ホーム » 証言 » 永田 潔さん

チャプター

[1] チャプター1 終戦 収容所へ  06:42
[2] チャプター2 収容所での作業  04:04
[3] チャプター3 厳重な取り調べ  04:10
[4] チャプター4 天幕という密室で  04:41
[5] チャプター5 尋問  03:17
[6] チャプター6 白樺(しらかば)の肥やし  06:43
[7] チャプター7 アクチブ  04:28
[8] チャプター8 ハバロフスクの反乱  05:33
[9] チャプター9 ソ連の弾圧  06:18
[10] チャプター10 シベリア鉄道のレール釘(くぎ)  05:18

再生テキスト

わたしがおったのは威力謀略部隊なんですよ。いわゆる、みなさんが言うようなスパイとかそういうようなところにいたんじゃなくて、威力謀略部隊ですから、軍隊教育と全く同じようなもの。ただ、威力謀略部隊っていうんで、いわゆるゲリラ、テロですよ。ゲリラですよ。で、最初は、これにも書いてありますが、グライダーに乗って、操縦するんじゃなくて、飛行機に引っ張ってもらうグライダーに乗って、それで、グライダーにはエンジンがありませんからね。そのレーダーがないっていうときの話ですから。だから国境の上空に行って切り離して、「スーッ」とハバロフスクの鉄橋の下に行って、鉄橋を爆破しようとか、そういうあれ。だから、いっぺん行ったら帰ってこられない。

そういうのの、乗る方の、いわゆる空中てい身隊ですね。そういうのの、要員を、乗った事ありませんよ、要員をやってたら、戦争がああいう風になって、もう飛行機なんてなくなったから、そりゃ解散した。そっから始まる訳ですね。それで山の中に入って、ゲリラ基地を作ってって。その建設がほとんど終わったころ、停戦になった訳です。それで全部引き上げて、ハルビンの特務機関に、本部へ引き上げて そこで武装解除。そしたら、その将校はね、将校行李、行李ってご存知ですか。あの、柳行李、行李、でね。将校行李ってのがあって、それに私物なり、みんな入れてる訳ですよ。「それを運べ」っていう訳なんですよ。
コーロっていうハルビンの貨物駅ですけど、「そこへ運べ」って言う。それはね、これにも書いてるが、そんときは知らなかったんだけど、後から、要するにソ連の謀略で、要するに、「すぐ帰すんだから、荷物を先にウラジオストクまであれすんで、持ってけ」っちゅうんで、その運搬を。そうじゃなくて、そうやって特務機関の将校を安心させて、一網打尽ゆうか、飛行機に乗せて、ソ連へ連れて行った訳です。ウオロシロフというところへね。だから、わたしなんか、なんのことはない、言われたからしょうがない、もう何にもない、軍命令ですから。それを汽車に乗せて。そしたら、牡丹江の近くまで行ったら、ソ連の鉄道の幅は日本の新幹線よりもっと広い訳ですから。で、それを向こうで、「もう広げてるから、これ以上行けないんだ」って言う。

で、そこで降ろして分解して。で、要る物は全部取って、後は焼却してっていう。それで海林っていう収容所に入った。だから、そこで各作業大隊てのに分けられて、それで入った訳ですね。そのときもまだ向こうでは「スコーローダモイ」「スコーローダモイ」すぐ帰るんだ、帰るんだって。わたしは通訳やっとったから、向こうの大隊長にね、「実はこう言ってますよ」って言ったら、「絶対に人に言っちゃいかんぞ」って。要するに、兵隊が動揺して逃亡なんかするとやられますからね。それで、まあわたしは分かっとったです。ところが分からない人は、そんなことは分かりそうなもんだと思うんだけどね、列車に乗ってどんどんどんどん行くでしょ。そしたら、北へ行ってるか、南へ行ってるかくらいは分かるはずだ、星でも見てりゃあ。

いくら貨車に乗ってるからってね。それで、バイカル湖のところへ行ったら海が見えるから、「ああ日本海だ」って言ったら、バイカル湖だったとかね。そういう話があるんだけど。どうもその、そこらあたりはね、わたしなんか分かってたからね。だから、だまされて連れて行かれたんですよ、みんな。

Q.「だまされてる」って感じは当時からあったのですか

わたしは分かっとったからね。うん。ただね、これはこの前もあなたに話したけども、ソ連の方は日本人を特に酷く扱った訳じゃないんですよ。要するに、ソ連の、自分の国のうちの囚人と同じ扱いをしたら、そんな扱いされたことないから、日本人はバタバタと死んだ訳です。だから、そういうような非人道的な扱いを自分の国の国民にしてる、できるような国家体制だったんですよね。

Q.ソ連に入る事を知ってたのですか。

ええ。知ってました。

Q.それはどういうこと?

