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チャプター

[1] チャプター1 社会主義思想の弾圧「2・4事件」  07:01
[2] チャプター2 義勇軍を満州へ送る  09:18
[3] チャプター3 満州開拓の夢  05:54
[4] チャプター4 写真に残した義勇軍  06:55
[5] チャプター5 長崎の原爆雲を見た  09:00

再生テキスト

2・4というのは、教員赤化事件と言われていてね。共産党の主導して赤くなるとね。赤くなるっちゅうのは赤化ってね、赤くなるという事は共産党系のあれに指導者が、これ大っぴらにしたらこうですからね。大っぴらにしたらこうだから、そうでないように上手に指導して、共産党の増やしていくっていう、そういう時代ですからね。だからそこらへんの事はなかなか難しいんですよね。だからそういう点では気をつけながらね、先生たちもあれしたんだ、こっち応援したい人でも大っぴらにしたらこうですからね。

だから、そうでないようにそれとなく、そういう思想、考えをね吹き込んでいくっていうね。それはそのときの大変なあれだったんですよね。新聞なんかにも、号外なんかも出たり色々した事もありましたよね。飯田新聞なんかでもそういうあれがねあったりして。

Q.自由に自分の意見を話し合ったりするのがしづらかったってことですか?

だってそんなことしたら、バッて。ほとんどパーだよ、そんなこと勧めるやつは。首切り。だからそれとなく上手に内緒でやるっていう、そういうグループがあったわけだ。それでグループでそれを増やして行くっていう。

大っぴらになんかしたらすぐクビですからね。赤化事件ってね、新聞なんか1ページのね、号外が出たんですからね。そういうような時代だからね。そういう風に参加するのは、非常に、それこそ慎重に、ジリジリとこうね、わからんように進めて行くっていう。

Q.熊谷先生の経歴を見ると、そのころ職員退職ってなってますね?

辞めさせられたってことでしょ。どんな風にあれだかな。

Q.これには退職としか書いてないんですけど。これは実質自分から辞めたってわけではないですか?

ないんじゃないかな。なんかそれ関係したってことで、大したことじゃなくても、そういう風にほじられてほじられて、あれするというようなことだった。

Q.熊谷先生は直接は関わってはいなかった?

関わってない。直接なんかほとんど関わらないよ。そういう友達が来て、どうだっていう話しをするくらいだよ。

Q.それだけであれですか、検挙されんですか?

そう。話を聞いたって、そういう会合出て聞いたくらいで、そう。それで今度は別のせんならんでしょ、だから却ってそのためにあの他の道に進めたっていうね、こっちに入っとりゃこういう風になるんだけど、辞めさせられてこっち行ったから、却って他の仕事がつけて今日があるっていうね。そういうことあるじゃないですか。だからそこらへんのことが非常にデリケートでね、難しいとこあんですよ。そういう厳しいっちゅうか、なんちゅうかな、時代ですからね。

それで教員辞めて、絵の方の仕事、あるいは写真の仕事に、思いついてやり出したっていうことだというと、却ってその方が良かったと。やっとれば、その仕事しかできないんだけれども、教員なら教員しかできないんだけども、それで辞めて他の仕事、絵の仕事、写真の仕事に熱中できたっていうことは良かったんじゃないかな。そういうあれはありますよね。だから人の運命というのはわからないものですよ。そういうのはなかなか厳しいね、思想の自由でないってことは、そういう厳しいあれになるわけなんですよね。

Q.熊谷先生は義勇軍の子たちと一緒に満州まで行ったみたいですね。

これですね、この写真ね。大体、私、拓務省6年おったんですよ。それでその間に3回、1年おきに、大体1か月ずつ出張をくれるんですよ。義勇軍を送って、新潟から日本海を通って送って、なんつうとこだか朝鮮のとこに着いて、それから現地へ送り届けて、それで送り届けてしまうと、私は自由な体になるんですよ。だから自分の見たい所をちゃんと計画立てておいて、それでそれを写真撮ったり、あれしたりするんだけどね。

Q.向こう行ったとき義勇軍の子供たちと話とかしましたか?

