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タイトル 「帰国切望の“政治部員”」 番組名 [ハイビジョン特集] 引き裂かれた歳月 証言記録 シベリア抑留
氏名 小池 禮三さん(シベリア抑留 戦地 シベリア(ナホトカ) 満州(ハルビン)  収録年月日 2010年5月27日

チャプター

[1] チャプター1 満州国軍官学校  04:48
[2] チャプター2 「ダモイ ダモイ」  04:02
[3] チャプター3 北へ向かう列車  02:24
[4] チャプター4 後方から昇る朝日  02:21
[5] チャプター5 ブカチャーチャの収容所  03:47
[6] チャプター6 労働力の品定め  03:10
[7] チャプター7 過酷な坑内作業  03:51
[8] チャプター8 収容所の食事  03:13
[9] チャプター9 シラミとチフスがまん延した  04:21
[10] チャプター10 衰弱死する抑留者たち  03:28
[11] チャプター11 軍歌を歌う  03:07
[12] チャプター12 帰国できなかった  04:44
[13] チャプター13 政治部員の仕事  03:14
[14] チャプター14 早く帰国したい一心だった  02:55
[15] チャプター15 話と違った日本  02:11
[16] チャプター16 抑留犠牲者への思い  04:22

提供写真

再生テキスト

わたしどもは、満州国の陸軍軍官学校の第7期生と言うことで、渡満をしたのですが。昭和19年の12月に渡満して、昭和19年の12月28日に入校式が行われて、その学校の生活が始まったわけですね。でその満州国の陸軍軍官学校というのは、公募しているわけではなくて、日本の陸軍予科士官学校の受験生の中で合格した者、これから陸軍省が選んで推薦をして、その推薦に応じた者がまたテストを受けて軍官学校の生徒になるということなんですね。

日本の国のためというふうに言われて、北の地へ生命線を守れということから満州国軍を育成する、指揮するという立場の教育を受けるよう学校に入ったわけですね。で、これは、他国人の軍隊を我々が指揮するということで非常に難しい軍であるということが後でわかりまして、それに向かって当時は東洋平和とか、五族協和とかいうようなことを言われながら、それに打ち込んでいきましてですね。

全員含みまして375名が第7期生という形で入校いたしました。で、昭和19年12月、まぁ瞬く間に20年になりまして、色々な訓練とか何かは内地ではほとんどできなかったような訓練も、それから学科の授業も、すべて平穏に行われていたわけですね。ところが8月の9日に、わたしどもは耐熱行軍という訓練から帰ってきました途端に、その日の夜中にですね、ソ連が攻め込んできたということで、8月の13日、陸軍軍官学校っていうのは、日本人だけではなくて、満系と称する満系の満州人も一緒に入校しており、その満系の人たちの方が多いんですけども、その人たちも含めて8月13日に出陣をしたと。

それで出陣しました時に、わたしのところは身長順に決めるわけですね。わたしなどは身長はあまり無い方だったもんですから、上からないのから1、2、3、4分隊までということになってましたね。
わたしは4分隊で、4分隊ではてき弾筒分隊になれと言うので、小銃は持たされずに、拳銃を持たされて、モーゼル1号っていう大きな拳銃なんですが持たされて、まだ1回も訓練を受けたことがないてき弾筒を持ってですね、その弾薬を持って、信管を付けると危ないからその信管を別の風呂敷に包んで、出陣したというふうなお笑い話もあるんですよ。

1小隊、約30名で。一晩中、歩哨に立ったりなんかして、1時間交代くらいでやったもんですから、眠い目をこすりながら15日になりましたら、「全員集合」と。全員集合というのはわたしたちの区隊だけで集合。他の残った日本人は別のところに集合したんですが、そのときに終戦の詔書がガァーガァー鳴りまして、良く分かりませんでしたけども、緊張して聞いていたせいか、あるいはラジオの具合が悪いのか電波の具合が悪いのかわかりませんが、十分内容把握できませんでしたが、どうも戦争が終わったらしいということを聞きましてですね。

武装解除を受けるころから、ソ連の将校とか警戒兵、カンボイというんですかね、警戒兵とかに囲まれて行動することが多かったんですが、彼らの言うことは「ダモイ」だ、「ダモイ」だ。ということは帰るんだよと、日本に帰るんだよと。ヤポンスキーっていうのはあれ日本人ですよね。「ヤポンスキー、ダモイ。ヤポンスキー、ダモイ」。後から考えてみると本当に少年ぽい兵隊で、しかも満州に入ってきた兵隊ってのは蒙古系が多くてですね、あまりその学識だとか、知識がないとかいう連中が多いわけなんですよ。そういう連中は「ダモイダモイ」って全員が言って最後まで「ダモイ」って言ってましたからね。シベリアに渡る、収容所に着くまで「ヤポンスキー、ダモイダモイ」って言うほど、徹底して日本人にはそういうことを言いなさいっていうことを、訓練されてたんじゃないかと思うくらい。だから最後まで日本に帰れると思って行動してましたね。

Q:ダモイと言われて帰国できるよと言われた時にはどんな気持ちでしたか?

