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タイトル 「絵に込めた広島の惨禍」 番組名 [ヒロシマの証言]被爆者は語る 放送日 1989年8月1日
氏名 丸木 位里さん、俊さん(被爆者(広島) 戦地 日本(広島)  収録年月日 1989年

チャプター

[1] チャプター1 広島へ  05:13
[2] チャプター2 広島の惨状  06:50
[3] チャプター3 『原爆の図』  05:11
[4] チャプター4 原爆以外にも南京事件や水俣病などの絵を描き続けた  01:42
[5] チャプター5 若者たちへ  01:13

再生テキスト

位里さん:食べるものも何も無いでしょう。何にも無いからね。食べるもの無いから、疎開したわけ、東京。東京じゃ住めんから浦和のほうに疎開して。

そこに暮らしとるうちに、8月6日が来たわけなんだ。それで、8月6日が来たと言っても、ラジオも無ければ、テレビはそのころは無いんだから。ラジオ持っちゃおらんし、写真機があるわけじゃないし。新聞に出るんだね、出ただけで分かるんだね。新聞にこのくらい、2段抜きぐらいでしか出んの、その大事件がね。それで、いまでもその切り抜き、あちこち載ったり、あるがね。新聞にはそのくらいしか出んのだが、うわさは大したもんだね。うわさっていうのは極端に来るからね、「広島は1発の爆弾でね」、爆弾という言葉じゃない。「1発の弾で、全部家も無くなったし、人間も全部死んだ」といううわさが広まった。1発の爆弾でひどい、原爆や何かというのは誰も知らんし、考えたこともない。1発の爆弾で、そんなにひどい爆弾があるもんかと思ったが、まあまあ、話半分にしても何にしても、大変な問題が起こったと、いうことが分かるわけ。それで私は、切符を持っていたんだ。広島行きの切符。

リュックサックかなんか、1つ担いでそれに弁当を入れたと思わんし、弁当を、あんたもこさえたとも思っとらん…分からんのだね。何も入れもしないで、そのまま行ったんじゃないかね、駅へ。

乗ろうと思ったら「どこへ行くか」と言うけ、「広島行くんだ」「広島のほう? 変なことを言うな」言うて、車掌に言われて。言われてもかまやせん。「おおいいよ、いいよ」って乗り込んでしまった。それからまあ、下り列車でずっと行ったが、そのままの汽車が行ったわけじゃない。いっぺんかにへんか乗り換えたね、どこかで。

位里さん:三原へ着いたら、り災列車が出てきた。来たんだね。それを見て、それの中から、ちと気の変になった人がこっちの汽車へ乗り移ったりするからね、それを見りゃ、みんな……、ドロドロになってみんな倒れて、汽車なんか乗っとるでしょ。「これは、ほんとだわい」と思った。そういうので、三原から一人おばさんみたいのが乗ったからね、「広島はどうですか?」たら、「殺人光線」「殺人光線でやられた」って言いよったね。それから「広島はもう家もないし、人も皆死んだよ」というから、「そうか、まあ本当だね」と、そこで初めて本当だと思った。

おじさんが死んだですよ、三滝(広島市西区)のほうで。そういうのは、その日にけがして、大体2~3日のうちに死んだね。

まあ、大変だったですね。私だけ行ったでしょ。それから、この人も1週間ぐらいして、すぐやってきたんだよね。

俊さん:それで見舞いに行ったのよ、私。そしたら登っていくときに、少し高い所でね、高い所を平たくした所に家が建ってたんですよ。家は無くなっていて、そしてかやを拾って来てね、かやを木の枝につって……

(いとこが)「痛い、痛い、痛いよ~、痛いよ~」って叫んでいて。たら女房がね、空き缶を持っててね、箸を持っててね、そして、ウジ、ウジが入り込んでいるんです、やけどに。それをこう取っては空き缶に入れるんです。トントンって。

位里さん:ウジが湧くのよな、体へ。

俊さん:うん。それが突き刺さって、にゅるにゅるにゅるにゅる潜り込んでいくからね、それを箸でつまんで出すのね。それが「痛い、痛い、痛い、痛い」言うんですよ。「がまんしなさい」なんて言って、あちこちのウジ抜いてね。付けてやる薬が無いので、「本人の小便ならよかろう」って。小便を取ってね。おしっこのところはやけどしてなかったからね。小便でふいて、そのあとへね、ごま油をもらってきて、ごま油を付けたんです。それがその当時の治療だったんですね。

位里さん:たいへんなウジが湧く、ウジじゃない、ハエが、ワーっとハエが。それで……臭いの臭くないの。街の中も、自分のおる所も臭いんだがね。あれは人がたくさん死んだのが腐ったり、焼けたり、ただれたりして、死んでるでしょ。そこへウジが湧く。ウジが湧いたらハエになるんだ。もう大変なハエなんだ、ウワーっと。

俊さん:食べ物が無いから探しに歩いて。かぼちゃが、原爆を受けたほうがぐじゃぐじゃっとなっているんですよ、こっちは固いのね。そういうのは、陸軍病兵が作っていた畑があったの。かぼちゃ畑。そこへ入り込んでね。病兵はもう、逃げたり死んだりしているのね。その間からかぼちゃを拾ってきて、うちへ持って帰って洗ってね、種捨てたり、中きれいに洗ったつもりで。それ、5つ6つのかぼちゃを刻んで、お米を隠してあったのを2握りぐらい入れてね。それからかぼちゃ雑炊にするの。海の水を一升瓶にくんできてあって、それをちょっと塩味付けてね。それを食べたんですよ。そしたら苦かったのね、苦いから吐き出そう、「食べちゃいけない」っと思ったんだけど、おなかがすいているから、ちゅるっと入っちゃったのね。入ったから「まあいいわ」と思って。2~3杯それ、かぼちゃ雑炊食べたんです。そうしたら夜中からおなかが痛くなって。そして明け方になったらね、出血になってんですよ。ザーッとね、全部血よ。それがみつき(三月)ぐらい続いて、それで東京に戻って、ずっと続いていて、東京に帰ったわけですね。9月10日頃帰ってきたんですけど。それで死にかけたんです。

