ホーム » 証言 » 永井 友二郎さん

証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る

タイトル 「若き海軍軍医の戦争」
氏名 永井 友二郎さん(軍医 戦地 ミッドウェー ガダルカナル島 トラック諸島 日本(広島)  収録年月日 2017年3月13日

チャプター

[1] チャプター1 海軍軍医を志願  02:34
[2] チャプター2 医学生から軍医中尉へ  05:56
[3] チャプター3 初陣はミッドウェー海戦  07:28
[4] チャプター4 水葬  03:20
[5] チャプター5 ガダルカナルへの輸送任務  02:42
[6] チャプター6 「俺だって怖いんだ」  02:41
[7] チャプター7 自然の采配に生かされて  04:12
[8] チャプター8 “軍医は守り神”にすぎない  03:19
[9] チャプター9 潜水艦の生活  01:52
[10] チャプター10 海中で息を潜めた  08:35
[11] チャプター11 トラック大空襲  08:12
[12] チャプター12 被爆者の救護隊を送り出した  05:00
[13] チャプター13 生かされた人間として  02:21

提供写真

再生テキスト

Q:医学生であると、卒業すれば皆軍医になるというのが当たり前だった?

当たり前だったですね。もう戦争、支那事変(日中戦争)の最中ですから、それで太平洋戦争に私が(千葉医科大を)卒業したときに入ったわけですから。

Q:同級生全員軍医になったわけですか。

もちろん病気の人は駄目ですけどね。病気だとか、体に支障のある人は駄目ですけども、健康な人はみんな陸軍か海軍か、どっちかに採られて入りました。

あの時代はもう、支那事変の、私の学生時代、最中でしてね、太平洋戦争が始まる前でしたから、普通に大学卒業しますとね、陸軍の軍医になって、中国戦線の戦争に駆り出されるという予想がおおかただったもんですから、私は陸軍というのがやぼったいような、堅苦しいような感じがして、海軍のほうがもう少し自由があって、考え方が広いように思ったもんですから、海軍へ行きたいなと思って、海軍を志願したんですね。

学生の4年の時ですよね。4年で卒業なんで、だから来年の3月卒業の前の年の12月ですからね。戦況、思いもよらないことが始まっちゃったなという感じで。それと同時に、自分たちも(翌年)3月卒業を12月卒業に繰り上げられて、翌年(昭和17年)1月に海軍へ入ることになったわけです。

Q:お仲間同士で戦争に向けて、あるいは軍医になることについて、お互いに語り合ったりしたことで、覚えてらっしゃることってありますか?

いやもう、まだ見ぬ戦争ですからね。「いや、どうなっちゃうんだろう」というぐらいのもんですから。

結局、我々はみんな陸軍か海軍か、すぐに入るわけですから、「一体どうなっちゃうんだろう」と、本当にお先真っ暗というか、全く先の分からない不安定な気持ちでしたね。

Q:それで1月にその海軍の軍医の学校……

軍医中尉に任官して。それから今まで大学の学生だった人間をね、いきなり海軍軍医中尉というね、軍服を着せるわけだから。そうするとさ、海軍の中でもね、軍医でも何でも「中尉」っていうとね、士官の中では割に下のほうだけどね、下の兵隊から見ればね、ずっと上の士官様だからね。それで、ほかの兵学校を出た立派な海軍の教育を厳しく受けた連中の中に立ってね、へなへなのきのうまで学生だった人間が、軍服だけ、軍医中尉の軍服を着てね、中へ入っていくわけですから。それを急いで海軍士官らしく教育しなくちゃなんないんで、初め海軍砲術学校と、横須賀で、3か月厳しい教育を受けました。

海軍の軍医としての教育はそのあとね、3か月あと、築地の軍医学校に移りましてね、そこで5月までね、大学で教わった医学だけじゃなくて、戦争の医学、あるいは南方の熱帯医学、そういう戦争に必要な海軍の医学の教育を受けたわけです。

