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タイトルタイトル: 「翻弄された民族」 番組名番組名: [BSプレミアム] 三つの名を生きた兵士たち ~台湾先住民“高砂族”の20世紀~
名前名前: 武 義徳さん(台湾“高砂族”の戦争 戦地戦地: 台湾 フィリピン(バターン半島)  収録年月日収録年月日: 2011年3月25日

チャプター

[1]1 チャプター1 台湾先住民 ツォウ族  04:40
[2]2 チャプター2 三つの名前  05:41
[3]3 チャプター3 高砂義勇隊  06:24
[4]4 チャプター4 勝利に貢献した“高砂族”  03:47
[5]5 チャプター5 連合軍の捕虜  05:11
[6]6 チャプター6 台湾南部へ  06:17
[7]7 チャプター7 二・二八事件  08:03
[8]8 チャプター8 逮捕  02:41
[9]9 チャプター9 残された家族の苦しみ  04:04
[10]10 チャプター10 翻弄された民族  06:00

チャプター

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Q:村長さんやっていたって事の証明するものはあるんですか?

あれはない。あれはそういう何は皆。皆没収された。刀とか。軍隊から帰ったときの日本軍刀とかみんな没収された。何も残っていない。

Q:向こうの写真が戦争したときの写真ですね。

あ、これが。これは出て来てから、台北で各族の自分の文化祭のときに。写真撮ったの。

これがそう。

Q:これすごいですね。イノシシの(骨)。これは、全部向野さん(武さん)の捕った・・

出て(出獄して)間もなくして、健康回復して、これは山に行って。ところが俺はこんなもの残すあれがないけれども、小さい子が残せ残せって。こんな少ないから。

Q:これは少ないんですね。

ところが今はまだ少し、こんなイノシシは無くなるまではない。少なくなる。みんなが平地の人も山の人もよくこれを探す。

Q:この鳥の羽も。

鳥の羽はこれ。

Q:これは何の鳥の羽ですか。

これはキジ。キジと鷹と、この白いのはキジ。ふわふわのが鷹の。

Q:これは何か意味があるんですか。

この意味は、別に意味がない、ツォウ族の印だ。これを入れてこれの革の帽子をだ。これは阿里山の長。よその・・みんな・・阿里山の長。これは1つの長の印だ。これは違う。これは、このイノシシと格闘して傷つけたら傷があったら1つかける、2回ぐらい傷を受けられたら、これは普通は昔は厳重に勝手に使わない。それの事実はなくて、今は飾りとして若い人達が。昔はとったら怒られる。叱られる。

Q:沢山つけているほど、沢山格闘した人。

傷1回やられたら、1個つける。1つつける。

Q:日本のお名前を教えていただけますか?

日本の名前は向野政一(むきのまさかず)です。

Q:向野政一。これは誰がこの名前を付けられたんですか?

これは日本人が付けた。

Q:日本人。

蕃地教育所。あれは先生は日本の(先住民居住区に配置された日本人の)警察です。

Q:この日本のお名前はいつ付けたんですか?

生まれてあのときはすでに台湾は日本の植民地だった。生まれてすぐにこの名前を付けた。大正12年に生まれて。

Q:大正12年。
  日本のお名前の他に、山のお名前て言うんですか、山のお名前は何ですか?

山の名前ある。イウスム・ムキナナです。ムキナナは姓だな。

Q:それをこの名前にあてたんですね。

名前は自分の山の名前だ。
名前は先。ムキナナは姓。

Q:学校の勉強で覚えていることってありますか?

非常に簡単でした。いわゆる国民学校よりもまだ下の簡単なものだ、簡単な数学とか、日本の「あいうえお」からなる、簡単な歴史だな、地理、など簡単なもの。

Q:歴史は日本の歴史ですか?

