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タイトルタイトル: 「日本海軍軍属として」 番組名番組名: [BSプレミアム] 三つの名を生きた兵士たち ~台湾先住民“高砂族”の20世紀~
名前名前: 陳 太平さん(台湾“高砂族”の戦争 戦地戦地: 台湾 満州(大連) 朝鮮(群山)  収録年月日収録年月日: 2011年3月21日

チャプター

[1]1 チャプター1 日本海軍の軍属になる  05:58
[2]2 チャプター2 沈没  08:26
[3]3 チャプター3 終戦  06:18

チャプター

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海軍じゃなくて軍用船の乗組員。専門は戦地までいろんな弾薬を運搬する船に乗った。

(男性:脇から一言)

海洋訓練隊じゃなくて、台湾からまっすぐ神戸に行って、そして神戸の海軍報国団。あそこに2週間ぐらいおりました。そして、兵庫県の西宮というところに海軍の訓練所があったもんだから、そこに行かされた。それで専門教育なり、それからモールス(信号の訓練)。6か月、西宮で。いわば甲子園のちょっと南側だな。

Q:じゃ、軍属になるんですか?

ええ、軍属です。軍用船の乗組員です。

軍用船に乗せられてまっすぐ南洋に行ったんだ。

Q:南洋へ?

マニラ。佐世保にちょっと短い期間をもって、あそこで4日間か、15隻の軍用船、佐世保で10隻の護衛艦を誘って(合流し)そしてマニラへ。

Q:マニラへ行ったときは輸送船団で行ったんですか?

輸送船。1500名の兵隊を積んで行きました。15隻の1隻が1500名(ずつ)の兵隊を積んで。

(その後、)マニラの港に停泊中もアメリカからめちゃくちゃに爆弾を落とされた。ところが、幸いにして港におったもんだから、船はじっと据わっとるもんだから、それから護衛艦も10隻おりましたし、それが丘からアメリカの飛行機が日本の飛行場で空襲して、そして港に来たわけ。そして、港に来て私たちの船と戦ったわけだよ、港で。おかげさまで1隻も何も被害がなかった。

Q:沈没しなかった?

良かったのは、アメリカの飛行機を2、3機落としたよ。私は機関砲を積んでいるもんだから、機関砲でもって撃って2、3機落としたんだ。あれから、船は空で海南島へ行きました。海南島で鉱石を積んだんだ。

(男性:鉱石って言ったら何かの原料。石。)

あの石を積んで、そしてちょっと香港沖に2時間かそこにおったんだ。というのは、日本からの船団とあそこで待ち合わせたわけだ。そして、初めて台湾に行った。

私たちが高雄の港に入港したときにはね、あそこに入港した日本の船が3、4隻もつぶれている。というのは、私たちがマニラにおったときに、空襲に来た飛行機がまっすぐ台湾に来たわけよ、ある飛行機が。そして、なるほど、私たちが行ったときには2、3隻も船が沈没しているんだもん。あそこで1週間。あのときの(乗っていた)船は石炭船ですよ、油じゃなくて。石炭で走ったんですよ。水を入れて、そしてまっすぐ日本の神戸に行きました。そして、神戸から何を積んだか、もう忘れました。神戸からまっすぐ大連へ行きました。大連へ。旅順じゃなくて関東州、大連だな。

大連に入港した。そして、大連から今度、台湾へ行く途中にまた上海に寄りました。

上海から今度、台湾の基隆に寄りました。あれからは台湾への空襲が激しいもんだから、また大連に帰りました、船は。そして、大連から今度はまた神戸に行く途中に、朝鮮のクンサン(群山)沖で浮流機雷にひっかかったんだ。魚雷じゃなくて浮流機雷(繋索が切れ海面を漂っている機雷)。

Q:浮かんでいるんですね?