位里さん:それで、こっち東京に帰ってから、ずっと寝とったんだ。こっち帰ってもね、医者に行っても「肺病じゃ」言われた。これはね、「放射能」っていうのは、医者もそのくらいのこと分かりそうなもんだが、そういう言葉無かったね。

俊さん:「死ぬかな」っ思って。そのころから遺言かなんかね、「一緒に描きましょう」と言うことになって。

※夫妻は入市被爆した。

位里さん:これはまあ分かるように、リアルにね。

俊さん:ほんと幽霊みたいなのね。幽霊もこんなですもんね。そしたら、お医者さんに私、聞いてみたんよ。「どうして幽霊なる、こんなんになるんでしょう。広島の時もこんな、みんな『痛い痛い痛い』って歩いたのよ」って言ったら、心臓より下げたら痛いんだってね。心臓より高く上げたくなるんだって、でもこんなにするわけに……力も無いし。でこうなるんですって。

最初にね、一つ描いて、「やれやれ大きな絵描いたもんだ」と思うんですね。そして「出来た。もうこれでいいんだ。原爆描いたぞ」と思って発表したですね。そしたら誰かがね、「すごい絵があるぞ」っていうんで展覧会の終わり頃、ダーっと人が駆けてきてね。「あ、これだ、これだ」と。「原爆」っていう題をつけてたら、「そんな題をつけたら弾圧を受ける」って。

位里さん:占領下だからね。大変だった。

俊さん:「困る。もっとお手柔らかな題にしてくれ」って、仲間から言われてね。「弾圧を受けて会がつぶされたら困るから、私たちが受けるのは覚悟しているけど」なんて。それで『8月6日』ってしたの。そしたら『8月6日』っていう題だったらみんな分かってね、「原爆だ」って言ってくれたんですね。

それから、「リアルすぎる」とかね「こんなすごいことではなかったろう」とかって、批評する人がいてね。そしたら、一人の「俺は被爆者だ」っていう人がいてね、その人が「こんなことじゃない。もっとひどい様子だった」って。それで、自分の娘は手の指も足の指も、体じゅう黒焦げになったから、焼けすぎた魚のようになったって言うんですね。それで指の先がポロポロと折れて落ちてたって言うのね。「そういう絵がないじゃないか」って言うんです。そこ描いてなかったね、そんな絵はね、第1部。「誰だ、作者はどこにおる?」って言うから「はい、私です」って言ったらね、「私の娘のようなそういうのを描いてほしい」って言うたの。「はあ」って思ってね。「これは1枚だけじゃだめなんだな。もっと描かなくちゃいけないな」ってそのとき思いました。それでだんだん増えていったんです。

位里さん:これ描き始めたらね、やっぱりこれも描いておこうか、こういうこともあるとか、ああいうこともあるとか、いうことになるでしょ。

それで南京大虐殺の絵も……中国人がだれも描きそうにないから、わしが描かにゃいかん思うでしょ。思うからまあわしが描いたんだがね。

これはね、南京虐殺というのはね、どこかの新聞が書いてくれたんだ。書いてくれたら、大変な資料が集まった。資料というのは、写真が、日本の兵隊が(中国に)行って、いろんなことやった、悪いこといっぱいやったわけだよね、人を切ったり殺したり、強かんしたり、いろんなことをしたのを、そのまま写真に撮って、記念に写真に撮って持っとるの、みな。それでそんなのがたくさん集まって。あれは、全然想像で描いたわけじゃない。写真なんだ。ああいう写真がいっぱい。それをそっくりに描いたらもうちょっと、見るに見かねるような写真もいっぱいあるの。

俊さん:原発やめて命が大事というのは、今いちばん危ないのは原子力発電所だと思うんですよね。ちょっと事故が起きたら、日本列島が相当、被害を受けるじゃないか。その被害というのは爆発の被害ではなくて。ちょうど私が原爆の後に行って、知らないでかぼちゃを食べて、そして腸出血にまでなっていった。ああいうような災害が、原発の事故、ちょっとひどいのになると始まるんじゃないかという気がするんですね。

人類全体の動向について考えるような若者になってもらいたい。

※『原爆の図』は全15部作のうち、14部作が原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)に展示されている。

出来事の背景

【原爆の図はこうして描かれた】

出来事の背景 写真画家の丸木位里さんと俊さんの夫妻は、昭和20年夏、埼玉に疎開していました。広島が一発の爆弾で家もなくなり、人間も死んだという知らせを聞き、実家のある広島に向かいました。目撃した惨状をもとに戦後、のちに『原爆の図』第1部となる大作を2人で描きました。その後も人々の聞き取りを続け、夫妻は15部の作品を描きました。

証言者プロフィール

1901年
位里さん、広島県飯室村(現・広島市安佐北区安佐町)に生まれる
1912年
俊さん、北海道秩父別村(現・秩父別町)に生まれる
1941年
7月、結婚
1945年
8月、原爆後の広島に入る
1950年
原爆の図を発表
1995年
10月19日、位里さん逝去
2000年
1月13日、俊さん逝去

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