当然。日本の歴史。

Q:どういう内容か覚えていらっしゃいますか?歴史の授業。

主にあのときは天皇を中心とした何(教育)ですよ。だから、天皇とか、それのいちばん古い昔はアマテラスとかな、あんなの。

学校で習った歌はほとんど覚えていないけど、青年になってからの教えた歌はまだ。高砂青年歌とね、高砂青年団歌というのがある。

こう歌う。
「♪ああ新高の空晴れて
雲にそびゆる神木の
気高き姿仰ぎつつ
雄々しく共に進まなむ」
これだけ。ここからあとは覚えていない。

僕が思うに、(先住民に)日本語を教えたのは、これは悪くない。他所(よそ)の族と(話しが)通じる。これ(首狩り)も・・。山で会ったら、「え?お前どこか?」「台南州。お前は?」「高雄州」。お互いにナニがあったらもらえる。これ(首狩り)やらない。その前は、「あの野郎どもめ、勝手に・・」たたき殺していた。あれは僕の親父のころだ。
※台湾先住民の中には、「首狩り」の風習を持つ種族もいた。

阿里山にいって。

Q:19歳までそこにおった?

それから帰って20歳のときに高砂義勇隊に行った。昭和17年の、はっきり覚えていないが2月か3月にフィリピンに行った。

Q:第何次義勇隊?

第1次義勇隊。

Q:どうして義勇隊に志望されたんですか?

あれは、義勇隊に行ったのは、ある者は志願だったと言うが、あれは嘘だ。あれは指定している。条件は割合に日本語がうまく言える(話せる)者。体の健康な者。・・・第1次義勇隊の者はこの村に3名いた。

Q:その3名を指名するのは誰ですか?

僕もよく分からないが、おそらくこれは(先住民居住区に配置された日本人の)当時の警察の駐在所だろう。
派出所だな。

Q:指名されたときはどういう気持ちでしたか?

あのころは何というか・・。あのときの青年はある程度日本化してしまった。みんなが進んで行くのは・・(戦争に)喜んで行った。

Q:どんな気持ちで喜んで?

あのときの思想はみんな反米ですよ。米国のやつと戦うのがまあ…。まあ、やっぱり、何て言うかなあ、あのときは若いし、こういうような複雑なナニは分からないから、まあ大分、若いから戦争するのは、まあ、そうだなあ、喜んで行った。

Q:高砂義勇隊に行ったときは何歳ですか?

20歳。昭和17年。20歳で南方へ行った。

Q:高砂義勇隊に選ばれてからどういう訓練をしていったか、順番に教えていただけますか?

こんな、訓練はやっていない。普段から高砂青年団として訓練はしていたから。射撃とか。そして、僕ら自体は小さいときから猟とかで鉄砲を持つのはできる。うまい。使える。だから特別訓練はしていない。通知が来てまもなく行った。

Q:通知が来るんですね。通知はどういう内容の通知ですか?

通知はおそらく郡だな、郡から来る。嘉義郡から。僕らが台南州嘉義郡です。阿里山のツォウ(族)ね。だから、命令みたいなものだ。

Q:どの部隊に配属になったんですか?

配属は本間師団。本間司令(第14軍/本間雅晴軍司令官)だ。日本人の南方で2つのナニがあったでしょ、マレー半島の司令は山下。フィリピンの比島派遣は本間司令。あとは覚えてない。これ青年のとき覚えた。あとは忘れた。

Q:本間司令の?

部隊に入った。

私らの本当の任務は戦いじゃない。道の開発。で、そこを、なかなか、バターン半島のナニは、破れないんだ。なかなか頑固に、このマッカーサーがそこを頑張った。彼らの掘った道を利用して攻撃したら。非常に激烈な曲がり角とか機関銃とか、あんなもの、もう・・。それで僕らは迂回路(みち)を掘ったんだ。迂回路(みち)を開発して後ろから攻めて初めて破った。これが僕らの任務だ。あとは戦争が始まってから、負傷兵の輸送をやった。

Q:負傷兵?