これでね、戦争が終わった。やっと家に帰れるのかなと、兄弟の元に帰れるのかなと。わたしどもは田舎におりましたから、長野県の諏訪ですから、空襲とかそういうもんにあっておりませんので、当然一家は元気にやってくれているだろうと。で、空襲にあった東京とか大都市の出身の者なんかは、それでも家に帰れるんだということを喜びにしておりましてね。満州の旗だとかなんかいうようなものをお土産に持っていこうだとかですね、色々集められるものを集めて、皆、今まで持っとった武器なんかの代わりにですね、そこら辺に残していった、日本人が残して去ったものとか、去って行って残ってたものとかあるいは倉庫にあったものとかいうのを相当荒らしましてね。自分のこれはと思うものを皆背負い込んで帰るんだと、多少お土産じみた気分もあって、そういうものを、まぁ言えば盗んできたものとか黙って持ってきたものとかいうようなものを詰め込んだんですが、それがシベリア行って大いに助かったんですね。物々交換でそれが食糧にもなったんですね。だからその辺を思えばそのとき黙って頂いたことも、一つの命拾いの材料だったかなと後から思うことなんですがね。

Q:その先の行動は?

はい、9月の中ごろですね、集成第13大隊として編成された中の、わたしども375名ですけども、全員がわたしどもと一緒に行動したわけではなくて、うち40~50名の者は、満州に身寄りがあるか知人がいるかする者は、脱出していいよということで新京市内で脱出したんですね。

そういう方々が出ていったりしたので、実際に炭鉱町のブカチャーチャと言うところにわたしたちは収容されましたけども、そこにいたのは375名のうち、約240名くらいなんですね。そうするとそれは40名くらいですから、残りのうち約70~80名はイルクーツクっていうところに連れて行かれたわけなんですね。

その貨車がいよいよ扉を閉めると開けられないんですよね、中からはろくにね。外からこう鍵かかったような形になっちゃいましてね。それでトイレにも行かれないから穴あけるんですけども。あれが南に下がってる、あぁこれはいよいよ大連から返してくれるんだなと。とそれは止まって、新京駅の構内でまた少し上がるんですよね、引き込み線を行ったり来たりしてるんですよ。「あれ北行くのはおかしいな」と、また南へ下がる。「あ、今度は動くんだな」と思うと止まる。で北行く。3,4回こうやっているうちに、汽車動きだしたのは、当時はまだ磁石を持ってましたからわかるんですけど、北へ北へと上ってっちゃうんですよ。で、何日か後に、ハルビンに着いたんですね。するとハルビンに着いたところ、ハルビンからは、牡丹江を通って、ウラジオストクとか、ああいうところから港がありますよね。あちらから返してくれるんだなと言うことで期待をしましたところ、またそこから出てきたら北へ北へと行っちゃうんですね。

孫呉から、それから黒河まで何日かかって行くわけですよ。黒河まで行って黒竜江を目の前にしたときに、いや大丈夫だと。黒竜江を渡ればそうするとシベリア鉄道に出ると。それからまた、ウラジオストクにいって返してもらえるんだなと。そういう楽観的な考えをいつもみんな持って話し合いながら、思っていたわけなんですね。
まだそのときにはロシア人は「・・ダモイ。スコラダモイダ」って言いながらいるもんですから、ついその言葉に乗せられて黒竜江を、そのときにはね、水車がついた船なんですよね、黒竜江の渡し船が。それに食料をどんどん積みこんでですね、すると向こう岸で下して、また何回か往復して持っていった衣料なり、食糧なりものを、向こうのブラゴヴェシチェンスクっていうところですけども、そこに運び込んだわけですね。

で、「大丈夫だ、必ず東へ行く」って言って、朝目を開けたところ、もう9月ごろになると日の出は遅いんで、だいぶオスミナがあるんですけども、「おい、太陽が下の方から、東から上がってくるぞ」と。「貨車の後方から上がってくるぞ」と。皆あわててとび起きて持ってる磁石を見たら、汽車は西へ西へと進んでいるんですよね。そのときはみんながっかりしましたね。あぁこれは違うんじゃないかと。我々はどこか連れて行かれるんじゃないか。そういう思いで、今まで家へ帰ろうという希望を全くそこでもって、なくなってしまったんですね。

皆のしょげ返った姿は、そのときちょっと思い出しますけども。それでもやっぱり軍人の将校を担ったものであり、しかも同期はまだ皆一緒にいるんですから弱音を吐く者はおりませんで、歯を食いしばって頑張って我慢したというのが本音だったと思いますね。まだそれでも「ダモイダモイ」ですよ。西へ向かってながら「ダモイ」ですからね。だけどもこれは「ダモイ」と考えてはいけないんじゃないかというふうに、そのときに初めて思いましたね。ブラゴヴェシチェンスクから出て、シベリア鉄道乗った時に、はじめてようやく、あぁ何でもっと早く気がつかなかったんだろうと言うように思うくらいなんですね。だまされました。

Q:西にずっと進んでいったんですね。

はい。その先はですね、もうみんな気力を失ったというのが・・もうゴロゴロ寝たりするだけで、なんというんですかね、夢遊病者じゃないですけども、あんまりしゃべらなくなっちゃいましたね。

こんな大きなのが出るんですがね。その良質が出る、ブカチャーチャっていう炭鉱の収容所に連れて行かれましたね。駅からやっぱり1キロ半くらい少しなだらかな坂を上って、行くんですがね。そこに西部戦線で捕虜になった人たちが、ルーマニア兵とか色々いましたけども、それらがしばらく住んどったところの兵舎がありまして、そこでわたしら行った1000名なんですけども、1000名とその他に他の大隊からも入りましたから、当初1500名くらいかもしれないですね。

