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タイトル 「マラリア患者が母を呼ぶ声」 番組名 [NHKスペシャル]女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦・激戦地の記録~ 放送日 2015年8月13日
氏名 黒瀬 サツ子さん(従軍看護婦 戦地 ビルマ(ラングーン)  収録年月日 2015年6月16日

チャプター

[1] チャプター1 お国のため、父のために  01:53
[2] チャプター2 うれしかった海外勤務  02:53
[3] チャプター3 眠っていたかった  03:46
[4] チャプター4 マラリア患者が母を呼ぶ声  04:06
[5] チャプター5 死体の処置  02:10
[6] チャプター6 碧い空  02:11
[7] チャプター7 転進という名の撤退  01:20
[8] チャプター8 故郷を思い歩き続けた  03:07
[9] チャプター9 漂う死臭  01:42
[10] チャプター10 死がよぎった終戦  02:29
[11] チャプター11 連合軍の管理下で  03:11
[12] チャプター12 帰りたい一心  01:19
[13] チャプター13 後悔していない  02:14

提供写真

再生テキスト

きっかけはね、私は、6人姉妹なんですよ、それで男の子が1人もいなくてね、父がお国のために立ってない家庭だからね、肩身が狭いから父がね、いつも、村会議員やらしてたんですよね。肩身の狭い思いをしてるって母が言ってね、「あんたは日赤に行ってね、よかったら戦争でも頑張って行っておいで」っていうように、母が私に話すもんですからね、そりゃ、私もね、臆病者でね、行きたくなかったけどね、父のためにと思って日赤を受験してね、受からんだろうと思って受験したらね、6人受けて私1人通ってしまったんですよ。それでいちばん行きたくない人がね、1人通ったなと思ってね、しかたがないけど、頑張って行って入学したんですよね。佐賀やらにはないですからね、養成所がね、山口まで行って。あのころ、関門連絡船みたいのに乗ってね、最初は入学するときに行ったんですよ。

嬉野海軍病院もね、召集令状でくるんですよ。「どこか、遠いところに行くかと思ったら嬉野ね」って母が言ったんですよね。それで「ああ、嬉野でよかった」って母が言ったんです。嬉野で半年はね、よかったですけど、それから「転属」っていうんですよね。転属の書類が来てね、どこに転属やろかって思ってたら「ビルマ編成」って言われてね、両親もびっくりしてましたけどね。そのころはね、私たちはどこか海外に行ってみたいっていう気持ちがありますからね、喜んで行ったんです。

Q:そのころはビルマの情勢って何か聞こえてたんですかね?

いえ、まだね、何ともね、分からなかったんです。そしてね、広島にある南方派遣のね、救護班が10個班ね、広島に集結したんですよ。

「あらびあ丸」でしょうね、それに乗ってね、ちょうど1か月かかりましたよ。台湾に一泊してね、そしてシンガポールまで行きましたけどね。もうとにかく船が玄界灘が荒れるでしょう。それでね私は船に弱いから、頭をぶつけてばっかしでね。それでね、台湾を過ぎたらね、もう、波が穏やかなんですよ。それでやっと生きた気持ちがしてね、海やら外やら見られたんですけど。

Q:みなさん独身ですか?

ええ、みんなね、独身です。昔はね、そういう家庭持ちもいらっしゃったけど、そういうのはみんな家庭と子どもやらとね、家庭を捨てて行くんですよね。そこがやっぱり赤十字に身を置いておく運命ですけどね。

Q:佐賀班は比較的若い方が多くて。

ええ、若い人がね、私が一番若いぐらいだから。

Q:一番若くて当時おいくつですかね?

19(歳)やったですかね。

ちょうどインパール作戦が始まるころね、行ってね。いちばん悪い状況って今言えばね、飛んで火にいる夏の虫のような状況、感じだけどね。そのころはね、みんな一生懸命国のために働いてた時ですよね。それで喜んで行ってね、ラングーンに一週間くらいおってね、それからまたラングーンからマンダレー街道ってまっすぐな道があるんですよね。そこを、まっすぐでね、遮蔽物が少ないもんですからね、空襲があるんですよ。それでね、朝はね、夕方までね、マンダレー街道のどこか奥にちょっと入ってね、休むんですよ。そして夜になってね、日が暮れてからね、トラックに乗ってね、ずっと進むんですよね、奥地に。それを一週間ぐらいしてね、メイミョーっていうところに着きました。

最初の日はね、ちょっと洋館建ての、イギリスが占領しとった時だ、洋風な建物の中にベッドがあってね、ベッドを置いてくれとった。そこでね、悠々と寝とったんですよ。

Q:初めて空襲を体験された時は?