ええ。前線から野戦病院に送った。

僕らが道を掘って、弾薬を担いで、後ろから日本の軍隊が攻撃して。順次に攻めて落とす。バターン半島。マッカーサー逃げた。

僕らはフィリピンでは食料に困ったことはない。ただ困ったのは、道を拓くときに飯炊けないんですよ。みんなカンパンとか缶詰とか2か月くらい毎日食った。タバコでもこうして。煙が見えるから用心した。火もたけない。夜はね、山のこっち側に3本の木を置いて、こう渡して、そこに天幕を引いて寝たんだ。おぉ、あれは山の訓練をしなかった者はあれは大変だ。あれでもやっぱり2か月は過ごしたよ。乾パンをかじる。缶詰をかじる。

マッカーサーが逃げて、相当斬られたよ。あまり、僕は・・相当斬られたよ。

Q:斬られた?

ちょうど、あの・・マッカーサーの部隊のナニを相当、頭斬りを、日本人の(が)頭斬って。

Q:日本人の(が)ですか?

僕らも少し殺したけど・・。戦争が終わってから、僕らが彼らの骨をね、マニラのこの付近の・・・に送ったんだ。歩いてね。車もない。歩く。彼らも相当長い間そこ囲まれたから、バターン半島の陣地に囲まれた、皆そこで初めて山でヤンキー(米兵)のナニを、山の人、あの、ヤンキーを実際見るの少ないんですよ。そこで初めて、彼らの骨をマニラに送った。あのときには、今覚えている、残酷な、僕はまだ20歳で山でいえばまだ子どもですよ。ああいうような残酷な場面を見たことない。歩けなかったら斬る、つき殺す。話してもいいかな?・・捕虜をね・・話していいかな・・僕らはね、山の人は普通、生活が簡単です。イモとかね、豆とかあんなもの。ところが、あそこに行ったら、どういうふうなものを(連合軍の捕虜に)食わすか、大豆というかな、黄豆、大豆という、黄色い豆、あれと米を一緒に炊いて、僕らあれを食っても太るんだ。ところがヤンキーにあれを食わしたら下痢するって。歩けなかったら殺す。

日本人も一緒に入っとる。あれは衛生隊、衛生の、分隊かな。そういうの来て僕らに言う、歩けなかったら、そのまま、・・話していいかな?・・殺せと。話していいかな?

Q:お願いします。

これは僕の一生涯、恐らく見た非常に残酷な場面だろう。今でも覚えている。

Q:1回目フィリピンから帰ったのは何年ですか?

僕らは1年くらいおった。約1年だ。それでまた台湾に帰った。台湾に帰ったとき、バシー海峡でこす(とき)魚雷の襲来を受けた。幸い当たってなかったからよかった。当たっていたら死んでしまった。高雄に上がってからみんな消毒だ・・・

フィリピンから帰って6か月くらい山に帰った。6か月くらい山の仕事やって、また行った。おそらくフィリピンから帰ったのは、昭和18年の初めごろだ。だからおそらく7、8月にまた行った。あのときは軍人。義勇隊ではなくて軍人だ。

Q:陸軍特別志願兵というのですかね?

特別志願兵というのは、あれは僕らの前だ。2回目に応召したときのその前に。あれは幹部の養成や。帰ってきたときにはみんな、ある者は・・日本の何と言うか・・。

Q:将校とか下士官?

あれはもう、少尉級だ。見習い士官。少尉にはまだなってないけども。星、ないの。やっぱり少尉は一つのアレある。見習い士官というのあるの。特別志願兵に行った者は、帰ってきたときは見習士官。正式の部隊。

僕らの部隊はヤマナカ部隊。阿里山で(ゲリラ戦の)訓練してから屏東(台湾南部)に行った。

Q:それは高砂族の青年とか平地の青年も関係なく?

あれは、平地の青年入ってない。1人もいない。みんな高砂族。だからよその族も。南方の部隊のときは3個部隊。日本人の部隊、朝鮮部隊、高砂隊、3個部隊。一個師団。

台湾の南部に行った。

Q:枋寮?