そりゃしたけども、そんなの覚えとらんわ。それを聞くためにどうだとか、仕事はえらいかとか、食べるものはどうだとか、どういうことをして楽しみはどういうことだとか、そういうことはなるべく訓練所回ったときに様子を聞いて写真を撮って、その話を聞いて。そりゃこっちの商売のあれですからね、手段ですからね。飛行機に乗って上空飛ぶっちいうようなこともそりゃ大事だけれども、そういう訓練所、訓練所でこの訓練所はこういうことがいいんだとか、こういうことはどうだとか、そういうことをなるべく見て来て、帰って来て上司に報告するっちゅうのが任務ですからね。そういうわけだ。

そこはね、私の村の子供が2、3年前に8人行ったんですよ。それでそこへ、どうしてもここだけは特別にね、村の子供が行っとるんだから見にゃいかんつうわけで。それで、何番目に行ったかそりゃわからんけど、行って。そこの写真はそういう個人的にかなり撮ってきたわけなんですよね。

Q.こういう写真は個人的に撮られたんですか?

向こうは全部個人的でいいんですよ。そういう何を撮ってこいという、そういう指令はないんです。自分の好きなとこをね、撮って。色町行ったっていいんですよ。

Q.向こう着いてからは自由だったんですね?

自由だよ。

Q.彼ら子供たちの生活ぶりはどうでした?

生活ぶりっていっても、ぶりったってどういうぶりだか、普通に暮らしとるんだから。

Q.やっぱり農業をやって?

農業やってるね。で、朝当番がおって、きっと何時に起きて、ほいで炊事当番は炊事を用意して。ほいで一切食事ができたら、各部屋へ取り来るんでしょうね。取り来て、ほいで持ってって食べるんじゃねえかな、と思いますけどね、今考えると。なんかそりゃちゃんと決まりはないけどね、そういうのができとるわけですからね。訓練所であれするから、ちゃんと決まりがあって、何時から何時までって。何時から何時までは作業、それでお昼休み。だからそれに従ってやっとるんですよね。

で、こういうのなんかは、丁度そんな野菜が取れたときに行ったもんで、お前さん、あんたたちも取れと。それで持たして。それを村の、私の村の諸君なんですよ。方々から行ってますからね。だから、そういうの撮ればウチの行って、家族の衆に、ウチの、お前さんとこの息子だよっつって言うと喜ぶでしょ。なんで、そういう風に撮ったんですよ。そういうことにそういうのが個人的にそういうのと・・、だけどそういう写真が残っとるのがあんまりないんだ。36枚だけ残っとる。それが空襲のときに、満州はこういうとこだと、訓練所はこういうふうだというのをどっかで話をするのにね、欲しいから焼いてくれって頼まれたんだよ。

だからその36枚を選び出して、それを焼き付けて送ったった。村へ。あと村ではこういう風だって、あっちの村に行って聞けば、あそこに36枚あるぞっつうわけでね。で、どうか見して下さいってのがあって、見したった。そういうことなんだ。そういう個人的な写真がそこに何枚か。

Q.それで偶然こういう写真だけ助かったんですね?

そういう写真が36枚ね、助かったんだよ。

Q.結構皆楽しそうな感じですね?

そりゃそういうような時には、悲しい顔しちゃあれじゃないですか。この真ん中におるのは訓練所の責任者でしょうね。あと子供でね。野菜もらってそれで嬉しいような顔しようよというわけで。言ったか言わんか知らんけど。そういう写真で。こっちは訓練ね、訓練の写真。これが牧場で一休みしとるとこですよね。

Q.元々は拓務省はどういう写真を撮って欲しいってのはあったんですか?

それは全然指令はない。自分で好きなように撮ってこいと。まあ大体好きなようにっちゅうことは、日常、役所で暮らしておるときに要求あるようなのが来るでしょ。こういう写真があったら貸してくれんかっちいうようなの。だから大体のことはわかっとるわけだ。必要な写真がね。それはこっちでちゃんと頭に入れて、今回の場合はこういうとことこういうとこを撮ろうと。大体そういうようなことで行くんですよ。

Q.そのころ熊谷先生は義勇軍をどのように思ってましたか?

