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タイトル 「戦線に復帰させられた患者」 番組名 [NHKスペシャル]女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦・激戦地の記録~ 放送日 2015年8月13日
氏名 吉田 八千代さん(従軍看護婦 戦地 ビルマ(ラングーン)  収録年月日 2015年6月15日

チャプター

[1] チャプター1 憧れの看護婦に  05:47
[2] チャプター2 婦長候補生として  03:25
[3] チャプター3 婦長としてビルマへ  04:15
[4] チャプター4 医療品や衛生材料が足りない  05:57
[5] チャプター5 検閲される業務報告書  05:25
[6] チャプター6 回復した傷病兵  02:46
[7] チャプター7 原隊復帰という命令  05:16
[8] チャプター8 敗戦の予感  01:02
[9] チャプター9 夜行軍で撤退  06:52

提供写真

再生テキスト

福岡の部隊ですよね。あそこでね、毎年演習があってました。そのころですね、日赤(日本赤十字社)の看護婦らしい人がね、後のほうで、演習でしょ。それで傷ついた人が出ますね、そうしたら担架を持って、後のほうから走っていくようなところを見ていました。毎年ね。それでね、私もちょっと日赤の看護婦を見て、憧れてね。あんな人になりたいなというようなね。そうですね…小学校とか、女学校の頃だったと思いますけどね。それで、女学校出たら、すぐに日赤を受けて、まぐれで通りましてね。そして、3年たって、3年の頃ですね…3年の3学期ぐらいに日中戦争が始まったわけですよね。それで、3年の終わり頃は、看護婦の人は、どんどん出て行って、私たち3年生が一番上でですね、その病棟の責任を持たないかんことになったんですよね。それで、その看護婦の足りない分はですね、一般の方を募集して、3か月の教育をして、そして私たちの下に働いていて。そういうことがあってですね、私は3年卒業してですね、そして1週間目には、すぐに、卒業と同時に福岡支部ですから、福岡支部から召集の令状をいただいて、すぐですね、準備して、すぐに上海に行ったです。もう、卒業の1週間後には、上海の兵站(たん)病院の補充員としてですね、応召しました。

Q:上海の病院は何年くらいいらっしゃったんですか?

上海は、1年だったですね。そして、区切りがついて、また若い人に交代して。そして、ちょっと休んで、1か月目にまた今度は病院船に召集になって。

病院船っていうのはですね、北支に行くのは、2800トンぐらいの景山丸っていう病院船ですね。その車体(船体)をこう、真っ白に塗って、赤十字のマークがついていましたね。そして、氷砕船ですね。北支に行くのは、氷の海を割って、氷砕船で行ったから、大連は違ったと思いますけど、秦皇島っていうのは、氷の上を歩いて行けるような、海の上を歩いて行って近道できるような所だったから、船も当然氷を割って進んで、また引き返して。これを繰り返して港に着くんですよね。

病院船に乗って、北支、それから中支、南支ね。それから今度は高雄(台湾)を基地にして、広東ね。それから、仏印(フランス領インドシナ)とかそういう所もサイゴン(現・ベトナムのホーチミン)もちょっと行きましたね。そういうふうでね、病院船はあちこち行ってね、楽しかったです。

それから、病院船(から故郷に)帰って来て、それから今度はすぐね、佐世保の管轄の諫早病院ね。海軍病院で、そこに召集されて。そこでずっと勤務している時に、「婦長候補生」って言われてですね。ちょっと考えましたけどね。婦長ってなりきるやろうかと思ってね。だけど、まあ、ちょっと行ってみようと思ってね、1年東京で教育されて。

婦長候補生というのは東京だけで、本社病院だけが養成しているところで、全国から2名から1名ずつ、全国から集めて、四十何名ぐらいやったですね。1年間に。

教えられること…中身は、3年間習ったことをまた繰り返し習うわけですけど、その間にやっぱり婦長としての指導的な教育者の指導が挟まれていくわけですね。それで、何か本社病院で問題がある時は、例えば5月には赤十字の総会がありますね。そういう時には私らが代表になって出るのと、大抵1年生がついてきますね。そのぐらいの割合大勢の人数で総会には参列させていただく。そしたら、その時は皇后さまのお成りということもあったりね。お成りになれない時には、他の代理の方があれで。やっぱり静々とあがって、お言葉をいただいたりというようなことが。それはね、もう一番最前列で、お言葉を聞くというようなことがあってですね、感激しましたね。