枋寮という屏東の一部分だ。枋寮というところ、そこに米軍が上陸するというような日本の情報で、僕らはそこに3個の混合部隊でそこで激戦やろうとした。日本の部隊、朝鮮隊、僕ら高砂。全部で一個師団はまあ1万人くらいだろう。3個の部隊合わせて1万人ぐらい。

初めは枋寮の飛行場のそこの警備をやっていたんだ。

そのときは警備だから戦争もない。あのときは米軍のやつが爆撃したら、僕は銃手だから、僕らは機関銃でバーンて。高雄は日本の要塞地です。日本の要塞地。ところがあのときは爆撃が激しいから、僕らは山の奥の人が住んでるところに引っ込んだ。

Q:そこに終戦までいらっしゃったんですか?

そこで。僕は終戦までおらない。その前に・・忘れた・・。台中・・。何という名前か・・、一部分そこに移って、それから兵器の整理をやった。蒋介石の敗残兵に渡す武器。

Q:終戦の後ですね?

これは終戦の後です。あれに渡すとき、菊の紋を削るんだ。鉄砲に菊のご紋章、削る。あれをヤスリで。

僕らはあのとき、さっきも言うたように半分日本人なんだ。あのときの思想だな。あのときは、日本が台湾を去ったら、中国人が入ると。ところがあのときのそういう、いわゆる中国のあのときのいわゆる支那人(国民党軍)は印象が悪いんだ。まあ失望した。そんなに小さいときから20何歳まで日本人と一緒になったんですよ。日本人のあのときの宣伝は「支那人(国民党軍)は敗残兵だ」という、台湾に来るのは。敗残兵は喜ぶんだ。ところが、山の人は失望した。

Q:戦争が終わって・・

ええ。失望したこの結果として、二・二八が起こった。僕もやったんだ。あのとき若いときは。僕も二・二八でそこでぶつかった。

3月2日に下りた。山には武器がないんですよ。これがないとケンカにならないですよ。下りた、僕らここから下りて嘉義に入る前にそこに日本の弾薬庫がある。ケンカするなら先に占領してから武器を取らないとケンカにならないです。真夜中に下りて。今の嘉義と手前に紅毛碑(日本時代からの軍事施設)というのがあるんだ。紅毛碑ね。そこの軍事の弾薬庫を攻めて。なんでもあるんだ。その武器は、日本の弾薬庫って、僕が日本の軍人のときにみんな使った物です。そこを破ってあいつら(国民党軍)を追っ払ったんです。あのときのナニを言うと、言えばやはり、意識的な彼らに対する不満が、おそらくは主な要素だろう。

だからそこにはぶつかるナニ(理由)はなかったけど。やはりさっきも言ったとおり国民党も共産党もいた、左傾分子もおれば、悪く言えば僕らも利用されたと言うても悪くない。山の人は直接関係ないんですよ。

平地の人(平野部に住み国民党政府と対立していた人)に利用されたんだ。僕に山を下りて戦えと言ったのは平地の人ですよ。左傾分子ですよ。だいぶ先に行って撃たれた。

Q:左傾分子とはどういうことですか?

共産党だ。共産党にかたよっとる人たちだ。左傾と言う。完全に共産党ではなくてもやはり、彼らに、共産党に味方しとるものだ。

ただ、そこ(兵器庫)を攻めたのはみんな南方から帰ってきた者が攻めたんです。みんな僕みたいに南方戦争を経験ある者がそこを攻めたんです。そこの陣地を攻めた。弾薬庫を攻めたのは、約60名くらい。南方から帰ってきた者。戦争うまい。南方で戦争したから。

僕らが小さいときから悪い支那人(国民党軍)が管理するのは、相当失望した。長くなれば長くなるほど、悲惨な目に会ったけども、やっぱり習慣なってしまったらしょうがない。