うん。あれが浮かんでいるんだ。夜、あの浮流機雷と衝突して船が沈んだんだ。1隻で単独で行きました。幸いその晩は朝鮮の沿岸で、警備した船が日本の軍艦が1隻おりました。それが夜中、なにしろ夜10時半あたりに船がやられたもんだから、護衛艦が寄って来たんだ。もうすでに私の船は沈んだんだ。私たちは、ボートはちゃんと準備してあるから、あそこに乗って、船が沈んだところからちょっと離れたんだ。というのは、船が沈む後に渦が巻くからちょっと離れたんだ。その間に軍艦が寄って来たんだ。それに乗って、明くる朝、クンサン(群山)で降ろされた。そして、クンサン(群山)でしばらく1週間おりました。そして、日本人も一緒にあそこにいました。そして別れました。別れた後、私たちは大連に行きました。

その後に乗船命令が来ました。信号員4名か。私は船の信号員。そして、旅順で船が待っているから、大連にある私のこの船の交信だな、その船の交信が「あそこで船が待っているから、皆さん4名が行きなさい」と言うたもんだから。なるほど旅順まで行ったら船が待っているんだ。

そして、信号員ならびに警備する者が、私なんか4名。そして旅順からどこまできましたか、大陸の天津、ちょっと北京は北側だな、あそこへ行った。あそこへ行って、何のものか僕は見て分からん。そして、大連から出て、大陸でしょう、川が広い。あれを上って、(荷物を)積んで大連に帰る途中に、あと2時間でこの旅順の港に入るところに、朝8時、早く自分の場所にワッチ(当番)しなさいと言うもんだから、自分の場所に上がった。
そして、上がったところまで行ったら、すぐに私このくらいの長いメガネ(望遠鏡)から、あそこに立っている同じく台湾人ですよ、私の友、そしてメガネをかわって私が持ったんですよ。そして、見ながら、

100メートルあたりにすでに魚雷が来たんだ。誰が発見したか。僕が発見した。船をかわそうと思ったが、船は間に合わない。近いもんだから。エンジンで(が)やられたんだ、船が。そして私は上の方から下に落ちた。幸いに何も傷がなかった。ところが、破片が飛ぶもんだから、隠れてね、こうして自分の口を支える間にまた2発目が来たんだ、魚雷が。
そして、この1分間足らずに船はもう格好が見えない。なにしろ魚雷って言ったらものすごく長い、大きいでしょう。船はもう格好ない。もうきれいに沈んで。そして私はどのようにどうして生きたか。何しろ私たちは一番上に立ちました。船はもう沈んでいるよ。私はまだ泳いだ。

それが、船が沈んだら、したがって海がこうして渦が巻くんだ。したがって、ロープもこうして渦が回るんだ。
その間私は泳いでいるわけよ。ところが、私の首なり胸にロープが(絡みついて)巻きこまれたんだ。そして、いよいよ船がそこまで行ったもんだから私が引っ張られたんだ。私は船と一緒に沈んだわけよ。そして水の中まで行って、僕は生きるか生きないか、僕はそこまでちゃんと分かりますよ。僕は生きるという確信を持ったんだ。良かったのは、ロープがみんな外れた、こうして僕は。なにしろ塩水。普通の真水なら絶対私は浮かぶはずない。塩水だ。僕は簡単にこの上に浮いた。泳いでね。浮いたところが、ずーっと上まで簡単に泳いで。

そして、いろんな油が、石炭のカスが浮いてね、私はこうして壊れたドアなんかにもたれて休んでいる。あの油が私の顔に、なんていうかな、もう人間に見えない。しょうがない。我慢してこうして寝とった。休んだ。目覚めたら、ある士官の10名がいかだに乗っとるんだ、幸いに。みんな生きとった、10名の士官が。50名の満州人が、中国人がひとりも残らずみんな死んだ。誰も一人も残らず。
10名の士官はみんな生きているんだ。
私なんか信号員はふたり。そして12人が生きていたわけよ。みんなの乗組員が70名そこそこ。しばらくして、旅順の港から駆潜艇が来たわけ。

