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タイトルタイトル: 「別れの坂戸橋」 番組名番組名: [NHKスペシャル] 証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場
名前名前: 吉澤 喜義さん(長野県・旧南向村(ふるさとの戦争体験) 戦地戦地: 日本(長野、千葉)  収録年月日収録年月日: 2011年10月29日

チャプター

[1]1 チャプター1 満州開拓への憧れ  04:53
[2]2 チャプター2 出征の時  06:55
[3]3 チャプター3 本土決戦に向けて  07:45
[4]4 チャプター4 徹底抗戦の構え  04:32
[5]5 チャプター5 雑音だらけの玉音放送  03:06

チャプター

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あの日本がな、あの当時は、始まった当時は、日本が人口も多くなって、これだけじゃあということで、おそらく幹部の連中が始めたんだと思うけども。だけども、そういうなことを教育受けてるもんでな。そんで南方へ新天地を求めて出てくっていうなことは、これまあ、いいことなんだと思っちゃったんだな。思っちゃって。ほいであの満州なんかも、少年義勇軍で、なんかもう募ってな、募集して出かけたんだけども。だけど、あの、そういうなことで国が大きくなるということは、あんまりその、大事なことだと思っちゃった、思っておったんずらな、みんなが。

八紘一宇だとか、いろいろの言葉使われたもんでな。だから日本の国は、もう少しあの、豊かな国にしなきゃというようなことで、よそへ進出するのも当たり前だっていうふうな、気持ちになっとったんずらなあ。
ほだから満州へ、あの義勇軍でな、17、8(歳)の時分、青年学校で3年から4年時分に募集があってね。あの、義勇軍へ。わしらの同級生も、3人ばっか行ったんだけど、みんな死んじゃったけどな。ほいでわしも、ほんとは行きたかったんだ、当時。

Q:満州にですか?

満洲に義勇軍で。勧められもするしな。だけども、絶対、おふくろに反対されてね、それで行かないって。

ご自身? あの、自分でそういう気持ちになったときもあったんな。

Q:それは、なぜ行きたいと思ったんですか?

あの、1つのな、新天地を求めて、向こうでいい社会を作ろう、国を作ろうっていうことで、満州国っていうのができてな。それも、行って、働こうっていう気持ちになっちゃったんだなあ、若い時分に。ほだから、家庭によっては勧められたもんでな。だけど、わしはまあ総領(跡取り)だから、先生たちもそんなに強くは言わなんだけども、「行きてえのは、応募してみろ」っていうようなことも言われたしな。だから一時期、どれえ行く気になっちゃってな。

Q:そうですよね。ご長男だから、ほんとはちゃんと、親からもね、その、土地は畑、田畑というか、ねえ、いただけるんだし。でも、それでもやっぱり行ってみたいと思いましたか?

思ったの。思った時期が、時期あったんだ。ほしたら、おふくろが絶対反対でな、泣いていさめられてさ。それで思いとどまったけどね。

Q:それは、いくつのころの話ですか?

えーとね、17か8のときだな。青年学校の3年くらいの。あれ5年生まであったもんでね。5年生で、1年研究科ってやつ、6年あったもんでね。あれ3年頃だ、青年学校の3年頃にそういう募集があったんだ。

Q:長野から、たくさん行ってらっしゃいますもんね。

ああ、たくさん行ったんな。だから義勇軍で、あ、移民ももちろんあったんだけども、その、16、7のそういう連中がな、義勇軍ってことで出かけたんだけども、ほとんどの衆が死んじゃっとるな。義勇軍の衆もなあ。それも同級生で、3人、4人ばっか行ったのかなあ。3人死んどるな、向こうでね。

いや、お母さんはなあ、あの泣き崩れちゃうもんでね。だからもう親父が一生懸命、そんなことじゃいかんちって言っておったけども。本人はもう、わしも、おかあちゃん大丈夫だで、元気でやってくるでっていうことでな、出かけたけどね。

Q:前の晩とか、お母さんがやっぱり泣き崩れてましたか?

