてたんですかね。

はい。それは後から。

Q:翌日。

はい。翌日です。後からあのう、うちの連隊、うちの中隊の戦車がかく座しとると言うんで、それを収容に行ったんですけれども。中で2人の死骸があり、操縦手は、あのう、車から脱出して負傷して、後ろに収容されて後方に下げられていましたが、そのまま戦車がほっぽり出してあったもんですから。キャタピラが外れてしまっとった。それをまあ、はめて、私が操縦して戻ったんです。

Q:運び出されたときはどういう思いでしたか?

いえ、前の日に、18日に私の車、隣に座っとる銃手が戦死してその死体を運び出したのと同じ動作でまたその戦車の死体を運び出すのを思って、思わずこみ上げましたね。涙が出ました。長い付き合いの戦友でしたから。その戦車の乗員も。

Q:今でも思い出されますか?

はい。時々思い出して暗い気持ちになりますね。

Q:とくに何を思い出されるんですか?

戦争は、戦争というものは悲惨なものだと思うんです。まあ、殺し合いですから。戦争は。殺さなければ自分が殺される。だから先に殺した方が勝ちというような状態で。当時を思い出しては、二度と戦争をしてはいけないということを考えるんです。勝っても負けても戦争は悲惨なものです。人類同士の殺し合いですから。

戦場には理性も道徳もありません。もう、命のやりとりですから。早く相手を殺した方が残るわけで、キョロキョロしておると殺されるんですから。もう、理性も何もなくなって、殺し合い、殺しっこをするわけですから。むちゃなものです。

Q:相手を殺すっていうことに抵抗感はあるんですか?

ありませんねえ。もう戦闘になったら。理性も何もなくなってしまう。やらなければやられるっていうことで。先に殺した方が勝ちですから。まあ、地上戦の場合はそういうことですが、アメリカのように原子爆弾、爆弾でも落とせば、落とされたらどうしようもありませんねえ。もう抵抗のしようがないから、おとなしく、黙って殺されるだけです。だからああいうことにならんように、戦争をしないように、平和な国であり続けたいものです。

Q:やはり殺さなければ殺されるというお気持ちで、飛岡さんの場合はアクセルを踏んでいたというか、戦車にいたんですかね。

そういうことです。

Q:相手を殺すことに抵抗感はなくなっても、自分が死ぬことは怖いですか?

それが怖いといえば怖いです、人間の本能として。歩兵のように歩いて前に進んで行くんでなく鉄艦の中に入っておるわけですから、我々は。直接弾が当たるわけではないんだけれども、やはり突撃して行くときには足が震えましたな、ビリビリビリっと。小刻みに震えます。ビリビリビリビリ震えるから。こっちはアクセル踏んどると。戦車のアクセルはしぶとく頑丈にできてますから、ちょっとぐらい震えたぐらいでは向こうに伝わらないけど、乗用車なんかのアクセルでしたら触れればガタガタガクガクガクガクしたと思うんですが、しばらく震えが止まらなんだんですが、そのうちに止まりましたけど、武者震いというやつですね、昔から言われとる。怖かった、ちょっとの情は。

Q:自分が死ぬ恐怖と人を殺すことへの抵抗感はない理性が飛んだ状態とのはざまで、どうやってその精神状態を保ったんですか?

それはやっぱり今まで培われてきた軍人の習性と言いますかな、軍人は戦闘するのを職業としておりますから、いったん命令が下るともう前に前に進むよりほかにどうすることもできないし、半分は諦め、やけくそ、そういう状態です、戦闘をするのは。どうでもなれというような気になります。けどなるべくなら死にたくないから、その「生への希望」だけは失いませんでした、最後まで。人間の本能です。

Q:飛岡さんが見たいちばん悲惨だった景色っていうのはどういうものですか?

