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タイトルタイトル: 「戦死の電報」 番組名番組名: [NHKスペシャル] 証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場
名前名前: 下平 ちさとさん(長野県・旧南向村(ふるさとの戦争体験) 戦地戦地: 日本(長野) トラック諸島  収録年月日収録年月日: 2011年10月2日

チャプター

[1]1 チャプター1 兵士を見送る坂戸橋  02:54
[2]2 チャプター2 夫・下平米男さんの出征  08:33
[3]3 チャプター3 戦死の電報  03:57
[4]4 チャプター4 桐の小箱  06:08
[5]5 チャプター5 95歳を過ぎても  05:35
[6]6 チャプター6 心で泣いていても  03:12

チャプター

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Q:どういう感じで送ったんですか?

それはね、何しろ、日本はね負けたことはないもんでね、勝つもんだと思ってばかりおるもんで、みんなエラい勢いでで送り出したね。ええ、ええ。もう、どんどん、どんどん。それこそ、日本は、行きゃあ、とにかく何だ、神様が守っとってくれるもんで、大丈夫だ大丈夫だに、日本は勝つ。日本が負けるわけはねぇ。日本は勝つに決まっとると。そういう気持ちで行きましたですしね。現役時分はそうだったんですよ。どこの地区でもね。どこの村でも、みんなそうだったんだよ。ええ、そんな負けるわけがねぇってね、神国日本でね、そんな負けるわけがねぇよって、そういう勢いだったね。

Q:送り出し方というのは、どういうふうにして送ってたんですか? 現役のときは。

現役のときはね、一応、八幡様へお参りをして、全員が八幡様へ、送る衆もね、八幡様へ行ってお参りをして、それからゾロゾロ、ゾロゾロ、ゾロゾロ、ゾロゾロと坂戸橋まで送って行ったんだよ。

Q:坂戸橋では、どういうふうにしてお別れをするわけですか?

坂戸橋ではね、ただ、行く衆はどんどん行っちまう。こっち向いて、ただ、こうやってして行っただけです。タッタ、タッタと。先に行く人は、たまに後ろを振り向いてこう。こっちの衆はしょうがないもんでこうやってして、こうやって手を振って、行け、行け、行け、行けって。行ってこい、行ってこいって、手を振るだけだったんですよ。

Q:ご主人が挨拶でどんなことをしゃべったか、何か覚えていらっしゃいますかか。

それは覚えとらんなぁ。覚えとらん。ああ、そう、みんなに頼んで行ったわ。おばあと、おばあ様2人とちさとと、子どもがおったもんで。この子どもたちの名前を呼んで、言って、それで、おれだけ残して行くんで、あとを頼みますって言って、行ったもの。それだけハッキリ言ってといて行った。それだけ覚えとる。

Q:それで、トット、トット、トットと行ってしまったときに、ちさとさんのお気持ちはどうでしたか?

そんなもんで、子どもがおるもんで、子どもは、ひとねじゃそうがない、立派に育てるぞよ。この子たちはなぁ、人に負けるような者は作らんぞって言って。そういう勢いな。人に負けるような者は作らんぞ、育てんぞっていう。それで、人に負けるような者は作らんぞ、育てんぞよって言って言ってやったんだ。うん、うん。みんな、人より勝つように、人より勝つようにって。人より勝つようにって。みんなそういう勢いでしたよ。そのころはね、みんな、どこへ行ってもそうだったのね。そんな日本が負けるなんてことはね思っとらんもんで。とにかく神国日本だからね。神風が吹いとるで、きっと勝つに決まっとる。勝ち戦に決まっとるってな。そういう勢いで行きました。それで、どこへ行っても、どこの村へ行っても、みんなそうでした。

Q:旗を持って振るわけですよね。

ええ。坂戸橋まで送って行ったの。ええ。それで、そこでお別れだったね。

Q:そのときに、負けない子どもに育てるぞっていうことは、直接、ちさとさんが米男さんに聞こえるように言ったわけですか、言われたんですか?