もう寒くなってくるんで、10月2日っていうときにですね、ブカチャーチャ着いたときには、わたしどもはまだ、8月9月の服装そのままなんですよね。で、急きょ防寒具とかそういうものをもらって、寒さに耐えるようにしたんですが、宿舎も皆早く入らないと夜などもう寒くて耐えられないようになってくるわけですよね。ですからすぐに作らなきゃいけないということで、宿舎を整備していただきまして、かろうじて宿舎に入ったんですね。兵舎っていうのは蚕棚ですから、下の段は立ち上がれないんですよね。座れば頭の上10センチくらいか20センチくらいしか開かないですから、上の方はもう少し高いにしましてもその蚕棚にみんな入って、生活をするようになったんですね。それからずっと兵舎整備に1~2か月かけて。特にお小水とかですね、大小の処理に留意しないと、場所がありませんので、兵舎から10メートルくらい離れたところに深い穴を掘って小便所にすると。

それから、簡単な屋根をかけて、それも穴を掘って板を渡して、大便所にするというようなものを作ってやったんですけども、予測よりも早くにですね、皆何人か通うもんですから、いっぱいならないうちに前がどんどん氷が、やった瞬間に凍っちゃうもんですからね。氷がずぅっと宿舎近くまで、そこまで来ちゃうと次上れないんですよ滑って。だから本当に小便とか便とか排せつ物に苦労しましたね。排せつ物ってのは板渡して隣同士でも何もなくてもやりますけども、やったものはすぐとんがっちゃうんですよね。と言うのはその前に、わたしどもの食料と言うのは、当初は、皆各人で持って行った米だとかその他で、食べる時には調理して食べたりしましたけども、支給された物は先程言いました350グラムの黒パンですね。それから塩汁で、大豆が5~6粒から10粒くらい入っていればいいような塩汁なんですよ。

炭鉱に行くにつきましても、体力のある者ということで、これがちょっと生々しい話になって申し訳ないんですけどね・・体力のあるものということで、まずロシア人の女医さんと、女性の医者ですね、日本人の衛生兵等もついて、収容所全員の身体検査をするんですよ。まっ裸に全部して、日本人をずぅっと並べて。というのは、収容所の中に病院と称する棟がありましてね。

わたしどもはさっき申し上げました兵舎はペイチカなんですよ。ペイチカで石炭貯めて暖めてると。ところがスチームで温めてるって兵舎がありまして、それは病院でも、病院もその一角だったんです。その病院の一角の女医さんのいる場所に、全員がまっ裸になっていくわけですね。裸で皆並んでるんです。それで女医さんの前行くと、「あぁ、マロディス」って言うんですね、「お前若い」というんですよ、「マロディス」。真正面に行くと回れ右させられるんですね。女医さんがケツの肉こうやってやって、「あぁ、ペローイ」。ペローイ、フタライ、トゥリッチ、ディスティルフィー、アジンディスティルフィートゥーってなってましてね。これは「ペローイ」は1位って体格が1位なんです。これは炭鉱行きなさい、入りなさい。それから「フタライ」って言うのは、2位ですから、これは炭鉱関係の地上作業をやりなさい。それで、「トゥリッチ」っていうのはですね、衛内作業か、あるいは炭鉱以外の地上の、農場とかその他のところへ行く作業をやりなさいと。それから体格4位の者は、これは衛内にいなさいと。こういう関係になるわけですね。で、「ディスティルフィー」っていうのは栄養失調1,2,3位は、1位は、保育隊ってところに入りなさい、2位は病院に入りなさいって言うような形に仕分けされるんですよ。それなんで調べるかというと、みんなケツの肉なんですよ。診察は一切しませんね。来て、前にぶら下がってるもんポンとはじかれてね、「おお若い」って言って、「マラディス」って言うんですがね、若いって言って回れ右。回れ右させてケツの肉。特にわたしなんかお尻の肉が多くてですね。いつも「ペローイ」なんですよ。だけども「ユンケル」(「士官候補生」の意味)は炭鉱に入んなくていいよと。地上作業やりなさいってことでいつも石炭積みっていうのをやらせられたんです。炭鉱の作業っていうのもね、8時間労働で3交代なんですね。それから同じく石炭積み込みっていうのも3交代ごとに上がってくる石炭を処理しなきゃいけませんから、全部8時間労働で3交代。

わたしはお尻の肉をこう、多い方で「ペローイ」っていう口ですから、炭鉱の入った兵隊さんたちがもう消耗しちゃって、耐えられなくなって出ちゃうと人員が足りなくなるんですね。それでいよいよ候補生からも炭坑へ入ってくれということで、身体検査1位の者が選ばれてしまいまして、わたしも炭鉱に入れられちゃったんですよ。

で、炭鉱をやっぱり1年少々やりまして。始めは炭鉱の中の坑木を運搬する、レサノウスっていう役は、坑木を運搬する、炭鉱の中を運搬する。先、切り離していった、方々から集まった坑木を切り離すと、運び込むという役をやってましたけども。そのうちに、やっぱり1番つらいのがね、運炭夫っていうナガレボウシクって言いましてね、発破をかけて石炭を崩す、それを運び出す1番最先端の仕事が1番キツイんですよね。そのナガレボウシクっていうのをやりましてね、だいぶ重宝がられて、頑張ってやりましたんですよ。
ロシア人4名と日本人1名、5名が1組になりましてね。発破をかけて崩した石炭をかき出すんですね。1日にノルマもあるもんですから、サボってるわけにはいかなくて、一生懸命そのかき出す作業をやるんですけども。その話をちょっとしますと、ブガチャーチャの炭鉱っていうのは、非常に良質な石炭がさっき言いました通り出るんですよ。だけどもその炭鉱に従事して働いている者はロシア各地から来ている、ロシア色々異民族がいますよね、政治犯が皆来ているんですよ。犯罪者が。犯罪者の労働をさせる炭鉱であったんですね。

