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タイトルタイトル: 「赤十字マークで救われた」 番組名番組名: [NHKスペシャル]女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦・激戦地の記録~ 放送日 2015年8月13日
名前名前: 岩本 あや子さん(従軍看護婦 戦地戦地: ビルマ(ラングーン)  収録年月日収録年月日: 2015年7月8日

チャプター

[1]1 チャプター1 日赤の看護婦に憧れて  01:25
[2]2 チャプター2 インパール作戦のために派遣された看護婦たち  01:38
[3]3 チャプター3 栄養失調  01:37
[4]4 チャプター4 ヘビとサソリ  01:57
[5]5 チャプター5 撤退開始  02:49
[6]6 チャプター6 仲間の死  01:01
[7]7 チャプター7 “看護婦を殺して逃げよう”  02:45
[8]8 チャプター8 ゲリラの襲撃  01:55
[9]9 チャプター9 「レッドクロス」  01:30
[10]10 チャプター10 死を覚悟  04:30
[11]11 チャプター11 「あなたは捕虜ではありません」  02:10
[12]12 チャプター12 “捕虜になった”ということ  01:03
[13]13 チャプター13 知らなかった仲間の消息  01:07
[14]14 チャプター14 当時の自分を思って  01:11

チャプター

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番組名番組名: [NHKスペシャル]女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦・激戦地の記録~ 放送日 2015年8月13日
収録年月日収録年月日: 2015年7月8日

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きっかけはね、日赤から(看護婦)監督さんがみえてね、お話を聞いて、お友達とね、その時一緒に「いやあ、看護婦さんになりたいね」と言うてね、あの(女学校の)卒業前でしたから。

卒業してすぐに日赤を志願して。3年ですからね。もうちょっとで卒業という時に、18年の10月の末に繰り上げ卒業で。何も知らないままねえ、お勉強だけしか知らない、実績も無いのにねえ、召集だったんですよ。すぐ1週間の休暇で支度をして、「広島から南方」言うだけで、どこか分からなかったんですけどね。

「若い看護婦らを前線に送ってくれ」という話やったらしいです。もう、その時は兵隊みたいな扱いだったんですね。

Q:当時から、そういう説明を受けられていたのですね。

ええ、そんな聞きました、いつも。

Q:じゃあ、兵隊さんの補充が無い代わりに?

ええ、そんな聞きました。それから、ラングーンも危ないから、空襲されて。近くのジャングル、ローガ(ラングーンの北30キロ)というところを開発して、そこへ私たち(は)熊本班と、衛生兵と、ローガ分院、ラングーンのね、勤めることになったんです。その時も何も無いジャングルを開発して、おうち、竹の家を建てて、それから牛車に乗ってね、他の部隊へお米を、ごはんを取りに行ったこともあります。その時はちょっとえらかったですねえ、「看護婦の勉強しなくても、労働をやっておけばよかったのに」と思いました。もう、防空壕(ごう)の手伝いをしたりね、掘る。

患者さんはねえ、栄養失調が多かったです。私らは内科におりまして、ほとんど栄養失調、それからマラリア、悪性マラリアとか、伝染病ね、チフスとかいろいろ、そんな人が多かったです。いちばん多かったのが、栄養失調の方でした。もう、ブクブクに腫れてね…。

患者さんたちに多かったのは、学徒動員でみえた方でした。それから、みんな若い、亡くなった方のお手紙でも、先輩が遺品を整理していて、「手足が無くてもいいから、生きて帰ってちょうだい」と言って、その方は京都の方でして、恋人の(手紙)を大事にしまっていたから、「これは私が手渡ししなければ」言うてね、先輩がしまったのを覚えています。

今でも思いますわ。行き届かなかったのが申し訳ない思うてねえ、亡くなる時、そばにいてられないんですよ、忙しくて。何百人と1人で、夜は2人ですけど、丘を越えて病室があちこちにあるものでね、渡り歩くだけでも。だから、行った時は亡くなっていたりねえ。

