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タイトルタイトル: 「“一億一心”の時代」 番組名番組名: [NHKスペシャル] 証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場
名前名前: 井澤 章さん(長野県・旧南向村(ふるさとの戦争体験) 戦地戦地: 日本(長野) 日本(鹿児島)  収録年月日収録年月日: 2011年10月29日

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[1]1 チャプター1 日の丸の寄せ書き  07:40
[2]2 チャプター2 「一億一心」の時代  03:44

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19年の5月な。そんなもんで、1年とちょっとおっただけだわ。

Q:出ていくときには、村を出て向こうにいくときには、やっぱり皆さんに見送りを受けたのですね。

ああ。受けた。

Q:どんな感じでしたか? 覚えていらっしゃいますか?

そこにお宮があるけどね。

Q:八幡様?

そう。そこへみんな来てくれて、それから送ってくれたんだ。

Q:そのとき、章さんは何かご挨拶されましたか?

いや。わしと、ちょうど3人一緒に行って、わしより上の人がおったもんで、その人が挨拶をしてくれた。

Q:3人で行かれたのですか?

そう。懐かしいなあ、これは。

Q:これをもらったときのことは覚えていますか? もらったというか、これを書いてもらって。

いや、これは俺が持っていっちゃ書いてもらったんだに。

Q:自分で。

うん、そう。これを見ると俺は・・ほとんど死んじまっとるな、これを書いてくれたのが。

Q:これは大体自分で持って回るものだったのですか?

そうだね。

Q:なんか順番があるものですか? 例えば、これを最初に書いてもらうとか、なんかこう、どういう感じですか、これは。

いやあ、丁度、私は青年学校に行っておったものでね、校長に一番先書いてもらって、あとはあれや。

Q:いろいろなことが書かれていますね、いろいろな言葉がね。

そう、まあ。いま生きている人はエライおらんなあ、ここのうちに。みんな死んでしまっている。

Q:いろいろな言葉が書かれていますけれども、いま、ここに書かれている言葉を見てみると、どんなことを思われますか?

あの当時じゃ、こういうことは当たり前の言葉だったけれど、いま、あれだね、若い衆エライあれじゃない、この「身命を惜しまず」とか、そういう言葉は今の若い衆はわからんが。見ても。

あれだね。この日の丸と、あの当時は千人針ね。千人針にあの当時なことだもんで、5銭と10銭、これをこう縫い付けてあったんだけれどもね。いまの衆に見せても、これは何でここへお金をしてあるんだと。これはみんなに言ってもわからんけれども、この5銭というのは、死線(4銭)を越えて、10銭は、苦戦(9銭)を越えて、そういうあれがあるんだということを、俺は言ったことがあるけれどもね。そういうことです。

Q:いま見るとどう思われますか? ここに書かれているような言葉は。

当時はこれは当たり前の言葉だったけれども、あれだね、ちょっといまの衆にはわからん。意味がわからん言葉があるかもしらんね、これ。

いまでもわしと思うけど、あの当時にあれだね、粉骨砕身という言葉があったね。ほとんど行く衆は、粉骨砕身で頑張ってくるでということで、あれやった。

Q:挨拶したんですね、当時。

そう。

Q:しかし、どういう言葉でしょうね、その粉骨砕身というと。なんか自分の身が・・・

そうだね。骨が細かくなってという、砕身ということは、我が身の肉がいろいろなくなっちゃうということだね。いまはもうほとんど縁のない言葉だけれども。

Q:やっぱり章さんも、兵隊になって出ていけば、戦死ということもあるかもしれないと。

それはそうです。

Q:そういう気持ちは当然ございましたよね。

うん。あの当時はみんなそうね。そうだね、戦争に行くときには、ここらの衆は、本郷の駅まで歩いて行って、そこから電車で行ったんだけどね。本郷駅で電車に乗って、電車が動き出したときに、ああ、これであの田畑を見るのも最後かなと思って。あのときの気持ちだけは忘れん。

Q:章さんが志願をしようと思ったのは、何故なのですか?