軍医学校の教育が終わって、それで第一線部隊にみんなそれぞれ、いろいろなとこへ配属されるわけです。それで私は第二艦隊司令部付という辞令をもらったもんだから、第二艦隊の軍艦どれに乗せてもいい持ち駒という辞令ですから、そして第二艦隊の旗艦、あの時は「愛宕」だったかな、重巡(重巡洋艦)の「愛宕」のあれに着任して挨拶したら、永井軍医中尉は重巡の「鈴谷」に乗艦を決めたということで、すぐに瀬戸内海で重巡の「鈴谷」に乗り込んで、生まれて初めての軍艦生活が始まったわけですよ。

※医学生は大学卒業後、病院などで実際の医療を研修する課程が必要でしたが、日米開戦後はなくなりました。

重巡「鈴谷」の医務科は軍医が3人で、あとは衛生兵が10人ぐらい、乗組員1,000人ぐらいのね、軍艦に、軍医が3人と衛生兵が10人ぐらいというあれで、病気やけがやなんかの世話をすることになったわけですね。

瀬戸内海の呉のちょっと南の柱島という島の近くの海面に連合艦隊が勢ぞろいしておりましてね、ミッドウェー攻略に出撃する直前だったんですよ。

私が着任してね、ほっとした日の夕方ね、「総員集合」っていうね、後甲板つってね、軍艦の後甲板に乗組員1,000人が集まってね、艦長から訓示を受けたんですね。その訓示は、明朝ミッドウェー攻略に出撃するという。あれよあれよという移り変わりで、成り行きに身を任せたわけです。

ところが結局、ミッドウェー海戦はご承知のようにね、我々のその重巡の4隻は本隊のね、戦艦やね、航空母艦の艦隊とは別働隊でね、南のほう、東へ向かってたわけですが、本隊のほうが、入ってくる電報を聞いてるとね、次々にね、虎の子の航空母艦がね、アメリカのあれにやられちゃうんですね。「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」というね、日本の海軍のね、一番大事な航空母艦がね、いきなりやられちゃうんですね。

それで、「鈴谷」「最上」「三隈」「最上」の4隻はね、ミッドウェー島を、夜間砲撃してこいという命令が出たんでね、最大船速っていう、30ノットというすごい速さでミッドウェー向かって走って。あと1時間ぐらいでミッドウェー着くというときにね、また電報が来て、それは急きょその攻撃はやめて、危ないから反転して帰って来いという電報が入ったもんだから、急いでまた日本のほうへ向けて走ったわけ、4隻の重巡が。

その途中でね、大変残念なことにね、一番、「熊野」「鈴谷」「三隈」「最上」という4隻が並んでた後ろの2隻がね、ちょっと方向転換するときに、お尻と前を、ちょっと接触事故を起こしちゃったもんだから、「熊野」「鈴谷」は健在なんだけどね、後ろの「三隈」「最上」がね、船足が遅くなっちゃったんですね。それで、前の船足のいい2隻はできるだけの速さでミッドウェーから遠ざかるように逃げたんですが、船足の遅い「三隈」「最上」がアメリカの機動部隊につかまりましてね、結局、「三隈」は沈没してしまうという大損害を出したんですね。

それで、その「三隈」の負傷者たちを「最上」が収容して帰って来る途中で一緒になったときに、「最上」だけでとても治療しきれないからというんで、その負傷兵たちを半分「鈴谷」に移したもんだから、私は生まれて初めてね、出た戦争でね、生まれて初めてね、戦争でけがした兵隊の治療にね、明け暮れたんですよ。100人ぐらい負傷兵がいましたね。それを軍医長が軍医中佐で、あと軍医大尉が1人、それから私が軍医中尉と、3人の軍医で衛生兵が10人ぐらいで、100人ぐらいのそういう、全身のやけどが多かったんですよね。

全身焼けちゃったような、髪の毛もなくなっちゃってるようなね、そういう兵隊が、「口が乾くから水が欲しい、水が欲しい」なんつって、言ってるうちにね、みんなきょうは2人、きょうは3人というふうにね、死んでいくんですね。そういう治療をしたってね、全身やけどの治療たって、何もしようがないんですよ。油を塗ってやるぐらいですからね。そうすると、死んだ遺体はね、ああいう戦争の途中ではね、水葬するんですよ。