そりゃあ、まあ、総領だったもんでねえ。大勢の兄弟の総領だけれども、総領が出かけるもんでな、それは悲しかったと思うんで。本人はそのつもりだもんでな。ほんで、そういう顔は、なるべくみんなに見せんようにして、ずーっとな、夜も、みんなと普通な話をして出かけたけどな。あの、出かける準備をしたんだけども。ま、実際はそれは内心は悲しいよな、家族と別れて行ったんだもんでな。だけどそういうことは、顔に出せん時代な、みんなそういうつもりでおるやってたもんで。まさか日本が負けるとは、そういう報道はなかったしね。勝つ、勝ち戦なようなことばっか報道があったもんで。ほだから、おそらく行って、戦地行って、手柄立てるにしても何にしても、あの、勤めてくるという気持ちでおったもんでね。まあ教育ってものは恐ろしいもんで、それがみんなそれ、そこらも慣れっこになってな。だもんで、これが当たり前だと思った時代だったんだでなあ。教育ちゅうのはおっかねえな。

Q:やっぱり、その、そういうふうに・・今おっしゃった、あの、ほんとは自分は、家族と別れるのは悲しいと思ってらっしゃる。

はい。内心はある。はい。

Q:だけど、それを表さない。

うんうん。表面に出すわけにいかん時代。いかん時代っていう、もう自分でも、もう覚悟が決まってる、決まるもんでな。ほだから、出したくないっていう気持ちもだし、これが当然だっていうつもりで出かけたけどな。みんなそうだったと思うよ。

Q:あの、吉澤さんが見送ってもらって、こう橋を渡って、こう振り返ったときに、どんな様子が見えたんですか?

あのね。あの、身近の衆は、身内の衆だとかそういう衆は、まだ向こうのところ、こっちまできて送ってくれとったんだけれども。もう他の人たちはな、あそこで送って、へえすぐ・・わしがこう来る、どんどん帰ってったけどな。

Q:帰ってったんですか?

ええ。どんどん、ええ、みんな帰ってくんですよ。いくたりか手を振ってね、送ってくれただけで。あとの衆は、それこそ慣れっこで、それ帰っちゃうですよ。おったってしゃあないし。

Q:でもその、吉澤さんが、昔、大先輩を送ったりしたときは、結構ずーっとこう手を振って。

この見えんなるまでね。ずっと送っとったんな。あの、知ってる先輩たちはな、送っとったけどね。そうでねえ衆は帰るけどね。

Q:だけど、その、吉澤さんがお出かけになった、出征されたときは、ちょっと、そのころとは様子が変わってたわけですね。

ええ、それだいぶ変わっとってな。はい。これで済んだってことで、みんなどんどんどんどん帰ったけどな。そりゃまあ、いつものことだもんでな。みんなおるわけにいかんもんで、どんどん帰っちゃったけどな。

Q:ああもう、みんなにとっては、いつものことになっちゃった。

そう、いつものことになっちゃっとんな。なっちゃったんだ。それは大勢の人がどんどんどんどん行く。で、わしら遅い方だったでね。19年だもんでね。ええ。だから、最初に行った人たちよりは粗末だったかもしらんな。いや、それわからんに。その送ってくれる人に、そんなこと言っちゃあ失礼だけどな、そら、若干の粗末になるとかはあっただよな。

実際あの、坂戸まで送ってもらってね、それで、自分はだな、他の人たちもおそらくそういう気持ちだったと思うけどな、あの坂戸まで送ってもらった。あそこで別れて、他の衆は慣れっこだもんで、どんどんどんどん帰っちゃうでしょ。だから、行くものだけが行って、その足でな、そのホームの駅まで歩いたんだけどね。けど、坂戸橋のずっと向こうの方で、いよいよ坂戸橋が見えんっていうところで、いっぺん振り返って、ま、これでだいたい見納めだなっていう思ったときにはな、ほろほろっと来たね。そういう、あの、気持ちはあったけどな。だけど、これは、みんなそういうな気持ちで出てったんだからっていうことで、思いを直して。それからそんな、これから入隊して、訓練を受けて、戦地に行かにゃあっていう時期だもんでね、だからもう、気持ちを切り替えて、行ったけどな。

そこでな、向こう行って、(千葉県)香取(郡)の橘(現・東庄町)っちゅう村へ入ったんだけどね。そこの小学校が、わしらの中隊の駐屯地になってな。そっから、寝泊りしとって壕堀りな、主に。

Q:壕を掘る?