そのため地下約300メートルから500メートル入る、車線で入ってくるのは500メートルくらい下りて行くような、普通は炭鉱っていうのは人を運ぶのに人車って人を乗せたのが行ったり来たりして運んでくれるんですけども、犯罪者の罰の一つとして歩かせるということなんですね。炭鉱の中を下りたり、帰りは疲れて帰ってくるのに全部、片側にある階段を。というのは板にただ柱をぶつけた分だけですけどね、傾斜が結構、10度くらい、もっとあったかな、の傾斜を上がってくるんです。手すりにつかまりながら帰りはもうね、疲れちゃって上がっていくのがようやくなんですよね。

炭坑の穴はまっすぐじゃなくてこう傾斜が下にこうやってきついんです。途中まで来るとポッと地上の明かりが見えますとね、あぁ今日も帰ってきたかなと思って、一生懸命上がってくるんですけども、上がってきた顔は自分ではわかりませんけども炭じんで真っ黒け。目と歯だけですよ、白いのは。それでまぁ着替えて、そこでシャワーがありますから、石けんっていうのは白い石けんじゃなくて茶色い濃い真っ黒い石けんですよね。ろくに泡の出ない、それで落として、その日の炭坑を終わるというような生活をしましてね。

Q:食事は黒パン350グラムを1日何回ですか?

3回です。

Q:3回でその作業を1日8時間ですか?

そうです。

Q:3交代で、それは足りるのですか?

いやぁ、とてもじゃないですけど皆持って行ったものを物々交換してパンに換えて食べるとか。あるいは糧まつシャカって言いましてね、その他に鮭とか色々糧まつが入ってくるんですよ。それは日本人にも収容人にも作業させますから、凍った鮭は足かなんかでカシャカシャ落とすんですね。そういうのをそっとかっぱらいに行ったりですね。それからパンやからパンを運んでくる、黒パンて言うのは四角なこんなで、上にこう皮がかぶさっているような焼き方してあるんですね。だから力入れてやると上の皮が取れちゃうんですよ。パンの搬送途中でそういうパンを盗むとか、あるいは糧まつ受領に行ったときに穴あけて靴下の中にお米とかなんかを盗むとか、なんかその方持ってるものを少しずつ消化していくというようなことでやって行きましたけども。

そのうちもう1年過ぎたころには、食糧事情もずっと良くなりましてね。良くなるまでの過程は、良くなる時よりもはるかにひどかったときもあったんですよ。その話を申し上げますと、スープに今日は魚が入ってるっていうわけですよ。スープって皆飯ごうを持っていましたからね。飯ごうの中に3分の1くらいの汁、大豆の汁もらうんですけど、大豆の入った。ひょっと見たら今日、魚が入ってる。これは大したもんだって言うんで、皆喜んで魚を食べようと思って食べる。すると渋くて食べられないんです。渋くてこわくて。何がっていうと後で聞きますと、昭和20年から21年ごろ食べたニシンは、肥料に使うという昭和2年製のニシンなんですよ。荷札を見れば。昭和2年製のニシンで、いうなれば肥料に使うニシンなんですね。それを日本人のスープに使ったから皆魚が入ってるって喜んだけども、食べれたもんではなかった。それとか、食糧がまだ無いころは、とろとろおかゆみたいなものなんですよね、仮にあったとしても。ですから皆食事をする用意として、それぞれが自分で木ではしを作ったり、木でえぐってスプーンを作ったりして、それを常時腰にぶら下げて持っているものなんですね。
それを持って食べたり吸ったりするわけなんですけども、そのはしがですね、今日ははしが立たるよというくらいのおかゆが出るとか、今日は立ったら倒れちゃったっていうようなものが出るとか。そういうことではしの立った立たないが話題になるような食料なんですね。

1番困ったのが栄養失調と申しましたね、食べ物が無いと、それに過酷な労働。もう1つ困ったのがシラミなんですよ。これは発疹(しん)チフス、この元なんですね。満州にいる時代から南京虫には満州の宿舎ではずいぶん悩まされて、イヤな思いをしましたが、シベリアへ渡って行く途中から、人によれば、話を聞けばわたしはそれは感じませんでしたけども、軍官学校当時にシラミがいたっていう人もいるんですよね。

それも、お笑いなんですけど。そのシラミがシベリア行ったらワッと出ましてね。19年の暮れから20年の3月ころまで、ものすごかったですよ。これによって「働かざる者食うべからず」というソビエトの考え方でわたしどもは働くことを強要されましたけども、そのソビエトで2週間の休暇というか労働しない日が続いたんですよ。シラミを殺せっていうんですね。まずそのシャツを脱いでいきますとね、こうやってやるとザーッと落ちるんですよ、シラミが。白いの黒いの、それからマダラの、大きいの小さいの、いっぱいいるんですよね。それからシャツの縫い目、これにガーッと鈴なりになって、卵です。

