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タイトルタイトル: “日本のために働く” 番組名番組名: [BSプレミアム] 三つの名を生きた兵士たち ~台湾先住民“高砂族”の20世紀~
名前名前: 蔡 慶隆さん、李 輝雄さん(台湾“高砂族”の戦争 戦地戦地: 台湾  収録年月日収録年月日: 2011年3月19日、3月20日、3月21日

チャプター

[1]1 チャプター1 三つの名前  03:50
[2]2 チャプター2 皇民化教育  08:20
[3]3 チャプター3 「日本のために働きたかった」  03:59
[4]4 チャプター4 海軍での任務  07:00
[5]5 チャプター5 日本の敗戦  06:42
[6]6 チャプター6 教師になった蔡さん  01:52
[7]7 チャプター7 戦争の記憶  06:08

チャプター

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番組名番組名: [BSプレミアム] 三つの名を生きた兵士たち ~台湾先住民“高砂族”の20世紀~
収録年月日収録年月日: 2011年3月19日、3月20日、3月21日

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Q:この辺の家屋は。

蔡:全部あのとき、日本時代に建てた家ですよ。暴風雨で相当やられているね。今修理されているのは向こう側。

Q:この辺は今は住んでいない。

蔡:住んでいない。まだ修理していない。

Q:これも相当古いですよね。

蔡:結局やっぱりこれなんかは70年ぐらいですね。この宿舎は70年ぐらい。

製糖会社(台湾製糖株式会社)がね、製糖会社がまだ空襲のためにやられないときは、やられていないときはきれいなもんですよ。きれいに。日本時代にね。だからこの庭園の作り方、この石なんかでも河っぱらから石をこうして運んで。この庭園を造ったわけです。で、ここの宿舎はほとんど日本人が住む宿舎です。

Q:日本時代のお名前は…?

蔡:貞夫。貞は新田義貞の貞。この「ト」書いて、下は「貝」。あの貞です。オは夫のオ。

Q:この名前は誰が付けた?

蔡:僕がちょうど昭和15年で、僕はあのとき花蓮港の農業補習学校。農林学科じゃなくてね。補習学校といえば、大体小学校の高等科くらいのもの。補習期間ですよ。そこで勉強したときに、校長先生に薦められて、「君、蕃社(日本統治前からの先住民集落の呼称)の名前じゃね、将来どうしても変えるから」。そのときに姓名変更申請して、許可されたの。

Q:元々の名前はウナク・ラランさん。

蔡:はいはい。

Q:今はサイ・ケイリュウ…

蔡:蔡慶隆。3回も名前変わった。

Q:こんにちは。

李:いや、恥ずかしいね、これ。歯ないから。

蔡:ここへ、ここへ。

Q:どうぞ。

蔡:珍しいですね、日本人。本当珍しい。長いこと日本語、話す機会ない。僕はね、友達と一緒におったら日本語話す。忘れない日本語。日本人来ても恥ずかしくないよ。

日本に行っても大丈夫だろ。

李:大丈夫。もう年とっているから日本に行くこと出来ないもん。

Q:立派な日本語で、さすが。

李:日本の生き残りで50年教育されたから。

Q:元々お生まれも同じこの村?

蔡:そうです、同じ村。

Q:馬太鞍蕃社。

李:昔からね、小さいときからいつも一緒。今日まで。

Q:1歳違いですね。

蔡:身体が大きいからね。

李:あほ。(蔡さんは)学校の先生。私は何やったか分からない。

Q:蕃社の学校の授業内容は?

蔡:授業ですね、小学校と変わりないですね。

結局あのとき皇民化…コウは天皇の皇に、天皇陛下のね。皇民…ミンは人民の民。皇民化されるようにと日本の政府が進めているわけなんだ。

必ず毎週の一時間目は修身の時間。

Q:修身の授業はどういう事を習う?

蔡:修身、結局読んで字の如し、シュウは、修める、身体。修身。結局我々の生活のための…。それから国家の状況。こういうふうにやりました。

Q:日本の昔の有名な人の話とか?

