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タイトルタイトル: 「最初の村葬に参列」 番組名番組名: [NHKスペシャル] 証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場
名前名前: 富永 茂さん(長野県・旧南向村(ふるさとの戦争体験) 戦地戦地: 日本(長野) 仏領インドシナ  収録年月日収録年月日: 2011年10月1日、10月2日、10月5日

チャプター

[1]1 チャプター1 1回目の村葬に参列  06:31
[2]2 チャプター2 出征  07:11
[3]3 チャプター3 兵隊の気構え  03:20
[4]4 チャプター4 初年兵の教育係として  04:38
[5]5 チャプター5 仏印での体験  06:32

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [NHKスペシャル] 証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場
収録年月日収録年月日: 2011年10月1日、10月2日、10月5日

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竹本さんたちと井澤さんという2人の戦死者が一緒の合同祭を開く、これはもちろんこの写真だと思うんだよ、これはね。すぐそばに井澤という名字があって、役場のちょっと下のところに。道端通りにあるけど、あの人と竹本さんがいちばん最初の旧南向村だで、南向村の戦死者ってあの2人がいちばん最初だったと思うんだ、村葬というものはね。そのときはわしも青年会だし、青年学校というやつがあったわけだ、あの時分はね。高校(高等小学校)へ行く、我々は貧乏人だもんで、高校へも行けんけれども、高校に行くようなやつはちょっと財産のある衆で、組に1人か2人しか高校には行けないんだけど、あとは青年学校という兵隊の行く前の基礎訓練みたいなことがあったわけだ、青年学校というところは。そのときにこの竹本さんと井澤さんの村葬にわしも青年学校というようなことの時代なもので出席をした記憶があります。

Q:これはこうやって皆さん集まっておるのは、あれでしょうか、やっぱり結構、いついつ村葬をやるからみんな来てくださいと、そういうので呼ばれて。

通達がある、全部、それはある、いついつかに村葬があるので出席を、それ、ちょっとあって、一般は行かんでね、一般の衆は、団体ぐらいじゃねえかね、あの時分らで、青年学校はもちろん、自治青年団、何とか女子青年団とか、そういう衆が出席をしただけで、個人個人で行くというのは親戚以外の者はなかったと思うよ。これだけの人数というのはかなり多いでね、村葬の人数というのはね、これを見ただけでもね。

Q:すごい数ですよね。

すごい数だよ。

感じたということは、我々もいつかこう軍隊へ兵隊に行かにゃならんという、それは覚悟はしておった、しておったが、亡くなればこういうことで村葬というものを取り行われるときが来るんだかな(と)いうような、うすらうすらはね、そういう感じはしたわね。これは南向村じゃ第1回目の村葬だったと思うのでね、この衆の2人はね。

誰だって人間、ひと色だけれども、それは口先こそは言ったら、それはまあ天皇陛下のため、戦死はあたりまえな、死ぬものは、死んで帰るのはあたりまえのような気がしたけど、内心は死んで帰りたいなんていうものは1万人に1人もおらんと思うよ。誰だって1回はうちへ帰りましょうという、それはそういう頭があったで、別にどうも遺骨になって帰るなんていうことは、それは想像できなんだね、我々はね。誰だって死んで帰りましょうなんていうものは、口こそね、それは陛下のために万歳三唱して死ぬなんていうことを言うけれども、口では言っても、それは一回はうちへ帰りてえ、親兄弟に生きて会いてえという、その一心だったと思うよ、誰しも。それは行って亡くなって帰りましょうなんていう、そんな気持ちは、それは口こそは言っても、腹の中ではそれはなかったと思うよ、どんな人間でも。

Q:だけど、何でそうやって、口で当時、言いよったんでしょうか。

ま、教育というものだわね、もとは。それは教育がもとだと思うよ。まあ、すべて人間というものは教育がいちばんものを言うわけで、今だって教育ということはいちばんそれはだけど、あの時代じゃ、教育といったって、ただ、軍隊という国のためにということだけが兵隊に行った者は頭があったわね、それは、国のためにということで。それで、命をかけて、戦いましょう、行きましょうというような腹はあったと思うけれども、内心はそうでなかったと思う。

Q:だけど、そうやって弔われているのを見るとね、どういうふうに思うんでしょうか。

どうかな。

Q:富永さんご自身のお気持ちがどうだったかていう。

死んで国のためになるということは、それは教育では言ったわね。言ったけれども、おれはもう亡くなればこうやって村葬までしてもらえるかななんていうことは、我々は、わしはそういう考えはなかったな、1つも。何でも一回は生きて帰りましょうというだけのことで、亡くなって村葬をやってもらうなんていうことは、それは我々は夢にも思わなんだ、その時代は。