どういう風に思っとるって、とにかく日本の内地の農業が手狭であんまりの発展の余地がないね。だから分村移民なんてね、大日向村(現・佐久穂町大日向地区)なんてとこがね、村を半分は満州に持ってけなんてとこもあったでしょ。だからそういうようなのもあるし、そこまではいかなくても、ある程度の人数を送り出そうじゃないかとか、そういうようなことで計画立てて送ったと。

満州って大体日本の支配下にあったということではないですか。ある程度ね。それじゃなかったらそういうことはできないですよ。よその国にどんどん乗り込んで行くんだから。大体満州国っていうものがあっても、そりゃ日本の支配下っていうのか、ある程度の日本が言うこと聞ける国っつうか、なんて言えばいいの、そういうあれじゃなかったかな。それじゃあなかったら、どんどん送り出すっていうのはできないですよ。大日向村なんてのは、村を分村、村の半分を送り込んだっつうとこですからね。だからそういうようなことは、ある程度のこっちがそのつもりになればできたっていうね。

Q.熊谷さんは最初のころ代員教員で先生もやってましたよね。そのころ農村の状況は厳しかったんですか?

厳しかったね。

Q.本なんか読むと欠食児童がいたりとか、身売りですか女性の、そういうのもあったりとかっていうのを見ますけどね。

豊かではなかったね。だから村もあるけども、ことに伊那谷なんかは耕地も狭いでしょ。だからそういう苦しいとこはあったんじゃないかな。分村地って村を分けて行くっつうんだから。いくら広くて豊かな土地っだっていっても、ウチの家族まで行くっちことは、そりゃ心配ですよ。そりゃ自分の国で豊かに暮らせりゃそれに越したことはない。そういう心配もあるから、じゃないですかね。

満州行くとこういう風になると、ここがこうだけども行けばこういう風になると。俺たちも男兄弟が3人も4人もおる、ウチにおって、土地を分けてもらえるっちゅうことはできない。どっか奉公にいかんならん。色々な職業につけるわけだけどね、不景気な時分だからそんないい職業につけっこない。だからそれよりは満州行ってこうした方がいいんじゃないかとか。まあ例えばそんな勧め方。どういう色んな勧め方かがある。ウチじゃあ、お前たち男の兄弟3人あると、3人お百姓ならお百姓で、うんと土地が狭くなっちゃう。

だからどっかへ養子に行くとかね、せにゃならんと。それだとなかなか骨が折れるぞと、それよりは満州行った方がいいんじゃねえかと。例えばですよ。まあどういう勧め方するか知らんけれども、先生たちもそうだし、ウチでもそうだ。それじゃなきゃなかなか行けんじゃないですかね。よし俺は行ってがんばるぞっていう風でなきゃ。そうでしょ。嫌々行っちゃ、そりゃ中には嫌々行くっつうようなのもあっても、お前たちも誰かが行くんだから行けよっつって、それじゃあちょっと心配だけど行くかと。だから、これなんかも皆、ある年は8人だから、1つの村でね。行ったですよ。

機械を使っているね、これは軍隊の訓練だな。ここにちゃんと鉄砲なんか用意してあるんだよね。どっかに。それを持ってきて。どの訓練所にも、みんなこの銃を置いてあるわけじゃない。どっかに置いてあって。これりゃなんかは日の丸の旗たててやるんだよね。こんなのは服装だけだからね。それでもちゃんとこういうものを着けて。

Q.でもこうやって見てみると、長野の山と比べるといいところですね。それじゃこれもご覧になってください。こんな大きな野菜、山ん中じゃ取れないですか、やっぱり?

これなんか大きいね。これらの写真なんかずいぶん撮ってきたんだけれど、みんなあれだ・・向こうの、それはなに?

Q.同じやつです。これが宿舎の中ですかね?

ああ、宿舎ね、そう。幾人か、こうずっとね、

Q.寝泊りしてたんですか? 宿舎はけっこう広いんですか?

広くはないよ。これが幾棟もあるんですよ。これ3人か4人か、こっちと両側に寝て、ひとつの宿舎に。200人くらいはいたんじゃないかな、一つの訓練所にね。
これだけのものが取れるんだから。内地じゃこんな大きなのは、なかなか取れないんじゃないかな。どうかな。

Q.難しいでしょうねえ、当時はねえ。大体、こんな広い畑がないですよね。

それはない。絶対ない。本当にね。でね、おんなし向こうに線があっても

Q.空から撮ったんですよね? 空撮で。飛行機で。

こっち。こっちの高いところから撮ったの。こっちに部屋があるでしょ。二階建ての建物がある。事務所なんかがね。その上から撮ったの。前に低い建物があって。向こうが見える。ほんとうにきれい。

Q.熊谷先生は会地(あち)村のご出身ですものね、ああいった山の中にずっと住まれていたから、こういったところに来たら驚かれたのではないですか?