蔡:ええ、偉い人なんかのね。楠木正成とか、乃木大将、東郷元帥とかね。

豊臣秀吉と木下藤吉郎。まあ、深い歴史はそれは大体忘れた。西郷隆盛とかね、伊藤博文とか西園寺公望とか松岡洋右とかね。明治維新の偉人なんかね。僕は学校出ているからその事少し分かる。まだ覚えている。

二宮金次郎の…あるときに銅像あったくらいだったね、学校に。二宮金次郎…こう薪をこう背負っている。

僕、日本人のね、日本人の下級生なんかね、とっても可愛がった。友達は友達で同じ4年生5年生になる。友達同士けんかもした。彼はもう柔道初段。柔道初段。僕は相撲だから、僕なんかは相撲をやるでしょ。で、彼は柔道。捕まえられたらもう最後だ。ところが、けんかでね、何かの口争いでけんかした。運動場の真ん中。400メーターのあれよ、トラック。あそこの真ん中で、日本人もたくさん見とるよ。下級生がね、3年生とか2年生とか1年生とかね、・・しっかりやれー、やれーって。日本人に応援するの。ある者は僕に応援する。やっぱり日本人よ。もちろん台湾人は僕に応援するよ。よーし。おまけに雨。雨の真ん中の泥だらけ。最後にどっちも勝てないから、よし、別の要領(方法)を使って。これ分かる。僕なんかアミ族の独特の技術あるの。というようなこの足で蹴る。あの技術。ところが彼らは分からない。

李:馬と同じ。

蔡:ものすごい…ポーンと彼のここの骨当たって、立てない。「伊藤、参った」。僕はもうあれで終わり。こいつ僕起こして、教室まで連れて行った。こういう事今でも本当忘れない。ところが今あの人はね、九州の熊本におる。熊本。僕行ったら阿蘇山行こうと言ってね。とても良い。最近は連絡はしていないけどね。

Q:小学校で厳しく日本語勉強して良かった?

李:うん、やっぱり本当に良かったと思っている。

Q:どういうところが?

李:ところがね、自分が大人になって、少し物言えるときに、やっぱり日本人がこういうふうに教育しなかったら、こんな知識分かるもんかなって自分で理解するよ。だから、やっぱり日本人来ても、やっぱり私に信頼するよ。私も日本人に相当お世話になった。

蔡:こうして考えると、そうですな…やっぱり日本のときの本当あの政策はね、とても良いの。

あのときは何だったかな…農業指導員ってやっぱりおったですよ。あれがね、この機械、昔の草取りとかね、水田の植え方とかね、そういうふうな機械も段々研究して、あれしたもんだから、農業が発達したの。

この台湾人…この…特にアミ族。この台湾…高砂族をね、こう上げたのは、やっぱり日本のあの政策だったの。

李:当時は皆勇ましいよ、若い者。兵隊出たくてしょうがないの。

Q:出たくて?

李:うん、何しろ兵隊に行きたいのは、結局日本の軍人の服装はね、とっても活発(格好いい)。だからあれで…。

蔡:憧れて。

李:憧れて。

Q:活発?

李:うん。

Q:日本兵の服装?

李:服装。私も海軍の服装見て憧れた。

蔡:今でも海軍の帽子とかありますよ、僕。保存している。

Q:どうやって軍隊に?

李:兵隊に。

Q:兵隊に。

李:やっぱりね、自分の気持ちで「僕は兵隊に行く」って言って。試験しに行くよ。

蔡:結局、海軍志願。

李:海軍志願。

蔡:志願兵として行ったの。

Q:どういう気持ちで志願した?

李:「私はどうしても日本のために働く」っていう気持ちがあって兵隊に行きたかったら役所行って申請して試験するよ。

Q:日本のために働きたかった?

李:日本のために。そう。私、相当日本人からドヤされた。兵隊行って。あの高雄海兵団。

海軍訓練はちょうど8か月あるから、どうせ特攻隊に編入した。あのとき…恐ろしい…。そして、翌日の朝、僕らやっぱり責任あるから海の近いところ、航海したけれど、流れた死体が皆台湾の沖に来た。かわいそう。

あれから6時高雄出て、グーっと潜水艦をただ捜索するだけ。見るだけ。そして、もし見えたら結局日本の兵隊本部に報告する。「今潜水艦何隻歩るいとる(航行している)」と。報告するよ。あれの監視だけ。そして、ちょうどフィリピンまで着いたの8時。あのくらい早い。160マイルから140マイルだったかな、あの船。小さい。

