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タイトルタイトル: 「“高砂族”に助けられた」 番組名番組名: [BSプレミアム] 三つの名を生きた兵士たち ~台湾先住民“高砂族”の20世紀~
名前名前: 成合 正治さん(台湾“高砂族”の戦争 陸軍中野学校 戦地戦地: ニューギニア(ブーゲンビル島) 台湾  収録年月日収録年月日: 2011年4月23日

チャプター

[1]1 チャプター1 “高砂族”との出会い  03:42
[2]2 チャプター2 “高砂族”の高い能力  06:33
[3]3 チャプター3 “高砂族”に助けられた  07:36
[4]4 チャプター4 重傷を負う  04:29
[5]5 チャプター5 終戦  03:24
[6]6 チャプター6 “高砂族”を故郷に  02:59
[7]7 チャプター7 “高砂族”への思い  06:53

チャプター

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ニューギニアに行ったのはね、落下傘部隊を降ろすということでね、その下準備でね、別に行ったんですよね。しかし、もう、敵が上陸しちゃって、そんな必要がなくなったもんだからね。

そのころ、まだ高砂との関係なかったころですけどね。しかし、その、ブーゲンビル島に行ったときにね、高砂の兵隊さんを見てね、びっくりしちゃったんですよ。後で、ニューギニアでいろいろ仕事就くときにね、高砂族、高砂義勇兵をぜひ欲しいと言って。そして軍に言って、部隊におった兵隊を、高砂兵隊をね、集めて頂いたんですよ。

Q:最初に見たときは、高砂族って知らなかった?

知らなかった。高砂族とは、知らなくてね。

でも普通に兵隊さんと変わらないですね、一緒にやっていたんですけどね。ただ、非常に機敏なんですよね、仕事が。それと、なんかこう蕃刀(台湾の先住民が使う刀)持ってね、矢を切ったりなんかしてね、やっていましたね。南方のジャングル地帯でいろいろ仕事をするのには、高砂族、このこういう兵隊は非常に役に立つなと思っておったわけですね。

Q:仕事っていうのは、ジャングルの木を伐採したり、陣地とか飛行場作ったりしていたんですかね?

飛行場じゃなかったですけど、やっぱりいろんな仕事を、やらせていましたね。だから、日本の兵隊さんと変わった行動をしていましたね。あのころね。そんな感じでした。

Q:日本の兵隊さんと違うところっていうのは?

機敏なんですよ、仕事が。そして人が従順でね、上の人の言うことよく聞いてね。非常に真面目だったね、あのころあの人らを見ると。

やっぱり、少し変わっている、日本のあれ(兵士)と変わっているっていう気持ちでしたね。だから、最初は捜索隊(大高捜索隊)で仕事したんですけど、2回目に、敵が上がってきて、いろいろ違った仕事したんですけどね。

Q:捜索隊(大高捜索隊)を編成するときに高砂義勇隊を使おうっていうのは誰の意見ですか?

われわれの考え方だった。高砂を使おうっていうのはね。隊長をしとったのは私の一期先輩がおりましたしね、それから同期生が1人。その連中3人がいつも話し合っていましたからね。その中で高砂族を使うということでね。

Q:成合さんはやっぱりそのときブーゲンビルのことを思い出されたんですね?

ええ。後でいろいろ捜索隊なんか、前にいろいろやっているときに、やっぱり高砂義勇兵を斥候(本隊の最前衛に配置され、偵察しつつ敵を警戒する任務)なんかの前に、先頭に出すということが、ものすごく良かったですよね。それは感じていましたね。もう、相当早くから彼らは敵が来るのを察知していましたからね。

Q:相当早くっていうのは、距離が離れていても?

離れとっても。

Q:どうやって見分けるんですかね?

分からないですね。鳥の鳴き声とかいろんな関係もね。それと、特にそういうこと考えてやるわけじゃないけれど、自然とそういうふうなことで敵だと、近寄ってくるときには相当遠くから、そういうのを察知していましたね。特に考えたわけでなくて、自然とそういう印象を彼らは持っていたんでしょうね。

気配ですね、自然ですね。気配を感じるじゃないですか、彼らは。日本の兵隊と違ってね。

Q:聴覚とか嗅覚とか?

