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タイトル 「負傷兵の生と死を見つめて」 番組名 [NHKスペシャル]女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦・激戦地の記録~ 放送日 2015年8月13日
氏名 田中 ミツコさん(従軍看護婦 戦地 ビルマ(ラングーン)  収録年月日 2015年6月5日

チャプター

[1] チャプター1 看護婦に  02:20
[2] チャプター2 うれしかった南方行き  03:59
[3] チャプター3 ビルマ戦線へ  03:16
[4] チャプター4 負傷兵の生と死  05:47
[5] チャプター5 “日本軍は優勢ではない”  03:27
[6] チャプター6 逃避行  03:20
[7] チャプター7 終戦  03:27
[8] チャプター8 帰国まで  02:19

提供写真

再生テキスト

青年学校っていって、主にお裁縫ですね、その方へ行って、毎日学校に通って。それで、農繁期になると、皆さんが家の手伝いをせないけないから休むんですけど、私は幸い末っ子生まれだったので、農業を手伝わんでもいいから、自分のやっているのを今すぐ一生懸命やりなさいって言って。それで、農繁期も休まんと学校へ出て行って。そしたら、いろいろ、そんな時間あるんだったら、放課後残って勉強したらって言って、進学する人と一緒に勉強してて。そしたら、突然日赤から看護婦さんの募集が来てるっていうので、校長先生が「あの子に言うてやったら?」というような様子で、そこが始まりで、それで私は、当時は難しいっていう話だって、それで「受けてもよういかなんだら恥ずかしいから」って言ったら、「大丈夫、頑張れ」って。それがきっかけで。自分でも「何で行ったんかな?」って思う感じ。田舎から街へ出て、寮へ入るんやから。よう田舎者がやれたかなと思って。いつでも不思議に思っています。

Q:なにか通知が来るんですね?

はい。もうちゃんと病院の院長から、「誰々がいつ、召集で出て下さい」っていって、召集令状が赤紙で来る。それで、決まりました。

Q:もらった時はどんな気持ちだったんですか?

もう行きたいいっぱいやから、うれしくて、すぐ家へ電話して、そして家に帰ったら、昔の、兵隊さんが行く時は、みんな送別会とかそんなんして、行って、送ってもらって、出発まで。私も一緒でそんな扱ってくれて。学校で出発する時の挨拶をせえって言われて。その挨拶をするのに恥ずかしかった。そして挨拶をしたら、昔やから、ずっと田舎道をみんなが後ろについて送ってくれて。野上電車っていうのがあって…。

Q:何電車ですか?

野上電車。その駅は重根(しこね)だから重根までみんなで送って、本当にうれしいやら悲しいやらの涙が出て、そして日赤まで行きました。

出発して行く時は、どこへ行くっていうのは分からんと、広島の軍港だったから、そこから船が出るから、広島まで行きますって。その間はあんまり、夜行くようにして。どこへ行くとか、自分がどこどこへ行くとか、話もするなって。スパイがいるからって。それで、お風呂に行くのも灯火管制でくらいし、その中でお風呂に行って、泊まって。朝出発する時に、船に乗るから、南方へ行きますっていう、それだけで。みんな手をたたいて喜んで。南方に行くって。そんなたどり道でした。

Q:戦地に行ったら、いろんな心配とかなかったですか?

心配は…あんまり感じないですね。若さで…、その土地に着いたら、うれしいうれしいで。一応シンガポールへ着いて、上陸して、シンガポールで1か月ぐらい、ビルマへ行くっていうように決まったのが1か月後頃。それで、そこで、シンガポールの宿舎を借りて、しばらくあっちこっち見たりしました。

ラングーン(現・ヤンゴン)へ行ったら、そこのラングーンのビルマ(現・ミャンマー)の病院へ行って、そこに兵隊さんたちがもう先にいて、病院を開いているから、そこの人が迎えに来てくれて。そしたら、降りた時はお天気だったんだけど、そこしばらくすると、ザーッと(スコールがあって)、自分が来た道、船みたいにみんなが小さい船で行き来して。それで私らは3階か何階か借りていて。そしたら日本の食事が出てきて、夕飯。おすしやら、いっぱいごちそうしてくれて。「え、こんなこれ、誰が作ったんやろ」ってなんて言うて、思ったです。

Q:よく南方に行くとマラリアとか、そういうのは皆さん大丈夫だったんですか?

