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タイトル 「空襲犠牲者をだびに付した」 番組名 [YAMAGUTICスペシャル]戦争の記憶 そして未来へ ~やまぐちの“戦後70年”~ 放送日 2015年7月17日
氏名 中尾 亮学さん(徳山空襲 戦地 日本(山口・徳山)  収録年月日 2015年6月3日

チャプター

[1] チャプター1 空襲で焼けた寺  04:05
[2] チャプター2 脳裏に焼き付いた犠牲になった人々の姿  04:11
[3] チャプター3 犠牲者をだびに付す  05:43
[4] チャプター4 12歳の目で見た戦争  03:08
[5] チャプター5 焼けた街からの復興  09:01
[6] チャプター6 徳山大仏  05:25

再生テキスト

Q:空襲の後に、こちらに戻られたと思うのですけど、そのときのここの様子というのはどういった形だったのですか?

いちばん最初はですね、境内がずっとまだ向こうまでありましたので、庫裏(僧侶が居住する場所)が向こう側にあるわけですね。入ってきたら何にもないわけですよ。こっち見て。本堂はないしですね、庫裏もないし、この蔵だけがここに残っていた。何にもないので、ぼーっとぼう然としとったというところですかね。誰も帰ってこない、弟と2人だけですからね。何て言うかな、どうしていいか分からないというか、そんな感じですね。何もなかったです。本堂に来るとかいうことはなしに、兵隊さんがここにいましたものですから、本堂のほうに行くよりはいちばん最初、庫裏のほうを見たんですけど、庫裏のほうには行ったんですけれども、母なんかもまだ帰ってきませんでしたからね。弟と2人だけでぽつんと防空ごうのところに立ってたんですよ。それとしばらくたってから母が帰ってきて、ほっとしたというところですね。

Q:ここは何もない状態。

何もないです。はい。

Q:焼け残りの木材とかは多少?

そういうものはあったと思いますけど、そこまではまだ細かくは見ていません。だからもうそれよりは自分がいつも住んでた庫裏のほうに目が行きますのでね。目線が行っても本堂は何もなかったですから。見てから、残っていたのは門と蔵しかありませんでしたから。何にもないっていうのが、どうして無くなったんだろうかな、という感じですかね。そういうなので、びっくりしたというような気持ちですね。

Q:それはやっぱりそれだけ空襲がすごかったとか、焼夷(い)弾がすごかったとか。

焼夷弾はですね。上からパッときてそれが開くんですよ。開いてからばばばばっと落ちるんですね。ですからいちばん最初はこう、…を落とすんだと思って、それから開いてから花火みたいな形で落ちてきます。落ちてきたら道路が燃えるわけですね。燃えるところを逃げるわけですから、もう大変ですね。それから現物を見たのは逃げる時でなしに済んでからあとですね。それまでは落ちるところまでしか見てないです。済んでからあと、現物のこれが焼夷弾っていうものかなというのを見たんですけどね。それがたくさん落ちてるんです。お墓のところにいっぱい。1つ2つとかいうもんじゃないです。もう何十っていう、焼夷弾が落ちてましたから。

Q:そのときのお気持ちというか、本堂とか母屋がなくなっている状態のときというのはどういうことを思われていたのですか?

どういうことっていうよりも、とにかくぼう然っていうんですかね。そんな感じですね。だからあのまずいちばん最初に思ったのは、母やら妹たちがどうしてるかなってことですね。私と弟しかいませんでしたから。だから兵隊さんもいなくなりましたから、ただ私と弟2人だけが残されたわけですから、どうしていいやら分からなかったですね。ただぼう然としよったということですね。おなかが減ったとかいうことはあんまり感じなかったですね。ただもう、どうしていいやら分からないという感じですね。