いや、それはロシア語が分かるから、向こうの連中がしゃべってるのが耳に入るじゃないですか。

Q.どういう言い方しているのですか。

いや、それはもう、前の149大隊だったら148大隊はどこそこへ行ったということを言ってますから。わたしらウラジオストクに行くつもりだったのに、中央アジアの方とか奥地の名前を言ってるんだから。わたしらが分かるようなね。だから、ああこれはそうだなっていうのは。だから、そういうのを大隊長に「向こうではこう言ってますよ」と。

Q.それは大隊長が「他の人に言うな」と?

そうそうそう。言うと兵隊が動揺するからね。逃亡すると射殺されますからね。

Q.最初の収容所はどちらですか。

ここね、ここにでてくる306っていう収容所です。

Q.コムソモリスク?

ええ、奥のね、エヴォロンっていうところの306です。そこで結局その、バイカルアムール鉄道。要するにバイカル湖の北からサハリンのね、樺太の沿岸のソフガワニっていうソ連港っていうところまでの鉄道。バイカルアムール鉄道の建設ですよ。だからあれはね。また話が横になるが、要するに、今のシベリア鉄道っちゅうのは、昔の満州国の国境をくくる、ここ沿いに、こーう下りてきてんだね。だから満州国を日本が押さえたでしょ。鉄道が全部、砲弾の、大砲の射程距離にある訳ですよ。それで「もうひとつ向こう、奥に、鉄道を」ということで、付け始めたのがバイカルアムール鉄道。

全然、完成してなかったんですよね。だから、それをやるにしても、これに書いてますが、要するにもう向こうはツンドラで湿地がいっぱいあるからね。夏はトラック輸送なんかできないんですね。冬になって川が凍ったら川が道路になるし、そういうところがみんな通れるから、どんどんどんどん建設資材運んで、それで雪が溶けたら動けませんからね。そこで初めて森林を伐採して自動車道路を作って、それから資材を運んで鉄道、っていう2段階なんです。それを、だからわたしなんか自動車道路作りと、鉄道の建設とね。だから自動車道路を作るためには、その密林を向こうで言うタイガですね。要するに、北方の密林を伐採しなきゃ自動車道路ができませんからね。まず、伐採から始まって、ってことです。

それから、切り通しのところは、それこそ、手でこうやって穴を掘って。爆薬を詰める穴を掘ってっていうようなね。そういうのです。

Q.永田さんは実際作業もされました?

しましたよ。そりゃあね、最初はね。最初の一番つらいとき、みんなが慣れない昭和21年の暮れ、11月ころ、10月か11月ころまではね。通訳とノルマの計算。ノルマの、日誌にいくらしたって、そのノルマをやって食糧をもらう訳ですからね。だからそれの計算の係をやってたから。それからあとは通訳やっとったもんだから取り調べだ、なんだって、特務機関だ、っていうんで、懲罰大隊に放り込まれたから。これはもう、長時間労働でね、させられたけれども、あとででてくる、そのものすごい民主運動にはあってないんです。
要するにそういうところに、懲罰大隊にいるのは、彼らから言われるとか、反動だから。憲兵、警察、特務機関、満州国の管理だとか本当に泥棒したやつだとか、っていうようなのが懲罰大隊に入ってる訳でしょ。だから「そういうのに民主教育してもしょうがねえ」ってんで、シベリアの民主運動は及ばなかったんです。

Q.通訳だってことで取り調べの対象に?

そりゃそうですよ。そりゃあね、向こうでも知ってますよ。日本で、何故、その我々の時代は「ロシア語なんか習ってりゃ赤だ」ってことになる訳ですからね。要するにもう、そういう資本論にしろ何にしろ、そういう本を読んだだけでも特高警察に引っ張られるような時代でしたからね。だから、誰もロシア語なんかやる人なんかそんなにいないですよ。ただ、だから東京外語と、それから東京の外国語学校と大阪にもありましたね。そこと、それから陸軍士官学校でしょ。ロシア語やってたのは。戦争に必要だからってことで。だからノモンハン事件、昭和12年のノモンハン事件つって、国境紛争があった時に、ロシア語知ってるやつがいねえから困る訳ですよ。それで地方では教育ができないからって軍で始めた訳です。

それでロシア語習ったんだから、向こうはそれ知ってる訳ですよ。だからロシア語知ってるやつっていうのは何かあるっていうのは知ってる訳ですよ。それだからもう通訳なんてやってたら真っ先。だから、他の人はみんな偽名して入ったんですよね。わたしはそうじゃなくて、まあ、これに書いてあるように、ロシア語の教育隊の時の同級生、後ろに座っとったやつが、その呼び止められて、それから四軍司令軍転属になってっていうことで、最初からロシア語やってたからね。もう隠しようも隠れようもない訳ですよ。それで「お前」って言うから、「これこれこうでこうなんだ」と。人の事は、「あの人は?」というのは、「それは知らねえ」と。「なきゃあ、それは自分で調べりゃいいだろう。あなたがただって、そういう組織があるんだから。わたしがしゃべらなくてもいいだろう」。

そういうこと言うから、11年も抑留されとったんです。言う事聞かないから。

Q.どういうきっかけで最初の取り調べが始まったのですか

そりゃもう通訳やってるからっていうんで呼ばれて。GPU(国家政治保安部)にね。それでもう向こうは知ってる訳ですよ。わたしが通訳やってるでしょう。そしたら、他のところを調べて、永田っていう奴は特務機関の一面坡(訓練所)にいて、どうのこうのなんて知ってるんですよ、もう既に。要するにそれをしゃべるやつがいるから。

Q.誰がしゃべっているんですか?