それはびっくりしますよ。この平らな東京とは全然違うから。本当に山の中ですから。こういったのもね、広いんだものねえ。

Q.それでは、そのころはみんな、こっちに来た方がいいんじゃないかと思っちゃいますよね、こういうのを見るとね。

見事だね、これ。見事なアレじゃないですかねえ。大きなねえ。

Q.見事なものですよねえ。これもいっぱい取れていますよねえ。芋ですかねえ、ジャガイモですかねえ。

ジャガイモ科なんだねえ。

Q.この写真を見ると皆、嬉しそうですよね、本当に。

みんなそれは、希望に燃えて行ったんですからね。

Q.希望を叶えてくれる感じだったんですかね?

連れていかれたんじゃない、自分で進んで行ったんですからね。義勇軍というのはね。中には家の人に言われて行ったていうのもおっても、それでもみんな承知して行ったんですからね。

Q.正にこういう世界を夢見ていたわけですよね?

そうなんだよ。それで私の村からね、このときに8人行った。それでね、そのお父さんお母さんたちがね、内原の訓練所までね、送ってきたんです。家の衆が来れん方はね、親類の人が代わりに来てね、8人なら8人がね、一緒に写した写真も撮ったんだけど、それも焼けちゃってないかな、ないんだな。一番、そのときが私の会地村では多かった。

Q.ああ、会地村から義勇軍に行った数がですか?

その年では一番多かった。その年では。ある年では、一番多かった。8人。それが2人のときもあるし。あるいは3人のときもあったけど。

Q.熊谷先生ご自身も徴兵の召集がきたみたいですね?

最後に来た。20人ばかね、37、8の人間ばっかね。それも皆中学、高校出た諸君が残っとたんだな。それでその35、6人ね、ばっと来たんだよ。それでこともあろうに熊本に連れてかれたんだ。熊本へ。熊本で訓練受けたりなんかしたりしてたんだ。

どういうわけだか知らんが、兵隊検査で甲種合格は駄目だってね。私はね、こっちかな、乱視なんですよ。それで鉄砲撃つときにどっちかの目で撃つわけ。こっちの目か。ほいで、検査のときにやって。目って言うんだ。見えねえことはねえじゃねえかって怒られてね。だって怒られたって見えんもんは見えねえんだもの。なんで、こっちの目がね、こっちか?こっちだな、乱視でね。そのために軍隊は行かずにすんだ。だから運命なんてものはね、本当にわからんもの。怒られたんですよ。何言ってやがんだって。

さっき見えたじゃねえかってね。さっきは、字見えたのかもしれんね。読めたんや。だけどちゃんと調べてみりゃ、そうだってことがわかっとるもんでね。それで軍隊的には乙なんだよ。2番目なんだよ。だから乙なもんで、甲種合格で兵隊に行っとりゃどうなっとるかわからん。これもわからんだ。行って、なんかした方が良かったか、行かないでおった方が良かったか。わからん。
だから人のあれっていうのはね、こっちは乱視。だから今でもねこっちの目は割とぼけてね、もうどなたかわからんくらい。あなたがおるってことはわかってもね、そういう赤い服を着とるっちことは、襟が白いってことぐらいはわかるけどね。

熊本・・じゃない、長崎。長崎の原爆雲。昼間、12時ちょっと前だと思ったな。部屋ん中でね、勉強しとった。軍隊のこうやってこうする、こういう時こうしろとか。たらね、ピューって俺の部屋ん中へ光が飛び込んで来たの。ああっつって、皆ね。ぱあっと頭にきたのはね、あそこ阿蘇山。阿蘇山が爆ぜたっていう。阿蘇が爆ぜたってね、皆表に飛び出した。で、全然何にもない。阿蘇なんか全然何もない。どこかなあっつって。それで空見りゃ阿蘇の方ではなしに、長崎の方だ。長崎の方のやつが光が熊本まで届いたんだ。

だからそれは広島のこれは、兵隊には知らしてない。広島に原爆が落ちたってことは全然知らないんだよ。熊本におる兵隊には。だからそこで爆ぜるものは阿蘇だって。知らないんだ。ほいで向こう見たら、ブワァーってこういうやつが長崎の方ね。ちょっと見てみたらこれだけのもんで。どっかになんかが落ちたんだぞって。そりゃ広島のこと知っとりゃ、あれだって言うけども、軍隊の者の中にはそういうこと絶対に知らせない。そんなこと知らせりゃ、勇気が出んようになっちゃう。

長崎のほうからピューっと。どこで何があったんかなあって知らんわけですよ。そんなぱあっと長崎まで雲がまって、光が飛び込んでくるってそんなことは知らない。知らないから、なんだかなあって言うだけなんですよ。

Q.後になってあれは知るわけですね?

