ホーム » 証言 » 池田 隆治さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「9時間の漂流」 番組名番組名: [NHKスペシャル] 証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場
名前名前: 池田 隆治さん(長野県・旧南向村(ふるさとの戦争体験) 戦地戦地: 日本(長野) トラック諸島  収録年月日収録年月日: 2011年10月4日

チャプター

[1]1 チャプター1 “死ぬんだ”という気持ちで  04:07
[2]2 チャプター2 トラック諸島へ  02:58
[3]3 チャプター3 辰羽丸、沈没  07:20
[4]4 チャプター4 夜間の漂流  06:02
[5]5 チャプター5 約9時間後に救出  05:15
[6]6 チャプター6 空襲と飢えをしのいで  09:08

チャプター

1
2
3
4
5
6

再生テキスト再生テキスト

Q:悲しかったですか、召集が来たとき?

もう大勢の人がいっぱい行っているもんでね、どっちかって言うとあれだなぁ、まだ、俺の方には来んのかなぁっちゅうような、そんな感じがしましたね。私は、17年の2月頃、来るかなぁと思っていたら来なんで、17(18)年のあれだね、17(18)年だ。17(18)年の8月、召集を受けたからね。だから、どっちかって言うと、エラい、用がなくなったのかなっていうような感じもあったんだ。

まぁ、そのときはあれでしょう。みんな大勢の人が行っとるもんでね、さほどに、でも、悲しいとかいうようなことは考えとらんのじゃないかなぁ、どうも。そりゃあ、1人や2人だと、まだ幾人も行っとらんっちゅうようなときだと、ああ、俺はどうしてこんな召集を、俺ばかりが受けてなんていう気はあったかも知れないけれども、当時だったら、まぁ、みんな行っとるんだし、そうだっちゅう気持ちで、別に、特別にどうもこれは、こんなことで悲しいなぁなんてそういうことは考えないですね。

Q:死ぬかも知れないということで、怖くはないんですか、なかった?

うーん。まぁ怖いって言っちゃあ怖いんだけれども。それでもそれが、大体、当たり前かなぁというような気持ちでおったんじゃないのかねぇ。死ぬということは、やっぱり兵隊に行ってみるとですね、まぁ、俺はこれで死ぬんだという気持ちは、みんな持っておりましたね。

それこそ戦死はしたような気が、行く人はしていた。大体したんじゃねぇかなぁ。まぁ始まりの支那事変やあの時分だったら、まぁ、まだ幾人の人が戦死したりいろいろする人が少ないから、うまく行けばまた帰れるという気持ちもあったかも知れんけれども、まぁ大東亜戦争で、私たちは18年、19年に行く時分には、もうほとんどあれだね、まぁ、どうせなら、これでおしまいなんだと言うより他はない。そんなに特別に、どうしようというようなことは考えてられんわね。

宇品を出て、それで出掛けて、どっちへ、自分にはどう言うのかなぁ、兵隊にはそれこそわからんもんで、どっちへ行くんだかわからないって。そのうち、大島のほうまで行ったんですよ。そこへ行ったところが、どうも敵の潜水艦がおるというわけでね。だから1回東京湾へ引き返しちゃったの、その晩に。それでそれから、次の日にまた出掛けて行って。

向こうへ、トラック島へ行くんだけれども、17日もかかってあれで、あれだったねぇ、船がどうも、大正のいつごろかわからないけれども、大正の、それこそどうも始まりじゃないかなぁ、イギリスから、私らの船たちはイギリスから入手したんですね。買って来たらしいんですよ。

Q:その乗っていらっしゃった船が?

ええ。

Q:イギリスから買って来た船だったんですか?

ええ。どうもそんならしいんですね。それだけ古い貨物船のようなものでね。エラい、兵隊が乗っているっていう、すごいっていうような感じの船じゃなかったんですけれども、やっぱり人を運ぶには・・他の戦艦やそういうものは、やっぱり海軍のほうで持っているもので、みんなそれをあれですね、どうもそんな船に乗って。

Q:それで、ずっと船に乗って行かれたわけですよね?

ええ、ええ。

Q:それで、そろそろどこかに着くぞっていうのはどこかの時点でわかったんですか。

いや。トラック島へ行くっていうことは、それはわからないです。

Q:わからなかった?