そうそう。一緒に行動しているとね、「隊長、敵が来ている」って言うんですよ。我々は全然分からないんです。そしてしばらくするとね、分かるんですね。

斥候なんかに行ったりしてね、そして敵が入ってくると、待ち伏せしちゃってね、そして我々が襲撃しちゃうんですよ。そういうのに高砂(族)を使っていたんですね。

Q:鳥の鳴き声っていうのは、鳥の鳴き声は変わるんですか?

変わるんですね、やっぱね。

Q:人が来ると?

人が通ったりすると。我々はあんまり鳥の声をそんなには変わったこと分からないんですけどね。その、感じはしない、分からないですけど。高砂義勇兵はそういう点が非常に鋭敏でしたね。

Q:潜入攻撃12回ほどですか、やられたっておっしゃいましたが、そのときのこと、詳しく教えてもらってもいいですか? どういうふうな行動をされたんですか?

人数を決めましてね、あれ行くときに。そして、10名以内で行動起こしちゃうんですね。7、8名のときもありますけどね。そして、その前に敵の場所と、そういうところを調べたりしてね、状況を調べるんですよ。そしてそこ攻撃するとき、侵入していく道からなんか高砂族が自分でやってくれるんですね。そして近くまで少しずつ行ってね、そしていざ攻撃というときに一番先頭の部隊が、敵は歩哨1人しか立っていませんからね、その歩哨をやっつけるんです。

Q:道を決めるっていうのは潜入攻撃のときに、道筋をどういうルートで行くかってこと、それを高砂兵が決めるんですね?

高砂(兵)が決める。

Q:7、8名で潜入するときは、武器はどういうものを持って行くんですか?

小銃。

Q:小銃だけ? 軽機関銃とかは?

持って行かない。

5分か10分ぐらい以内に攻撃やってすぐ引き揚げるんですよ。引き揚げる場所は、来るときに、集まるところは決まっていますからね。バラバラで逃げちゃうわけですけど、そこに集まっちゃうわけですね。敵さんはもうだんだん様子分かってくると、もう戦闘の準備をして出てきますからね。だから、なるべく早く引き上げちゃうんですね。

攻撃をするときに高砂(族)を(ゲリラ戦の)戦闘に使っていましたけどね。ただ使えば、彼らが、いちばん安心だと思ってね、彼らを戦闘に使っていたんですよね。すぐには敵が入らないように、時間がかかるんですよね、じーっとして待っているわけですからね。それで少しずつ(連合軍の方へ)入って行くわけですからね。

Q:忍耐強く行動しないといけないんですね。

そうそう。うん。

Q:高砂義勇兵を使うと安心っていうのはどういう意味ですか?

やっぱり、安心っていうのは、彼らがそうやって進んでくれればですね、成功をするからですね、それで、そういう習慣で彼らを使っていたわけですね。私は何回か、12回ぐらい潜入成功すると、だんだんだんだん、私たち自身も怖くなっちゃうんだね。いつ見つかるか分からないと思ってね。

いつ見つかるかもしれない、いつやられるかもしれないと、そういう恐怖感というのも、だんだん来ていましたね。

Q:高砂義勇兵は怖がったりとか、だんだん精神的に恐怖感が強まるとか、そういうこともあったんですか?

彼らを使っているときは、全然そういう感じはなかったですね。ただ彼らも上からの命令だということで仕事をしているっていうことでね。だから、何回出ても、別にそんな感じはしなかったですけどね。

Q:命令に対してはどういう態度なんですか?

それはもう、言ったらもうすぐ「賛成」でね、命令はよく受けていましたよ。仕事がしやすかったですね。

そして、食糧がないわけですからね、非常に、お腹が空いて困ったりしていたときね、高砂義勇兵はいろいろ考えて、食べるものを探してくれてね。そして、「隊長」なんて持ってきてくれたりなんかですね、そういう思いやりが彼らにはあったんですね。そういう意味ではむしろ我々は高砂族には助けられたような感じがしますね。

養っている豚はね、昼は出て行くんだけど夜は自分の棲みかに、部落に帰ってくるのよね。と高砂族はそれを知っていてね、豚が帰ってくるとね、それを殺しちゃってね、そして我々のところに持ってきてくれたりしてね。そして高砂族は心臓だとか内臓だとか、そういうのを盛んに食べてね、肉のおいしいところはね、隊長やら日本兵に渡したりしてね、そういう思いやりがありましたね。そういう感じを持ちましたよ、持ってくるときね。

