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タイトルタイトル: 「出征と母の涙」 番組名番組名: [NHKスペシャル] 証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場
名前名前: 湯澤 啓美さん(長野県・旧南向村(ふるさとの戦争体験) 戦地戦地: 日本(長野・旧南向村)  収録年月日収録年月日: 2011年10月6日、10月29日

チャプター

[1]1 チャプター1 出征兵士の見送り  07:46
[2]2 チャプター2 日の丸の寄せ書き  03:22
[3]3 チャプター3 母親の涙  05:01
[4]4 チャプター4 魚雷を受けた船団  07:00
[5]5 チャプター5 終戦、そして帰郷  10:03

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [NHKスペシャル] 証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場
収録年月日収録年月日: 2011年10月6日、10月29日

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盛大だったの。まず、学校の庭に集まっての、12年の8月15日ころかな、大動員が来てな、30人近く行ったな。5台も6台もハイヤーを呼んで、あそこで見送って。ハイヤーで行ったんだなあ。

ここでお別れをしてというふうにいったりね。マメで(無事で)行ってこいとかなんとかと言って、ここで別れをする。

Q:ここがもうお別れですか。

ここがお別れ。そっちのほうに行って旗を振ってここまで送ってくれておった。

Q:そのとき、やっぱりあれですか。かなり人数も多かったし……。

多かった。

Q:盛大だったですか。

盛大だった。在郷軍人、村長が挨拶して、在郷軍人会長って兵隊へ行ってきた衆の塊があっての、そのいっとう偉い人が挨拶をしたりして、そこで代表で出征する衆は、挨拶をして。それから自動車に乗って、学校の庭へ、両方へ並んで、旗振って、戦友の歌から、勝ってくるぞ、となんちゅう歌った、見よ東海の空あけて、なんちゅう歌があって。なんちゅう歌だったか、忘れてちゃったが。

Q:出征兵士を送る歌ですか。

ええ。歌うたって旗振って送ったもんだ。

ええ。そんな負けるなんてことは思わなんだね、その時分に。昔から、神風が吹いて、絶対負けはせんちゅうあれだったなあ。

Q:負けるとは思ってませんでした。

ええ、負けるとは思っちゃおらなんだね。

Q:なんで負けると思ってないんでしょうかね、その当時。

そんなに長く続くとは思わなんだし、負けるとも思わなんだよ。そういう教育だったもんな。いよいよとなりゃ神風が吹くとかなんとか言って。えらい、それ、負けるなんちゅうことは、思わなんだ。

Q:八幡様ではどんなことするんですか。八幡様では、どういうことをしたんですか。

別にどういうことったって、今、拝殿があるが、拝殿へいって、総代と一緒に行って参拝しての、当時は酒なかったけど、出征兵士を送る酒だって言って総代のとこへ、一升、持ってきたって。それを、御神酒にするなんていって、ついで、神様へ供えて、そこで一杯ずつ御神酒をカワラケでいただいて、それから出てきて、みんなの前へ出て、立つっていうと、総代が挨拶をする。

Q:総代は、どんなことを言うんでしょうか。

そらあ、どんなことったって、ご苦労だけど元気で行ってこいっちゅうような調子で、うん。

Q:その出ていく人たちは、どっかで挨拶をするんでしょうか。

そこで答辞をするんだ。

Q:そのときは、どんなふうなことをしゃべるんでしょうか。

それはこの上ない光栄だっちゅうわけで、国に尽くせる、こんな光栄なことはないっちゅうようなご挨拶をしての、生きて帰れるかどうだかわからんけど、家族も残っとるで、どうか後を頼むっちゅうようなことを言って行ったもんだ。 そんなもんで、それで、まあ農繁期になると勤労奉仕だと言って、兵隊に行った人の家庭、援助に行ったんだな。お手伝い。

