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タイトル 「十分に看護できなかった」 番組名 [NHKスペシャル]女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦・激戦地の記録~ 放送日 2015年8月13日
氏名 西内 清子さん(従軍看護婦 戦地 ビルマ(ラングーン)  収録年月日 2015年6月14日

チャプター

[1] チャプター1 戦地へ  02:20
[2] チャプター2 サイゴン  03:04
[3] チャプター3 兵站(へいたん)病院  04:17
[4] チャプター4 やはり戦場だった  05:43
[5] チャプター5 “十分に看護できなかった”  04:59
[6] チャプター6 夜の行軍  06:33
[7] チャプター7 火葬  03:02
[8] チャプター8 終戦  00:52
[9] チャプター9 残された将兵の落胆  03:55

提供写真

再生テキスト

とっても寒かったですよ。

Q:2月ですもんね。

友達の岩見さんが同級生でしてね。2人が犬のように2人が抱き合うて、2人の布団を1つにしてそれでもまだ寒かった。

Q:339班は何人いたんですか?

班ですか? 23名。

Q:23名。

出発した時はね。

Q:婦長さんが1人ですか?

2人。

Q:2人。 あとは看護婦さんたちと書記さんもいらっしゃいました?

書記さんと使丁さんが1人。

Q:1人ずつ。男性が2人で女性が21人ですね。みなさん独身ですか?

いえいえ、もう乳飲み子置いて、小松婦長さんは乳飲み子を置いて行きました。

Q:小松婦長さんの出征、高知駅にお母さんと赤ちゃんと見た時はどういうふうに思われました?

それはもう涙が出ましたね。今思っても涙が出る。

Q:最初に上陸したのはサイゴン(現・ベトナムのホーチミン)ですか?

サイゴンです。そこへ行くまでに台湾に寄りましてね。それから台湾で荷物とかいろいろな物を積み込んで行きましたから。

Q:行き先、赴任先っていうか、それを教えられたのはサイゴンですか?

いえ、全然教えられません。知らなかった。船の中でだんだん暑くなってきて、これは洋服を替えんとおれなくなって、冬から夏服に軽いのに替えますよね。どうもこれは南方へ行ってるんじゃないのかねっていうことで話したことです。どこへ行くか知っている人も中にはいたらしいですけどね。私らは全然、全員には言ってないから知らなかったです。船の中で夏物に変わって、サイゴンに着きました。

Q:サイゴンの陸軍病院で最初勤務されて。

そこはね、補助勤務みたいなものですよね。本当はラングーン(現・ヤンゴン)行きよったから。その途中でサイゴンで降りましたからね。そこでは補助勤務、2日に1回とか電話の当番をするとか。

2日か3日に1回は外出もできましたのでね。まだ内地で買えないチョコレートとかお菓子なんかはその時に買いに行って、帰ってくると非常にアリが多くてね。部屋の隅へこう、糸に伝線を張って、それへつるしてもつるしても見つけて食べられました。

Q:ラングーンに着いたときの、最初はどんな印象でしたか?

ラングーンに着くまではね、道が、農地に花がどっさりありましてね。今、高知にもありますでしょ。あれが両方からこう、あってね。その下をこうくぐって行くの。なんかね、戦場に行ってるような気分は全然しませんでしたね。きれいなところだなあと思って、通って行きましたがね。着いた所は占領してすぐでしたからね。何にもない所。電球もないしロウソクみたいなもんですよね。それから水もないし、それで苦力(クーリー/労働者)がお風呂の入れ物ですよね、あれにいっぱい水をくんでくれて、それ1杯が私ら1個班の、1日の、飲むのも…、使うのは全部はんごう1杯くれて、それ1日分飲むんで使ってました。ラングーンは本当にひどかったですよ。

ラングーンの仕事といったらね、まだ患者さんも入ってなかったからね、私らが行った時には。それで寄宿舎が近くにあって、通えるようになってましたね。勤務という勤務、患者さんはまだ私らの時にはその時には入院してなかったです、患者さんは。それで初めに私らをお迎えした兵隊さんは前線へ、どこかへ配置されたと思います。

Q:病院も開設したばっかりで、準備期間ということでしょうかね?