野草を食べるのに高砂族に聞いて覚えないと、我々だけでは分からないんですね。野草なんか食べるのはね。彼らはよく知っていましたね。行動している部隊なんかの場合には、特に猛虎挺身隊(高砂族が所属した部隊。大高捜索隊の後に編成されたゲリラ戦などの部隊)なんかで、仕事しているときなんかは、食べるものがなくて、困っていた状態だったですけどね。 

Q:飢え死にする兵隊さんなんかもいたんですか?

おりましたね。私たちが猛虎挺身隊で青津支隊(第41師団青津喜久太郎少将)の方へ援護に行くときに、国道のあれを通ったら、国道の道端に寝ていましたよ。食糧がなくてね。そんなのなんか、そこでそのまま死んじゃうからね。アイタペの敵にやられちゃって、そして交代してウエワクの方へ帰ってくる部隊だったんですけど、一緒について歩けなくて道路横に寝て休んでいたんですね。けど食糧ないためそのままだったと思うんですよね。まあそういう所を我々逆に、敵のほうへ進んで行ったんですけどね。歩いて行くときに道路脇にそんな人間が寝ていましたね。ずっとね。

しかし今考えてみると、なんで日本の我々を含んでね、日本の兵隊さんが栄養失調になんかなったりしなかったのかな、と思ってね。今でも分かんないですね。もちろん終戦後日本に帰ったときには、痩せこけていましたからね。皆そうだったと思いますけどね。しかし栄養失調や、食糧ないために死んだ、あるいは病気になったとかいうのは部隊自身としてはなかったですからね。

ええ、桜山陣地で、負傷しましてね。その前にアメリカ兵が向こうの方の、丘の所におって、それを警戒して、軽機(軽機関銃)持っておったんですよ。そしたら、その坂道を(米兵が)下りて来ましてね。で、水くみに行くんだ。で、それを狙って、

機関銃で撃つんですよ。藪(やぶ)の中でね。そうすると、近くですから当たりますわ。そうすると、倒れますわ。そうすると、その倒れた(米)兵を助けようと、引き上げようと思うんで、また、(米兵が)上から下りて来るんですよね。警戒しながら。それを見とって、またやるんですよ。やられて、また下りてくる。それでもあきずに盛んに下りてくるんですよね。よく向こうは、自分の部下というのか兵隊を助けようと思う気持ちが強かったんでしょうね。しつこく下りてきてね。5人程同じような事でやっつけた。そしたら、私の方の軽機で撃っているっていう事が分かったんですよね。それを目がけて、(米兵が)擲弾筒(てきだんとう)って、手りゅう弾を飛ばすんですよ。普通、手で投げるでしょ。ところが、手りゅう弾を銃に着けてね、撃って飛ばすんですよ。その手りゅう弾が飛んできたんですよね。私が軽機を撃たせているところにね。右の方の、ジャングルの山の方に落ちて、そこでパーッと破裂したんですね。ほっぺたをたたかれたと思って見たら、血が出ている。そして、そこでやられた。で、あごの骨が折れましてね、そして、こう腫れてきちゃって。顔中腫れちゃって。で、もちろん物が食べられなくなった。その負傷でした。

うん、ここに。ここだったの。ここの上の方だったらね、命がなかったですよね。まあ、ここで歯がやられちゃいましたけどね。で、ここの歯が3本ばかり飛んじゃってね。

そして、すぐに青津支隊(41師団歩兵団)の司令部の近くに軍医さんがおったから、そこへすぐ治療に行ったんでしたけども。まあ、こんな事言っちゃ悪いけども、そこの軍医さんが、「大事なものをつけてあげる」って言ってね、そして、ヨウチンですよ。軍にはあるんだね、軍にヨウチンはね。それを何か自分の大事なものみたいに言うからね、頭に来ちゃったんですよ。こんなとこおったら治らないと思って。それで「兵站(へいたん)病院に入る」言って。それから、ウエワクの方の病院の方へ下がったんです。当番兵連れてね。そこで40日間。

そして、猛虎挺身隊から、もう外れちゃって、そして、兵站病院に入院40日間して。そして、兵站病院が済んでから、40日かかって、軍司令部に帰ったんですけどね。

9月1日が、もう最後のいわゆる・・敵さんに攻撃をするという、18軍自身がね。そのために各部隊の、あちこちおる所に行ってね、兵力を調べたりね、所属を調べたりなんかして、そして、みんな報告をしたんですね。そういうのがみんな集まって、20年9月1日を期して、いわゆる敵に攻撃をやろうと。その準備をしていたんです。

Q:18軍司令部の直属?

