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タイトルタイトル: 「看護婦は母のような存在」 番組名番組名: [NHKスペシャル]女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦・激戦地の記録~ 放送日 2015年8月13日
名前名前: 長谷部 鷹子さん(従軍看護婦 戦地戦地: ビルマ(ラングーン)  収録年月日収録年月日: 2015年6月4日

チャプター

[1]1 チャプター1 3度目の召集  03:53
[2]2 チャプター2 “第一線”の病院へ  03:42
[3]3 チャプター3 ビルマ中部のメイミョーへ  07:41
[4]4 チャプター4 敵のパイロットが笑っていた  04:01
[5]5 チャプター5 看護婦は“母のような存在”  04:01
[6]6 チャプター6 後送される患者たち  07:24
[7]7 チャプター7 遺骨  05:43

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [NHKスペシャル]女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦・激戦地の記録~ 放送日 2015年8月13日
収録年月日収録年月日: 2015年6月4日

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私は父が軍人でございまして、「日本人と、生まれたらお国のために戦う」とか、「お国のためになる人間にならなければいけない」っていうのがうちの家庭の教育の基本法でした。小さい時からそういう教育を父からされておりまして。たまたま(昭和12年)7月7日の戦争(盧溝橋事件により日中戦争開戦)が、上海事変(昭和12年8~10月)に始まりました時にですね、私のいとこが役場に行って、「鷹子さん、赤十字の看護婦さん募集しとるよ」って言われたんでね。

願書を出したんやね、試験の。それが9月でした。臨時の募集でして。これから試験があって12月に入学したんですけど。当時岐阜県はまだ赤十字の看護婦を養成するところがなくって。岐阜は滋賀県へ合同で養成をしてもらう。3年間そこで教育を受けまして。もう戦争のまっただなかに入ってて、卒業と同時に召集で岐阜の陸軍病院へ行きまして、そこで3か月間おりまして。2回目の召集が北支で山西省、そこで2年間。あそこで寒さが怖くてね、零下20度でした。まぁ2年間無事に終わりまして。

日本へ帰ってきて。5月帰ってきて、そしてその年(1943年)の9月30日に召集になった。でも、3回目ですね。そこは南方っていうことも何も言われない。無言のままです。行って、広島へ行ってから分かりましたですけどね。そんな状態でした。

Q:看護婦さんで、3回も召集ある方っていうのは多いんですか?

多いってこともないでしょうね。3回ってことは多いほうですね。

航路、潜水艦が出没するから通れないで。そんで大陸のほう、沿岸部をね、ずっと、シンガポールまで1か月間かかったんです。お船がね。普通やったら私たち帰ってくる時は1週間で帰ってきた。それが1か月かかった。シンガポールへ行くのに。

Q:ゆっくりゆっくり?

ゆっくりっていったって行けないのよ。ずっと、中国の沿岸部をずっと行かにゃいかん。そんでも24隻の船団を組んで行ったんですけれど、最後の1隻がね、やられてね。何人乗ってたのか分からないけれど、そんな状態の危ないところでした。ちょうど1か月かかりました。

Q:マレー半島に着いたときに、配属先はビルマ(現・ミャンマー)っていうことが分かったんですね?

そうです。それまではどこへ行くか分からへん。スマトラ行くかジャワ行くか。

Q:そのころはビルマの状況っていうかビルマってどんなふうな。

そのことをね、半月間の間、シンガポールで、南方の気候やとか病状、それから(前)線(の)状況なんか勉強してるわけ。教えていただいて、そういう予備知識を持ってなきゃなかなか行動できないのでね。それで私たちは第一線に行くことを喜んでおりました。どうせ出征するなら第一線。そう聞いてもどんなところかも分からない。それで列車でずっと行きまして。行くと、タイ国とビルマと目で見て分かるのね。ビルマの土は赤い、砂漠みたいなね、土でね。タイ国は沃野(よくや)でね、なんでもとれていろいろと農業も盛んにやってて、ああほんとにあれやなと思いました。ビルマは荒れたところやなってこと、目で見て分かりましたね。

ラングーン(現・ヤンゴン)で着いた途端に爆撃があって、その夜ね。怖かった。ほんとに戦場に来たんだなってことをね、思いましたね。

Q:空襲っていうことは、それまでは体験されたことはないんですか?