Q:なるほど。兵隊さんに出てる人の家に、援助に。

そう。

Q:具体的にどんなときに行って、どんなお手伝いしたんですか。

まあ当時はべったり麦を作ってあったんで、麦刈りをしたり、田植えをしたりせにゃならんもんで、田植えの時期には田植えの手伝いをしたりの、

Q:じゃあ、かなり、出征兵士が出た家、兵士を出してる家っていうのは、そうやってみんなが助けたわけですか。

そうそう。わしらもまんだ学校行けなんだもんで、青年学校だったけど、青年学校でも、そういう奉仕の日があって、まずは分かれて、

当時は、養蚕が盛んで桑畑ばっかだった、この辺。そうすると、春秋、桑畑の中へ行って、この餌をほって、堆肥をいけたり、肥料をやったりせにゃならんで、そういうお手伝いなんかしたり。草かきっちゅうて草退治をする、そういう仕事もあったりして、そういう奉仕も行ったりした。学校行ったのなんて言ったって半分ばか。そういう奉仕があってな。

Q:ああ、それが日の丸ですね。

ええ。

Q:キレイですね、まだね。すごい、まぁ何か、光っているような。

アハハハ。人絹だもんで光っとるわ。

Q:やっぱり、これ人絹ですか。

昔の人絹だのう。これは部落の衆が……。

Q:ええ。反対ですね。それね。もうこっち側ですね。はい。

Q:「祈る、武運長久」。

この村、師匠様が間違いやがって、この。ね。間違いじゃねえってなったけど、これは間違いだ。

Q:これは、いつ贈られた、書いてもらったものですか。

えー、5月15日に行くっちゃわけだのう。まぁ、5月に入って、そうだなぁ5月の5日時分かなぁ。書いてもらって、へえったのう。


「尽忠報国」なんて書いてある。ここに、この人は村長をした人なもんで、「君が代はいはをとともに動かねど くだけてかへれ おきつしらなみ」って。

Q:いろんな言葉を書き込まれますよね。そうしているときに、湯澤さんのそのお気持ちと言うか、その何て言うんでしょうねぇ。もう出征間近ですよね。

ええ。

Q:そういういろんな言葉を書かれているうちに、お気持ちは、こう、どういうふうになって行きましたか。

どういう……。まぁ、一生懸命やってこにゃあいかんなぁと。行って来るっちゅう気持ちじゃなかったな。一所懸命、やらにゃあイカンわと。行って来るっちゅう、帰って来るっちゅうつもりはない。それは、わしが行く時分には、負け戦さでそんなものは。そりゃあ、何て言っても、これは、生きては帰れんと。

Q:生きては帰れない。

生きては帰れんと思ったのう。

Q:今度は、湯澤さんが昭和19年に出ていかれましたですよね。

ええ。

Q:そのころの見送りは、どういう感じでやったんですか。

やっぱり、八幡様へ行って御神酒をいただいて、それから下の道をまっすぐ。送ってくれたよ。

Q:坂戸橋まで。

坂戸橋まで。それで、近親の人は本郷まで足で送ってってくれた。その時分にお粗末なもので、ハイヤーどこじゃない。足で行った。ハイヤーどこじゃない。

送る人は同じだったかもしれんけども、慣れちまったっていうか。
まあ、しょうがないから送るっちゅうくらいなもんだったよな。おらが行く時分には。慣
れちまったのです。

しょうがねえで、そのくれえのもんだ。俺だって、行く我々は死ぬ気で行ったんだでな。本当。

Q:そうですよね。もう戦争もかなり……。

帰ってこれんつもりで出てったもんだ。

Q:そのとき、お母さん、何か言われましたか。

そんな言葉交わすなんてもんじゃない、みんな来て、ここでいっぱい飲んで送って来たけど、泣いて送ってくれたこと、覚えとる。ほんと、生き別れっちゃいかん、まあ、マメ(無事)に帰ってくるなんてことは思わなんだよ。