昭和17、18年にね、私は東京で婦長候補生に行ったですよね。その時に、日本の大使館付きの武官が交換船で日本に帰って来たわけ。その患者さんが東京の私らの赤十字病院に入院しとって、そして私だけに言うた。「生徒には話さんかもしれんけどね、日本ってこんな状態ですよ」って言うた。それで、その人は昭和18年頃よ…終わり頃、アメリカでは日本の終戦後はどんなふうに扱おうかっていう相談がありよったって。18年よ。私はまだビルマ(現・ミャンマー)に…。もう、そういう状態で、負けるっていうことが分かっておった。

私と交代する、年を取った婦長ですよね。その方がもう広島の病院に入院してらっしゃったんですよね。そこに面会に行って、お会いして、ビルマの話を聞いてね。「今から行ったら大変だよ」とか何とかね。潜水艦が出て、何とかかんとかって。なかなか行けそうにないような…、危険な話をずいぶん聞いて行きましたね。それは覚悟の上で出て行きました。

門司港を出て、鹿児島に着く前だったです。潜水艦が出たんですよ。それで、「潜水艦」って言うので、非常呼集でしょ。それで、私は病院船に1年乗ってたから、船については割合ちょっと慣れっこになっていたからですね…それで、訓練も受けていますからね、あれだけど。10名ぐらい一緒に、補充の看護婦さんを連れて行きよったでしょ。それで私婦長でした。そしたら、みんな、やっぱり非常呼集で、何か船がドーンと突き当たって、ガタガターっというような音がしてですね、「あ、これは何かあったばい」と思って。すぐ私は、自分たちの部屋に行ったら、若い看護婦さんたちがやっぱり、ちょっと緊張して、ガタガタしていましたもんね。それで、「はい、みんな落ち着きなさい。耳をすまして聞いてごらん。船はちゃんとゴットンゴットンゴットン行きよるよ。進みよるで、大丈夫」って言うてね、落ち着かせて。そして、救命胴衣のあれやら、みんなに、「はい、みんな一つずつ、こうしてつけなさい」って言ってつけさせて。私はもう慣れているから…

そして、まずシンガポールに着いて。それでシンガポールで、いろんな方面に分かれて行ってね、それから…そこで大抵いろんなほうに分かれましたね。私はそこで1泊、2日ぐらいおったでしょうか。

Q:マレー半島から鉄道でラングーン(現・ヤンゴン)まで行って?

単線ですからね。ノロノロですよね。そして、貨車ですね。腰かけのあれじゃなくて座るんですよね、貨車に。そしたら、貨車だと、詰め込まれるでしょ。それで、まあ、座っていかなきゃいけんね、足が痛かったですね。そして、貨車だと、朝と夕は飯上げでね、兵隊さんがおったら、ターッとはんごうを持って、もらってきてくれて、あれしたりするしね。その間に私らはトイレに行かせてもらうんですよね。朝と晩しか、2度しか行けないわけですよね。その間に、私たちは済ませる。そんなふうでした。だけど、兵隊さんたちにいろいろお世話になって、その中に混じって行きましたね。

病院にはいろんな人を使ってるでしょ。使役で、男の人もあるし、ビル看さんっていうのは、主にカレン族(山岳少数民族)のお嬢さんたちだったけどね、その人たちをいろいろ看護法を教えたり、それから何とかかんとかの患者さんの世話をしてもらうためにね、うちの看護婦、西とか…何て言うか…西と、リュウさんっていうのがね、先生になってね、夜間教育をするんですよ。それで、看護法を教えたりね、それから何とかいろいろ教えていましたね。それで、その人たちがやっぱり20名ぐらいはしていたから、加勢してくれるんですよ。それで、各班に何名かずつ行ってもらって、手伝うわけね。私の所の病棟も使って。それで、それは、どんなことを主にしてもらったかって言ったら、患者さんの体温を測りますね。それから、トイレに連れて行ったり、こうせないかんもんね。それで、あんまり兵隊さんだから、便器でとったりなんていうことはさせていなくて、歩かせよりましたね。その歩かせるのを連れて行ってもらったり、待っておいて済んだら連れてきてもらって寝せて。そんなことの加勢をしてもらっていましたね。

Q:ビルマにいる時に、医薬品とか衛生材料とかそういう物は?