そうですよ。聞こえるように言ったんですよ。聞こえるように言わにゃあ、ダメじゃんかね。ねえ。うん。みんながそういうふうに、もう、前から、前からね。だんだん行くもんで、行くもんで、そういうふうに、家におる衆も、そういう、ね、言葉を習わされとったんですよ。うん。そこへ行って困らんように。言うことは言う。言うことは言う、やることはやるっていうように。みんな習わされとったもんでね。みんな、あれなんだに。そんなもんで、そのころなんかどこへ行ったってね、日本の国中、そういうことだったの。

Q:そのとき、ちさとさんがそうやって、負けない子どもに育てるぞというふうにおっしゃったときに、米男さんは何か言いましたか? それとも、どんな顔をされましたか?

「頼むぞぉ!」って言ったんだ。「あとは、頼むぞぉ!」って言っといて行ったんだなぁ。

Q:どういう気持ちになるわけですか?

もう、帰れないかも知れないっていう、帰れないかも。兵隊に行く以上ね、それこそ船に乗って行くっていう。今度は、船に乗って行くんだっていう、そういうことをね、知らされとるんだもんでね。そんなもんで、とにかく帰っては来れないかなぁ。もしかすりゃあ、ヘェー、帰って来てないかなぁ。もしかすりゃあ、生きて帰るかなぁ。もしかすりゃあ、ダメになるかなぁっていう、そういう疑問だね。疑問心でおったわけだ。

Q:本当は自分のご主人が、今回、生きて帰って来ないかも知れないという不安な気持ちでいらっしゃったと、その当時。だけれども、そういうことを口に、当時は、出さなかったわけですよね。

ええ、ええ。そんなことはもう言わなかった。私は言わなかったね。そりゃあ、言った衆はいくらでもおるけれどもね。でも、もう言った衆はね、寄ると触ると、そう言って、みんな言っとったけど、もう私は、戦争に行った衆の話は、絶対、私は、もう思わない。行った人は行った人。家を守る人は家を守る人。とにかく、自分のやることをやっとらにゃあダメだと思ったね。私は、そういう、何て言うかね、脳ミソになってるの。そういう脳ミソになっちまったの。

Q:当時、そういうふうな脳ミソになるとか、そういうふうな考え方に、ちさとさんがなったというのは、どういうふうな状況だったから、そういうふうに考えるようになってたんでしょうか?

そりゃあ、日本は軍国主義でね。とにかく国が狭いから、広い所を欲しいっていうのが、日本の国のあれだったからね。そんなもんで、そんな危ない所をね、ことを、目がけているんだからっていう気持ちだったね。うん。とにかく日本は国が狭いから、どこか広い所を、広い所の領地が欲しいなぁっていうのは、日本の何て言うか、島国、まぁ言ったら島国根性って言うか何て言うかね。そんなことを考えていたからでしょう、と思いますね。

頭の中がそのころは軍国主義でね、頭の中が、みんなそんな気持ちで、パーっとしとったんじゃないんですかねぇ。今、考えるとね。今、考えるとですよ。そのころはそんなことはなかったんで。もっとしっかりしてたでしょうけれどもね。今、考えるとね、あのときはパーっとしとったんだなぁ。みんな頭の中パーっと、軍国主義で頭の中が、みんなそれにとらわれて、そうだったんだなぁ。そうでなけりゃあ、あんな威勢で、どんどん、みんな送り出せるわけがないなぁと今は思いますね。

電報でね、亡くなったっていう電報が来たんですよ。そういうもんで、その電報をみんなに知らせたほうがいいのか、知らせないで、私1人持っておったほうがいいのか、みんな、一生懸命、家の普請、壊れかかった家なもんで普請をしておってくれるで、この不吉な知らせをみんなに知らせたほうがいいのか、私が1人で握っておったほうがいいのかなって、散々自分で私も考えてね。それで、もう1人でそんなことを握っとってみたってね、何もならないしね。とにかく、みんなにこういう電報が入ったって言ったら、まぁ、みんな、ワイワイワイワイ泣いて泣いて、みんな泣いてね。家の衆から、その普請している衆から近所の衆から、みんな集まって普請しとるもんで、見に来たりしとった衆まで、ワイワイワイワイ、メロメロメロメロ、みんなで泣いてくれました。