しばらくたって母が帰ってきまして、はーよかったのうって思ったんですね。母親がやっぱり見て、私は子どもですからその後の様子っていうのはどうしていいやらっていうのは考えてませんでしたから。母親が見てから何にもないから、その母親の顔を私は子どもですから必死に母親の顔を見てました。母親がもう、きーっと引き締まった顔をしてました。やっぱりこれからどうしていったらいいんだろうかなっていう思いがありました。住職も戦争に出てましたから。そういうような形であとに残されたのは女子どもしかおりませんでしたので、どうしていいのか分からないというような状態ですね。だから母親がいちばん緊張していたのではないかなと思います。行くところがありませんので、すぐさま私たちは母のいなかのところへ疎開していったわけですね。何もないわけです。そしてこう弟と、ばあちゃんは置いとって、私と母だけが2人がここにやってきてから見るんですね。どういうような状態になったんだろうかっていうので。歩いて久米から帰ってきて1時間くらいかかるんですよ。1時間くらいかかるのに来てから様子をこう見てからしばらくして帰るというような形をとって。そのときにだびに出会ったわけですね。だびに出会って、その明くる日だったかどうかっていうのは記憶にはっきりしてないんですけれども、そのちょうど遺体を入れておって、私が見た時には、ちょうど市役所の人がその小口のところにおられまして、帳面に書いておられました。帳面に書いておられて、私がすぐ焼けたところで、今建物の構造がちょっと違いますので。中にこうやって入っていきますと、このあたりに市役所の人がおられてから、帳面でいろいろと書いておりました。建物は全く何もありません。だからもう私が見たのはちょうどこのあたりだったと思うんですね。このあたりで見ますとちょうどいちばんここの今椅子が置いてあります、このあたりにですね、頭に焼夷弾をパサッとはまりこんだ人がここに横になっている。ここに今いすが置いてあります。ここのところにはお母さんが赤ちゃんをおぶったままで、何にもなくて、煙にまみれて亡くなったんじゃないかなと思いますが亡くなってる。ここのところを見たら、ここがいちばん印象に残ったの。真っ黒に焼けてる。真っ黒に焼けてから、これは真っ黒だから火を浴びてるなと、こう思って。この3体だけが自分の間近でじっと見ました。あとは向こうの方は少しかぶせてあったと思います。この3つだけがずっと子どものときから印象が頭から離れないっていうような、そういう思いがしてますね。だから特に(子どもを)おぶったお母さんは、そのままのかたちでこう亡くなってる。それはもう焼けて黒くもなっていないのに・・・ようなかたちで亡くなっている。子どもさんをおぶったままですね。まあ、まさか頭の真上に焼夷弾がはまってるかっていうのも珍しいと思ってですね。こんなところによう焼夷弾がはまったんじゃのうといまだかつて思ってますね。黒焦げになった人というのは、これ焼けたんだなというのはすぐに分かりましたけどね。いまだこの3体だけが頭から離れない、何十年たっても離れない。あとの人は正直言ってたくさん焼かれたわけですけども、自分の目から直接見てからじーっと強烈な印象を受けたという感じはありません。いちばん身近なこの3体だけは強烈な印象残って何十年たってもいまだかつてすぐにぱっと浮かんできます。

よくここでみなさんが集まる時に、「ここでだびに付したんですよ」と。ですから「ここのお寺とそれから隣の徳応寺さんと、それから八正寺さんでだびに付しました。みなさん今座っている下にいっぱいお骨があったんですよ」とこういう話をするんです。そうすると集まった人は、どこにお骨があるんじゃろうかというような感じでですね、ピンとこう今頃はしないですね。年をとった人は分かるかもしれないですけど、ほとんどはまあ建物やら構造が全然変わってますから、戦争のあとっていうのはあまり感じないというのが事実ですね。

Q:最初の所をお伺いしたいのですけど、3列に穴を掘って、木材を使ってというようなお話しだったと。

あのですね、ここ今4つあるけども、4つはなかったと思う。3列だったと思う。3列でですね、この赤土ですか。壁ですかね。壁の土がこう落ちてる。そこのところをこう掘って、その上にこの板をこう置いて、板の上に人間を乗っけて、その上にまた焼け残りの木なんかを全部かぶせまして、トタンを置いて油をかけて焼いたんです。だからもう私なんかは最後までいませんでしたけど、近所でおられた人なんかはとにかくくさかったと。何かっていうとどんな臭いかっていうと頭の髪の毛を焼いてちりちりというあのくさい臭いが、その猛烈なそれが臭いだったんですね。そのにおいでとてもじゃないけどおれなかったという。だからたくさんの人を一度に焼いたにおいというのは猛烈だったんじゃないかなと思いますけどね。それで日にちがたってから来たら、焼け残りのお骨なんかがいっぱいあったということですね。その明くる日に来たかどうかというのは、私もはっきり覚えてません。だいたい母と私が毎日のぞきには来たんですけど、その日が明くる日だったかというのは分かりませんですが、市役所の人が主だったお骨をだいたい拾っておられたんじゃないかなと思います。焼け残りの半焼けの手首とか、頭蓋骨とかそういうものがあったことは間違いないですね。

Q:どれくらいだびに付したご遺体というのはあったのですか?