食堂に行く前にかゆいから一生懸命こうやって、皆裸になってシラミプチプチつぶして、つぶしたかなと思って食事して、食事っていうのは小1時間ですよね。帰ってくるとまたかゆいから、脱いでみるともうびっしりいるんですよね。そのシラミを退治しなければいかんということで、発疹チフスで相当、あれは40度以上の高熱が出ましてね、大変なんですよね。でわたしは収容所でそう大勢はいませんでしたけども、シラミはいっぱいいましたけども発疹チフスならなかったのは、生きて帰れた1つのあれかなと自分では思ってるんですけど。その発疹チフスで亡くなったのは、従って20年の1月から3月ころまでに1日平均多い時には25人ずつ亡くなっていったんですね。

それは亡くなってるときには労働はしてませんから、発疹チフスの高熱とか、それから来る栄養失調とか、発疹チフスっていうのは下痢をしますからね。血便だとかなんかいっぱい出る、どうしようもないという状態から順に体力を失い、機能を失って参っちゃいますから。であれは高熱が出るもんですからね、わたしは飯ごうを持って、そこらいって雪はあんまりないんですよね。蒸気があるもんですから、その蒸気が出るところには氷が張るもんですから、その氷を飯ごうにとって皆の頭を冷やす、天井から飯ごうつるして皆頭冷やしてるんですよ。

そういうのの氷を取るのに、休み中暮れていましたね。で、重症者は皆病院へ入るんですけども、病院に見舞いに行きますと、氷持ったりなんかして、同期がいるもんですから行きますと、廊下でこうやって裸で水泳やってるんですよね。何してるんだって思ったら、「内地帰るんだ」って、「泳いでんだ」っていうのやら、こういう窓のサンがありますね、あれつかまって、上あがって。上に開閉する窓があるんですよ。「船が出る船が出る」って言って叫んでるのとかですね、病棟の中もう本当に大変な状態だったんですね。それに高熱の人体のにおいと排せつ物のにおいで相当なむんむんしている中で、皆もう明日をも知れないというような感じなんですね。

皆なってるから病院に入りきらなくて、各兵舎で先ほど申しました天井から皆飯ごうつるして、氷入れてあげてやってるんですけども、「おい、飯食べろ、飯上げだから飯食べろ」って。飯上げっていうのは食事を持って食べろって言うと、「いいよ」って言う。「どうして食べねえんだ」って「今日は食べたくない。お前食べろ」っていうともう喜んでね、隣のやつのもらって、「じゃぁもらうよ」って食べて。翌朝起きてみると「おい、おい」ってまた次の食事を起こそうと思うと、もう冷たくなってるんですね。だから、ほとんど隣に近いものが皆亡くなってっちゃった。

だからあそこでもっていえば、遺骨収集に行っては689体しか発掘できませんでしたけども、1000体以上が亡くなってるんじゃないかとは思うんですが、あと順に話を申し上げたいと思うんですが、亡くなってると思いますけども。甚だしい時は、荷車って言って軍隊の輜重車っていうのがあるんですがね。これにね4~5体ずつ積んで行くんですよ。それをわたしどもはあんまりやりませんでしたけども、衛内作業のケツの肉のない人がやる作業なんですね。それが1車両に5人くらいしか乗せられないから、その死体収容所ってのはゼロ号バラックっていうのがありましてね。そこにいる者は皆衣類を脱がされて裸で寝てるんです。

というのは、脱がされてんです。衣料っていうのは、残った生きた者がまたそれを着てるんですよね、寒いから。20年の1月から3月のころですから。シラミっていうのは人体からもう、亡くなっちゃうとシラミっていうのはいなくなっちゃうんですよね。生きてる者にはいますけども、死体にはシラミはつかないんですよ。そういう者の衣服を皆着るために死んだ者はすべて素っ裸で死体収容所に入れられるんです。で、1日多い時には25体くらいの人があそこへ行って。わたしらが埋めたところは一本の松がありましたから、一本松墓地って収容所からの角からは200メートルくらい離れたところに一本松っていうのがありまして、その周辺に皆埋めたんです。


イガラシっていうんですけど、これより前に行ったら、これはもう今日か明日かって、日本の軍医もおりましたんで、言うともうそういう状態だって言うんですよ、もう消耗して。行くと「元気か」って声かけますと目だけパって開けますけど、「元気だよ」と、そう言うだよ。そのときに何を言うかと思ったら、「おい、東はどっちだ」って言う。「おう待ってくれ、東はここで、収容所でいうとこっちじゃないか」って言うと、「俺を起こして東の方向けてくれ」って言うんですよね。それで東の方へ向けて何をするかと思ったら、彼は黙ってつぶやいたのは「お母さん」。「お母ちゃん」といったのかな。で一言言って、「寝かしてくれ」と。それはもう翌日になったら亡くなっていましたね。

昭和の22年後半くらいからですかね、収容所の中にも「友の会」って言うのができたんですよ。わたしは全然知りませんでしたけども。友の会っていうのはこう、小さな小屋みたいのを作りましてね。その中に事務所を構えているわけですね。そこに1人2人入っているんです。何かというと今のような壁新聞。日本新聞ですね、壁新聞なんかを張ったりして皆に見せてる。それは何かって言うと、マルクスレーニン主義だとか、資本主義を撃滅するとか、そういう要するに共産党のPR壁新聞なんですね。