うん、直属で。だから、負傷したときに、高砂族としては、とは、お別れしている訳。で、あと石井君(石井敏雄大尉/第2捜索隊を率いた)やら大高さん(大高定夫大尉)何かが、全部使っていたんでしょうけどね。しかし、彼らが軍司令部に帰ってきたときは、もう各部隊に帰していたんですよね。もう高砂はいなかった。


Q:9月1日の準備の最中に終戦?

そうそう。8月15日の終戦って事ね。ところが、15日になって、なかなか・・おかしいな、静かだなという感じがしとったんですよ。それから、敵の陣地の方に斥候なんか行っていますね、敵さんは裸でね、体操したりなんかして、しているんですよ。

そして、21日の日にようやく司令部の方へ通知が来ましてね。8月15日に終戦になっているっていう事で。それで、21日まで知らなかった。それからちょこちょこ出かけて行ってね、敵さんの陣地を調べに行ったり。しかし、体操したりなんかしていました。

Q:15日にビラとか放送とかはなかった?

ないですね。知らせてくれないのね。何か、そういう通知をしている様な事を言っていましたけどね。

Q:知らせを受けたときは、どういう気持ちだった?

いや、もうどうなんのかなと思ってね。それを心配していましたね。戦争に負けて、終戦になったっていう事でね。我々はどうなるんだろうっていう事でね。今までそういう経験がないですから。だから、それだけ考えていましたね。

そして、ムッシュ島(ニューギニア島北岸・日本軍捕虜を収容した島)でしばらくおって。そして、高砂義勇兵をね、が、台湾に帰るので、それの引率を命じられてね。そして、14日かなんかでしたかね、船に乗っけて、150名位だったですか、全員が。いろんな部隊から集めた高砂義勇兵をね。そして、ムッシュ島を離れて、基隆に上陸したんですよね。そのときなんかは、自分たちでどうしたらよいのか分からなくてね。高砂義勇兵って言うけど、戦勝国で戦争に勝ってるのは、中国人だから。だから大事にしてね。そして、基隆(キールン)に上陸して。

で、我々は、もう義勇兵だけ連れて、台湾の総督府に連れて行ってね、そこで解散をしたんですけれども。解散するときなんかも、もうやっぱり高砂の、もちろん他の部隊からの連中も来ていましたけれど、高砂という人間に対しては、非常に印象が良かったですね。彼らはやっぱり我々を、前の指揮者だと思ってね、感謝していろいろ言ってくれましたね。「お世話になった」って言ってね。で、「子どもたちが大きくなったら、日本にやって、日本で勉強させる」なんて言ってね、言ってくれましたね。

Q:高砂義勇兵の人たちは、敗戦した事に関してどういう反応だった?

やっぱり喜んでいましたね。戦争に、日本が負けたっていう事でね。そういう印象は持っていましたね。

今考えてみてね、ムッシュ島におるときに、彼らはどんな教育、どんな指導を受けたのか。どんな取り扱いをされていたのかなあと思って。まあ、勝ったというのか、中国の兵隊だ、中国人だという事の取り扱いをアメリカさんがしとったのかね。その辺はよく知りませんけどね。

写し。あの、大高さんがこれをくれたんですね。本賞詞は靖国神社に納入したみたいだったです。それの写しですね。

Q:これ、お持ちなのは一部だけですか?

はい。捜索隊より猛虎挺身隊の方が、相当苦労しとったと思うんです。猛虎挺身隊の方の賞詞はないですね。

Q:賞詞を頂いた事について、今どう思う?