いちばん悲惨にですか? それは次々と仲間が死んでいったことです。今朝出発するまでは元気で「頑張ろうね」と言っとった連中が、晩にはもう死んでしまってる、寂しかったですな。それでも自分だけはなんとか助かりたいという、人間の本能だけはありましたけれども。けど命令のままに動かねばならんので、自分が思うようにはならず、運が良かったということでしょう、私は生きて帰ったから。あの戦場から生きて帰ったのが。他の戦車、一緒に進んだ戦車は皆、戦死してしまって、戦車が炎上したり破壊されたりしてしまったんですが、生きて帰るということは逃げて帰るいうことですから、あの場合。戦車をやられたから、やられたから生きて帰れたんです。戦車が敵弾を受けてエンジンが燃え出したために、戦車を放棄して戦車から降りたんですけれど、戦車が動いて行ってる限り敵の中に突っ込まねばならず、結局はやられとったでしょうが。命拾いをしたわけです。エンジンに弾が当たって燃え出したもんですから。エンジンは戦車の後ろの方にあるんです。仕切りがあって、後ろは機関部、それから真ん中へんは戦闘室、戦車の乗員が乗って動作をするとこです。前のほうは走行装置。そういうふうに区分されとりますから。敵弾が当たったんが後部のエンジンのあるとこでして、直接戦闘には差し支えないんだけれども、戦車が動かなくなったからしょうがなく放棄したんです。あのままでエンジン部から発火せねば、突っ込んで行って結局、戦車砲なんかでやられとったでしょうな。戦争いうものは単純なものです。弾が当たったらやられるし、当たらなかったら生きながらえる、それだけの差です。だから二度と戦争なんかしないようにと思うんですが、今の政府はまた、いわゆる戦争法案を無理でも通そうとして多数決で押し切ろうとしてますが、ほんとに遺憾な次第です。

Q:飛岡さんが生き残ったときに少し喜びがあったんですか?

はい、それは生き残れた何よりも喜びでしたけれども、それでも明らかにそれを顔に出すわけにはいかず、大勢の仲間が死んでるんですから。そういう死んだ人に対して後ろめたさを感じないわけではありませんでした。

Q:戦地でのご経験をとおして飛岡さんは戦争はいちばん何が恐ろしいと思われますか?

結局人命、命のやり取りですから。殺し合いっこですから。無理をしてでも強いほうが勝ついうことになるでしょう。だからそこには平和の理念も通らんし、正義も通らないし、力で押し切るということですかな。犠牲者が必ず出るわけですから。そういうことです。

Q:理性や理念がない?

はい、多くの命が失われていくいうことです。

Q:人間としての感情とか冷静な判断とか、そういったものがなくなる恐ろしさもありますよね?

はい。理性が通りません、戦争は。結局力の支配です。強いほうが勝つ、弱いほうが負ける、そして勝っても負けても大勢の犠牲者が出る。二度と戦争をしてはならないということです。

千島から貨物船に乗せられて北海道に帰れるんだといっていうことで、喜んで乗ったんですが、ソ連当局もそのように説明してました。「東京ダモイだ」、東京に帰れるんだというようなことを言ってましたけど。千島からオホーツク海を通って樺太の大泊(現・コルサコフ)に入港して石炭を積み込んだり、2日ほどあそこで船がかりをして、それから小樽へ帰るんだということで日本海に出たら、南へ下がらずに西へ西へと、右側にシベリア大陸の大きな山河が見えるんです。これは西向いて行きよるぞ、北海道へ帰れるんじゃないぞということが分かって、がっくりとしましたね、みんな。それで結局ナホトカという港に入って、そこへ上陸して。いよいよこれは捕虜になってシベリアへ引っ張って来られたかと、がっくりしましたな。それからが希望のない毎日でした。ただ食べることだけが楽しみ、その食べることが十分でないから体も弱ってくる。私どものラーゲリ(収容所)に500人最初おったんですけど、しまいに2年の間に180人ぐらいになってしまって、全部倒れたり死んだり病院に入院したりして、180人になったんですよ。

だいたいロシアのやり方が、最小限の食物を与えて最大限に働かせようとするやり方でしたから、牛や馬と同様に扱われて苦しい思いをしました。食物が不足するとやはり栄養が不足するから、寒さでも余計に感じるわけで、飢餓と極寒、それがいちばんの苦痛でした。腹いっぱい食べたいと思うことばかりでしたから。

Q:毎日何を考えていましたか?