そういうものがぼつぼつ張り出されて、何やってんだって見る時代になりました。その時代にわたしらは、何やってんだって言うふうな気持ちが強くて、そこでは正直あとから申し上げたいと思いますが、赤旗の歌とか共産党の歌、インターナショナルの歌とかいうのを歌えなければ日本に帰さないと言われたような時代がやがて来るんですけども、そういうものを皆さんにPRする、始めのうちは小さな動きだったんですけども、そういうのをやっているのを尻目に、当時はもう歌ってはいけない軍歌をわたしどもは歌いながら、「友の会」の小屋の前を何回も行ったり来たりして、軍歌を歌ってる。

作業に行くときも学校時代に歌った軍歌を歌って作業場にいつも行ったんです。その中には「ロスケを切りて生けにえに」なんて文句もあるんですよ。「平和の神に捧ぐべし」っていう歌もあるんです。そんなのロシア人はわかりませんからね。そんなような歌を歌って作業場に行くわけです。帰りもその軍歌を歌ってくるんです。内容を知らない警戒兵たちが、「ヤポンスキー、軍歌を歌え」っていうんですよ。だから余計おなかが減ったり疲れてはいるんだけども、軍歌でもって皆気を取り直して、作業場に行ったり疲れた体を収容所に。軍歌を歌ってた。そういうことをやっているうちに、友の会が順に大きくなりまして、共産党の下部的な動きをするようになったわけなんですね。そうするともう、軍歌を歌うって言うと、つるし上げられるもんですから、もう軍歌はなるべく歌わないようにするとかいうような時期がやがて来ましてね。そういうものに対して反発をしていたのが我々の動きだったんですね。

炭鉱で働いたわたしらが1番先に帰れる仲間に入ったんですね。第1陣で収容所を出た、出るんです。で、内地へ帰って待ってるから早く帰って来いよと、残ったものに檄(げき)を飛ばして収容所を出たんですよ。その中の話はまたいろいろありますけども、収容所を出て列車に乗せてもらって着いたところはナホトカ。

日本から迎えの引き揚げ船が着く港なんです。いよいよ日本海へ来た、これで日本に帰れるなと、ほっとしたんですけどもそのときにすでに、赤旗が歌えなければ帰さないよとか言うアクチブ的な行動やら言論を弄(ろう)したのがナホトカにいるんですよ。急いで赤旗の歌皆で覚えて行こうっていうことで覚えたりしたんですけども、そこに1週間か10日くらいいましたら、1番先働いたよく働いたのをハラショーラボータというんですけども、1番先に帰してくれるって言うことを信じてきたんですが、日本が船をよこさない。だからお前たち残念だがもう少し戻れって。元の位置じゃないんですがナホトカと、ウラジオストクっていうのがあるんですね。その正三角形のシベリア鉄道の沿線に、アルチョムってとこがあるんですよ。そのアルチョムグレスってところで、発電所の建設作業に従事させられた。

で、そのときに色々な話を聞いて、先の出しますと、あまり同期に多くは語っていないんですけどね、知ってる同期はいますけども、「おれは、そういうことを少しやらないと、そういう人間は日本に帰さない」と、シベリアに留め置くということをアクチブが言うわけなんですね。

現にそういう事実があるもんですから、戻されてここへ来ちゃったって言う。それでこれは少し勉強してみようかなということで、そこにありました共産主義のあれが今、友の会の発展したのに、ファシスト委員会、ファシストに反対する反ファシスト委員会って言うのがありましてね。そこでいろいろ話を聞いたところ、「お前ね、少し教育を受けろ」って言うから、「じゃぁ受けて見ましょうか」って、いわゆる共産主義大学って言うのに2,3か月入れられましてね。その講習がその収容所で行われたんですよ。わたしはそこに入って2人くらいで講習を受けまして、マルクスレーニン主義だとか、弁証法的史的唯物論とか、日本の共産党の野坂参三のあの資本論だとか読まされたり、勉強させられましてね。そこには政治部将校って、政治部教育を専門にやる政治部将校がいるんです、ロシア人が。日本語ぺらぺらですよ。それが、今日はこういうことを帰ってきたら皆に講義しろということを、言語間違えないように帰って着て疲れてくたびれてる人たちを集めて、収容所の兵舎の中でその講義をやったんです。で、政治部の下で、政治部将校の下で、政治部員っていう名前で2,3か月過ごしたんですね。


それはやっぱりね、帰さないって言われたこととか、それから少し勉強してみたらマルクス・レーニン主義っていうのは、そのうち特に弁証法的史的唯物論ってのは、唯物論ってのはどういうものかということでやらしてもらったら「あぁ、そうかな」というふうにして思い始めた時があったんですよね。青年の両極性で、1番右にいたのが1番左に青年は行きやすいんですよね、特に。その気持ちがあったから、それと帰さないという言葉に、帰されなかったらっていうあれがあって、も重なって、あぁそういうこともありうるのかなっていうことから、一気にこっち行っちゃったんですね。

講義がありましてね、政治部将校から。この人は日本語は立派ですからね。講義がありまして、それを聞いて、それからそれを覚えると。それはまぁ1日。それでそれを一日中やるのはせいぜい20日か1月くらいですよね。その後、一般の労働者というか日本人に、こういうことをこういう風に言いなさいというのが、伝達されるんですよね。政治部将校から午前中に。そうするとそれに対して、自分で自分の、消化しなさいということでしょう、自分のものにして、作業場に行って作業状態を見てくると。