あの当時はね、家におったって徴用令というやつがあってね、どうせ工場へ行ってあれするのなら、兵隊に行ったほうがいいやと思って。

Q:それで志願されたのですね。

そうそう。

妻 八重子さん:その当時はね、もう勝つためにということでいっぱいだったでね。一億一心ってね、国民が、日本の国民というものはみんな一つの力になってということでね。丁度、当時は1億人くらいだったもので、よく一億一心という言葉がね。ほして、こういう兵隊さんを送りに行くときには、私は、今の駒ヶ根市、赤穂だったんだね。それだもんで、ずっと駅から向こうのほうまで、何百メートルというほど生徒やいろいろなのが並んでね、そして手を振って日の丸の旗を振ってね。そんなようなことを今でも覚えておってね。

あの当時はね、御国のためにとか、天皇陛下のためにとかって、それが当たり前の言葉だったよね。そして、それに反発するようなことはね、今の人たちのように、そういうことを一切口に出さなんだね、確かにそれは。

情報も少なかったけれどもね、テレビとかそういうものはなかったで。ラジオだけだったでね。もう、御国のために御国のためにって、そういうことばっかり聞いて。学校の、小学校だったけれども、それでもそういうふうだったでね。

章さん:横須賀の海兵団を卒業して、それから東京の品川にあった海軍の経理学校を出て、それからあれね、鹿屋(鹿児島県)に行ったんだけれども、そこは1022海軍の航空隊といって。海軍はみんな番号があったでね、航空隊は。301とか901とか、そういうので。

Q:鹿屋に行かれていたというのは、どういうことをしていらっしゃったのですか? 鹿屋で。

鹿屋に、あそこに航空隊があって、戦闘機の専門の航空隊とか、あるいは爆撃に行くときとか、基地だったものでね、基地にはあらゆる種類の飛行機があったわけです。わしたちの航空隊は、なんていうか、直接、攻撃とかそういうあれに行くんじゃなくて、輸送機のあれだったものでね。

若い兵隊が特攻機に乗ってね、ハンカチを振っていったのを今でも覚えておる。その飛行機のあれが見えんようになるまで、みんな飛行場で帽子を振って、ああいう思いは今の人たちにはわからんし。

出来事の背景出来事の背景

【証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場】

出来事の背景 写真日中戦争、そして太平洋戦争。8年にわたり、300万人以上の日本人が命を落とした「昭和の戦争」は戦場から離れたふるさとの人々も一体となった総力戦でした。
長野県の伊那谷、旧南向村では、昭和12年の日中開戦以降、終戦までの間に946人が出征しました。村を離れる兵士たちは、村境の天竜川にかかる「坂戸橋」を渡って戦場に向かいました。「生きては帰れない」という気持ちを抱きつつ、迷いなく出て行く兵士たち。坂戸橋では、盛大な見送りが繰り返されました。南向村は、この橋を介して「昭和の戦争」とつながっていたのです。そして、2度と帰らぬ人が増えていきました。

一方、ふるさとから出征した兵士たちが送られるアジアの戦場では、多くの民間人を巻き込んで苛酷な戦闘が行われていました。中国北部の山西省。日本軍は毛沢東率いる中国共産党の軍隊「八路軍」のゲリラ戦法におびやかされていました。八路軍は多くの農民を民兵として戦闘に加え、戦力の勝る日本軍に対抗しました。これに対して、日本軍は、敵性ありと認めた場合、集落の焼却や住民の一部の殺害もやむを得ないという徹底した討伐を兵士に命じました。こうした日本軍の姿勢に、住民はさらに反感を募らせていきます。
また、太平洋戦争の終盤、フィリピン・ルソン島の戦いでも、日本軍は抗日ゲリラ部隊に苦しめられます。住民が参加し、ジャングルに潜むゲリラ。日本兵は、あらゆる場所から狙われました。フィリピンでは、日本軍の占領政策で深刻なインフレや食糧不足が起き、住民の生活が破壊されたのです。

住民の敵意に包囲された戦場。ふるさとから出征した兵士の多くは、逃げ場がない中で、絶望的な戦いを強いられ、命を落としていったのです。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1927年
長野県上伊那郡南向村(現・中川村)に生まれる
1944年
5月、神奈川県の武山海兵団入団。
 
9月、海軍経理学校へ
1945年
第1022海軍航空隊に入隊。鹿児島県の第2鹿屋航空基地勤務。
 
8月、終戦を迎える
 
戦後は農業を営む

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