私たちは内科で、病棟が3つありましてね、高天原、塩原病棟とか、という名前を付けられて。それで、夜のお熱を測ってね、病棟を回るのでも1人は病室にいなければいけないから、1人でランプを持って。それで、病室にいる人はロウソクだけですね。もう何も無い、電池なんかありませんのでねえ。それで病室を転々と回るのですけど、時間がかかるんですよ。それで、どこかの患者さんのお部屋なんかねえ、ヘビ、今頃でしたら。ヘビののれん(暖簾)を作っているんですよ、入口に。そうしたら、びっくりするでしょう? 「キャー」なんて言ったら、なかで笑っているのよね、兵隊さんが。なかを食べて、皮をずっとぶら下げて。それで、匂いもいいんですよね、蒲焼きみたいでね。でも絶対、よう食べなかったけどね、「あげる」言われても。炊事場の前なんか通るとねえ、大きなニシキヘビの皮、あれは熊本の方やったけどねえ、いたら投げるんですよ、私らが通るに。「看護婦さん、ハンドバッグにでもするたい?」言うてね。私ね、ビルマで病気じゃなくて、ヘビに殺されると思いました。上から落ちてくるしね、歩いていても。枝の上に、また小さいヘビがいて、防空壕(ごう)に入ったらいてるでしょ。黒いカラスヘビとか言うて、かまれたら1メートルも歩けないとか。それで、サソリがいるでしょ、それの方が命取りのように思って、戦争よりか怖かったです。

「ラングーンはもう敵が入っている」言うて。最初の患者さんは、ラングーンからモールメンへ船で行かれたらしいけどね、2度目で戻ってきたんですよ。それで、司令部に行ったらね、それも私はうわさで聞いたんですけど、「もう司令部も誰もいないし、近所のビルマ人に聞いたら、『隣の慰安婦の人も全部家財道具を全部車にトラックに積んで、逃げてしまった』」って。それで院長さんもどうにもできへんでしょ。それから2~3日して、重症患者だけ置いて、独歩患者と、ちょっと手当てできる人と一緒に逃げ出したんですよ。

Q:出発する時には、みなさん格好は、どんな格好で?

その時もみんな道具を衣のうに全部詰めて、それで開襟シャツみたいなのがあるんですよ、木綿の薄っぺらの。それで下はニッカーズみたいな、ひざ下までの、絞った。それと、こう衣のうね、布の肩掛け、そこをつるのにベルトね、水筒と掛ける、ベルトを皆していたので、その上から。固定するのにね。それで、その中には洗面道具とせっけんと歯ブラシとタオルとティッシュと脱脂綿と、お薬なんか、私が持ってたのは正露丸だけ、内地から持って行ったね。お米を軍足に入れて、腰にくくり付けてね。

兵隊さんはリュックがありますしねえ。はんごうも日赤から支給されていたものを持っていたんですけどね、それはローガの分院で、前線の兵隊にないからみんな召し上げられて、はんごうは無かったんです。それで、亡くなった患者さんのはんごうを2人に1つとかいただいて出たんですよ。戦争なんて知らないからね、救護のことしか知らない。そんなねえ、1個も何も心配もしないで、ただ歩けばいいと思って。

内地へ送還できない腹膜炎の重い方(仲間の看護婦)がいたから、その人を牛車に乗せて、それであるところまで行ったんですけど、その人も牛車も通らん山にかかると、歩かにゃいかん。それで書記さんが背負ったり、使丁さんが背負ったり、私たちがベルトを取ってね、縛って引っ張って、後ろからこう、1週間歩きました。でも偉かったと思いますよ、その方。それで、そこで薬を注射されたのかどうかは、分からない。その方だけは指の、ちゃんとはんごうで焼いてね、形見が残ったんですけどね。