準備ていうて何もしてないですよ。器械もないしね、注射器とかそんなものがあるだけで、それから消毒といってもアルコール消毒するだけで何もしてない。

ラングーン行ったときにね、一番先にデング熱にかかりました、私が。そうするとお部屋の人全員が全部かかります、デング熱に。40度ぐらいの熱が出て、それから次はだんだんと治まって体に赤い発疹ができる。それで熱も下がる。それでよくなります。それで全員が治りましたね。それから以来、その病気にならんから。ちょっと違うかなと思うけどね。そんな感じです。みんななるんですよ、1人かかったら。全員が。

ラングーンからね、メイミョー行ったときに一番うれしかったのは、水が、水道が栓を開けると水がダクダク出ましてね。口つけて飲みます。

飲んだときおいしかったから。それと松がありましたね。とても懐かしく、日本人が植えたと思うけど菊なんかもありましたがね。メイミョーは本当にいいところ。日本のね、春と秋が年中のところ。

Q:気候がいいんですね。

いいです。朝は朝霧が湖水に、もうもうと出てきてね、ちょっと寒いような感じ。

それで私らが行ってから間もなく空襲が始まりましてね。1回空襲があったんですよ。そうするとね、次から次、毎日のように決まって空襲があるようになって。それでその時にね、防空壕(ごう)へ岡田婦長さんがね、「みんな入りなさい」言って入った時もありましたけど、そうでない時は何が助かった言ったら、人間でなくて「岡田婦長さんが漬けたお漬物が防空壕にあった」って大笑いしましたけどね。それから処置をある程度早くして、そうするとそこからもう1つ山のほうにバラックの家を建てて、兵隊さんが建てていましてね。そこへ移動するように、早く、朝、午前中に処置を済ませてそこへ行きますよね。その後で飛行機が来る。メイミョーは上でしょ? だからね、飛行機の爆音がするとね、飛行機がすぐ見える。だから道を歩きよってもパッと伏せんと間に合わん。そんなところでした。

山では、山行ったら私ら山芋のつるを見つけて「ここ掘れワンワン」言うて兵隊さんに山芋掘ってもらって、それをね、私らはしば(柴)を集めてそれを束にして帰って火をたいたりして、みんなに食べさせないといけませんからね。そういうことして薪を背負って、兵隊さんは掘った山芋をつるしてね、私ら後ろからこれが長いとか短いのとかそんなこと言いもって帰ったことでしたけどね。帰ってきたら、そうしてワラビなんかもあったんですよ。そしてそれを山芋なんかを料理して、残った兵隊さんと一緒に食べて。そういう毎日でしたね。毎日そこの山へ退避して、行ってそうしてました。

片足の義足の兵隊さんがね、片足しかない兵隊さんが、「退院するように頼んでください」って言うから「どうして?」って言うたら、「友達はみんな戦死して、おらんのに僕1人が生きておるわけにはいかん」言うてね。「退院させてくれ」言うた兵隊さんおりますよ。それはもう徹底してましたね。

Q:「退院させてくれ」ってどういう意味ですかね?

自分、退院して戦地へ行きたかったからでしょ。

ラングーンに帰った時は、患者さんがいっぱい入院していましてね。そして次に何名入るという命令が来るんですよ。そしたらね、その部屋を空けないと入れない。だから熱がちょっと下がるとか、一般状態がちょっとよくなった人を、額を体温計で測るんじゃなくて、手で触ってこの人この人っていうふうに。退院して行く人もヨロヨロして退院していきましたよ。すぐ帰ってくること分かっておっても、空けないと入る人がね、入れないでしょ? それでそんな状態でした。

Q:退院させるっていうのも命令ですよね?

全部命令です。私ら下っ端やからね。婦長さんには言うでしょうけどね、私らは直接そんな命令受けたこと全然ないです。言われるままに仕事しただけであって。

Q:退院させる兵隊さんも、また帰ってくるって分かってても退院させなきゃいけないんですね?