後になって、そう。その時間からいって間違いなくそうなんだよ。何にもわからないときにはね、そういうことが向こうで、広島でバアってやって、広島全部あれするっちゅうくらいな大事件だったでしょ。それ知らされてないもんで、何もそんなことは広島にそんなもんが落ちたってことは知らん。それで軍隊から辞めて、帰ってくるときに広島んとこへ着いたら、ずーっと焼け野原だった。あれって思って。これなんだって。

その時分にはそれとなくなんか伝わってね。広島に落ちたんだってことが、確か頭にあったと思うんですけどね。ブワァーっていって。

Q.じゃあ、本当に今と違って正しい情報ってのはなかなか手に入らなかったんですね?

そう。そういうのはそういうことなんだよ。もう言っちゃいかんてなったら全然駄目なんだよ。そんなこと言ったら、何されるかわからん。命が簡単ですからね、やるのは。なんかありゃ、命を落とされるってのがありゃ、そんなすぐにはせんけども皆嫌じゃないんですか。だからそういうことはもうせずに、内緒で。だから後になって、今となって、それとなくジジジっと伝わって来てね。そういうことがそれとなく皆わかっておるけども。その当時とすれば、長崎に原爆が落ちたやつが、阿蘇が爆ぜたんだって。そんな馬鹿なことはないんだよってね。

出来事の背景

【満蒙開拓青少年義勇軍 ~少年と教師 それぞれの戦争~】

出来事の背景 写真満蒙開拓青少年義勇軍は、満州(現・中国東北部)の開拓と警備を未成年者に担わせるため創設された。「王道楽土を建設し、五族協和を実現する」というスローガンを信じ、全国から8万6千人もの少年が大陸へ渡り、そのうち約2万人が命を落とした。

全国で最も多いおよそ7000人もの少年たちを義勇軍に送りだしたのは長野県だった。昭和19年(1944年)6月には長野県中部地方から217人の少年たちが満州へ渡った。満蒙開拓青少年義勇軍、第七次斉藤中隊。中隊長・斉藤義男(よしお)ら大人の幹部6人が率いていた。

少年たちは当時、14歳から16歳。彼らが暮らした山村では多くの農家が狭い耕地や小作料の重圧にあえいでいた。長野県での義勇軍の募集は主にこうした貧しい農家の次男・三男を対象に行われた。少年たちの多くは学校の教師によって義勇軍への入隊を呼びかけられた。義勇軍に入れば3年後、満州で土地を与えられ入植できることになっていた。

第七次斉藤中隊は満州北部の嫩江(のんこう)の訓練所に入り、その後、モンゴルとの国境に近い興安に移っていた。そして昭和20年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻すると少年たちは350キロ先の新京をめざし撤退を開始。15日の終戦も知らず、反日感情に満ちた現地住民との戦闘を繰り返しながら逃避行を続けた。

9月5日、少年たちはソ連軍に投降したが苦難は続いた。幼かったためシベリアでの強制労働は免れたものの、頼れる大人もいないまま興安やチチハルといった厳寒の地に放り出されたのだ。粗末な難民収容所で寒さと飢え、病気などで次々と命を落としていった。

少年たちは生き残るために現地の農家や商店で働いた。中国の軍隊に入隊し10年近く帰国できなかった者もいた。斉藤中隊の217人のうち121人が大陸で命を失った。

証言者プロフィール

1909年
長野県下伊那郡会地村(現・阿智村)に生まれる
1926年
旧制飯田中学校を卒業 教師となる
1933年
多数の教員が弾圧された2・4事件で検挙され教職を辞す
1938年
義勇軍設立以後、満州に渡り義勇軍の宣伝写真を撮る
1945年
夏、召集される
 
戦後は教師、写真家
2010年
永眠 享年101歳

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満州(興安、嫩江)

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