夜ね、暗いよ。そしたらね、うちの船、皆偽装しているから青いペンキ塗って見えない、あんまり。夜の夜中、ちょうどバシー海峡まで行ったら、波荒いんだよ。すると、モワー…うちの船は軽いからね、波の上でずーっと歩いているよ(航行している)。そしたら、アメリカの潜水艦みんな、波流れるとこにおるのよ。波の来ないとこにはね、おらないよ。やっぱり恐ろしいよ。

李:結局航空…。

蔡:結局あれの訓練生みたいなのです。で、あのときに予科練があったでしょ。7つボタンのね。第1回の予科練は、皆大学卒業の者。第2期は、中等学校出身の者。結局あの年に台湾に予科練…台湾人ね、予科練しかれたのよ。6月、終戦間際も後2か月…あと1か月で終戦ですよ。あのときに予科練のあれで…。結局僕なんか予科練の丙種。丙種予科練。

Q:軍隊行ったのは何人? 何割?

蔡:僕なんかの同級生ほとんど行っているから…。

李:ほとんど行っている。

蔡:ほとんど行っている。

李:結局体格の悪いやつは、みんな戦地行かないけども、国民兵と言って、結局台湾守りの兵隊。国民兵。

Q:亡くなった方もいる?

李:おるおる。沢山おる。亡くなったの。

蔡:そうですよ。結局島外ですね。台湾の島の、この以外に出た者はほとんど…そうだね、帰ってきた者は、見てみ…僕なんか…あんとき、どれくらい、…あのときはまだ帰ってこない人も沢山いた。

李:恐いよ、あれ。潜水艇に乗るの…しかし潜水艇は小さいからね。そして、きれいに海の偽装をしている。あまり見えない。その代わり、飛行機来たら歩かないよ(航行しない)。歩いたら、白い波に流れるから。見える。

蔡:後ろの白い線が出来るでしょ。だから、ストップして、海の色と同じ。なかなか発見しない。

李:いちばん危ないのはね、ちょうど真ん中…降下する間にカーチス40(米軍機)が何機と行って飛ぶよ、あれ。低く飛ぶの、あれ危ないよ。

蔡:戦闘機。

李:戦闘機。

蔡:偵察機もね、偵察機もひどい、あれ。(PB3Y)とか。(PB2Y)とか。(PB1)3種類あるんだ。やつらね。

Q:潜水艇に乗っているときに飛行機が来たら、どうやって分かる?

李:見えるよ。

蔡:上からだから、上から見える。

李:潜水艇乗るのは、1人は運転手よ。1人は防空監視。そして、1人は操縦は機関銃撃つ。あれだけ。3名。恐いよ、あれ。あれ、後ろの魚雷積んでいる。2発。

蔡:終わりよ。

李:もし敵が追っかけたときに落とすよ。

Q:自分たちが突っ込むのではない?

蔡:結局そうですよ。結局突っ込むもある。やっぱり発射する。魚雷はね。魚雷。

李:海も恐いですよ。上…空も恐い。だから、私の周囲の(潜水艇の)運転手、いつも泣くよ、あれ。臆病よ。臆病、本当。

蔡:僕なんかね、飛行場で、特攻隊ね、毎晩送るのよ。あのときちょうど、沖縄の…。本当に彼ら、あんな19歳、20歳…。沖縄特攻隊って言ったらないよ。

見たら、皆もう鉢巻、あれしているですよ。これ、特攻隊…沖縄特攻隊というニュースが入ってきたの。あの状況っていったら、本当に…僕なんかも泣きますよ。本当に。彼ら(特攻隊員)の行動を見ると、本当に、国のためと言うようなあれ。もう涙出る。知っている人がおった。ちょっとの2日間の知り合いで、本当に…。僕をこう…激励してくれたよ。あの人が帰らない…帰らなかった。特攻隊でもですね、必ず死んで帰れ…こう言わないですよ。まあ、口だけは、死んで帰ろうと言うような…。

李:誰でも死ぬの恐いよ。

蔡:やっぱりね、あの羽のやつの、この飛行機の翼のこのいちばん先ね。もう折れてないの…帰ってきた。そんなのがね…。僕なんか本当…。

蔡:終戦の…終戦と同時に、各部隊付属の者は各部隊の本部にみんな集中(集まった)。例えば南台湾航空隊はね、皆台南の飛行場に皆集中。何万人かの兵隊はね。で、集中して(終戦を)宣告する訳。僕なんかは、もう戦争はこれで打ち切りというようなあれでね。

Q:終戦のときはどちらに?