人数は何人かというのは分かりませんですね。それから3か所で徳山で亡くなった方を焼いているわけですから、5月10日の空襲のときはお寺が焼けてませんから、焼くところがちゃんとあったと思いますけども、7月の分は、これはもう寺が焼けているわけですから、亡くなった方も多いわけですから、焼くとすれば焼けた寺も使う。それで材木もみな焼け残りの木がある。そういうなので、焼け残りの木を全部使ってやったわけですから、寺にあった焼け残りの木というのは、私が見たときはほとんどなかったわけ。全部そのだびに付したときに使っていると思います。残りの全部の庫裏や何かの木なんかを全部集めて、よそから持ってくるというのはそんなにないと思いますので、残りの木なんかを全部使ってやったと思います。そして燃してるわけです。

Q:そういう上にやっぱり本堂が建っている。

そうです、そうです。だからですね、最初はですね、ここは本堂建てなくて、向こう側のほうに本堂を作ったんです。道路で半分に仕切られましたんでね。向こう側にお堂を作っておったんですが、今のところはありますね。・・のあたりに大仏様が座ってたんですよ。大仏様が座って、徳山を守るんだと。ちょうど本堂が建つのが遅かったもんですからね。だから大仏様の座るところの周りに木が植えてあったんです。今度は本堂作りますよということで大仏様を動かすことになったんです。木なんかは徳山の緑地公園のところに納めたわけですね。大仏様を移動するということにしたわけです。ですから大仏様はここにありましたから、収骨した分を入れたとすればここのあたりじゃないかなと思いますけど、そこのところは私もはっきりとそれを覚えておりません。残りのお骨というのは手首とか足首とかの残りの部分は向こうが墓地でしたので、墓地とお墓とお墓の間のところへ穴掘ってスコップの柄がないので、こう掘って。それであの焼け残りを入れてかぶせてでこう合わせて。それだけはよく覚えています。自分がしたことですから。

Q:ご自身で掘られたんですね。

自分1人ですよ。だから母は他の用事をしていた。私1人がしたですよ。だから今頃考えて小学校6年生でようお骨やなんかをやったなと思いますけどね。だから生焼けとか頭蓋骨が残ったのやらね。どう見ても足首が残っていますね。要するに半端な所が残るわけですね。真ん中はだいたい焼けているんですけど、頭蓋骨や足首、そういうのをやったと思います。スコップで拾っては持って行って埋めたです。だから戦争は絶対にやだなというのは強烈にすごいですね。もうそういうようなものを見てるからね。こういうふうに何にも罪のない人が亡くなっていく、そういう戦争を絶対にしちゃいかんなというような感じは強く思っていますね。

Q:今徳山空襲というのを振り返って、今思うことというのはどういうことがありますか?

徳山空襲っていうのは、やっぱり戦争はしちゃいかんなーっていうような感じは強いですね。それから自分自身がちょうど小学校6年生のときでした。小学校6年生の人なんかはやっぱりそういうふうな戦争というのを味わってきてると思います。同じ6年生は。事実ですね、目の前で焼かれていく人がおると。または亡くなった人がおると。それを見た時の印象というのはですね、終生忘れられないと思いますね。特に戦争に行かれた人が復員して帰ってこられた。そして何かというと、黙って胸の中にしまっておられるわけですね。言われないっていうことは人を殺したことがあると。そういうようなことの罪の意識というのがやっぱり残っているから。帰ってきても何にも戦争のことを話したくないというのと同じじゃないかなと思いますね。ですから私の胸の中にはやっぱり3人の印象に残っている人の姿がいつまでも残っていますね。お骨を埋めたこともよく残っています。やっぱりそういうような戦争で焼けた、それによって亡くなった人があったっていうことは、終生忘れられないんじゃないかと思いますね。

