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タイトルタイトル: 「夫の戦死」 番組名番組名: [NHKスペシャル] 証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場
名前名前: 竹本 ひさゑさん(長野県・旧南向村(ふるさとの戦争体験) 戦地戦地: 日本(長野) 中華民国(河北省)  収録年月日収録年月日: 2011年9月3日

チャプター

[1]1 チャプター1 戦死の知らせ  03:08
[2]2 チャプター2 村葬  09:59

チャプター

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Q:お知らせは、どんなかたちで届きましたか。

親戚の衆とな、手伝いにきてもらったな。稲刈りをしとったの。

Q:10月でしたね。

Q:稲刈りを。

よわったなあ。行ったばかりだもんでな。まさか戦死しとうは思えなかった。うそだと思った。それだけど、まだ子供は小せいもんでなあ。夢中で聞いとったんだけれど。そんなによく覚えておらん。びっくりしちまって、ただびっくりしちゃ。まだお役に立たんうちだもんでな。

びっくりして、子供を連れてな。うちまで来て、上がり端で、こうやって、散々泣いたけれども。

上がり端いきてな、うちいけて、こやったけえりで、子供は、わーわーわーわー泣くしな。そいでも、そばにおる衆が、子供に、ちちぐれいから、いしょだせつったことだけ覚えておる。

ただただ、記憶は、悲しいばっかで、かわいそうでなあ。覚えておらん。うん。

Q:お写真が、出てきたと。ちょっとお写真を、お見せしていただけませんでしょうか。

長男義一さん:これが、うちの親父の、細かくな。

Q:こ、これか。はい。

義一さん:これ、うちの、そこんとこだよな。

どっか、これでらと思うけれど。

Q:あ、ここにいらっしゃるわけですね。

こやって、お葬式に。

Q:遺骨を持っていかれたんですか。

まだ、う、3つんなったか、ならんうちだったんでな。

義一さん:2つだ。

歩けんもんで。こやって、かけて、そいって、行ったの。
みんなに、お世話になってな。尽くしてもらって。みんなのおかげに、何とか、お葬式をしてもらったの。うん。

Q:ひさゑさんは、どこに写っていますか。

Q:こちら。

子を抱いとる。

Q:お子さ、お子さんを抱いてらっしゃるんですね。はあ。

子を抱いとうるな。抱き通しでおった。

みんなに、村葬、みんな(の)衆にな。お見舞いに来てもらって、ありがたいと思いました。

Q:お葬式のときにですね。随分たくさんの方が、来られたというふうに聞いてますけれども。覚えてらっしゃいますか。

村は衆は、一面、こりゃあ、こうちの衆から、関係な衆からなあ。うちの衆は、家内が少ねえもんでな。親類も少ねえし。これをみんな、おこってくれた衆。
あらゆる衆が、全部来てくれた。

Q:このとき、お葬式のとき、どんなことを考えられましたか。

まだ若かったもんでな。子供を抱いて、こんなこといくったって、みんなのほんと、前で恥ずかしいんだか、悲しいんだか、あと、どうすりゃいいんだか、そんな気持ち。あとやなに、そんなに覚えておらんけれども。今、こうして、暮らしとるのもな、みんなの、応援のたまものでな、ありがたかったわ、うん。

本当は、もうちょっと働いてくれた方がよかったんだがな。お国のためだんなら、運が悪かった。

Q:このとき、ひさゑさんは、28歳ぐらいでしたよね。

息子がな、まだ結構しゃべれなんだでな。2つ半ばか。わしゃあ、28。よく今まで、こやって、お世話になって、長生きをしてきたと思って、感謝する。みんなの、たまもので、大事にしてもらって。

Q:忠市さんが戦死されたあと、村の方が助けた?