そげな物は持って行きませんね。自分に必要な物だけ。そうせな、医のうが1つでしょ。それに何もかも、こげな着替えとか何とかを持って、それ1つと、かばんね、水筒、はんごう、それからここには米を入れて持って行きましたね。向こうにも米はあるけどね。米はいっつも持っていました。軍足の厚い木綿の靴下に、米をいっぱい入れて、水筒、はんごうの上にこう巻いてね。やっぱり米と水はいつでも持っておかんと、自分がどげんなるか分からんからですね。

Q:衛生材料とか、そういう包帯とかガーゼとかああいうものが足りないという話を聞くんですけど…

みんな、一度使ったのを消毒して、洗って、また消毒して使っていましたからね。再生ですよね。全てしていましたからね。足りなければ新しいのをね。そんな使い方でね。そう無駄にはしません。ガーゼ一枚でも、大事な衛生材料ですからね。

Q:ほかの古い衣服とかそういうものから再生して作ることもあったんですか?

衛生材料はやっぱりちゃんと材料廠(しょう)っていうのがあるからですね、自分の私物を縫うっていうことはなかったです。そりゃ、切って何か作ったりはしている人もあったけど、忙しかったですよね、仕事が。だから、破れれば、ぼろには、洗濯して重症の患者さんにはおむつがいりますからね。それで使ってることはありましたけどね。重症患者のおむつがなくて、大きな葉っぱを落として、しわっとなったのを使っていたわけですよね。

もうそれこそ、重傷病棟で言うたらね、みんな、おむつが要るんですよね。それで、それこそなかったら葉っぱの大きいのの、しわっとしたのをこう当ててね。上から毛布を割いてひもを通してからふんどしみたいにして使ったりしよったからですね。もう何ていうかね、倹約ですね。ないから。

その時々の状況によって、やっぱり作戦で、何とか作戦とかいうと患者が増えるし、雨季になるとまたそれが一つの問題が起こるしで。そんなことをずっと報告してきましたね。まあ、よう自分で、できたこったいなと思ってね、今思います。

Q:報告書に書いちゃいけないこととか注意もあるんですか?

軍の作戦らしいようなことは書きません。だけど、何とか作戦により、患者が増えたとか、何とかだけは書きましたけどね。人数とか何とかそういうのは一切書きませんね。そして、書いて出す時に、庶務を通るんですよね、軍の。一応目を通して、判を押して、送るからですね、まあ、そんなことを考えて、出していました。

患者さんが増えて忙しいとか、雨季はドロドロでみんな来るからちょっと大変とかね。雨のこととか何とかよく書きよりましたね。その時のあれはね。それからやっぱり何となくスパイがいるんじゃないかなという。何でも筒抜けに分かるんですよね。そしたら、空からビラがバラバラバラバラ、舞ってくるんですよ。こっちが秘密にしているようなことをね。ビラが飛行機からばらまいていくんですよ。それで、「あら、こんなことも知られてるんだ」って、そういうことになってね。「うっかりできんね」っていうようなこと。よくありました。

Q:ビラにどういうことが書いてあるんですか?

書いてある。何て言うかしら…日本軍は…患者さんに、病院の行動を、そこで何々を作っているとかね。その迫撃砲の弾やら、もう日本から送れんからですね、作らせよったわけですよ。そしたら、そんなことを書いてくるわけ。はっきり書いてくるわけ。それをこうバラバラまくでしょ。それで、「あら、こんなことまで知れとう」って言ったら、病院でさせようでしょ。それで、誰かやっぱり言いようわけよね。「油断ならんよね」っていうことになるわけよね。

Q:病院で実際に迫撃砲の弾を作っていたんですか?

作る。それは、日本から送ってこんでしょ。みんな現地自活ですよ。現地で作っていたわけ。もういろんなものを現地で。日本から送ってくることはできんでしょうが。考えてもね。そういう状態だった。それで、やっぱり誰か言うてる者がおるでしょうかね、筒抜けやったですね。ビックリしますね。油断ならん。

Q:そういうことがあるから書けないんですね?