それは、まあ、その時分は我々は、それは記憶あるで。徴兵検査というやつが昔はあるもので、駒ヶ根であったんだよ、駒ヶ根でね。それで、あの当時で、南向村の衆が一斉の身体検査、徴兵検査というやつがあるんだけれども、それで甲種合格、もちろんこれは現役というもので軍隊は行かな、それに第1乙、第2乙という、そういう差別も種類もあったわけなんだ。体のちょっと弱い小さい、体重が少ないとか、身長がないとかという者は、ある程度は第1乙とか、それ以下になると第2乙といって兵役が免除ぐらいな衆がおったわけだけど、甲種合格と、それから第1乙というものは、これは全部現役兵として、我々のときは兵隊に行ったものだけど、それは召集じゃないものでね。検査があって、それじゃ富永は次のその年のいく月いく日までにどこの部隊に行けというのは、それは通達が来るもので、召集じゃないもんで、通達が来るわけで、合格をしておるもんでね。

Q:こっちを出ていくとき、出ていくときはどういうふうな感じで見送られましたか。

そうだね、それこそこれが 実家なもので、うちは前がこの実家で、ここで親類衆が、兄弟、親類、兄弟はみんなうちにおるし、親兄弟、親戚がみんな集まってくるわね。そして、朝になると、それこそ朝、夜明けでもないけれども、2月なもので、1月で末だけれども、寒いときだったけれども、ここから送り出してもらって、そこにお宮があるんだよ、祝殿(いわいでん)様、産土(うぶすな)様いうやつがあるんだけどね。そこで、その当時の部落総代という総代さんが送りの挨拶をしてもらって、そして自分が出発に対しての挨拶をするわけだけれども、それも誰もかも、そんな若い20歳や21やもんで、上手に話もできんけれども、それでも練習をして、本日はどうも寒いところ、大勢の皆さんにお見送りをいただいてありがとうと言って、そして軍隊に行ったら一生懸命やるというような挨拶はするわね。

口じゃ、さっき言うとおり、天皇陛下ということを大元帥陛下ということを昔は言った、天皇陛下じゃなくて大元帥陛下ということを言ったけれども、確かに隊に入隊した以上は大元帥陛下の股肱(ここう=手足)として、そして軍務に精励をするということは挨拶はした記憶はしっかりあります。それで、まあ、死んで帰るということは挨拶のうちには入らんけれども、大元帥陛下の股肱として勤務に精励するということだけははっきりは言ったわね、それで現地へ行ってくるということだけは言ったが、あとには幼い兄弟、あるいは年寄りがおるで、家内のことはしっかり頼むということだけは言っておいて行った記憶があります。挨拶の中でね。それで、うちのほうの世話になるということもはっきりは言っておいていった記憶があります。うちのほうを、私は軍隊に行くけれども、うちには親も兄弟もおるが、ひとつよろしく頼むということだけは言っていった記憶がある。

1月の31日にわしはここで部落の衆に送ってもらって出かけていったんだけれども、そして、あのときは電車なもので、それで松本へ入隊の前の日の31日の日には、松本の浅間の湯だったが、浅間の湯へ指定旅館があって、そこへひと晩泊まって、そして明けの日は入隊なもので、それは部隊のほうからそれは指導員、幹部が来て、それで兵隊はみんなそこまで連れていって、それで入隊式ということをするんだけれども、我々の時分には、まだまだ盛大だったわね。あの時分じゃまだ、戦争もまだまだ、大東亜、始まるわけじゃないもんでね、まだまだ、満州事変が過ぎて、支那事変が勃発しておるくらいなときなのもので、まだまだあの時分はそう戦闘というものを盛んにやっておるときじゃなかった、我々が行ったときにはね。それで、松本へまあ2月1日に入寮したわけだけれども、その時分のことだったら、これはある程度、記憶はある。