はあ、もう怖かったですよ。もうね、防空壕(ごう)も揺れる、ガタガタガタッて揺れる、爆弾が落ちたらね。そしたらね、ドーンっていう、おなかに響くようなね。これは太い(大きい)爆弾が近くに落ちたなと思ったらね、跡が何にもないからおかしいなと思ったらね、不発弾でしたって。「あれが不発弾やったけん、よかったばってんね、不発弾やなかったらこの防空壕もつぶれとったかもしれんよ」って、書記さんが言ったんですよね。それでね、その時からね、ああ、空襲はやっぱりサッと逃げないかんと思うたんですよ。初めはね、逃げてなかったんです。「空襲」って言ってもね、飛行機がちょこちょこっと来てすぐ帰るもんですからね。そしたら後になったら書記さんがね、「あんたたちは空襲警報が鳴ってるのに、さっさと逃げんか!」言うて、おらんで(どなって)宿舎を回りよる。「あんたたちがこのまま逃げんで死んだら、あたしは内地に帰ってから親になんて申し訳が立つね」とか言ってね。おらび(どなり)回りしゃんけんね、しかたなくね、眠たい目をこすって防空壕に逃げよったんですよ。そのくらいで済みよったのにね、だんだん激しくなってね。もうそう、書記さんがね、「起きらんかい、逃げなかん、逃げなさい」って言わんうちにね、サーッと逃げるようになりました。

Q:最初、空襲警報が鳴っても逃げなかったっていうのは、やっぱり皆さん寝たいから?

眠たいからです。そしてね、ひどい目にあったことないから。どんなんか分からないんですよね、空襲警報でも。スーッと飛行機がね、通り過ぎるものかと思ってたんですよ。

アメーバ赤痢というのはね、間に合わないんですよ、便器が。寝たまま。それでベッドをこのくらいね、便器の大きさに穴をあけてね、下に便器を置いてる。で、四六時中ね、出っ放しよ、重症者は。

わらで作ったベッドとかいろんなね、ベッドがあるでしょう。それにこのくらい丸く切ってしまって、それで下に便器を置くんです。そうせんとね、お尻のほうが締まらないのね、アメーバ赤痢の菌でやられてね。それで、おむつを取り替えたりする暇がないんですよね。そんなにね、アメーバ赤痢もひどかったね。血便が出ますからね。

重症病棟だからね。もうね、「ああ、なんか雨が降っていやね」とかね、ちょっと患者さんに話しかけてね。一人で勤務していますからね、準夜と深夜と一人ずつでしょう、誰か答えてくれる人があったら、うれしいんですけどね。もう重症でね、ものも言いたくない人ばっかし。意識があるのかないのか分からない人ばっかしですよ。右も左も。それでね、そういう人、40人か50人ぐらいね。

重症者でマラリアで脳症起こしてるでしょう、脳症起こしてるからね、「お母さん、お母さん」って呼びんしゃっとったよ。そやけん、意識がある間はやっぱり、あんな病気しても兵隊さんだからね、そういう「お母さん」やらは呼びなさらんよ。そいでもね、脳症起こしてね、本当の意識がないからね、「お母さん、お母さん」って病室で聞こえてきたら悲しいよ。「もう、言わんでください」って。「こっちまで悲しゅうなるけん、あなた言わんどって」って、私たちもね、意識のない人に言いよったよ。「言ったらこっちまで泣くごとやけんね、言わんどって」って言いよったけど。

Q:救護班のみなさんはマラリアとか、かからなかったんですか?

みんなかかりましたよ。「かからんね」って言いよったらね、さすがにね、そういうひどい勤務をした後はね、それぞれね、3日熱マラリアだからね、1日おきに2回ぐらい出るのよ。今日悪寒が来て、発熱するでしょう、そしたらあくる日だけお休みがあるわけね。で、また3日めにはね、震えが来るわけよ、午後からね。それで、3日熱マラリア。それでね、私たちが20人おったうちにね、みんな3日熱マラリアをそれぞれね、順番に、「なんか決まったように熱が出るね」言うてね。順番にずっと出る。