壕堀り。ちょっと、これ台地だったもんでね。ほいで両方に、この、崖があって、そこへ途中からずっとトンネル掘ってってね。ほいで断崖のこういうとこへ穴あけて。いわゆるトーチカだね、それをこうこせえる(こさえる)のと、ほいて、これいちばん台地の上へもってってね、あの、そこ赤土で割合に掘りやすかったもんでな、深く穴掘ってね。ほいで、材木でぎちんとやって、トーチカつくりな、やったんだけども。それも初年兵連れてって、最初にあの、設計図があるもんでね。それで、どのくらいの穴を掘って、それで今度は、よだいをな、全部こうここに、どういうふうに積むっていうことを書いてあるんでね。それにして。コンクリは全然ないんだに。ほいで・・

Q:コンクリートが全然ないんですか?

全然ないの、ほんな。ただ丸太を組んで、それ上へ丸太を敷いて、ほいで土をかけてね。あの、上官と笑ったんだけど、「これで、おい、一発、迫撃砲でもなんでも来りゃあ、ドカンだな」つって、言ったんだけどな。さあっとこうしとったんだ。

Q:それは何で、一発くるとだめなんですか?

コンクリで固めてないんだもんで。そりゃあ、あの、こんなでっかい材木いっぱい上並べてね、ほいで土でもって、ほいであとは草植えてわからんようにしてな、偽装はするんだけれども。だけど、もし上陸してきて、そしたらこっちも対抗して軽機関銃なんかで、軽機関銃でやら、重機関銃のトーチカだったんだけどな。だけども、そりゃあ、すりゃ向こうで、目的地にして撃ってくるんに決まっとるもんでな。そうすりゃ、一発くりゃあ、ドカンのおしまいだ。それでいやあ、小さい弾なら大丈夫なんだけども、砲弾が飛んでくればおしまいっていう、そういうものを造らされて。造れっていうことで。

Q:そのまあ、木造のトーチカってことですね?

うん。木造のトーチカ。土と木造、木造のトーチカ。コンクリは全然こないの。

Q:なくて?

ええ。全然こなくてな。それとねえ、午後はその壕(ごう)作りでね。午前中は、初年兵をずーっと連れてってな、ほして、ちょうどお宮があって、そこに広い庭があったんだ。空いとるところがね。そこでもって、向こうの方には竹が、こことおんなじように竹があるもんでな、そこで、戦車のでっかい形をこせえてさ、竹でね。ほいでやって。それをダーッとしといてな、飛び込む練習。

Q:戦車に?

戦車へ。そればっか教せえとったんだ。自分でも教育に行ってきてな。角度、どの戦車に対しては、どういう角度から行くといいっていう、死角があったんだな。戦車にも。だもんでさ、どっちの方向、方角から飛び込みゃあいいんだっていうようなことを、あの、20センチぐらいの木箱をこせえてね、それ黄色火薬ってのをいっぱい詰めて、ほいで、飛んでくる戦車へ飛び込むっていう肉薄攻撃。そういう訓練。

Q:戦車に火薬を持って、飛び込むんですか?

うん。背負ってな。その、20センチ四角の木の箱を持ってって、黄色火薬っててんだけども、それを詰まったのを背負って、ほいで肉弾で飛び込む、そういう訓練。それをまあ自分でも教育に行ってきといて、今度は初年兵に教せえたんだけども、真剣になってやったんだよな、それを。今考えりゃあ、ばかばかしいようなことだけどなあ。

Q:それはその、何かあれですか、その、戦車のいわゆるキャタピラっていうか、その下っ腹に飛び込む練習ですか?

そううん。あのなあ、M4だとかいろいろの戦車が、こういう戦車があるんだつって。ほいで死角がどこだっていうことがな、まあ研究されとったんでらいね。ほんで、それのあれの、そのいちばん死角にもってって、飛び込むんだ。隠れとって。あの、たこつぼ(壕)掘って隠れとって。そうしたら飛び込むという、ことなんだけどなあ。

Q:それはでも、自分死ぬってことですよね?