みんなで助けてくれた。大事にしてもらって。うん。そうでなけりゃ、今こやってな、みんなの世話になっておれんけれど。みんなで応援してもらって、この、この衆がみんなで応援してくれた。うん。

Q:どんな応援がありましたか。

一人んなったもんでな、そう人ばっか頼っとれんもんで。一人で雨が降っても、お盆の15日でも、田んぼ行っちゃあ、おりゃあな、近所の衆がな、お茶に呼ばってくれたりな、みんなで、子供からな、みんなで助けてくれて、お手伝いに来てくれた。うん。ありがたいと思った。

その当時はなあ、自分の気持ちも、へえきまってきたしな。来る人にみな涙出しておったのではな、気が弱くなってしょうないもんで、頑張っちゃあおった。

人の前で、涙を流すと、また、新しい思いがしてな、また悲しくなるで。なりったけ、そういう話に呼ばれんや、来てくれてもな、へえ、さんざだった。

来てくれました。うん。みんなに助けられて、これまでになった。うん。

本当ならなあ、もっと働いといて、あ、あやってな、あ、みんなの世話になるよ、なも、悲しかったけれども、それでも、みんな気持ちでしたか、戦争が第一だったもんでね。 うーん。みんなに、それこそみんなに助けられたって、わたしのこと。

運は悪かったもんでな、自分、あの、戦死した、お父さんは、運、小さいときから、運が悪かったもんでよ。余計かわいそうだと思う。

早すぎて残念だった。運が悪いものは、どこまでいっても運が悪いんだと思って、気の毒で気の毒でしょうがなかった。

ま、運命だもんでしょうがないわな。

泣いてばっかおっちゃあ、決まっちまったことはしょうがないで。涙も、そのたんびは出なんだ。悲しさのあとおって。人の顔見りゃあ、泣いとるた。そんなわけにはいかん。自分でもっと気を大きくして働かんなら、食べてけんで。うーん。

さあ難しい問題だな。わさえ、政治のことは、今何にもね、わからんし、知らんし。ま、大臣が変わったっちゅうで、うまく、んていか、うん、で。戦争のことは、わからん。難しくって、難しくて。

まあ、あんな大きい戦争が、また再びないように、あってももっと、うまく考えて、あんなに、犠牲者が出んように、上手に政治をまかなっていただきたいと思った。

政治のことはわからん。

お国のためなで、難しい問題だけれども、あんなに犠牲者が出ん方がいいと思う。戦争がな、犠牲者が出すぎちまって、悲しい私のようなものが、片っ端だったんだもの。あんなにねえ方がいいと思う。

出来事の背景出来事の背景

【証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場】

出来事の背景 写真日中戦争、そして太平洋戦争。8年にわたり、300万人以上の日本人が命を落とした「昭和の戦争」は戦場から離れたふるさとの人々も一体となった総力戦でした。
長野県の伊那谷、旧南向村では、昭和12年の日中開戦以降、終戦までの間に946人が出征しました。村を離れる兵士たちは、村境の天竜川にかかる「坂戸橋」を渡って戦場に向かいました。「生きては帰れない」という気持ちを抱きつつ、迷いなく出て行く兵士たち。坂戸橋では、盛大な見送りが繰り返されました。南向村は、この橋を介して「昭和の戦争」とつながっていたのです。そして、2度と帰らぬ人が増えていきました。

一方、ふるさとから出征した兵士たちが送られるアジアの戦場では、多くの民間人を巻き込んで苛酷な戦闘が行われていました。中国北部の山西省。日本軍は毛沢東率いる中国共産党の軍隊「八路軍」のゲリラ戦法におびやかされていました。八路軍は多くの農民を民兵として戦闘に加え、戦力の勝る日本軍に対抗しました。これに対して、日本軍は、敵性ありと認めた場合、集落の焼却や住民の一部の殺害もやむを得ないという徹底した討伐を兵士に命じました。こうした日本軍の姿勢に、住民はさらに反感を募らせていきます。
また、太平洋戦争の終盤、フィリピン・ルソン島の戦いでも、日本軍は抗日ゲリラ部隊に苦しめられます。住民が参加し、ジャングルに潜むゲリラ。日本兵は、あらゆる場所から狙われました。フィリピンでは、日本軍の占領政策で深刻なインフレや食糧不足が起き、住民の生活が破壊されたのです。

住民の敵意に包囲された戦場。ふるさとから出征した兵士の多くは、逃げ場がない中で、絶望的な戦いを強いられ、命を落としていったのです。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1910年
長野県上伊那郡片桐村(現・中川村)生まれ
1934年
竹本忠市さんと結婚
1935年
長男・義一さん誕生
1937年
10月18日、忠市さん戦死
 
農業で生計を立てる

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