二・二八事件のナニは本来は僕らの関係のないことです。ところが、さっきも言うたとおり、意識的にこの支那人(国民党軍)に対しては印象が悪いんだ。ところが実際に来たから、本当、あのやつら。日本人が宣伝したから、あのやつら。鉄砲を担いで。草鞋をはいて。脚絆を巻いて。わあ、これが私たちを統治するのは(統治することになると)大変なことだ。しかし僕は二・二八に3月何日かに参加して僕らが彼らとぶつかった。ここには複雑な内容があるんだ。

あのときは僕はここの村の村長やった。ここの村の。お前はこんな左傾分子とか、こんな共産党分子をどうして捕まえないか。僕の罪は「包庇匪牒」。これ(共産党分子)を隠したと。うあぁこれで無期徒刑したんだ。運の悪いやつだなあ。

蒋介石が死んで、(私は獄を)出た。仮釈放で。新店の監獄。火焼島(台湾台東県)の訓練場。海上の。ダイトウにも入った。ダイトウから火焼島行って。それから蒋介石が死んだ。あの年の7月に出た。あのときに(髪が)白くなったよ。

非常に体が良くてね。非常に堅強な思想があったんだ。「見やがれ蒋介石、お前必ず先に死ぬ」と。ぼくは33歳に捕らえられたんですよ。あれはもう60なん歳。(こちらは)30なん歳。ああ、あれは先に死ぬ。蒋介石が先に死んで私が出てきた。

Q:逮捕されて帰ってこない間、どういう気持ちだったんですか。

武月珠さん:やっぱり、やっぱり寂しかった。子どもも育て……。

武義徳さん:ところが、やっぱり子どもがある、3名もおる。

武月珠さん:その間のはやっぱり、家に財産が、竹やぶとか、水田とか、家に財産があるから、それを経営しとったの。

武義徳さん:僕も手紙あげた。『もし何がどうにもならなかったら、子どもを私の弟に預けて、また出たら、(別の男性のところに)嫁に行ったらいい』と。ところがやっぱり行かない。子どもとか家、家庭のあれで。

Q:奥さんに再婚しても構わないという手紙を書いたんですね?

武義徳さん:ああ。

武月珠さん:ええ。来た。

Q:手紙を書いたときはどういう気持ちだったんですか?

武義徳さん:いや、手紙の往来は自由で、あのときは手紙、手紙だけは往来よ。

Q:でも、本当は再婚してほしくないですね。

武義徳さん:うん。でも、結果はやっぱり、50歳のときにやっぱり出てきた。50歳になって出てきた。また2人で、ずっと今まで2人で家庭の何をやる。

Q:向野さん(武さん)いないときに、一緒に逮捕された方、途中でもう死刑になっていますね。

武義徳さん:あれは間もなく、帰省して3年、いや、2年か3年で撃たれた。あの人たちは2年半。あれから私は無期徒刑で、火焼島(台湾台東県)にも2回も行った、新店にも行った、僕は台東のあれにも行った。

Q:そういう処刑された話、聞いたとき、奥さん、心配しませんでしたか。

武月珠さん:やっぱり心配した。

Q:そのときは無期徒刑だから、出られるかどうか分からないですね。

武月珠さん:そうですよ。

武義徳さん:ある者はきちがいになる。ある者は、15年だ、何年とか、あんなものできちがいになる。

僕はきちがいにならない。ああ、こういうのは、政治に関係することは、生きたら勝ちだ、生きたら。死んだらもう……。

まあ、あのころは日本人の…そういうふうに皇民化ってそういうふうな教育を…教育を受けたんです。

今から言うと、その教育は、そういう、いわゆる愚民政策の教育。愚民教育ね。植民地政策の…植民地政策の…。

神社を作って、そこにお参りするとかね。そういうのが、今、神社皆なくなって、どこの村でもない。

Q:この村でも神社作ったんですね。

神社。ここ、この上にあった。そこの階段を、恐らく何百個かの階段を作って、その上。

Q:今もありますか?