ああ、書けない。だから、向こうの人に分からんごとね。それで、大体中国にしても、この人たち、ひらがなって分からんですよね。漢字は中国人やったら分かるもんで。それで、私らは普通に書きますけど、だけど前線の兵隊さんはひらがなを使うんですよ。例えば松井部隊やったら、「まついぶたい」って書くわけね。そんなふうで、部隊名でもね。そしたら、なかなかちょっと読みきらんよね。漢字で書けば、中国人がすぐに分かるから。そんなふうなことをしていたわけね。それで、暇もかかりますよね。そんなことしよったら。まあ、いろいろ考えてね、頭をひねって。

患者さんが多くてあふれているのを、退院させたいけどさせられない人がいっぱいおったわけですよ。それで、大体診断の時に、この患者は原隊復帰、内地還送、引き止めとく…ちょっと時間をかけて、良くなしてから帰す、いろんな人に分かれるわけ。そしたら、無断外出なんかする人は、歩いて自由に動ける人でしょうが。だから、そげな人は、見つけたら自己退院させよった。そしたら、大抵私がするもんだから、だいぶ恨まれとうでしょうね。

Q:前線復帰したくないっていう人が病院にいるんでしょうね?

やっぱり(病院に)おりたい人はいっぱいおるでしょうね。前線の弾の飛んでくるような所に帰ったら、自分の命は分からんでしょ。それでね、いろんな人がおらっしゃるですね。やっぱり病院で看護婦が少なくて、10名で900人ぐらいの患者さん持ってるでしょ。それで、元気な患者さんの手が借りたいわけよね。例えば、食缶、重たいのをこう両手に下げてね、900人分運ばないかんでしょうが。

やっぱり原隊復帰する人で、本気になって加勢してくれる人がおるわけ。900人分運ぶには、いろいろ問題が起こるわけですよ。そしたら、ちゃんとその人たちが責任を持って分けてくれるわけですよね。それで、そげな役に立つ人は置きたいわけよね。

お互いに仲も良うなってね、助かるわけね。それで、長く置きますね。

Q:ウ号作戦(インパール作戦)の後は患者さん増えたんですか?

増えたですね。もう、ドロドロね、みんな。そして、失神状態で来る人がいるんですよ。そしたら、病床日誌で分かる人は病室に寝せるでしょ。あと何人かは、5~6人ぐらいは、病床日誌と名前が分からんわけ。本人が。返事してくれんから。耳元で大きな声でね、名前を呼ぶわけね。それで、声かけるけど、分からん。もう、ちょっと困るですね。そのうち、そげな人が亡くなることがあるでしょ、そのまま。本当に困りましたね。

そして、患者さんが多いと、一回入院の時に軍医殿が診られますよね。それで、軍医殿にかかって、診断係というのが古参の看護婦がついています。それで全部書き取って、病床日誌作って。そして、それでもう患者が多かったら、この人は原隊復帰、この人はしばらくあれして原隊復帰させて。それからこの人は時間がかかるから内地還送ね。それから、この人は伝染病の疑いがあれば、検査にまわすとかね。いろいろ分けていくわけですね。そしてね、患者が多かったら、いっぺんでこう決められますよ。そのくらいせんとさばけんわけね。たったの1回で決められる。

Q:患者さんが増えると、本当は原隊復帰できない人でも前線にもう一回復帰させる?

ある程度無理して出しよりますことね。それこそ兵隊さんが足らんから。例えば、福岡の部隊は「龍」(陸軍第56師団)とか「菊」(陸軍第18師団)とか、そういうあれで呼びよりましたけどね、部隊から迎えに来るんですよ。兵隊がおらんから、現地に。戦争できんでしょうが。それで、どげんな人でも、生きとれば連れて行かれちゃう。そしたら、例えば目の見えん人があるでしょ。目が見えんやったらどうなります? 何もできんでしょうが、ほとんど。それに近い人でも連れて行かしちゃう。死にに連れて行くようなもんでしょう。足手まといになるでしょう。そげな人でも、みんな連れて帰れって言われとるけえ。命令はね。みんな連れて…。そげなこともある。それで、私らが、「この人は目が見えんのに連れて行ってどうする? 足手まといになろうが」言うて引き止めて…。そんなふうだったです。連れて行かれる人はね、何も言わんのよね。それで、看護婦が引き止めてやらなね、死にに連れて行かれる。そんな状態でした。

Q:部隊から迎えに来る人は命令で?