Q:それで、そのとき、ちょうど家の普請、修理をしていらっしゃって、たくさん人がいらっしゃったんですね。

ええ、そうなんです。それで、みんな、近所の人も来とってくれたしね。なので、みんなでワイワイ、ワイワイ、もう本当ね、そんな普請どころじゃない。みんな、ワイワイ。あっちでも泣きこっちでも泣き、みんなが泣いてくれましたね。何ていうことよ、何ていうことよ、それでも、何ていうことよって言ってね、本当。

人のことどころじゃあない、私は、自分のことだけしか考えられなかったね。そんな、人が何だって言って、何だって泣いとる。それ他人事じゃないんですよ、こんな。人が何て泣こうがね、自分だけがやっと泣きこらえて、泣きこらえて泣きこらえて。泣いとっちゃじゃあ、ダメじゃねぇかって言って、みんなに言ったぐらいなんだに。うん。みんな、泣いとっちゃダメじゃねぇか、こんなやりかけの家だし。死んだらお葬式もせにゃならんし、いかんし。方々に知らせにゃあならんしね。そんなものは、泣いとって何なるって、私、言ったの、みんなに。みんなは、そんなものは、泣いてるどころじゃあない。励ましてね、やってもらったんですよ。ええ。私なんか、本当、そういうわけで、とにかく何て言うか、かんて言うか。まぁ、何て言うか。まぁ、それだけの話です。とにかくね、泣いとっちゃあしょうがねえ。泣いとっちゃあしょうがねえ。泣いとって、何なるって言って、私、みんなを励ましてやったの。

お骨はね、このぐらいの小さい箱へね。桐の小箱へね、このぐらいの箱へね。貝殻だったかな。貝殻か。ああ、ありゃあ・・ああ、そうそう、あのね、サンゴのかけらだな。あれはサンゴ。サンゴのかけらのようなのがね、2つばかりほど入っておったか。ここから先ぐらいの。

Q:小さな桐の箱に。

ええ。あれはサンゴのかけらね。海のサンゴ礁のサンゴの、こんなようなかけらがよくあるでしょう。ああいうのがね、2つばかり、コロンコロンと入ってたよ。そんなもんで。それで、ここから出たおばあ様が、これが、米男かぁ~って言ってボロボロ、ボロボロ、ボロボロ、ボロボロ涙を出して、涙を出して、これが、米男かぁって言って泣いてくれましたね。

Q:その箱の中身を見てですか?

ええ。箱の中身を見て。これが、米男。いやぁ、ほじくってみりゃあ、ある。それが入っとるぞ。ほじくってみりゃあ、それが入っとるぞ。お墓に埋めてあるんだけれどもね。そんなもんだったね。みんな、そういうものをもらって帰って来ましたんだに。それが、もう私たちは、松本へそれをもらいに行ったんだけれどもね、ずーっと、富士山の高さぐらいに、その箱が。

Q:箱がそんなに積み上げられているんですか?

そう。松本へね、その・・

Q:受け取りに行ったとき。

お骨を取りに、呼んでくれて行ったときにね。それこそ、そんなちょっとした箱、このぐらいの、こんなちょっとした箱が、富士山の高さぐらいにずーっと積んでありましたよ。それを、一個ずつ一個ずつ箱へ入れちゃあ、箱へ入れちゃあって。箱へ入れちゃあって。箱へ入れちゃ首かけて。とにかく、みんなそうやって、銘々銘々、もらって来たの。

Q:そのとき、ちさとさんはその中身は見たんですか?

ええ。見ましたね。第一に見ましたよ。

Q:そのときは、どういうお気持ちでした?