今は皆破壊して、皆学校を建てるときとか、あれ皆破壊してしまった。

やはり皇民化が始まったから、茶碗、お箸とかああいうもの。それが僕の時代になってから始まった。茶碗を使うとか、箸を使うとか。これは…僕の前の人たちは皆取ってた。

これが、僕の時代になってから。僕の時代になってから。それまではみなザルに、この粟飯を入れて、掴んで食べる。

良いところもある、悪いところもある。例えば、昨日も言ったとおりに、この日本の日本国警察で、よその(族)と(日本語で話しが)通じて、この首狩もそこで止めたとか。当時の衛生…衛生方面から、産業方面、農業方面とか、そういう様な何を改善はした。改善した。

悪いところはあまり…犠牲が大きかった。このこんな小さい部落に30名も死んだら。おまけにあれは皆優秀な青年。

Q:兵隊に選ばれるのは優秀な青年ですね。

ああ、あのときの、身体の丈夫な者、立派な体格している者、(日本語を)上手く言える者…先に…あれもう…何て言うかな…あれ、もう少し戦争が延びたら山の、本当にモノになるような青年(人材として優秀な)は、ほとんど犠牲としてしまうと思うんです。

これはもう少し戦争が長かったら、完全にツォウ族の文化と言うのは、破壊されてしまう。

これはね、もう、彼らの利益のためだ。この沢山の若い者が犠牲になった。これは、全部、実際の全国日本の利益じゃないか。統治者の利益に。

大東亜戦争でもそうです。植民地の争奪戦です。例えば、犠牲して、フィリピンをとった。あれって何か。あれは植民地の争奪戦ですよ。アメリカの植民地奪い取った、また奪われた。これ利益の争奪です。

戦争は、統治者の、僕らみたいな、いわゆる、下積み階級だな。これ皆使われるんです。日本人でも、日本人でも同じよ。労働者、一般の労働者の階級は皆使われるんです。

まぁ僕はこの二十何年かの苦労でこれだけ得た。ところがあまりに率直な言い方ごめんなさい。失礼。

まぁ、皆(番組スタッフ)が来てくれて、沢山の事を聞いて、昔の思い出すと…。謝謝、ありがとう。

出来事の背景出来事の背景

【三つの名を生きた兵士たち ~台湾先住民“高砂族”の20世紀~】

出来事の背景 写真標高3500メートルを超える山々が連なる台湾の山岳地帯。ここには、数千年の昔から台湾の先住民が暮らしていました。日本が台湾を統治していた時代、先住民は総称して「高砂族」と呼ばれていました。彼らは、戦前から戦中、戦後にかけ、激動した台湾の歴史の中で、三つの名前を生きてきました。自らの民族の名前、日本統治時代の日本名、そして戦後の中国名です。
「高砂族」の若者たちは、太平洋戦争中、日本軍の兵士や軍属として戦地に送られ、密林や山岳地帯などの戦場で、日本人を支えました。その勇敢な戦いぶりが、日本軍から高く評価される一方で、ゲリラ戦などにも投入され、数多くの若者たちが命を落としました。
さらに、終戦後、日本は台湾を放棄しました。変わって、蒋介石の中国国民党が新たな支配者となります。“日本人”として育った「高砂族」の若者たちは、それまでと全く異なる社会の中で生きていかなければなりませんでした。「高砂族」の人々は、国家と戦争に翻弄される激動の20世紀を生きてきました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
台湾嘉義郡蕃地ララウヤ社に生まれる ツォウ族
1942年
第1次高砂義勇隊に参加 フィリピンへ その後台湾に帰還
1943年
第4次高砂義勇隊に参加
1947年
二・二八事件で武装抗争に参加
1950年
国民党にスパイ保護容疑で逮捕される
1975年
25年の獄中生活を経て仮釈放
1997年
公民権復活

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