Q:湯澤さんがですか。

ええ。

Q:そのときのお母さんの気持ちは、どういう気持ちだったんでしょうか。

みんな、元気よく送ってくれたけども、なんで、悲しいんだか、ちゅうくらいの気持ちだったな。まあ、泣いとったけど。

Q:そのときに、お母さんが泣いていらっしゃるのは、かなり声を出して泣くような感じだったのですか。

声は出されんし、涙をぽろぽろこぼしておった。

あまり泣いて送られては困ると思って。自分でも涙も出なんだし、なんて言ったらいいかな。人目もあるしな。

人目と言ったって、それで泣いて出てって、女々しいとかなんて言われるのは・・・、元気よく出ていったというように言われたいと、そういう思いがあっての。

うん。それは最初はご苦労さまと言ったけれども、おしまいには動員が来たっておめでとうと言っちゃえと。

Q:当時の村の中がですね。

そう。

Q:おめでとうと言うのですか。

おめでとうと言って送ったの。そういうご挨拶。出征するっておめでとうと言って。そう言って言えというのだものね。そう言った人は何とも、おめでたくもないような気がしたけれども。

Q:ですよね。だけど皆さんはそういうふうに言うようになったと。

そういうように言えって、そういう教育だった。

Q:だけどそういうふうに考えることを、いま思えばどう思われますか。

わからん。なんと滑稽と言ったらいいか、なんだかばからしいような気がするけれども、当時はそれが結構通用しておったもので。自分の思ったことをはっき
り言えなんだ当時はの。

それとまあ、いちばんかわいそうだったのが、満州(現・中国東北部)の兵隊を沖縄へ送るっていって、プサン(釜山)の港へ満州の兵隊が鉄砲持ってきて、三角テントで泊まっとったけど、ずっと船が来なんで、いいあんばいに船が来て乗って、わしらあれだな、いよいよ沖縄がいくらかかすんで見えるあたりで、ここで良いっていって、そのときに、商船がこういうふうに並んでいくんだけど。ここは50メーター、こっちも50メーターで、こっちへ、おらの船ともうひとり、同様の船がこういうふうに並んで行くんや。こっからここまで1,000メートル、この間が500メートル、この間も500メートル、こういう船隊組んで行ってんだけど、こっちの方からやられて、おらと同じ船は魚雷でやられてな。ほらきたって言っとったら、隣の船がやられて、ついにこれもやられて、おらの艦長は、どうせその辺うろうろしたって、勝てるわけねえで、無駄な(に)命を捨てることはないで、180度回頭ってこうしてこっちへ向いて、逃げて帰ってきたときがあった。

Q:艦長がですか。

ああ、艦長が。むだな命を捨てることはねえって。悲壮なもんだ。 そりゃ、第1回ぐらいだったの。魚雷がどんどん来るんだね、それをよけて、帰ってきた。そしたら3日ばっか経って、救助に向かえっていう命令が出て。そこへ行ったけど、そのときには何もおらなんだよ。うろうろしとって帰ってきたら、何も、浮いてもおらなんだし、まあしゃあないわってまた行って帰ってきたけど。そういうときあったわのう。

Q:もう沖縄が見えるぐらいのところですか。

そう。

Q:そこまでプサン(釜山)から人を運んでずっと来て、その直前で全部魚雷にやられたわけですか。

そう。やられたんです。

Q:でもその艦長、よくそういう判断ができましたね。

うん、これは、さんざん商船の船長をやっとって召集で来た。ちょっと、おらは、20歳ぐらい、21だった。その人は42~43で、よろよろするような感じだった、そういう判断で、帰れっていうわけで。そしたら、若いその将校は、艦長のばかやろうだっつって、怒ったりしたけど、そんなのは……。

Q:そういう考えですよね。そうやって敵に背中を見せて逃げるようなことは、とんでもないという

とんでもないっていうことで若い将校は怒った。それが、おまえら無駄な(に)命を捨てることはないって言って、おら、その艦長のそばにおったもんでな、そういうこと覚えてる。

Q:この船でですよね、

そう、この船で。

Q:その、こっち側の船が片っ端からやられとるのを、こっち側から、湯澤さんは見とったわけですけれども、そのときのお気持ち、考えられたことは、どんなことが頭に。

ああ。今度はおらの船かなぁと思って。これで終わりだと思った。思うぐらいのもんだ。今度は、おらの船で。そうしたら艦長が、無駄に命を捨てることはないって言って、操舵(だ)室に入って、180度回頭って言って、ハンドルを切らせて、ずーっと逃げるように。逃げて来たっていうのが、まず、それも割に速い船なもんで全速力だったけども、本当、煙突が真っ赤になるほど、はっきり。煙は出んけど、あれ煙は出んように重油をたいとったんだか何だか。そのことをおらは知らんけれども。そう。昔の船は、煙を立って行ったけど、その当時の船は煙が出なんだな、この船は。だけど、煙突が真っ赤になるほど。うーん。