私は、いつも覚悟が決まっとるもんでね。そんなもんで、骨になったのか、それこそ、そうずらいなぁ、あんな南方へ行って砂の中で散々暮らした。砂の中で暮らしたか、どこで暮らして、どうやってどうしたか知らんけども、亡くなったんだで、こんなもので帰って来たって、本当に・・それでも一応はね、一応はその後何て言うか、きまりを言う・・国でも村でも、一応は何て言うか区切りをつけんならんもんでね。死んじゃあしようがない、死んじゃあしょうがねぇって言っとったっても、一応、区切りつけておかんとね、後のために良くないでね。何がなんだか、それこそわけがわからんようになっちゃうもんで。そんなもんで、これは、これが、だから、もうみんなその気になっちゃうの。みんな、これが魂が、これに入っているんだ。これが、魂がこれに入って帰って来たんだぞって、帰って来たんだって。きっと、本人もそれになっとるだろうっていう、こっちに言い聞かせちゃうの。みんな、自分の気持ちだよ。みんな自分の気持ちだ。

Q:他に、例えば、遺髪とか他に戻って来たものはありませんでしたか?

それはね、奉公袋にもあったでしょう。どこかそこらに。それは、もう連隊に入るときにねうちへ返して寄こすの。頭の毛とね、爪だか何だかが入った、その奉公袋をね。いろいろ履歴書だか何だかも書いてあるでしょう。それを、それは連隊へ入るときにね、それをうちへ渡してくれるの。もう連隊に入ってからは何になっても仕方ないぞよっていう、そのつもりの奉公袋です。はい。だから残酷なもんですねぇ。それでも、日本は残酷だなぁと、今、私は思います。

Q:「今は」ですか。

うん。今はそう、残酷なことだったなぁと思いますね。

私たちは、それで、そのとき亡くなった、そのときでなくても亡くなった方々がね、未亡人会っていうものを作ってね。それでお墓参りをしたり、月1回ずつ集まって、みんなで励まし合って。泣いとったじゃあ、ダメだし、日本の国は泣いとったじゃ、ダメなんだで、みんな一生懸命やりましょうって言ってね、そういう申し合わせをしましてね。それで、みんなで、もう泣かない!、もう泣かない!っていう申し合わせをしましたの。それで、私らは、みんな、励まし合いの会にしましょうよと言ってね、励まし合いの会にして、それでみんなで集まる度に、自分で、内職を何をしたとかね。草履を作ったとかね。そういうような、いくらかでも手仕事でできることでお金になることがあればね、それはそういうことを飛びついて、みんな教え合ってね、そういう会にしましょうよって言って、そういう会を作りました。
そんなもんで、私らたちはね、みんな、月に1回ずつ行き合ってはね、お寺の和尚さんも、よう会っていろいろお話を聞いたりね。村の厚生課の方々に来てもらってね、いろいろお話を聞いたりね。何かいい仕事があれば回していただくようにしたりしてね。そうやってして、みんなで、それこそ、本当、みんなで励まし合ってね。そんなもんで、みんな、そうしたらね、みんなが、何となく生き生きしてきましたね。

Q:あれが、ご主人ですね。あそこの。

ええ。それは、そのあれだな、米男なんだよ。

Q:ヨネさんのことを。

考えないときは、ありませんよ。常に考えてますなぁ。

Q:常に考えていらっしゃる?

ええ、ええ。常に、常に考えておりますよ。ああ、小さい坊やのときからいっしょだったなぁと思って。お友だちでしたからね。

私は米男と、それこそ、仲良しで遊んで、遊び回ったんです。竹やぶへ行ったりね。それこそ、川へ、川原へ行って、天竜川のね、浅いところへ行って遊んだりね。

Q:優しかったですか?

一人息子で、甘やかされて育ったもんでね、もう何て言っても人が良くてね。お人好しでね、誰にも喜ばれてね、かわいい坊やでね。それこそ、大人になってもかわいい坊やでね。かわいく育っとったもんでね。自分でも、そんな、何て言うかね。うーん、何て言うか、子ども心の強い、子ども心の強い人だったもんでね。何て言うか、まぁ。何て言うか、まぁ。大人げのないようなことばかり言っとるなぁと思っちゅ。

Q:このお写真とか見られたら、どういうことを考えられますか? この写真を見たら、どんなことを考えますか?