わからない。こんな小さい、私たちのような一等兵や上等兵ぐらいじゃあ、どっちへ行くんだか、どうなんだか、ただ船に乗って行くっていうだけで。

午後の2時半頃かな、また、空襲警報がかかったんですよ。それで、空襲警報がかかったけれども、また友軍機だろうっていうわけで、みんな船倉の中へ入っちゃったんですよ。そうしたところ、私たちは船酔いも何も、お陰さまでせんもんで、いつも甲板ばかり出ておったんでね。そうしておったら、海軍の、いちばん先が、こっちが、左側が海軍の駆逐艦で、そこで輸送船が3隻こういうふうに並んで行って。それからその向こうに、あれは海軍の、あれ、何だか、普通のああいう船を3隻だか並べて、その輸送船にね、貨物船って言うか、そういうもので運んだんです。それの向こうにまた、向こうの人たちに海防艦っていうのがあって、それが見ているうちにボコボコとやられちゃってね。

Q:それは、見ていらっしゃったんですか?

ええ。そのときはいっしょに、飛行機はこういうふうに来たんだけれども、自分たちの船のほうはちょっと遅かったので、それでこっちへ行った海軍の貨物船だか輸送船は、こっちはボコボコと、3隻でボコボコと行っちゃった。沈んじゃった。

飛行機でやられて。それで3隻とも、本当に見ているうちに沈んじゃったね。ボコボコとやられて。

Q:それは池田さんは甲板にいらっしゃってて、見てたわけですか?

ええ。甲板で見てたんですよ。

それで2番目が私たちの乗った船で、こいつは今のところ何ともなかったもんだったもんだったけど、いちばんお終いのやっぱり3隻だけ、それがあれですね、どうも足が遅いというわけで、またそれもサイパンへ引き返しちゃってね。私たちの乗った船が1艘(そう)だけ、ずーっと進んで行ったわけです。

空襲警報がかかって、こっちの船が先にやられたやつが3隻、3つ飛行機が来て、これはこれで別で、またこっちにも3つ来てね。いちばん先に落としたやつが船尾に行って、それで船がこういうふうに進んでいると、いちばん尻のほうへ爆弾を落としたんですよ。爆弾をね。それで、これはしょうがないもんで当たらなかったから良かったわけで。続いて2番目に来たやつは、また爆弾を落としたんだけど、これが、まぁ本当、あれですね、1メートルぐらい離れたところへ、船のこういう、船がこれだとするとここら辺へバーンと爆弾が落ちたけども、それも当たらなくて良かったですね。だけど、船はもうビショビショになるほど、それこそ水柱が立ってね、入ったんです。それで3機目に来たやつが、こういうふうに来て、幾らか危ないっていうわけで、幾らかこういうふうに回り掛けたんじゃないかと思うんだけれど。これがこういうふうにずーっと回り掛けたところを、今度3機目が来て、そうしたら機関部へ落ちちゃってね。その船の機関部へ落ちちゃったから、本当、まぁ、轟沈(ごうちん)って言えば轟沈だけれども、まぁね、5分以内に沈んだというわけで。ごう沈で。

それが、爆弾を落として機関部へ落ちたから、船が、普通の船だったら横になるなり、どうになるなりして相当までは走ったけれども、こういうふうに落ちたところが機関部だったので、こういうふうに立っちゃってね。船がね、ずーっとこういうふうに行くやつが、こういうふうに立って、機関部でグーンとなっちゃって。それでズボーンと沈んだのです。

Q:それが、もう5分も経たないうちに?

ええ、5分以内に。それから、これは、だけど自分で飛び込むっていう隙も何もないぐらいで、海へ放り出されたっていうのが事実でね。

こっちで、内地で、行くときに、もし船がやられたら50メートル以内はどうしても逃げんと沈んじゃう、ということで聞いたりしたものですから、必死になって。まぁ、あれですね、5分以内に50メートルばかり離れにゃイカンっていうわけで。だけれども、やっぱり救命胴衣っていうのがあってね。こうにやって、後ろにも。それから、こっちは子どもの時分から、天竜川でよく水泳をしてたから、水にはおっかなくはなかったんですけれども、海の水には。こういうこれを着けて、後ろにもこういうふうに、ここから下はあれしてあったもんですからね。いくら泳いだってそんなに泳げないんですわ。それで、これは、やられちゃうかなぁと思ったけど、船のほうは思ったより早く、ズバーンと早く沈んじゃったもんでね。だから、この周囲におった人たちは、割合助かったんですよ。

Q:池田さんは、そのとき、いわゆる胴衣を着けていたんですか? 救命胴衣と言うか、胴衣を着けていて?