皆が帰ってくる、5時から6時ころ帰ってきて、食事を済ませました7時か8時ころの1時間半くらい、宿舎で政治部将校に言われたことを日本語そのままに、そんなもの言ったって難しいですからね、少し余分なものも入るでしょうけども、政治部将校に言わせればそのままに日本人に伝えろと。教育しろと。こういうことなんですね。

Q:作業場に行って。

作業場に行ってはやらないんですけど、作業場に行って、ソ同盟を強化するっていう気持ちがある人は、必ずそういう面に積極的であると。また積極的である人は労働も一生懸命やらなければいけないと。そういう人たちでなければ積極的だと言えないと。だから作業現場を見て、まぁ言えばさぼっている人とか、力を抜いている人とか要領いい人とかいるか、あるいは本当にあの人は一生懸命やっているかとかいうのを見て。で、そこで、そういう人たちに分かるように、ソ同盟というのはそうじゃないよという風に教育をしろということですね。

だから積極的でないような場合には、作業がこうだったって言うと、じゃぁこういう風に指導しろとかね。そのわずかの間ですけど日本語で言う。そういうのには自分たちで分かっている、得た知識の範囲内で枝葉つけて言うと。すると皆作業で眠たくてこんななってるのを、時々しかり、なんてやるもんだから、皆目を覚ましたりして。聞いているのか聞いてないのか分からないけども、伝達をするということがわたしどもの仕事なんですね。政治部員の仕事なんです。その成果がどうあったかっていうことは、やがて作業場へ行って、そういう人たちが熱心に仕事するようになったならば、それは成果があったとみるべきだという考え方ですよね。

そういう成果は、ソ連を強化しようという労働に現れるということでしょうね。そういうことでやらせられるんですね。わずか3か月くらいそれをやったために、自分では肉体労働はしていませんでした。

日本人の場合は馬にニンジンじゃないですけども、帰国させる、「帰国したい、早く自分の生まれ故郷に戻りたい」って気持ちが、いくら赤旗振ってる者の列の中の(者の)気持ちのどっかにも必ずあるはずですよ。同じ日本人ですから。その中から赤旗を振り始めたっていうことになるんじゃない、アクチブはね。だけど腹の底は彼らは帰ってこないかっていったらちゃんと帰って来てるんですから、どこか腹の底には、心底には、真の気持ちってのは、一刻も早く帰りたいという気持ちがあるんじゃないですか。

Q:政治部員としてほかの抑留者の前でスターリンのことを説くときはどんな気持ちでしたか。

いや、それはね、言われたままに言えということになってますからね。言えば一言一言間違えるなと。こういうふうに言えっていうふうに政治部将校から日本語で、皆が作業行っている間講義があるわけですよ。で、その講義が午前中終わると、午後は職場に行って見てきて、帰って来て皆食事終わったら自分の部屋に入ったところで、皆を集めて。そうすると皆がまた、講義を受ける者も、黙って寝て見てちゃつらいから言うんだと思うけども、「そうだそうだ」とかね。相づち打つわけだ。「然り」とかあちこちで聞こえるわけですよ。それはもう聞いているか聞いていないか知らないけども、内容がわかるかわからないか知らないけども、半分は作業に疲れて眠いでしょ。

だけども、こちらも言われたことは言わなきゃいけないし、聞いてる方もさも聞いたと、納得したという声を発しなきゃいけないというのが、そこに現れた声となり、態度だったんじゃないかと思いますがね。

つるし上げで、そうだ、然りっていうその調子を付ける人たちもそれをやることによって自分たちは十分納得したんだということで、そのことの裏には一刻も早く帰国ができるだろうというのがあってしかるべきだとわたしは思うんです。

それで皆アクチブだなんて、すっかり赤に染まったようなこと言っていますけども、わたしが思うに、その中には早く帰りたいという気持ちが底辺にあるからその運動を活発にやることによって帰してもらえると。要するに赤旗を歌えなければ帰さないという場所ですから、それ以上のことをやれば、早く帰してもらえるよと、すんなり帰してもらえるよというのが底辺にあるから、アクチブ的な行動をとった人が多いんじゃないかと思うんですね。日本に帰ってアクチブ的な行動をしている人があるかっていうと、それはわずかなりあるかもしれませんけど、ほとんどそういうものは帰ってきて現実を見れば、なかったかと思います。わたしも現にそうでした。

(昭和)24年の8月31日の明優丸って言う船に乗ったんですが、そのときに1000人の、1艇が1000人なんですね。その中に7人の反ファシスト委員会の委員が出るんです。わたしは青年部長と言うことでね、7人の中に入れられちゃいまして、青年部長として船に乗ったんですね。それで当時言えば、そういう運動を先に立ってやって、長野県は共産党の地区委員会が新潟にあるから新潟に行きなさいと。で、そのあとは代々木の本部に行きなさいということで、一応話を受けては来たんですが、道々に帰ってみるとどうも共産主義というのは一時は正しいな、弁証法的史的唯物論っていうのはそうかなっていう時期がありましたけども、帰って来て色々な状況を見ると、舞鶴下りてから色々な状況を見ると、なんだ言われたことと様子が違うんじゃないかということに疑念を感じ始めてですね。

まずね、日本について、舞鶴着いた後に様子が違うんですよ。言われたことと。日本はこうなっているよと。もうめちゃめちゃで、食べるものは無いし、着るものは無いし、生活はどうだとか。で、アメリカ兵が蹂躙(じゅうりん)しているよとか。確かに収容所にアメリカ兵はいましたよ。いて何やってくれるかって言うとDDTで消毒こう頭の上からやってくれてあとは何も言わないでしょ。日本人もやっていましたけどアメちゃんはそういうことやってくれるっていうような状態ですから。それやら何やら周りの空気から見て、はておかしいな。敵前上陸だって上陸してみたら、なんだ穏やかな日本じゃないかというふうに感じて、言うことと違いやしないかというふうに感じ始めたのがそのころですね。