Q:だびに付している時の3人を、見た風景というのは、いまだに忘れられない。

忘れられませんね。真っ黒けになった人の姿なんかそうですね。私の父は戦時中も戦争に出ていました。戦争に出てから現在の中国、中国に行ってから引き揚げてきたんです。ですから帰ってきた時には何にもないバラックに私たちが住んでおったんですね。仏様のところに行ってはいつもですね、じーーーっと何も言いませんでした。戦争行ってからつらかったということは、話しますけども。川の水が流れているからのどが乾いたから飲もうと思ったらちかっとしたと。なぜかと言うとすぐそばに死体があったとか。そういう話があります。やっぱり坊さんが戦争に出にゃいけんというような状態、人を殺さなきゃいけない。そういうようなところに出た時は、罪の意識というは倍以上強いと思います。だからいつも倍になってくるとですね、仏様の前で手を合わせちょったですよ。今ですね、父親はいろんな戦争のことを思っているんだなと。私たちにはあまり言いませんでしたけど。だからつらかったんじゃないかなという感じはしますですね。私がやっぱりそういうようなだびに付した人のことなんかが頭から離れないというようなこともですね、やっぱり戦争を体験した、またはそういうようなだびに付す姿を見た、そういう思いっていうのは強烈に残っているんじゃないかと思ってますね。ただ、それを口に出して言うか言わないかだけのことであってですね。やっぱり戦争に行かれた人はもっともっと胸の中にしまう意識と言いますか、罪の意識とかそういうものはあるんじゃないかと思いますね。

私らまあ、兵隊さんがおられたからね。戦争のときまではご飯を食べられたけど、焼けてからが今度は大変だった。焼けてからこれは食べるものがないからね。だから母親が着物をしょっちゅう持って行っては農家からお米をもらって帰るとか、いうようなことがありました。私なんか小学校でも落ち穂拾いっていうのをやりましたからね。落ち穂っていうのは稲を刈られたあとにですね、小学生が並んでいってですね、刈られたあとの落ち穂を拾って歩くんですね。そういうようなことをして学校にあと納める。イナゴ捕りちゅうのもやったことがあるんです。なんでイナゴ捕りをするのかっていうと、イナゴを捕って、子どもですからおもしろいからイナゴを捕りますね。串に刺してですね、焼いてそれを食べるんですね。だからイナゴを食べたことがありますよ。その落ち穂拾いしたことがある。そういうようなのは私より年齢が高い人はもうどんどん燃料廠(しょう)なんかに行ってから、奉仕をされてますからね。私はたまたま学年があの小学生でしたから、奉仕活動まで行かなかったですけどね。奉仕に行かれた燃料廠なんかに入れた人なんかでも、同じ徳山中学校の人でも亡くなっている人がありますからね。そういうようなのが、本当にまあ亡くした親というのはたまらない思いがするだろうと思いますね。

Q:戦後70年ということで、知っている方とかも少なくなってきていると思うのですけど、その辺りというのはいかがですか? 徳山空襲のことというのも、今生きている人って忘れているというか、分からないことが多いと思うのですけど。

そうですね。同じ世代でもですね、戦争っていうのは分かるけども、目の前で自分の家が焼かれてないから実際の空襲っていうのが分からない。徳山の人でも空襲には遭ってるけれども、自分のうちが焼かれてないうちがあります。そういう人らは、全然差があるわけですね。同じ空襲を受けても、焼かれてしまって家族を亡くされた人、自分で体をけがされた人なんか、そう人なんかは強烈に怒ってます。だからけがをされた人なんかは中学生なんかは、菊川っていうところがありますが、そういうところに保養されています。

同じ小学校の同級生でも、弁当の話ではないけれども、ちゃんと弁当箱がちゃんとあってから、きれいな弁当持ってこられる人と、弁当箱も簡単な木の弁当箱持って行かなきゃいけんというものがおるけどですね。そこに同じ徳山市内でも差があったということですね。そういうのは、焼けてまた亡くなった家族を持ったという人では本当大変だと思いますね。その後、何かというと全部バラックですからね。そのバラックを作るトタンがない。そのトタンを私のところでも、おじがたまたま会社に出てた人がおったもんですから、そのおじがその会社の人に頼んでバラックを作ってくれた。バラックに住んで、蔵があったものですから、蔵が焼け残りだったから、蔵のところで生活して、バラックができるまで待って、バラックで生活したということすね。だからもうそれは戦争になったら今でも災害あったところが復興するまでに、長く時間かかると思いますが、本堂なんか建てるとなれば、来年すぐ作りましょうなんてわけにはいかないわけですね。だからみんなが焼けて、みんなが焼けてみんなが経済的に困っている人たちだから、浄財を集めてからお堂なんかを作らなければいけませんから、とてもじゃないが、そういう状況じゃありません。ですからだんだん年数が復興の年数というのはかかると思いますね。だから私の場合、復興するまでにはずいぶん時間かかりましたですよ。

Q:その復興した本堂とか、街の様子なんかを見ると、住職としてはどういう思いになるのですか?