ええ、もちろんそうですよ。あの、うまくいけばな。それ前に、弾でも当りゃあドカンだけども。もし戦車へ飛び込めても、ドカンだ。おしまい。

大真面目なんですよ、それが。だから、今、考えたらこっけいだな。みんなそういうことで、大真面目で。戦争ちゅうのは人の殺しっこだもんでねえ。ほうだから、そのそういう、どうやれば多くの敵を倒せるっていうようなことのばっか、練習してくのだもんでね。だから、それ、大真面目でやっとったんだが、えらい疑問にも感じなんだんずれなあ。感じても、そんなこと言えもせんしね、当時じゃあ。

当時は、あの、制空権を全部取られちゃっとら。ほうで、艦載機がどんどん飛んでくるんですよ。ほいで、やつら、わしら香取の駅でおったときに、2度ばかね、艦載機の小さい1人乗りのやつだけどな、それが2台、2台でダーッと来てな。ほうて、あそこに兵隊がおるなってんで、ババーッと撃たれたんだ。

Q:機銃掃射。

機銃掃射。機銃掃射でな。そら、でっかい弾なんだに、こんな弾でね。機銃掃射でデーッとやられてな。それ逃げろってわけで、あの、貨車の陰へみんな隠れてね。2度やられたなあ。怖かったね、そんときには。

Q:機銃、一発じゃないわけでしょう?

そら、あの機関銃の。でっかい機関で、こんな、日本の弾よりでかい、こんなでかい弾でね。それを撃ってくるんな。だけども、戦闘機もね、その、艦載機の小さい飛行機は前だけなんだよ、撃てるのは。後ろは撃てんもんでな。2人乗りじゃないもんで。だから前だけだもんで、行っちまえばなんでもねえ。だけどもその空襲を受けた、あの、使役になんか来とった婦人会の衆が、(飛行機が)行っちゃってから、「兵隊さん、今、危ないじゃないか。そんなの、出ちゃっ」つって。え、行っちまえば、後ろは弾来ないってことはわかるもんでな。あんで、そういうことは、それもまあ、いろいろ教育受けておったもんで。それ行っちまえば、「やあ、行っちゃった行っちゃった」ってわけで、作業始めたけどね。

あの、8月の初めだな、初めに部隊全部、非常召集がかかってな。あの留守部隊の衆がな実弾をもって、ほいで、九十九里へみんな行ったらしいんだ。実弾もってね。そんときにわしら、その、そっちしとったもんで行かなんだけどね。だけど、ほいで九十九里の浜で、あの、たこつぼ掘ってな、そこでみんな実弾詰めて、いよいよ上陸してくるということで。2度あったらしいな。

おい、九十九里の海岸で、おそらく出て、たこつぼ掘ったって、土を掘って、自分が隠れるだけのあれでしょ。それは、トーチカもあるわけでもなんでもないもんでな、そこでやられたら、向こうなんかも艦砲射撃で、どんどんどんどん、でかいもの撃ってきて、それまでに、ほとんどのものがすっ飛んじゃってな。ほいで今度あの、上陸用舟艇なんかで来るのは、どんどん・・兵器だったって、向こうの兵器はいいもんでなあ。んで、それでもって、ボロボロボロボロやってくるもんで、まあ、みんな死んじゃっとらいなつって言ったけども、幸い、その敵前(上陸)なかったもんで、上陸されなんだもんで、あの、あの部隊も助かったけどなあ。

Q:もしですね、その向こうの戦車とかほんとに来てた場合に、どうしてましたか? やっぱり戦ってました?

うん。あの前線へ出ておればね、死ぬまでは戦っとったと思うんだ。はい。ほら壕掘って隠れておりながら、ほいで壕なんか自分で掘る、あの、入れるだけの、たこつぼだもんでなあ。それで隠れとるんずら。ねえ、やられてしまうわけな、わけなんだけれどな、だけどもそれ、いよいよとなったら、そのときは一人でも、あの、生きとって、やろうっていう気持ちは、みんなあったわけな。ほんで、必死な。

Q:終戦は、どこで迎えられたんですか?