そのままあの船(駆潜艇)に乗って旅順に。私は20日間入院したわけよ。そして、簡単に顔の痛みが治ったもんだから自分の本部に帰ったんだ。本部にいたところがせいぜい4週間だな。そして、遭難したあとはゆっくりここで遊ぶと思ったんだ。(ところが)、4週間たってまた命令が来た。どこへ行くか。「沖縄行く」というんだ。「沖縄行って何する」。特攻戦闘なってね、行くところよ。きれいな海軍さんの着物を着せられて、ごちそうも立派なごちそうをいただいて、服まできれいに着せられたんだ。そして、明くる日、いよいよ船が出港する。私なんか、私台湾の人がひとりだけあの船に乗せられた。あの船の信号員になって行きました。せいぜい沖縄までが1週間の期間だな。ちゃんと日にちは分かりません。あの船の中に何を積んどるか分かりません。そして3日目に、陛下から停戦(終戦)という命令が来たもんだから船は止まった。なにしろアメリカのマッカーサーが、一切の日本の船は動いてはいけないということを言ったもんだから、放送が来たもんだから、船は止まったんだ。動かないで。そして、止まっている間に船を開けたら、みんながみんな弾薬、この船の中。さようにして停戦したもんだから3日後に日本に行きました。どこへ行きましたか。東京の南側の横浜。あそこの港に入りました。入港した。そして、1か月もないね、4週間あたりで神戸の方からか何か電話か、もう忘れました。電報か。私に対して、あんたは、西山さんはもう中国人になりましたから、あの船から降りてこの本部に来て召集しなさいと言うんだ。なにしろあのときは、我々台湾人は昔から中国人の籍になっとるでしょ。そのため私は本部に帰った。そして本部に帰ったら、神戸の、ちっと上よ、三宮のまだ上よ、まあ近いんだな。あそこで海軍の報国団がありました。あそこに行きました。そして、あそこに行ったら船の主任が3、4名おるんだ。どういうことしたか。「本当にご苦労さん」と。「あんたは3回も船が沈没してもまだこの格好でここに来たんだ。本当にご苦労さん。相当あなたは日本のために尽くしてくれた」と言って頭を下げた。私に対して。わ、すみませんと思って、私は。そして、帳簿を開けて、あんたは何年何か月この大連汽船の乗組員になったかという帳簿に書いてあるもんだから、あれを開けてね、多少のお金をもって私に捧げました。そして私はもらいました。しばらくして、もう用事ないもんだから、自分があの本部に別に用事はないと思って、自分の泊まる場所を探したんだ。旅館を。三宮とのいくらの差もないあそこに旅館があったんだ。あそこに泊まったわけだ。帰るまでずっとあそこにおりました。そして、いよいよやっぱり故郷が恋しくて台湾に帰る申請をしました。

あのとき100名で、80名がみんな南洋行って戦死して亡くなったんだ。良かったんだ、私は。生きて帰りました、おかげさま。今日に至るまで。そして、僕ひとりが本当の海軍の服装を着て部落に見せたわけよ。この船のやって来たを見せて、そして部落はびっくりした。若い男がよくも生きて帰って来たなと言うて、皆喜んで見とったよ。

出来事の背景出来事の背景

【三つの名を生きた兵士たち ~台湾先住民“高砂族”の20世紀~】

出来事の背景 写真標高3500メートルを超える山々が連なる台湾の山岳地帯。ここには、数千年の昔から台湾の先住民が暮らしていました。日本が台湾を統治していた時代、先住民は総称して「高砂族」と呼ばれていました。彼らは、戦前から戦中、戦後にかけ、激動した台湾の歴史の中で、三つの名前を生きてきました。自らの民族の名前、日本統治時代の日本名、そして戦後の中国名です。
「高砂族」の若者たちは、太平洋戦争中、日本軍の兵士や軍属として戦地に送られ、密林や山岳地帯などの戦場で、日本人を支えました。その勇敢な戦いぶりが、日本軍から高く評価される一方で、ゲリラ戦などにも投入され、数多くの若者たちが命を落としました。
さらに、終戦後、日本は台湾を放棄しました。変わって、蒋介石の中国国民党が新たな支配者となります。“日本人”として育った「高砂族」の若者たちは、それまでと全く異なる社会の中で生きていかなければなりませんでした。「高砂族」の人々は、国家と戦争に翻弄される激動の20世紀を生きてきました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1926年
台湾花蓮港庁馬太鞍社(現・花蓮県光復郷)に生まれる アミ族
1943年
海軍軍属(軍用船乗組員)となる
1945年
船で沖縄に向かう途中で終戦となる
1946年
台湾に帰還 その後は、農業に従事

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