敵前突破する前ね、ペグーっていう山系(山脈)下りるときにある将校たちがね、「看護婦が手足まといになるから」、何も持ってへんでしょう、銃も何にも。軽装やしね。「『ここで殺してね、自分たちで脱出しよう」言うてる」言うて、下士官が書記さんに密告してきたんですよ。書記さんがね、「こんな若い子、内地から預かって来たのに、何も悪いことしやせんし、遅れてもないのに一生懸命みんなと一緒について来てるのに殺すわけにはいかん、だったらほっといてくれ言う」言うてね。「赤十字旗立てて、別行動するから」言うて。そこへ部隊長のあれが来ましてね。で、部隊長が「私の命にかけて守るから一緒に行動しましょう」いうことで、一緒に山を下りたんですよね。

いざとなったら自分が大事やもんね。私たちが手足まといになって全滅するかもしれへんいう、あるわね。それから防空壕、こう上がったとこにキビ畑があったんですよ。私たちは何にも知らんね、無知やったから。キビを「バリバリ」って皆折ってね、逃げるとき、かみながら走ったんですよ。そしたらものすごい怒られて。そりゃそうよね、音出したら敵地に、敵に知られるから闇に乗じて逃げてんのにね。そんな懸念があったんでしょうね、将校さんたちに。

Q:兵隊さんだったらそういう行動しないけど。

そうです。何にもそんな知識もあれも受けてなかったからね。ほんとに無知でした。戦いうものに対して。

えらい銃砲が近くで聞こえて、「どうしたの? 何の音? 敵が入って来たの?」って言うたらね、「あれは、道案内に連れて来たビルマ人を殺したんや」って。生きて帰さないのよね。私たちの行動を知らされるから、いうんで。あの時びっくりしました。家も一軒もないんですよ。そういう山の中ジャングルで。知らせたかて時間がかかるのにね、生きて帰さないのよね、そこまで連れてきておいて。そやから軍隊って怖いですね。自分たち利用しただけで。

最後の部落でね、「パンパンパンパンッ」と音がしてね、ひょっと道路の方見たらね、休んでて。兵隊さんが「バーッ」と走ってるんですよ。おかしいなー思って、誰もいない。3人しかいないんです。ちょっちょっと起こして。私ははだしでね、いま来た河の方へ逃げたんですよ、道路渡って。あとの2人は帰ってこなかったからね、そこでやられたんや思います。そこでうろうろしてて、衛生軍曹が三八(三八式歩兵銃)で一人で土手で撃ってるんです。上から「バーッ」てくるの。「お前何しとんねん、早く逃げんか」言うて怒られましてね。びっくりして「バーッ」と走って河を渡って、それでも弾が飛んでくるんです。

はだしで走って私1人だったんですよ。

怖くも何にもないんですよ。一生懸命歩いてたら、たら5人の塊に会って、「婦長さんたちは?」って言ったら「知らない」言うて。「私たちはここで一緒になった」言って。そこん中へ私入れてもらって6人になったんです。それからずっと夜までね、歩いて。川幅の狭いとこ探して。それでたまたま船に乗せてもらえてね、ビルマ人の。それで連れて行かれたのがその部落のおさの家で。それで女性ばっかりにしてくれて全部乾かせてもらって。ごはん頂いてちょっと満腹してね。それで寝てしまったんですよ。

ビルマ人のご婦人と一緒に寝ていたんやけどね、「夜は危ないから、朝出よう」と言って。夜中に目を開けたら誰もいないんですよ、私たち6人だけで。それで、「大変よ」言うてね、それで下へ降りてきたら、「ダーッ」と囲まれたんですよ、グルカ兵に。それでみんな、銃を持ってね。その時、一列に並んでね、6人が誰も人の後ろに行く人はいなかった。そうしたら、ここに私もしていたんですけど、ブローチ、これくらいのね。「ああ、レッドクロス、ナース」と言って、「パッ」と下ろしました。びっくりしました、その時。

Q:ブローチを見て向こうの方が?

うん、「レッドクロス、ナース」ってこう言いましたわ。それで言うた途端にみんなぱっと銃口を下に下ろして。あれはびっくりしましたね。でもそれでもやっぱりね、生きてるなんて思わないですよ。

Q:処刑されると思った?