そうですよ。嫌でも嫌とは言えれんわね。入ってくる人が入れんから。ちょっとでも自分が退院せにゃいかんと思うでしょうね。だから(日本に)帰ってきて「ラングーンでお世話になりました」って言われてもね、私らはもう、絶対にね、よう言わんかった。十分に看護してないもん。

(戦後、日本で)汽車に乗る時に「ラングーンでお世話になりました」言う患者さんがいましてね。「こっち来なさい」言って、はように乗せてくれた人がいましたけどね。私はもう恥ずかしくてね、何とも言えんかったですね。そういう看護してないから。ラングーンなんかではお礼を言われるような看護してないですもん。できてない。

Q:看護できなかったっていうことは、何があればもうちょっと看護できたんでしょうかね?

そりゃそうですけどね。何にもないですもん。消毒液もないし、それから手術をしても私は外科ではないですけどね。外科でないけど、それでもちょっとした手術をしても麻酔のお薬もない。それで麻酔もせんうちに手術をせられる。それは気の毒でした。

注射器なんかでもまともに消毒して注射をしてないからね。それでこれでいいだろうかっていう、こんなんで状態でいいのかと思いつつ、そうせんとしかたがない。ないから。

Q:薬も足りなくなるし、衛生材料とか包帯みたいな物も足りなくなりますよね?

そんなん十分にないです。何にもない。本当に何もないね。

夜中に「みんな貴重品だけ持って外へ出てください」言われて、貴重品だけ持って外へ出て、そして兵隊さん、患者さんをね、担架で担いで私ら森から出たことあるんですよ。そしてね。その次の晩はまた、もう1回「出なさい」言うてね、その時に初めにおった森で、私ら荷物も置いてある、患者さんも置いてる。そういう状態の時に「みんなで出なさい」言われて、その時に患者を担架に乗せなかった。乗せないで私らだけ出たんですよ。

それで途中で「患者さん連れてないね、どうなった?」いうてみんなに言うたら、みんな「いや、知らん」て言うことで、それで森を出ましてね。

Q:患者さんがいないって途中で気付いたんですね?

そうです。私ら担がんと出たもん。私らだけで出ましたからね、患者さんいなかった。初めは担架で担いで出ましたけどね。次の時は患者さんを担がんかった。「どうしようもない」言うけどようせんから。それからはシッタンの河までね、行軍でずっと行きました。

Q:病院から脱出する前に、患者さん方たくさんいたんですよね?

たくさんもいないですよ、そんなには。何十人ぐらいで。20人ぐらいいたでしょうかね。あとでは元気な患者さんに助けてもろうて私ら歩いたようなことになるけどね。いつでもそのことは気になりますね。患者さんを置いて自分たちは出たということがね。でもシッタン(河)へ出るまでにね、目の見えない将校さんをね、手を引いて歩いている人がもう2回会いました私。こんな忠実なね、部下もいるのに、というふうに思いましたけどね。もう本当にシッタン(河)に着くまでは大変でしたよ。ヨタヨタで、やっとこさで着きました。

それで私らはね、持っている物、休憩言うたらどこでも、どこでも水があろうがどうしようがそこへベタッと横になってね、寝ていましたがね。それで整理をして、持ち物の整理を、捨てられる物はできるだけ捨てて、身を軽くしようという。白い布を持ってましてね、何でも使えるからというので、白い布を持って。そしたらせっけんとか、女性に必要なものはありましてね。それは持って布だけは捨てずにおいて、行こうということで、最小限荷物を整理して。その時に兵隊さんがね、はんごうの蓋にいっぱい水を入れて、かしわ(鶏)の皮かなんかが1切れ浮いてるようなのを、お水を持って来てくれましてね。「これでも飲みなさい」言うてね。「そうせんと歩けんから、飲みなさい」言うてね、それを飲んだことですわね。あとで聞いたらね、私らが捨てた白い布とか貴重品ですよね。それでね、後続部隊の兵隊さんが私らの後歩いてきよったらしいです。それで(現地の人と)物々交換をしてね、50文になったって。

毎日毎晩5人亡くなりよる。私はもう、山の上に寄宿舎がありましてね、山の上へ帰るのにやっと注射をして、帰ったことですわね。その道に死亡した、夜5人ぐらい亡くなるでしょ? その兵隊さんを並べて薪を置いて、それからまき(薪)ね、兵隊さんを並べてそれを焼いていましたね。それは名前もないから分かりませんよね。それはもう本当に嫌でしたけどね。おじぎをして毎日行き来、行ったり来たりするね、通ったことですけど。

Q:名前は分からないっていうのは前線から下がってきたときに名前を証明する物ないんですか?