空襲の体験はないねー。中国ではなかったね。遠いところで山砲の音がするくらいのもんでね。ない。

ラングーンに着いたのが2月。それからトラックでずっと、そのころはもうね、トラックも昼は絶対走れへんの。的になりますからね、飛行機の。夜やなきゃ。その道路もみんな破壊されちゃって、まともな道は通れへんの。ゴロッゴロの道をね、トラックの中を…石ころみたいに揺すられて行ったわけです。2日くらいかかりましたかな? マンダレーへ着くのが。夜だけしか走れへんの。

私たちの目的のところに着いたのが3月3日のおひな祭りの日でしたね。夜しかその部隊も入れないもんで、草原みたいなとこで、夜でよう分からなかったんですけど。そしたら飛行機でザーっと来て、夜間の攻撃がね。それで隊長殿がね、「早く、縁の下に入れ」って言われて、飛び降りて建物があって、そこの縁の下に潜り込んだんです。いきなりがそんなふうで本当にびっくりしまして。

マンダレー(ビルマ中部にある古都)、そしてビルマに入ってやっとね、ちょっと夕方になってキラキラキラキラとね、輝くのが見える。そしたら運転士さんが「あれがマンダレー王城や」って言われて、今度はお堀があってとてもきれいなところでした。そこから1000メートルくらい山を、車で、ヘアピンカーブばっかを登って、上に登ったら下40度くらいあるんだけど上に行ったら今の日本の気候のような涼しいところでしたね。メイミョーというところはね。英国の避暑地になってるところです。松の木もあって、環境にはとてもいいところでした。

メイミョーはね、空襲がね、激しくってね。夜は4回から5回くらい飛行機が来る。安心して寝とれへんの。もう本当に激しい時、お靴を脱がんとね、編み上げの靴履いたままね、ベッドにこう横になっとる。すぐ前がね、大きなジャングルでね。こんな大きい木があってそこの下に防空壕(ごう)があって、そこまで走ってくんですけどね。一晩に5回も6回もやったら走って行くのも嫌になってまって。

昼になると歩ける患者さんはおにぎり作って持たせて、山の方へ退避して。伝染病棟だけ動かせられない重症ばっか。私は重症におったんですけど。ほんでそこは隊長殿自慢の電気も防空壕の中引けるようになって塹壕のようにベッドのように土を残してこういうふうに防空壕の中に入ったら広いの。患者も夜は空襲特にあるでしょ? ほんで夕方になると抱かしてて、防空壕のベッドの上へ土の上へ寝かせる。昼になると出てきていろんな処置もせんならん。注射もしたり、外傷もあるから包帯交換もせんならんし。そういうことが必要ない人はおにぎり持って山へ退避させる。昼の間。

Q:昼は空襲がないんですね?

ないんやなくてあるよ。昼もある、夜もある。

4時ごろ宿舎にね。300メートルか400メートルくらい離れとるかね。宿舎と病室とが。その時婦長が病気で休んでましたもんで、ブドウ糖を持って注射器で吸ってこうして持って、そして食事に行きかけて途中まで来ましたら空襲警報になっちゃって困ったなと思って。だけどもあらへん。こういうふうに、ちょうどうちはね、あそこにツツジが咲いてるが、ああいうふうにススキにいばらの木があってこんもりしてた。そこへ頭だけこう隠してこうして見ると、ほんとに屋根スレスレで来て、銃を持ってね、撃つばっかの英軍の顔が見えるの。こうして私見とったんですけどね。そのくらいの空襲でした。もう日本軍やられづめでね。

Q:その英軍(連合軍)のパイロットの顔が見えた?

ええ、そう。飛行機でね。こうしてザーッと来てこうして銃持って見てるのが私見える、こうして寝とって見とったの。怖かったですね、あの時は特に。

Q:その時、そのパイロットの方はどんな様子、何歳ぐらいとか分かりますか?

そうね、外人やから歳のことは分からんけれど、顔は長かってね、長い顔してる。

Q:どんな表情だったとか、覚えてます?