そうですよ。処刑場行く、敵のね、立派に死なにゃいかん思うてね、少女やのにね。

それで一緒になって「上へついてこい」言うて、土手をずっと歩いて。トラックに行って、どこで殺されるんかな、そればっかり、日本人銃殺や思ってるからね。トングーいうとこに部隊が、イギリスのブラックキャットとかいう部隊、強いんですって。そこへ連れてかれて。そこの部隊長と通訳さん2人だけで(日本の)兵隊さんいない。それで私たち6人と部屋に通されてね。それで部隊のこと聞かれたんです。でも私たちは兵隊と違うからね、「部隊のこと全然分かりません」言うて。でも自分の名前とか看護婦のあれは全部言ってね、正直に。それでそんときに「おトイレ行きたい」言うて、最後に粗相したらいかんからね。そしたら日本にはあんなのなかった。今のトイレットペーパー、巻紙にね、きれいな字で墨で、『どうぞご安心ください』ってその通訳の人。アルゼンチンの大尉さんとイギリスの大尉さん2人でした。どっちかの方がね、書いて下さった。「こんなこと書いてるわ」ってちょっとほっとしましたけどね。

Q:女の人はね、いろんなことがありますよね。

そうですね、それが一番、死にたいと思う時ありました。恥ずかしくって。途中ね。みんな兵隊さんでしょ? 兵站(たん)宿舎泊まっても。ドラム缶のお風呂へ入っても見てるの兵隊さん。何にもなしでしょ? テント。だけど何日も入ってないしね、お湯にもつかりたいし。それからそういうおトイレが行きたくなったときは死にたい思いましたね。恥ずかしくって。家畜を運ぶ、列車で泰緬(たいめん)鉄道行ったことあるんです。……があって降りて、皆トイレとか。兵隊さんばっかりですね。看護婦少しやから。みんなで向こう(向いて)「守ってね」って言って。みんな丸く(囲んで)中で1人ずつするんですよ。あれがもう一番ね。

(連合軍の兵舎でトイレを)済まして、もう目隠しされて、トラック乗せられたんです。「あ、これからやっぱり銃殺やな」思って、それしか思ってないですからね。生きるなんてこと。トラックもずいぶん走ってから、幌(ほろ)を上げてびっくりします。きれいな景色に。ブーゲンビリアがバーッていっぱいでね。ビルマってこんなとこあったのかしら。ジャングルしか知らないでしょ。それも人も何にも入らないようなね。空見たらきれいな虹のように落下傘が「フワーッ」て下りてるんですよ。荷物いろんな食糧積んだね。もう夢の世界。これが今から極楽入る道かな思うてね。そのなかでね、ガムとかシガレットとか勧められました、憲兵さんに。「ノーサンキュー」ってね、それでも死にに行く思ってるからね。そしたら第13、ペグーっていうとこの輸送隊に連れてかれて。そこで「看護婦の仕事するか?」言うて。「それは本望や」言うてね。「日本人の捕虜の看護に就くように」って。そこから看護婦らしい生活が始まった。向こうの制服、普通の軍隊の服2着ずつ、靴下も。「お帽子はいらない」言うてね。もらってテント張ってもらって。イギリスの看護婦さんの宿舎の下に。そして歩哨がついて、インド人の。そんで守られたんですよ、そこで。そんで1週間……でしょ。パジャマもいただいたし。担架ベッドでした。細いこれくらいのね、1人。でもありがたかったです。そんな寝たことないですから、いつも地べたで。

