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タイトルタイトル: 「入隊に至らず」 番組名番組名: [NHKスペシャル] 証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場
名前名前: 桃澤 誠さん(長野県・旧南向村(ふるさとの戦争体験) 戦地戦地: 日本(長野・旧南向村)  収録年月日収録年月日: 2011年11月1日

チャプター

[1]1 チャプター1 職業軍人を目指して  05:52
[2]2 チャプター2 兄の出征  02:27
[3]3 チャプター3 入隊には至らず  09:33

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わしは、18歳のときに紺かすりの着物を着てね、諏訪の上諏訪、あそこへ行ったら玉川村の人たちは紋付き袴(はかま)で来ておった。
そしてわしはかすりの着物を着てね、18歳だからまだ体が小さかった。それで行ったら、「平澤誠」っていちばん先に呼ばれて、それで行って、それで検査をしたら、その検査官が「いや、君はよく」、学校は2年だ、「よく志願したな」と、「立派だ」と褒めてくれたね。それで体格がまだまだあれだから、もう少し、勉強っていうことないけど、もう少したってから来るように、「残念ながら不合格だ」と。そうしたら僕は悲しくてね、もう、泣いて帰ってきた。それで親戚の人たちは「どうだった、どうだった」って言うんで、「いや、だめだったあ」、がっかりしちゃってね。それが18歳のとき、わしはね。

Q:職業軍人になりたかったんですか。

そうです。だって他に職がないの。

Q:それは軍人になるっていうことは戦争に行くっていうことですよね。

うーん、当時は戦争なんていうことはちょっと考えなかったな。まだ戦争という言葉があんまり使わなかった、そのころは。「戦争、戦争」って言ったのはね、昭和9年、わしがあの徴兵検査受けたときに、僕は怒られ、すごい、部会長が「平澤君は気の毒だったな」って言うぐらい、いちばん怒られたの。
あのね、松本のね、アオノ大佐、目が片方悪いからここへこういうふうにしてね、それで軍属と2人でこう来て、それでこの南向村の部会長から、兵事係から、村長から、助役から、偉い人が10人ぐらい並ぶ。それで片桐村、今の向こうっ側、あれも来て、そしてその机を1つ前、ここへ置いて、それで軍属と、軍属がいて、そのアオノ司令官というね、大佐だった、位は大佐だった。それで僕のことをね、僕はね、当時頭の毛を長くしておったんです。それで実は徴兵検査だということできれいに7分3分に刈って、ここら背広、希望しておった背広を着て、写真があるけどね、行ったの。
そうしたらそのアオノ大佐の言うことは、「貴様」って言うんだけど、当時は「貴様」だ、「貴様、まだ背広を着るという柄じゃないんじゃないか」、当時は学校の先生か村長さんか、何かの人でないと背広着なかった。まだ着るなって言って、「貴様」って言ったね。当時は「貴様」、「貴様は背広着る柄じゃないんじゃないか」と。それでこの頭の毛も長くしておったら、「どうして頭の毛を長くしている、女に惚れてもらうつもりか。何と思う」と言って、「いいと思うか、悪いと思うか」って言って、追及をされたものだから、はて何て言っていいかなと思って、「はい、悪いと思います」って言ったら、「悪いと思ったらなぜするんだ」って、すぐやられた。

Q:徴兵検査のときに、兵隊になるっていうふうに思ったとき、そのときはどんな、どういう兵隊になりたかったですか?

兵隊? いや、わしは希望はどういう兵隊っていう、そういうあれは考えていなかったね。とにかく、甲種合格になればね、甲種っていうのは真っ裸になって、痔(じ)の検査、陰部の検査、内臓、身長、体重、もう全部が整っている者が甲種合格。書類があるけどね。

それで、わしの兄貴は飛行隊に行ったのよね、この間も言ったように。ここで南向村っていって、ここはいま合併して中川になったんですけど、前は南向村だった。そのときの飛行隊っていうのは、当時ね「飛行隊」っていうの、今「航空兵」っていうけれど、飛行隊というのはね、うちの兄貴が初めてだった、この村に初めて。ほいでみんなびっくりしたし。
うちの兄貴はもう近所の人もね、飛行機、飛行隊だから飛行機に乗れば落ちてば、落ちるんじゃないかということを心配しましてね。したら、ご近所の学校の校長先生が、「いや、珍しい兵隊になったんだからそんなことをしないように」。うちの兄は馬が好きだから騎兵になるって言って、「そんなことをしないように飛行隊になりなさい」って言ってね、そのままでおったです。
そうしたらね、乗る操縦士じゃなくて、三方原から行ったんだから、浜松、あの静岡県のね、三方原ね。気象観測士になったの、お天気を見るほうにね、2年。それで青年学校を出ていったから1年の8か月で帰ったけどもね。