やっぱりよかったと思いますよ。別にそのためにどうこうってわけじゃないんだけどね。しかし、やっぱり大高先輩、1期先輩ですけどね、中野(陸軍中野学校)の。石井君が同期生だし。その中野の連中が一緒になって、そして、軍司令官の賞詞もらったっていう事に対してね、やっぱり感謝していましたし、感激していましたね。今でも、やっぱりニューギニアで、よく働いたと思って、自分自身もね、思っています。

高砂義勇兵を部下として行動した立場から申しますと、やっぱり何かの形で日本の国に尽くしてくれた気持ちをね、返したいような気持ちもしますね。まあ、日本が台湾を占領して、日本の領土であって、そういう教育をやってきたという問題から、いろんな問題が起こってくるんでしょうから。必ずしも全て良いという事は言えないでしょうけども、しかし、気持ちとしては、そういうのがありますね。確かに私たち、高砂義勇兵というものに対して、随分お世話になったんですね。
我々がお世話になったという事自身は、やっぱり日本自身がそういう戦争というものを、こうおいて、彼らに努力をして頂いた。そういう気持ちは忘れたくないですね。

私もニューギニアで一緒に捜索隊だとか、挺身隊なんかに一緒に参加をして、一緒に仕事をしたから(部下だった高砂族に)会いたい、元気だったら会いたいなあと思っているけども、しかし彼らはどういう気持ちで当時の(こと)を考えているんだろうかと思ってね。よかったと思っているのか、あるいは、つまらん事に参加したと思っているのか分からないけども。しかし、会ってみたいなという気持ちはいっぱいありますね。

つらい思い出もありますけど、しかし、高砂義勇兵というのは、一緒に行動を起こして、いろいろお世話になった部下だと思うと、何か懐かしい気がしますね。本当にお世話になったと思って、今考えてみると懐かしいんですよね。

Q:台湾に行く機会はこれまでなかった?

いや、台湾はしょっちゅう行きましたよ。台北から、基隆、高雄、いろんなとこずっと。いろんな機会がありましてね、それで随分行きましたけども、特に高砂族に会いたいと言う事で、そこの方へ行く事は、出来なかったんですね。

ま、しかし本当にニューギニアで活躍したころのことを、うれしく思っているのか、嫌でついて行ったのか、その辺の気持ちが分かりませんからね、いきなり行くのもどうかなという感じもしてたんですけどね。

一緒に行動起こしたこと自身の内容が嫌だったとかね、あれはいや、もうやもなく、よくやったよという気持ちなのかね。その辺を彼らがどういうふうに考えているのかね。それがちょっと気になってね。いや、行って、「おお、成合隊長いらっしゃい」と言ってくれるとうれしいけどね。どうなのかなって気もしますけどね。しかし彼らに会いたいですね。

出来事の背景出来事の背景

【三つの名を生きた兵士たち ~台湾先住民“高砂族”の20世紀~】

出来事の背景 写真標高3500メートルを超える山々が連なる台湾の山岳地帯。ここには、数千年の昔から台湾の先住民が暮らしていました。日本が台湾を統治していた時代、先住民は総称して「高砂族」と呼ばれていました。彼らは、戦前から戦中、戦後にかけ、激動した台湾の歴史の中で、三つの名前を生きてきました。自らの民族の名前、日本統治時代の日本名、そして戦後の中国名です。
「高砂族」の若者たちは、太平洋戦争中、日本軍の兵士や軍属として戦地に送られ、密林や山岳地帯などの戦場で、日本人を支えました。その勇敢な戦いぶりが、日本軍から高く評価される一方で、ゲリラ戦などにも投入され、数多くの若者たちが命を落としました。
さらに、終戦後、日本は台湾を放棄しました。変わって、蒋介石の中国国民党が新たな支配者となります。“日本人”として育った「高砂族」の若者たちは、それまでと全く異なる社会の中で生きていかなければなりませんでした。「高砂族」の人々は、国家と戦争に翻弄される激動の20世紀を生きてきました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1917年
宮崎県に生まれる
1938年
都城歩兵第23連隊に入隊後、熊本予備士官学校へ
1940年
陸軍中野学校に入校
1942年
ラバウルの第8方面軍司令部付となる
1944年
“高砂族”が参加する特別部隊を組織
1945年
東部ニューギニアで終戦
1946年
戦後、高砂義勇隊員を引率して台湾へ その後、帰国
 
戦後、宮崎交通に勤務

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