30~40人死んだと思いますね。とにかく海軍の軍艦で、やけどというのは蒸気でね、機関室でね、蒸気が噴出してね、それでやけどしちゃうんですね。だからもう激しいんですよ。

髪の毛もなくなっちゃってね、目だけギョロギョロして、皮膚も焼けてるから黒くてね、もう裸でね、こんなになってね、「水が欲しい、水が欲しい」って、そう言ってるうちにだんだん死んでいくんですね。戦争というのはこういうもんなんだということを、私は初めてミッドウェー海戦で体験しました。

遺体をね、軍艦に積んでね、内地まで連れて帰るということはないわけです。水葬するんです。何ともね、そういう経験がなかった人間から見るとね、なんか悲しいね、自分のね、親兄弟だったらね、何ともやりきれないだろうと思うようなね、光景ですよ。広い、太平洋の大きなうねりの中にね、布に包んで置き去りにして行くんですからね。情けないですね。

海へ落として葬るんです。それで、亡くなった兵隊が1人とか2人とか3人とか出るたんびにね、軍艦の走りながらね、一番後ろのところからね、白い布でくるんだ体、遺体をね、ポトンと落として行くんですね。水葬という。私は生まれて初めて水葬というのを見てね、本当に太平洋の大きなうねりの中にね、布でくるんだ遺体がね、大きく揺れながら消えていく状況はね、すごく悲しいもんでしたよ。戦争というのはこういうもんだなということをね、初めてしみじみ思いましたね。

Q:水の中に落とす?

落とすんです。よくあの軍艦の後ろに旗を立てるような棒というか、さお(竿)が出てまいりますね。あれでもってつり上げて、落としていくわけです。

Q:つり上げて水の中に?

そう。軍艦の後甲板で、それに縄でつって、そして縄を外して落とすわけですね。そうやると波のうねりの中にね、遺体がね、布にくるんだ遺体が揺れてね、消ていくわけですよ。ずいぶん何人も水葬しましたね。

Q:儀式みたいなことはするんですか。お名前を呼び上げるとか。

いやいや、ただ整列してね、敬礼して、落としていくわけですよ。

ブーゲンビル島からね、ガダルカナルまで300海里(約550㎞)あるんですが、食糧とか弾薬をね、補給しなくちゃいけないというのでね、今度は駆逐艦に乗ってね、そこへまいりましてね。結局ガダルカナルも最後は撤収するんですが、それまで私は13回往復したんですね。ブーゲンビル島から300海里、ガダルカナルまで。それで制空権がないですから、行き帰りに2回ずつアメリカの急降下爆撃機に爆撃されながらね、駆逐艦は姿が小さくて足が速いから、うまく当たらないで逃げられるように、逃げ回るわけですね。だけどたまには当たるわけですよ。私は途中で自分の乗ってた「夕立」が当たって沈没したり、「峯雲」では当たって大破して、泳いで隣りの駆逐艦に拾ってもらったりしながら、結局13回往復しましたがね。ほんとにそういうね、やられるまんまの負け戦、制空権を取られた負け戦を戦うというのはね、すごく怖いもんですよ。もう命がいつなくなるか、いつ片手片足がすっ飛ぶか、ひやひやしどおしですからね。私は生まれて初めてね、そういう毎日を半年続けたわけですよ。

吉川艦長(駆逐艦「夕立」)が豪胆だしね、悠々とね、爆撃される中をね、艦橋に立ってね、かじ(舵)を取らせたりね、対空射撃を号令したりね、やってらっしゃるからね、「ああ、やっぱり豪胆な軍人は立派なもんだな」と思いつつね、私は素直な気持ちでね、怖いのから何とか逃げたいと、怖さから逃げたいと思ってね、艦長にね、「どうやってもいろいろ考たんだけど、怖いんです」と。「艦長だって同じようにやられるわけだから、怖いはずだろうと思うけど、怖くないんですか」と、豪胆な艦長にね、私は聞いてみたんです。