マラリアはほとんどしませんでした。

Q:予防もするんですか?

予防って別にしないけども、それこそ蚊にかまれないように。蚊取り線香がなかったですね。

Q:蚊帳つったりとか?

うん。蚊帳はつります。寝る時は。職場へ行く時はベッドの上へサーっとめくりあげて風通しをよくして、帰ってきたら、バーッと下ろして。でも、防疫班があるから、病院の周囲に蚊ってそんなになかったんよ。山手のほうに行ったらね、あれなんですけど。

Q:防疫班が防虫措置をして?

していたんでしょうね。

生臭い所に行って、先輩がいろいろ経験があるから、「ここどんなところか知ってる?」って。「今洗ってるんやで」って言って。だんだん寂しくなってきたりして。

Q:洗ってるってどういう意味ですか?

撃たれてけがをしたり、何か血液がいっぱい。

Q:街の中を?

街の中。

Q:生臭いんですか?

生臭いというか、目に見える…。血液や何かが飛び散っているのが。

いっぺんにバーっと増える時があって。患者が何十人、何百人って収容したら、あっちでもこっちでも。わめいてても(看護に)行けないです。そして…、亡くなる前に兵隊さんが「天皇陛下万歳」って。本当にそんな声を何回か聞きました。激戦でやられて、けがはしているけど意識ははっきりして。

患者は…ベッドはずっとありますけど、ベッドって、板を敷いて、もう一枚敷いているだけで、ずっと、こんなお座敷みたいになっている所やから。入れるだけ、その人を動かせるだけのなんで、気の毒な感じで。病院着いたと思っても、家は家で、鉄筋は鉄筋やけれども、そんなんで。何とも言えん感じ。

Q:何十人も何百人も患者さんが一気に来たら、(看護婦)21人ではやりきれないですよね。

そう。その21人も全部出てないですからね。夜勤した人は帰らせなあかんし。3人ぐらいであっち走りこっち走り。

Q:けがした人はどういう状態なんですか?

けがはもう…自分で何したんと違うから、もういたるところが裂けたりしてるし、またそのショックで何してる人もあるし。

Q:自分が負傷したショックで、どういうふうになっているんですか?

それがきっかけで生命を落としてしまう人もおる。気の強い人と弱い人との差でしょうね。

Q:負傷したショックで?

ショックで。

Q:どうするんですか?

まだ生きたいのに、生きられん。つらさがいっぱい出てる感じで。

Q:気の弱い人だとショックで?

気を失ってしまうのね。その間に気力を取り戻す力がなくなる。食べるものをはたに持ってきてくれても、自分で食べる人はいいけれども、食べるところまで手が届かんて、やっぱり現地人の看護婦さんも雇ってるけれども、やっぱりそうはいかないみたいで、気の毒な人もたくさんありました。

Q:自分で食べたりするのも諦めちゃうみたいな。

そう、諦めるか、そんなの食べないと駄目だっていう頭がもう、もうろうとして、その間に日がたつから、倒れてしまうっていう感じで。病院まで着いたことは着いたけれども。

亡くなって、霊室へ連れて行くんですけれども、送って行っても、どこへ、空いた所がないんです。そのまま置いといて、こっち来んないから。それで現地人が先の人を整理して、また次ってね。十人ぐらいはいつでもほとんど。病気で亡くなる人、また、外から外傷で来て亡くなった人。気の毒なあれで。

Q:霊安室があるんですね。

はい。霊安室も内地だったら、ちゃんとあるけれども、木を並べた上に遺体を乗せるだけで。そこの当番当たったら、行かんならんのです。

Q:運んでいく?