食べ物のことばっかりです。腹いっぱい食べたいなと思うだけ。

Q:でも人としての人格は保障されないような生活ですもんね。

人間というよりもう牛馬扱いです。

Q:何のためにやってるんだろうというような、徒労感っていうのはありましたか?

戦争負けるまでは日本のために、国家のためにと苦労するんだと思うような気があったですけれども、誰のためにこんなに苦労せにゃならんのかと思って、ばからしくて、なるべくならサボって楽をしてやろうと、そういうことで毎日を過ごしたんですが。

それで(昭和)22年の4月ですから、帰れたのは。・・・全体が弱ってしまって、帰国の順番が早くなったんでしょう。そのためにではないかと思うんですけれども、早く帰ったうちです。(昭和)23年~24年までずっとおったもんのほうが多いから。

Q:そこでもまた戦友の方々を亡くされて、やるせない気持ちでした?

はい。死んだ者はわずかでしたけど、病院なんかへ入れられて出て行って別れた者がほとんどです。

Q:22年の4月の末にこちらに帰宅されたその瞬間っていうのはどういうお気持ちでした?

それはなんとも言えない感激です。日の丸の旗を立てた復員船が港に入って来るのを見てみんな泣きましたね。

Q:毎日思われてたご家族にもお会いできて。

はい。うちへ帰ると腹いっぱい食べれたから。

Q:安心感とか安ど感の次に考えたことは何だったんですか?

この平和な国を守っていきたいという気持ちです。もう二度と戦争をしないという、そういう国に日本をしなければいけないという気持です。そういうことで政治活動も始めたんですけれども。

Q:私たちも含む若い世代にどういうことを伝えたいですか?

平和憲法を守れということを言いたいです。戦後70年、戦争をしないで、1人の戦死者でも出さない国は日本だけですから、これを、戦争をするような法案を作ったりしないで、今の平和憲法を守っていかなければいけないということを言いたいです。

出来事の背景

【陸軍少年戦車兵学校】

出来事の背景 写真 陸軍少年戦車兵学校は昭和16年に設立され、14歳から19歳までの少年たちが全国から集められました。学校設立のきっかけは、昭和14年のノモンハン事件でした。日本軍は、中国東北部とモンゴルの境界をめぐって、ソ連軍と衝突し大敗。兵士の育成と、軍備の再構築が大きな課題となったのです。戦車兵には、操縦や整備など、高度な技能が必要とされていました。学校を設立することで、10代から専門的に教育して、戦車兵を増やそうとしたのです。少年戦車兵を募るポスターが全国のまちに貼られ、戦車兵になることがお国のためになると宣伝されました。少年たちは次々と戦車兵学校を目指し、競争率は数十倍の難関となりました。

 学校の育成課程は、2年間。「人車一体」をスローガンに徹底した教育が行われました。戦車の整備や修理ができるように、車体のしくみを学習するほか、通信の訓練や、実戦にみたてた演習なども行われました。しかし、戦局が悪化し始めると信じられない戦法を教えられました。アメリカ軍の戦車は、装甲が厚く、日本の戦車砲では打ち抜くことができなかったため、砲塔の脇ののぞき穴を狙うという戦法でした。それは、500メートルの距離から、数センチの穴を狙えと言うのと同じ事でした。

 一方で、日本軍の主力戦車は装甲の厚さは、1センチから2センチしかありませんでした。車内は狭く、銃弾や砲弾は、壁ぎわに置かざるをえませんでした。薄い装甲を敵弾が貫通すれば、一瞬にして全員が命を落とすこともあったのです。少年たちは、いざというときの自決のしかたや、遺書を書き、遺髪を用意することも指導されました。当初2年間だった課程は、戦況の悪化に伴い短くなり、繰り上げ卒業をして戦地へ赴いていきました。

証言者プロフィール

1924年
岡山県鏡野町に生まれる
1941年
12月、陸軍少年戦車兵学校に入校 
1943年
11月、卒業し、満州(現・中国東北部)へ。その後、占守島へ
1945年
8月15日、占守島で終戦を迎える
 
8月18日、ソ連軍が島に上陸し戦闘となる。その後、シベリアに抑留される。
1947年
4月、復員
 
戦後は、農業を営む

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日本(占守島)

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