生きてる者はみんな連れて帰れっていうのが、ほとんど命令。それでね、そんな目の見えん人やら、傷のある人でも、治療は済んでいないような、そげな人でも連れて帰らっしゃるからね、後どうするやろかと思ってね、思いよりましたね。連れて行かれる人は、何も言いませんよ。命令で、迎えに来られて、みんなかわいそうね。

向こうがビラをまくでしょ、飛行機で。それで、分かりますね。どういうような状況か。それで、ゾロゾロゾロゾロ患者が増えるね。連れて来られるんじゃなくて、自分でゾロゾロ病院に入るわけよね。それで、情報が流れるでしょ。それで分かります。どんどんどんどん撤退してね、もうやっぱり皆あれして、ゾロゾロゾロゾロね。下がらんでいい人まで下がってきよったもん。そういう状態でしたね。

だんだんに負け戦になって、状況が悪くなったでしょ。そしたらね、インドの方からグルカ兵は来る。それから、向こうの何かオランダ兵、イギリス兵ね、そげな人がどんどんこう来るでしょ。それで、危なくなったから、私らは、4月29日を期して、ラングーンを奪回するっていうので、22日頃に敵がこう入って来たんですよね。それで、私らは22日の晩に夕方4時に命令で、準備して、そして夜、その日にトラックに乗って、身の回り品をザッとこう入れて、トラックでペグー(現・バゴー)っていう所まで下がったんですよね。そのペグーっていう所はちょうどラングーンの喉みたいな…首元みたいな所でね、そのペグーまで行っとかんと、危なくなるっていうので、急いでペグーまでトラックに乗せられてね。もう取るものとりあえず、チャカチャカっと用意して、それで下がったんですよね。そんなふうだったな。ペグーからは、今度は毎日、夜行軍ですね。昼間は防空壕(ごう)の中に寝てね、ごはん食べたりしながら、昼間は寝て。夜は夜行軍。月明かりの日もあるし、その頃はまだ雨季ではなかったので、雨はなかったけど、何せトコトコトコトコ持てるだけ持ってね、夜行軍ですね。

敵に追っかけられようなふうまではいっとらんのにね、「急げ、急げ」って言われてね、歩かれるもんやけん、まあ、本当に走ってついて行くのが大変だったですね。自分の持てるだけ荷物は持ってるしね。私の場合は班の書類があるんですよ。それがやっぱり袋にいっつも入れて、縛ってから、非常持ち出しとして、「空襲!」って言うと、いっつもそれだけは抱えて出よったけどね、それが一つ余分なものね。それで自分の荷物でしょ。もう、それでね…だけど、人に持ってもらうわけにはいかんしと思って、頑張って持ったですね。

Q:吉田さんが書いたものですね。

私が…。ああ、私の字。私の…。

うん。涙が…。

Q:ぜひ。眼鏡かけたら見えますか?

涙が出る…私が書いた字はあります。ここに。これ、私の…。みんな消しちゃうね。悲しいね…。私が書いたところが…読みきりません…。

Q:どうして悲しいんですか?

やっぱり大仕事やったですね。まあ、どうにか人についてできたけど、本当にね…。やっぱり立派な先輩が多かったからね。それに引きずられるじゃないけどね、負けんようにと思って、頑張ってきたと思います。

※この資料は、日赤本社に保管されていたもののコピーです。

出来事の背景

【女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦~】

出来事の背景 写真吉田さんは、上海の兵站(へいたん)病院や、病院船、そして佐世保の海軍病院で勤務したのち、婦長としてビルマ(現・ミャンマー)に派遣されました。現地の女性たちに看護法を教えて、病院を手伝ってもらったそうです。日赤本社への報告書を書くことも婦長としての仕事でしたが、スパイを恐れて患者の数などを書くことは禁じられ、検閲されていたことを語ります。

*戦地では、前線にある野戦病院、少し後方にある兵站病院、主要地にある陸軍病院や海軍病院という医療態勢でした。

証言者プロフィール

1919年
福岡県に生まれる
1938年
日赤福岡支部救護看護婦養成所を経て看護婦になる。中国の兵站病院、病院船、海軍病院に勤務
1943年
12月、病気になった前任の婦長と交代し、第368救護班の婦長になる。ビルマ・ラングーンの第106兵站病院に勤務
1945年
4月、ペグーの分院に勤務
 
トクの療養所で終戦を迎える
1946年
7月、帰国

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