広島、私たちと隣は広島班だったの、宿舎が。そこはね、2人ぐらい亡くなられたよ。やっぱり悪性マラリア。それから1人はね、愛媛班はね、白血病って、もともと自分が持ってた病気なのかなんか知らんけどね、白血病でも亡くなったしね。愛媛班とか広島班はね、亡くなった人が2人、3人ておられたんよ。

一人でね、夜中のジャングルの中で、一人で死体の処置するのはつらいですよ。それでこんな、簡単なベッドがあるわね。そこの上にね、荷物をね、兵隊さんのほら、バッグじゃないけど、雑のうをね、置いてるのよね。そしたらその雑のうを下ろしてね、亡くなった方の足元に置いとかんとね、その部隊から迎えに来るわけなんですよね。それで下ろさないかんけどね、そのベッドにまたがって下ろすのがもう、ものすごく怖かった。亡くなった人の上にね、またがって。下ろしよったですよ、荷物を下ろしてね。そしてね、部隊から迎えに来るのを用意してね、死体の処置を一人でしてましたよ。あの、くらいジャングルの中でね。

Q:死体の処置ってどういうことをするんですか?

そのね、体を一応拭いてね、やっぱりアメーバ性赤痢やらはね、お尻が汚い場合があるからね、お尻やらもきれいに拭いてね、一応、お湯のタオルでね、拭いてから、やっぱり鼻とかね、口とか耳とかお尻に詰めるんですよ、綿花を。焼き場に行くまでにね、汁が出ないように。それで詰めてね、そしてガーゼをかぶせるとね、終わり。それ自分ひとりでそれをね、夜中にね、ジャングルの中でするのはつらいよ。

患者さんの仕事に追われたでしょ。ちょっと外に出て、病室の外に出てみたらね、「あらー、ちょっと青空が見えるよー」って言うてね、友達をね、「ほらちょっと来てごらん、青空よ」って言うてね。「あらー、いつから青空になったの」って言うてね。もう、ばかみたいよね、空見て喜んでね。そしたらなんの、10月になってるもんね。毎日毎日雨が降るでしょう、曇り空ばっかりでしょ、そやけんね、いつからか空に、青空になっとった。本当にね、それを喜んでね、みんなを呼んで「ほらほら来てごらん、青空が見えるよ」って言うてね、青空を見てね、感動してから。

普通の青じゃないのよね。王ヘンに白という字書いてね、その「“碧”空」としか言いようがないのね。真っ青よ。それでね、「あんなね、青空見たことない」って言うてね、しばらく青空を見上げて喜んで、どういうことやろかと思う。普通の人やったらね、びっくりすると思う、あの人たちおかしいじゃないのちゅうごとあるけどね。

空やら見たことなかったもんね。ちょこっと外に出てみたら空があんまり青いのにびっくりしてね、ちょっと下らん話かもしれんけどね、おかしな話でしょう。あんな空やらみたら、ほんとびっくりして感動したよ。

砲声が聞こえる、大砲の音が聞こえよったもんね。ドーンドン、ドンドンね、大砲の音が聞こえるところまで行っとったんですけどね。もう、みんな兵隊さんが撤退するからね、看護婦は撤退せにゃあね。

移動するときはね、昼間寝て夜ばっかしよ。夜ね、トラックに積まれてね、話もなんもせんでね、黙ってね、眠っておるかおらんか、うつぶせたままたいね、そのままずっと行くの。あんまり話してもいかんって言われた。トラックに何が積んであるか分からんぐらい。

悪いけどね、「転進」、「転進」っていうけど、逃げてる、後退よね、タイ国にね、行く準備ばっかりよ。

(河が)広いのよね。それをね、私たちが渡るときは、荷物を頭に乗せてよ、頭に乗せてね、くくってね、ひもでくくってね。そしてね、衛生士さんたちがね、カローの兵站(たん)病院から、衛生士さんたちを7~8人つけてくれたの、カローの病院長がね。それでね、その輸送指揮官の軍医さんっていうのがね、とても誠実な人でね、よく世話を焼いてくれて。うちの書記さんが言うには、「あの人だから一人も欠けんで着いたと」って言ってあったけどね。その人、指揮官がよかったんでしょうね。河を渡るときはね、選ばれた衛生士さんたちがね、この幅に何人も立つわけよ、ずーっと。10人くらい立ったら川幅があれするからね。それで浅いところから行ってね、衛生士さんたちの手をつかまえてね、その衛生士さんたちの横に綱も引いてあるわけ。綱をね、衛生士さんのまだ遠い時は綱を使って、そして衛生士さんの手をつかましてもらって、そして次の衛生士さんから向こうに渡してもらってね。で、次の衛生士さんにしてね。衛生士さんたちが何人、7~8人か10人でしょうね。あの広い河にずーっとがんばってあったよ。その人たちの手を伝ったから、私たち流されんで済んだというね。「ありがたかったね」って話したんですよ。