ただ、死んで帰るとか、生きて帰るとか、そんなことは挨拶のうちは入るわけではないし、実際、死んで帰るなんていう、それは気持ちじゃなかった、わしたち、自分にはなかった。我々よりか1年、2年前の衆は満期除隊と言って、行っても1年半たてば、大概1回はうちへ帰った。全部。現役というものは終了するものでね。我々は行ったときには、現役からずっと居続けたけれども、2年くらい前の、2~3年前の衆は、昔の軍隊というのは、ほんとは1年というものが勤めることなんだけれども、ま、1年じゃまともには帰れんけど、内地におっても1年半ぐらいたつといったん除隊ということがあったわけだ、兵役がな。それからうちにおって仕事をしておって、それから今度は召集令状という、赤紙ということを言うけれども、召集令状が来るまではうちに働いておったけど、我々(の)2~3年前の衆はね。我々になると行ったきりだったわね。

我々は、まあ、外地へ行く兵隊なもので、松本に駐屯してはおらんもんでね、テープにもそれも語ってもあるけど、ただ松本には1週間おっただけのことで、すぐ外地に行っちゃったもんでね。なので、内地のことなんかは、兵隊に入った記憶は何もないね。入ったというのだけで。ただ、我々は松本の連隊は入らんもので、あのときに松中といって松本中学校があったんだけど、そこの体育館に集団をしておったもので、軍隊に行って、松本連隊というものの門をくぐった覚えはね、入隊式に門をくぐっただけで、あとはすぐ松本中学校の体育館へ来ちゃって、そこまでいろいろ準備をして、1週間か8日おったと思うけど、へ、すぐそれで出発しちゃったものでね。

ただ自分の荷物を脱いで官物に着替えをするもんでね、あれは。そのときにはみんなもう、覚えはねえもんだけど、全部、自分の服を着ていくもので、軍隊は、入隊するまでは。シャツでも何でも全部自分のもんだわね、こういうものも。それで、松本中学校に入ってから、今度はこの荷物を送り返すもので、そのこん包にみんな荷札なんかは全部うちで書いて持ってくるんだよ、札をね。それで持っていって、入隊した明けの日、入隊したその日だか次の日だか記憶はねえけれども、着たものは全部私物なものでうちへ送り返さねば、そして向こうの兵隊から、軍隊から来たものと、全部履き替えするんだでね。そう言っちゃあれだけど、サルマタ、パンツ1つ自分のもので(はなくなり)、今度は越中ふんどしという、そういうものを軍隊じゃよこすわね。それに全部、下から全部、官物に替えて、私物を全部、荷物を各運んで、くるんで、それで縛って、そして荷札をつけて、そしてうちへ送り返したわけだ、軍隊というものはね。だから、官物と私物とそこで切り替えをするわけだ。

Q:その官物と私物をきっちり分けて、今までは自分のサルマタだったのが軍隊からもらった越中ふんどしに替わると。

そうそう。

Q:そういうふうにして官物と切り替えるとおっしゃった。そのときというのは、気持ちに自分の中に変化があるものですか。

それはこれでいよいよ兵隊というあれだわね、そういう気持ちだね。いよいよこれで兵隊になったんだなという、それが初めて兵隊になったんだね、入隊が、入隊で兵隊になったんだね、それまでは民間なもんで、まだまだ。入隊をして、それで軍人になるんだもんでね。

我々は、まあ、初年兵というやつに入るもので、順に毎年、毎年、入ってくるもので、その教育係でわしは2年やった記憶があるけれども、別だった教育を能力があってするわけじゃねえけど、ただただまじめに務めろよというくらいのことで、だけれども兵隊に行って国のために奴隷になれなんていう教育はせなんだね、我々はね。たまたま我々はこうやって割合先頭に立つところにおらなんだもので、次の我々よりか1個下の衆が来る、また1年たってその次の若い衆が入隊をしてくるという、そういう教育係というやつがおるんだよ、それをわしは2年間やった記憶があるんだよ、2年兵のときに初年兵の教育係をして、3年兵にまた教育係をしたという、そういう記憶はあるけど、そのときにそんな死んで帰れの、生きて帰れのなんて、そんな教育をした覚えはないね。

15年に撮ったんだね、これ。入営のときって書いてある。16年だわ。 こいつは仏印(現・ベトナム)って書いてあるんだな。これは、北支で撮った。これひとつ星で。 この写真ないからとった。これがその昔の写真、俺、よくこれ仏印から持ってきたと思うんだ。みんな持って来たんだ、仏印から。どうやって持ってきたか、俺も記憶がない。これだけ、みんな。