やっぱり平和がいいですね。商売が繁盛したとかせんとかよりもね、本当にみんながですね、家族団らんで食事ができるというのが非常に幸せだと思いますよ。だからもう本当にないときはものをみんな辛抱してきたね。私なんかの中学校でぬかパンを食べたことがある。ぬかだけだったらパンができないわけですね。ヨモギを入れて、ヨモギでくっつけてある。そのぬかパンを食べたのがうまかったんですね、中学校で。大人が食べたらこれはぬかパンは食べられんっていうわけですね。しかしながら中学生の腹ぺこには、ぬかパンでもおいしかったですね。だからそういう時代が戦後、終戦の年に、中学校のときはそういうふうな状態ですね。空襲のときだけなくして、空襲から後の状態が焼けた人間は本当にひどかったと思いますね。

Q:徳山空襲とかその後の歴史というのは地域にとしては忘れちゃいけない。

そうですね。そらそうだと思いますよ。だからだんだんだんだんですね、そういうような状態を知らない人があります。この大仏様に関しては、大仏様に対する紙芝居を今作っていらっしゃる方がありまして、そういうのをしていらっしゃって、戦争というのをやっぱり否定していらっしゃいます。やっぱりそういうような気持ちを持った人たちが少しでも啓蒙していくっていうんですかね、そういうことが必要だと思いますね。だけど、今の平和に慣れた人たちは戦争のことを言ってもちょっとね、大昔のことを言うようなそういうような感じはしますね。今は見るところビルが建っているわけですから。焼け野原だったとかバラックに住んでおったとか、ちょっとよほど外国のひどいところの国ではないかとか、そんな感じにしか思わないかもですね。実際に日本もそうであったということですね。

Q:今70年間は、日本は平和で。これから70年過ぎてさらにこれから日本という国、続きますけど、この平和というのはどうなって、若い人、特に若い世代どうしていくべきだなと思いますか? 平和ということをこの次の世代の人たちはどうしていったらいいと、経験者として思いますか?

それは、今は貧富の差があると言われますね。貧困社会っていうのは何かというと、前からの積み重ねによってから、状態が積み重なってきていると思います。だから幸せな家庭の人っていうのは幸せな家庭。非常に苦しい状態を乗り越えてこられた人はいいけども、やっぱり条件的にそろわなかった人が貧困関係になってきていると思いますね。だからそういう貧困関係を作らないためには戦争しちゃいけないと思いますね。だからもう父親を亡くしてしまった。そして残った子どもを母親が養っていかないといけない。当然無理なことはいっぱいしていると思いますね。そういうような形をつくったのがいちばんは戦争だと思いますよ。だから戦後終わってですね。子どもたちが、ようするに父親がいない子どもたちが結構いましたですよ。そういうような人は、または仙島というようなところがありますね、そこに子どもなんか、みなしごの子どもなんかおりました。きょうらく園なんかでも子どもがいました。そういう戦争の孤児を作っていったと。その戦争の孤児は何かというと、やっぱりまた自分が同じような苦しい生活の中で家庭を作っていかなければいけない。連鎖反応だと思いますね。平和であったならば、そういうことは起こりえないと思いますね。だから戦争という大きな枠の中で自分では思わない形で、家庭が不幸にさせられたという方はたくさんおるんでないかなと思うわけですね。今でも災害が起こった時には自分では思わないのに災害があった。災害にあった時に今度は貧困がやってくるいうような形になってますね。それに対して今では国がいろんな援助をできるからええけども、戦争は70年前の戦争じゃ国が何の援助もできませんですね。焼けたら焼けたままですよ。今では国が援助してから復興資金を作ってますね。日本がいっぱい焼けたときに国が復興資金を作ったですか、一銭もないですよ。焼けたうちは自分で復興していかなければならなかった。徳山の街もそうだったんですよ。全部自分たちの力で復興してきたわけです。だから国の援助によって復興した家はないです。だから今のは災害だからそういうことですけどね。これが戦争にあっていっぱい被害を受けた人が多くなってくるというのが貧困がもっともっと出てくると思う。そういうことがあってはならないと思いますね。だからもう自然はしかたありませんけども、人為的に戦争をやるということだけは、絶対に避けるべきでないかなと思いますね。そんな思いです。