そして山を越してね、一番山をね、近い山をちゃんと選んであるんでしょうね。そやけどね、毎日毎日、下向いてね、昔のね、自分のところのね、両親たちと一緒に暮らした家のことをね、ずっと考えながら歩いたらね、一日たつのよね。そんなんしてね、楽しいことを考えながら下向いて、歩くばっかしよ。

Q:一週間行軍している間に、兵隊さんも同じ道で撤退しているわけですよね?

そうね。兵隊さんとは会わんのよ。なかなか会わん。まだ撤退が遅いのよね、時期的にね。私たちは早くね、タイ国にね、横跳びしよったと。

私たちが歩いて行くでしょう。そしたらね、その背のうも雑のうも、かろうたまま、こうしてね、眠ったまま、休憩したまま、息絶えてる人もおったよ。そしたらその、やっぱりね、なんとなく南方だからね、臭いがしてくるわけよ、すぐ、あったかいけんね。せやけんね、臭いがしたら、「また誰か亡くなっとんしゃ、つらいね」って言いながらね、見らんようにしてね、通りすぎよった。そんな人が何人かおったね、行軍の姿のまんまよ。

誰かね、もう10人でも20人でもね、「絶対戦争はだめ」って言うてね、止めてくれる人がおったらね、こんな悲劇は起こらんやったろうにって思うわね。それを何で止められんやったろうかって思うね。

そんな戦争好きな人はビルマのね、インパールの方にちょっと、はんごうやらあれをかついで行ってみたらいいと思うとですよ。そう思うよ。どれだけの人がね、食事もなくて飢えと苦しみで死んだかね、と思うたらね、悲しいね。

終戦になったとをね、なんで知ったかっていったらね。捕虜たちがね、日本軍の捕虜ですよね、朝鮮人やらね、オーストラリア人とかね、あの人たちがね、どんちゃん騒ぎしてるのよ。「なんで君たちはどんちゃん騒ぎしてるか」っちゅうたらね、「終戦になったの」っ言うて。そしたら日本が負けたことよ。自分たちが喜びね。どんちゃん騒ぎしてんのよ、捕虜が「もう帰れる」って言うてね。それで終戦を知ったんですよ。それでね、捕虜がどんちゃん騒ぎしてるよっていうことが病棟に知れてきたからね、そりゃあね、「おかしいよ」って言うて。「とにかく帰んなさい、宿舎に帰んなさい」って書記さんが言うからね、宿舎にみんな帰ってね。黙って、終戦になって負けたことはね、私たちは殺されるのだろうかって思うてね、黙って自分の領域のね、アンペラの上にゴザを敷いてあるだけの宿舎の上にじーっと座ってね、みんな黙ってうつむいてね。じっと座っておったんよ。そやけど何の音沙汰もなくてね。なんか、婦長さんがね、「死ぬときはみんな一緒よ」って。「青酸カリは私がちゃんと用意してきたから」って、病院でね。そして、「個人には絶対渡しません」ってね。「私が20人分ちゃんと預かってきましたから、いざ死ぬときはみんな一緒だからね、心配しないでいいよ」って言われてね。「ああ、よかった」っと思ってね。じーっと座っておったんですよね。

書記さんがね、自分が支那(中国)に行ってたとき中国でね、戦争に行ってたらね、「女でもなんでも戦争に負けたら哀ればい」ってずっと言うて聞かせんよんしゃったからね、自分たちもそう遭うんじゃないかと思って。

みんな働く気せんよね、しょぼんとしとったのよ。なんちゅうことないのよ、一週間たっても一か月たっても何か月たっても、なんちゅうことない。せやけん「今まで通り、仕事しよってください」って言われるけん、今まで通り仕事しよるうちね、もうね、終戦のこと忘れてしまうくらい。