Q:これ、自分でみんな持って帰ってきたものですか。

自分で持って来た、自分で。これが俺が班長した、俺はこれだけどね。

Q:あ、それですか。富永さん。

これが富永で、これも富永なんだよ。この子たちを教育したんだよ。これが班長で、これが富永ね、2人。

Q:これ教育係だったときですか。

教育係。これとこれと。こいつは、先のときの。これは先のときだね。2年目、これは3年目や。よく俺、この写真持って来たと思って。

張り切った時分さ、この時分は。三つ星なんちゃ、兵隊ちゅうものは、とにかく三つ星になろうと思って努力するんだ、どんな人間でも。60人くらいおるんだけども、丸1年で上等兵になるっていうのは、11人、10人か11人しかなれんでね。
一つ星で行って、3か月経つと全部。あの、半年経つと全部二つ星になるんだ。全部、1等兵ってやつ、2等兵が1等兵になる。それはなめしに(大部分が)なる。ずーっと全部が。それから、上等兵になるには60人おるうち10人くらいしかなれん。上等兵になるにはね。 選抜って、まるまる1年で三つ星になる。それにみんな一生懸命になるんだ。その三つ星なろうと思って。だけど、その二つ星のときに序列ってものがあるわけだ。みんな1から50人まであるもんで。その10番くらいに入らなにゃ三つ星になれない。 それ過ぎると、3月ぐらい経つと1人ばかり三つ星、1人くらいは三つ星をもらえる。それでまた半年ぐらい経った後、また1人ぐらいは上がれるけど、とにかく選抜と言ってまるまる1年で三つ星を取ろうと思って一生懸命になる、みんな。

Q:富永さんも、それ一生懸命になった?

それは俺もなった。なったで教育長になれる。そうじゃなきゃ、教育隊なんか、入れんもん。

Q:富永さん、そこはこう、なんで頑張ったんですか。なんでって言い方は変ですが。

なんでっていうか、動作だな、機敏良く歩く、かえすっていう、そういうことだね。中にはとろいやつだっておるもんでね。支度させたってなんだって、支度競争したって、いちばん先飛んで来るようなもんじゃなけりゃダメだね、そんなものは。ぼーとらぼーとらしとるやつは、とろいやつはいつまで経ったってとろいし、たたかれる。いちばんひどい目にも遭う。動作が悪けりゃね。

仏印というか、まー、特別なあれは昔は、ずっと前はあれはフランス領土で、そして独立をしてフランス領土がベトナムという名前に変わったんだけれども、ベトナムとか、割合、人柄もいいし、暮らし、場所は場所だったね、仏印というところは。場所からいけば、まあそりゃ、ああいう常夏のところだけれども、それでも人間性は、仏印というのは安南人と言うんだけれども、向こうの衆を安南人ということを言うけれども、あの安南人というのは我々と黄色人種で同じような顔つきで、体はまあ若干貧弱な面はあると思うけれども、人間性というのは割合仏印の衆はいい衆だったわな、我々はあそこに3年間、丸3年、あそこで年を越したけどね。人柄は、おれは仏印の人柄はいい衆だと思うよ。街へ出て外出して物を買っても売っても、それは親切だし、割合、人柄は仏印の安南人という、そういう人種はいい人種だと思ったね。顔つきだって日本人とそんなに変わらんでね、見たところはね。女の子たちだって見たって恐らく日本人と変わらんに、普通のベトナム人というものは。人柄がいいとは我々はそう思った、3年、あそこにおったけれども。

Q:何かその、当時、3年間、いらっしゃるときに、ずっとそうだったとは全然思わないんですけれども、だんだん戦争で日本がどんどん不利になってきますよね。

ああ、不利になってくるわな。

Q:やっぱりそういうふうな状態の中で、現地のベトナムの人とかの関係がちょっと変わってきたとか、そういうことはなかったですか。

終戦になってから。

Q:終戦になるまで。

までか、割合なかったな、仏印というところは。まあ、ああいう衆との交流もあったけれども、どういう交流もねえけど、それも店に行ったり部落へ行ったりすることはいくらでもあるけれども、人柄というものは、くどくも言うけど、それはいい衆で、終戦になる際(きわ)だって全然変わらなんだね、そういったところは。

それは日本人のほうが上だということはあった。しかし、安南人も兵隊というもの、一般人も行っておるけれども、一般人とは我々は交流がなかったものでね。だけど、一般人だって結構ベトナムに行っておる人がおったでね、それが商売なんかをしちゃおったけれども、そういう衆との交流が割合なかったでな、日本人の衆との交流は、安南人の衆の交流だけはそれはあったけれども。