うん。でも、そこに行ったら、その気になるんかね、寂しいとかそういうの感じんと、自分のやらなきゃいけない仕事だけして、私はここに戻って。それで「今度は誰の番よ」とか言って頑張ってきました。

「状況は悪いな」って、その病院全体が知らないけれども、患者さんが教えてくれた。

Q:どういうふうに教えてくれるんですか?

「日本が優勢やと思ったらダメやろ」って。そんなことはね、まれにも思ってないし。日本が勝ってる勝ってるって思って。それで、「自分ら覚悟せなあかんな」って言うて。とも言うている間に、私ら第一班で出ました。

ラングーン出たら、ローガ病院(ラングーンの北30キロ)ってあって。ローガ分院ってあって。ローガの分院でそこに着いたの。そのとき「何しに来たの」ってどなられて。

着くなりやけども、みんなが一服してるけれども、給食を受けにいかんといかん。そしたら、兵隊さん2人出てきて、「お前ら何しに来てる! 死にに来たんか?」って。それで「何で?」って言ったらね、「ほんまに状況が悪いんや」って言うて。それで、「はよ、これを持っていけ」って怒られてもらって。それで、食べようと思ってみんなに分けてたら、「電気を消せ。空襲警報だ」って。それで急いで食べて、そのいったん着いた宿舎を出て、荷物をみんな送るから、体と貴重品だけ。学校へ行くカバンありますね。今、ひもをつってる。あんなんに入るだけ入れろって言って。それで、入れて、山手の壕(ごう)を掘っている所に行って。そこでいたら案の定、空襲が来て。それでまた「帰ってこい」って言うて、帰ってくる途中に、またもう次の…時間決めて空襲に来るの。そのときにもう夜が明けてたから、赤いのが見えるし、それで私らは急いで壕に入って。3人…2人しか入れんところに3人入って。さっと奥へ行く人と、のぞいてた人とありますね。私はのぞいてて、そしたら、サーっと操縦士が見えてるの。山やからね、下にずっと行くの。怖かった。そんなことがありました。

そこの土地の名前なんかもね、後から見たら、「ああ、ここか」っていう感じでね、土地も何も知らずに。そして、毎日歩いて、夜寝て。大きなシッタン河ってあるんです。シッタン河のいちばん広いところで船が行き来してるから、そこを船で渡ろうっていうふうに。小さい船で行ったらちょっと早行くって。その時に、婦長さんがちょっと体の弱い子だけ2人連れて、婦長さんと婦長さんのお弟子さんと、4人がサーっとその船に乗って。もう婦長さんが自分らをほっといてって、みんな憤慨して。それで、後は力を合わせて。11人で、4人減って、あと6人になって。それで、この6人も一緒に行動できないか分からない。それで6人一緒に行動してたら、やられたら日本の看護婦さんがなくなるさかいに。それで、自分たちで考えようって言うて、それで3人ずつ分けて。

3人で、もう道端で待ってるよりしかたないから、それで来たトラックどれでもいいから乗れって言って、乗せてもらって。

夜が明けてきて、はっと見たら、この辺が勲章だらけ。3人。そして、偉い人ばっかりやなと思って。乗せてもらって。後で聞いたら、司令部の人。最後の引きあげやって。それで、それに乗せてもらってきたんですけど。

そして、「ここで降りらなあかん」って言って、途中で降ろされて。そして、そこでしばらくしてて、また次の「行こうか」って言って。そういう繰り越しにしもうて。そして、今度、部隊が見つかったので、その部隊のところで、「昼間走れやんから、食事せんないから」って言って、草の葉っぱとってきてくれてね。兵隊さんが。それで、おつゆを作ってくれて。塩ばかりで。そして、それを食べて、そこで私らは、若い子と私とぐっすり眠った。