オリーバー少佐っていう、イギリスの少佐がね、管轄でね、査察を、「病室の査察をします」って言うて。それでね、したらね、怖かったけどね、なんて言われるやろかと思って。患者さんのね、あんたビルマから来た人ばっかやけん、看護衣でもさ、そんな質がね、毎日毎日変えるような量がないでしょうが。患者さんはね、汚れた病衣は着てるしね。「もっと、髪はきれいにつんで、爪から、きれいにしてやらないかん」ちゅうてね。オリーバー少佐の達しがあったからね。またね、新しい看護病衣を出してね、日本人もせせこましいね、オリーバー少佐の視察用の、看護衣をね、患者さんの衣を別に一枚ずつ渡しておくわけよ。汚れんとを。そして「オリーバー少佐の視察があります」って言うとすぐ汚れてるのを脱いでね、それを着替えるわけよ。

もう傑作よね、せせこましいね、日本人のすることってね。でもね、洗濯しきらんのやからね、場所もないし干すところもないし。

英国のMPがね、MPってここにつけた人がね、私たちの看護宿舎の出口と入口に立つのよ、ものも言わんでこう、立ってね。「なんで立っとんしゃっと」って言うたらね、捕虜がね、日本人に捕虜になったけど、英国の捕虜よね、これは初めての休暇になるって、日曜日でね、解放されて初めての休暇になってね、町に出てね、いろいろね、お酒飲んだりなんかするからね。

看護宿舎に侵入するかもね、分からんと思うて、MPがちゃんと入口と出口につけてくれてるのよ。すごいでしょうがね、ジェントルマンよ、あの人たちはね。

戦争中はね、「帰りたいね」って言ったことは一言もないのよ。家に帰りたいって思ったことは全然ないのね。それをね、終戦になったとたん「帰りたいね、帰りたいね」って友達とずっと言うて。そやけんね、「おかしいね、戦争中は『帰りたい』って一言も一回も思わんやったのにね」っちゅうてね。

やっと一年たってね、あれが決まりましたって連絡が、「迎えの船が来るのが決まりました」って言われてね。うれしかった。

Q:誰も班の方もね、一人も欠けずに。

そうですね、佐賀班は、一人も欠けんでよかったよ。

浦賀にね、入港したのよ。そいで、浦賀から汽車に乗ってですね、二昼夜。二昼夜ね、もうただ座ったまま。それでね、朝方、佐賀に着いた。

でもね、ビルマにあんな苦労したけどね、行ってきて看護婦になって悪いとは私、思わんやったね。どういうわけかね。それがなんか、自分の宿命と思うかね、やっぱり父がそういう村会議員ばっかりしよったからね、一人もね、兵隊に出してないっていうのはね、肩身の狭い思いをするからって、母が言うわけよ。するから「あんたはね、従軍看護婦でもなってやらんね」って言いしゃったわけ。せやけんね、行ってきてよかったってね、後悔はしなかったね。せやから家のためにも行って来たたいと思ってね。でも無事に帰られたからね、それでいいと思ってね、全然その行ったことに後悔はしなかった。

そしてね、話してないもん、父たちに。うちのものには。あなたにね、話した分まで話してない。

言っても分からんけんと思うて、私は、何も(話)してない。「ほんに苦労したね」って言って、なんか言うたちゃ。「はい、つらかったね、ほんに苦労したね」って、分からんとよ、ほんと。あなたたちみたいなね、あれやったらまだ分かるけど、百姓ばっかりしよったっちゃな、どれがどうなんか分からんと。せやけんもう、とにかく無事で帰ってきたからいいっちゅうことだけやね。いくら苦労しても、無事で帰ってきたけんよか、いうくらいのことよ。

出来事の背景

【女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦~】

出来事の背景 写真黒瀬さんは、19歳でビルマ(現・ミャンマー)に派遣されました。睡眠時に空襲警報が鳴っても、逃げないで眠っていたかったと思うほど、毎日が忙しかったそうです。一人で夜のジャングルで死体を処置する仕事がつらかったと語ります。終戦後、英兵の紳士的な対応に感心したそうです。
*戦時中は、前線に野戦病院、少し後方に兵站(へいたん)病院、主要地に陸軍病院や海軍病院という医療態勢でした。

証言者プロフィール

1927年
佐賀県に生まれる
1943年
日赤山口支部救護看護婦養成所を卒業して看護婦になり、嬉野の海軍病院に勤務
 
11月、第492救護班要員として召集され、シンガポールへ
1944年
3月、ビルマ・メイミョーの第121兵站病院に勤務
1945年
第105兵站病院、カローの分院に勤務
   
タイの第148兵站病院で終戦を迎える
1946年
8月、帰国

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