ええ。それは。

Q:それは、浮くんですか?

ええ。それは浮くようにできているんです。ここから上はね。上だけ。ここへ、こうやって取っ着けるからね。それだけは、もう絶対放してはイカンという、人の内地からの話で。これは放してはダメだというわけで、それこそそれを着けて、それは1年中、1年中って言えば、船におるうちは着けておったの。

Q:じゃあ、池田さんは海に投げ出されたけれども、その胴衣があるから沈むという状況ではなかったわけですね。体は、ちょっとこう浮いていて。

ええ。体は、ここから上は、まぁどうにか浮くけども、いくらか、それでも、手足を動かさない限りは沈んじゃうわね、やっぱりね。

Q:それにどうされたんですか? それで。

それがずーっと浮いて来たやつを、何でもかんでもみんな集めて、それから、ロープを持っている人とか何からあったもんで、そういう人たちに縛り付けたりいろいろして。これこういうところへ、グルグルグルグルっとこういうふうに、あれですね、つかまったりして。どうにか浮いておったの。

Q:その浮いて来たものっていうと、それは何か筏(いかだ)みたいなように作ったわけですか? 筏とは違うけれども、何か、こう・・

ええ。そうねぇ、筏(いかだ)、そんなものは作らないで、ただ、上へ浮いて来た物につかまっておるだけみたいなもんだね。

Q:こう漂流しているというか流されているときに、お気持ちで、もうダメだと思ったりしましたか? どうでしたか?

そうですね、海に浮いとるうちはね、これはもうダメなんだろうと。結局、島も何も取っつく所はない。ただ海の水だけだし。それから、まぁ何かがあるかどうかはわからんけれども、だけれども、まぁあんな太平洋のど真ん中で沈んじゃったっていうことになれば、まぁ、これでお終いだわなということは考えたですね。ああ、これで太平洋のこの真ん中で、それこそ沈んでしまえばこれでお終いだと。陸軍の支那事変っていうか、中国との戦争では、いくら戦死をされた方も体だけは残ったですからね。だけれども、われわれは、でも海の中じゃあどうにもならんので、これは、結局、これでお終いになるんだということしか考えなかったですね。

本当、いくらかでもケガしたり、いろいろした人が自分で泳げなかったり、いろいろする人はしょうがないもんで沈んじゃうんですね。それで、「ああっ」って言って、こう下へ潜っちゃってるけど、足だけはずーっと見えるから、それに掴まるんですよ。そして、こうやって引き下げられるんですよ。だから、もう、そうなっちゃうといっしょに死んじゃうしと思って、それから気の毒だと思ったけれども、足を払ってね。結局、その方は、もう誰だかわからんけれども、お終いになっちゃうんです。

Q:足を掴まれた方のことなんかっていうのは、やっぱり、ずーっと心に残っていますか?やっぱり。

残りますね。自分でも、自分でそういうふうになったときに、掴(つか)まれる物は、それも掴んで何とかして上へ上がりたいっていう気持ちはあるから、首を突っ込んで、もう息もやっとこで、そんな人でなければそんなことわからないからね。だから、もう必死になって、上へでも、いくらかでも息をして生きたいって気持ちはあると思うけれども、そうかと言って、それじゃあ、押さえて、無理に押さえてやっとったって、そんなことやったら自分の方が沈んじゃうから。

自分は、9時間ばかり経ってから、ようやく、船がどこかでいくらか明かりを点けた船が来てるっていうことを聞いたんで、見えたかって、ずーっとグルグルっと一回り見たけど、目の見る人と見えない人といて、それでわからないんだけれども、船が、先の人たちの救助を、やっぱり海軍の艦船やら何やら、そういう人たちを助けに来ておるんでね、時間が掛かるんですよ。