そしたら艦長がね、「永井軍医中尉が言うとおりだ。怖いの当たり前だ」と、「俺だって怖いんだ」と。「ただね、俺はね、急降下爆撃してくる向こうの飛行機に対して対空射撃を号令したり、軍艦の舵を切らせてうまくよけたりする仕事があるから、それに没頭してるから気が紛れて怖さが少ないだけなんだ」と。「永井軍医中尉のように何にもけが人が出ない間は、仕事がないんだから、やられるだけで、やられるのを待ってるんだったら怖いの当たり前だ」と言ってくれましたんでね、「よし、それじゃ当たり前で、当たり前で怖がっていこう」と思って、それからやりましたね。

やられるときはね、あっという間にやられちゃうんですね。なんかね、爆撃を受けながら走ってると、ズシーンとね、体にほんとに響く大きな衝撃があったんでね、「おや」と思ったらね、急にね、軍艦が舵を切ったんかなと思ったら、舵を切ったんじゃなくてやっぱりね、爆弾が当たって水が入って傾きだしたんですね。それで、ぼやぼやしてたらね、海軍中尉の航海長がね、兵学校出の海軍士官が、「永井軍医中尉、やられて沈没するから早く飛び込まないと危ないから急げ」と言ってね、急がしてくれたんですよ。それでその豊田中尉と一緒にね、海へ飛び込んでね。軍服着たまま、帽子かぶったり靴を履いたまま飛び込んでね。僕は水泳の選手だから泳ぐのは上手ですからね。隣りのね、駆逐艦までね、泳いで行って拾ってもらいました。まあそんなことが1度、2度あったかな。

Q:その時は命の危険みたいなのはあまり感じ…

命の危険というか、まあそれこそあっという間に爆弾が当たったり、沈没したりしていきますからね。命の危険ということ、それはゆっくりしたときには思いますけどね、その真っ最中のときはそれどこじゃない。ただ成り行きに合わせて、反射的な行動をしてたんだと思いますね。

けがして死んでも、片手片足がなくなっても、自然の成り行きが自分にとって一番いいんだと、そういうふうに思えと。そういう自分なりの腹をくくるというのかな、生命観みたいなものを、天の声というのかな、むしろ私は「自然」という言葉がね、一番ぴったりするように思ってね、これは自然の成り行きに預けると。私を生かそうと殺そうと、これは自然の采配、自然の命令なんだというふうに思うようにだんだんなっていきましてね。

私は驚いたのは、やっぱりガダルカナルで食糧も十分なくて、やせ衰えて、体力も大変弱った兵隊たちがね、小さい大発(大発動艇・上陸用舟艇)というね、エンジンのついた船で岸から駆逐艦まで送られてきて、そこで我々の駆逐艦に彼らが乗り移るわけだけど、彼らが駆逐艦のような小さな軍艦の階段を上がるだけでも、やっとやっと上がれるのをみんな助けてやって、収容してやったりしたんですけどね。

本当にガダルカナルのあそこは食糧、弾薬がないもんだから、栄養失調とマラリアがあるんですね。だからマラリアと栄養失調の二重の苦しみでね、ほんとにやせ衰えてね、おうだん(黄疸)になってたりね、本当に体力消耗しちゃって、脈も弱くなってという、本当に情けない戦争をしちゃったもんですね。

Q:その脈の弱ってた兵隊の方たちの治療って何か…

治療なんかできませんよ。ただ名前とね、所属だけをね、ちゃんと記録してね、衛生兵にね、成り行きを、脈が止まっちゃったかどうかを注意して見てろと言うほか、しょうがないですもんね。注射する薬もそんなにあるわけじゃないんです。

なかなかその医療というものをうまく提供できるという場面というのは、そんなに多くないですね。一種のね、お守りみたいな感じもありますね。

Q:お守り?