Q:やっぱり当時は日本のほうが偉いと思っておったんですか。

まあ、おれは思ったね。

Q:何ででしょうかね。

ここまで来るということは、これは日本人の、あそこらはまだまだ、それからもっと南のほうもいくらも兵隊が行っておるんだけど、まだまだ我々はこの仏印におるんだが、兵隊の軍隊の命令で来たんだけれども、よくここまではびこったものだなとは思ったね、日本というものは。

Q:はびこった。

はびこったと思うね、日本だけじゃ、国を増やすがために戦闘をするんだ、戦闘というのはそうだでね、国を増やすためにあることで、

戦争をすれば、勝てば領土は増えたわね、日本というものは、そのために日本というものは戦争もしたんだね、あれは、おれはそう思うよ。

ここにあるわ。ここに。1番、2番、3番、4番まであるんだわ。

Q:ちょっと、歌ってみましょうか・・・。

こういうものを歌えって言っちゃあさあ、歌えんじゃあねぇけどな。それじゃあ、伴奏はねぇけど、歌わにゃあしょうがねえなぁ。

弾丸(たま)も タンクも 銃剣も
しばし 露営の 草枕
夢に出てきた 父上に
死んで 還(かえ)れと 励まされ
覚めて睨(にら)むは 敵の空
(露営の歌3番)

あの時分じゃあそうだなぁ。うん。自分のためなんてことは思わんでね。何だって、国のためだ、陛下のためだなんて、そういう、まぁ、国のためっていうことがいちばんね、頭にあったわな、誰だってね。

Q:かなり、そういうことばかり言われた時代でしたよね。

そりゃあそうさ。そりゃあ教育がそうだもん。大体がね、教育から。

Q:富永さんの息子さんとかお孫さんとか、今度、ひ孫さんもいらっしゃるぐらいで、そういう孫やひ孫が、もしかしたら、またもう一遍、兵隊にならにゃあいかんというような時代が来たらどうですか。

そりゃあもう来もせんし、そんなことはあっちゃあいならんと思う。俺はね。いくら何百年経ったって何千年経ったって、戦争なんてことはするべきことではない。それは、そう。

そりゃあ戦争なんていうことは、いくら代が替わろうが、そんなことはあってはならんと思うよ。うん。

出来事の背景出来事の背景

【証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場】

出来事の背景 写真日中戦争、そして太平洋戦争。8年にわたり、300万人以上の日本人が命を落とした「昭和の戦争」は戦場から離れたふるさとの人々も一体となった総力戦でした。
長野県の伊那谷、旧南向村では、昭和12年の日中開戦以降、終戦までの間に946人が出征しました。村を離れる兵士たちは、村境の天竜川にかかる「坂戸橋」を渡って戦場に向かいました。「生きては帰れない」という気持ちを抱きつつ、迷いなく出て行く兵士たち。坂戸橋では、盛大な見送りが繰り返されました。南向村は、この橋を介して「昭和の戦争」とつながっていたのです。そして、2度と帰らぬ人が増えていきました。

一方、ふるさとから出征した兵士たちが送られるアジアの戦場では、多くの民間人を巻き込んで苛酷な戦闘が行われていました。中国北部の山西省。日本軍は毛沢東率いる中国共産党の軍隊「八路軍」のゲリラ戦法におびやかされていました。八路軍は多くの農民を民兵として戦闘に加え、戦力の勝る日本軍に対抗しました。これに対して、日本軍は、敵性ありと認めた場合、集落の焼却や住民の一部の殺害もやむを得ないという徹底した討伐を兵士に命じました。こうした日本軍の姿勢に、住民はさらに反感を募らせていきます。
また、太平洋戦争の終盤、フィリピン・ルソン島の戦いでも、日本軍は抗日ゲリラ部隊に苦しめられます。住民が参加し、ジャングルに潜むゲリラ。日本兵は、あらゆる場所から狙われました。フィリピンでは、日本軍の占領政策で深刻なインフレや食糧不足が起き、住民の生活が破壊されたのです。

住民の敵意に包囲された戦場。ふるさとから出征した兵士の多くは、逃げ場がない中で、絶望的な戦いを強いられ、命を落としていったのです。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
長野県上伊那郡南向村(現・中川村)に生まれる
1942年
2月、東部第50部隊(松本)に入隊。中国へ渡る。6月、仏印(現・ベトナム)に進駐。
1946年
4月、復員
 
戦後、農業を営む

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