Q:お兄さんが兵隊になられたとき、それを見てどう思いましたか。

いやぁ、うれしかったですね、ええ、兵隊になって。とにかくね、兄さのときは僕のときと違って赤穂(現・駒ヶ根市)へ行ってね、検査をしたんですけども。そこで即ね、飛行兵って分かったわけです、兵科は。

それこそウチョウ、鳥の羽根と同じことで、何ともなかったよね。今みたいにね、今は命を大事だ、大事だと思っているけども、当時なんか命なんていうことはわしは考えなかった。軽かった。特攻隊に行ってもいいし。

Q:桃澤さんに召集令状が来ましたよね。そのときはどんなお気持ちでした?

いやあ、うれしかったですね。わし2回受け取ってる。

Q:最初に受け取ったとき、うれしかった。

そうね、いや、周囲のものは行ってるでしょう。だから、若い者が段々残っていくでしょう。だから、どうかこの、ここに残ってるっちゅうのが、なにかこう、気持ちの上でね、なにかこう寂しいっていうか、悲哀を感じるというか。やっぱり兵隊に行きたいなって思ったね。だから、召集令状が来たときはうれしかったですね、僕は。僕はようやく国のための一人前になれたかなと思って本当に、バンザイだった、ほんと。うれしかった。

Q:バンザイですか?

はは、うれしかった。2度目のときは結婚して来とったから。だから、あんまりうれしくなかったけどね。

Q:やっと兵隊として一人前になれる、召集令状が来て、出征するとき、出征するときはどういうことをしました? 皆さんがお祝いしてくださったんですか?

ええ、親戚の者がみな集まってお祝いしてくれた。うん。それで桑原との境までね、来て、あそこで花火をね、1人1本花火上げた。3人。金沢へ2人。そして、僕は富山48部隊(東部48部隊)へ3人。

Q:戦死して帰って来られない方も村にはたくさんいらっしゃいましたよね? 戦死するかもしれないですよね、兵隊に行くと? それはどう思われました?

それはもう命は、戦死は覚悟ですよ。けど、まだ僕はね、第1回目の召集のときには戦死の人はいなかった、日本は。幾人かはいたかもしれないけどね、新聞は報道したり、テレビあったか、ラジオだな。テレビはない、ラジオで当時は幾人かはあったぐらいで、そんなになかった。戦死っちゅうのは。

Q:それでも死ぬかもしれないっていうことは思いませんでしたか?

死ぬかもしれない? いやあそれは、そんなに深くは思わなかったな。うん。けど、覚悟はしてたよ。赤紙が来れば命と引き換えだからね。昔は一銭五厘って言って、葉書が一銭五厘の切手だったの。一銭五厘一銭五厘って言ってたけども、赤紙の召集令状。ここな。それは命と引き換えだから、行く時は赤紙令状受け取った以上、命は国に捧げてる。引き換えだ。

僕はね、本当、これは正直なこと言うとね、わしも「爆弾三勇士」、特攻隊に入ろうと思ったの、兵隊に行ったら。特攻隊、爆弾を抱えて行って、敵の陣地に食い込んで。僕は2番目でしょう。それでもちろんいないでしょう。だから兵隊に行ったら特攻隊へ志願していって、爆弾抱えて行って、敵陣に行って、そういう気持だった。うそじゃないよ。これは本当なの。

Q:特攻隊に行って、死にたいって思うようになったのはどうしてですか。

いや、とにかくね、国のためって、ばかにそのときは国っていうことを考えていたんです。個人のことよりは国のため。それで国のためになることは、国のためになった者は靖国神社へまつられて神様になると。国のためだね。とにかく国のため、国のため、何でも。