乗ってる艦長以下ね、乗組員から見るとね、軍医が乗ってるというのがね、守り神が乗っててくれてるという感じで見られていましたね。

初めは1万トンの巡洋艦だったのが駆逐艦になって、小さい船になったなと思ってたら、今度は潜水艦に乗れということになって、びっくりしましたね。私は潜水艦なんてね、初めてでしょう。乗ったらね、とにかく鉄の塊の中に入って海の底へ潜るわけですからね。もう一度浮かび上がれるかどうか心配ですよ。

乗ってるとね、結局、汽車の客車に乗ってる感じですよ。夜汽車。水中だからね、電灯で、太陽の光が入ってこないから、夜汽車の客車の中に乗ってるような感じです。それで、海の中というのはね、ほんとに静かなんですね。ちょっと10メートルもね、下がってしまうとね、もう全く揺れませんからね、ほんとに静かでね、眠くなってくるんです。よく寝ましたね。

マキン島、タラワ島が。そちらへアメリカのその艦船が来てるはずだから、攻撃に行けという命令が来たんで行きましたら、マキン島の近くに行った夜明けに潜望鏡で田畑艦長が見てたら、アメリカの航空母艦と輸送船が何隻かいるのを発見したもんだから、「これからアメリカの空母を攻撃する」という艦内の伝声管で連絡があって。結局、魚雷4本を発射して、アメリカの「リスカム・ベイ」という航空母艦を撃沈したんですね。だから「伊175号」は大変な戦果を挙げて、表彰状をもらってるんですけど。

夜明けだったかな。それから、発射した以上はうまく命中してくれればいいと、みんな期待していますから、いつ命中したごう(轟)音が海水を伝わって聞こえてくるかと、みんなおおきに心待ちしてましたがね、なかなか聞こえてこないんですね。いつまでたっても聞こえてこないから、とうとう駄目だったのかなと思い始めたころ、相次ぐ、3つだったかな、大きなごう音が聞こてきましてね。「やった!」ということをみんなで、艦内で叫び合ったもんでした。ただ、それからが大変ですよね。逆に今度はやられる番ですから。

私たちの潜水艦は設計上、80メートルぐらいまで最大潜れるという設計になってるということだったんですけど、こういう危険な状態だから100メートルまで潜れというような、それで水圧でつぶれてしまえばそれまでだということで、100メートルまで深度を下げて、本当に音ひとつ立てちゃいけないんで、ただじっとしていましたけど、だんだん爆雷攻撃が頭の上を行ったり来たりしながら続いていたんですね。それで…

Q:音が聞こるんですか?

そう、スクリュー音がね。それから爆雷の破裂する音が。まあそんなに私の潜水艦がやられるほど近くではなかったから、音を聞いてるだけで済んでたんですけど。もうそれから、やられ始めてから10時間ぐらいもたったもんですから、みんなおなかがすいてきたんですね。それで艦長が給食兵に、音を立てないように静かに戦闘配食、食事を各部署に配れということを言いまして、配ったんですね。

そしてやっとみんなが少し食べ始めようとしたときに、だんだんスクリュー音が近づいてきましてね、いきなり大地震が来たようにね、ガガーンってね、揺さぶられてですね、それで1か所海水が入ってくるところもちょっとできたんですけど、うまく兵隊がそれは止めることができたんで、その時は助かったんですが、そういう状態がまだあと何時間も続きましてね、結局、頭の上を爆雷が行ったり来たりしながらということは、まさにね、死刑台に乗せられてね、死刑の刑の執行を今か今かと待たされてるという状態ですよ。その怖さ、最期のときの、今か今かと待たされてると。それでだんだんその音が近づいてくると。そういう状態がね、7時間続いたんですよ。

ただ、今か今かとね、待たされてる怖さというのはね、頭のね、一種のね、何ていうかな、硬直しちゃった状態ですね。だから私はね、持ち込んでた、私、好きな本が2冊ばかりありましてね。1つは『万葉秀歌』なんかね、開いてみたりしてね、気を紛らそうと思ってみたんですけどね、全然ね、活字の上を目が走るだけでね、全然内容がね、頭に伝わってこないんですね。もう今、いつ爆雷でやられるか、やられるかと、そっちのほうにばっかり神経が行っちゃいますからね、本開いても駄目なんですね。

私はね、この長い一生の中でね、まあその後も含めてね、そんな経験は全くないですけども、人間の怖さのね、極限、死刑の執行を待たされてね、今か今かというね、怖さというのの極限の状態をね、生まれて初めて体験しましたね。