ああ、戦争にノコギリを持って行ったんで、どこかで、金づちを使って何かやっとるかなぁと。もうそれでも、90、私が95歳過ぎとるんだから、そんなには生きとらんかいなぁと思うぐらいですね。そんなには長生きはしとらんかも知れないけど、もしかすりゃあ生きとるかも知らんなぁ。

うーん、今でもね、どこかでね、土の中へ埋まって首だけ出して、それこそ、生きているかなぁと思うときもありますし、そんなに長生きは、家におったって、私ら長生きしとるって言ったって、どうかなぁと疑問に思いますね。

Q:自分の口を止めて来たというか、自分の胸にある、考えていることとか、いろんな想いは、外に出さないようにしよう、出さないにしようっていうふうに考えて来られたんですか?

そうですよ。そりゃあそうですよ。もう、結婚するときから、それを考えてたんだからね。結婚するときから、もうそれは考えてましたね。はい。自分の考えことをしちゃダメだ。国策に沿って行かにゃあイカンのだに、自分の考えなんか通して何になる、と私は言ったんです。自分の考えばかり通して何になるっていうのが、私の口ぐせだったんです。

Q:そうやって、国策のために自分を抑えて来たわけですね。

まぁ、そういうことですね。まぁ、そういうこと。

そりゃあね、考えてなかったっていうことは、軍国主義を植え付けられておったんですよ。ね。これだっていうね、こういうふうにっていうように。だから、そういうふうに、みんな、兵隊に行こうが戦死しようが、みんなお国のためだっていうもんで、喜んで提灯(ちょうちん)行列をした。喜んでね。そういうことで。そういうことなんだ。心で泣いても、それこそ上っ面だけでもエエで、喜んで送り出せ、喜んで暮らせって。そういう国の方策だったんだね。そういう軍国主義だったんだよね、全部。

それは心ではね、エラい時期に、エラい時期に、てんでに生まれたなぁ。上手い時期にてんでに生まれたなぁ。もっといい時代に生まれたほうが良かったかなぁ、なんとは、そういうことは考えてはみたけどね。みたって、現にそうじゃないんだもんで。その時期は、その時期で、時代なんだもんでね。

出来事の背景出来事の背景

【証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場】

出来事の背景 写真日中戦争、そして太平洋戦争。8年にわたり、300万人以上の日本人が命を落とした「昭和の戦争」は戦場から離れたふるさとの人々も一体となった総力戦でした。
長野県の伊那谷、旧南向村では、昭和12年の日中開戦以降、終戦までの間に946人が出征しました。村を離れる兵士たちは、村境の天竜川にかかる「坂戸橋」を渡って戦場に向かいました。「生きては帰れない」という気持ちを抱きつつ、迷いなく出て行く兵士たち。坂戸橋では、盛大な見送りが繰り返されました。南向村は、この橋を介して「昭和の戦争」とつながっていたのです。そして、2度と帰らぬ人が増えていきました。

一方、ふるさとから出征した兵士たちが送られるアジアの戦場では、多くの民間人を巻き込んで苛酷な戦闘が行われていました。中国北部の山西省。日本軍は毛沢東率いる中国共産党の軍隊「八路軍」のゲリラ戦法におびやかされていました。八路軍は多くの農民を民兵として戦闘に加え、戦力の勝る日本軍に対抗しました。これに対して、日本軍は、敵性ありと認めた場合、集落の焼却や住民の一部の殺害もやむを得ないという徹底した討伐を兵士に命じました。こうした日本軍の姿勢に、住民はさらに反感を募らせていきます。
また、太平洋戦争の終盤、フィリピン・ルソン島の戦いでも、日本軍は抗日ゲリラ部隊に苦しめられます。住民が参加し、ジャングルに潜むゲリラ。日本兵は、あらゆる場所から狙われました。フィリピンでは、日本軍の占領政策で深刻なインフレや食糧不足が起き、住民の生活が破壊されたのです。

住民の敵意に包囲された戦場。ふるさとから出征した兵士の多くは、逃げ場がない中で、絶望的な戦いを強いられ、命を落としていったのです。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1915年
長野県上伊那郡南向村(現・中川村)に生まれる。
1932年
東京に奉公に出る
1940年
幼なじみの下平米男さんと結婚
1941年
8月、長女誕生
1944年
1月、次女誕生
 
2月17日、夫・米男さん戦死
 
戦後は農業をしながら子どもを育てる

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