それは分からんけども、要するに、そういうのがいる訳ですよ。自分だけ、当時、腹減ってるからね。要するに、向こうの食い物で釣ってそれでしゃべらす訳ですよ、そういうのね。これは、だからそういうで、もわたしなんか、その、ほら、これにも書いてあるように初年兵教育やっとったでしょ。だからその、いっぱい、わたしを知ってる人がいた訳だ。だから誰が言ったか知りませんけどね、そんなことは。わたしは人のことは言わなかったけど、そういうたくさんいたから。だからもう取り調べにあったときには、わたしは特務機関でこんなことしてたんだってことは、ある程度知ってる訳ですよ、向こうで。

だから、「どこでやっとったか書け」ちゅうんで書くでしょ。と、「これは違う」とか言うんだよ。

Q.書けと言われたときは正直に書いたんですか?

もちろん、書きましたよ。もうそれこそね、戦争が終わってそういう時代になってる訳でしょう。だから秘密もクソもないと思っておりましたからね。

要するに、ちょうどこういう天幕があって、こういう風にベッド、丸太でこう小さい小丸太で作ったベッドゆうか、床があってね。その上にわら布団敷いてみんな寝る訳ですよ。わたしはこの一番端のここんところへ、満州国の警察官の人とわたしがおったの。で、その向こう側、隣が向こうの少数民族のナナイっていう少数民族の人が、おじさんがいた。で、そこへね、新しい若い兵隊あがりみたいなの、兵隊の軍の外とうをね、着て入ってきた訳ですよ。そしたらね、その外とうと毛布をぐっと担いでいた。

そしたら「その毛布をよこせ」みたいな。その中のあれが。それで、いやいやなんて多勢に無勢ですよ。それこそ他の連中、まあ牢(ろう)名主がいるんですよ、必ずね。その日本でいう牢名主が。向こうではスタルシーセンニーシャっていうんだけども、牢名主。それで、はぎとられた訳ですよ。そのときにね、その若者がくやしまぎれにね、「お前を今晩が最後の晩にしてやるぞ」って言ったの。その若者が。要するに、お前が今晩が最後の晩っていうことは、「殺す」っていうことでしょうね。そういう捨てぜりふを吐いた。そうしたら、言われた方はね、わたし、寝てたんだ。そしたらね、「ガタン」っていうんだよね。

ふっと見たら、そいつの上にまたがって、そのペーチカにくべるこんな薪でね、ほら向こうの人はこう、うつ伏せに寝るでしょう。あおむけじゃなくてね。うつ伏せに寝るんだよね、人が多いですよ。赤ちゃんでもうつ伏せに寝かせるだから。まあそれで、うつ伏せに寝てる上にまたがって後頭部をその薪で、「バーンバーン」ってたたいてるんだよ。たたくたびに、この頭がい骨が「ペコッ」とへこむ訳ですよね。あんなことしたら死んじゃうわなと思って。そしたらもう鼻や耳から血を出して、「グーッ」て死んじゃったんですよ。ほいでね、そしたらね、「おいみんな寝ろ」ってみんな寝て。そして、「誰か衛兵呼んで来い」って呼びに行ったら来たんでしょ、衛兵が。「なんだい」って言ったら、そのやったやつが「こいつが昼間ね、わたしが今晩が最後の晩にしてやるって言ったから、わたしが最後の晩にしてやったんだ」と。

Q.天幕の中はロシア人の囚人も?

だから、ロシア人の囚人と我々は一緒に入っとった。なんね、そういうところがロシア式なんだ。だいたいね、日本でもあれでしょう。ロシアでもどこの国でも監獄なんてものはね、あれはその、なんちゅうんか。悪の集まりでもないし、とにかく、そういうのの集まり、結集されてるところでしょう。そういうところをね、何も外国人に見せる事はないんですよ。俺らに言わしゃあ。それ平気で、わたしも監獄に行ったけども、囚人と同じ監獄に入れてそういう恥部っていうか底部を平気で外国人に見せる。ああいうところの神経がね。そういうんです。

Q.いつくらいまで、そこにいたんですか?

1週間くらいいたかな。落とし前が終わるまでね。

Q.その間に、取り調べが何回かあるのですか?