いや、その亡くなった時に名前をその人につけてずっとつけて、それしたら分かるんでしょうけど。それをする間がない。私1人、5人の人が朝までに亡くなりよる患者さんをみて、その人の始末をして、そうすると宿直に行って朝までいたら5人がやっとですからね。そんな名前をとる、そうするとその始末をすると、別の人が連れて行く。私が連れて行くんじゃないから。だから分かりません。

毎日毎日そうやって焼かれて、手も足もちょっとずつ残ったりしたのもありましたけどね。そんなの見た時、涙が出ますよ。

Q:戦争負けたって聞いたときはどう思われました?

…そういう思いは全然。そんなときは別に感じませんね。もう自分はどんなにも思わんですよ。がっかりはせんし。よかったと思わんしね。

それで帰る時に許可証をもらうんですよね。その時に泰緬(たいめん)鉄道に関係した人は全部のけられる。全部兵隊さん調べてね、そこへ勤務した人は全部横へ立たされてね、帰る組へ切符もらえなかった。それで私らはね、救護班、兵隊さんとか救護班というふうに並んでいたら(連合軍から)隊長さんが呼ばれて、「救護班を前列にせい」言うて、「兵隊の後ろに並べるのはいかん」言うて。壕(ごう)の手入れをしよったときもね、兵隊がやりよるからいうて。救護班が手伝いに行っちょったらね。それも隊長さんが呼ばれて「救護班にそういうことさせたらいかん」言われてね。「救護班はのけなさい」と言われて、それで救護班はアメリカ(連合軍)が入ってからすごく楽になりました。おかげで。

私らは全部貴重品だけ残して、ほか全部焼きましてね、何にもなし。そうして波止場へ行ったらね、兵隊さんは丸裸にされて。全部。時計とか貴重品は全部取られて。救護班は何にもせられずそのまま私らはね、預かった手紙は十字の下とか洋服の裾の折り返しのところとか、この腕章の十字の中とかね、あんなところに縫い込んでそれで持って帰りましたけどね。そういうことは必要なかったです。女性は、アメリカ(連合軍)は特にね、救護班は大事にしますのでね。女性を大事にするんでしょ。それでね、その時に初めてね、楽な気持ちになりましたけどね。

でも病室へ帰ってきましたらね、将校さんが毛布をかぶって、帰れなかった、切符をもらえなかった人はね、毛布かぶって寝てました。もう何とも言えん気持ちでね、私らももうしゅんとなりましたね。

出来事の背景

【女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦~】

出来事の背景 写真西内さんは、召集されてビルマ(現・ミャンマー)のラングーン(現・ヤンゴン)やメイミョーの兵站(へいたん)病院に派遣されました。班の婦長が乳飲み子を故郷・高知に残して出発する場面を今でも思い出し、涙を浮かべます。病院は設備や医薬品も十分でなく、満足な治療や看護は出来なかったそうです。帰国する時、捕虜になった日本兵の内、泰緬(たいめん)鉄道に関係した兵たちが帰国の列から外されるのを見て、「何ともいえない気持ちになった」と語ります。

*戦地では、前線にある野戦病院、少し後方にある兵站病院、主要地にある陸軍病院や海軍病院という医療態勢でした。

証言者プロフィール

1919年
高知県に生まれる
 
日赤高知支部救護看護婦養成所を経て看護婦になる
1942年
2月、第339救護班要員として召集され、フランス領インドシナ・サイゴンの第25兵站病院に臨時勤務
 
ビルマ・ラングーンの第106兵站病院、メイミョーの第121兵站病院などに勤務
1945年
アナクインの患者療養所で終戦を迎える。その後、タイ・バンコクの病院に勤務
1946年
6月、帰国

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