実はわたしどもの同期がですね、シベリアで亡くなった人員が83名いるんですよ。

できれば遺骨を日本に持って帰りたいっていうのを、かねがね思っていたんですが、ゴルバチョフが平成の始めころ見えて、名簿を持ってきたんですよね。それからあのころから墓参OK、遺骨収集OKということになりまして、直ちに墓参にブガチャーチャ行ったり、それから、ブガチャーチャ以外はイルクーツクっていうのが収容所墓地ですが、ブガチャーチャも収容所墓地です。


その遺骨収集もですね、皆同期が行って、もうその遺骨を掘っても誰の遺骨かってことがわかりませんので、全体の者の中には、本当はもっと大勢いるわけでしょうけども、ブガチャーチャの集骨できたのは2度もやりまして、58体。同期がですね、58体いるっていうことだけがわかったんです。それでブガチャーチャは689かな、集骨しましたけども、ブガチャーチャの数は明確じゃないんですが、その中に必ずこれはいるからってことでもって、遺骨収集して厚生省に渡し、やがて千鳥ヶ淵の墓苑に納めたんですね。


だから我々はまだ年が若い若いといっても、80代半ば近くなりましたので、もうなかなか遺骨収集ということに協力できないんで、できればJYMAとか政府が許せる限り早めに皆さんの集骨をしていただきたいなと。わたしどもは済んでいますけども、まだまだ3万人近くの方々が、埋葬されている場所すら分からなくなっちゃっているという埋葬地もあるようですし、100パーセントは無理だとしてもできる限り情報収集して、埋葬地を確認して遺骨収集を進めてほしいと思うんですね。

まだまだ経験者がいる間にここだここだと言える人がいる間に何とか探しだして、行って墓を確定して収容していただきたいなという風に、自分の経験からして思っているわけなんです。で、そのあとわたしたちは俺貴様の中の同期から募金しまして、遺骨収集に行くときもあとで話しますけども募金があったんですよね。募金してそこでそれぞれ石の火を立てて、6か所においてございますけども、これは最近政府が偕行社という元軍人の組織に依頼され、わたしどもの仲間が調査に行って、いろいろそういう建った碑等を調査しておりますけども。

この調査をした目的が、単に調査ではなくて、以後これから墓守ができないんだから、木製の墓とか何とかは朽ちちゃうかもしれないけど、石の墓とかそういうのは残るわけですから、それをいかに保存するか。現地のロシア人の組織と交渉して何らかの方法で保存してもらいたいなというふうに思っているわけですがね。そういうことを願いつつ、自分の経験上、ぜひ早めに、もう一刻も早いほうがいいと思うんですよ。知っている人たちがどんどん亡くなっているわけですね。

出来事の背景

【引き裂かれた歳月 証言記録 シベリア抑留】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)8月。ソ連は日ソ中立条約を破棄し、満州国に侵攻した。圧倒的な戦力を前に、関東軍の大半の部隊が激しい戦闘をすることもなく8月15日の終戦を迎えた。武装解除された日本軍将兵や民間人はソ連によって捕らえられ、57万を超える人々が各地の収容所に送られた。

当時ソ連は、ドイツとの戦争で国土が疲弊。深刻な労働力不足に直面していた。スターリンは、抑留者の強制労働によって豊富な資源が眠るシベリアの開発を推し進め、国力回復の足がかりにしようとしたのだ。冬には氷点下30度を下回るシベリアで、抑留者たちは森林伐採や炭坑作業など過酷な労働を強いられ、少なくとも5万5千人が命を落とした。

ソ連は、抑留者向けに「日本新聞」を発行し、社会主義の理念と輝かしい未来を宣伝するなど、抑留者に対し徹底した思想教育を行った。こうした思想教育を通じてスターリンの社会主義の支持者となることを、ソ連は「民主化」という言葉で呼んだ。そして日本人自らの手で民主化を推進させるため、ソ連全土の収容所から若者を選抜し民主運動のリーダー「アクチブ」を養成する一方で、民主化に反発する者や将校を「反動分子」とし、「特別規制収容所」いわゆる懲罰大隊に隔離した。

さらにソ連は、米ソの対立が深まる中、「民主化した者から帰国させる」という方針を打ち出した。社会主義を支持する者を優先的に帰国させることで、戦後日本への影響力を強めようとしたのだ。抑留者たちは、帰国を果たすためにスターリンへの忠誠を競い合い、仲間をおとしめるための密告や裏切りも横行。仲間の一人を反動分子と決めつけ大勢で責め立てるつるし上げが繰り返された。

天皇の軍隊からスターリンの社会主義へ。激しい振幅の中に投げ込まれ、抑留者たちは引き裂かれていった。

証言者プロフィール

1927年
長野県にて生まれる
 
陸軍士官学校から満州国軍官学校へ
1945年
長春にて終戦
 
収容所は、チタ州ブカチャーチャ
1949年
舞鶴にて復員
 
復員後は、三井銀行、三井住友銀行勤務。同徳台七期生会役員として遺骨収集に尽力

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シベリア(ナホトカ)

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