そうそう。夜中でもなんでも、とにかく、向こうの暇なときかなんか知らんけどもね。

Q.時間帯は決まってない?

決まってないです。それは1人の人か2人かなんか知らんがそこへおる連中、もう1つ宿舎があったかどうか知りませんがね、次から次へやってるから順番で。そりゃ夜中になることもある訳ですよ。

ハバロフスクで監獄に入る前だね。そういうのの、取り調べのときなんか、心証悪くすると、そうすと、ちょっと休憩だからって言って、シュカフっていうなんちゅうんか。あの。

ロシア語でシュカフって言うんですね。要するに日本でいうロッカーですよ。ロッカーみたいな作り。同じ作りのそういうことに使う専用のものなの。それはね、向こうの人に聞いたら、「あれはドイツ式だ」と。ヒットラーが使っとったらしい。そういうものをね、やっぱりね。

Q.取り調べに使うもの?

そうそうそう。ちょっと取調官が食事に行ったり、トイレ行ったりする時に、入っとれっちゅうんで。で、5分か10分でまた出てくるの。それをその、放ったらかしで70時間くらいいたんじゃないかな。ただ、そういうのはね、「ドンドンドン」って「トイレ行かせえ」ちゅうとそれは行かせましたからね。出られましたけどね。座れないんだから。

Q.どれくらいの大きさ?

日本のロッカーと同じですよ。要するにわたしが立って、しゃがめないんだから。膝がつかえて。これだけの幅で、ね。

Q.ロッカーみたいな扉がついてて?

扉が片っぽ、こういう扉がついてて鍵がかかる。

Q.高さは?

高さはどのくらいあったか。

Q.そこに入れられて、外から?

そうそうそう。

Q.鍵かけられる?

うん。だから日本人の小さい人は座ったらしい。だけど、わたしは173もあったら、しゃがむのも座るのも膝がつかえて座れねえんだ。

Q.立ってるとどういう風になるんですか?

そりゃあ、あれも拷問のひとつですね。ソ連じゃあ逆さにつるしたり、たたいたり、そういうことは一切しませんがね。わたしもやられた覚えはないけども。あれもひとつの拷問でしょう。それから、これにも書いてあるけど、俺は見た事ないが、向こうの人が言った水牢があったり、そういうのは拷問ですよ。

Q.シュカフの話ですけど、(その中に)入れられるとやっぱり疲れるのですか?

いえ、そりゃ疲れますよ。だって座れねえんだもん。寝るったって立ったまま居眠りゆうか、そりゃあ程度だからね。あれは拷問ですよ。

Q.真っ暗になるわけですか?

うんまあ、そりゃあね。ロッカーと同じで、あれがあって、外の光が。だから真っ暗じゃないです。そりゃ息ができるようにしてあるから。

抑留されて、民主運動だなんて、ソ連の共産主義のあれをたたき込まれるゆうか、毎日同じことをね、やりゃあ、宣伝ちゅうのはそんなもんで、毎日同じことを何べんもやられればね、おかしくなるですよ。そりゃあもう。特に日本人はドイツ人なんかと違って「天皇陛下万歳」できてた訳でしょう。それが向こうへ入ったら「スターリン万歳」になった訳だ。

「天皇陛下万歳」で天皇の批判したりすることはできなかった訳ですからね。それが向こうへ入ったら「スターリン万歳」になって、またこれ共産主義を批判したり、スターリンの批判なんかはできなかった訳ですから。だから、日本人は入りやすかったんですよ。「天皇陛下万歳」が「スターリン万歳」になっただけだから、非常にシベリアの民主運動ちゅうのには入りやすかったんですね。もう洗脳されて気違いになったようなもんですよ。

Q.共産主義に「なるほど」と思ったところはあるのですか?

あります、あります。一番最初。それは「おしんの時代」やそういうのを知ってる訳でしょう。で、だからもう向こうの、そりゃあもう戦争さえなけりゃあね、社会主義はもっと発展してたんだ。そりゃもうね、満州にソ連軍が進駐してきたでしょ。そうしたら戦車なんてのは小山のような戦車ですからね。日本の戦車なんてのはブリキばりですよ。ものすごいのがいるでしょう。それから、あのカチューシャなんていう連射のロケット砲ですよ。トラックに積んでるね。こんなんなってる。これがロケット弾が、「ダーッ」と雨あられとくるわけで、あんなもんなんか日本じゃみたこともない。それこそブルドーザーさえ見たことなかったんだから。前へ掘るやつがあるでしょ。排土板ね。わたしはあれ、弾よけだと思いましたよ。

こうなってるからね。それにしちゃあずいぶん運転席が粗末だなあって。そしたら、日本軍が作った戦車砲なんかいっぺんで「ダダーッ」と埋めるじゃない。ああなるほどな、そんな時代でしょ。「つるはしとスコップでやるもんだ」と思ってんだから。「兵隊は歩くもんだ」と思ってる訳ですからね。今の自衛隊みたいにトラックで移動するなんてのは、とても。

Q.ソ連の兵力というか、国力に圧倒されたから共産主義に?