何をっていうかね、要するにその、体を犠牲にしてね、国のためになったら、僕の体も犠牲になっても国のためになったらいいなと思って、国のためっていうことを考えてね。個人のこと、自分のことでなくて国のため、その一心だったね。個人の欲望とかいうことじゃなくて、個人のことは破棄して、国のため、日本の国のため。国っていうとばかにこう、ばく、とりつまみもねえ、国っちゅうだけじゃあれだけどね。

ここにずっとあってね。この中に入ってるのは遺書と爪と髪の毛と、ここに入って、いつも枕元に置いて寝とった。いつ召集が来てもこれ持って行けるということで。これは東京から持ち回って歩いた。これ。

Q:さっき遺書っておっしゃいましたが。

ああ、遺書。わしゃ歌が好きだからこれ遺書あるよ。歌って、これみんなあれですよ、徴兵検査のときの甲種だったけども、名簿が、友達のこれ全部。

わしは平澤っていうんだよ、旧姓。徴兵検査のときのこんなもの綴(と)じてる人いないでしょうね。どこにも。ああこれ、出たときの名簿だ。で、ここに僕の、あのあるのがね、ここに、特務兵。特務兵ね。

Q:どこに書いてあるんですか?

これ兵科がみんな書いてある。歩兵でしょ。

Q:平澤さんはどこですか?

特務兵平澤誠。特務兵。選外、選外になっちゃった。だから行かなかった。

もうわしはね、2回召集受けてるし、もう命は国に捧げておったの、この帳見ても。命というものをね自分で、今は一日も多く生きたい生きたいと、個人的に。だけどこのときはね、もう自分は国の命だから、日本の国の僕は命だから、いつでも捧げますよというこれは遺書だ。これ遺書、これは生死の境い道。死ぬと生きるとの境い道の境だ、これは。だから、これはもう戦死しても悔いはないの、うん、もう。
今はね、今は平和になってきたから、「いや一日も多く生きたいなぁ」ね、そんな気持もある。このときはそんなことねぇの。戦死することが国のためで、名誉であると。家庭の名誉、国の名誉。

出来事の背景出来事の背景

【証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場】

出来事の背景 写真日中戦争、そして太平洋戦争。8年にわたり、300万人以上の日本人が命を落とした「昭和の戦争」は戦場から離れたふるさとの人々も一体となった総力戦でした。
長野県の伊那谷、旧南向村では、昭和12年の日中開戦以降、終戦までの間に946人が出征しました。村を離れる兵士たちは、村境の天竜川にかかる「坂戸橋」を渡って戦場に向かいました。「生きては帰れない」という気持ちを抱きつつ、迷いなく出て行く兵士たち。坂戸橋では、盛大な見送りが繰り返されました。南向村は、この橋を介して「昭和の戦争」とつながっていたのです。そして、2度と帰らぬ人が増えていきました。

一方、ふるさとから出征した兵士たちが送られるアジアの戦場では、多くの民間人を巻き込んで苛酷な戦闘が行われていました。中国北部の山西省。日本軍は毛沢東率いる中国共産党の軍隊「八路軍」のゲリラ戦法におびやかされていました。八路軍は多くの農民を民兵として戦闘に加え、戦力の勝る日本軍に対抗しました。これに対して、日本軍は、敵性ありと認めた場合、集落の焼却や住民の一部の殺害もやむを得ないという徹底した討伐を兵士に命じました。こうした日本軍の姿勢に、住民はさらに反感を募らせていきます。
また、太平洋戦争の終盤、フィリピン・ルソン島の戦いでも、日本軍は抗日ゲリラ部隊に苦しめられます。住民が参加し、ジャングルに潜むゲリラ。日本兵は、あらゆる場所から狙われました。フィリピンでは、日本軍の占領政策で深刻なインフレや食糧不足が起き、住民の生活が破壊されたのです。

住民の敵意に包囲された戦場。ふるさとから出征した兵士の多くは、逃げ場がない中で、絶望的な戦いを強いられ、命を落としていったのです。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1914年
長野県上伊那郡南向村(現・中川村)に生まれる
1934年
徴兵検査で甲種合格
1942年
召集令状が届くが、検査で入隊が許可されず帰郷
1945年
結婚し桃澤家の婿になる
 
再び召集令状が届くが取り消しになる
 
戦後は農業を営む

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日本(長野・旧南向村)

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