この大仏様はですね。支那事変(日中戦争)とかなくなられた方のために戦前に造ろうとされたわけなんですけども、戦後、戦争のときにちょうど築港のところにあったので、火をかぶられてますからこの蓮台といいますか、蓮の上だけ色が違いますね。焼けてます。火をかぶっておられる。火をかぶった仏様。それをどこに持ってこようかなというかたちで、ちょうど本正寺が本堂建ってなかったので、ここがよかろうと。

それで亡くなった人のお骨をこの中に入れているわけですね。黒いつぼみたいな中にですね。火消しつぼみたいな中にお骨を拾ってですね。残りのお骨をこの中に入れて、納めておる。支那事変なんかでも亡くなられた人の名簿は、保管されておるというような形ですね。慰霊祭なんかもこの大仏様のところでされていたんですが、今では仏教段で、その公の場所を使って慰霊祭なんかを行っております。神式と仏式と交互にですね、行っています。戦争が終わったときはそこまで行きませんでしたから、大仏さんの前で、法要をしておったわけですね。

Q:そうすると一回拾って埋められて。まだ出てきて経緯があって。

本堂のあとに焼け残りの手首とか足、それから頭の皿とかいうのがありました。そういう端になるものが、だいたい残っていたんですね。そういうものを私がスコップの焼け残りの柄のない分のなかで・・・。こちらから本堂の脇がお墓でしたので、お墓とお墓との間に穴を掘りまして、そこに埋めました。埋めて手をあわしてから合掌したんですけど。その後ですね、建物を造るときにですね、お墓の分は全部大迫田のほうに行きまして、建物を造るときに掘り起こしをしました。掘り起こしをした時にわずかばかりのお骨が大きなところがちょこっと残っていました。その残っていたお骨は拾って大仏さんの中に入れておきました。だから、全部が全部、風化しましてね、全部が全部は拾えませんでしたが、大きなとこだけちょっと拾うことができて、この中に納めることができたと思っていますね。私とすれば穴を掘って埋めてあげれたのだけが、ご供養じゃったなと思うんですよね。だから最後の最後まですればよかったんだけども、そこまでがなかなか時代がたってきたからね、風化してしまってもう。誠に申し訳なかったかなという気はしますよね。

Q:今もやっぱり弔われているというか。

そうですね。ここには、いろんな人が来られて大仏様を見ておられますね。だから少し日にちがたちましたからね。慰霊祭っていうのが、だんだん時代がたってから、残りの人が少なくなってきたわけですね。そういうので風化してきたっていうことは言えますけどね。もう昔の話をしても正直言って様子が全然違いますのでね。ちょっと分かりにくいんじゃないかなと思いますけどね。どこが焼けたのっていうような感じがしますからね。

火を消すつぼですね。今のようなお骨つぼじゃないですね。こういうものしかなかったわけです。この中にお骨を収めているわけですね。火消しつぼと言ってもね。だから火を昔は残り火を中に入れておったね、そういうものですね。お骨がこの中にいっぱい入っていますので、それを入れてからですね・・・。

出来事の背景

【徳山空襲】

出来事の背景 写真 昭和19年夏にサイパン、グアム、テニアンなどマリアナ諸島を占領した米軍は、ここにB29が集結する航空基地の建設を進めました。B29は高射砲が届かない1万m以上の高度を飛び、航続距離も5000km以上。マリアナから出撃すれば、北海道を除く日本全土が爆撃可能範囲に入りました。B29による空襲は、当初は軍需工場などに絞って行われましたが、後に都市全体を焦土にする無差別爆撃となりました。
 山口県も軍の拠点や工場などの施設があった瀬戸内海沿岸の町が空襲を受けました。なかでも大規模な空襲の標的になったのが徳山でした。海軍の国内最大の燃料拠点があったからです。昭和20年5月、200機にのぼるB29が町を襲い、燃料拠点のほとんどが壊滅ました。およそ2か月後の7月にもB29の焼夷弾による空襲が行われ、2回の空襲で徳山は焦土と化しました。徳山空襲で亡くなった犠牲者は、およそ1000人にのぼります。

証言者プロフィール

1933年
山口県徳山町(現・周南市)に生まれる
1945年
徳山国民学校(現・徳山小学校)の6年生になる
 
7月26日、徳山空襲で本正寺のほとんどが焼失
 
戦後は、本正寺住職となる。空襲体験を伝える活動を行う

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