うん、そりゃあもうね、もっと。戦争さえなければもっと。そりゃああんた、持ってるんだって日本の小銃とは違って自動小銃もってる訳ですから。ちょっと、こんなもんがついっとったから、弾倉がね、日本人はみんな、マンドリン、マンドリンって言ってたけど。自動小銃でしょ。日本にも自動小銃はあったんですよ。だけど日本軍で全部自動小銃持ったら、弾が製造できないですよ、足りない。それだけの工場がないんですから。だから、そんな見ても、どんなにみずぼらしい格好してる兵隊でもみんな自動小銃でしょ。ほいだからそりゃね、ああなるほど、これは社会主義のあれがなったら、もっと、なるほどなと思ったから、最初はソ連。

それで、今や、さっき言ったように批判ができない訳でしょ。「共産主義がそりゃ違うよ」ってのは言えないんです。共産主義つうのは唯一のもんなんで、いうんですよ。言えないんですから。だからまあね、民主運動のときに、要するに共産主義が、もう唯一のもんなんだから、それが分からないようなやつは、要するに動物はね、本能で動いてんだから、あれはしょうがない、と。人間には知性もありゃあ理性もありゃあ、あるんで、共産主義つうのは唯一の、本当の、最高のもんなんだから、ね。それが分からないようなやつは動物以下だ、という。だから「殺してもよろしい」というようなことになる訳ですよ。だから、「白樺の肥やし云々」っていうのはそれですよ。でてくるのはね。

Q.白樺の肥やしっていうのは?

要するに「ぶっ殺すぞ」と。「おまえたちは日本へはもう帰さないよ」と、ね。「白樺の肥やしになるだけだ」と。そういうことです。要するに帰らなきゃあソ連で死ぬ訳でしょう。それを称して白樺の肥やしという。

Q.何をしなければ白樺の肥やしに?

そりゃあ共産主義を信奉しなければ。共産主義に反対してれば。だからわたしは特務機関でこういうことをしました、ああいう悪いことをしましたいってね、あることねえこと白状というか告白してね。ええと、告白することを何とかと言った。日本の赤軍派も告白することを何とかと言った。そういう。

Q.自己批判ですか?

ああ、自己批判。自己批判をその、する訳でしょう。ね。そういう。みんなやった訳ですよ。

Q.永田さんも?

いやいやだからね、そこまで、わたしはいかなかったんだ。さっき言ったように、真っ先に取り調べを受けた訳ですから。ほいで特務機関だっていうのは分かって、受けたから、もう真っ先に懲罰大隊に入れられた訳ですよ。だから懲罰大隊は反動の集まりだからいうて、民主運動は及ばなかった訳です。

だから、もう洗脳されてるから。我々はソ連から暖かく迎え入れられてね。その三食食べさせてくれてみたいなこと言うから。そう思ってるんだよ。だけど、それおかしいんじゃねぇかと。そりゃ三食食ってるけれども腹いっぱい食わしてくれてるかって言うんだ、ね。みんなひもじい思いしてるんじゃいかって言うのがそれがわからんって言うか、洗脳されてるか、なんだから。そういうことを言うんだよ。だからそういうことを言っても。その批判できないわけだ、ね。そりゃ日本の「天皇陛下万歳」と同じですよ。命令がおかしいと思っても、それに対して言えない訳でしょ、今みたいに。命令にかれこれ言っちゃいけねぇと言うことになるわけだ。理不尽なことを言われても。それと同じなんですよ。

Q.「我々は暖かく迎えれられてる」と言った論調なんですね。

そうです、そうです。「日本の軍隊だったころを見てみろ」と。おれたちはどういう扱いを受けてたんか、とね。そりゃひどいもんだよね。


Q.アクチブの人たちが登場するタイミングと反軍闘争から、反ファッショに変わる段階というのは?

わからん。そりゃもう覚えてませんよ。いつの間にそうなったんかもう分からん。段々、段々そうなったのはもう、それから、最初「友の会」で運動してた人がどんどんどんどん淘汰されて。もう尖鋭なことを言うやつだんだん。あの連中は日和見だとか言って、ぜんぶそういう連中は排除されたからね。

Q.一般の人たちからするとアクチブが登場して何か変化はあったんですか?