それでもずーっと9時間ばかり経ってるからね、船が、大分、近い所に来るということで。それから、ほとんどそこに船が、駆逐艦がここにあるとすると、こっちのほうに、遠くのほう方におるんだけれども、もっと早くここへ来ればいいのに、来てくれればいいのにと思うけれども、やっぱりこれ、潮の流れっていうものがこういうふうにあるもんで、順にこういうふうに回って来るんですね。それで、向こうの駆逐艦が助けに来てくれたって言うから、先の船にもういっぱい乗ってるところへもっていって、またこっちからも行くんだけれども、こういうふうに順に回って行って、自然にここに、この船が着くようにできるんですね。それで、そこからロープを放って投げてくださって、それで掴まった人は何でも彼でも、いちばん先、ドンドコドンドコ、ドンドコ登り、登って行く。それで私のほうはケガはお蔭様でなかったものですから、上に登って、本当に息をする隙もないくらいで、綱に掴まって、それで引き上げろ引き上げろっていうわけで、5~6本のロープがあったやつを、みんな掴まりおって、一度に、みんな行ったもんだから大勢でって言うか、みんなで、3人も4人もいっしょにするから、なかなか引き上げられないんですね。みんなで、ヨイショヨイショで引き上げてやっとこさ収まるのですが、あれでお終いに、全部、そうなったか。結局、全部が全部掴まって助かったかどうか、そういうこともちょっとあれですね、どうも・・

Q:いっしょにいらっしゃった30人の中で、必ずしも全員が、じゃあ、上がれたわけじゃなかったんですね?

うん。やはり自分だけって言うか、上がるっていうわけには行かないですから、生きてる人は何でも彼でも引き上げてね。船はもういっぱいになっちゃってね、もう。それでどうしてもしょうがないっていうわけで、まぁ大体、そこに集まっている人たちは、大体、引き上げたと思うけれども。うーん、あまり、今度、船のほうがいっぱいになっちゃうと、それこそ今度また潜水艦なり何なりが来たときに逃げれないっていうわけで。それからしょうがないので、12時、12時過ぎかなぁ、夜の12時過ぎからずーっと走り出して、次の日の2時頃かな、ようやくトラック島へ着いたんですね。

Q:実際に助かって、トラック島に上陸されたわけですが、その後はどうだったんですか? その終戦までの間は。

そうですね、あれは、それでも向こうへ渡ってからは、もうほとんど戦争もないけれども、すっかりあれ、距離がどういうふうにあるのか知らないけれども、ここにトラック島という一つの島が、この四十幾つだか小さい島から、グルグルっとこういう、うんとこういうふうに珊瑚礁というあれがあってね。北水道、東北水道って言って、こっちのほうと、それから南水道っていうのがあって、それだけしか船が入れないんですよ。 それだから、向こうから艦砲射撃は撃つけれども、さほどには感じないんですけども。飛行機ですね、飛行機が毎日来るんです。朝晩、それこそ昼間でも来て。それで昼間の分が、ああ来たかなっていうわけで、防空壕を掘りしな隠れたりいろいろして、どうにかなったけども、夜はちょっと危ないから、やっぱりそういう所へ入ったんですけれども。私も、まぁ衛生兵ということであったから、陸軍で言えば、内地で言えば看護婦さんだ。看護婦さんだったんで、その中隊に入っていたから、2回かな、その空襲に出会って。それから島民の家は、ただ、夜だけ露を避けるだけの、ヤシの葉から何からをそっと乗せただけで、そこに泊まるんですね。隠れとるんですね。それでそこで露をしのぐんだけれども、それで一応は、これで空襲警報がかかって、そのうちに、どこどこに負傷者がおるで出ろっていうことを言われて、それから、夜、それも担架兵という人は担架兵でおったもんで、それが2組出て、それから衛生兵がやっぱり2人ずつ出て行ったんですけれども、島民の小屋が、ニッパで屋根を敷いて乗せたぐらいなのであったやつを、そこへ入って、ちょっとしばらくしてたけど、そのうちに飛行機の音がして来て、気を付けろよっていうわけで。ここに居ると余計危ないで早く出ろっていうわけで、ダーっと出たその瞬間に、こう、ちょうど小屋に当たってね。それからこっちに、それこそあれでも、どのぐらいあるかなぁ、どのぐらいの爆弾だか知らんけれど、まぁ艦載機なんで、エラいそんなに大きな爆弾じゃないと思うけれども、それでも2メートルぐらいの大きな穴が、こういうふうに開いて、これをちょっと出ただけで、それで助かったんですね。

Q:かなり、危なかったですね? それは。

ええ。危なかったです。それでその負傷者を出して、また衛生隊へ運んで来たこともあったけども。

Q:じゃあ、結構空襲がやっぱり怖かったわけですね?