だんだんね、日が暮れてね、夜になるんですよ。そうするとね、アメリカの駆逐艦もね、諦めて遠ざかって行ったんですね。それで夜のね、南太平洋の上に浮かび上がったときはね、まあなんとうれしかったことか。きれいな空気をね、みんなで胸いっぱい吸い込んでね、「生きてたぞ」という感じでしたね。

その潜水艦の勤務が終わったあと、潜水母艦というね、潜水艦に魚雷を補給したり、食糧、弾薬、食糧やいろんなものを補給する潜水母艦というのがトラック島にね、「平安丸」という日本郵船の北米航路の1万トンの客船が(徴用されて)いたんですね。それの乗組員にされました。

ある日、トラック島が2日間にわたって大空襲を受けまして。そのトラック島の環礁の中にいた軍艦はかなり大痛手にやられてしまったんですが、初日は幸いに、1万トンの大きな体してる「平安丸」は爆弾が当たらなかったんですね。それはほんとにね、神様がうまくしてくれたんだと思うんですが、2日にわたってやられた初日、爆弾が当たればね、潜水母艦だから潜水艦に補給する魚雷をたくさん積んでるんですよ。だからね、1本の魚雷がはねただけでも大変な、すっ飛んじゃいますけどね、それを何十本もね、腹に抱えてた「平安丸」にね、第1日の空襲ではね、幸いに当たらなかったんですね。それだもんだから、その夜を徹してね、魚雷を陸揚げしたんですね、「平安丸」は。

そして第2日の空襲に対処してたんですが、第2日はやはり予定どおり午前中からアメリカの急降下爆撃機が再三爆弾を落としてきまして、そしてついに「平安丸」に爆弾が当たりました。私はその時ちょうど「平安丸」という一番きれいな一等客船のサロンというか、一等船客の食堂のソファに壁を背中にして座って、救急材料をテーブルの上に置いて、救急の治療ができる体制で待っていましたら、爆撃がだんだん激しくなってきて、「あっ」と言った間に、気がついたら辺りは真っ暗。真っ暗になって、煙がもうもうとして、自分の体の上にいろんな壊れた木材や廃材やガラスが積み重なってるんですね。それで顔に手をやると、何だか木が刺さったり、ガラスが刺さったり、血が出てヌルヌルしてるんですね。そして誰もいませんから。そして部屋の隅では火がチョロチョロ燃え始めていたんですね。

私はそれで、「これはやられた」と思って。ただ、幸いに手足動かしてちゃんと動くし、それで私の体の上にいろいろ木材やガラスや何かが載ってるのをこうやってかき分けて、上にはい出して、部屋から出まして、階段を上がって上のデッキに出ましたら、昼間だから明るくて、太陽がさんさんとしてんですけど、でも外を見ると、もうカッター(短艇)が出されていて、乗組員がだいぶそこへ乗り移ってんですね。どうやらみんなこの艦を捨てて、ボートで退避するらしいということが分かったんで、私もラッタルという階段を下りて、そのボートの来るのを待ったんですけど、なかなかボートがこないんですね。しかたがないから、私は軍服を着たまま、靴を履いたまま、泳いで、私は水泳の選手だから泳ぐのは自信があるから、ボートまで泳げと考えて、ボートまで泳ぎ着いた。顔やなんかにけがしたままですね、泳ぎ着いて、ボートに引き上げてもらったんですね。

そうしたところが、やっとほっとした、安心したせいもありますが、まだ朝、午前中だというのに、だんだん周りが夕暮れのような、日が暮れていくようなくらさになってきまして、そのまま分からなくなって、意識を失ったんですね。それで、私はそのカッターが岸に着いて、岸の診療所へ運ばれて、そこで気がついて、あとはトラック島の病院に入院したんですけど。私はその時から、なるほど人間の最期というのはだんだん意識が先になくなって、今の経験のような、周りがだんだんくらくなって、分からなくなっていく、こういうことが死ぬときの状況なんだなという体験をしたと思いまして。これは大きな1つの教えをいただいたと思っておりました。