そりゃ、変化はありましたよ。その人の言うとおりにしなきゃつるし上げられるし、そりゃ帰れなくなる。だからさっき言ったように、その人の言うことに反対したりなんかすると、ある日、突然その人が居なくなるから。そうすると、あれは懲罰大隊に送って、帰れなくなるみたいなこと言われるから。みんな、帰りたい一心でやってる人が、そのうちにおかしくなるんだよ。

アクチブは、あなた、我々が普通の労働の服着てるのに。ロシア人が着てるルバーシカみたいなの着て、良い服装なんかしてますよ。それなりの服装してますよ。ボロをまとってない。

そういうふうになるようにするのが政治なんだって。社会主義って言うのはそうで、終いに共産主義になったら。社会主義はね、まだ、その能力に応じて物もらったりするわけですね、その能力。ところが共産主義ちゅうのは、その欲望に応じて。そんなこと人間ができるわけがない、神様ならともかく。そこへいっぱいあっても自分が欲しいだけ取って食べられるとか、それがでしょ。だから社会主義は人間の能力に応じてですからね。だから今みたいなことになるわけですよ。

Q.アクチブの方が能力があるという。

だから、理屈はそういうこと。そういうことだから、アクチブが良い着物を着ておっても、いまわたしが言うような理屈だから良いものを着てる、幹部は。

我々は刑を受けてて、さっき言ったように、瀬島さん(瀬島龍三・元大本営参謀・関東軍参謀)が団長だったのね。で、その瀬島さんが何時帰れるかわからないんだから。まあホントの凝り固まった人、皇国史観あたりで凝り固まって「もう、恥をかいても、汗かくな」というようなね。ソ連が何を言おうとってような、そんなことを言ってるとね。もうソ連の思う壺で何されるか分からん。だから、技術仕事を手にして、左官から、塗装工ね、そういう大工とか、そういうレンガ積んだり。そういう技術仕事を手にして、

そいで、100パーセント以上やると報奨金が、グループですよ。グループで左官班が15名いたら、その15名で100パーセントやれば報奨金がもらえるわけだ。その15名の中に一人や二人100パーセントやるもんがおってもだめなんだ。15名の成績を平均して100以上なら報奨金がでるわけ。で、報奨金をもらって、その収容所の臭い飯でなくて、もっと良いものをバターを買ったり。そいで「体力を付けて帰るまで頑張ろうじゃないか」と言うのが瀬島さんのあれだったわけ。だから、わたしが監獄から出てきたらすぐ呼ばれて、「あんたその佐官が上手なんだそうだけど。おれの主旨て働いてくれんか?」って言われて。「主旨ってなんですか?」って言ったらそういうことだった。「ああ良いですよ」ってやったわけだ。そしたらもう帰ってきてまで、「瀬島はソ連に迎合して、日本人を働かせた」って人がいる。そう言う人も居る。だけども、シベリアでやったことはわたしは正しかったと思いますよ。

はい、お陰でそういう。けれどもソ連の方の収容所のあれは。そういうことやって成績上げてるんだけれどもね。まだ日本人をこき使おうというそれがあったんですよね。だからハバロフスク事件、ここにも書いてあるんだが。昭和30年の11月の26日に24名の病人を営外作業に駆り出し、さらに16日に大量65名の病人を一斉に営外作業に駆り出した。これで、「これじゃあとても、ありゃ死んじゃうぞ」と言うことで、ストライキをやったわけですよ。

要するに、世界情勢を見て、そのときもうロンドンで松本俊一(外交官)さんなんかが交渉やってたわけだよな、日ソ交渉。まぁ、そういうのを見て、そいでもうそれはね、ラーゲリでストライキなんかやったらね。軍隊が戦車持ってくる。装甲車持ってくる。消防車持ってくるでもうそれこそ、皆殺しに遭うくらいの弾圧を受けてるということは、もう分かってるんだよ。もうそういう事件があちこちであったんだ。それはわかってんだ。だからそれこそ、命をかけた闘争ですよね。だけれども世界情勢でこれで、いまやってもね、そこまではやらないだろうと。要するに、戦車持ってきて踏みつぶすということはやらないだろうと言う風に、情勢分析をしたわけですね。

それで、もうストライキをやって。だから12月19日から3月の9日まで、作業拒否で出ませんでした。

病人を出したりするでしょ。それで現場で、現場の監督やってるのが、また、「この日本人は戦犯だからこき使え」みたいなこと言ったりしたとか、何だかんだで。斧(おの)で持って切りつけたんだよ、その監督にね。そういう事件があったんですよ。そいで、小屋の上登って、君が代歌って飛び降りようとした奴止めてね。まぁ、それで刑は受けたんですが。我々と一緒に帰ってきましたよ。そういう事件がその前にあったり、なんだかんだで、もうストライキをやっても大丈夫だろうという。思ったんでしょう。その人達がね。そいで、組織も何にもないところで始まったわけ。始まってから組織作ったわけですから。

要するに収容所があるでしょ。で、柵があるわけだ、ね。柵があって、足跡発見地帯って言って、砂の帯がこうなってるんだよ。で、そこの中に鉄条網が張ってあって、この中に入ると足跡がつくでしょ、ね。で、足跡発見地帯って言うんだけど、それがあって。その針金が有刺鉄線がこうなってるところを軍用犬が行ったり来たりしてんだ。それをごっそり、柵の柱をごっそり切って赤軍で、9日の夜それをバタッと倒してドォっと入ってった。

Q.兵隊が?