婦長さんがね、「みんな集まって」って、朝の朝礼以外の時間帯に。それでみんな「こうこうで、今からこのラジオを聴いてください」と言うて。何を話しするんかなと思った。そしたら直接陛下の言葉で、“終戦”っていうのを言われて。みんなもう…、泣く人もないし。わめく人もないし、もう黙ってしまって。

そのときは本当にどうしたらいいんか、みんな黙ってしまって。後からみんな抱き合って、涙で。婦長さんが「これから頑張らなあかんのやさかい、そんなことしてたらあかん」て言うて。みんなでまた「頑張れ」なんて…。

アナクインとかいう山の中でした。あの時は本当に寂しかったですよね。

Q:どうなるか分からないですもんね。

そう。みんな内地に帰れないと想像するからね。

Q:どうして帰れないと思うんですか?

いやもう、向こうが力強いから。攻めてこられたら武器使えやんし、取り上げられるし。このままみんな固まって何されるって思って。みんな覚悟して。婦長さんが「早まんな、早まんな」って一生懸命に言うて。私らは後方部隊やからまだいいけど、兵隊さんら本当に厳しい立場やったと思います。自分で銃持ってるしな。そしたら、高い山から見てたら部落でね、ポーンポーンと音するね。それが日本人がやってるんか、現地人がやってるんか、はっきりしないし。本当に寂しい思いで。みんな食事も進まんって。婦長さん一生懸命に「食べやんとあかん。食べてはよ、職場へ行かなあかん」って言われるけど、みんな食べるも食べやんし、職場へも行く気もせんしで、1日本当に何してたか分からん感じになって。

Q:戦争が終わって、その後はどうしたんですか?

タイ国。そこで1年間、輸送船がないから、それを待つのに、そこは病院もちゃんとあるし、衛兵言うんか、守ってくれる兵隊さんが、英国人やった。そいで私らが、衛兵の人に「ご苦労さまです」って帰りに言うたら、「僕たちは神戸で捕虜になって、大変大事にしてもらったので、ご恩は忘れません」って言うた。2人の兵隊さんがそんなん言うてくれて。そいでみんなに話したら、「いやーあんたらあの人と話したん?」って言われた。「『ご苦労さん』って言うたらそんなん言うてくれたよ」って言うて。「明日言うてみよか」って。そんなんで。ゆったりした衛兵さんが受け持ってくれたんでね。よかったみたい。

Q:1年間そこで…

うん。勤務して。で、船を待って、乗船して。浦賀へ着いた。浦賀の、ちょうど富士山の真後ろ、裏側。

Q:じゃあ、富士山が見えて?

目の前に富士山が見えて、「ああ富士山や」って。

出来事の背景

【女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦~】

出来事の背景 写真田中さんは、召集で南方へ派遣されました。当時は多くの看護婦が外地に行くことを希望していたそうです。ビルマ(現・ミャンマー)のラングーン(現・ヤンゴン)の兵站(へいたん)病院で、運び込まれる傷病兵が死ぬのをたくさん見届けてきました。そして日本が劣勢になりつつあることを、入院した負傷兵から知らされたことを語ります。

*戦地では、前線にある野戦病院、少し後方にある兵站病院、主要地にある陸軍病院や海軍病院という医療態勢でした。

証言者プロフィール

1921年
和歌山県巽村(現・海南市)に生まれる
1941年
10月、日赤和歌山支部救護看護婦養成所を経て看護婦になる
1942年
10月、第366救護班要員として召集される。11月、ビルマ・ラングーンの第106兵站病院に勤務
1945年
4月、ペグー、モールメンの分院に勤務
 
ビルマ・アナクイン患者療養所で終戦を迎える。その後、タイ・バンコクの南方第16陸軍病院に勤務
1946年
7月、帰国。その後は看護婦として働く

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ビルマ(ラングーン)

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