にこって笑っとった。こうやって笑っとった。殺す気はなかったんやね、私を。私ほんとにね、2回そういうことあった。

そしてもう1回は空襲やってると、病床日誌をね、第1に持って出んならん。袋に入れてこうして担いで、そして病室の裏のところに川があるの。ちょっと出て行こうと思ったら、その川の土手のほうへね、銃でもってダーっと飛行機から撃つのね。逆におったら私死んでたの。こっち側やったらね。そんなこともありました。

Q:兵站病院っていうことは、赤十字の旗を出しているんですか?

瓦にちゃんと赤く塗ってあるの。十字の印が。

赤痢と腸チフス、マラリア、特にこんだけが多かった。コレラもたまにある。たまにペストがありましたね。赤痢と腸チフスと重なったら大変なことで粘血便のね、血便で。多い人1日に100回くらいからもう、ベッドをね、でん部のところで丸く切っちゃってそのまんま。

Q:自分で排便をコントロールできない。

できない。もういつ出たやら分からんようなもん。そんなになると助からないね。1日に9人も私、亡くなったことがあるもんね。コレラのことで、東北の人やね、ミナガワさんっていう人やった。その人がほんとにコレラになっちゃって、コレラになると乾燥しきっちゃう、出ちゃって。その最後まで「お母ちゃん、お母ちゃん」言ってくれて。ああ、ほんとに「おいしいおかゆや」て、「このお母さんが作ってくれたおかゆ、おいしい」って言って食べた。その人も1日で亡くなっちゃってね。

そんなに私たち行くまで、おかゆっていってもなかなかまともに食べられない、作れない。はんごうで作る。炊事場で作ってくると、おかゆがすけなくて、そんなのを持って来て…それではあかんわと思って、私が隊長殿に、こことここ5~6人だけのを作れるような物資をいただきたいって言って頼んで、現品でもらって、それでスープを作ったりなんかして食べさせたら、まぁ患者さんが喜んでね。「本当においしい」って言って食べてくださって。ありがたいなと思った。「がんばってね、早くよくなってくださいよ」って言って涙でね。本当にその人もね、「おいしい」って食べてくださって、はや明くる日は死んでしまうんよね。

だんだん戦争が激しくなって重症の患者も大勢になって、そこへもってきて薬品はないわ。本当に困りましたね。最後はあかんから、あそこはもうメイミョーにもおられんようになるって脱出する時なんかもう…。そしたら「衛生兵さんに兵隊さん任せて、先行きなさい、前進しろ」って言われて、本当に髪を引かれる思いで脱出してきましたけどね。しまいはしょうがないで、自殺もできんし殺しもできんし、兵隊さんは難儀したやろなと思いますね。最後までは見られないで。

Q:患者さんが増えてきたっていうことは、やっぱり戦況が良くないからですよね?

そうです。増えてきて敗戦敗戦が重なってね。

Q:例えばインパール作戦とか、今どういう作戦やってるってそういうことは分かるんですか?

分かりますよね。

もうヨレヨレやね。自力でなかなか歩けるっていう人は少なくなって、最後まで本当に戦ってもうしょうないからテクテク下がって、歩くのもえらいって感じで。それでね、マンダレーのところにね、道に何も敷かんとコロンと寝たまんまで。お坊さんがね、「これじゃいかんわ」って言っていろいろなものを持って行って食べさせてくださるんやけど、それもよう自分の枕元にあっても食べられない。そんな人たちがいっぱい出てね。もう何ともしようがなかったんですよ。患者は出るわ、弾は当たらんわ。戦闘は全く進まない。

Q:お坊さんっていうのはビルマの、現地のお坊さんですか?

そうそう、お坊さん。

朝ずっとたく鉢に歩かれるんでしょ? 知ってるでしょ? こう(鉢を)持ってはってそれを兵隊さんに恵んで。助けていただいたのよ。

Q:どんどん病気の人は増えて。

帰って行く人も少ないんでね。茨城県か群馬県やったかな? コジマっていう先生ですけど、やっぱり重症病棟で入ってきて、私看護したんですけどね。赤痢と腸チフスと重なっててね、ほんとに大変だった。それからまぁあかんってところまでいったのね。それが良くなってくださってね。前線へまた帰って行かれて。だけれども、あんまり長く重症で寝てたもんだから、ここの尾てい骨のところが骨まで見えるようになっとった。本当に私よう助かったと思う。

Q:じょくそう(床ずれ)が?