うん、丸腰で。こっちもね、もう抵抗するつもりはなくて、だから「抵抗するなよ、抵抗するなよ」言うて。ただスクラムを組んでるだけで。向こうもね、獲物を持ってなかったです。我々のところに入ってきたのは、みんな若い兵隊だったけどね。だからスクラム組んでるから、わたしは二階にいたら、踊り場まで放り投げられた。だけど、そういうことがあるだろうと思ってね。「来たぞ」って言うんで、みんな防寒着を付けとったからね、帽子から手袋から全部、履いたものから。放り出されてもいいようにね。だから、階段へ放り出されたけどケガはしませんでした。それから踊り場から下までまた放り投げられて外へ出されて、それが弾圧です。

Q.つかみ合いだけですか?

うん、つかみ合い言うて。我々抵抗はしないから。スクラム組んでるのを引っペがされただけ。引っペがされて放り投げられただけ。わたしたちはね。他も抵抗はしてないでしょ。だからケガ人はいなかったはず。まぁ、これにもケガ人はなかったと書いてありますがね。で、向こうに、なんべんでも、何回も陳情書をだしてるんですよね。そいで、先日はその収容所の幹部が悪ぃんだと。ソ連そのものの上層部の指導部の人はもう平和愛好で、もうスターリンも死んでるんですからね。で、ベリアというあれが失脚したときだったんですけど、

その秘密警察の親方ですよ。で、それがまだそういう思想を収容所の幹部が持ってて、我々にひどいことをしてるんだと。上層部のあなたたちのあれを全然わかってないんだと言うんでね。上層部をおだてて、その収容所の幹部連中をたたいたわけですよ。そういうあれが何回もやってるんだね。それで、あれないから、ハンガーストライキやったわけですよ。要するに断食闘争。これがまた、これに出てくる「おまえたちは断食闘争やったって言うけど、飯食ってたではないか」って言うて、向こうのボチコフって秘密警察の中将がきて言うとこがありますがね。

要するにね、ストライキをしたときに。これはひょっとしたら兵糧攻めに遭うぞということで、お金持ってるでしょ。まだ、売店はやっとったわけだ収容所の。そん中のクッキーみたいな物ね、それから配給のパン、黒パンをね。日本にラスクってあるでしょ。あれと同じようにね、黒パンを切って乾かして非常用食でね。スハリって言うんですがね、それを作ってね、貯めとったんです、兵糧攻めにあったら困るから。そいだから断食闘争を始めても、みんな備蓄を持ってると言うことが分かっとって始めたわけだ。

それはもう決議文いうか、請願書。もう何通も、何通も同じこと、同じようなことが何通も返事がないから。共産党の偉いひとの所から、いろんなところに出したもんです。

Q.ソ連側からは止められないんですか?

出す分は受け取りますよ。ただ、それを本当に中央まで持っていくか、握りつぶすかですよ。握りつぶされとったんだから。だけどそうやって断食闘争なんかやるから、結局一番上のほうにそれが分かったわけ。分かったいうか、通達したんでしょうな、自分らではこれはとても鎮圧できないと言うんで。そいで、秘密警察、バチコフって言う中将がやってきて、そいで弾圧をして。その後はもうそれこそね、わたしはその6分所と言うのの文化部長やっとったんですよ。それはなんちゅうか、6分所の大隊長で責任者をやってくれる人がいなくて。ハバロフスク事件の時ね、でかいこと言ってた連中がね、味方の中ではどんな偉いことでも言えるんですよ。

敵と対したときにどうなるか言うのが問題でね。

Q.帰国が決まったときはどういう状況だったんですか?

それはね、鳩山さんのお祖父さんが一郎さんが来ましたね。彼はもうそれこそ車椅子みたいなんで着たんだから、旅行をして。そしたらもう、あの人が飛行場に着いて交渉が始まりますね。もうそのときに、我々は囚人だったのが、日本の国籍を持った日本市民になったんです。まだ交渉が成立してないのに、交渉のために来てるわけでしょ。そしたらもう、着いたその日から、収容所の四隅にある望楼に警戒兵が立ってます。それも全然居なくなって。そいで、なんちゅうんか、報奨金をあれしてるから、お金持ってるでしょ。お金はルーブルは日本へ持って帰れないんですから。なんか買って物にしなきゃ持って帰れないから。

だから、買い物に行かせいと。まぁ、なんやかんや言いよったが、結局、ロシア語ができるのが付いて、5人か6人で。わたしは午前、午後、何回も出ましたよ。ほいで買い物をして、わたしはレコードいっぱい買ったんで。まぁ、買い物をして。持って帰りましたよね。ほいで、このハバロフスク事件の請願書。こんなに覚えて帰れるはずがない。もう書いたものもそれこそフリーパスだったです。だから、あのラーゲリからの遺書みたいに、みんなが覚えて帰る必要は全くなかった。だけど、今までそうじゃないからね。それはもうしょうがないですよ。我々もそのつもりで居たから。もっとその亡くなった人の遺品とかね、そういうのを持って帰りたかったけど。取り上げられるだけならいいけど、

また逆戻りさせられたんじゃ適わねぇかんね。あんなんだったら持って帰るんだったよ。

Q.今日、向こうから持って帰った物お持ちいただいたんですかね?