Q:その「180度回頭」って言って「無駄に命を捨てるな」っていうふうに艦長が言ったときに、湯澤さんは、その声を聞いたとき、どう思いましたか。

そこにおったんだな、おらは。

Q:おって、それを聞いて、艦長がそう言ったときに、湯澤さんは、どう思いましたか。

どうも、何っちゅうもんじゃぁねぇ、そんな。考える隙なんかありゃしないやね。そりゃあ、やられたら、これは今度はおらの番だぞというぐらいな気持ちだったなぁ。まぁ、これで、おしまいだぁって。後で考えたらね。とっさの場合なもんで、何かを考える隙なんかない。

そんなのべったり負け戦で、船が半分壊れたような船で、沈みかかったような船ばっかり。ラシン(羅津)(現・北朝鮮)とセイシン(清津)のあいだにユーシン(楡津)というところがあって、そこの港に、満州から大豆を集めてきて、山に、野積みに積んであった。

そいつを上のほうからガサーンとこういう、船へ積み込むものがあって、船へ積んじゃあ来て。それを、おらは護衛と言って、船を守って、商船を守ってくるの役目をしておったんだ。

豆を積みにいったときの、あれの奇跡って言ったらいいか。それも運が良くて、その空っぽの船を送って行って、そこで待っとって、マメを積むのを待っとっての、それからそれを護衛して来たんだけれども、途中まで送って行ったら、またそっちの港へ帰って来いっていう、そういう電報が入っとったんだけど、電信兵が居眠りをしとってそれを受けなんでのう。こっちまで送って来ちゃったんだ。そして、こっちへ七尾(石川県)へ着いたときには終戦だ。それで、それを送って、途中まで送ってって、その電報に気付いて向こうへ行きゃあ、向こうのユーシン(楡津)っていうところへ着いたときには、終戦になったもんで、ソ連軍が来て引っ張られて行ったのがおるわ。けれども、その電信兵は怒られたけれども、後じゃあ、彼のお蔭だったなぁっていうわけだ。

居眠りをしておって受けなんだもんで、こっちまで来ちゃったで。こっちまで来ちゃった途端に終戦だったっていう。あのときは奇跡だったなぁ。奇跡って言うか。まぁ、あれで言うことを聞いて、向こうへ行ってたらロシアへ引っ張られて行っとった。うん。

ええ。それで残れる人は、まだ掃海って言って、機雷の始末をせにゃならんもんで、残れる人は残ったけど、おらは長男だで先に帰るぞって言って帰って来たけれども。

何も食わずにのう。飲まないし。帰って来た。新宿へ降りて見たら、ただ、浅草の観音様の五重塔が見えとったきりで、みんな焼け野原で。ベッタリで、線香臭くて、線香をたいて、悲しがって手を合わせとる人もおった。そこで、一晩泊まって、それから帰って来たけれども。

それで、東京を回って辰野に下りたときに、まだ日が高かったけどの、あそこに箕輪屋(みのわや)という旅館があって、そこで休ませてもらって、日が暮れてから帰らにゃみっともないと思った。それで、日が暮れてから電車に乗って、夜中に帰ってきた、うちへは。

Q:そうですか。

そんな昼間やね、負けて帰って来るような、昼間は帰ってくれば恥ずかしいという気持ちだったな。日が暮れて、暮れるのを待っていて帰ってきた。

Q:そうですか。

うん。うちへは12時過ぎだったな。足で帰ってきたのは。

Q:こっそり帰ってきたみたいな感じだったというわけですね。

ああ。いまの衆からみれば、ばからしいようなもんだけれども、当時は、恥ずかしいという気持ちだったなあ、本当。それで、昼間は帰っちゃいけんわ。負けたんだもの。みんなそこへ集まっておって、日の暮れるのを待っておって、陸軍の兵隊もあそこで待っておったなあ。