はい。他のあれはそれこそないけど、空襲が何しろ夜・昼間、それこそあるもんでね。空襲はおっかないんですよ。その代わり、飛行機が頭の上を通らなければ、さほどに感じないけどね。夜だと、ちょっと、どっちに飛行機がおるんだか、音によってはわからんでね。

Q:向こうでは食べ物はどうでしたか?

ああ、食べ物はもう哀れなもんですね。そんなことを言えば、嫌だなんて言わないけれどもネズミまで捕ってたね。ネズミを捕ってね。ネズミの籠は、兵隊なもんで、あれなんで籠をこうしておいて、こういうふうに籠に入ったやつを捕って来て、全部、皮を剥いてね、腹わたを全部出しといてきれいに洗っておいて、それで、火を焚いておいて、それで焼いて食べたりね。でもそのうちに、まぁ今度、サツマイモが大分できるようになって来て、他にしょうがないもんで、まぁサツマイモでも何でも彼でも作って、兵隊が。それ専門にやらなければしょうがないもんでね、何も他にしょうがないから、兵隊がもうみんなでイモ作りをして。始まりはそういうわけで、ネズミから何から食べれる物は、草から何から食べれる物は、始まりはみんな食べてたけど、そのうちにサツマイモが大分できるようになったというわけで、サツマイモを作って、それで少しずつ分けて、それを食べてたんですけどもね。

Q:やっと戦争が終わったなというのは、どういう感じでわかりましたか?

あれです、20年の8月の15日ですか。戦争が終わったっちゅうことは、ちょっとすぐはわからなんでね。なんか天皇がなんとか言うっちゅう、あれは、無線で入ったようだったけども、しっかりしたことはわからなくて、8月の17日ぐらいかな、15日に終わって戦争は負けたということになってから、向こうのトラック島のあれでも隠してたんじゃないかな。 それから、あの声があんまりしっかり聞こえてなかったらしくてね、どうも17日ぐらいに、あぁ戦争がいよいよ終わったわいということに気づいたんです。

出来事の背景出来事の背景

【証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場】

出来事の背景 写真日中戦争、そして太平洋戦争。8年にわたり、300万人以上の日本人が命を落とした「昭和の戦争」は戦場から離れたふるさとの人々も一体となった総力戦でした。
長野県の伊那谷、旧南向村では、昭和12年の日中開戦以降、終戦までの間に946人が出征しました。村を離れる兵士たちは、村境の天竜川にかかる「坂戸橋」を渡って戦場に向かいました。「生きては帰れない」という気持ちを抱きつつ、迷いなく出て行く兵士たち。坂戸橋では、盛大な見送りが繰り返されました。南向村は、この橋を介して「昭和の戦争」とつながっていたのです。そして、2度と帰らぬ人が増えていきました。

一方、ふるさとから出征した兵士たちが送られるアジアの戦場では、多くの民間人を巻き込んで苛酷な戦闘が行われていました。中国北部の山西省。日本軍は毛沢東率いる中国共産党の軍隊「八路軍」のゲリラ戦法におびやかされていました。八路軍は多くの農民を民兵として戦闘に加え、戦力の勝る日本軍に対抗しました。これに対して、日本軍は、敵性ありと認めた場合、集落の焼却や住民の一部の殺害もやむを得ないという徹底した討伐を兵士に命じました。こうした日本軍の姿勢に、住民はさらに反感を募らせていきます。
また、太平洋戦争の終盤、フィリピン・ルソン島の戦いでも、日本軍は抗日ゲリラ部隊に苦しめられます。住民が参加し、ジャングルに潜むゲリラ。日本兵は、あらゆる場所から狙われました。フィリピンでは、日本軍の占領政策で深刻なインフレや食糧不足が起き、住民の生活が破壊されたのです。

住民の敵意に包囲された戦場。ふるさとから出征した兵士の多くは、逃げ場がない中で、絶望的な戦いを強いられ、命を落としていったのです。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
長野県上伊那郡南向村(現・中川村)に生まれる
1943年
東部第50部隊(松本)へ入隊
1944年
1月、広島県の宇品港からトラック諸島へ出港
 
2月、途中、米軍の攻撃で船が沈没
1945年
トラック諸島で終戦を迎える
 
戦後は農業を営む

関連する地図関連する地図

日本(長野)

地図から検索

この証言に関連したキーワードこの証言に関連したキーワード

関連する証言

NHKサイトを離れます