激しくなって。1日に3回も4回も包帯交換しても、またその間からウジがいっぱいわくの。ちゃんときれいに取ったつもりですけども、ハエがどこかにおったんやね。そういうことでずっと…でも元気でね。先生やってね、復帰されましてね。それからだいぶん日本に帰られて元気っていうことで、どうして再会できたんやしらんと思うんですけど会いましてね。元気でおられます。私と同い年くらいの歳やね。

Q:みなさんはね、患者さんを治して前線に復帰させるっていうそういう目的がありましたよね?

大きな大きな、はい。

Q:それが現実的に難しいとか感じるとかそういうことってありましたか?

もちろんあるわね。難しい人はだんだん後送していくわけだけども、後送していってもお船がだめでしょ? だからシンガポールの辺、行ってまたどんとたまって待っとるの。

私たち、病室で亡くなってもね、初めのうちは遺体を火葬にしていたけどできないの。最後から腕を切ってこっから先だけするようにしとるの。私怖くって、よう切らんで「衛生兵さん切って」って。衛生兵さんも怖いの。

私らは、できないで兵隊さんにやってもらう。ほんとはやらなあかんのやけど、私怖いの。今まで看護してた人の腕を切ったりここ(小指)切ったりすることは怖くて怖くて。できないでしょう? 情が移りますから。

そんで最後には小指だけになった。もう大勢でできないの、みんな。缶詰の缶の中でこうやって。

Q:缶詰の缶に?

この小指だけ。あとは現地で埋葬するの。私たちは埋葬してそこに木があったらね、松の木なんかを植えておくの。何回もね、慰霊祭に行って、ああ、この辺ずいぶん埋葬したところだわと。ずっと木が生い茂っちゃってね。

Q:亡くなられて埋葬した時に木を植えてあげたんですね?

木を植えとくの、小さい木を。

Q:それはなんのためですか?

同じところを掘らんようにね。それくらいたくさん亡くなっていくねん。

Q:墓標の代わりみたいな?

そうです。あとから慰霊祭に行ってみて、ああこの木がこんなになってしまったと思ったら悲しくって、悲しくって。

2時ごろ。昼食済んでこうして見とったら、このくらいよく晴れとった日に、こんくらいでこうカラスが来る。あれ? と思っとったらだんだんそういうのが増えてきてだんだん爆音が来て、あれ敵機やっていうこと……。そしてダダーっと焼夷(い)爆弾を落っことした。ちょうど私たちの本部へ落とした。重症病棟、山へ離れてきとるから…、あの時はひどかったね。なぎ倒し…松林だから、こういう傾斜のところにダーっと松が倒れて、本部の工兵曹長がいなかったもんで、おかしいと思ってみんなで探したの。そしたら松の木の下にこうふうなってダーっとえぐられてね、ここ。ちょっとの隙やったの。あの人タバコを取りに本部へ入って事務所から出たとこでやられたんよね。そんだけ。

Q:その空襲で患者さんも被害者が出たんですか?

患者は退避したから出なかったね。それからだんだんね、後方へ下がっていくようになったんやね。

出来事の背景出来事の背景

【女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦~】

出来事の背景 写真長谷部さんは、1回目の召集で岐阜の陸軍病院へ3か月、2回目には大陸の山西省で2年間、そして3回目でビルマ(現・ミャンマー)のメイミョーの兵站(へいたん)病院に派遣されました。病院を襲う敵機は、パイロットの顔が見えるほど低く飛んだそうです。傷病兵からは「『お母ちゃん』と呼ばれた」と語ります。

*戦地では、前線にある野戦病院、少し後方にある兵站病院、主要地にある陸軍病院や海軍病院という医療態勢でした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
岐阜県に生まれる
1940年
日赤滋賀支部救護看護婦養成所を経て看護婦になる。岐阜陸軍病院、中国山西省の陸軍病院に勤務
1943年
第487救護班要員として召集され、シンガポールへ
1944年
3月、ビルマ・メイミョーの第121兵站病院に勤務
1945年
2月、第124兵站病院に勤務
 
タイ・バンコクで終戦を迎える
1946年
5月、帰国

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