李:終戦? 終戦はやっぱり高雄海兵団が集まって。あそこで命令下す。どこの部隊は何月何日帰りなさい。どこの部隊は何月何日帰りなさい。あのときいちばん最後に帰った。高雄、あのとき1回は本当は南から…。

蔡:屏東(台湾南部)周りを…

李:屏東周りを…あのとき私軍服なんかを相当背負って、喜んで帰ったよ。そしてやっぱり士官から日本刀もらった。そしてあの日本刀必ず見せて帰らすと思ってね、立派に縛ったけれど、ちょうど台湾の屏東の下淡水渓のところ、あの汽車が止まっている。橋の真ん中。あのときに支那人のやつが入ってきて調査する。逃げる道ないよ、もう。

李:あんときに大事なもの皆、川の中に捨てた。そして着物も支那人が皆接収した。せっかく喜んで持って帰ったけどね。

蔡:停戦の宣告したときに、ある部隊長か何か知らんけど、やっぱりね、あのときボーイング…ノースアメリカンは、双発爆撃機。低空でね、僕なんかの頭ヒャー。あれ、見て癪に障る。誰にもそう。

日本の軍隊に訓練されているでしょ。で、相手からこういうふうに侮辱されて…飛行機が自分の頭の上にカーっと何機もこう通るでしょ。ある中隊長はやっぱりピストルでピャーンってやりました。

李:あの天皇陛下、停戦(終戦)布告したときの晩だけ、いちばんかわいそう、日本人ね。あのときは中隊長か大隊長が集まってやっぱり停戦布告の講話やる。あのとき僕らの前でも泣いて怒られた。「これからまた、あんた方は日本が戦争負けても、再びまた起こったときは、このような精神で毎日精神を納得させないと、しないといかん」と言った。あのときはもう厳しい事なんか…何か日本人は。馬鹿野郎って言うよ、皆。台湾人ね。相当ドヤされたから、やっぱり恨みあったよ。私みたい…何名か…60人か。

李:もう余計話してもね、僕らに痛い心が気につくからうるさいよ。

蔡:これまで生きたんだから。

Q:痛い心とは?

李:自分で重い。日本人から相当どやされて。飯も食べられないときもある。そして、あちこち野外演習やるときでも、まだ民衆の人に怒られてね。たたかれるときある。

Q:終戦後、それまで日本人で、中国人に…。

李:なった。

Q:苦労した事は?

李:終戦後はもう何にもない。結局中国人がここ入って来たとき、僕ら話も分からない。今でも通じない。勉強していないから。勉強しなさいって言っているけど、僕らもう日本人になりきっているから、あんな支那人の事を考えない。人情ないよ。

Q:人情?

李:人情ないよ、昔の支那人が入ったときに。やっぱり相当中国の兵隊でも、僕らにドヤす事あるよ、たくさん。ところが、もうあんまり僕ら兵士の民衆は、あんまりそんな争う事はいらないよ。来たら来たで良い。あれだけ。別に何も干渉しない。

蔡さん:こうして60年突破して、まだこうして皆会えるからこれ幸いね。

李:伊藤さんね、学校の先生やってきて、ずっと長く学校の先生やって、彼の生徒、偉い人たくさん。学校の校長もやる。感心よ、私ね。

蔡:結局ね、僕の教育ね…。

李:教育受けて偉い人沢山出たよ。

蔡:1年生から6年生まで、皆、僕教えている。

結局そうです。日本式の教育やった訳なんです。光復(台湾が日本による植民地支配から解放されたこと)早々ね。あのときは、あんまり、国語(北京官話のこと)はあんまり分かる人いないのよ。ほとんど台湾語とかね、アミ族のあれ…日本語を少しやっとる訳。

Q:日本式の教育とは?

蔡:厳格に。例えば宿題。このやってない子どもなんか厳罰。すぐやらす。できないと帰らさん。そういうふうに話する。一生懸命よ。

李:だから、今の生徒のうわさはね、伊藤先生はいちばん生意気な先生と言われているよ。

蔡:厳しい。

李:厳しい。

蔡:ところが皆成功しているクラス。それとね…。

李:だから偉い人沢山出たよ。

蔡:これが夏服。夏服。これは士官の帽子です、あのときね。で、士官級の。

Q:当時のものですか?