Q:辰野のそこの旅館ですか。

箕輪屋という旅館に。

Q:結局、生きて帰ってきた人は、みんな恥ずかしいと思って、そこで日が暮れるのを待っておったわけですか。

そうそう、そうそう。日の暮れるのを待っておって。ほれ、暗くなったで、帰ってもいいやというわけで帰った。昼間なんて帰ってこれん、恥ずかしくて。 それはいま考えればばからしいようなもんだけど、そんな気持ちだったな。わかってもなんか帰ちゃこれない。

Q:夜遅く帰ってきたというのは、何故、そういう感じになったのですか。

何故って言ったって、勝ってくるというわけで出ていったのに、そんな、負けて帰ってくるのはお前、昔から負けたことはないのに負けて帰ってくると。それはの、なんとも言えん、すまんような気がして。まあ、一晩泊まって、明くる朝、役場と学校へは挨拶に行ってこなければならない。そこらへ出ていくな、みっともないでと、うちの衆が。

Q:言われたのですか。

うん。

Q:みっともない?

みっともない。

Q:それは何故ですか。

それは負けて帰ってきたんだから。勝ってくるつもりで行ったやつが、負けて帰ってきたもんで。

負けて生きて帰ってきた。みっともないというの。親たちが、そういう教育を受けていたんだな。それこそ、みんな、一億一心という言葉かあって、そういう気持ちだよ。うちにおる者も行った者も同じ気持ちにならにゃいかんというのやったんやの。そういう教育だったのです。それは……。

Q:だからそういう……。

今のようなそんな気持ちは親には、みんな、ちょっと言い損なっての(たら)、みんなに注意せられるような時代であったでの。

Q:ちょっと、昭和20年の秋に、橋を渡って帰ってこられたときのお気持ちは、ちょっとこう複雑だったのですね。

ええ。そういう嬉しいなんていうそんな気持ちじゃねぇ。ここで別れたら最後と思って行ったんだものな。帰って来るつもりはなかったな。本当に。

出来事の背景出来事の背景

【証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場】

出来事の背景 写真日中戦争、そして太平洋戦争。8年にわたり、300万人以上の日本人が命を落とした「昭和の戦争」は戦場から離れたふるさとの人々も一体となった総力戦でした。
長野県の伊那谷、旧南向村では、昭和12年の日中開戦以降、終戦までの間に946人が出征しました。村を離れる兵士たちは、村境の天竜川にかかる「坂戸橋」を渡って戦場に向かいました。「生きては帰れない」という気持ちを抱きつつ、迷いなく出て行く兵士たち。坂戸橋では、盛大な見送りが繰り返されました。南向村は、この橋を介して「昭和の戦争」とつながっていたのです。そして、2度と帰らぬ人が増えていきました。

一方、ふるさとから出征した兵士たちが送られるアジアの戦場では、多くの民間人を巻き込んで苛酷な戦闘が行われていました。中国北部の山西省。日本軍は毛沢東率いる中国共産党の軍隊「八路軍」のゲリラ戦法におびやかされていました。八路軍は多くの農民を民兵として戦闘に加え、戦力の勝る日本軍に対抗しました。これに対して、日本軍は、敵性ありと認めた場合、集落の焼却や住民の一部の殺害もやむを得ないという徹底した討伐を兵士に命じました。こうした日本軍の姿勢に、住民はさらに反感を募らせていきます。
また、太平洋戦争の終盤、フィリピン・ルソン島の戦いでも、日本軍は抗日ゲリラ部隊に苦しめられます。住民が参加し、ジャングルに潜むゲリラ。日本兵は、あらゆる場所から狙われました。フィリピンでは、日本軍の占領政策で深刻なインフレや食糧不足が起き、住民の生活が破壊されたのです。

住民の敵意に包囲された戦場。ふるさとから出征した兵士の多くは、逃げ場がない中で、絶望的な戦いを強いられ、命を落としていったのです。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
長野県上伊那郡南向村(現・中川村)に生まれる
1944年
現役兵として神奈川県の武山海兵団に入団。
1945年
海防艦「神津」に乗り組む。
 
能登半島沖で終戦を迎える
 
戦後、農業を営む

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