「あなたたちは捕虜ではありません」言うて、軍医さんも3人。イギリスの兵隊さんと同じ病室に入れられて。「非戦闘員だから」言うて。将校さんですけどね。大尉さんとか軍医さん。私たちももうね、「腹切りが怖い」とか言われてね。通訳通じて「絶対捕虜ではありません」言うてね。そこ院長さんはいい方でした。もう同じようにしてね。「ジャパニーズシスター」って、何でも平等にして、その時初めて、「あ、赤十字の看護婦やったんかな」という誇り持てました。いろんなことさせていただいたから。注射もね、なんの薬もたんとあるし。それでみんな日本人でしょ。傷病兵は。もう向こうの人もね。夜も寝ないで点滴やってくれたりね。私たちは夜勤しなかったからね。イギリスの衛生下士官でした。そういうことしてくれる。

点滴見た時びっくりしました。「すごいな」思うて。よその国、こんな国と戦争してたんかな思って。で、ここ骨折してもね。みんなギブスで大変なんですよ。ばんそうこう(絆創膏)で「バーッ」と固定するんですよね。あんなもん見たことなかったから、そんなばんそうこう、こんなのね。

Q:やっぱり医療の技術もね、全然。

すごい遅れてると思いました。ああ、思ってね。喜びもありましたけどね、それをできたという。

私なんかも「国賊や」とかね、帰った時言われました。「負けたのはお前たちが捕虜になるからや」言うて。

家族も知らないんですよ。私のビルマの話は。したことないんです、誰にももう。

Q:やっぱり、戦争終わる前に捕虜になったから?

そうですね。それがもうね。せやけど、私たち手を挙げて行ったんじゃないしね。「殺してもらっても結構ですよ」いう態度やのに向こうは赤十字の看護婦やから言うて、別に取り扱ってくれはったのが命につながっただけで変なことも1つもね、されないし。

(帰国して)20年ぐらいたってからですね。みなさんもそれぞれ忙しいし、子育てがあって。やっと落ち着いた時に高野山でね、しょっちゅう戦友会とか慰霊祭して、そこで集まって、そこで(仲間の情報を)仕入れてきて。

Q:それ初めて聞かれた時はね。

もうなんともね。うそかほんとか、それこそみんな泣くよりしゃあないんですよね。

「婦長さんはおなかやられて」、「おなかのあれが全部噴き出した」とかね。もう1人私の同級生が「『婦長さん(私を)殺して』言うたら『自分で死になさい』言わはった」いうとかね。ちょっと覚えて自分もやられてたからね。

もう恥ずかしい言うかね。とにかく患者さんにね、もっとなんかできなかったかなと思いますわ。青二才でしょ。全然まだ実績がないのに出て行ったからね。ほとんど養成所とかそういうところ勤務ばっかりやったからね、お勉強のほかそんなことしか知らないから。外来とかね、病室行った人は注射もできるし。それから行き届かんことも多くて悲しかったと思いますわ。自分は一生懸命やったつもりでもね。もうちょっと優しい言葉かけられなかったかな、とかね。

それから今もね、一生懸命に生きないと罰が当たると思って。みんなね、二十歳や十九であそこで死んだのに、思ってね。でも人のお世話になって生きるのもどうかなとか、死ぬわけにはいかんし思って。もう今、複雑です。

出来事の背景出来事の背景

【女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦~】

出来事の背景 写真岩本さんは、日赤の看護婦養成所を繰り上げ卒業して召集され、激戦地ビルマ(現・ミャンマー)に派遣されました。撤退中は足手まといになるので、看護婦を殺してしまおうと言う将校がいたと言います。逃げる時にグルカ兵から銃口を向けられましたが、赤十字のマークを見た兵は銃を下げたそうです。
*戦時中は、前線に野戦病院、少し後方に兵站(へいたん)病院、主要地に陸軍病院や海軍病院という医療態勢でした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1924年
和歌山県に生まれる
1943年
10月、日赤和歌山支部救護看護婦養成所を卒業して看護婦になり、第490救護班員として召集される。12月、シンガポールの南方第3陸軍病院に補助勤務
1944年
ビルマ・ラングーンの第106兵站病院、ローガの分院に勤務
1945年
第118兵站病院に勤務
   
5月、捕虜となる。イギリス軍の収容所内の病院(ペグー)で終戦を迎える
1946年
10月、帰国

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