蔡:当時のときの。本当はあの丸い帽子だったらあのひさしのないのね。大日本帝国海軍の。これはない。士官の。

李:士官のね。

蔡:あんたの着物ちょうどいいよ。あんたこれ、上着あるから。かぶってみて。

李:年寄りの海軍の兵隊…海軍の帽子かぶったら…
(蔡さん李さんに帽子をかぶせて敬礼する)
蔡:敬礼するの。日本の海軍の敬礼ですね。こうやらないの。みんなこう。というのは、艦上で場所がないでしょ。こうやると隣の帽子も落ちちゃう。だからこんな。僕のこの指をまっすぐにならないの。けがをしてね。まっすぐにならないの。
丸い帽子がかっこいいよ。ひさしのないやつね。大日本帝国海軍って書いてある。

李:あれで日本の海軍に憧れて志願したの。

蔡:あのときの♪守るも攻めるも~

李:あれはね、朝起きて「起床~…」

蔡:号令かけてもまだ分かるか?

李:分かるよ。

蔡:あのときのあれよ。タバコボン(煙草盆)出せ。実際にタバコなんて本当のタバコを吸うんでなくてね。休めっていう事なの。

Q:休憩。

蔡:えぇ、休憩という事。だからお互いに・・お互いに椅子なんかで談話するわけなの。それは最初に入ったときに、たばこぼん出せって、たばこって机の上にもない。たばこもない。あれがね、とにかく想い出。とてもかわいい。あの声。

Q:こういう話ってしょっちゅうされるんですか。こういう想い出話ってしょっちゅうされるんですか?

李:そう。やっぱり、

蔡:僕は耳が少し遠い。

李:やっぱりね、何かの集まりで想い出。海軍の号令出せっていう。

蔡淑英さん(蔡さんの娘):(歌う)♪若い血潮の予科練の~。

蔡さん&李さん:(歌う)♪若い血潮の予科練の~七つボタンは桜に錨。今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ~でっかい希望の雲がわく~ダダダダダン

蔡:基地は霞ヶ浦ですよ。霞ヶ浦は僕は行ったことないけれど。横須賀とか佐世保とか。僕は行った。

Q:あちこちに行かれていますよね。

蔡:呉。あれは横須賀、東京湾の、横浜の脇。あそこで本当に想い出。駆逐艦がな。それから巡洋艦が一隻と駆逐艦一隻、それから掃海艇。並んでちょうど出航のとき。(軍艦マーチ歌う)♪守るも攻めるも黒鉄(くろがね)の、浮かべる城ぞ頼みなる~浮かべるその城日の本の皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし。真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に~仇なす国を攻めよかし~

出来事の背景出来事の背景

【三つの名を生きた兵士たち ~台湾先住民“高砂族”の20世紀~】

出来事の背景 写真標高3500メートルを超える山々が連なる台湾の山岳地帯。ここには、数千年の昔から台湾の先住民が暮らしていました。日本が台湾を統治していた時代、先住民は総称して「高砂族」と呼ばれていました。彼らは、戦前から戦中、戦後にかけ、激動した台湾の歴史の中で、三つの名前を生きてきました。自らの民族の名前、日本統治時代の日本名、そして戦後の中国名です。
「高砂族」の若者たちは、太平洋戦争中、日本軍の兵士や軍属として戦地に送られ、密林や山岳地帯などの戦場で、日本人を支えました。その勇敢な戦いぶりが、日本軍から高く評価される一方で、ゲリラ戦などにも投入され、数多くの若者たちが命を落としました。
さらに、終戦後、日本は台湾を放棄しました。変わって、蒋介石の中国国民党が新たな支配者となります。“日本人”として育った「高砂族」の若者たちは、それまでと全く異なる社会の中で生きていかなければなりませんでした。「高砂族」の人々は、国家と戦争に翻弄される激動の20世紀を生きてきました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1924年
(蔡さん)台湾花蓮港庁馬太鞍社(現・花蓮県光復郷)に生まれる アミ族
1925年
(李さん)台湾花蓮港庁馬太鞍社(現・花蓮県光復郷)に生まれる アミ族
1945年
(蔡さん)海軍特別志願兵として台南海軍航空隊に入隊
 
(李さん)海軍特別志願兵として高雄海兵団に入団
 
(蔡さん)8月 、台南で終戦 その後は、小学校教諭に
 
(李さん)高雄で終戦 その後は、鉄道会社、運送会社などに勤務

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