もう草津にいるときには、いろんなものを持ってたけどね。もうこっち来るとき全部廃棄してきましたからね。だから全く持ってないって良いでしょう。ただね、バーム鉄道の犬くぎ。

Q.出してもいいですか?

いいですよ。これでレールを止めてあるんですよ。知ってるでしょ、犬くぎっちゅうのは?

Q.レールを止めてるものですか?

レールと言うのはね、この上を汽車が走ってますね。こうなってんだよね。で、ここに枕木があって、で、これを打ち込んで、これで押さえてるレールを。枕木を。今は新幹線はこんなものは無くて、みんなコンクリートでボルトで閉めてますがね。この当時、日本でもそう。みんなこういう犬釘って言うんですよ。これをその枕木に打ち込んでレールを押さえてるわけ。でかいですよ、日本のはこんなでかくはない。

Q.持って帰れたんですね。

それはね、持って帰れた言うのは。墓参に行って持ってきたんです。

Q.帰国のときじゃない。

じゃない。墓参に行って持ってきた。空港でね、とにかくね、(ロシヤ語を)しゃべれるでしょ。ほいだからね、ずいぶん楽でした。空港でぜんぜん文句言われなかった。それとハッタリかませるんですよね。「ハバロフスクのこういう噴水は、みんなおれが作ったんだぞ」って言うでしょ。そうすると、待遇言うか、全然向こうのあれが違いますよ。それはね、やっぱりね、11年も抑留してたって言うと、向こうに引け目があるわけですよ。エリツィンがきて「ごめんなさい」って言うのと同じでね。ちょうど日本が、こんなこと言っちゃ例が悪いか知らないが。日本人が従軍慰安婦なんて言われるとあんまり良い気持ちがしないと同じで。やっぱり向こうも、「おまえたちのとこで11年も抑留されて言うて、こんなものはおれが作ったんだ」なんて言うとね。トランクを開けて調べるなんてことはしないんだよ。

出来事の背景

【引き裂かれた歳月 証言記録 シベリア抑留】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)8月。ソ連は日ソ中立条約を破棄し、満州国に侵攻した。圧倒的な戦力を前に、関東軍の大半の部隊が激しい戦闘をすることもなく8月15日の終戦を迎えた。武装解除された日本軍将兵や民間人はソ連によって捕らえられ、57万を超える人々が各地の収容所に送られた。

当時ソ連は、ドイツとの戦争で国土が疲弊。深刻な労働力不足に直面していた。スターリンは、抑留者の強制労働によって豊富な資源が眠るシベリアの開発を推し進め、国力回復の足がかりにしようとしたのだ。冬には氷点下30度を下回るシベリアで、抑留者たちは森林伐採や炭坑作業など過酷な労働を強いられ、少なくとも5万5千人が命を落とした。

ソ連は、抑留者向けに「日本新聞」を発行し、社会主義の理念と輝かしい未来を宣伝するなど、抑留者に対し徹底した思想教育を行った。こうした思想教育を通じてスターリンの社会主義の支持者となることを、ソ連は「民主化」という言葉で呼んだ。そして日本人自らの手で民主化を推進させるため、ソ連全土の収容所から若者を選抜し民主運動のリーダー「アクチブ」を養成する一方で、民主化に反発する者や将校を「反動分子」とし、「特別規制収容所」いわゆる懲罰大隊に隔離した。

さらにソ連は、米ソの対立が深まる中、「民主化した者から帰国させる」という方針を打ち出した。社会主義を支持する者を優先的に帰国させることで、戦後日本への影響力を強めようとしたのだ。抑留者たちは、帰国を果たすためにスターリンへの忠誠を競い合い、仲間をおとしめるための密告や裏切りも横行。仲間の一人を反動分子と決めつけ大勢で責め立てるつるし上げが繰り返された。

天皇の軍隊からスターリンの社会主義へ。激しい振幅の中に投げ込まれ、抑留者たちは引き裂かれていった。

証言者プロフィール

1922年
岡山県にて生まれる
1939年
満州国鞍山市昭和製鋼所
1943年
第7国境守備隊から関東軍第345部隊を経て、関東軍情報部へ
1945年
ハルビンにて終戦
 
収容所は、コムソモリスク、ハバロフスクほか
1956年
舞鶴にて復員
 
復員後は、鋼管鉱業、草津温泉保養所支配人

関連する地図

シベリア(ハバロフスク、コムソモリスク)

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