私はその日は兵学校の勤務で、兵学校の勤務というのは、朝の朝礼から生徒が校庭に総員集合して、校長から訓示があったりして、それからそのあと、生徒は隊を組んで各自の教室へ行進していくんですが。それで、この朝の総員集合を終えて生徒たちが教室へ戻ったあと、教官である我々が校庭を歩きながら校舎へ戻ろうとして歩いてたときに、原爆のせん(閃)光、フラッシュが江田島の校庭一面を走ったんですね。フラッシュというのは、ボンッといって、昔の写真屋がたく光のあれですが、あのフラッシュが江田島の校庭一面を走ったんですね。

こんなことっていうのはね、「こんな大きなフラッシュを見るということは、よほどのことじゃなけりゃ、ありえない」と、仲間の教官たちと話しながらね、「きっと広島に大きな弾薬庫があって、それが何か間違って爆発でもしたんじゃないか」と、「そうとしか考えられないな」なんて言ってるうちに、山の向こうからね、キノコ雲がだんだんと上がってきたんですね。それで、だんだん時間がたつにつれて、少しずつ情報が入ってきて。どうやら今度のあのフラッシュは新型爆弾のためらしいと。そして広島は全く全滅で、目も当てられない状態だと、いうことで。しかし救護班を何とか出さなくちゃいかんということで、軍医1名と下士官兵、救護班の看護婦さん2名ぐらいをつけて、救護隊をつくって出したんですね。

そしたらやがて、あんまり長い時間たたないうちに戻ってきて、とても救急材料を持って我々が行ってあげたぐらいのことじゃ、何にも手がつけられないと。全てがなぎ倒されて、焼けただれた死体がごろごろ転がっていて、やっと息のある人ももう、「水が欲しい」とか言ってるぐらいで、助けてあげることも何もできないで帰ってきたと言うんですね。それで初めて、新しい爆弾による初めての大災害だということがだんだん分かってきて、それ以上、手を出したって何にもなりませんから、あとは成り行きに任せることになったんですが。私はその時に出てった軍医の1人が、のちに白血病になって、わりに早死にした軍医がいましたんで、これは悪いことしたな、気の毒なことをしたなと、つくづく思いましたね。

私はたった1つの命ですけども、ずいぶんそのガダルカナルのソロモン諸島の戦いをはじめとして、いろんなところで、いろんなスレスレのところで命を永らえて、とうとう生きてきちゃったと、つくづく命の不思議を思っております。おまけに、この満98歳なんていう年まで生かされちゃいまして、何とも申し訳ないような、戦争で死んだ連中に対して申し訳ないような気持ちがありますね。

Q:申し訳ないっていう感じなんですか?

うん、なんか私も死んでたって不思議はないはずなのに、彼ら先に死んでくれちゃったんだなと。代わりに死んでくれたわけじゃないんだけども、何かそんな負い目みたいな、何か生き残った人間として多少何かお役に立つ、普通の人間に比べれば、少しは何かご恩返しができたらいいなというふうなことを思いますね。

出来事の背景

【若き海軍軍医の戦争】

出来事の背景 写真永井さんは日米開戦で、医科大学を繰り上げ卒業。海軍の軍医となり、ミッドウェー海戦を初陣に、駆逐艦や潜水艦などに乗艦し、ガダルカナルやトラック諸島(現・チューク諸島)での戦火をくぐり抜け、広島の原爆にも遭遇したそうです。生かされた命で恩返しをしたいと考え、戦後は患者中心の医療に取り組んできました。

証言者プロフィール

1918年
東京に生まれる
1941年
12月、千葉医科大学(現・千葉大学医学部)を(繰り上げ)卒業
1942年
海軍砲術学校で訓練を受けた後、海軍軍医学校入校(築地)。重巡洋艦「鈴谷」、駆逐艦「夕立」「峯雲」、潜水艦「伊175」、潜水母艦「平安丸」などに乗艦
1944年
7月、江田島海軍兵学校付教官となる
1945年
8月、江田島で終戦を迎える
 
戦後は千葉医科大学で学び直し、後に「実地医家のための会」を設立
2017年
5月、逝去

関連する地図

ミッドウェー

地図から検索

関連する証言

関連するニュース

ページトップ