終戦は千葉です。やっぱり千葉でね、そのさっき言った材木搬出の積み出しをしとった、そっちの方へ、15日の朝だったかな、部隊からな、中隊から連絡があって、「えー、玉音放送があるで聞け」っていうことだもって。なんだろなってわけで。ほいで班長とわしと、あと初年兵だけだったんだけどな、ほいでラジオを、宿屋のなラジオで聞いたんだ。ほんなもん、ザーザー、ザーザー、昔のラジオの、なんのこんだかようわからんだ。「え、なんど、こんなんだ。ありゃあ、天皇陛下の声か」っつって、言うくらいでね、したんだけど、わからなんで。
それから3日くらいたって、今度は「初年兵、仕事もういいから中隊の方へ帰って来い」つって。あの、橘(村)っていうとこへ帰ってね、そっちで、やっとこれで戦争が終ったんだってことは聞かされたけどなあ。テレビはないし、ラジオだったって、そういうラジオしかないもんでな、あって、そんなもの聞くくらいなとこだもんでねえ。全然知らなんで、帰ってって、いよいよ負けたんだわつっていうことは、そこで聞かされたんだけどな。

Q:そんときのお気持ちはどうでしたか?

うーん、いよいよ、そうさ、いろいろデマが飛ぶでしょう。すと、向こうから進駐軍が入ってくれば、あの、変なデマが飛んで、女の人はみんな強姦(ごうかん)されて、男の連中はみんなやられるんだと。あの、銃殺をされるんだっていうようなデマも飛んだり。

Q:銃殺?

ええ。

Q:銃殺される?

銃殺をな。そういうデマも飛んだりしたんだけど、まだ、部隊で。その連中が来て、進駐軍が入ってっから武装解除があったんだ。それまでは全然ねえ。武器は持っとったもんでな。だけども、気が強かったけども、そんなことはあるはずがねえっていう気持ちはあったけどな。

出来事の背景出来事の背景

【証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場】

出来事の背景 写真日中戦争、そして太平洋戦争。8年にわたり、300万人以上の日本人が命を落とした「昭和の戦争」は戦場から離れたふるさとの人々も一体となった総力戦でした。
長野県の伊那谷、旧南向村では、昭和12年の日中開戦以降、終戦までの間に946人が出征しました。村を離れる兵士たちは、村境の天竜川にかかる「坂戸橋」を渡って戦場に向かいました。「生きては帰れない」という気持ちを抱きつつ、迷いなく出て行く兵士たち。坂戸橋では、盛大な見送りが繰り返されました。南向村は、この橋を介して「昭和の戦争」とつながっていたのです。そして、2度と帰らぬ人が増えていきました。

一方、ふるさとから出征した兵士たちが送られるアジアの戦場では、多くの民間人を巻き込んで苛酷な戦闘が行われていました。中国北部の山西省。日本軍は毛沢東率いる中国共産党の軍隊「八路軍」のゲリラ戦法におびやかされていました。八路軍は多くの農民を民兵として戦闘に加え、戦力の勝る日本軍に対抗しました。これに対して、日本軍は、敵性ありと認めた場合、集落の焼却や住民の一部の殺害もやむを得ないという徹底した討伐を兵士に命じました。こうした日本軍の姿勢に、住民はさらに反感を募らせていきます。
また、太平洋戦争の終盤、フィリピン・ルソン島の戦いでも、日本軍は抗日ゲリラ部隊に苦しめられます。住民が参加し、ジャングルに潜むゲリラ。日本兵は、あらゆる場所から狙われました。フィリピンでは、日本軍の占領政策で深刻なインフレや食糧不足が起き、住民の生活が破壊されたのです。

住民の敵意に包囲された戦場。ふるさとから出征した兵士の多くは、逃げ場がない中で、絶望的な戦いを強いられ、命を落としていったのです。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
長野県上伊那郡南向村(現・中川村)に生まれる
1944年
4月、現役兵として東部第50部隊(松本)に入隊
1945年
4月、本土決戦に備え千葉県へ
 
戦後は農業を営む

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